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レモンのイラスト 震災慰霊碑巡礼 31回〜 
阪神淡路大震災から5年目。あの苦しみと悲しみをいつまでも忘れずに、安心で安全な町づくりの喚起とともに検証のひとつになればと、今回から被災地の慰霊碑や記念碑を訪ねる。レポーターは、本紙客員ライターの西條遊児氏。(神戸市政・兵庫県政情報紙「セルポートKOBE」から)。同社は神戸市中央区中山手通4−22−11 078・242・1161

第1回〜第30回
第61回〜
第31回
神戸市中央区三宮町1
センター街の「讃太陽」
明日への希望祈り



三宮センター街と生田筋の交わる南東角に高さ71センチの少女が両手を広げて立っているブロンズ像がひっそりと立っています。桑原巨守さんの『讃太陽』シリーズの一つだそうで、あの日、ひたすら夜明けを待ち、光を待った時の気持ちがよく表れています。

震災犠牲者の追悼と明日に向かっての希望を祈るということで、震災1年後の1月17日午前5時46分ちょうどに除幕されました。

元町がいち早く営業を始めたのに対し、センター街の被害は甚大で通行止めがしばらく続きました。当時元町へ行ったセンター街の人が「ここから東へ行っても何も売ってませんよ」と言われ、一日も早く店を再開したいと涙を流して悔しがったそうです。

各店とも改築や補修に莫大な費用をかけましたが、98年3月28日のアーケード完成によって名実ともに復興をアピールしました。本来なら4月5日に完成のお披露目だったのですが明石海峡大橋の開通日と重なったため、宣伝効果も考えて急きょ前倒ししをしたという涙ぐましい裏話もあります。

第32回
明石市
明石公園の震災記念碑(本丸跡南)
故ジャイアント馬場氏の協力で


震災で大きな被害を受けた明石城の国指定重要文化財の櫓が5年ぶりに修復されましたが、その櫓の下に「これは」という、神戸の安水稔和さんの詩が刻まれた立派な石碑が建っています。

これはいつかあったこと
これはいつかあること
だからよく記憶すること
だからくり返し記憶すること
このさき
私たちが行きのびるために

この碑は震災から3年後の98年4月に明石ロータリークラブと全日本プロレスリングの協力で建てられました。
夫人の実家が明石にあることから震災の被害を心配したジャイアント馬場さんは、プロレス興行の度に会場に募金箱を置き、毎月のように義兄の所属する明石ロータリーに送金してきました。同クラブは碑の高さをジャイアント馬場さんの身長と同じ2メートル9センチにしてその好意に応えています。
翌年1月に馬場さんは他界しましたが、生前に購入したお墓が天文科学館の西にある本松寺にあります。まだ納骨されていませんが、いずれは第2の故郷明石で眠りにつくと思われます。

第33回
宝塚市御殿山
宝塚動物霊園の観音さま
犠牲になったペットの供養も


宝塚の高台にある大きなペット専用の霊園に、市内はもちろん大阪湾も見渡せる位置に高さ2メートルの観世音菩薩が立っています。

「阪神淡路大震災罹災全動物追悼供養菩薩」とあり、そばには寄進者の名前とともに愛犬トム号とか愛犬ペーちゃんなどと書かれた石碑が並び、「小さな魂 心に生きる」「私たちをいつまでも見守って下さい」と書かれた刻文が涙をさそいます。

ここの霊園では毎年春秋と季節ごとに大法要を行っていますが、震災の年には春の法要の前日に、震災で亡くなった全動物に対する慰霊祭を開きました。そして寄付金を募り9月に観音さまを建立しました。

職員の橋本昌二さんによると、霊園自体は高台にあったおかげで大きな被害はなく震災当日も開けていましたが、さすがにその日は申し込みが1件もなかったそうです。

橋本さんによりますと、震災で亡くなった動物が急に増えたということはありませんでしたが、おそらくそれどころでなかったのでしょうということです。
第34回
東灘区
中之町公園の慰霊碑
地域の8割の家屋が倒壊


神戸市東灘区の中之町公園の東側に縦1・5メートル、横2メートル余りの御影石製の碑があり、裏側には田中町1丁目から5丁目、甲南町2丁目から5丁目までの犠牲者の名前がズラーッと刻まれています。

