膠州湾 Kiautschou Kiaochow[概説]膠州湾(こうしゅうわん)とは、山東半島のドイツ租借地を指します。1890年からドイツ人宣教師達が山東半島で布教を始めていましたが、1897年11月に2人のドイツ人宣教師が殺害されたことから、11月14日(日)に青島(チンタオ)へドイツの戦艦カイザー、プリンセスウィルヘルム、コルモランなどが派遣され、約700名のドイツ兵が上陸。このとき居合わせた倍の兵力の清国軍が退却したため、そのまま青島を占拠してしまいました。最終的に6隻の戦艦が派遣されています。 1898年3月6日(日)から北京で行われた交渉で、ドイツは膠州湾を租借地として99年間租借することを認めさせました。これが契機となってロシア、フランス、イギリスは勢力均衡を図るため、旅順、大連、広州湾、威海衛、九竜半島を租借しました。99年の99が中国語の久久(=永久)と同じであることから、これらの租借は永久租借、すなわち、事実上の割譲を意味していました。なお、これらの租借地の中国への返還は、膠州湾が1922年、威海衛が1930年、旅順、大連、広州湾が1945年、そして最後まで残っていた九竜半島−香港等−が1997年に行われています。 1914年8月の第一次世界大戦勃発後、8月16日(日)に日本から租借地引き渡しの最後通牒を突きつけられたドイツは、これに返答せず、9月5日(土)にドイツ守備隊の10倍の兵力の日本軍が侵攻。11月7日(土)6時23分ドイツの守備隊は白旗をあげて降伏し、ドイツは膠州湾を失います。 [郵便局の開設]膠州湾では、以下の郵便局が開設されました。
[葉書]1)ドイツ海軍艦船郵便加刷葉書、無加刷葉書、China加刷葉書(フォアランナー)ドイツ海軍艦船郵便加刷葉書やドイツ本国の外信用10ペニヒ葉書(無加刷)、China加刷葉書が使用されました。これらは、消印で区別します。いずれの葉書も、収集家の間ではフォアランナーとして扱われます。2)1901年発行 カイザーヨット図案 PFENNIG単位国内用5ペニヒ葉書 皇帝の御用戦艦の図案で、全植民地共通図案の葉書です。違いは、船の上に扇形に配置された「KIAUTSCHOU」の文字だけです。全部で4種類あります。 3)1905年10月発行 カイザーヨット図案 CENT単位国内用2セント葉書 通貨単位がCENT(セント)になり、「Postkarte」の文字が左に移動したシリーズです。全部で4種類あります。換算比率は、10セント=20ペニヒですが、低額は切り上げた形になっていて、国内用2セント葉書が5ペニヒ葉書、外信用4セント葉書が10ペニヒ葉書に相当しました。同じ時期にドイツ在中国局でもCENT単位の加刷が行われています。 上の写真は、国内用2セント葉書の使用例です。中央の大きな丸印が差し立て地であるMecklenburghaus(山労山病院)の印で、この葉書はそこから李村へ運ばれ、そこで右側の印面が抹消されています。 4)1911年発行 フランス語表記なし外信用4セント葉書のみの改訂で、Postkarteの下にあるフランス語表記がなくなり、さらに宛先の住所を書く欄の点線が短くなったものです。未使用・使用済とも高価で入手に苦労します。 5)1914年発行 縦罫線入り国内用2セント葉書 国内用2セント葉書と外信用4セント葉書の改訂で、縦罫線が入ったものです。上の写真で、葉書の中央やや左に、菱形と「DR」の文字がぼんやりと見えるかもしれませんが、それがすかしです。4セント葉書は実際に使用されず、記念押印のみが知られています。 6)不発行外信用4セント往復葉書往信部 外信用4セント往復葉書返信部 1914年に膠州湾のすべてのドイツ郵便局が閉鎖された後も、新しい形式の葉書が準備され、不発行となった葉書が4種類あります。1914年から1917年の間に作られ、敗戦後にベルリンの郵趣家窓口から収集家向けに販売されました。戦時中の物資不足のため、粗悪な用紙に印刷されています。 ドイツ植民地の先頭のページに戻ります。 |
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