目 次
ドイツ・ステーツ
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トーゴ Togo Togo

[概説]

 トーゴはギニア湾に面し、ガーナとベナンに挟まれた形の南北に細長い国です。トーゴは早くからポルトガル人によって知られていて、布教活動や商業活動が行われましたが、ポルトガルの衰退により、イギリスやフランスが進出を始めました。ドイツはこれらに遅れて、1847年に北ドイツ伝道会が布教活動を始めています。

 1878年ブレーメンの商人であったフィーエトールが、クライン・ポポ(後のアネホ)で商業活動を始め、以後他のドイツ商人もこれに追随しました。イギリスやフランスもこの土地に強い関心を示し、1884年には3つのドイツ商社(5つの商館)、1つのイギリス商社、2つのフランス商社が進出していました。

 こうした競争に勝つため、ドイツ帝国は1884年ナッハティガルをトーゴに派遣し、7月5日(月)にバジダで、7月6日(火)ロメでドイツの旗を掲げ、海岸地帯をドイツの保護領とすることを宣言しました。1885年12月24日(木)のフランスとの協議で、さらにクライン・ポポを含むベニン寄りの地域をも保護領に組み入れました。これを足がかりにドイツ帝国は奥地にも進出して行きます。

 1914年8月の第一次世界大戦勃発後、トーゴの守備隊はドイツ人2名、アフリカ人560名、これに商社からの志願兵約100名と手薄であったため、西から侵攻したイギリス軍により8月7日(金)にはロメが陥落し、東から侵攻したフランス軍により8月8日(土)にはアネホが陥落。劣勢の守備隊は8月27日(木)8時に降伏し、ドイツはトーゴを失います。

[郵便局の開設]

 トーゴでは、以下の郵便局が開設されました。

開 局 日 局  名
1888年3月1日 クライン・ポポ(後のアネホ)
1890年3月1日 ロメ
1903年1月1日 アゴメ・パリメ
1906年7月1日 ポルト・セグロ
1906年11月11日 ヌアチェ
1907年1月1日 アタクパメ
1907年2月4日 トクプリ
1907年4月1日 ツェビエ
1907年8月19日 ホー
1907年8月23日 クパンドゥ
1907年9月17日 アサフーン
1907年9月18日 ノエペ
1909年2月7日 ソコデ
1910年8月10日 ケテ・クラチ
1912年5月1日 アグ
1912年11月16日 アグベルヘ
1914年3月1日 サンサネ・マング(後のマンゴ)


[葉書]

1)無加刷葉書(フォアランナー)

本国用・外信用10ペニヒ葉書

 1888年3月の開局当時は、ドイツ本国の外信用10ペニヒ葉書と往復葉書が用意されました。本国と同じ葉書なので、消印で区別します。これらの葉書は収集家の間ではフォアランナーとして扱われます。

 上の写真は、1897年12月11日にロメからドイツに宛てたものです。左上に青い鉛筆で書き込まれた文字は、トーゴの右隣にあるダホメ(現ベナン)の港町であるコトヌーを経由して配達することを指示したものです。コトヌーからは、寄港したフランス船に郵便物が乗せられ、フランス経由でドイツに運ばれます。ドイツ船籍の船よりもこの方が早く到着することが分かっていたのでしょう。当時はこのような幸便があれば、他国の植民地を経由して郵便が運ばれることがよくありました。なお、コトヌー経由の葉書には、下に示すように、途中で中継した郵便局の印が原則としてすべて押されるので、大変興味深い使用例です。クライン・ポポはドイツ側の局、残りはすべてフランス局の印です。

上の写真の葉書に見られる中継印のすべて
クライン・ポポ
(現アネホ)
12月16日
アグーエ

12月17日
グラン・ポポ

12月18日
ウイダー

12月19日
コトヌー

12月20日
ロアンゴ・
マルセイユ
航路12月24日


2)1898年発行 加刷葉書

本国用・外信用10ペニヒ葉書

 ドイツ本国の数字・鷲図案 UPU色シリーズの葉書に「Togo」と斜めに加刷した葉書です。全部で8種類あります。そのうちの2種類は、ベルリンの収集家窓口から売られました。5ペニヒ葉書はトーゴ領内、10ペニヒ葉書は植民地を含むドイツ本国とその他の外国宛です。1899年5月1日(月)からは、植民地もドイツ本国と同じ扱いになり、植民地間とドイツ本国宛の葉書が5ペニヒに値下げされました。


3)1900年発行 カイザーヨット図案

国内用5ペニヒ葉書

国内用5ペニヒ往復葉書返信部

外信用10ペニヒ葉書

 皇帝の御用戦艦の図案で、全植民地共通図案の葉書です。違いは、船の上に扇形に配置された「TOGO」の文字だけです。全部で4種類あります。

国内用5ペニヒ葉書

 上の写真は、国内用5ペニヒ葉書のポルト・セグロ局の使用例です。ポルト・セグロは、アネホの西にある海岸の村で、現在のアグロメです。ロメ局は中央局、ポルト・セグロ局は地方の小局に相当したのですが、後者の文字数が多いので、大型印になっているところが面白いです。


4)1905年発行 国内往復葉書改訂

 国内用5ペニヒ往復葉書のみ、KarteのKの文字で頭が開いた形に変えられました。上の写真の2行目にある左端の文字がそうです。


5)1908年発行 国内葉書改訂

国内用5ペニヒ葉書

 国内用5ペニヒ葉書と往復葉書のPostkarteの文字が左側に移動されました。上の写真は、国内用5ペニヒ葉書のロメ局の使用例です。


6)1910年発行 国内葉書改訂(Anなし)・すかし入り

国内用5ペニヒ葉書

 国内用5ペニヒ葉書のみ、菱形と数字とローマ字のすかしが入れられました。左にあった「An」の文字もなくなっています。

 上の写真は、1913年6月24日にイエンディ(現ガーナ)で差し立てられ、そこから東南東140km離れたソコデまで送られて、ソコデ局で6月30日に押印された使用例です。ソコデは、海岸から300km奥地の村です。なぜ、現在のガーナからドイツの葉書を差し出すことができたのでしょう? それは、当時のドイツ領トーゴは、現在のトーゴの国境よりも西側に大きく広がっていて、イエンディはドイツ領トーゴの領内にある村でした。ただし、郵便局は開設されませんでした。ドイツがトーゴを失った後、トーゴの西側の30〜40%の領地がガーナに組み込まれました。この葉書の使用例は、旧国境線の事情が分かる面白い資料です。


7)1912年発行 国内葉書改訂(縦罫線入り)

国内用5ペニヒ葉書

 国内用5ペニヒ葉書のみに、縦罫線が入れられました。


8)1913年発行 外信葉書改訂

外信用10ペニヒ往復葉書往信部

外信用10ペニヒ往復葉書返信部

 外信用10ペニヒ往復葉書の周囲の枠線がはずされ、文字のレイアウトも変更されています。外信用葉書よりも需要が少ないはずの外信用往復葉書が、なぜ改訂されたかは不明ですが、ちょうど在庫がなくなって追加製造しようとしたときに、すでに原板が新しくなっていたのでしょう。ドイツ植民地の葉書は、地名以外はすべて共通のデザイン(共通の原板)なので、可能性としてはあり得ます。この改訂は、ドイツ領ニューギニアにもあります。


9)不発行

 他の植民地では不発行となった葉書がありますが、トーゴには不発行の葉書はありません。

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