この田中地区は国道2号線を挟んだ激震地で、地域の8割の家屋が倒壊しました。

碑には「ここに犠牲者の方々を偲び、ご冥福をお祈りするためにこの慰霊碑を建立する。平成10年1月 田中財産区管理会、田中区評議会」とあります。

碑に刻まれた犠牲者を数えますと133人にのぼります。その他、刻名を辞退された方を含めますと146人が亡くなりました。

公園には平成11年の春先まで仮設住宅があり、撤去されたその年の夏、4年ぶりに盆踊りを賑やかにしたそうです。そして同12年1月17日も追悼式がしめやかに行われ、蝋燭の火と線香の煙が慰霊碑を包み、犠牲者の冥福を祈りました。

第35回
兵庫区中之島
阿弥陀寺の慰霊碑
遺体安置所と避難所に


境内左手に『同入円寂』と書かれた高さ1メートル半ほどの碑が、震災1年後の1月16日に序幕されました。同入円寂とは、亡くなった人は誰も宗派とか身分に関係なく安らかに過ごすという意味だそうです。

中之島辺りは清盛の時代の埋め立て地で砂地のところが多く、墓石は積み木をひっくり返したみたいになっていましたが、曲がりなりにも立っていた本堂に鐘紡病院から運ばれてくる遺体が60体、70体と並べられ、遺族や近くの被災者などで、3月末まで遺体安置所と避難所の役割を果たしました。

この付近では珍しく阿弥陀寺だけがプロパンガスでしたので、都市ガスのストップに関係なく火が使えたそうでなにが幸いするか分かりません。さらに境内には井戸があり、いくらか塩分を含んでいますので飲料にはなりませんが、下水用として近所の人に利用してもらったり、プロパンで沸かした風呂なども大いに喜ばれて「せめてものご奉仕ができました」と住職の澤木亮道さんは語ります。

最近はモニュメントマップ片手に訪れる人もあり「手を合わせてもらって初めて供養になります」と澤木さんは喜んでいました。

第36回
明石市大蔵海岸公園
モニュメント「明日」(あした)
安心して暮らせるまちに


前に明石海峡大橋を望む多目的広場に「明日」(あした)と名付けられた白御影石のモニュメントが、平成12年1月17日に除幕されました。

高さ3メートルの御影石が垂直に合わさった部分が女子高生のルーズソックスみたいにシワになっています。これは地震の力の大きさを表しており、横たわった石の先端は震源地の北淡町富島を指し、垂直に立つ石は未来へ立ち上がるのを表現しているんだそうです。

「震災の貴重な教訓を後世へ伝え、安心して暮らせるまちづくりを進めます」と書かれた銘板の下に、26名の犠牲者の名前や震災記録ビデオの他、小学生の作文などがタイムカプセルとして埋められており、市制100周年の20年後に開けられます。

震災当時、報道機関が神戸に集中し、明石の情報が全国はおろか市民にも行き渡らなかった経験から、防災行政無線を市内199の指定避難所にいち早く完備したそうです。

第37回
神戸市西区大沢
市営岩岡住宅の地蔵
復興住宅の中に立つ


神戸市といっても大久保インターの南、道路の東が明石市で西が神戸市という入り組んだ飛び地みたいなところに復興住宅ができたのは3年前でした。250世帯のうち65歳以上が8割という高齢化率です。

せめてもの心の安らぎにと高さ60センチのスマートなお地蔵さんが平成11年1月に設置されました。公有地に宗教的なものはだめだという一部住民の反対もありましたが、他に迷惑はかけないということで、神戸市の許可も取り、2、3人の住民が花や掃除の世話をしています。

去年8月に地蔵盆をしたところ大好評で、年寄りは「こんなええ地蔵盆は初めてや」と泣いて喜んでくれたそうです。

何より嬉しかったのは近所の子供たちが沢山やってきて、250用意したお接待が足りず、慌ててお供えを袋に詰め替えて100ほど足したそうです。これでようやく地域と交流できるきっかけができたと世話人さんたちは喜んでいました。

