サモア Samoa Samoa[概説]ここでいうサモアは、サモア諸島のうち、アメリカ領サモアの西側にあるサバイイ島、ウポル島と5つの無人島で構成される現在のサモア独立国(旧西サモア独立国)を指します。1722年にオランダの航海者ロッヘフェーンが、ヨーロッパ人として最初にサモアを発見し、1768年にフランスの探検家ブーゲンビルが訪れて「イール・デ・ナビガトゥール(船乗りの島々)」と名付けました。1830年にはロンドンの宣教師が布教活動を開始、1839年にはアメリカのウィルケスがサモアの部族と通商協定を結びました。 1857年になると、ハンブルクのゴーデフフロイ商会が自らの南洋事業の拠点をサモアに置き、ここから南洋各地の商人と取引を始めました。1862年には少なくとも29隻の大型船と、100隻の小型船が島々を運行していたと言われています。なお、イギリスもアメリカもサモアに通商の拠点を置き、1878年にはアメリカが海軍の石炭供給所確保のため、東サモアのパゴパゴを併合。こうした動きに、1880年ビスマルクはサモアをドイツの保護領にする案を議会に提出しましたが、議会はこれを否決しました。 1888年サモアの部族間の覇権争いをきっかけに、島内で大規模な内乱が発生し、各部族がそれぞれドイツ・アメリカ・イギリスの3国に庇護を求めたことから、3国の関係が危機に瀕します。翌1889年事態の収拾のためベルリンでドイツ・アメリカ・イギリスが協議し、いわゆるベルリン協定でサモアでの3国の権益に制限が設けられ、自治が認められました。 ところがサモアの部族は、このような押しつけの自治を認めず、白人の謀略も手伝って、1899年にサモアで内乱が発生。この混乱に乗じてアメリカとイギリスが同盟を結び、ドイツが本拠地としていたウポル島のアピア(Apia)を攻撃します。 再び事態の収拾のため、1899年12月2日(土)に今度はワシントンで協議が開かれ、ドイツは西経171度以西の島を、アメリカは子午線より東の島を、イギリスはサモア諸島から退く代わりにトンガ諸島とソロモン諸島を領有することを認められました。ドイツは1900年3月1日(木)にアピアにドイツの旗を掲揚し、ここにドイツによるサモア(西サモア)の統治が始まりました。 1914年8月の第一次世界大戦勃発後、8月29日(土)にニュージーランド軍がイギリス軍、フランス軍、オーストラリア軍の援護を受けてドイツ領のサモアに侵攻し、ドイツはサモアを失います。 [郵便局の開設]サモアのドイツ商人が他国(イギリス等)の郵便を用いると延着等により不利益を被るという不満の声を受けて、ドイツ郵政は、ブレーメルハーフェン・シドニー航路、およびシドニー・トンガ・アピア航路を経由して自国の切手と葉書を送付することを決定し、1886年7月14日(水)に第一陣がシドニーに向かうサリール号に積み込まれました。このとき送られたものは、葉書に関しては外信用10ペニヒ葉書1000枚、外信用10ペニヒ往復葉書200枚でした。シドニーで郵便船リューベック号にそれらは積み替えられ、9月10日(金)に同船はアピアに向けて出航。同月21日(火)にアピアに到着したリューベック号の船上で郵便取り扱い業務が開始されました。これが、サモアの、そしてドイツ植民地の最初の郵便局として扱われます。 しかしこの行為は、アメリカとイギリスからUPU(万国郵便連合)条約違反との抗議を受けます。なぜならば、サモアという「自治が認められた他国」に寄港した船の上では、UPU加盟国であるドイツは自国の郵便印を押すことができないのです。抗議を受けたドイツは、1887年7月23日(土)からアピアのドイツ領事館内で郵便取扱所を正式に開設することになりました。実際は単なる移転です。なお、収集家の間では、先の1886年9月21日(火)を郵便局の開設日として扱っています。 サモアでは、以下の郵便局が開設されました。
[葉書]1)無加刷葉書(フォアランナー)前述の通り、1886年9月の開局当時はドイツ本国の外信用10ペニヒ葉書と往復葉書が用意されました。本国と同じ葉書なので、消印で区別します。これらの葉書は収集家の間ではフォアランナーとして扱われます。 2)1900年4月発行 加刷葉書外信用10ペニヒ葉書 ドイツ本国の数字・鷲図案 UPU色シリーズの葉書に「Samoa」と斜めに加刷した葉書です。全部で6種類あります。5ペニヒ葉書はサモア領内、10ペニヒ葉書は植民地を含むドイツ本国とその他の外国宛ですが、1900年3月31日にブレーメンから発送され早くても4月末に到着したことと、1899年5月1日(月)から植民地もドイツ本国と同じ扱いになったことを考えますと、おそらく10ペニヒ葉書の適正使用例は、その他の外国宛として使われたものしかないはずです。 3)1901年発行 カイザーヨット図案国内用5ペニヒ葉書 国内用5ペニヒ往復葉書返信部 皇帝の御用戦艦の図案で、全植民地共通図案の葉書です。違いは、船の上に扇形に配置された「SAMOA」の文字だけです。全部で4種類あります。 上の写真で、国内用5ペニヒ葉書はムリファヌア局の1908年2月11日の使用例です。(活字の抜き差しを誤って11月12日の日付になっています。) 4)1914年4月発行 国内葉書改訂国内用5ペニヒ葉書の左側にある「An」の文字を廃して横線を短くした改訂です。実際はほとんど使われず、使用済が1点見つかっているのみです。 5)不発行国内用5ペニヒ葉書 1914年にサモアのすべてのドイツ郵便局が閉鎖された後も、新しい形式の葉書が準備され、不発行となった葉書葉書が1種類あります。敗戦後の1919年にベルリンの郵趣家窓口から収集家向けに販売されました。戦時中の物資不足のため、粗悪な用紙に印刷されています。 |
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