目 次
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南西アフリカ Deutsch-Südwestafrika German South-West Africa

[概説]

 ドイツ領南西アフリカは、現在のナミビアです。1482年ポルトガルのディオゴ・カオン(カーン)がウォルビス湾近くに達し、1487年から翌年にかけてアフリカ南端をまわったバルトロメウ(バーソルミュー)・ディアスの一行が、途中スワコプムントの北に上陸しました。彼らがここに石の十字架を立てたことから、後にこの地がカップ・クロスと名付けられました。現在その記念碑が残っています。ところが、一帯は広大なナミビ砂漠であったため、ポルトガル人や、後に訪れたオランダ人、イギリス人もここで商業活動を行うことはありませんでした。

 1842年ドイツのライン州のプロテスタント伝道会がこの地で布教活動を始めましたが、先住民のヘレロ族やコイコイ人の激しい抵抗に合い、活動は困難を極めました。1868年伝道会はプロイセン議会に保護を求め、嘆願書を送りますが効果はなく、1870年から部族と結んだ10年間の和平条約も一方的に部族側から破棄され、再度プロイセン議会に求めた保護もビスマルクにより拒否されてしまいます。

 1883年ブレーメンの商人であったリューデリッツが、アングラ・ペクアナ(後のリューデリッツ・ブッフト)一帯を現地人から購入しました。これをきっかけに、すでに1878年にウォルビス湾とその周辺を獲得していたイギリスが、ドイツ人の入植に刺激されて南西アフリカ一帯の領有を主張する恐れがあったため、1884年4月24日(土)ドイツ帝国議会はこのリューデリッツが購入した土地をドイツの保護領とすることを決定し、同年8月7日(土)にそれまでトーゴとカメルーンにドイツの旗を掲げた(すなわち、ドイツの領有を宣言した)ナッハティガル博士によって、アングラ・ペクアナにもドイツの旗が掲げられました。

 これを足がかりにドイツは、ウォルビス湾とその周辺を除く広大な南西アフリカ一帯を保護領とし、入植者を奥地に送り込みましたが、先住民であるヘレロ族の抵抗が激しく、防衛のために毎年兵士を増強しなければならなくなるほどでした。

 最初の大規模な衝突は、1893年4月12日(水)のホルンクランツでの武力衝突で、族長ヴィットボーイ率いる300〜400名の武装集団がクルト・フォン・フランソア率いる161名のドイツ混成部隊(このうち50名はバスターと呼ばれる混血部族)と激闘の末、ヴィットボーイ側は女性約30名を含む約80名が死亡、約100名が負傷、ドイツ側は2名が死亡、2名が負傷しました。これは人々の心に深い傷跡を残し、2018年にこの日を国民の祝日にしようと提案があったほどでした。

 こうした対立が続く中、まず1903年10月25日(日)に南部のヴァルムバートで蜂起が発生。続いて、ヘレロ族のサミュエル・マハレロが1904年1月11日(月)に「英国人、バスター、ダマラ、ナマ、ブーアには手を出すな」(裏返せばドイツ人だけ標的にしろ)という条件の蜂起を指示し、翌12日(火)にオカハンジャの攻囲を開始。多くのドイツ人入植者の農場と教会が襲撃され、鉄道橋も破壊され、ドイツ人の男女合わせて126名が殺害されました。これがヘレロ族の大規模な蜂起に繋がっていきます。

 事態を重く見たドイツ帝国は、ただちに軍隊を派遣し、最盛期の1905年には18000人の兵士を動員するという、ドイツ植民地史上最大の事件となりました。ヘレロ族の攻撃により全滅した部隊もあるほど激しい戦闘が繰り返され、4年間で双方合わせて70000人以上もの犠牲者を出し、この蜂起は鎮圧されました。この期間中、本国宛の無料の軍事郵便が多数使われ、今でもその使用例が豊富に残されており、専門書も発行されるなど、研究が進んでいます。