お地蔵さんは宗教を超えたところにあると思うんですが、どうなんでしょう。

第38回
神戸市長田区 JR新長田駅
寅さん地蔵
「男はつらいよ」ロケ記念して


映画「男はつらいよ、寅次郎紅の花」の長田ロケが行われたのは震災の年の秋、平成7年10月25日でした。

こんな時に被災地でロケをするのは現地の人の感情を逆なでするのでは・・・と心配していた関係者の不安を一気に吹き飛ばす地元の歓迎と協力の下、ロケは無事終了し映画は大ヒットとなりました。

地元有志で作った「寅さんを迎える会」が何か記念になる物をを作りたいと話し合っていた矢先、寅さんこと渥美清さんが亡くなり、記念日は、震災犠牲者と渥美さんを慰霊するお地蔵さんに決定。平成10年、渥美さんの命日である8月4日に新長田駅コンコースで除幕されました。

最初、松竹側からの提案では、フーテンの寅さんそのままのデザインが提案されましたが、一般のロケ地の記念碑とは違い慰霊の意味もありますので、どことなく渥美さんが匂ってくるお地蔵さんになっています。

見る人によっては「全然寅さんらしくない」という声もありますが、迎える会事務局長の中村専一さんは「後々まで残すためにはこれで良かったのでは・・・」と言っています。

第39回
津名町志筑新島(淡路島)
「神戸の壁」
移設された「神戸の壁」

阪神・淡路大震災では震源地に近い津名町も死者5人、重軽傷者30数人、全半壊1800戸という大きな被害を受けています。

その津名町のしづかホールの横に今年(2000年)1月16日、あの「神戸の壁」が移設されました。

何で神戸の壁が淡路や?という声もありますが「神戸のものであれ、どこのものであれ自然の脅威と震災の教訓を忘れないためには保存する必要がある。神戸で保存できないならうちが引き受けましょう」と、柏木和三郎町長の英断で移設が決まったのです。

長田港と津名港は一直線で結ぶと30キロしかなく、神戸には淡路出身で活躍している人が多く、特に長田区には淡路の人が多いそうです。そんな関係で昔から長田とのつながりがありましたが、これを機会にお互いの交流を深めようという動きもでてきました。

閑話休題。津名町は1億円の金塊で有名ですが、今は価値が1・7倍になり、二つに分かれて展示しています。ちなみに当初からの金塊は300万人が触った結果、15グラム減ったということです。さて一人あたり何グラムの金が手についたのでしょう。

第40回
神戸市須磨区
須磨寺追悼碑地蔵
門前町が壊滅的被害


門前町のほとんどが全半壊するという大きな被害が出たこの界隈ですが、須磨寺境内にある3つの塔頭のうち蓮生院と桜寿院の2寺院が全壊し、蓮生院の住職、富永童心さんが瓦礫の下敷きになって亡くなりました。そばで一緒に寝ていた7歳の長女の頭をかばうように左手で倒れてきた壁板をさえぎっており、おかげで彼女は奇跡的にかすり傷だけで助かったそうです。

仁王門を入ってすぐ右手には全日本仏教会が建立した「阪神・淡路大震災物故者追悼碑」があります。高さ3メートルあまりの青御影石で、半球型の台座の上に仏教式の供養塔がそびえる立派なものです。須磨寺が敷地を提供し、宗派を超えた浄財で平成9年10月に建立されました。

碑文には「科学万能の物質社会は予想せざる自然の脅威には抗しきれなかった」とあり、その裏側には長谷寺や仁和寺、大覚寺など40の名前が刻まれています。

無事だった正覚院(龍華橋の手前)の前には震災で持ち主のいなくなったたくさんのお地蔵さんがまつられています。私が数えたところ34体ありました。

第41回
神戸市中央区新港町
神戸港震災メモリアルパーク
崩れた岸壁をそのままに


メリケンパークの東側に震災で崩れた岸壁や街灯をそのままで残した一角があります。

大きな被害を受けた神戸港を復興させるため国や民間から多くの援助がありましたがモーターボート競漕会も2年間特別競漕を開催し、その収益金71億円が寄せられました。

そして、復興も大切だが、この自然の力の大きさを後世に伝えるためには手をつけない形のままで残すべきだとの声があり、60メートルの岸壁をそのままに残した回遊方式のメモリアルを、収益金の一部などを使って作り平成9年7月に竣工しました。

