カメルーン Kamerun Cameroun[概説]カメルーンはアフリカのギニア湾の東端に位置し、国土は三角形に似た形をしていて、南から北に向かって熱帯雨林、台地、サバンナ、湿地と4つの地域に分かれます。15世紀の終わり頃、ポルトガル人の宣教師や商人が入り込み、ドゥアラ付近の川でエビが捕れるのでその川を「Rio dos Camaroes」と呼んだことから、現在のカメルーンの名前になりました。 しかし、ポルトガル人達の活動はその後衰退し、代わりに1868年ハンブルクのカール・ヴェールマン商会がカメルーンに拠点を構えた頃から、フランス、イギリスがこの地に興味を示し始め、各国は競って内陸部の探検を開始しました。ところが、カメルーンの内陸部は古くから王国が栄えていて、こうした白人の侵入に頑強に抵抗し、ドイツ商人の活動も困難を極めました。 1884年7月14日(水)、ドイツから派遣されたナッハティガル率いる調査隊がドゥアラにドイツの旗を掲げ、ドイツの保護領であることを宣言。その5日後にイギリスから派遣された部隊が到着し、ビクトリア(現リンベ)にイギリスの旗を掲げてリオ・デル・レイ湾一帯の領有を主張しました。 両国がカメルーンの領有を主張したことから協議が行われ、1887年にドイツがナイジェリアのフォルカドスと南アフリカのセント・ルシアの領有を主張しないことを条件にイギリスが譲歩し、ビクトリアとリオ・デル・レイがドイツの保護領に組み込まれました。 1914年8月の第一次世界大戦勃発後、ドイツ側で動員できた兵力としては、守備隊(白人185名、現地人1550名)と警察隊(白人30名、現地人1200名)がありました。しかし、イギリス軍の侵攻を受け、早くも9月27日(日)にはドゥアラが陥落。部隊は民間人とともにヤウンデに退きますが、1915年12月29日(水)にはここも放棄し、1916年2月14日(月)に約4万人の現地人とともに南のスペイン領であるリオ・ムニへ脱出してしまいます。そして、北部の村モラで最後まで残っていたドイツの守備隊も弾薬不足のため2月18日(金)に降伏し、ドイツはカメルーンを失います。 [郵便局の開設]カメルーンでは以下の郵便局が開設されました。
・改称した局名の例(カメルーン→ドゥアラ) カメルーン局(改称前)[左側] ドゥアラ局(改称後) [葉書]1)無加刷葉書(フォアランナー)本国用・外信用10ペニヒ葉書 1887年2月の開局当時は、ドイツ本国の外信用10ペニヒ葉書と往復葉書が用意されました。本国と同じ葉書なので、消印で区別します。これらの葉書は、収集家の間ではフォアランナーとして扱われます。 上の写真は、外信用10ペニヒ葉書のカメルーン局の使用例です。これは1889年の消印ですが、本来下の方にあるはずの89の年号が抜けた特異な使用例として著名なものです。年号は、2月6日から8月13日まで抜けていたことが知られていますが、なぜ半年間も抜けたままになっていたのかは分かっていません。上の写真の日付は、1889年4月12日です。 本国用・外信用10ペニヒ葉書 上の写真は、1890年から配給が開始された数字・鷲図案 UPU色シリーズの10ペニヒ葉書の使用例です。1895年の消印ですが、こちらは年号があります。まれに、この年号部分のインクの付き具合が悪くて薄いものがあります。これを年号抜けと誤って売られることがありますが、もちろん前に述べたような本当の年号抜けではありません。 2)1897年発行 加刷葉書領内用5ペニヒ葉書 ドイツ本国の数字・鷲図案 UPU色シリーズの葉書に「Kamerun」と斜めに加刷した葉書です。全部で7種類あります。5ペニヒ葉書はカメルーン領内、10ペニヒ葉書は植民地を含むドイツ本国とその他の外国宛です。1899年5月1日(月)からは、植民地もドイツ本国と同じ扱いになり、植民地間とドイツ本国宛の葉書が5ペニヒに値下げされました。 3)1900年発行 カイザーヨット図案外信用10ペニヒ葉書 皇帝の御用戦艦の図案で、全植民地共通図案の葉書です。違いは、船の上に扇形に配置された「KAMERUN」の文字だけです。全部で4種類あります。1900年11月中旬から徐々に出回り始めました。 国内用5ペニヒ葉書 上の写真は、国内用5ペニヒ葉書の初期使用例で、1900年11月25日のクリビ局の消印が押されています。裏面の書き込みが11月20日になっているので、葉書は11月中旬には沿岸にある大きな局に配給されていたことが推測できます。もし、すぐに投函していれば、最初期の使用例の一つになっていたことでしょう。 国内用5ペニヒ葉書 上の写真は、国内用5ペニヒ葉書のロミエ局(旧サンガ・ンゴコ局)の使用例です。ロミエは、ドゥアラの東南東約400キロの奥地にあります。 国内用5ペニヒ葉書 上の写真は、5ペニヒ葉書のガルワ局の使用例です。ガルワ(現在の表記はGaroua)は、ドゥアラの北北東約700キロの奥地にあります。 4)1902年発行 国内葉書改訂国内用5ペニヒ葉書および往復葉書で、KarteのKの文字で頭が開いた形に変えられました。上の写真の2行目にある左端の文字がそうです。 5)1904年発行 国内葉書改訂国内用5ペニヒ葉書のPostkarteの文字が、左側に移動されました。 6)1908年発行 すかし入り国内用5ペニヒ葉書 国内用5ペニヒ葉書のみに、菱形と数字とローマ字のすかしが入れられました。逆すかしも知られています。 国内用5ペニヒ葉書 上の写真は、国内用5ペニヒ葉書のブエア局の使用例ですが、差出人の書き込みは、ブエアの東約6kmにあるソッポです。 7)1912年発行 国内用葉書改訂国内用5ペニヒ葉書 国内用5ペニヒ葉書および往復葉書に縦罫線が入れられました。 8)不発行国内用5ペニヒ葉書 1915年にカメルーンのすべてのドイツ郵便局が閉鎖された後も、新しい形式の葉書が準備され、不発行となった葉書が5種類あります。1917年以降に製造され、敗戦後にベルリンの郵趣家窓口から収集家向けに販売されました。戦時中の物資不足のため、粗悪な用紙に印刷されています。 外信用10ペニヒ往復葉書に、往信部の裏に返信部が印刷され、本来の返信部が白紙のものが知られています。 ドイツ植民地の先頭のページに戻ります。 |
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