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レモンのイラスト 震災慰霊碑巡礼 61回〜 
阪神淡路大震災から5年目。あの苦しみと悲しみをいつまでも忘れずに、安心で安全な町づくりの喚起とともに検証のひとつになればと、今回から被災地の慰霊碑や記念碑を訪ねる。レポーターは、本紙客員ライターの西條遊児氏。(神戸市政・兵庫県政情報紙「セルポートKOBE」から)。同社は神戸市中央区中山手通4−22−11 078・242・1161

第1回〜第30回
第31回〜第60回
第91回〜
第61回
芦屋市川西町
精道幼稚園の慰霊碑
幼い子供たちも犠牲に 中庭の花壇の中に平仮名で「ゆぐちさとるさん、ふくしまえいなさん、よねずみりさん。わすれないあなたのことを、わすれないあのひのことを」と書かれた丸い形の碑があり、裏側には「父と母、之を建てる」と書いています。 この幼稚園では87人の園児のうち3人が犠牲になっています。
そのうちの一人、よねずみりちゃんの両親が、震災の翌年の春に自費で碑を建て幼稚園に寄贈しました。

米津さんの家は津知町にありましたが、小学校1年のお兄ちゃんと2人が亡くなりました。小学校には碑が建ちましたが、幼稚園にはなく、不憫に思った両親が建立を思い立ったものです。

精道幼稚園では家族を入れると7人亡くなっていますが、特にゆぐちさとる君宅は両親も亡くなり2歳の弟だけが助かり、祖父母の下で小学校に通っています。

なお、米津さんには震災後、みりちゃんに瓜二つの女の子が誕生したそうです。(2002.2.11)

第62回
東灘区御影町
弓弦羽神社の慰霊碑

阪急御影駅の南から山手幹線まで細長い境内と参道が続き、震災直後の鉄道網がズタズタの頃は私も御影駅からJR住吉駅へ行くのによく通ったところです。その山手幹線に面した参道入口に横長の碑が、平成11年1月17日に建立されました。

氏子地区の9自治会約7000人のうち130人が亡くなり、そのうち了解のとれた108人のお名前が、郡家24人、上御影1人、中御影18人、南御影25人、東之町6人、弓場7人、中之町8人、西之町8人、西平野11人と地区別に刻まれており、郡家には外国人2人の名前もあります。

神社自体も本殿は残ったものの社務所や絵馬堂、鳥居、灯籠、玉垣などはほとんど倒壊しました。平成10年10月に社務所が新しくなったのをきっかけに、慰霊碑建立の話が氏子から持ち上がったそうです。

「やむを得ず遠くへ引っ越された遺族の方が、たまに地元へ帰ってきた時に手を合わせる場所ができたと喜んでくれたのを見て。建ててよかったと思いました」と宮司の沢田政泰さん。費用は石屋さんの大サービスで50万円でできました。

第63回
芦屋市浜風町
浜風の家のきぼう像
こどもの心のケアを

震災後に子供の心のケアをするために全国から集めた基金を元にして、作家の藤本義一さんが理事長になって作った「浜風の家」の玄関脇に大理石で作られた「きぼう」という名の少女像があります。

エルサルバドル出身で宝塚在住のカミロ・ボニーヤさんが、j子供たちに生きる力を与えようと2年がかりで作りました。少女が手にしているのはカーネーションで、これはカトリックでは「愛」という意味だそうです。

この浜風の家は、遊びを通して子供の心に残る震災の傷跡を癒そうと平成11年1月17日にオープンしました。自由に遊ぶ、思い切り遊ぶというのがここのモットーで、細かいきまりはありません。ただし勝手気ままだけはご法度だそうです。

コンピュータもあり、インターネットも自由に使わせています。それでも子供たちは自主的に遊んでいます。「遊びだけで心のケアができるとは思っていません。いずれは電話相談もはじめたいのですが、今は資金と人手が足りないんで・・・」というのが施設長の奥尾英昭さんの悩みです。

第64回
灘区琵琶町1丁目
琵琶町公園の慰霊碑
家屋の8割倒壊61人が犠牲
=震災モニュメントマップには未掲載です
JR六甲道駅の南西にある琵琶町公園に、今年(2002年)の3月24日に震災犠牲者の慰霊碑ができました。