波や風のために侵蝕の心配もありますが、百聞は一見にしかずの例え通り、見学に訪れた人は一様に息を飲みます。

この後方には復興ゾーンといって、当時の被災した護岸や復旧作業の様子などをセラミックに焼き付けた写真も展示されています。

なお、海洋博物館には当時の写真3000枚のほか、ビデオや記録誌などもあり希望者は見ることができます。

第42回
神戸市生田区下山手通
生田神社
生田神社も大被災


生田神社の震災被害というと、あの拝殿が大屋根だけを残して地に這った姿を思い出しますが、そのほか石の大鳥居や灯篭、玉垣も倒壊し、桜門も傾きました。

当日の朝、加藤宮司はその惨状を見てもうだめかと思ったそうですが、本殿が立っているのに気が付き一日も早い復興を誓いました。

拝殿は強度のコンクリートを入れた柱で震度7にも耐えられるようにして平成8年6月に完成、そのほかも次々と修復し、震災5周年の平成12年1月に拝殿西の池のほとりに震災復興記念碑が除幕されました。

碑は縦60センチ、横3メートル50センチの細長いステンレス製で、寄付者の名前がアイウエオ順に約800ずらーっと並び、真中に加藤宮司が詠んだ、震災の時と修復された時の和歌が2首刻まれています。金額の多寡によって寄付者の活字の大きさが違い、これはコンピュータグラフィックでぴったりと収めました。

ちなみに復興総事業費は約17億2300万円ということです。

第43回
神戸市東灘区
御影小学校
6人の児童が犠牲に


運動場のわきのレンガ広場に桜色にした丸っこい形の碑があり、それを囲むように6本の白い山茶花が植えられています。

震災で学校周辺の家はほとんど潰れ6人の児童が犠牲になり、身内を亡くした子供も15人いました。500人以上あった児童数も一時は4割ほどが転出し、現在も400人ぐらいしかいないということです。

毎年この時期になると咲く白い山茶花は6人の純真無垢な魂を表しています。そして碑には小野鷹子校長の作った「山茶花の白咲き初むるこの庭は子らのみ魂のかへるふるさと」という短歌が刻まれていました。

昨年度が開校90周年ということでいろんな事業があり、その最後の事業として地元の援助金も含めて建立し、震災5年目の今年(2000)年1月17日に除幕されました。

生き残った子供たちが健やかに育っていくように見守ってほしいとの願いから、碑は少し斜めに、校庭の方を向いて立っています。

第44回
西宮市御茶家
大手前大学
2人の名前を刻んだプレート


阪急夙川駅の南、JRの線路沿いにチョコレート色の新しい校舎が見えます。

学校は本館をはじめ全体で6、7割の損害を受けましたが、本館新築の時に玄関の柱に座屈した本館の姿と亡くなった2人の名前を刻んだ真ちゅう製のプレートを埋め込みました。

そのうちのひとりは和歌山出身の英米文学科の4回生で、学校の近くのアパートで犠牲になっていました。
17日が卒業論文の最終日なので彼女は前日に実家からアパートへ戻って地震にあいました。彼女が収容されたところが偶然にもアルバイトに行っていた病院ですぐに学校に連絡があったそうです。

後日、学校関係者が家族と部屋を探したところ、提出予定の卒業論文がみつかり、正規の教授会にかけて学位授与が認められ3月17日の卒業式には異例の計らいで母親に学長から「学位記」が手渡されたと聞きました。せめてもの慰めですね。

なお、当時大手前女子大は2000年度から男女共学の「大手前大学」になりました。
第45回
神戸市長田区池田上町
神戸常盤女子高校の慰霊碑
毎年防災訓練を実施


神戸女子高校は震災で校舎自体に大きな被害はありませんでしたが3人の生徒が亡くなりました。

その3人の冥福と神戸の復興を祈る碑が校庭の西すみに建立されています。46回卒業生が卒業記念にと集めたお金に学校がプラスして96年1月に作りました。

学校は公式の避難所に指定されていませんでしたが、近くの人をはじめ避難所に行きそびれた高齢者や障害者など、いわゆる弱者の方に体育館を開放し、多い時で600人、平均350人が4月初めまで生活しました。