 なお、ドイツは長らく、この蜂起鎮圧を民族大量虐殺(ジェノサイド)と認めていませんでしたが、2021年5月28日(金)にこれを正式に認め、「歴史的、道義的なドイツの責任に照らし、我々はナミビアと犠牲者の子孫に許しを請う」と声明を発表し、賠償金ではなく支援プログラムとして11億ユーロを供出することになりました。

 武力を背景に入植政策を進めたドイツ帝国ですが、1914年8月の第一次世界大戦勃発後、イギリス軍と南アフリカ軍が南の国境から侵攻し、南西アフリカの守備隊は1915年7月9日(金)に降伏。ドイツは南西アフリカを失います。

 その後南西アフリカはイギリスの支配下に置かれましたが、長い英国時代の統治を経たにも関わらず、ドイツ風の呼び名が今も人名や、通りや、町の名前に残っており、旧ドイツ植民地中、最もドイツの名残を伝えている国と言えます。

[郵便局の開設]

 南西アフリカでは、以下の郵便局が開設されました。ドイツ風の呼び名が多くありますが、英国の統治を経た今も、現地ではこれらの地名がまだ残されています。

開 局 日 局  名
1888年7月7日 オチンビングエ
1891年12月7日 ウィントフーク
1895年5月30日 スワコプムント
1895年8月1日 オマルル
1895年8月12日 オカハンジャ
1895年10月1日 ギベオン
1895年10月10日 カップ・クロス
1895年10月15日 ケートマンスフープ
1895年11月12日 リューディッツブッフト
1896年1月2日 ワルムバード
1896年1月30日 ウハビス
1896年12月14日 レホボス
1897年9月1日 グロッス・バールメン
1897年9月1日 ゼーイス
1897年9月1日 ホーエワルテ
1898年2月20日 オウチョ
1898年6月16日 ロジング
1898年8月1日 ゴバビス
1898年8月10日 カーンリフィール
1899年4月29日 ジャカルスワーテル
1899年6月11日 ウカマス
1899年6月21日 ラーマンスドリフト
1899年7月15日 ベタニエン
1899年10月1日 マルタヘーエ
1899年10月17日 グルートフォンティン
1899年10月18日 オタビ
1899年10月21日 ワーテルベルク
1899年11月20日 オコンバエ
1900年1月16日 クブブ
1900年2月1日 マリエンタール
1900年2月1日 クイス(1904年12月頃からクブに改称)
1900年2月18日 ハリス
1900年3月1日 ハツァマス
1900年4月6日 ハシス(1901年1月1日からクバスに改称)
1900年7月1日 カリビブ
1901年10月1日 カペヌセウ(1903年3月1日からヴァルダウに改称)
1903年10月13日 ハスール
1903年11月1日 ナウチャス
1903年11月6日 ゴチャス
1904年7月5日 オウィココレロ
1904年8月8日 アブバビス
1904年11月2日 ウサコス
1905年2月27日 エプキロ
1906年4月20日 オチワロンゴ
1906年5月22日 カルクフォンテイン
1906年6月11日 オカシセ
1906年10月13日 アウス
1906年11月28日 ツメブ
1907年1月1日 ブラックヴァッサー
1907年1月1日 オチョソンドゥ
1907年1月23日 オコワクアチウィ(1907年9月頃からカルクフェルトに改称)
1907年6月10日 オングアチ
1907年7月1日 カヌス
1907年7月9日 ヴィルヘルムスタール(ドイツ領東アフリカにも同名の局有り)
1907年7月20日 クイビス
1907年9月22日 アリス
1907年10月1日 グロッス・ヴィトフレィ
1907年10月7日 オチョソニャチ
1907年11月1日 ベルセバ
1907年11月25日 オチハベラ
1907年11月27日 リヒトホーフェン
1907年11月27日 オソナ
1907年11月?日 フェルトシューホルン(郵便印なし)
1907年12月1日 ノイダム
1907年12月6日 アウブ(1914年3月29日からベルクラントに改称)
1907年12月6日 ゴチャガナス
1908年1月1日 オカウクウェヨ
1908年1月5日 ホアチャナス
1908年4月25日 ゼーハイム
1908年6月1日 グチャブ
1908年10月20日 カーン
1908年12月12日 アラホアブ
1909年1月12日 コエス
1909年1月15日 ヨハン・アルブレヒトヘーエ
1909年2月21日 コールマンスクッペ
1909年10月4日 プリンツェンブッフト
1909年12月1日 ブラックワーテル
1910年7月10日 エムプフェンクニスブッフト
1910年10月1日 ファールグラス
1912年1月15日 オルコンダ
1912年6月2日 ノイホイシス
1912年7月5日 エクヤ
1912年8月1日 チャイロス
1913年3月1日 クライン・ナウアス
1913年8月19日 バールベイ
1913年10月1日 オチュンダウラ
1913年12月9日 オカチョムボア
1914年1月?日 アロアブ
1914年3月7日 ボーゲンフェルス
1914年3月7日 ポモナヒューゲル
1914年4月1日 オチョサズ
1914年4月12日 グリューンドルン
1914年6月20日 オミタラ


