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震災モニュメント運動小史
<目次>
  私たちの思い   
  前書き
1 それはモニュメント33カ所を写したカメラマンの写真展から始まった
2 震災ボランティア「がんばろう!!神戸」堀内正美、そして食いついた記者たち
3 マップ作成委員会の結成、下河辺淳・復興委員長の喝
4 企業と官庁、大学…「産官学」で支える態勢
5 55カ所掲載した「モニュメントマップ」10万部発行。6カ月で増刷。そしてモニュメントは100カ所を超えた
6 被災者同士の交流の場としての交流ウオーク。遺族が「語り部」になり、「癒しの場」にもなったウオーク
7 慰霊祭の主体になるマップ作成委員会。そしてこれから。

 私たちの思い
 
 死者は、その死によって、生き残った者に力を与える、と言われる。   
 六千を超える阪神大震災の死者たち。   
 彼らが「個としての死」ではなく、何ほどかの力を、生き残った者に力を与えてくれる時、「個としての死」は「みんなの死」となるのだろう。   
 生き残った我々は、一体その「みんな」のために何ができるのだろうか。     
 そのことに思いを馳せることが「震災モニュメント」にかかわる運動を支えている。


涙のマーク  阪神大震災(1995年1月17日)のあと被災地に次々と建てられていった「震災モニュメント」。
 慰霊碑や、追悼碑のことだが、神戸、阪神、淡路地域に震災4年の段階で55カ所にのぼった。その半年後に100を突破し、これからも増え続けていくだろう。
 その碑の「こころ」に突き動かされ、企業、行政、メディア、ボランティア団体に属する個人が、組織の壁を取っ払って「震災モニュメントマップ作成委員会」を作り、99年1月、その所在地を掲載した地図「モニュメントマップ」を10万部印刷した。 そのマップを使ってモニュメントを巡り歩く「交流ウオーク」という新しい運動を作り出し、参加者からの強い要望で毎月の定例行事になり毎回100人以上が参加、慰霊碑を建立した地元の人々との交流、地域の枠を超えた参加者同士の輪が広がっている。
 家族を亡くした遺族が多数ウオークに参加し、自らの辛い体験を語り始めた。
 自分たちで抱えきれなかった遺族の悲しみを聞くことにより、「震災を語り継ぐモニュメント(慰霊碑)」が、生き残ったわれわれにとって「生きていく勇気を与えてくれる心の支え」であることを教えられた。
 非被災地からも、個人はもちろん「修学旅行」「社会見学」「震災交流」「震災フィールドワーク」などマップを活用したという申し出が数多く来て、マップを2万部増刷、さらに震災5年に合わせ、新たなマップを作ることが決まった。
 さらに「震災語り部」の育成に作成委員会として乗り出すことや、「生き残った者のモニュメント」を作ろうという運動に広がり、2000年、あるいは2001年から「市民(被災者)による市民のための慰霊祭」を開催しよう、と県、市などと話しあっている。
  <官>と<民>の区別を超え「複合運動体」として作り出した震災復興運動の"うねり"、「家族の死しか考えなかった」遺族が「みんなの死を考えるように」なることを援助したその思想性など、そのすべてが21世紀に向けての大規模災害時の復興運動と、やがて到来するNPO社会の運動のありかたのモデルとして評価に足るのではないだろうか。
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1 それはモニュメント33カ所を写したカメラマンの写真展から始まった
 「震災モニュメントマップ」を作ることになったきっかけは神戸市長田区に住み、自らも被災したアマチュアカメラマン、徳永竜二郎だった。
 徳永さんは98年春、同市東灘区の中野南公園に避難して住んでいた住民が建てた石碑の碑文を見てハッとした。  
 「命 平和と安らぎの中で忘れられないように」
 震災後、同公園にはテント村ができた。全国から寄付金が寄せられた。 
 その寄付金を元に建立したもので、碑の裏には 
 「ありがとう 地球の仲間達 あたたかい心 大きな愛 忘れない」
と刻まれていた。
 徳永が、気遣ったのは「命」で始まる碑の表の文面だった。 
 「このままでは、震災の記憶が消えてしまう。慰霊碑のことをもっと多くの人に知ってもらわないと」
 徳永は、以前から、阪神大水害(1938年)の慰霊碑が放置されていることに心を痛めていた。 
 徳永はマスコミや資料室、市役所、警察から、墓石業者までを訪ねて情報収集を始め、98年9月、33カ所の写真を撮影して神戸市・三宮のフェニックスプラザで写真展を開いた。これが震災ボランティア団体、「がんばろう!!神戸」の代表、堀内正美の目にとまった。 
 俳優が本業の堀内は、大学在学中にテレビドラマ「わが愛」でデビューした。テレビをはじめ、舞台、映画、CMに出演し、最近の作品は大河ドラマ「元禄繚乱」(徳川四代将軍役)や、テレビドラマ「ウルトラマンガイア」などがあり、異色の役割をさまざまに演じきると評判である。
 東京出身ながら、神戸に転居したのは、長男のアトピー性皮膚炎がきっかけ。1984年、神戸市北区に転居したことが、結果として震災とのつながりが生まれた。 六甲山の北側に位置する神戸市北区の自宅は阪神大震災でも被害がなかったが、2日後に、地元のラジオ局「AM神戸」へ駆けつけ、担当日ではなかったものの、安否情報や災害の様子などを徹夜で放送し、番組を通じて集まった約300人で「がんばろう!!神戸」を結成した。  
 それ以後、ボランティア活動を続け、「市民版引っ越しプロジェクト」、レインボーネット(異業種社会貢献活動ネットワーク)など「市民の視点」でさまざまな構想を提唱、行動してきた。さまざまな集会では司会役を務め、俳優業とあいまって抜群の知名度であることは言うまでもない。
  「二人の子供たちと遊ぶ時間が激減したけれど、将来、子供達に『あの震災で何をしたのか』と聞かれた時、胸を張って答えられる自分でありたい」 という胸の奥深くにある思いがボランティア活動に駆り立てている。
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2 震災ボランティア「がんばろう!!神戸」堀内正美、そして食いついた記者たち
 その堀内が、活動の中で知り合った被災地の新聞記者たち一人ひとりに、「震災の慰霊碑が、こんなにできているのを知ってましたか」と声をかけはじめた。その中で、一人、堀内の琴線に触れる反応を示したのが、毎日新聞神戸支局記者の中尾卓英だった。
 神戸市東灘区で生まれ育った中尾は、震災の時は松江支局勤務。翌日未明、マイカーで神戸に帰ってきた。実家は「全壊」認定を受けるほどの被害だったが、両親とも無事でそれから2週間、東灘区で取材した。その年の統一地方選挙の取材のため出雲に帰り、その後95年10月、神戸支局に転勤した。一貫して「震災後」を追っている。 その中尾は、写真展を見た途端「慰霊碑の語りかけるものってなんてすごいんだ、と思った」と述懐する。と、同時に「これまで3年余、新聞に遺族の人が登場することは少なかった。この慰霊碑を一つひとつ訪ねていけば遺族の人たちに登場してもらえるだろう」とも考えたという。