この学校は震災前から防災訓練をしていますが、たまたま震災の3日前の土曜日に地震の訓練をしたそうです。消防の担当者も「神戸ではこんな大きな地震はめったにないでしょうが・・・」と言いながら避難訓練などを実施しました。

おかげでとっさにベッドの下に潜り助かりました、と言う生徒が何人かいたそうです。

それ以降、毎年「くどい」と言われながらも地震の避難訓練をしています。

第46回
芦屋市宮川町6丁目
県立芦屋高校
毎年震災体験レポート


正面を入って左側の藤棚の近くに半円形の慰霊碑があります。

碑の裏側には「中・南館損壊。犠牲者生徒3名、卒業生30名、平成10年1月17日。兵庫県立芦屋高等学校、あしかび会」とあります。

あしかび会とは同窓会の名前で、この碑の建立と藤棚の修理費を合わせて550万円は同窓会の義援金で賄われました。

碑のデザインは半円が半分ずれた形になっていますが、これは野島断層のズレを表しているそうです。そいえば直角でなく80度傾けています。

最初は碑文も80度傾けて書く予定でしたが、読みにくいということでまっすぐに直したそうです。同じなら傾けた方がよかったと私は思うのですが・・・

ここの学校は毎年、2年生が夏休みの課題研究として震災体験をレポートで提出し、その中の優秀作品がインターネットのホームページで発表され、全国から高い評価を得ています。

第47回
神戸市東灘区本山中町
本山第三小学校の梅
「みんなの心の木」


校庭の北側に「みんなの心の木」と名付けられた梅が平成8年1月17日の「追悼とはげましの集い」の時に植えられました。

この辺りは震災で大きな被害を受けた地域のひとつで学校関係では、児童6人、家族22人合計28人が死亡し、2棟ある校舎のうち1棟が全壊しました。

残る1棟と運動場に被災者が詰めかけ、最大時には3000人近くが避難してきたため、授業は2月はじめまでできず、2月3日から本山第一小学校の校舎を借りて、1日3時限の授業で切り抜けています。

その年の秋には校庭の木が例年以上に沢山の実をつけたそうで、朝礼の時に野村校長が「大地に根を張っている木は強い。みんなも負けずに頑張ろう」と話したのを聞いた生徒達が、記念に植樹をしようと話し合い、自分達の募金と学校の補助とでこの時期に花を咲かせる「しだれ梅」を買いました。

「みんなの心の木」という名前も子供達が考えたものだそうです。

毎年1月から2月にかけてピンクの花が咲き、子供達を見守っています。

第48回
神戸市中央区野崎通5丁目
歓喜寺 供養碑
「慕心」と碑に刻み

 
布引の東側の山腹に歓喜寺という曹洞宗のお寺があり、境内の神戸市街を見渡せる場所に半円形の碑があります。

この辺りは大きな被害はありませんでしたが、檀家の半数が被災し10人が亡くなりました。住職の横山顕彦さんによりますと、檀家だけでなく、全ての犠牲者を供養するために、3回忌を前にした平成9年1月15日に除幕をしたそうです。

碑には亡き人を慕う心という意味の「慕心」(もしん)という言葉が刻まれています。

形といい文字といいなかなかユニークな碑ですが、これは檀家の画家、遠藤泰弘さんがデザインしたそうで、六甲の山並みをイメージしたものにしたいという注文で石屋さんが九州まで出かけて、この玉石を見つけてきました。

紅白饅頭を真っ二つに切ったような感じですが、自然石そのままでこんなに芸術的な作品ができあがるんですね。

しかし、残念なことに遠藤さんは、碑を設置する3日ほど前に病気になり、1週間あとに亡くなられ、碑の除幕に立ち会うことができなかったということです。

第49回
神戸市東灘区住吉宮町1丁目
求女塚東公園 慰霊碑
花が絶えず供えられ


悲恋伝説のある古墳公園に震災の翌平成8年5月、人間の背丈ほどの慰霊碑が住之江地区協議会の手によって建てられました。

この地区は約1200世帯のうち半数以上が全半壊という被害を受けています。
碑には住之江地区の地形をはめ込み、裏側には亡くなった40人の方のお名前が4段に刻まれています。

