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レモンのイラスト 震災慰霊碑巡礼 61回〜 
阪神淡路大震災から5年目。あの苦しみと悲しみをいつまでも忘れずに、安心で安全な町づくりの喚起とともに検証のひとつになればと、今回から被災地の慰霊碑や記念碑を訪ねる。レポーターは、本紙客員ライターの西條遊児氏。(神戸市政・兵庫県政情報紙「セルポートKOBE」から)。同社は神戸市中央区中山手通4−22−11 078・242・1161

第1回〜第30回
第31回〜第60回
第61回〜第90回
第91回
芦屋市新浜町
県立芦屋南高校の碑
神戸在住の生徒たちが犠牲に

県立芦屋南高校は埋立て地にある学校ですので、校舎の被害は少なかったのですが、生徒7人と教員1人が死亡するという、被災地の高校では最大の犠牲者を出しています。

というのはこの学校には英語を中心とする国際文化科や理数コースがあり、芦屋市だけでなく神戸や西宮、宝塚、尼崎方面からも多くの生徒が通っていたからです。亡くなった生徒は全員が神戸の生徒でした。

そして亡くなった松村先生は淡路島からの単身赴任で、たまたま地震の間の3連休に奥さんが来ていましたが、不幸にも奥さん共々文化住宅の瓦礫の下で発見されました。奥さんは、淡路島で小学校の教頭をしておられたそうです。

生徒の半数以上の家が全半壊で、1月26日から行く予定の2年生の修学旅行は中止になり、積立金は緊急生活費として返金されました。

校門を入った所に「生」と書かれた約40センチ四方の碑が震災の翌年に建立されました。職員とPTA、生徒会、PTAのOBなどから約12万円の浄財が集まり、それを元に作られたそうです。


第92回
芦屋市浜芦屋町5
芦屋公園の句碑
助け合いを忘れない

阪神芦屋駅のすぐ南、芦屋川のそばに大きな御影石を組み合わせた碑があり、「震災に耐えし芦屋の松涼し」という稲畑汀子さんの句が刻まれています。

芦屋公園。この場所は自衛隊のテントや風呂、そして仮設住宅のあった所で、被災者にとっては想い出の場所です。

震災翌年の6月に芦屋川ロータリークラブが作り、芦屋市に寄贈されました。世界各国や全国のロータリークラブから送られてきた義援金が1千万円ほどあり、援助も大切だが残った人に希望を持って生きていってもらいたいという思いと、当時の助け合いの記憶を残したいという気持で、鎮魂というより前向きのモニュメントとして作られたそうです。

組み合わされた石はお互いの助け合いを表わし、斜めになった三角石は上を向いて大きく一歩を踏み出そうという姿です。

こうして見ると、碑というよりオブジェという方が正しいかも知れません。

そばに「危険、上がらないで下さい」と書いてありますが、確かに上がってみたくなる作品です。

第93回
中央区中山手通、相楽園敷地内
落下した煙突を保存・展示

震災では市内に多くの文化財がダメージを受けましたが、北野町界隈の異人館も倒壊こそなかったものの、瓦がずれ落ちたり、漆喰塗りの壁や天井が崩落したり、大きなクラックが入ったりという被害がほとんどの館でみられました。特に、その特徴である煙突が折れたり、落下して天井や床を破損させたりした所が目立ちます。木造の建物と煉瓦造りの重い煙突では揺れ方が違ったのかも知れません。

相楽園に移築されている国指定の重要文化財、旧ハッサム住宅の煙突も、ご多分の漏れず、屋根と2階の床を突き抜け1階まで落下し、北西の部屋(配膳室)を大破させました。

相楽園自体も震災で正面脇の塀、外周塀、石灯籠等が被災しましたが、その後、1年以上にわたる復旧工事を行い、平成8年10月に菊花展に合わせて再開園しました。そして落下した煙突は部屋の中から取り出され、地震の激しさを後世に伝えるために、前庭の隅に保存・展示されている。

少し離れて外観を見ますと、屋根には2本の煙突があり、向かって左側の1本が新しいのが分かります。保存された煙突の高さは約2メートル、四角形の一辺は約1メートルです。ちょうどやってきたおばあさんが「怖かったなあ、こんなんが落ちてきたらえらいことやなあ」とつぶやいていました。

第94回
西宮市上ヶ原
上ヶ原中学の壁画

震災の2年後にできた新校舎のロビーに画家・元永定正さんの大壁画があります。公立の中学校に有名画家の作品が飾られるのは珍しいことですが、その裏には学校側の無謀とも思えるチャレンジがありました。