 その考えはいささか甘かったのだが、それが分かってくるのはまさに運動に中尾自身が深くかかわってからのことである。  堀内と中尾の二人は話し合って「あれはすごい。これを新聞に載せよう。それだけでなく、地図にして市民に配ろうよ」と意見が一致した。 中尾の願いは「堀内さんが広告塔をやって欲しい」ということ。神戸や大阪の企業や他のメディアへの働きかけは堀内に任せようと。 その時、既にこの運動を「一つのメディア」で行う運動ではなく、「オールメディアとして支えて行かねばならない」という合意が、二人の間で暗黙のうちに生まれていた。 毎日新聞が社内でそれを確認する前に、堀内が地元紙・神戸新聞や、サンテレビ、それに自分が出演もしているラジオ関西などを回り、運動の呼びかけを始めていた。
 「ぼくたちの力はあまりにも微力です。今後ともご協力をよろしくお願いします」。
 堀内が、いつも書く呼びかけの文面だ。 この文面にほだされて地元の3社とも、社会部長やディレクターら震災に"思い"のある人たちが参加することになる。
 一方、中尾の属する毎日新聞社では、震災4年が約4カ月後に迫った9月中旬、健保組合保養所の宝塚荘で開かれた震災取材会議で、初めてこの「マップ」のことが話題に上った。
 宝塚荘自体も被災地にあり、ここで96年9月以来、何度となく震災会議が開かれていた。
 震災の時、ニューヨークにいてその後大阪本社社会部に帰ってきた編集委員の田原護立がいつも主宰していた。阪神大震災の1年前、ロサンゼルス郊外で起きた「ノースリッジ地震」や、高速道路が倒壊した89年の「サンフランシスコ大地震」の現場取材の経験があり、国際的視野と、記者生活最初の地であり、妻子の故郷でもある神戸の足元からの視点をともに活かせる利点があった。
 震災4年の99年1月に向けた報道・紙面展開をどうするかに関する戦略を話し合うこの会議では、さまざまなシンポジウム案も提出され、震災4年のテーマを「むすぶ  つなぐ」で統一しよう、と決まりかけた時に「実は被災地に慰霊碑がたくさんできているんですよ」と中尾が語り始めた。
 「そりゃ、そうだろう」
 慰霊碑くらいあって当然、という雰囲気があった。何人もの記者が慰霊碑除幕の記事を書いていた。 
 「どのくらいあるの?」
と誰かが聞いた。 
 「ざっと30から50くらいはあるでしょうね」 
 中尾が漏らしたそのせりふに、その場に同席した多くの記者達が驚いた。 
 「えっ、いつの間にそんなに増えたの?」  
 被災地を取材する記者たちの正直な感性だった。その驚きが運動のエネルギーになっていった。
 中尾は 「これを堀内さんのグループと一緒にマップにしようと思っているんですよ」と話を継いだ。 
 それなら、その作成のための委員会、これをモニュメントマップ作成委員会と呼ぶとすれば、堀内さんを中心に作るべきではないか、誰がそのメンバーにふさわしいだろうか、新聞で特集するなら、モニュメントを建立した人たちに了解を取り付けるために、毎日新聞社としてお願いを出すのか、それとも運動として行うなら、いっそ、作成委員会名で「お願い」を出す方がいいのか。 
 調査の実務は取材を兼ねて毎日新聞社で請け負っても良いが…  
 とりあえず、毎日新聞社から作成委員会の委員を出すなら、田原にすることに決め、それ以外のメンバーについて、他のメディア、地元の新聞社、テレビ局にも入ってもらいたい、そのことで会議の総意は一致した。
 同業の新聞社に同じ委員会に入ってもらうということは、この運動を、一社単独事業とすることを放棄する決意の表明である。 
 最初から、毎日新聞の記者たちはその意識を捨てていた。むしろ他のメディアにも書いてもらいたい、書いてもらわないと困る、とさえ考えていた。
 堀内は、あとで述懐している。
 「メディアも、企業も、ボランティア団体も、それぞれが単独でおこなった震災復興のための事業は、すべて運動として<うねり>とはなっていない。理由は分からないがそれが現代ではないか」 
 その直感を、毎日新聞でマップ作成の実務を担当した特別報道部長の山崎一夫は、  
 「運動のなかで、それぞれの組織と個人が自己抑制し、そのなかで何を顕示していくかの実験台だった」という言い方で表現する。  
 毎日新聞の場合、その自己抑制は、モニュメントマップの運動を特ダネとして記事化しないこと、自己顕示は、モニュメントの調査を一手に引き受けたこと、最初に10万部作った「震災モニュメントマップ」を毎日新聞の特集と併せて自社で印刷を引き受けたことにあったのかも知れない。  
 ボランティア団体としての「がんばろう!!神戸」の場合、抑制とは「がんばろう!!神戸」を前面に出した運動にしないこと、顕示とは、マップとその先のさまざまな運動を通じ、阪神大震災復興におけるボランティア運動としてのイニシアティブを取ることだったかも知れない。  
 行政、例えば神戸市にとっては、抑制とは、行政が運動の背後に退くことによって官製運動という色合いを薄めること、顕示とは、神戸空港問題を契機に何かとぎくしゃくしているように見られている<行政と市民>の新しい関係を築けるかも知れないという思惑にあったのかも知れない。 
 いや、行政には、それよりも「震災ご意見番」と被災地では皆が評している下河辺淳・元阪神・淡路復興委員長の「喝」が効いたのかも知れない。 
 「下河辺の喝」とあとで名付けたこの一言はマップ完成後の99年1月末に開かれた「震災モニュメントマップ作成委員会」席上で出たものだった。
ペンのマーク 3 マップ作成委員会の結成、下河辺淳・復興委員長の「喝」
 こうして98年秋のうちに、震災モニュメントマップ作成委員会が結成された。  
 それに先立ってのモニュメント調査と作成委員会への参加の依頼は、「準備会」として行われた。 
 「準備会」のメンバーは、堀内、神戸市市民活動推進課の井上隆文(課長)推進課の森田拓也、毎日新聞の中尾卓英、岸桂子(ともに震災取材班記者)の5人の名前で行われた。   
 問い合わせがあった時に受け答えできることを考えた実務最優先のメンバー構成だった。   
 手分けして"この指止まれ"方式で決まったメンバーは21人。 次の人たちだった(50音順)。  
 企業と行政に対しては幹部の参加をお願いし、一方で協賛金も頼みつつ、「震災と震災復興に個人として思い入れのある人を」という注文をぶつけ、個人参加という形を貫いた。 
(アイウエオ順、敬称略) 
板谷英明(阪神電気鉄道広報課長) 
今田忠(阪神・淡路コミュニティ基金代表) 
大河原徳三(神戸国際観光協会専務理事) 
梶本日出夫(神戸市市民局長) 
清原桂子(兵庫県生活復興局長) 
蔵野勲(大開タクシー社長) 
栗原高志(兵庫県教育長) 
三枝博行(AM神戸報道部長) 
下河辺淳(東京海上研究所理事長、元国土庁事務次官) 
高橋宣光(サンテレビジョン編成局長) 
田原護立(毎日新聞社社会部編集委員=震災担当) 
陳舜臣(作家) 徳永竜二郎(写真家) 
中島正義(神戸・市民交流会代表) 
堀内正美(市民ボランティアネットワーク「がんばろう!!神戸」代表) 
松井淳太郎(大阪ガスいきいき市民推進室長) 
道谷卓(郷土史家、関西大学講師) 
森長勝朗(JR西日本広報室長) 
山沖之彦(プロ野球解説者) 
山澤倶和(阪急電鉄広報室長) 
横山修二(神戸新聞社社会部長) 
各メディア、交通機関を網羅し、インフラ企業、それに地元企業、さらに異色の人として作家、陳舜臣さん、元プロ野球選手、山沖之彦さんらも入った。 
 同時に、このメンバー決定に並行して「震災モニュメントマップ作成にあたって」という趣意書が堀内さんらによってまとめられた。 趣意書は、以下の通り、「マップ」の中にまとめられた。  