毎年1月17日には慰霊祭を開き、7回忌の今年(2001年)は今まで以上の費用をかけて行われました。会長の本田隆志さんは「続けていくことが亡くなった人への供養になるのと同時に生きている人にも一つのステップになるのでは」と話してくれました。

碑の前には絶えず花が備えられていますが、これは近くの花屋が善意で提供してくれており、老人会が毎月掃除をしています。

地区の住宅復興は90%以上になりましたが、まだまだしんどい状態が続いています。しかし、本田さんは「震災と不況のダブルパンチで仕事も大変やけど、これに耐えられたら神戸の人間は強よなりますよ。もうちょっと頑張ります」と笑っていました。

第50回
神戸市東灘区御影石町2
田中鉄工所 観音像
町の復興を見守って

=震災モニュメントマップには未掲載です
阪神御影駅からガードに沿って少し行くと目の前に大きな観音像が現れます。横には復興祈願の文字も。工場の中をのぞくと奥で老人が一人仕事をしていました。ご主人の田中稔さん(76歳)です。「震災までは12、3人使うて向かいに大きな工場を持ってたんですけどな、地震でみな潰れてしもて、幸いここだけ残ったんで私だけで近所の年寄りの手押し車なんかを作ってます。悪い事もせんと真面目一筋できたのに、何十秒でパーですわ」と淋しそうに笑うてはりました。

この壁画は、法隆寺壁画の古い写真集を見て震災翌年の1月に2日間でかきあげたそうです。「壁にひびが入ってみっともないので絵を描いたんです。私も何人かを助けましたが、助けられなかった人もいますし、供養のためにね」。

道路沿いにこんな絵を描いて、と文句を言う人がいるかと思えば、そって手をあわせて通る人もいます。「今でこそ慰霊碑や何やかや作ってますが、当時はみんなそれどころでなかったんやからね。早いこと復興してくれという気持ちで一杯でした」

この工場が続く限り観音さんが町の復興を見守ってくれるでしょう。

第51回
神戸市中央区葺合町
風の丘公園のモニュメント
勇気と希望の7色


布引のハーブ園へ行く夢風船の風の丘駅にある芝生広場の奥に、長さ2メートルほどのステンレス板が7枚、高さ約2・5メートルのポールの上に波打って並んでいます。それは虹の色で「風・七彩(なないろ)」と名付けられています。

このモニュメントは、ライオンズクラブの複合体である国際協会335−A地区が約2000万円の費用をかけて、震災の年の10月末に除幕しました。

当時のガバナー、団忠夫さんが「神戸や近隣の人に勇気と希望を取り戻してもらうために作りました」という通り、7色にはそれぞれ「赤・・・情熱・太陽、橙・・・躍動・楽、黄・・・希望・光、緑・・・若さ・風、青・・・理想・波、藍・・・夢・空、紫・・・優しさ・輪」というイメージがつけられています。

当時335−A地区には神戸市や芦屋市、宝塚市などのライオンズ100クラブが所属していましたがそのうち72クラブが大きな被害を受けました。メンバーの会社が潰れたり関係者48人が犠牲になったりしましたが、そのクラブも苦難に耐え義援金集めや炊き出しに汗を流した、といいます。

第52回
淡路町岩屋
県老連の復興記念碑
老人クラブの灯を消すな

=震災モニュメントマップには未掲載です
明石海峡大橋を望むハイウェイオアシスの高台に、丸みを帯びた大小2つのモニュメントが平成12年5月に除幕されました。

兵庫県老人クラブ連合会が、全国から受けた支援への感謝と震災の犠牲となったメンバーの鎮魂のために903万円をかけて作ったものです。

県下5300クラブのうちで死者426人、全壊全焼7128軒、半壊半焼9397軒という大きな被害を受けながら「老人クラブの灯を消すな」の合言葉で復興に取り組み、1つのクラブも欠けることなく5周年を迎えました。

高さ265センチ、横230センチ、奥行き165センチという立派なもので、人間が対話をしている姿や指を空に向けて未来を指している・・・など、どう感じてもらってもかまいませんということです。私にはペンギンの親子に見えました。