震災でほとんどの校舎が使えなくなり、無事だった体育館も被災者で一杯で、その年の卒業式は各教室で行われました。「震災で何もかも失った」という卒業生の答辞を聞いた野村校長は「それなら新しく記念になるものを生徒達のために作ろう」と決心し、一面識もない元永画伯に壁画の制作を依頼しました。

「子供達に夢を与えたいという情熱だけで、断られるのを覚悟でした」と野村校長は笑っていましたが、当の元永画伯は驚いたでしょうね。予算なしでお願いします、ですからねえ。

しかし、元永さんの立派なところで1カ月後にOKの返事をし、今度は逆に学校側をびっくりさせました。

できあがったのは横8メートル、縦2.6メートルの「自然の中で」という明るい作品です。なお、この作品は西宮市の重要物品に指定されています。

第95回
尼崎市水堂町
水堂小学校のモニュメント
助け合いを忘れない

阪急武庫之荘駅の西へ歩いて10分のところにある水堂小学校の校門を入ると花壇があり、「友」という漢字をモチーフにした石碑がたっています。

震災では、幸い児童や父兄に犠牲者はありませんでしたが、3つある校舎のうち1つは亀裂が入って使えず、体育館には近くの被災者が避難してきて、約500人の共同生活の場となりました。

そのため、その年の卒業式は図書室で膝をつき合わせて行われました。恐縮する学校側に父兄は「いい思い出になった」と言い、子どもたちにとっても忘れられない卒業式に
なったようです。

モニュメントは尼崎市の「思い出の学び舎事業」の一環として平成9年の冬に完成し、当時の中島泰三校長の作った「こぶしの木のもとで、出会い、集い、学び、遊び、友情の輪を広げ、明日への旅立ち」という詩が書かれています。

こぶしは、水堂小学校のシンボルツリーですが、震災後枯れてしまい、新しいこぶしに植え替えられました。「子どもたちも震災でいろいろ苦労をしたでしょうが、友達の大切さを知ったと思います」と中島校長が別れ際におっしゃいました。

第96回
西宮市馬場町4
西宮中央商店街の時計
5時46分の大時計

阪神西宮駅のすぐ南にある西宮中央商店街は、かつては尼崎や芦屋、夙川方面からも買い物客がやってくる西宮一の賑(にぎ)やかな商店街でした。

しかし、震災のため、ほとんどの店が全半壊し、アーケードは曲がり、掛かっていた大時計は午前5時46分を指して止まったまま9年が過ぎました。

この時計は昭和44年に時計店を営む丸山武一さんによって寄贈されたもので、直径1メートル、重さ約30キロあり、当時の金額で約50万円したそうです。

街が新しく生まれ変わるため平成15年(2003年)に取り外され、商店街再生を祈念するモニュメントとして近くのコミュニティー広場に置かれています。

実はこの時計、とく見ると午前5時47分を指しています。1分進んでいたのか、それとも震災後1分間動いていたのか、それは時計に聞かないと誰にも分かりません。

商店街はアーケードを取り除き、御影石を敷き詰めて、光あふれる新しい街に生まれ変わろうとしています。街の愛称を募集したところ、全国から1300件の応募があり、選考の結果、「EBISU SUN ROAD」(えべっさんロード」と決まりました。

第97回
灘区備後町1丁目
成徳小学校の銘版
「命の輝き」と刻まれて

JR六甲道駅の南側一帯は震災で大きな被害を受け、現在、市の区画整理が進められていますが、そこにある成徳小学校の校庭の南東隅に「命の輝き」と書かれた銘版が99年3月に設置されました。

校庭の南側はコミュニティ広場で、そばを流れる高羽川も河川広場として住民に開放されています。

実はこの川も震災の被害を受け、改修工事をするにあたって周辺の人にも親しみのある川になるよう、河川広場として全面改修されたのです。
この時に、学校側の要望も入れ、亡くなった6人の児童のことを忘れないようにと、この銘版が設置されました。
そこには、「みんなで助け合い、励まし合って悲しみの中から立ち上がったことを決して忘れません。これからも命を大切にし、苦しいことや悲しいことに負けず、輝かせて生きていきます」と書かれています。友田町2丁目に住んでいた小西信之さんも、当時5歳の幼稚園児だった長女の希(のぞみ)ちゃんを亡くしました。6人の中には入っていないのですが、信之さんは震災のことやライフラインの大切さなどを忘れないためにも、この銘版のことを皆に知ってもらいたいと願っています。