琵琶町では約500世帯の8割近くの家屋が倒壊、焼失し61人が犠牲になっています。この地域は早くから復興住民協議会ができ、震災からの復興や元気アップのためのイベントなどに取り組んでいましたが、区画整理の完了を待って公園の北側に慰霊碑を建立したのです。

碑づくりは昨年3月から始まり、建立準備委員会のメンバーは基金集めと同時に全犠牲者の名を残すため散り散りになった遺族の了解を得ようと訪ね歩きました。あと13人のところで一時中断を余儀なくされましたが、年末になってようやく全員の同意を得られ完成をみたということです。

時の流れを御影石の満月とステンレスの三日月で表現し、満月の表面には「あの刻(とき)を忘れない」とあり、裏面には61人のお名前が刻まれています。

協議会会長の若林俊夫さんは「この碑には、亡くなった人とともに生きる力が込められています」と言っていました。

第65回
長田区若松町
神戸の壁使った記念碑
明日への再建誓う

JR新長田駅の南を少し歩いた所に「ウレールアスタ若松」「アスタピア新長田駅前通り」という二つのビルが建っています。

その二つのビルは、この地域初の震災復興再開発ビルで「フレールアスタ若松」ビルの北側入り口には、戦災と震災に耐え震災復興の象徴となった「神戸の壁」の基礎部分を使用した記念碑があります。

大橋3丁目、4丁目、若松3丁目、4丁目で組織する新長田駅南大若復興協議会が建立したもので「明日へわがまち」と刻まれたステンレス製の銘板には、この地区で亡くなった17人の名前と神戸の壁の写真が添えられています。

銘板の台座は神戸の壁保存実行委員会代表の三原泰治さんが、壁の基礎部分を造形的に加工したものです。

このビルから30メートル北側にあった神戸の壁は津名郡津名町に移転しましたが、掘り出された基礎部分が地元に残ったわけです。

銘板には「私たちは、悲しみに明け暮れるのではなく、明日への再建に向けて・・・」とあり、住民の復興への心意気を感じさせます。

第66回
東灘区御影町
石屋墓園の追悼碑
水害、戦災、震災を受けて

市バスの石屋川車庫バス停留所から北へ歩いて10分足らずの川沿いに大きな墓園があり、入ってすぐの所に高さ120センチ、幅150センチの追悼碑が平成12年1月17日に六甲連山を背に建立されました。

この地域は昭和13年の阪神大水害で流され、昭和20年の空襲で焼かれ、そして今度の震災では約2000戸のうち約7割が全半壊という被害を受けています。

震災後から碑を建立する話はあったのですが、費用のめどが立たず、延び延びになっていましたが財産区が主になって上石屋、浜石屋両自治会が共催という形で作りました。

中が黒御影石になっており、表側に「阪神・淡路大震災・石屋地区追悼の碑」と書かれ、亡くなった75人のお名前が刻まれています。

墓園は財産区の所有で、費用は約150万円かかったということです。

碑の設計図は尺貫法で書かれており、それによりますと横(土台の石)6尺、高さ3尺2寸(黒御影の部分2尺3寸5分)、厚さ7寸となっています。

第67回
芦屋市精道町
芦屋市立精道保育所
6人の子供が犠牲に

保育所を入ってすぐ右手に大きな慰霊碑があります。保護者と保母さんたちがカンパに回り、集まった45万円余りのうちの約26万円で作ったそうです。当時88人の子供のうち、1歳から5歳までの6人が犠牲になりました。

碑には「祈」という字に続いて「こわかったね、いたかったね、さむかったね、もうだいじょうぶだよ。あなたたちのえがお、あなたたちのわらいごえ、いつまでも、いつまでも」という言葉が平仮名で刻まれ、裏には6人の名前があります。

毎年1月に追悼式を碑の前で行いますが、普段でも4、5歳児になると、碑の前で字を読んだり、小さい子などはここを遊び場にしてかくれんぼうなどをしているそうです。

「石に触るのがいいようですね、子供たちは好んでここで遊びます。亡くなった子供には直接触れられませんが、石に触れることで亡くなった子を思いやるようになるんでしょうか。これがあるおかげで語り継いでいけます」と所長が話してくれました。