 六千余人の犠牲者を出した阪神・淡路大震災から4年。 まちは再生に向けて歩み出しています。 あの日、私たちは一瞬にしてかけがえのないものを失ったと同時に、大切な「こ ころ」を思い出しました。国籍や宗教、肩書きなどのちがいを乗り越え、家族や隣 人、地域でお互いに支えあったのです。 そのひとつの証として、私たちのまちの公園や街角、学校などに、数多くの「モニュ メント」「慰霊碑」「追悼碑」が、個人や自治会、学校、企業、行政などによって建て られました。 それは、亡くなった方々への鎮魂とともに、生き残ったわたしたちが震災の経験を 忘れず、次代を担う人々や後世に伝える、という決意でもあるのです。 そんな「こころ」に触れていただきたいとの思いから、このマップを作りました。  

 1999年1月17日 震災モニュメント55カ所を掲載したB3判の「震災モニュメントマップ」は、年末年始の紙面製作で忙しい新聞社のデザイナーが「勤務時間以外に65時間も使ってしまった」と話すほどの手間のかかる作業を経て毎日新聞社の印刷工場で印刷され、震災4年の99年1月17日、神戸市三宮で行われた「1・17に灯りを 慰霊祭」の会場である東遊園地の特設テントで配布にこぎつけた。  
 納品は、そのわずか4日前という慌ただしさだった。   
 同じ55カ所の震災モニュメントを載せた「マップ」は、神戸新聞99年1月17日号外、毎日新聞1月9日朝刊特集にも掲載された。  
 モニュメントは、調査チームが、98年末までに掲載の了解を取りつけていた。区切りのいい数字になったのは偶然だった。   
 このまま増えれば、88を超えるかも知れない、という冗談も出た。西日本の「西国88か所参り」になぞらえたのだったが、わずか3カ月で88を超え、半年足らずのうちに100を超えてしまった。   
 マップ作成委員会の第1回会合は、マップ完成の後の1月末に開かれた。いかにも「考えながら走る」この運動にふさわしい会議の設定だった。 
 その場で下河辺は 
 「この運動は誰か一人でいい、夢中になってやる人が一人いることが必要なんですよ」と強調した。 
 この運動に携わった一人ひとりが、その言葉に奮起し「知恵ある人は知恵を出し、力ある人は力を出し」て、その「夢中になってやる一人になろう」という運動を進めていくことになった。   
 少し長いが、「震災モニュメント運動」の精神性を紹介する意味で、下河辺の言葉を引用する。
 