第98回
長田区菅原通
味彩館のロケ記念写真
「寅さん」の最後の姿を

元菅原市場跡に建つ味彩館SUGAWARAの入り口に1枚の写真があります。まだ更地が残り、ようやく復興へ向けて立ち上がりかけた平成7年10月25日、「男はつらいよ寅次郎紅の花」のロケに山田洋次監督をはじめ渥美清さんら一行がやってきました。このロケが実現するまでには、地元で「寅さんを長田に呼ぶ会」を作り、いろいろな働きかけをした成果だったのです。

呼ぶ会の事務局長をしていた中村専一さんの話によりますと、当時、渥美さんは既に病状がかなり悪化しており、動くのもしんどい状態で、サインや写真、話しかけなど止めてほしいと関係者から要望があったそうです。昼食に焼肉を用意していましたが、もはやそれを食べられる状態ではなく、そばかラーメンしか喉を通らないということで、急遽そばを用意しました。

寅さん愛用のトランクも、いつもの物では重いので、発泡スチロールで作られた特注品でした。あの映画だけが皮製でないトランクだとか。

2000年10月21日、震災から5年10か月ぶりに市場はスーパー形式でオープンし、寅さんへの感謝の気持を込めて、ロケ写真が入り口横に飾られています。

第99回
東灘区御影石町
御影小学校の詩の額
バケツリレーで火の手から

御影小学校は創立90年を超える歴史のある小学校で、地域に住む人の中には親子3代の同窓生というのも珍しくありません。

震災の時、住民たちは少し離れた石屋川からバケツリレーをして火の手から学校を守りました。

その時のことを忘れないために、毎年1月17日の前後には地域の人たちと一緒に防災訓練をし、必ずバケツリレーをすることになっているそうです。

残念ながら6人の児童が犠牲になり、彼らをしのぶ歌碑が校庭に建っています。この碑の事は前にレポートしましたが、校舎に入って左手の額に入れられた「友よいっしょに」という詩が掛かっていますので紹介しましょう。

「大地が大きくせのびをして地面が割れた。家がくずれた。多くの命が一瞬にして消えた。(中略)いくら強がりを言っても人間は一人では生きていけない事を知った。(中略)友よ一緒に夢の続きを描いていきましょう。希望よ広がれ、夢よふくあめ、朗らかな街に幸いあれ」

この詩は、当時6年生だった近藤麻美さんが作ったのを書家が書き直し、折々の震災教育に読まれているということです。

第100回
西宮市樋之口町2
樋ノ口小学校の「飛び立つ蝶」
みんなで手作りで制作
関連するモニュメントがあります

阪急・西宮北口の北東にある樋ノ口小学校では震災で5人の児童が犠牲になっています。

当時、市内の人が亡くなった5人を偲んでリンゴの木を5本、校庭の西北にある花壇に植えましたが、いつしか忘れられたような状態になっていました。

そこで、地域の有志がいつまでも記憶に留めようと新しいモニュメント作りを計画し、30万円の浄財を集めたのです。

五角形の台座の上にリンゴの花びらを置き、そこから5人が蝶になって飛び立っているイメージのデザインができあがりました。

デザインとステンレスの加工は業者に頼みましたが、他は有志がボランティアでセメントをこねて、1週間かかって作り上げました。

左側の台座からステンレス製のパイプが伸びて、その先に蝶が空に向かって飛んでいます。「ちょっと見ると、蝶々というより、相撲の軍配みたい」と世話役を務めた代表の中村賢一郎さんは苦笑いをしながら、「それでも自分たちの手作りだけに思い入れがあるんです」と言っていました。

台座の石は近くを流れる武庫川の石で、浚渫中のため、トラック1杯分1万円と安く、それを運ぶトラックのレンタル料の方が高かったそうです。

第101回
東灘区本山南町2
東灘消防署青木出張所の鐘
おほないの叫び

阪神深江駅の北東に位置する、神戸市立・本山第一住宅の北端にある消防署に『安寧の鐘』と名付けられたモニュメントがあります。ガラスドアの中にありますので、通行中も気を付けていないと見過ごしそうですが、そばで見るとなかなか迫力のある代物です。

太字で書かれた「おほないの叫び復興への歩みそして・・・」の文字が迫ってきます。あたかもあの時の消防士の無念さを表わすように。

自治体消防50年の記念を兼ねて震災3年目の98年3月に作られたのです。製作者の猪口健さんは「頼まれてから5日でデザインから製作までやってしまいました」と言うてはりました。この人は消防士さんですが、知る人ぞ知る陶芸家でもあります。

大人の背丈ほどのコンクリート製で市役所の1号館を模しており、神戸を象徴する市章山と錨山を描き、下部には地震発生時の時計、そして鐘は昔の消防車で使っていた本物の鐘です。