[葉書]

1)無加刷葉書(フォアランナー)

本国用・外信用10ペニヒ葉書

 1888年7月の開局当時は、ドイツ本国の外信用10ペニヒ葉書と往復葉書が用意されました。本国と同じ葉書なので、消印で区別します。これらの葉書は収集家の間では、フォアランナーとして扱われます。

 上の写真は、外信用10ペニヒ葉書のウィントフーク局の使用例です。消印は1895年10月31日ウィントフークですが、差し立て地はウィントフークの南約100kmのところにあるレホボスです。上の一覧表にもあるように、レホボスの開局は翌年の1896年で、これはレホボスに郵便局が開局する前の使用例と言えます。当時は最寄りの局まで、主に人によって運ばれました。郵便局と郵便局との間は、12頭立ての牛車などが使われました。このような郵便局開局前の使用例は、専門家の間で好んで集められます。


2)1897年発行 加刷葉書

領内用5ペニヒ葉書

本国用・外信用10ペニヒ葉書

 ドイツ本国の数字・鷲図案 UPU色シリーズの葉書に2行で「Deutsch-」「Südwest-Afrika」と斜めに加刷した葉書です。全部で4種類あります。5ペニヒ葉書は南西アフリカ領内、10ペニヒ葉書は植民地を含むドイツ本国とその他の外国宛です。

領内用5ペニヒ葉書

 上の写真で南西アフリカ領内用の5ペニヒ葉書の使用例は、同じ加刷の5ペニヒ切手が貼られ、1899年3月14日にカーンリフィール局で押印されたものです。ところで、この消印は局名が手書きで書かれています。これは臨時印で、本国と植民地が遠方にあり、消印の配給が間に合わないため、別の局で使われていた古い印の局名部分を削って、手書きで局名を書き足したものです。用途から考えると、転用印、流用印、再利用印と言ったところですが、ドイツ語の「Wanderstempel」の語感から、さまよえる消印、という方がミステリアスで興味深いかもしれません。

 ちなみに、この消印は最初オカハンジャで使われていて、オカハンジャに新しい消印が配給されるといったんお蔵入りになりましたが、後で局名部分を削り取り、ロジング→カーンリフィール→ジャカルスワーテル→アウス→ブラックヴァッサー→クイビスと、各局をまさに渡り歩いていったのでした。


3)1898年発行 加刷葉書(綴り改訂)