 震災から4年がたった。東京(国・政府)では「いかなる地域で災害が起きても5年間は国の仕事。しかし、5年が過ぎれば市民のみなさんが通常の生活に戻ることが当たり前になる」と言っている。災害という異常事態から当たり前の生活に戻れる条件を整えることがこの1年の仕事と思いつつ、この4年間の総括をお手伝いしていた時に「震災モニュメントマップ」の話を聞いて感動した。これは5年目にすべき最大のテーマだと思って参加した。   
 さらに下河辺は、こう言った。   
 モニュメントが建てられた時は「不幸にして震災で亡くなった方のご冥福を祈る」ということが出発点だった。 
 しかし今は「生き残った私たち」という視点ができた。 
 やがていつか震災を経験した人がゼロになる「完全に震災が終わる」時代がやってくる。 
 英国には「息子を戦死させた母親が亡くなった時世界大戦は終わる」という有名な話がある。 
 日本では、この「1・17」が、市民に永遠に記憶され、市民の中で語り継ぐためにこのモニュメントが、歴史をつなぐ役割を果たすだろう。 
 暮らしの場にお地蔵さんがひとつ建っているだけで心の支えになるように、モニュメントが「神戸のお地蔵さん」として、神戸の町が続く限り人々の話題になって、地震も知らなければ地震の痛みの経験もない神戸の市民にとって、とても意味のあるものになる。    
 さらに踏み込んで 神戸の都市復興の一番基本的なプロジェクトとして位置づけていくことさえ必要だと思っている と言い切った。 
 この一言は、兵庫県と神戸市に衝撃を与えた。    
 このシンポをきっかけに、「行政と市民」の新しい関係を模索する道が開かれていったのだった。
 震災モニュメントマップ作りのあと、マップを使った交流ウオーク、震災遺族による「震災語り部」活動、さらに2001年からは行政でなく、マップ作成委員会が中心になって震災慰霊祭を主催する……。被災体験の「ある、なし」にかかわらず手を上げた市民が準備を進め、その輪の広がりの中からわずか1年もたたない間に、運動の量と質が大きく変化していった。   
 マップの配布が始まった99年1月17日、「震災モニュメントウオーク〜語り継ごう、あの日のことを」の第1回の催しが、園児から81歳のお年寄りまで約100人が参加して行われた。 「震災モニュメントマップ」を作るからには「ウオーク」を、と考えたアイデアだが、実はマップが初配布されたのはその3日前、つまり納品の翌日、1月14日、神戸市灘区の神戸大学キャンパスで行われた大学慰霊祭の時だった。   
 堀内は、それまで「他人が作ったマップに自分の家族の慰霊碑の所在地が示されることが、遺族の感情を逆なでしないか」と気遣っていた。  
 しかし、この日慰霊祭に参加した兵庫県伊丹市の白木利周さん、朋子さんに出会い、マップを手渡したことでそのおそれは消えていった。  白木さん夫婦は、神戸市東灘区の自宅で長男、健介さん(当時21歳)を亡くした。この日朝のラジオ放送で、慰霊祭のことを知り、仕事を休んで急きょかけつけた。 堀内さんはおそるおそる白木さん夫婦に「マップ」を手渡した。    
 白木さん夫婦は、多くのモニュメント地点が載ったマップを見ながら「こんなにたくさんの慰霊碑があるんですか」と驚き、やがて「これまでは、息子の死しか考えることができなかった。しかし、マップを見て息子のことだけでなく他の遺族、被災者のことに思いを馳せることができるようになった」と話した。   
 そののち、白木さん夫婦は、4月から本格的に始まった交流ウオークに欠かさず参加し、やがて  
 「僕の息子の名前は歴史に刻まれました。歴史に名を残すって大変なことですね。私の名前はまだ残りません」  
 と、利周さんがあいさつするまでになった。  
 遺族にとって、家族という「プライベートな死」を、「みんなの死」として考えるようになる。その道筋が示された。   
 震災モニュメントとマップは、震災の記憶の風化を食い止めるだけでなく、遺族の悲しみを乗りこえる力ともなりうる。そんなことを予感させる白木さん夫婦の"変身"だった。  
 その3日後、震災4年の日に行われたウオークは、兵庫県芦屋市から神戸市中央区まで約15キロの間にある中野南公園(神戸市東灘区本山南町)など8カ所の慰霊碑を訪ねて行われた。   
 そのため、「がんばろう!!神戸」のメンバーの中でマップ配布場所である神戸市東遊園地内の特設ブースに動員できる人が少なくなり、マップ調査を担った毎日新聞社記者が急きょ配置され、横浜市から来たボランティアの若者とともにマップを配る余波もあった。ちょうど日曜日だったのが幸いして記者たちが「マップ」の手渡し人となって昼から夜まで詰め、カンパに1000円札を数枚出す人もいて、この日だけで4万円強が集まり感激させた。   
 このウオークで、まず園児6人が犠牲になった兵庫県芦屋市の精道保育所を訪ね保母、保護者の共同作業で建立された慰霊碑「祈」の前で、佐藤うめ子所長が説明した。    
 こわかったね    
 いたかったね  
 さむかったね    
 もうだいじょうぶだよ  
 などと刻まれた碑を見ながら、佐藤所長は   
 「子供を亡くした親、保母の精神的ショックはいまだに大きいが、多くの人が訪ねて下さり、私たちも勇気づけられた」 と話した。   
 1987年から3年間、同保育所に勤務した錦織志津子さん=松江市古志原町=は   
 「教え子が犠牲になった同僚のショックを考えると被災地に来る決心がつかなかった。ウオークに参加して先輩の保母や当時の保護者にも再会できました。マップが人の輪を広げるきっかけになれば」  と笑顔で話した。    
 「宝島池公園」のある神戸市東灘区本庄町1、深江北町1、2丁目でつくる「繁栄自治会」は160世帯のほとんどが全半壊し、97人の犠牲者を出した。 この宝島池公園の慰霊碑の前では、自治会の8人が準備した温かい甘酒が振る舞われ、被災者にとっては、震災直後の支え合った日々がよみがえった。
 自治会役員の市原聡美さんは   