ちなみにおほとは「大きな」、ないは「地震」という意味の古語だそうです。

側面に「東灘消防署職員一同」と書かれていました。

第102回
灘区高徳町
石屋川公園の桜
新婚4か月で終わった人生

阪神石屋川駅から川沿いに北へ続く公園の中に「生きた証 伸也・富子」と書かれたスチール製の小さい碑が立っています。足立伸也・富子夫妻はこの側のアパートで震災に遭い、新婚4か月の短い人生を終えました。救出作業にあたった自衛官の話では伸也さんは富子さんをかばうようにして息を引き取っていたそうです。

伸也さんの実家は豊岡ですが、父の悦夫さんは、2人の愛の巣が見渡せるこの公園に、彼らの生きた証を残してやりたいと思い、神戸市の協力を得て震災5年目の平成12年1月にソメイヨシノ5本を植樹しました。桜の樹齢も5年で2人の生まれ変わりのようにすくすくと伸び、今は5メートル以上に成長しています。

毎年、花の頃に有縁の人たちが集まって花見をし、今年(平成16年)も50人以上が集まって賑やかに過ごしました。それが2人への何よりの供養になるからです。お父さんは毎月必ずこの場所へ来て、草むしりや水やりなどの世話をし、震災モニュメントを巡る「希望の灯」の世話役として活動もしてはります。

アパート跡は駐車場になっており、車が置いてあるたびに「重たいやろなあ」と思ってしまうそうです。親の気持が痛いほど伝わってきます。

第103回
東灘区御影町石屋
網敷天神の神額
御影の天神さんも大被害

石屋川公園とJR神戸線がクロスするところの東側にある網敷天満宮は、御影の天神さんで知られていますが、こちらも震災では大きな被害を受けました。

大鳥居をはじめ本殿や社務所、灯籠、玉垣などが倒れ、わずかに宮司さんの住まいとだんじり小屋のみが助かっただけです。

いまだに完全復興はなっていませんが、その年の12月に新しい鳥居を建立して、平成9年7月に本殿を再建、11年7月に鳥居の側に倒れた大鳥居の神額が据え付けられました。

この額は昭和11年に菅原道真の子孫である菅原長言さんが書いたもので、縦1メートル30センチ、横1メートル、重さ約100キロという立派なものです。

あの高いところから落ちて無傷だったのは奇跡的ですが、奇跡と言いますとその横に見えている木を写真でごらんください。

これは震災で倒れた楠で、その時に根元から切られたのですが、そこから芽が出て今はこんなに大きくなりました。自然の生命力に驚くと同時に、震災から立ち上がろうと頑張っている人たちへの、大きな励ましになるのではないでしょうか。

第104回
明石市鍛冶屋町
嘉永7年の震災犠牲者の碑
安政の東、南海地震

明石フェリーの乗り場へ通じる錦江橋のたもとにある浜光明寺の境内に、善光寺弥陀三尊の石造が高い台上にまつられています。

正面には「為水陸横死」とあり、裏には大きな円のなかにア(空)という梵字が彫られ「嘉永七寅年十一月五日、諸国大地しん并つなみ、火事死人ぼだいのため」と書かれています。
嘉永七年といえば今から150年前になり、当時は黒船が浦賀に来たりして尊皇攘夷で国内は大揺れしていた時ですが、大地の方も大いに揺れ、11月4日にM8.4という巨大地震が駿河湾から遠州灘一帯で起こり、その32時間後に南海道沖を震源とする同規模の地震が発生。土佐湾には5メートルを越す、大阪湾にも3メートル近い津波が襲いました。

そのため11月に元号も「安政」と改められて、これらの地震は安政東海地震、安政南海地震と呼ばれています。
明石でもたくさんの犠牲者が出て、明石川にかかる永久橋も壊れて再建し。嘉永橋と名前が変えられました。
今また東海地震や南海地震がいわれていますが、歴史に鑑み、津波への備えも大切であることをこの碑は教えてくれています。

第105回
西宮市高木東町
高木公園の復興モニュメント
子どもたちの未来へメッセージ

阪急西宮北口北東地区は震災で建物の約7割が全半壊し、約60人が亡くなりました。
この地域の区画整理事業の一つとして、高木小学校の東にイザという時の防災拠点となる近隣公園、高木公園が4月18日に完成し、芝生広場の一角に地元が生んだ芸術家、津高和一さんの作品がモニュメントとして設置されています。
このモニュメントは実物を約8倍に拡大したもので、1・4メートル×1.2メートルの小豆島産の石で、高さは80センチ、上部に6つの突起があります。

