音符のライン
阪神大震災モニュメントマップ
音符のライン

兵庫県西宮市
(番号は「2000年版震災モニュメントマップ」と同じ番号です)
15   瓦木中学校/モニュメント「日時計」    西宮市薬師町4
瓦木中学校のモニュメント日時計 震災で2年生2人と2年生1人が亡くなった。いずれも、女子生徒だった。「彼女らの思い出を形に残そう」。モニュメントづくりの話が、1995年春に具体化した。着任後すぐに携わったのが美術科の青山登教諭。「可能性も夢もある生徒の死は、やはりショックでした。あの5時46分を忘れないため、そして永遠に生きる命の象徴として、太陽がある限り時を刻む日時計しかないと思ったんです」。
青山教諭の知人で空間造形の専門家、粕田光男さんが、三角形に3本のペンがついた校章から考案した。土台の三角形の角には3人の魂を象徴する球が置かれ、ステンレス製の時計盤には「5時46分」を示す場所が記されている。時計盤の上には3人の名と当時の校長の追悼文「十有五その人生は短かけれど 受けし慈愛は誰にも劣らじ」を刻んだ石盤も埋め込まれた。
 当時、校務員をしていた奥秀利さんも加わり、土台のコンクリ−トの型枠作りからすべて手作業で製作した。柔道部の生徒がセメント練りを手伝う姿もあった。「鳥の日時計」と名付けられたモニュメントは、7月に完成。その前で改めて追悼式が行われた。
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16   甲陵中学校/ブロンズ像「翔」(はばたき)   西宮市上甲東園2
甲陵中のモニュメント 校舎2棟が全壊したほか、校区内の仁川百合野町で起きた大規模な地滑りで34人の命が奪われた。
 残された校舎の一部は避難所となり、ピーク時には約600人が寝泊まりした。震災前には訪問客を迎えていた玄関ホールは犠牲者の遺体安置所に。美術を教える福田晴美教諭は「ホールに漂っていた線香のにおい、寄り添う遺族の姿が今でもよみがえる」と話す。全壊した校舎に代わって、正門脇にプレハブの校舎が建てられ、授業が行われた。
 いずれは撤去される臨時校舎の跡地に記念碑を作ろうと声が上がったのは、職員、生徒たちが落ち着きを取り戻し始めた1996年夏のこと。97年に学校が創立50周年を迎えるに当たって震災を語り継ぐものを作ろうという当時の校長の発案だった。
 男女の生徒が寄り添うように立つブロンズ像「翔(はばたき)」の碑は、現在庭園となっているプレハブ校舎跡地の真ん中に立つ。デザインは福田教諭と同僚の坂本純子教諭が担当。「未来に向かって生きていこう。だけど、過去のことも忘れないという気持ち」を表現しようと、男子生徒が前方を指差し、顔は後ろを振り返る動作。目線の先には寄り添うように立つ女子生徒がいる。腕にとまるハトには「平和への願いを込めた」。
 台座の正面に「翔」の一文字。裏面には、震災で犠牲になった5人の生徒の名とともに碑文が刻まれている。
 「友を、教え子を失った悲しみは私たちの心からいつまでも消え去ることはないだろう。けれども私たちはこの災害の中で知ることのできた人間の強さを信じ、人を思いやる心を大切に、犠牲になった人たちの分まで未来に向かって生きていくことを誓う」
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17  高木小学校/復興の鐘    西宮市高木西町17ー57
高木小学校の復興の鐘 カーン、カーン…。毎年1月17日、児童と地域の人たちがひもを引き、中庭の「復興の鐘」を鳴らす。鐘の音は、決まって5つ。津高誠君、新井本龍馬君、柏原雄也君、坂本貴也君、古塚京さん。震災の犠牲となった児童への呼びかけなのだ。
 高さ約2・5メートルのポールの左右に直径30センチの真ちゅうの鐘がつく。伸び行く木の枝にも見える。「5人の慰霊碑であると同時に、震災に負けずに強く生きてほしいという子供への思いを表現したかった」と当時の校長、荒巻勲さん。
 鐘の除幕式は、震災半年後の1995年7月17日、児童や先生、同窓会員、地域の人、そしてまだ体育館で避難生活をしていた人たち計約700人に見守られて行われた。「想像していたより、心にしみ入る音だった」(荒巻さん)という響きは、誰もを「あの日」に導いた。
