ベルリン Berlin (West) Berlin
[概説] もともと主義主張の異なる大国同士が一つの国を共同で統治することに対して、足並みが揃うというのは困難な話であり、すでに1947年のモスクワ4カ国外相会議での対立、ミュンヘン州首相会議の予備交渉段階での決裂で東西対立がはっきりしていました。そして、1948年2月23日(月)の六カ国ロンドン会議(アメリカ・イギリス・フランス・オランダ・ベルギー・ルクセンブルクが参加)で、ドイツはマーシャル・プラン(敗戦国に無償や低金利で貸し付けて早期に経済を復興する計画、European Recovery Program)に参加すること等が採択され、これに抗議したソビエトはただちに連合国管理委員会から脱退します。 占領国の対立が激化する一方で、敗戦国であるドイツではインフレが進み、生活必需品の高騰が続いていました。こうした中、1948年5月に西側占領地区が単独で通貨改革を準備していることに態度を硬化させたソビエトは、西側占領地区が6月18日(金)夕方6時に「新札発行は20日に実施、ただしベルリンには適用されない」と発表したのを受け、その報復として東西ベルリンの往来を禁止し、橋の破壊や国境の封鎖でベルリン周囲のソビエト占領地区との交通も遮断しました。 さらに20日(日)の西側新札発行に対して、それまで西側占領地区の通貨改革は単に脅しであろうと懐疑的であったソビエトは23日、ソ連軍政府最高司令官通達第111号として、ソビエト占領地区と全ベルリン地区の通貨改革を発表するなど対抗措置を取りました。この通達は、6月24日(木)以降ソビエト占領地区と全ベルリン地区で旧ライヒスマルクと西側の新札マルクを無効にし、ソビエト側が用意した証紙付きライヒスマルク(旧紙幣に証紙を貼り付けた新札の代用品)を東西のベルリンに流通させるというものでした。 当然、ソビエトのこの全ベルリンに対する措置の発表は4カ国共同管理に違反する、と西側が抗議しました。しかし、ソビエトがその抗議を無視して、24日から西ベルリン地区への送電を停止し、物資の流通をも禁止すると、これに対抗して西側は25日(金)から、それまで西ベルリン地区には適用しないとしていた通貨改革を西ベルリン地区でも実施。さらにアメリカを中心とする西側占領軍当局は、ソビエトによって封鎖された西ベルリン地区住民を救済するため、ただちに空輸を開始します。これがいわゆる「ベルリン空輸」です。 以後絶え間ない空輸で大量の物資が供給される状況を前にして、1949年5月、ついにソビエトはベルリン封鎖を断念しました。(延べ19万6000機が144万2000トンの物資を輸送。1日の最高出動記録は、1949年4月16日の1400機で、この日は一般物資8000トン、原料物資1000トン、石炭5300トン、食料1850トンを空輸。) しかし、これ以後ベルリンは常に東西対立の最前線に置かれることになり、1961年8月13日(日)には東ベルリン側からベルリンの壁が一方的に築かれるなど緊張関係が続きましたが、1989年のベルリンの壁崩壊、1990年の東西ドイツ統一を経て、再びベルリンは統合されドイツの首都に復帰しました。 [ベルリンの占領地図] [インフレの状況] [葉書について] 西ベルリン地区の切手や葉書は1950年1月20日から西ドイツ国内でも使用でき、また逆に西ドイツの切手や葉書も西ベルリン地区で使用できました。一般的に、西ベルリン地区の葉書に西ドイツの消印が押されたものは評価が低くなるので、消印の局名に注意してください。 以後、西ベルリン地区のことを、単に「ベルリン」と略します。 [ベルリンで発行された葉書の解説] これらの詳細な解説や他の図版は、別のページになっておりますので、下記の分類名の文字、または画像をクリックしてください。
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