銘版には津高さんの「音というものは外側ばかりから聞こえてくるものではなかった。内側からも響いてくるのである」という言葉が刻まれています。

公園の管理運営は住民たちで作る協議会が当たりますが、会長の山下正章さんによりますと、このモニュメントは鎮魂という意味よりも、子どもたちへの未来のメッセージという意味のほうが強いということです。この日を区切りにして新しいコミュニティ作りを考えていこうというわけです。
そう言えば、6つの突起は大地から伸びる新しい生命の息吹を感じさせます。公園の地下には飲料水と防火用水に使える「緊急用貯水槽」が設けられており、併設されている市民会館の倉庫には防災用具が置かれています。
なお、津高さんは震災のため夫人と共に亡くなりました。享年83歳。

お弟子さんたちは「この地を愛した先生の思いが形となって残るのが嬉しい」と語っています。

第106回
西宮市津門呉羽町
西宮市立津門小学校の碑
小学校で遺体とともに

阪神電車今津駅の北側一帯の津門地区には約5500世帯の人が住んでいましたが、震災で全壊1649戸、半壊1326戸と、実に半分以上の家屋が被害を受け、36人の犠牲者が出ています。

地区の人たちが何かにつけて利用していた小学校にも1000人以上の人が詰めかけ、遺体と一緒に生活をしました。

その校庭の一角に平成9年11月、住民の寄付金約80万円と石屋さんの協力で記念碑が建立されました。碑の裏側には被害状況、地区内の11の町名、そして津門築社会福祉協議会の文字が刻まれています。

学校内に地域の碑が建っているのは珍しいと思うのですが、この地域は学校とのつながりが強く、子供たちに震災を長く伝えるということで学校長の了解を得ました。

碑の周りにはきれいな花が植えられ、手入れは生徒たちがしているということです。

その横に、震災記念の姫りんごが5本植えられています。「犠牲になっった1142柱の慰霊復興のりんごの一部です」との書かれていました。

第107回
神戸市中央区御幸通
神戸国際会館の屋上キャンドル
神戸復興のシンボル

神戸国際会館は戦後復興のシンボルとして昭和31年に誕生し、大ホールをはじめ映画館やホテル、外国の総領事館まであるという、まさに神戸の顔という存在でした。

その翌年に成人式を迎えた私は、真新しいホールで朝比奈隆さんの指揮する交響楽を眠い目をこすりながら聴いたのを思い出します。

震災で全壊した神戸国際会館が、新しい神戸の復興のシンボルとして再建されたのは平成11年5月でした。そしてその屋上に登場したのが、震災犠牲者の鎮魂と街の復興を願う「KOBEキャンドル」です。

これは、完成直後に取材で許可をいただいて写した写真です。下から見るとあまり分かりませんが、高さが9メートルもある八角形の巨大な柱で、合わせガラスの間に乳白色のアクリル板を挟み込み、中の54本の蛍光灯が日没とともに、ろうそくの灯りを思わせる淡い輝きを放っています。

このビル自体、震災を教訓にして災害に強い設計と安全性、太陽光によるソーラーシステム、情報の発信基地としての高度情報通信機能などが備えられています。


第108回
中央区脇浜海岸通
神戸の壁で作ったベンチ

中央区のHAT神戸にある「人と防災未来センター」には、阪神・淡路大震災の教訓を後世に伝える資料がたくさん展示されていますが、センターの西側にもモニュメントがあるのをご存じでしょうか。
大きな木のベンチがあり、その背もたれはゴツゴツしたコンクリート片でできています。

戦災と震災の生き証人と言われた新長田の「神戸の壁」が淡路の津名町に移設された時、地元に何かを残したいと神戸の壁実行委員会が壁の基礎部を掘り起こし、それでモニュメントを作る事を思いつきました。

掘ってみると、基礎部は意外に大きく、結局その一部のみを使って誰にでも触れてもらえるベンチの背もたれに生まれ変わったのです。

製作者の三原泰治さんによりますと「震災で亡くなられた人々の鎮魂とこれからの豊かな復興の願いを込めた」ということで、全体に波形で造形したのは、響きを表現しているそうです。また、コンクリートの一面は掘り出した焼け跡の残したものそのままとして鎮魂を表現、他の一面は丸みをつけて復興とやすらぎを表現しています。

第109回
東灘区御影石町3丁目
理性院のほほえみの像
鳥居で2体の仏像を

阪神石屋川駅の北側すぐそばに理性院という真言宗のお寺があります。正面には平成14年11月に再建された本堂があり、右手にお地蔵さんなどが安置された「ほほえみのほとけ堂」とういうお堂が2つ並んでいます。