 1100人もの被災者で体育館や1階の教室はあふれていた。理科室に18体の遺体が安置されていた。
 体育館がまだ避難所だったその3月、卒業式は校庭での「青空卒業式」となった。「迷惑かけたね」。卒業生1人1人に被災者から手作りのちぎり絵の色紙が贈られた。
「人の命のはかなさ。そして強さとやさしさ。子供たちも私たちも身をもって知った」。荒巻さんも目瀬さんも口をそろえる。「あの時の気持ちを忘れないよう、いつまでも鐘の音を響かせていきたい」。
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18  後呂和裁学院/慰霊碑   西宮市津門大箇町9
後呂(うしろ)和裁学院の慰霊碑写真後呂(うしろ)和裁学院の地図国道2号線沿いに建つ「後呂和裁学院」は1950年に開校した職業訓練校。校舎から15メートルほど南に「慰霊碑」がある。光沢ある御影石。高さは約1・7メートル。喧噪を避けてたたずんでいる。
 近くにあった木造2階建ての同学院の寮が倒壊。1階に住んでいた生徒2人が亡くなった。慰霊碑の裏には2人の名が刻まれている。安藤由加里さん=香川県善通寺市出身=と宮脇純さん=兵庫県新宮町出身=。ともに当時20歳だった。
 校舎には壁のひび割れなども目立つ。同学院は4年制または5年制。学院長の後呂敏雄さんは「もう震災を知る生徒はほとんどいません。早いもんです」。亡くなった宮脇さんは、成人の日をはさんだ3連休を終え、前夜に実家から寮へ戻ったばかりのところで被災した。安藤さんはおとなしいタイプで、人一倍まじめに和裁に取り組んでいたという。震災は、2人のすべてを押しつぶした。
 同学院を卒業し、現在は生徒の指導にあたる浦野美穂さんは2人を知る数少ない後輩。「震災を私たちが伝えていかないと慰霊碑もただの石になってしまう」。そんな思いを継ぎ、震災を知らない新しい後輩たちが慰霊碑の清掃を交代で続ける。
毎年1月17日や2人の誕生日には各地から大勢の同級生が慰霊碑前に集まる。
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19  津門小学校/記念碑    西宮市津門呉羽町5
津門小学校の碑 北門を入るとすぐ右手に、3メートル近いクスノキが2本植わっている。その木陰に、碑はでんと据えられている。 形も銘文もいたって簡潔。四角い御影石(縦約1メートル、横約1・2メートル、厚さ約30センチ)の表に「1995年1月17日 阪神大震災記念碑」。裏に「全壊1949戸 半壊1326戸 犠牲者36人」。校区の11町約5400世帯(当時)が受けた傷の記録だ。
「地域の子供たちにいつまでも、折に触れて震災のことを考えてもらいたい。だから小学校の校庭に、被害状況をきちんとした数字で残すことにしたんです」と、西宮市津門社会福祉協議会の会長を務める細谷正さんは話す。碑は、町の再建が一段落着いた1997年夏ごろ、社協が地域の人に回覧板で募金を呼びかけ、その11月末に完成した。
 石碑の完成を機に、細谷さんが会長になって「津門地区自主防災会」を結成。各自治会の代表者約80人が「消火班」など6班に分かれて、訓練や講習を重ねる。「自分たちの街は自分たちで守ろう、そんな気持ちが芽生えましたね」。石碑は、地域の再出発の「地点」を示す道しるべでもある。
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20  真砂中学校/カモメのモニュメント    西宮市今津真砂町1
真砂中カモメのモニュメント 「カモメ」のモニュメントは、中庭に建つ。大小二つの三角形の頂点を合わせた形をしている。当時のPTA会長の依頼で、西宮市のモニュメント・デザイナー、粕田光男さんが、大空に飛び立とうとするカモメをイメージして造った。粕田さんは真砂中学の前身の今津中学出身。「学校の前が砂浜だった」という当時の風景を思い浮かべたという。
 全体は白く塗られ、海をイメージさせる青いラインがアクセントで入っている。「やさしさ」「こころざし」「きびしさ」という校訓も書かれている。中央には碑文を刻む金属板と台座があり、離れて正面から見ると、中学校の「中」の文字に見える。
