音符のライン
阪神大震災モニュメントマップ
音符のライン

神戸市兵庫区
(番号は「2000年版震災モニュメントマップ」と同じ番号です)
78  久遠寺/慰霊碑 神戸市兵庫区門口町4の5
久遠寺の地図久遠寺の慰霊碑の写真 車の往来が激しい国道2号線とJR山陽線に挟まれた寺の境内に町内などで犠牲になった25人の名前が刻まれた「慰霊碑」が建つ。
 その中に1人の外国人の名前があった。同町でクリーニング店を営む松浦潔さんと妻美佐子さんの自宅にホームステイしていたオーストラリア人のスコット・ネス・マッシュさん(当時24歳)だ。
 スコットさんは中学校の英語講師として来日。松浦さんの長男、誠君(当時16歳)がスコットさんに英語を習い、「ぜひ自宅に」と招いたのだった。
 スコットさんは1994年10月から、松浦さん宅で生活しながら日本語学校に通学。一方、誠君はスコットさんの影響を受け、県立芦屋南高国際文化科に進学して得意な英語を学んだ。あの日、2人は倒壊した自宅の下敷きになり、ともに亡くなった。
 震災では周辺の文化住宅や木造家屋などが軒並み倒壊したが、久遠寺は無事だった。「生き残った人は行政が面倒を見る。亡くなった人たちは寺がその役目をしなければならない」と95年7月、同寺によって建立された碑は、高さ2メートル、幅30センチ。碑には発生日時や発生当時の状況などの説明が書かれてある。
西條さんのコラムに関連記事があります
最寄り駅JR兵庫駅から東へ徒歩10分。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
79 阿弥陀寺/石碑「同入圓寂」 神戸市兵庫区中の島2の3
阿弥陀寺の碑 「同入圓寂」
亡き人は安らかに集っている、の意味の碑文が刻まれている。
浄土宗西山禅林寺派総本山などが建立した。






西條遊児さんのコラムに関連記事があります
最寄り駅JR兵庫駅からバス。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
80  大輪田橋/倒壊した飾り柱を使ったモニュメント 神戸市兵庫区中の島2の3
兵庫大輪田橋の地図大輪田橋のモニュメント1945年3月17日未明、紀淡海峡付近に集結した米軍B29爆撃機が、神戸市上空に侵入した。照明弾の光を目標に投下された焼い弾は3万個を超え、市の西半分を焼き尽くした。「新修神戸市史」によると、被害は死者2700余人、重軽傷者6200余人。神戸市への本格的な無差別じゅうたん爆撃の始まりでもあった。
 神戸一の繁華街だった兵庫区・新開地。その南に広がる住宅密集地から炎を逃れ水を求める人たちの多くが、新川運河にかかる長さ約60メートルの大輪田橋付近で亡くなった。「橋の上を、溶接の火のように炎がはう。そのたびに、右往左往している人影が、少なくなる。衣服を焼かれて、運河へ落ちていくのだ。そこへ、火の粉を巻き込んだ突風――」(「神戸大空襲」神戸空襲を記録する会編)。犠牲者は大輪田橋付近だけで約500人に達したという。
 戦後、街は様変わりしたが、昔の姿で残る石造りのアーチ橋は、地域の人たちにとって、悲惨な体験の象徴となった。そして半世紀。今度は阪神大震災が橋を襲った。
 橋は、両端に立つシンボルの飾り柱や欄干の一部が倒れるなど大きな被害を受けた。本来ならガレキとして処分されるはずだが、橋を愛する地元の人々の要望で近くの薬仙寺が保管。神戸市は昨年10月、損傷の少ない飾り柱1本をモニュメントとして修復した。上部には、戦災と震災のあった冬の星座が4面にあしらわれている。
最寄り駅JR兵庫駅を南東へ。新川運河上。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
81 薬仙寺/大輪田橋の石柱を使ったモニュメント 神戸市兵庫区今出在家町4の1  
薬仙寺のモニュメント 阪神大震災で壊れた大輪田橋の石材が保管されていた寺。損傷の少なかった飾り柱は大輪田橋のモニュメントになったが、残った石材で薬仙寺にもモニュメントが造られた。
 寺には1945年、神戸大空襲で亡くなった犠牲者 の慰霊碑があり、毎年、慰霊祭が行われている。その慰霊碑を手がけた小林陸一郎・京都精華大学教授が、大輪田橋のモニュメントとともにデザインを担当した。 空襲から震災までちょうど50年。
時の経過を表す5段の台座。その上に橋の欄干の一部が並んでいる。土の中にも大輪田橋の石材が埋められている。
最寄り駅JR兵庫駅を南東へ。「清盛塚」を南折。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
82 和田神社/再建復興鳥居 神戸市兵庫区和田宮通3の2の45
和田神社ほかの地図和田神社の写真 平安時代から良港で知られてきた神戸市兵庫区の南部。後に「兵庫津」と呼ばれるようにな海陸要衝の地として栄えてきた。街角には今も、幾度もの戦火と阪神大震災を乗り越えた史跡や文化財が多く残されている。
 JR和田岬駅近くに並ぶのが和田神社と三石神社。
 地元で「和田宮」と呼ばれる和田神社は、正面参道入り口に高さ約11・5メートルの特殊鋼製の鳥居がそびえる。震災前は石製では関西最大の鳥居(高さ約10メートル)だったが、太平洋戦争の空襲でもろくなっていたのか震災で倒れて砕け散ってしまった。
 新しい鳥居の柱の足元には、震災の概要と寄進者名を書いた銅板が取り付けてある。特に目立つわけではないが、奥田伴夫宮司は「遠くから来られる方は、改めて読んでいかれます」と言う。
西條遊児さんのコラムに関連記事があります
最寄り駅JR和田岬駅下車。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
83 三石神社/被災鳥居の記念碑 神戸市兵庫区和田宮通3の2の51
三石神社の鳥居の貫のモニュメント写真  隣接する三石神社では、鳥居の下側の横軸「貫」が落ち、上側の横軸「笠」が「く」の字に曲がった。氏子の寄進で貫だけ新調して修復した。貫の神社側に「復興奉納」などの文字を刻み込んだ。「震災を後世に伝えるために文字を入れました。お参りの帰りに気づき、鳥居に手を合わす方もおられます」と小林友博宮司。
 同じ鳥居の柱には「明治四十一年」などの文字が刻まれている。
輪郭のぼやけた柱の文字と、切れるように新しい貫の文字との対比は、幾多の災禍を乗り越えてきた兵庫津の文化の重みを感じさせる。