このあたりは、震災の時の鉄道被害の写真でよく出てくる石屋川車庫の近くで、家屋の被害も大きく、地震直後の火災で多くの家が焼失し理性院も類焼しましたが、当時ボランティアとして横須賀から来ていた岡倉石朋さんという人が倒れた六甲八幡神社の鳥居を使って2体の仏像を彫り、ひとつは鷹取の大国公園に、そしてもう一つを微笑みの仏としてこの境内に置きました。

お地蔵さんのように見えますが、本当は観音さんでして、前掛けで隠れた手には蓮の花を持っています。

放送関係の仕事をしていた岡倉さんは病に倒れましたが、全快の直前にニコニコした仏さんが夢に現れ、以後、仕事を止めて彫刻を始めたそうです。

「どこにも花が咲くように、どんな時にもほほえみがありますように」というメッセージが添えられていました。

第110回
兵庫区和田宮通3
和田神社の大鳥居
地元企業らで再建

三菱重工神戸造船所の北側にあるこの神社は、地元の人から和田宮さんと親しく呼ばれ、春祭りのだんじりでも知られている神社です。

参道入り口にあった高さ11メートルの石の鳥居(石製では関西一の大きさを誇った)が震災で倒壊しましたが、翌年の秋に特殊鋼で作られた大鳥居が同じ大きさで完成しました。

潮風にあたることも考え、塗料は宇宙ロケットの表面と同じものを使い、基礎もがっちり固めて、あと300年はどんなことがあっても大丈夫と設計者から太鼓判を押してもらっています。

それだけに費用も4000万円近くかかりましたが、鳥居に刻まれた寄進者名簿には三菱重工の300万円を筆頭に3万円まで331の会社や個人名があり、ざっと計算で4700万円集まって、この鳥居がいかに多くの人に支えられているかが伺い知れます。

鳥居の横の灯籠は江戸時代の尾州回船の記録を残す貴重なものでしたが、これも基礎部を残して大破、今は青銅で再建されています。神社では灯籠の破片を保存し、いつの日か技術が進んだ時に復旧させたいと言っています。

第111回
西宮市仁川百合野町
地すべり被害者の碑

関学の裏手、上ヶ原浄水場の北側に震災後、兵庫県が作った「地すべり資料館」があり、その横手に地すべりで犠牲になった34人をしのぶ「やすらかに」と書かれた碑があります。

あの日の朝、仁川右岸が幅100メートル、長さ100メートルにわたって崩れ落ち、10万立方メートルの土砂が百合野町と対岸の仁川6丁目の民家を襲った結果、44人が住む13軒を飲み込み仁川百合野町で26人、仁川6丁目で8人が亡くなりました。家族全員が助かったのは2世帯だけで、中には一家5人全滅というお家もありました。

一周忌の時に寄進箱に集まった約60万円のうち、慰霊祭の費用を除いた50万円ほどで慰霊碑を作ることにしたそうです。

しかし、何軒かの石屋さんを回ったのですが、予算が合わず、最後に甲山の神呪寺のそばの石屋さんが地元ということもあって、約半値で作ってくれました。

台座の下に犠牲者の名前を刻んだ銘板が納められています。

第112回
西宮市上甲東園2
西宮市立甲陵中学校
男女の中学生の像

校門を入った右手に「語らいの広場」があり、そこに美術担当の先生2人が作った「翔(はばたき)の像」と題する男女の中学生の像が建っています。

この学校は震災で校舎2棟が全壊し。ここに仮設教室が建っていましたが、新校舎ができて撤去した跡地に、学校創立50周年と震災を忘れないための記念公園を作りました。

当時の校長先生がモニュメント制作を持ちかけ2人(どちらも女性)は相談しながら9か月かけて完成させました。美術の先生といっても彫刻の専門ではありませんので、初めは自信がなかったのですが、学校の事情を知らない他の人に頼むよりは、と先輩に助けてもらいながら徹夜を重ねて作ったようです。

生徒もそんな姿を見て、何人もがモデルになっていろんなポーズをとってくれました。後ろを向いている男子は今までの伝統と震災の子とを忘れないように、前を向いている女子は未来を見つめるようにという思いがこもっています。
ちなみに制作費は120万円で、校長先生は金は出しても口が出さずですべて任してくれたそうで、2人の先生にとっても良い経験と思い出になったことでしょう。

第113回
尼崎市南武庫之荘3
立花西小学校の記念碑
校庭で青空教室

立花西小学校は震災で4階建ての校舎2棟が立ち入り禁止になり、1月中は校庭での青空教室、2月3月は隣りの立花小学校での間借り授業、そして4月から約2年間は仮設教室で授業をしてきました。