 学校の被害は比較的小さかったが、体育館が救援物資の集積場所になった。当時の生徒会のメンバーが全員で考えたという碑文は、こんな温かい文章。
 《失ったものも多かったけれど、大切なこともたくさん学んだ/人は一人では生きていけない/一人の力だけでは生きていけない/誰かを助け、誰かに助けられて生きていくものだと/一つの生命の大きさを、人々の心のあたたかさを、人を思いやれる自分自身の心を、忘れないでいたい。》
 支援した北海道 新冠中学校、千葉県 那須中学校、千代田中学校、岩手県 松園中学校、ニューヨーク日本人学校への感謝のことばも書かれている。
 碑文の金属板と台座は、当時の校長の友人だった北海道・新冠(にいかっぷ)中学校校長が生徒に呼びかけて集めた義援金で、震災1年後の1996年1月に作られ、「カモメ」はその夏に完成した。
 毎年1月17日、「震災を振り返る会」が開かれている。
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21  仁川地滑り資料館/犠牲者の碑  西宮市仁川百合野町10
仁川地滑り資料館横慰霊碑の地図地滑り資料館横の慰霊碑写真 西宮・仁川渓谷の高台の一角。木洩れ日の中、黒御影石の慰霊碑がたたずんでいる。鳥のさえずり、川のせせらぎ。斜面のいたる所に施された地すべり防止のネット状のコンクリートブロックが目に入らなければ、あの日、土砂が34人の命を飲み込んだことを忘れてしまいそうだ。
 地震発生と同時に、仁川の右岸斜面が幅100メートル、長さ100メートルにわたり崩壊し、約10万立方メートルの土砂が家屋13戸を押しつぶし、34人の命が失われた。
 白御影石の台座に、「やすらかに」と刻まれた黒御影石が置かれている。犠牲者の出た仁川百合野町自治会と仁川六丁目自治会が1997年7月に建立。震災1周年に開かれた現地慰霊式で碑の建立を決めたが、周囲は地滑り防止工事が続いていたため場所が定まらず、完成まで、約1年半を待った。
 慰霊碑の中に、34人の名前が刻まれた銘板が納められている。
建立に携わった仁川百合野町自治会の元役員は「34人の方への思いを込めました」と話す。慰霊碑自体に名前を刻む話もあったが、遺族の中から「慰霊碑に来るたびに、名前を見るのは悲しい」という声があり、見送られた。
 刻まれた言葉の「やすらかに」は、自治会で会員から募集し決めた。
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                           ◆   ◆                      
 「犠牲者の碑」横の「仁川百合野町地すべり資料館」は、97年11月に開館した。2階は復旧工事などを紹介する展示室、1階には学習ルームがある。月・木休館。開館時間午前10時〜午後4時。
電話0798・51・5904。
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22 かぶとやま荘/3つの石組み「追悼・友愛・感謝」  西宮市越水社家郷山1の97
かぶとやま荘かぶとやま荘の慰霊碑の写真 甲山や大阪湾を見下ろす高台にある温泉やゲートボール場などを備えた無料保養施設、西宮市社会福祉センター「かぶとやま荘」。
 その玄関わきに「阪神淡路大震災復興記念碑」が建てられたのは、震災から3年近くたった1997年12月。除幕式には、西宮市老人クラブ連合会(武田一郎会長)と共同で碑を建立した秋田県老人クラブ連合会のメンバー約40人の姿があった。
 両連合会の交流は震災直後の95年2月に始まった。被災地の惨状を知った秋田県老連のメンバーが、他県の老人クラブ有志とともに、西宮市老連を激励に訪れたのがきっかけだった。翌月からは救援物資のほか、心の支援のための「友愛の手紙」計約250通を届けた。
 さらに、秋田県老連の呼びかけで、96年1月には、単位組織を含む10団体が「姉妹老人クラブ」として提携し、交流が本格化した。仮設住宅に住む被災者が秋田県でホームステイする試みも行われた。