台座には貝原前知事の筆になる「友愛」という文字が刻まれています。

最初は震源地の北淡町に建てる予定でしたが、狭い地域にいろんなモニュメントが集まっている場所に作るより県立公園内にという提案を受けて計画を変更したそうで、結果オーライとはこのことでしょう。

第53回
芦屋市精道町
芦屋市立精道小学校
亡きこどもたち忘れない


市役所の東側にある校門から入り、坂をくだったところに、こどもが空に向かって両手を広げているような碑が建っています。

台座には「祈」という文字が、そして裏側には児童8人と保護者6人の名前が刻まれていました。

図工担当の先生と石屋さんとで相談しながらデザインを考え、亡くなった子のもっと生きたかったという願いと、無事だった子の明日に向かう気持ちなど、両方の意味を込めたデザインだそうです。

いつでもこどもたちの目に入るよう、そして亡くなった子も友達が遊んでいるところと一緒の方がええやろと、運動場に向かって設置されました。

校区は芦屋で最も被害の大きかった地域だけに、今でもこどもの心に震災の傷が残り、例えば2年生に校区の写真を撮らせると、亡くなった姉の乗っていたブランコや亀裂の入った家の壁を写し来たそうです。当時まだ3歳だったこどもの心にも、強烈なインパクトを与えたということがよく分かります。

第54回
東灘区田中町5
コープ神戸の鎮魂碑
市民の食料品など供給

=震災モニュメントマップには未掲載です

コープ神戸生活文化センター前の広場に震災7回忌の1月17日、ピンク色の鎮魂碑が建立されました。素材は御影石で、それぞれ長さの違う4枚の石を張り合わせたような形で、上の方が波打っています。阪神間の自然・・・山や川、海のイメージを合わせたもので「幾山河」と名付けられています。

コープ神戸も震災では住吉の本部が全壊したほか、13店舗が全半壊、死亡した職員11人、被害総額約50億円という大きなダメージを受けましたが直ちに市民の食料や日用品の供給に立ち上がり、略奪などを未然に防ぐ一助となりました。

震災当夜、灘中や灘高に収容しきれなくなった遺体約330体が同センターの体育館に安置され、この広場は急遽、棺おけ作りの作業場となりました。

碑文には「大震災で犠牲になられた組合員およびコープこうべ関連会社職員の冥福を祈り鎮魂碑を建立する」とかかれています。

共同購入システムや行政との緊急物資協定が震災時に効力を発揮したのを受けて、現在全国の生協と自治体との間で協定が広がりつつあるそうです。

第55回
尼崎市南城内
城内小学校の記念碑
思い出の学び舎

市立城内小学校は昔の尼崎城の跡地に建った学校で校庭に200分の1の尼崎城を復元した歴史広場を昭和15年ごろに生徒や卒業生などで作りました。

この辺り一帯は埋立地なので大震災では液状化現象が酷く校庭は泥だらけ。校舎も立ってはいてもドアを開け閉めできないほど傾き後で調査したところ、基礎部分が完全にちぎれて、立っているのが不思議なくらいずれた状態でした。

城跡ですので、校舎建て直しの前に発掘調査をしなければならず、着工が半年遅れました。地下から値打ち品の埋蔵品がでなかったのが不幸中の幸い(?)でしたが、もし何か出ていたら1年は遅れたでしょう。

平成10年1月から新校舎で授業を再開、その年の3月に「思い出の学び舎」というモニュメントをお城の側に作りました。

45度のななめになったハート形で、倒れたところから起き上がろうとしている人間をイメージしたそうです。碑の表側には「今度もしどこかで大地震があれば僕たちが力になりたい」という作文が刻まれています。

第56回
東灘区本山中町
国道地蔵
交通安全を願って再建へ

国道2号線を東へ走りJR摂津本山駅の南あたりに宮地病院という大きな病院があり、その横に2メートル以上のお地蔵さんが立っています。

元々ここには昭和7年に今のより大きい地蔵が立てられ、交通安全のお守りとして親しまれていましたが震災で病院と一緒に倒壊しその姿がマスコミのニュースでご存知の方も多いと思います。