西條さんのコラムに関連記事があります
最寄り駅 JR和田岬駅下車。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
84 御崎八幡神社/倒壊鳥居の記念碑 神戸市兵庫区御崎本町1の1の49
三崎八幡神社の新しい鳥居の写真 兵庫運河に掛かる清盛橋を渡ってすぐ右手に御崎八幡神社がある。真新しい石の鳥居は震災後に建て直されたもの。境内の奥に折れた旧鳥居の柱の一部(高さ約1・5メートル)が、「未曾有の大震災を後世に残すが為に建立す」などの文字を新たに刻み、台座に据えつけられている。無残な断面はそれだけで震災の傷の大きさを物語る。

最寄り駅 JR和田岬駅から北西徒歩15分。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
85 クッキー工房マミー(旧神戸母子寮)/お地蔵さん 神戸市兵庫区湊川町10の24
旧神戸母子寮のお地蔵さん旧神戸母子寮の地図 ほほ笑みながら両手を合わせる高さ15センチの陶製のお地蔵さん。その穏やかな表情には、震災で倒壊した神戸母子寮の下敷きになって亡くなった5人を悼む気持ちが込められている。
 神戸母子寮は、戦争で父親を亡くした母子らを一時的に援助する施設として、1935年ごろ神戸市兵庫区湊川町10に建てられた。戦後しばらくしてからは、事故や病気で働き手を失ったり、家を捨てて駆け込んできたりした人たちを預かるようになった。経済的自立や新生活に向けて準備し、いずれは出てゆく場所だが、互いに支え合い大家族として生活していた。
 震災の日。母子33人と職員の阿部久子さん(当時67歳)が暮らす寮は一瞬のうちに木造2階建ての1階部分がつぶれ、10人が生き埋めとなった。午前中に7歳と2歳の子供を含む4人の母子の、午後に、パジャマ姿で電話の受話器を握りしめた阿部さんが遺体で見つかった。
 「揺れた瞬間に『みんな、逃げなさい!』と、阿部さんの叫び声が聞こえたそうです。受話器は、皆のために助けを呼ぼうとしたのか……」。母子寮の再建のために設立された社会福祉法人「神戸福祉会」(兵庫区)の菅原洋一事務局長は話す。
 お地蔵さんは、当時寮にいた小学生2人が、亡くなった5人の供養のため、京都のお寺で粘土をこねて作った。寮の仮移転先の部屋の祭壇で大切にされていたが、寮の跡地に共同作業所「クッキー工房マミー」が建てられた96年8月、同時に作られた小さなほこらに、以前からあった1体と合わせて移された。
 新しい寮は97年4月、約700メートル離れた長田区前原町1に母子生活支援施設「ライオンズファミリーホーム」として再建された。入所者や職員は入れ替わり、震災当時を知る人はほとんどいないが、ホームの談話室には5人の遺影が飾られ、毎月17日には、お地蔵さんに花がささげられる。    
西條遊児さんのコラムに関連記事があります   
最寄り駅神戸市営地下鉄上沢駅から徒歩10分。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
阪神大震災モニュメントマップのホームページに戻る