 碑の建立も秋田県老連が提唱した。高さ2・3メートルの秋田県産の男鹿石に、「追悼」「友愛」「感謝」の文字。西宮市老連会員の犠牲者約300人を悼むとともに、秋田・西宮の友情のきずなを記念し、全国から寄せられた支援への感謝を表す。碑が縦に三つに分かれているのは、親、子、孫3世代が力を合わせ復興に歩もうとの願いを込めてのものだ。
 武田会長は「碑を造るなんて、考えもつかなかった。よく気が付いてくれたと感謝しています」と話し、斉藤秀樹・秋田県老連事務局長は「活動を振り返る碑であり、明日への希望の碑であり、両県市のシンボルの碑です」と力を込める。

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23  上ケ原中学校/夢刻塔と壁画   西宮市上ケ原九番町2の107
上ケ原中学校の地図西宮市立上ケ原中学校の校庭に立つ「夢刻塔」上ケ原中学校のモニュメント写真右の写真=は、幅、奥行き各50センチ、高さ6・95メートル。地名と最上部の時計をもじって、「うえッチ」の愛称で呼ばれる。玄関ホールにある縦2・6メートル、横8メートル壁画「しぜんのなかで」=下の写真=を制作した宝塚市の画家、元永定正さんがデザインした。
 塔の名は、生徒がつけた。つらくても夢を持とう。つらいときだからこそ、夢を忘れまい。壁画は復興のあかしだ。景観に映える校舎ができた97年、相次いで完成した。
 真新しい校舎は、隅々にまで掃除の手が行き届いている。「他人のことを思いやり、身の回りをきれいにしようという生徒の気持ちの表れ。『あのとき』からですよ」と北野登校長。被災当時は教頭として、学校再建に奔走した。
上が原中学校のモニュメントのうちのひとつ旧校舎は激しい揺れで5分の4が損壊した。生徒に犠牲者はなかったものの、その家族計6人が命を失った。破損が軽微だった1棟を教室に、午前と午後の二部授業でしのぎ、隣の大社中や関西学院の教室も借りた。避難所となった体育館には、約300人の被災者。「学校は、何もかもなくなってしまった」(当時の卒業生の答辞)
 その後、プレハブ校舎で2年。不自由な学校生活だったが、生徒が助け合うようになった。掃除は丁寧に。2階廊下を歩くときは静かに。被災地に共通して醸しだされた「やさしさ」が、この学校にも広がった。
 99年4月9日の入学式で、北野校長はプレハブ校舎を知らない新入生にこんな言葉を贈った。
 「君たちが小学2年生のときに体験した震災。水、食べ物など多くのものを辛抱しながらも、人に対してやさしくなれました。どうか、あのときの気持ちを過去のものとせず、夢や希望を持って過ごして下さい」
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24 西宮震災記念碑公園/追悼之碑・写真パネル 西宮市奥畑5
 閑静な約4600平方bの広い敷地に、横9・2b、高さ3bの「犠牲者追悼之碑」が建つ。飾りけのない巨大な石碑。西宮市内で亡くなった市民ら1081人の名前が刻まれている。0歳の乳幼児3人(男2人、女1人)と、8カ月の胎児1人も含まれている。遺族の中には「もう忘れたいので」などの理由から、刻名を辞退するケースが60件程あった半面、建立後新たに刻することを求めて来た市民もある。
 馬場順三・西宮市長の「記念碑などは、けばけばしいデザインのものは避け、できるだけシンプルな形で」との意向を受け、市役所内で作成検討委員会を設け、震災3周年の98年1月17日に開園した。
 石碑の周囲には、
「厳寒の暁 地鳴りとともに大地は震え 街を沈めました」で始まる碑文▽「全壊家屋34181世帯、最大時避難者44351人」などと、西宮市内の被災状況を記録した震災記録碑▽被災した建物、避難所や仮設住宅の生活、合同慰霊祭の様子など同時の重苦しい状況を写した記録写真パネルを張り付けた8本の円筒碑が取り囲んでいる。
 シラカシやツバキ、桜などの樹木に覆われた園内は静かな雰囲気に包まれている。
碑文は「安らかにお眠りください/こよなく愛された西宮を/安心して暮らせるまちに/希望に満ちた美しいまちに/再び築き上げることを/お誓いいたします」となっている。
