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マーシャル諸島 Marshall-Inseln Marshall Islands[概説]マーシャル諸島は、すでに1529年にはスペイン人によって知られていましたが、メキシコからのスペイン商船がフィリピン等へ行く航路の途中にあったものの、積極的に植民地化されることはありませんでした。1788年にイギリスのマーシャルとギルバートが探検し、その後各国の探検家が島にいろいろな名前を付けましたが、19世紀に入ると広く「マーシャル諸島」と呼ばれるようになります。 1873年からゴーデフフロイ商会やヘルンスハイム商会などドイツの商人がこの地で活動を始め、1878年にはヤルートのいくつかの部族と契約を結ぶまでになりました。そしてドイツは1885年10月15日(木)にこの地を保護領として宣言します。 1914年8月第一次世界大戦勃発後、日本軍の侵攻により9月29日(火)にヤルートが占領され、さらにオーストラリア軍の侵攻により11月6日(金)にナウルが占領され、ドイツはマーシャル諸島を失います。 [郵便局の開設]マーシャル諸島では、以下の郵便局が開設されました。
*ヤルートの開局は1888年10月1日ですが、郵便印が使われたのは1889年3月29日からです。 [葉書] 1)無加刷葉書(フォアランナー)本国用・外信用10ペニヒ葉書 1888年の開局当時は、ドイツ本国の外信用10ペニヒ葉書と往復葉書が用意されました。本国と同じ葉書なので、消印で区別します。これらの葉書はフォアランナーとして扱われます。 上の写真は、外信用10ペニヒ葉書のヤルート局の使用例です。 2)1897年 Marschall-Inseln加刷葉書本国用・外信用10ペニヒ葉書 ドイツ本国の数字・鷲図案 UPU色シリーズの葉書に「Marschall-Inseln」と斜めに加刷した葉書です。この加刷は、当時一般的に使われていた「Marshall」の文字をドイツ風の綴りの「Marschall」にしたものです。 現地だけではなくベルリンの収集家窓口で発行されたものも含めて6種類あります。 10ペニヒ葉書は植民地を含むドイツ本国宛とその他の外国宛に使われました。マーシャル諸島内用の5ペニヒ葉書も準備されましたが、需要が見込まれず、実際に発行されたのは1899年5月から国内用が5ペニヒ料金になってから後です。現在残されている使用例は、大部分がフィラテリックなものです。 3)1899年 Marshall-Inseln加刷葉書外信用10ペニヒ葉書 ドイツ本国の数字・鷲図案 UPU色シリーズの葉書に「Marshall-Inseln」と斜めに加刷した葉書です。これはドイツ風の綴りを国際的に通用する綴りに改めるため、前シリーズの「Marschall-Inseln」の「c」を取ったものです。全部で5種類あります。現在残されている使用例は、大部分がフィラテリックなものです。 上の写真は、外信用10ペニヒ加刷葉書のヤルート局の使用例です。この葉書は、オーストラリアのブリスベーン宛で、シドニーの中継印とブリスベーンの到着印があります。マーシャル諸島の葉書の使用例は、ほとんどドイツ宛のフィラテリックなものなので、このような正規の外国宛は少ないです。 4)1901年発行 カイザーヨット図案外信用10ペニヒ葉書 皇帝の御用戦艦の図案で、全植民地共通図案の葉書です。違いは、船の上に扇形に配置された「MARSHALL-INSELN」の文字だけです。全部で4種類あります。 5)不発行国内用5ペニヒ葉書 1914年にマーシャル諸島のすべてのドイツ郵便局が閉鎖された後も、新しい形式の葉書が準備され、不発行となった葉書が2種類あります。1917年から1918年にかけて作られ、敗戦後にベルリンの郵趣家窓口から収集家向けに販売されました。戦時中の物資不足のため、粗悪な用紙に印刷されています。 |
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