領内用5ペニヒ葉書

 ドイツ本国の数字・鷲図案 UPU色シリーズの葉書に2行で「Deutsch-」「Südwestafrika」と斜めに加刷した葉書です。全部で10類あります。そのうち4種類は、ベルリンの収集家窓口のみで発売されました。5ペニヒ葉書は南西アフリカ領内、10ペニヒ葉書は植民地を含むドイツ本国とその他の外国宛です。1899年5月1日(月)からは、植民地もドイツ本国と同じ扱いになり、植民地間とドイツ本国宛の葉書が5ペニヒに値下げされました。

本国用・外信用10ペニヒ葉書

 上の写真は、外信用10ペニヒ葉書のオタビ局の使用例です。消印の日付は1900年2月3日です。オタビ局は、1899年10月の開局後しばらくは、局名部分が最初からない臨時印を使い、局名を手書きで書いていました。その4ヶ月後、本国からようやく届いた正規の印は、1900年2月3日から使用されました。つまり、上の写真は、その届いたばかりの印を使用した、記念すべき初日に当たるというわけです。左に見える小さな丸い印は、オカハンジャ局の到着印です。

 なお、オタビ局の臨時印は、前述のオカハンジャとは別系統で、最初から局名がないものです。しかしそれでも分類上はWanderstempelで、確かに、オタビ→ハツァマス→カペヌセウ→ナウチャス→オカハンジャ→ワーテルベルク→オコワクアチウィ→オチハベラと渡り歩いて行きました。すでに開局していたオカハンジャとワーテルベルクにも渡ったのは、1904年にヘレロ族に郵便局を襲撃されて印顆を紛失したからです。


4)1900年発行 カイザーヨット図案

国内用5ペニヒ葉書

国内用5ペニヒ往復葉書返信部

 皇帝の御用戦艦の図案で、全植民地共通図案の葉書です。違いは、船の上に扇形に配置された「DEUTSCH-SÜDWESTAFRIKA」の文字だけです。全部で4種類あります。

 上の写真で、国内用5ペニヒ葉書はクイビス局の使用例です。消印は1907年8月22日で、開局して1ヶ月後に当たります。

外信用10ペニヒ葉書

 上の写真は、外信用10ペニヒ葉書の使用例で、消印は1905年3月9日の第一野戦郵便局のものです。第一野戦郵便局は、ヘレロ族を鎮圧する軍隊とともに移動した郵便局の一つです。この軍隊は、激戦地のワーテルベルク(現ウォーターバーグ)、エプキロ、グロートフォンティン、オチムビンデを転戦していて、この葉書の消印が押された3月9日には、オチムビンデに駐留していました。移動する郵便局とは言っても、実際は上の専用の印を持った郵便局員が軍隊に随行していて、野営する先々でテントを張り、そこを臨時の郵便局として郵便業務が行われました。

5)1906年発行 国内葉書改訂

国内用5ペニヒ葉書

 国内用5ペニヒ葉書のみ、Postkarteの文字が左側に、Anの文字が右側に移動されました。横線も短いものに変えられています。

 上の写真は、国内用5ペニヒ葉書に5ペニヒ切手を貼り足して、ウィントフークからトルコのコンスタンチノープル(現イスタンブール)へ1907年7月7日に宛てたものです。中央に見える到着印は、ドイツの在トルコ局であるコンスタンチノープル局の印で8月7日ですから、ぴったり1ヶ月で届いたことになります。


6)1909年発行 国内葉書改訂・すかし入り

 国内用5ペニヒ葉書のみ、菱形と数字とローマ字のすかしが入れられました。


7)1912年発行 国内葉書改訂

国内用5ペニヒ葉書

 国内用5ペニヒ葉書のみに、縦罫線が入れられました。


8)不発行

国内用5ペニヒ往復葉書往信部

国内用5ペニヒ往復葉書返信部

 1915年に南西アフリカのすべてのドイツ郵便局が閉鎖された後も、新しい形式の葉書が準備され、不発行となった葉書が3種類あります。1916年以降に製造され、敗戦後の1919年にベルリンの郵趣家窓口から収集家向けに販売されました。戦時中の物資不足のため、粗悪な用紙に印刷されています。

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