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25  大社小学校/石碑「心やすらかに」    西宮市桜谷町9ー7
 各教室に壁を設けない「オープン・スクール」方式のユニークな校舎が震災に襲われたのは、大正時代に建てられた旧校舎を改築した2年後。建物が新しかったため、校舎の被害はほとんどなかったが、1年生と3年生の児童計3人のほか、校区内に住む88人が犠牲になった。
 松田伸一教頭は着任して2年目。神戸市須磨区の自宅マンションを午前6時過ぎに車で出て、学校に着いたのは約3時間後。体育館は既に避難者であふれていた。長岡富美子校長(当時)と相談し、各教室も避難者に開放した。
 教職員らは当初、生き埋めになった人たちの救助に追われた。避難者に校内放送で呼びかけ、救助活動を手伝ってくれる人を募る。その呼びかけは「避難して来られている皆さん」という言葉で始まっていたが、松田教頭は「他にいい呼び方はないだろうか」と気になっていた。
 そして1週間後、それまで17体の遺体が一時安置されていた会議室で、避難者の班長らを集めてミーティングを開いた。席上、松田教頭は黒板に「大社ファミリー」と書いた。ピーク時に2400人を超えた避難者、全国から数十人が集まったボランティア、そして児童と教職員。「ともに生きていこう」という思いを込めた自主コミュニティーが誕生した瞬間だ。ファミリーは避難所での住民票にあたる登録者票を作成するなど、独自の運営を展開した。
 正面玄関を入ってすぐ、校庭の傍らでケヤキに抱かれて建つ碑には「心やすらかに」の文字と、亡くなった児童の氏名。避難者がボランティアらにお礼として渡した心付け計約50万円を集めて、震災から1年後に建てられた。約7カ月続いた大社ファミリーの象徴でもある。
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26  浜脇中/リンゴの植樹   西宮市宮前町3
浜脇中のリンゴの木 西宮リンゴ並木後援会が、犠牲になった同校生徒6人と同じ数のリンゴの木を校庭に植えた。「あの木はなぜ、ここにあるのでしょう」。初秋、校庭隅の6本のリンゴの実が赤らみ始めるころ、坂東鐡二校長は朝礼で生徒にこう問い掛ける。
 木を植えたのは「西宮リンゴ並木後援会」。事務局長の岩瀬利治さんは1947年、出身地の長野県飯田市で、市街地の約8割が焼ける大火に遭った。人々を励ましたのは、焼け跡に流れる並木路子さんの「リンゴの唄」だった。岩瀬さんらは復興への願いを込めたリンゴ並木の整備を市に提案、採用されて今では観光名所になっている。 
 それから半世紀。西宮で再び大災害を体験した岩瀬さんの胸に「リンゴの唄」がよみがえった。「がれきに花を咲かせよう」。市内の犠牲者の数だけリンゴの木を植え、震災復興の象徴にする運動を思いつき、知人らに呼びかけた。
 95年秋に会を発足。震災から丸1年の96年1月17日、市内の公立小、中学校と幼稚園の亡くなった児童・生徒計56人のために、全国から寄せられた苗木を22校に植えた。夏休みに部活動で登校する生徒が水をまき、翌年、大きな実が実った。
 生徒たちは毎年1月17日、命をつないでくれた場所に感謝するために、近くの公園を清掃する。トルコ、台湾大地震の直後には、「恩返しや」と自主的に募金活動をした。「震災は風化なんかしてない」と坂東校長は確信する。
 6本の木が年に1度実をつける時、ふと由来を思い出し、亡くなった先輩たちの命にそっと心の中で手を合わせてくれれば――。坂東校長は、そう願っている。   
飯田市のリンゴ並木については、ここ
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27 夙川小学校/石碑「心やすらかに」    西宮市久出ケ谷町8
夙川小学校の地図夙川小学校の慰霊碑 阪急夙川駅から徒歩10分。静かな住宅地の中にある。阪神大震災で校区では木造家屋の約8割が全半壊などの被害を受けた。校舎は避難所になり、ピーク時で約1200人が寝起きした。