平成9年3月に校舎の復旧工事が完了、4月に市の「思い出の学び舎づくり事業」として、飯盒炊飯場やテーブルやベンチを備えた「ふれあい広場」を作りました。

そこで子供たちは植物の観察をしたり音楽の練習をしたり、弁当を食べたりと学習の場、遊びの場、憩いの場として使っています。

そばに立つ記念碑には当時の6年生が共同で作った「広場の四季」という詩が刻まれています。

震災翌年の1月17日から4日間、6年生たちが近くのJR立花駅と阪急武庫之荘駅で募金活動をし、集まった80万円余りを尼崎市に寄付し、関係者を感動させました。

第114回
中央区下山手通8
本寿寺の物故者の碑
全ての犠牲者の慰霊を

神戸高速鉄道・花隈駅を降りて、北側に坂を上がっていくと大きな日蓮さんの像が目に入ります。日蓮宗の本寿寺ですが、このお寺の境内奥に「阪神・淡路大震災物故者の霊」と刻まれた碑があります。

震災3回忌の時に、檀家の誰それというのではなく、震災の全ての犠牲者の霊を慰めるために建てられました。高さは2メートルほどですが、よく見ますと、台座が欠けています。実は、この碑の横に無縁仏を祀る13重の塔が立っていたのですが、震災で倒れたましたので、その一部を台座に使っているのです。(塔も新しくなって左側に立っています)。
この碑の右横に溶岩片が置かれていますが、これは、雲仙・普賢岳の火砕流の一部で、九州の知り合いからいただいたものだそうです。自然の力の大きさを忘れないため置かれたと思うのですが、うがちすぎでしょうか。

震災の時、誰もが日蓮の像も倒れていると思ったのですが、びくともせずに立っており、集まった檀家の皆さんは大感激したそうです。先代の住職が現住職と2人でセメントを練って、それこそ手作りで作ったものだけに。念が入っていたのかも知れません。

第115回
長田区御蔵通5丁目
御蔵南公園の焼けた楠

御蔵南公園のある場所は、震災前には小さな児童公園がありました。そこに立っていたクスノキは、あの震災のときに火災を食い止めたと言われています。

土地区画整理事業の一環として、今年(2004年)1月に完成したこの公園は、球技などもできるように設計されており、整備の段階でクスノキを伐採することも考えられたのですが、地域の皆さんの熱意で残される事になったのです。

ごらんのように、火災により幹の半分が焼けただれているにもかかわらず、10年近くたった今も元気に青い葉を茂らせており、その生命力は地域の人に生きる力を与えているようにも思えます。

昨年暮れに、地域の人たちが作った「御菅カルタ」のなかにも『類焼をとめて なお生き残る クスノキの大木』と詠まれており、地元の人の愛着が感じられます。

なお、少し北にある御蔵北公園の一角には、震災前の路地に立っていた電柱が、焼けた跡を残し、そっくりそのまま斜めになって立っています。

第116回
灘区大和町4丁目
徳井神社の鳥居
宮司夫妻が犠牲に


JR六甲道駅からガードに沿って東へ5分ほど歩いたところにある徳井神社は、震災のため本殿を除いた社務所、御輿庫、八幡さん、鳥居、狛犬、玉垣などすべてが倒壊しました。

本殿は少し前に鉄筋にしていたので助かりましたが、社務所は木造でしたので、落ちてきた大きな梁の下敷きになり、宮司さん夫妻が亡くなっています。

神社復興のため氏子一同から寄付を募り、8千万円の予定のうちなんとか7500万円集まって、平成13年10月に修復工事が一応終わりました。一応というのは、御輿庫にまで手が回らず今もトタン張りのままだからです。

震災の傷跡が分かるのは写真の鳥居で、文久2戌年2月の年号が入っている柱を残し、笠木と貫を新しく作っています。色の違いが分かるでしょうか。

氏子総代の堂内克孝さんの話では、全部新しくした方が費用的には安くついてそうです。「今の工法は基礎をコンクリートで固めるのですが、昔は柱の3分の1ぐらいが地面の中に埋まっていました。それを掘り出すのが大変でした。1回掘り出して、角度を合わせてもう一度組合わせるということをしたのでかえって手間がかかりましてね」と苦笑い。近いうちに御輿庫を建てるということです。

第117回
明石市本町
明石銀座通の「偲ぶ像」
復興のシンボルとして

JR明石駅の南、いわゆる銀座通りに面したところに、阪神・淡路大震災を「偲ぶ像」があります。

明石高年クラブ連合会が平成10年3月17日に、大震災からの復興のシンボルとして建立したもので、円い形の上に鳩が東を向いて止まっています。
デザインをした高年クラブの現会長、岡田貞一さんの話によりますと、鳩は天文科学館の方向を向いて立っているそうです。平和の象徴である鳩が明石の象徴である天文科学館を見守っているというわけです。

