目 次
ドイツ・ステーツ
ドイツ 1872
ドイツ 1873-1932
ドイツ 1933-1944
ドイツ在外局
ドイツ植民地
ドイツ海軍艦船郵便
第一次世界大戦占領地区
ベルギー軍占領地区
ドイツ住民投票地区
ダンチヒ
メーメル
ザール
第二次世界大戦占領地区
地方発行
連合軍占領地区
西ドイツ
ベルリン
 概説
  BERLIN加刷 1949
  建物1次 1949-1955
  建物2次 1956-1961
  小型ホイス 1959-1961
  著名人 1961-1963
  建造物1次 1965-1966
  建造物2次 1966-1969
  ハイネマン 1971-1973
  事故防止 1974-1976
  城 1977-1982
  名所 1989-1990
  絵入り・記念 1950-1989
  航空 1953-1957
東ドイツ
統一後のドイツ

ベルリン Berlin (West) Berlin

通貨単位:
1ReichsMark(ライヒスマルク)=100Pfennig(ペニヒ) 1948年6月24日まで
1Mark(Ostmark、東側マルク)=100Pfennig 1948年6月24日から1949年3月31日まで
1Deutsche Mark(西側マルク)=100Pfennig 1948年6月25日から(上記通貨と併用)

[概説]
 ベルリンはドイツ最大の都市で、1871年以来政治・経済・文化の中心地として栄えていました。第二次世界大戦後、連合軍4カ国の共同管理下にあったベルリンは、東地区がソビエト、西地区がアメリカ・イギリス・フランスと、ちょうど東西ドイツの縮図のような形に分割されていました。分割とはいうものの、当時は東西の往来が自由で、東側から電気・ガス・水道が西側に供給されています。ただ、西ベルリン地区は周囲をソビエト占領地区に囲まれ、ちょうど孤立した西側地域のような形になっていたことが後年の悲劇を招きます。

 もともと主義主張の異なる大国同士が一つの国を共同で統治することに対して、足並みが揃うというのは困難な話であり、すでに1947年のモスクワ4カ国外相会議での対立、ミュンヘン州首相会議の予備交渉段階での決裂で東西対立がはっきりしていました。そして、1948年2月23日(月)の六カ国ロンドン会議(アメリカ・イギリス・フランス・オランダ・ベルギー・ルクセンブルクが参加)で、ドイツはマーシャル・プラン(敗戦国に無償や低金利で貸し付けて早期に経済を復興する計画、European Recovery Program)に参加すること等が採択され、これに抗議したソビエトはただちに連合国管理委員会から脱退します。

 占領国の対立が激化する一方で、敗戦国であるドイツではインフレが進み、生活必需品の高騰が続いていました。こうした中、1948年5月に西側占領地区が単独で通貨改革を準備していることに態度を硬化させたソビエトは、西側占領地区が6月18日(金)夕方6時に「新札発行は20日に実施、ただしベルリンには適用されない」と発表したのを受け、その報復として東西ベルリンの往来を禁止し、橋の破壊や国境の封鎖でベルリン周囲のソビエト占領地区との交通も遮断しました。

 さらに20日(日)の西側新札発行に対して、それまで西側占領地区の通貨改革は単に脅しであろうと懐疑的であったソビエトは23日、ソ連軍政府最高司令官通達第111号として、ソビエト占領地区と全ベルリン地区の通貨改革を発表するなど対抗措置を取りました。この通達は、6月24日(木)以降ソビエト占領地区と全ベルリン地区で旧ライヒスマルクと西側の新札マルクを無効にし、ソビエト側が用意した証紙付きライヒスマルク(旧紙幣に証紙を貼り付けた新札の代用品)を東西のベルリンに流通させるというものでした。

 当然、ソビエトのこの全ベルリンに対する措置の発表は4カ国共同管理に違反する、と西側が抗議しました。しかし、ソビエトがその抗議を無視して、24日から西ベルリン地区への送電を停止し、物資の流通をも禁止すると、これに対抗して西側は25日(金)から、それまで西ベルリン地区には適用しないとしていた通貨改革を西ベルリン地区でも実施。さらにアメリカを中心とする西側占領軍当局は、ソビエトによって封鎖された西ベルリン地区住民を救済するため、ただちに空輸を開始します。これがいわゆる「ベルリン空輸」です。