 「新築、再建されても、仮設住宅などに避難した一人暮らしのお年寄りが帰って来られない状況。それでも慰霊碑建立で、通りがかりの親子連れが手を合わせてくれるなど、コミュニティの輪が広がっている」 と話した。   
 堀内代表は 「地域の人と交流しながら歩けたことで、あの日の体験を語り継ぐことの大切さを改めてかみしめた。被災地の人たちが当時の経験を語り始めていることに感動した」 と話していた。 
 『震災の語り部』構想はこうしたウオークの積み重ねから生まれていった。    
 ウオークはこの後、4月から本格化し、6月、7月と行われ、3回で延べ500人弱が参加し、催しとして定着した。  
 「こうして歩くこと自体が慰霊祭ですね」   
 という声も聞かれた。  
 毎回、交流会が持たれ「生き残った者たち自身のためにモニュメントを手作りしたい」というアイデアがここから生まれてきた。  
 作成委員会主催のウオークだけではない。 
 神戸のサイクリング愛好者で作る「神戸市民自転車同好会」は「サイクリングで震災モニュメントを訪ねて」という企画に沿って仲間でサイクリングし、それをレポートにまとめた。   
 パーソナリティ、西條遊児さんは、自ら慰霊碑を巡り、ラジオ関西で「慰霊碑巡礼」という番組を持つほか、旬刊紙で「震災慰霊碑巡礼」の連載を続けている。   
 毎日新聞は、99年1月から、神戸、阪神、大阪版で震災モニュメントの成り立ちを探り紹介する連載「1・17を歩く」を毎週1回掲載しつづけている。年末までで約40のモニュメントを紹介する。いずれもホームページにも掲載されている。   
 神戸市長田区の「ポケットパーク」にお地蔵さんを寄贈した「大阪仏教ボランティア」は、震災5年に独自に「慰霊碑巡り」の準備を進めている。地蔵盆の時に踊る「盆踊り」の歌まで作詞した。
ペンのマーク  4 企業と官庁、大学…「産官学」で支える態勢 
 そんな中、地元の神戸大学が震災モニュメントを研究の対象に乗り出すことを決めた。同大学の大学院生(社会学専攻)、今井信雄氏が4月17日の第1回モニュメント交流ウオークに参加したことから生まれた研究だ。 
 震災復興の中で震災モニュメントをどう位置づけるか、はアカデミズムから出てくるのではなく、運動の側から出していくべきものかも知れない。  
 しかし、こうした大学からの研究がでてきたことに刺激されて震災モニュメントの意義付けや役割を運動体としてどう発信していくかということを求められたのも事実だった。
 これで「産官学の態勢が整った」という自負も芽生えた。  
 震災モニュメントとは何だろうか?改めて問うてみよう。  
 このことは、初期の「マップ」作りのなかで明確に定義されていたわけではなかった。調査メンバーは毎日新聞記者でもあったが、その主観で「震災モニュメント」から外れたものもあった。以前からあったものを移設しただけ、死者を偲ぶという色合いが乏しい…などを理由にして。   震災モニュメントの再定義を求められたのは、モニュメントが100カ所を超えそうだという事態に直面して、毎日新聞の山崎と堀内が、 「きちんと再定義しないと作業が前に進まない」 という実務者としての危機感も強かった。
 この再定義で、 震災モニュメントとは、 そのものを通じて、震災を語り継ごうという意思を表明したものであって、  
 具体的には
 1、パブリックスペース(例えば公園、学校、道路など)にあるか、プライベートスペース(例えば寺、神社、墓地、個人宅など)にあっても、一般の人が見たり、参ったりできる形になっていること
 2、モニュメントは形を問わない。立体であっても平面的であっても植物であっても可とする
 3、「震災を語り継ぐ意思」をそのモニュメント上か、近接した説明板などで説明してあることが望ましいが、それがない場合でも作成者において語り継ごうという意思があれば震災モニュメントとみなしたい。その場合、マップ作成委員会としてその説明を何らかの形で明らかにするよう求めることもある という3つの条件を決めた。    
 神戸大の大学院生、今井信雄さんはこの再定義を受けて  
 「モニュメントの定義を広くとっておいて、あとでいろいろな方向や傾向を考えていくというやり方だ」と好意的に評した。   
 こうした研究者との会話は、「震災ウオーク」など運動を深化させるのに役立った。  
 例えば、「プライベートな死」とそれに対する「公の死」ということ。   
 遺族にとって、我が子、我が親、我が配偶者の死はあくまでも「プライベートな死」である。それが、他人の死を意識することによって我が家族の死を「公の死」へと意識が変化していく。そのことによって遺族は悲しみを乗りこえることができる。   
 しかし、震災においてその「公の死」としての位置づけが遺族を抑圧することはないのだろうかという難しい疑問が示された。戦死した人たちを「公の死」と位置づけたかつてのように、「公」が「私」を抑圧しないか、という視点である。  
 堀内や山崎は、「公の死」という考え方の中に「(官に位置づけられる)官の死」と、それとは違う「みんなの死」という考え方があるのではないか、という意見を伝えた。「プライベートな死」から「みんなの死」へ、という観点の導入である。  
 今井さんは「この『みんな』という言葉はなかなか生活実感に根ざしていてリアリティがあるし、言葉それ自体の力もある。『みんなの死を、みんなで語り継ごうよ』という視点がいろんなところに届くならば、遺族を抑圧することなくすむのかも知れない」と評した。  
 もっとも、運動を担う立場からすれば、「運動が遺族を抑圧するかどうかは、運動をしてみなければ分からない」のである。 
 「震災モニュメントマップ」作りから始まったこの運動が後戻りできない局面に入りつつあることも実感させられた。   
 一方、神戸大学の研究者有志による「震災研究会」の世話人として、震災モニュメントの歴史的、社会文化的意味を探る調査研究を進めている岩崎信彦・神戸大教授は毎日新聞への寄稿で以下のような内容を語っている。  