第68回
長田区
長田区老連の慰霊碑
老人クラブの多くの仲間が犠牲

新湊川沿いの長田消防署の北側に平成12年1月、長田区老人クラブ連合会の慰霊碑が建立されました。市内の区老連では初めての重量感のある立派なものです。

長田区には64の老人クラブがあり、7373人の会員がいましたが、そのうち47クラブの154人が震災の犠牲になりました。

裏側には老人クラブの名前と亡くなった人の名前が刻まれています。

ちなみに市内老人クラブの被害状況は平成7年12月現在で死者553人で長田区が一番多く、次いで灘区の137人、東灘区の110人と続きます。

全国老人クラブ連合会の救援金の中から約350万円で作りました。

西脇の石材店に頼み、デザインも大きさもほぼ決まっていましたが、途中から犠牲者の名前を入れてほしいという会員の要望があり、一回り大きい自然石に変更してもらったそうです。

村野工業高校の西隣で、近くには源平勇士の碑もあり、付近も整備されて散歩道として区民の目に触れることも多くなっているようです。

第69回
西宮市
かぶと山荘の記念碑
秋田県老人クラブと共同で

甲山の北側の高台にある保養施設「かぶと山荘」の玄関脇に、三角形の立派な碑があります。
平成9年12月に建てられた「阪神淡路大震災復興記念碑」で、縦に3つに分かれた真ん中に「追悼」、両脇に「感謝」と友愛」の文字が刻まれ、裏側の碑文の最後に西宮市老人クラブと秋田県老人クラブの連合会の名前が書かれています。

震災後、西宮市老人クラブに支援の手が差しのべられましたが、その中でも秋田県老人クラブとのつながりが深く、義援金だけでなくて文通やホームステイ、クラブ同士の姉妹提携と発展し、共同で復興記念碑を建てようということになったのです。

高さ2・3メートル、幅3・9メートル、重さが19トンという男鹿石で、3つに分けているのは3世代にわたって復興に努力しようという意味がありますが、あまりに重いので分割しないと山の上まで運べないという事情もあったようです。

その後、お礼の意味も込めて西宮市の花である権現桜を秋田県に寄贈し、今も「碑と桜の会」として交流が続いています。

第70回
長田区本庄町
大国公園の記念碑
まちづくりを見守る地蔵

JR鷹取駅の南にある大国公園は震災の時、延焼を食い止めたり救援基地になったりと、地域の人にはなくてはならない場所でした。その公園の北側に高さ約2メートルの記念碑が震災の年の7月末に設置されています。

震災後、石屋川のそばの寺でボランティア活動をしていた横須賀の仏師、岡倉俊彦さんが倒壊した六甲八幡神社の鳥居の柱にお地蔵さんを彫り、被害の大きかった長田区内のどこかへ置きたいと区役所に申し出、それを聞いた野田北部まちづくり協議会の浅山三郎会長が大国公園に設置したら、と提案し実現しました。

記念碑の上部にはお地蔵さん、下部には海辺や魚の彫刻がほどこされ、後ろ側には「開拓心地」の文字が見えます。

新しいまちづくりをするに当たり、土地だけでなく人の心も開く、ハード面だけでなく、コミュニティを壊さないようにしようという浅山さんの思いが込められています。

「おかしなもんで、日が経つにつれてお地蔵さんの顔がだんだん丸うなってきました」と浅山さんが言うように、非常ににこやかな感じのお地蔵さんです。

第71回
中央区楠町
鹿児島県人会の慰霊碑
故郷をしのぶ場に

大倉山公園には35の県が夫夫、県に所縁のある木を植えた「ふるさとの森」が野球場の周辺にあります。

その一つ、鹿児島県の森は桜島の楠からなり、その一角に県人会関係者204人の慰霊碑が平成11年5月20日に建立されました。

震災後、鹿児島市民から200万円余りの義援金が県人会に寄せられ、それを有効に使おうと建てられたものです。

碑は高さ120センチ、横150センチの黒御影石で、どっしりと構えており、何か西郷さんを思わせます。

「亡くなった方の霊を慰めると同時に震災の体験を風化させないためにも故郷をしのぶ唯一の場所の碑を作ろうということになりました」と鹿児島県人会連合会の村山元茂会長は言います。