 以後絶え間ない空輸で大量の物資が供給される状況を前にして、1949年5月、ついにソビエトはベルリン封鎖を断念しました。(延べ19万6000機が144万2000トンの物資を輸送。1日の最高出動記録は、1949年4月16日の1400機で、この日は一般物資8000トン、原料物資1000トン、石炭5300トン、食料1850トンを空輸。)

 しかし、これ以後ベルリンは常に東西対立の最前線に置かれることになり、1961年8月13日(日)には東ベルリン側からベルリンの壁が一方的に築かれるなど緊張関係が続きましたが、1989年のベルリンの壁崩壊、1990年の東西ドイツ統一を経て、再びベルリンは統合されドイツの首都に復帰しました。

[ベルリンの占領地図]
 ベルリンは連合軍によって以下のように分割占領されました。黄色がアメリカ占領地区、青紫がイギリス占領地区、緑がフランス占領地区で、これらの3つが西ベルリンです。ピンクがソビエト占領地区で、東ベルリンです。なお、実際のベルリンの中はもっと細かく地区が分かれていますが、すべての境界線を書くと読みにくいので、一部だけ抜き出しています。

[インフレの状況]
 通貨改革を準備していることはソビエトだけではなく、ベルリン市民をも大いに不安がらせ、正式発表の18日の前から、インフレに拍車がかかっていました。コーヒー1ポンドを例に取ると、6月11日は1200マルク、15日は2000マルク、16日は2400マルク、22日は3000マルクにまで跳ね上がります。(ベルリン市内用の葉書料金は10ペニヒ=0.1マルク。)また、切手や葉書は切り下げられないとの噂(実は誤り)に、市民が郵便局に殺到して切手シートや葉書の束を買い求めるなど、混乱が続きました。

[葉書について]
 西ベルリン地区における(西側の)通貨改革(1948年6月25日)からBERLIN加刷葉書発行(1949年1月)前までに、西ベルリン地区で使用された西側(英米占領地区)の葉書とソビエト占領地区の葉書は、「フォアランナー」として分類されます。大変興味深い分野ですが、詳細を解説すると複雑になりますので、ここでは省略します。切手の方は、西ベルリン地区の切手を参照してください。

 西ベルリン地区の切手や葉書は1950年1月20日から西ドイツ国内でも使用でき、また逆に西ドイツの切手や葉書も西ベルリン地区で使用できました。一般的に、西ベルリン地区の葉書に西ドイツの消印が押されたものは評価が低くなるので、消印の局名に注意してください。

 以後、西ベルリン地区のことを、単に「ベルリン」と略します。


[ベルリンで発行された葉書の解説]
 ここでは、ベルリンの葉書を以下のように分類します。図版は一例を取り上げています。種類の数には細かなバラエティを含みません。なお、1949年から発行されていたロト葉書は省略します。

 これらの詳細な解説や他の図版は、別のページになっておりますので、下記の分類名の文字、または画像をクリックしてください。

分類 種類 発行年 図版(一例)
1.BERLIN加刷  3種 1949年 Click here
2.建物1次 14種 1949-1955年 Click here
3.建物2次 13種 1956-1961年 Click here
4.小型ホイス  5種 1959-1961年 Click here
5.著名人 13種 1961-1963年 Click here
6.建造物1次  6種 1965-1966年 Click here
7.建造物2次 10種 1966-1969年 Click here
8.ハイネマン 14種 1971-1973年 Click here
9.事故防止  9種 1974-1976年 Click here
10. 20種 1977-1982年 Click here
11.名所 10種 1989-1990年 Click here
12.絵入り・記念  − 1950-1989年 Click here
13.航空  2種 1953-1957年 Click here

 当時の世相を知るために消印の標語や広告を載せていますが、不適切と思われるものがある場合は、それらを画像から削除しています。また、プライバシーに関わる書き込みがある場合は、例外なく、画像から削除しています。

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