 人間社会には、「悲しみ」「苦しみ」を「忘れたい」という気持ちと、「忘れてはならない」という思いとが相反しながら共存している。碑はそのバランスを取るための「装置」であるとも言える。碑には、死者の思い出の幾分かを「預かってくれる」働きもあるからだ。   
 遺族にとっても、生きていく上は、失った人のことを思い続ける状態から、いつかは抜け出さなければならないが、そのためには、まず十分に悲しむことができなければならない。パブリックな空間である碑の前では、何度も「あの日」に立ち戻り、みんなで祈ることによって、遺族だけでは抱えきれない悲しみを分かち合える。そして、死者に「安らかに眠って下さい。私たちは懸命に生きています」と呼びかけることから、未来に向け立ち直る力は生まれるのではないか。   
 阪神大震災についていえば、モニュメントの多さは、「心のつながり」を求める被災地の空気と無縁ではない、と思われる。一人一人の死を、遺族の体験だけで終わらせず、共通体験としながら新しい時代をつくっていきたい。そんな無言の意思が広がっているのではないか。
ペンのマーク
5、 55カ所掲載した「モニュメントマップ」10万部発行。6カ月で増刷。そしてモニュメントは100カ所を超えた
 初版の「マップ」は10万部発行され、協賛企業の兵庫県タクシー協会に3万部、NTT関西支社(現NTT西日本)、兵庫県、神戸市に各1万部、NTTドコモ関西に5000部、JR西日本、阪急電鉄、阪神電鉄に各1000部などが渡され、駅や、ショップ、支店の窓口に置かれた。
 学校現場へは、神戸市教委、兵庫県教委を通じて届けられた。また毎日新聞や、神戸新聞、産経新聞を読んだ読者から「マップを欲しい」という申し出が、北は青森県から南は高知県まで事務局に寄せられ、京都府亀岡市の亀岡小学校では1月16日に震災学習をするため急きょ送られた。
 学校現場で使うのは基本的に無償で送り、企業などにはカンパを依頼して次のマップ作成のために残す仕組みにしている。(99年7月現在で、収入は大口約307万円、個人約57万円の計370万円、うち最初のマップ作成に使うなどし、残り109万円を次のマップ作成のため残している) マップ郵送と同時にA4判の「忘れない あの日 あの時 そして今」とする紙を渡し「あなたにとっての、阪神淡路大震災、そして今の思いをお書きください」と郵送かファクスで感想を書いてくれるよう呼びかけた。
 被災者にとっての「あの日 あの時」は10日間のうちに団体25件を含む140件がファクスや郵送されてきた。7月段階では1000件を超え、反響の大きさを示している。
 一人ひとりの被災者が書いてくる以外に「マップを手に家族そろってウオークを」と校長が呼びかけた学校だより(西宮市立神原小学校)や、震災当時小学校2年生だった淡路郡家小学校6年生たちの感想文、震災当時小学校6年生だった兵庫県立和田山商業高校1年生の「思い」など学校教育の場で教材として使われつつあることを物語っている。
 2月に開設したホームページ「震災モニュメントマップ」には、「マップを下さい。私も、当時六甲に居りまして、震災を眼のあたりにしたものです。この経験を、人生の大きな糧として、・・と思っております」などという電子メールが寄せられている。ホームページへのアクセスは2000件を超えている。
 東京都でも教育庁が6月に全区市町村指導主事の会議で、マップを渡し、「修学旅行に神戸に行くときは、このマップを参考に」と神戸市教委の震災学習センターの利用を呼びかけた。
 こうして初版10万部の「マップ」は、半年たたないうちに配り終えてしまい、「新たに判を作って刷るか、そのまま再版するか」を検討した結果、既にこの時点でモニュメントが80カ所を超えたことが分かり、このまま新しいマップを作っても3版、4版と追加しなければならない可能性が強くなったため最初の判を2万部増刷した。
 同時に年末に向け、新しい「震災5年版」を作ることを決めた。 それにしても新しい判明した50カ所にのぼるモニュメントを調べ直さないことには、と事務局の「がんばろう!!神戸」と、スタッフである毎日新聞の記者たちは再調査することにした。徳永さんも9月に神戸・三宮の「フェニックスプラザ」で再び写真展を開くことになり、再度調査を始めていたため、徳永さんの資料も受けてそのモニュメントを管理している人、団体に掲載の了解を求める作業に取りかかった。ウオークの参加者である神戸市東灘区魚崎南町の上西勇さんは各地を歩き、慰霊碑を見つけては、事務局に連絡する「市民調査マン」となった。
 「モニュメントの条件」は、先に堀内と山崎が合意した
1、パブリックスペース(例えば公園、学校、道路など)にあるか、プライベートスペース(例えば寺、神社、墓地など)にあっても、一般の人が見たり、参ることができる。
2、モニュメントは形を問わない。立体でも平面的でも植物であっても可。
3、「震災を語り継ぐ意思」をそのモニュメント上か、近接した説明板などで説明してあることが望ましいが、それがない場合でも作成者において語り継ごうという意思があれば震災モニュメントとみなす。 の3条件に沿って行い、その結果105カ所となった。
 モニュメントマップ運動を始めたころ、話していた「西国88か寺」と同数まで増えるかどうか、と言っていたその数をあっという間に超えてしまった。
 事務局にはこのほかにもモニュメント情報が届いているのだが、まだ了解をためらっている人、団体も残っているのである。 105カ所の情報については、ホームページで公開すると同時に、毎日新聞の7月17日付特集にも載った。 1月の時にはホームページ開設前で公開する方法に困ったが、インターネットを使うことにより特定のメディアが情報を独占せずにすんだ。「105」の数字は、「マップ作成委員会の調べ」として7月17日朝日新聞夕刊、8月7日産経新聞朝刊などにも掲載され「市民権」を得た数字となった。