除幕式には、鹿児島市から助役をはじめ幹部も出席、これからも県人会の年間行事として毎年1月17日に慰霊祭を行うそうです。

永らく仮設住宅が建っていたグラウンドも元の野球場に戻り、ジョギングや散歩を楽しむ人が碑の前を行き来しています。

第74回
津名郡一宮町
一宮町のモニュメント
いざなぎ神社の大鳥居で

津名郡一宮町では3100世帯のうち全半壊1600世帯、特に町の中心部の郡家地区に被害が集中し、家屋の8割が解体撤去されました。町内の死者13人のうち郡家地区から8人の犠牲者が出ています。

そして国生みの町の象徴、いざなぎ神宮の大鳥居(高さ7・5メートル、根元直径90センチ)も倒壊しましたが「由緒ある大鳥居の石材を震災体験を後世に伝える記念碑に」ということで、郡家地区の3か所の震災復興コミュニティ住宅のそばにモニュメントが設置されました。

これはその一つの拠点ゾーンコミュニティ住宅(51戸)に作られた「め」というモニュメントです。「め」は目であり、芽でもあるそうで、鳥居の石柱の上にステンレス製の球が置かれ、町の復興を見守っています。その球の上には立ち上る線香の煙をイメージしたポールが立って、亡くなった方々の冥福を祈っています。

ちなみに一宮町は全国の線香の7割を生産している町です。

第75回
兵庫区今出在家
薬仙寺
戦災、震災の生き証人

清盛塚の南、兵庫運河を渡ってすぐ所に福原西国一番霊場と書かれた薬仙寺があります。

このお寺は毎年3月17日に昭和20年3月17日の神戸空襲で亡くなった方の慰霊祭を開いており、境内北側に「卍」を彫った「神戸空襲戦没者慰霊碑」があります。そしてその横に大和田橋の壊れた欄干の一部を使った「大和田戦災・震災復興モニュメント」が98年10月に作られました。

台座は5段になっており、戦災から震災までの50年を表し、その上に黒く焦げた柱を含めて何本か立てられています。碑文には「戦災と震災を経験した生き証人として再構成した」と書かれていました。

薬仙寺も庫裏や経蔵、地蔵堂が全壊、1昨年ようやく5年半ぶりに修復が完了し、落慶法要を営みました。

なお、大和田橋自体も破損の少なかった飾り柱1本をモニュメントにし、1月の神戸の星座がデザインされ残っています。

第76回
西区神出町田井
西光寺の慰霊碑
彫刻家が九輪の塔を

国道175号線の田井交差点西に西光寺というお寺がありますが、ここには震災関連の品々があります。

境内に入って左手、本堂の前には震災翌年の1月17日に建立された大震災被災霊供養塔があり、その横に本堂の大屋根修理の際に下ろされた擬宝珠が据えられています。

「まず慰霊をして、その後で寺の修繕にかかりました」と国宝大照住職は語ります。ちなみにその修理費用は全部で約7000万円かかったそうです。

碑の近くにオブジェ風の九輪の塔が同じく翌年に建てられましたが、これは父を震災で亡くした彫刻家の梶滋さんが留学中のドイツから急遽帰国し、慰霊のために制作したもので、どんなに揺れても元に戻るように作られています。

そして本堂には兵庫県が行う追悼式の時に祭壇中央に飾られていた「犠牲者乃霊」と書かれた大きな位牌が安置されています。この字を書いた県書道連盟会長が住職夫人の親戚にあたり、最初の追悼式の後から西光寺に置かれ、追悼式の前日に県の職員が取りに来ることになっっていたそうです。
第77回
宝塚市小林字西山
ゆずり葉緑地の鎮魂碑
ライオンズクラブが寄贈