当時、全国の老人会や県などから見舞金が贈られ、その有効な活用法として皆で分配しようという声もありましたが、趣旨に反するということで碑を作ることにしました。碑の下は三脚になっていて、高年クラブのキャッチフレーズである健康、友愛、奉仕の文字が刻まれています。黒御影製で600万円かかってそうです。

碑の下には、当時の新聞の震災関連記事や写真などがカプセルに入って埋められていますが、掘り出すのは「私らが死んだあとになるでしょう」とのことでした。

118回
明石市明石公園内
地盤変位の碑文
明石でも大被害受け

阪神・淡路大震災では明石市も大きな被害を受け、死者26人、負傷者1745人、家屋の全壊2914戸、半壊2万8043戸のほか、明石天文台も塔の中が全壊し、公園内のお城の石垣が各所で崩壊したり、櫓2棟も破損しました。

この明石公園内にある県立図書館の西側に、明石空襲を記録する会が昭和60年8月に建てた「明石空襲の碑」というのがありますが、その碑もあの大震災のため少しずれてしまいました。

正面から見るとあまり分かりませんが、裏側に回りますと台座と碑の間に隙間ができているのが分かります。写真でははっきり見えないかもしれませんが、実物を見ると地震の強さが手に取るように分かります。

脇に碑文があり、「兵庫県南部地震により、ご覧のように約4トンもの碑も約5センチ北東へ移動しました。復元工事も考えましたが、このあたりの地震変位の証しとして遺すことにしました。なお、平成9年3月発行、明石市資料には次のような記述が載っています。『明石周辺の地盤は、北東方向に60〜70センチ変位したものと考えられる』平成9年8月15日、明石市空襲を記録する会」と書かれています。

ちなみに、昭和20年の明石に対する数度の空襲では、明石公園での269人や川崎航空機工場での263人など合計1496人が亡くなっています。

第119回
兵庫区中道通
被災地NGO協働センターの観音像
若い僧侶たちが建立

新開地の少し南西、水木湯という風呂屋の前の細い道を行くと協働センターの事務所があります。

ここは、震災後、被災者の生き甲斐仕事づくりとしての「負けないぞう」事業で有名なグループですが、この事務所の中庭にザクロの木を背にして高さ3メートル余りの観音さまが立っています。震災7回忌の平成13年1月に真言宗豊山派の若い僧侶たちの手によって建立されました。

観音像の下に書かれている「建立之文」には、「阪神・淡路大震災は未曾有の被害をもたらした。一面海と化し、その焼け跡には手にした鍋に母親の骨を拾う少女の姿があった。犠牲者は在日外国人63人を含む6432人・・・云々」とあります。

各地の慰霊碑の碑文に犠牲者数が刻まれているのはよく見ますが、在日外国人の犠牲者数の記述のある碑には初めてお目にかかりました。

事務所の中庭ですが、オープンになっていますので誰でも入られ、今でも毎朝近所の人が拝みにやってくるそうです。

第120回
長田区滝谷町1丁目
華僑基地の慰霊碑
華僑や留学生48人を悼む


兵庫区と接する長田の山手に、明治の初めにできた華僑の人たちの基地「神阪中華義荘」があり、階段状になった山の斜面に約700基の墓石がぎっしりと並んでいます。

鳳蘭さんのおじいさんや、陳舜臣さんの親戚の人もここに眠っているそうです。震災のときは墓石の7割が倒れた、と事務所の人が教えてくれました。

管理事務所の少し上に阪神大震災で亡くなった華僑や留学生48人を悼む慰霊碑が、震災2年後の97年1月17日に建立されました。六甲道のアパートで神戸大学の学友と一緒に亡くなった留学生・呉? さんの名前や、古箏奏者、伍芳さんの姉、伍鳴さんの名前などが刻まれています。

その横にはピンク色のインド産の石材で作られた「さくらの碑」が10月に建立されました。歌手のしらいみちよさんが、犠牲者と同じ数の48本の桜の苗木を植樹し、その記念に設置されたものです。

後ろに栗の形をした子供の共同墓があり、と言うより以前からあった子供の墓の前の前面を借りる形で慰霊碑が作られました。

来年(2005年)の1月17日には中国から犠牲者の家族の方々が神戸に来られ、追悼の集いに参加したり、日本の震災遺族との交流会などが行われる予定です。
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