 105カ所のうち、モニュメントを建てた主体を調べてみると、
神社・寺・教会など18
民間団体17
行政・公団単独、または民間と共同16
小学校16
自治会・財産区など12
中学校8
高等学校6 会社4
大学3
個人2
保育園・幼稚園2
専門学校など 1
 詳しい分析は研究者に任せるとして、慰霊碑、追悼碑という性格上、神社・寺・教会の多さは当然といっていいだろう。民間団体というのはライオンズクラブや、震災を期に作られた建立のための実行委員会、テント村自治会、友好協会など。自治体など行政機関も単独で建てようとするより、土地を無償貸与して管理を自治会などに任せるケースが多い。小学校や中学校などに建つ例は、震災教育の一環としても役立てるねらいがあると言える。
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6 被災者同士の交流の場としての交流ウオーク。遺族が「語り部」になり、「癒しの場」にもなったウオーク
 「モニュメントマップ」の使い道として最初に手がけられた「交流ウオーク」には、協賛を依頼した鉄道会社がバックアップした。4月、6月のウオークはJR西日本の駅に集まって行われた。
 このため事前にJR神戸駅長と相談を繰り返し、駅前に受付用の机を用意すること、掲示用に事務局が作った「チラシ」を最寄り駅の掲示板に貼ってもらうことになった。 JRには「駅ウオーク」という駅長主催の営業イベントがあるが、
 「震災ウオークは営業用のイベントにはなじまない。一歩退いた手作りイベントのような扱いをしたい。いずれにせよ、協賛した以上、カネも口も出しますよ」(森長勝朗・JR西日本広報室長)
 という力強い言葉で、当日は土曜日にもかかわらず、ウオークの行われた駅周辺に周辺駅の駅長全員が出勤し参加者を驚かせた。
 また7月のウオークは阪急の駅に集合して行われ、阪急電鉄でもJRと同じように駅に机などを用意し、駅の掲示板に「震災ウオーク」の手作りチラシを貼って協力した。管区駅長である夙川ステーションマスターも集合駅であいさつしてくれた。
 震災5年にあたる2000年1月17日には被災者による、被災者のための、被災地における大きなイベントとして定着していく態勢を整えたことになる。
 電鉄会社では、震災モニュメントが駅近くに多くある駅を中心に、駅前に手作りの掲示板などを作り、「駅と震災モニュメント」をより身近なものにしようという機運が盛り上がっている。
 このウオークのねらいは、1月17日に開かれたウオークをもとにして決められた。
 1、「見ず知らずの人が自分の子供たちのところにお参りしてくれる」という遺族たちと被災者、遺族同士の交流の場にする。遺族たちの心を開く場にする。
 2、被災場所の異なる人たち同士が、お互いの体験を交流し、震災の経験を共有し語り継いでいく。
 3、被災者同士が話し合う場を提供することによって、被災者による震災復興のきっかけを作る。 の主に3つだった。  
 中でも、遺族たちが心を開き、声を上げ始めたことは、震災復興の大きな成果となった。 堀内が、遺族として最初に接触した白木朋子さん=兵庫県伊丹市、大学生健介さんの母=は
 「私は、当事者でありながら、自分の息子のこと以外何も見ていない、聞いていない、言っていないということがよくわかりました。神戸へ嫁いでから23年間神戸で暮らし、もう神戸だい好き、大満足で、プライドを持っておりました。神戸がこんなになってしまった悲しさは…」
 と言う。
 同時に「見ず知らずの人たちが自分の子供のところにお参りしてくれる」その何とも形容しがたい喜びも大きく膨らんでくるということも素直に語るのだった。 夫の利周さんとともに、「マップ」の(当時)55あった慰霊碑のポイントを見て「亡くなったのはうちの子だけじゃないんだ」と言う実感が、「自分の子の死」だけではない「みんなの死」に目を開くきっかけになったという。
 「あの日(95年1月17日)、テレビを(住んでいる兵庫県豊岡市で)見ながら一日中、電話をかけました。なんとか無事を確かめたくて」と振り返る豊岡市の足立朝子さん夫婦は6月のウオーク以降、毎回のウオークに神戸に駆けつけている。
 震災2日後、運び出された息子夫婦は「手の届かないところに旅だっていました」。
 6月のウオークのあとの手紙で「偶然、神戸の嫁(長男の妻)のお母さんにも会え、ご一緒できたり、同じような思いをされた方たちともお話できることができ、とても元気をいただいたようです」と事務局に手紙を寄せている。