 現校長の水永道博さんは、当時、教頭。最初の1週間は学校で暮らした。グラウンドや渡り廊下に亀裂が入った。トイレが1日で詰まりプールから水をくんで流すようにしたが、汚水がグラウンドに噴き出した。避難者がひしめきあう中で、どなり声ひとつ聞こえず、学校側の部屋替えの要求もすんなりと受け入れてもらえた整然とした雰囲気が最も記憶に残る。
 「みんなが、非常に優しかった。普段、学校に注文の多い人も黙々と働いていた。バタバタの時、私は、妙に晴れ晴れとした気持ちで、その後、落ち着いてからは、しばらくボーッとしてました」 
 校長だった辻井八代子さんは看護婦の免許を持っていた。インフルエンザが流行し、寝ずの看護をした。4年生の担任だった北本和功さんが思い出すのは、ザラザラした廊下や教室の感触だ。上履きも下履きもなかったからだ。
 碑はグラウンド北東隅にあり、御影石に「心やすらかに」と刻まれている。4年生の姉と1年生の弟。亡くなった2人の児童と校区の55人(児童を含む)の霊を弔う。小学校、PTA、校区震災対策本部が翌年の1月17日に建立した。高い山と低い山がコブのようになっている。姉と弟のようにも見える。ハートのようにも見える。
図工担当教諭の丸谷郁子さんがデザインした。「満月もイメージした」という。 
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28  大手前大/鎮魂碑   西宮市御茶家所町6     
大手前大学の慰霊碑 「鎮魂碑」は、本館玄関の柱の裏に埋め込まれてる。横33センチ、縦24センチの小さな真ちゅう製プレート。阪神大震災でひしゃげた旧校舎のイラストと、犠牲になった2人の女学生の名を刻んでいる。4年生だった岩崎敦子さんと、3年生だった黒田真貴さん。
 1・17は、同校の卒業論文提出日だった。岩崎さんは、その前日、和歌山県に住む両親、祖父母とともに、奈良観光を楽しんでいた。「卒論提出があるから」と夜に下宿へ戻り、被災した。岩崎さんの卒論は、友人が力をあわせ、倒壊した下宿から掘り起こされた。教授会に提出され、卒業が認められた。遺影を抱いた母が一人娘の卒業証書を受け取った。香川県に実家がある黒田さんも、下宿先で亡くなった。快活な性格の娘さんで家族は、震災から1年4カ月後、鎮魂碑の除幕式にそろって出席した。
 本館玄関から続く大手前女子大新校舎の玄関ホールは、4階建てを貫く吹き抜け構造で再建された。壁面の一部にステンドグラスが採用され、柔らかな光が届くようにしている。地元のグラスアーチストが製作した。ほかにも、学園内には震災の記憶と切っても切り離せないものが多数ある。鎮魂碑こそ目立たないが、学園全体がモニュメントであるともいえる。
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29  香櫨園小学校/追悼のプレート「大震災に負けないで」    西宮市中浜町 
甲櫨園小学校のプレート 体育館内に、香櫨園小を巣立っていった児童の名前を年度ごとに刻んだ銅板が飾られている。銅板は1961年の第1回卒業生から連綿と続く伝統になっている。卒業生の思い入れは強く、同窓会などの後に体育館を訪れ、銅板を眺める姿も見られるという。
 阪神大震災があった95年だけは、卒業生の名前の横に、卒業を果たせないままこの世に別れを告げた6人の名前がある。震災で亡くなった児童たちだ。「ともに学び ともに遊んだ香櫨園っ子 阪神大震災の犠牲となる」。6人の名前の横に、そう刻まれている。「震災がなければ、この学校を卒業していた子どもたちへの“卒業証書”です」と田村信道教頭は言う。
 震災当日の日記に6人の児童の名前を書き連ねた後「前途洋々たる6人なり」とあった。2000人を超える被災者が同校に避難、45遺体が運び込まれた。
 日誌を書いたのは震災当時、教頭だった西宮市教委教職員課長の湯浅正己さん。「あの子は銅板に名前が残れへんなあ」。被災者でごった返す同校で、児童の遺族の一人が湯浅さんにつぶやいた。この一言が犠牲になった児童の名前を銅板に刻むきっかけになった。
 毎年1月17日の前後に、同校は体育館で「未来にはばたこう集会」を開き、教諭が児童に震災体験を語り継いでいる。
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