地蔵の横に小さい診療所を作り、そこから今の病院にまで発展させてきた宮地病院長にとっては病院の再建と地蔵の再建はどうしてもやり遂げたい事でした。

震災の年の3月21日からガレージに仮診療所を作り(地下鉄サリン事件の日でした)2年後の平成9年4月に病院を再建、その後地蔵再建に走り回りました。「再建由来記」には「復興への尽力3ヶ年有余にしてようやく市街復興の兆し現るに及び、国道地蔵尊再建の発願湧然として起る」とあります。

寄進者名を見ると宮地病院の120万円を筆頭に5千円まで約200の事業所や個人名が並んでおり、地域をあげてお地蔵さんの再建に協力したことがよく分かります。

第57回
兵庫区湊川町
クッキー工房マミーの地藏
冥福祈り母子寮跡地に


会下山公園の北側、坂の途中にクッキー工房マミーという共同作業所があり、その前の微笑みながら両手を合わせている約15センチの可愛い陶製のお地蔵さんが6体安置されています。

この場所は元神戸母子寮のあったところで、震災の日は母子33人と寮母1人が寝ていました。昭和10年ごろに建てられた2階建ての寮はペシャンコになり、母親2人と子供2人、寮母1人が亡くなりました。

生き残った皆さんは一時他の母子寮で生活していましたが、平成9年にライオンズクラブの全面的なバックアップのもとに近くに再建され、母子寮の跡地にはこれもライオンズクラブの協力で共同作業所が建設され、クッキー工房マミーが誕生しました。

お地蔵さんは、当時寮にいた小学生が京都のお寺で指導を受け粘土をこねて作ったものです。5人の分と以前からあった1体をあわせて一緒の置いています。

新しい神戸母子寮はライオンズファミリーホームと名前を変えて冷暖房完備の立派な建物になり。2階の談話室に亡くなった5人の写真と名前、法名が飾られていました。

第58回
東灘区御影塚町2
照明寺の「追悼の碑」
毎年1月17日には法要


阪神石屋川駅の南、国道43号線に面したところに照明寺という浄土真宗のお寺があり、門を入った右手に「無常」とかかれた碑が7回忌を前にした平成12年11月3日に除幕されました。裏側の碑文に「人の命のはかなきことは夢まぼろしのごとし・・・」とあるように、この辺り一帯は酒蔵やマンションが倒れるという大きな被害のあったところで、檀家の中でも17人が犠牲になっています。

碑の下の穴には南無阿弥陀仏と岡野住職が書いた石が置かれ、回りに犠牲者の名前を遺族や知人が書いた檜の札が並べられています。毎年1月17日には法要をしますが、「戒名でも法名でも俗名でも何でも結構です。宗派を問わずお祈りしますので、後からでも申し出てください」と住職さんは話していました。

以前経営していた幼稚園の卒園者が亡くなったり、両親の死亡で大学受験をあきらめざるを得なくなったことなどを知り、除幕式にあわせて子供たちのためのチャリティコンサートを開きました。その収益金82万8315円は震災遺児の施設「レインボーハウス」に寄付をしたそうです。

第59回
長田区若松町10丁目
若鷹公園の慰霊碑
防災とふれあいの公園に


JR鷹取駅の南東に平成13年2月25日、二つの新しい公園が誕生しました。
南北に走る道路を挟んで東側には高齢者向けに健康歩道や東屋、身障者用花壇、西側は子供向けに遊具などが備えられた市内でも珍しい複合型公園です。

その東側に「鎮魂」と刻まれた2メートル近い高さの花崗岩でできた慰霊碑が建立されました。丸みを帯びた2つの石が合わさり、イルカが水面にくちばしを出しているようなデザインです。聞きますと、寄り添う2人を合掌で祈るイメージで作られたそうです。

この辺り一帯は地震後の火災でほとんどの家で全焼し、若松町10丁目だけで27人が亡くなっています。

公園は防災公園としての機能も持ち、100トンの地下防火水槽や小型動力ポンプも保管され、初期消火に備えています。

区画整理事業が完了し新しい家が建ったり道幅も広くなりましたが、まだまだ更地が目立っています。10丁目自治会長の松嶋清一さんによると、震災前に比べると会員数が半分でまだまだ厳しい対応が続きますが、震災で深まった絆をもとに、この公園をふれあいの場にしたいということです。

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