 慰霊碑に 母は 元気と 吾子に告ぐ

 こんな思いを手紙で寄せたのは、娘夫婦を震災で亡くした兵庫県川西市の石黒静枝さんだった。
 「今日は泣いていいんだよ、と言って下さり、私の気持ちは今までにない安らぎを感じました。今までは人様の前では涙を流すのを必死にこらえて参りました。(中略)モニュメントウオークも、お一人でもお二人でも多くの方にご参加をいただき大きな輪になり、亡くなられた方々のためにご供養をしていただければ…」
 と結んだ。
 ウオークに、遺族の人たちの参加者がどんどん増えていっている。毎回のウオークの参加者は大体150人から100人。その3分の1は、毎回同じメンバーとみられ、3分の2が毎回新しいメンバーになっているが遺族はもう10組を超えた。
 自らの心の中に閉じこもりがちな遺族の心を開かせるのはなぜだろうか、そして被災地の外からも参加する人が出てくるのはなぜだろうか。
 その心のうちを、堀内は
 「自分の子供たちが亡くなった、その地点を地図の中で見ていると、知らず知らずのうちに他の子供たちのこと、他の遺族のことが思い起こされてくるのではないか。また非被災地の人たちにとっては『え、こんなに亡くなった人たちを悼む碑がこんなにあるんですか』という驚きが原点だ」
 と分析する。
 堀内は、また運動を進める立場からこうも言う。
 「マイナスのエネルギーが多い人ほど、それがプラスに転化した時のエネルギーは大きい。それを引き出すことが、われわれのすべき仕事ではないだろうか」
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7 慰霊祭の主体になるマップ作成委員会。そしてこれから。
 モニュメントマップ作成委員会が正式な会議をしたのは、今年1月末の一度しかない。あとは事務局レベルでの打ち合わせ、具体的には堀内と調査を担当している記者や市民たち、ウオークなど事務的な詰めをする「がんばろう!!神戸」のメンバーたち、その周辺で毎回ウオークに来てくれる市民たち同士の話し合いに負っているのが震災モニュメント運動の実際の姿である。  
 協賛企業との話し合いや行政、特に神戸市の市民局市民活動支援課の人たちとは綿密な打ち合わせは欠かしてはいない。そうした人たちも企業人、行政マンというよりも「情熱的ボランティア」としてこの運動に加わっているという色彩が濃い。  
 震災4年半(99年7月)を経て、この震災モニュメント運動もやがて1年を超えようとしている。  震災モニュメント。その数と訴えかける「こころ」への驚きから「これこそ震災復興として取り組みべき最大の柱」という檄に背中を押されて運動が深く、広くなり、「震災モニュメントマップ」作成、それを使った震災学習の勧め、被災者同士の交流と遺族の参加を促した「震災モニュメント交流ウオーク」と、それぞれ成果を出してきた。  
 おそらく、この震災モニュメント運動が、「阪神大震災復興」を担う大きな支えの柱となっていくだろう。さらに今後日本のどこかで大規模な震災が起きたとき、その先例となる運動をこの震災モニュメント運動が形作っていることも確かだろうと思われる。  
 今後、この震災モニュメント運動が担おうとしている運動は、

1、 神戸市主催だった「神戸市震災慰霊祭」(1月17日)を2001年から「震災モニュメントマップ作成委員会」と「神戸に灯を!1.17実行委員会」とともに担うことになる。2000年から始めようというウオーク参加者、遺族らの声もある。市長は実行委員会の一員として加わる形をとる。遺族たちも実行委メンバーになり、「1.17宣言」などを起草する。

2、 2000年1月までに新しい「震災モニュメントマップ」を印刷発行、さらにマップの媒体価値を高め、ウオークなどの運動を広める。来年度以降、さらに小、中学校の校外学習や修学旅行への利用を呼びかける。

3、 震災を伝え、残すため、遺族はじめ震災を契機に全国、全世界から神戸に集まったボランティアの人々が個々の思いをこめて「生き残った者のためのモニュメント」を作る。2001年は国際ボランティア年でもある。 モニュメントは天空に向かって積み上げるケルン方式などを考える。その前で語らいができ、たたずむだけで心が洗われるような場所にしたい。

4、 100を超えるモニュメントの管理運営に当たっている遺族、自治会、学校の先生らを「震災語り部」となるよう呼びかけ、育成にもあたる。10を超えるウオーク参加者の遺族から「ぜひ私たちが語り部になりたい」と既に申し出ている。   「ヒロシマ」「ナガサキ」では、既に「語り部」たちが多数いるが、「震災語り部」は、行政や企業が介在しない「マップ作成委員会」のようなボランティア的組織が組織化することが21世紀の<NPO社会>にはふさわしい。

5、 100を超えた震災モニュメントについて紹介した「1・17を歩く」の出版を毎日新聞社震災取材班が計画しており、出版を生かして全国への周知を図る。神戸新聞社も別の趣旨でモニュメントについての出版を考えており、あわせて震災モニュメントについての理解に役立てる。テレビ局ともタイアップして震災5年を中心に「震災モニュメントマップ」「ウオーク」についての番組作りに協力する。
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