逆瀬川の上流に兵庫県が整備した砂防公園があり、その一角に宝塚ライオンズクラブが市民からの寄付金を含めて約3000万円で建立し、市に寄贈した立派な碑が立っています。「鎮魂の碑」と書かれた黒御影石の上に直径1メートルの球が乗り、その周りを高さの違う9本の柱が囲み、さらに外側に6メートルの高さの白御影石の柱が4本空に向かって伸びています。

9本の柱は人間の成長過程を表し、完成して球になった犠牲者の魂が両親の4本の手で天へ押し上げられるように、という願いがこめられているそうです。

目の前に大阪湾が広がり、天気の良い日には生駒山も見え、後ろには六甲や長尾連山、春は桜の花が美しく、碑の周りには白い花の咲くハナミズキやヤマボウシなどが植樹されています。

そして碑の下には亡くなった人のお名前と寄付者の名簿、そして市内の小中生の書いた夢作文の入った2個のタイムカプセルが埋められ、10年後と30年後に開けられるそうです。

第78回
東灘区本山町北畑
保久良神社の記念碑
毎日登山の市民も犠牲に

神戸市民の毎朝登山コースとして親しまれている東灘区の保久良神社には、あの日も早朝から何人かの人が登っていました。

阪急岡本駅から歩いて約30分、途中に「頑張ろう、もうすぐ保久良神社」と書いた看板を見ながら九十九折りの坂道を登る。しんどいけれど眺めは最高で、数ある市内の登山コースの中でも屈指の名コースです。

宮司の猿丸義也さんはふもとの社務所から社殿の入り口に着いた時に地震に遭い、横に飛ばされそうになって慌てて側の柱にしがみついたといいます。爆弾が落ちたかと思ったそうで、気がつくと昭和13年に立て直した鳥居が倒壊、社殿や休憩所にいた6人が瓦礫の下にあり、うち4人が犠牲になっていました。

「灘の一つ火」として江戸時代から点り続けた灯籠をまずその年の12月に修復し、翌年10月に大鳥居を新しく作って、倒れた鳥居の一部を震災祈念碑として残しました。

こんな立派な鳥居でも倒れるような震災が来ることがある、ということを忘れないように参道の側に立てられています。


第79回
芦屋市川西町
如来寺のいのちの塔
いのちの尊さ語り継ぐ

阪神芦屋駅の西約300メートルにある川西町は神戸市東灘区と境を接する大震災の激震地で、地域の80%が全半壊しています。如来寺も本堂、庫裏、十三重の塔などが倒壊しました。

震災2年後に十三重の塔が県の助成を受けて再建されたのをきっかけに、それまで「護国念仏塔」と呼んでいたのを「いのちの塔」と名付けました。

「今度の震災では、命の大切さが問われましたね。それを無駄にしないように命名したんです」住職の藤谷信道さんは言います。

碑文には、あの時の不安と恐怖、暖かい支援に対する感謝の気持などが語られ、すべての生き物の死を悼み、この体験を語る継ぐのが命ある者の務めですと書かれていました。

「あの時は人間のすばらしさをずいぶん体験しました。家の塀が壊れたのと同時に人間同士の心の塀も取っ払われたんです。ところが、時が経つにつれてまた利害が絡んでトラブルが起きたりしていますね。そんな時にこの塔を見て当時のことを思い出してもらえれば・・・」というのが藤谷さんの願いです。

第80回
垂水区多聞台
多聞六神社の復興記念碑
地震に強い建物に

舞子から学園都市に抜ける道の途中に、住宅街には珍しいこぢんまりとした神社があります。平安時代に五穀豊穣や家内安全のため12の神さんを祀って作られたそうです。江戸時代に6つの神さんは他所へ移され、以後多聞六神社と言われています。

震災で垂水区でも25人が死亡、1176棟が全壊するという被害を出しましたが、ここも社務所が全壊し本殿の壁は亀裂が入り、鳥居の貫(ぬき)が落ちるなど大きな被害を受けました。

昔から地域に住む60軒あまりの氏子が復興委員会を作り、翌年の秋祭りまでに復興させるべく尽力し、立派な社務所や記念碑ができあがりました。

落ちた貫と狛犬を並べ、銅板には「復興を記念し、鎮魂の想いを刻む」と記されています。

「今度こそはどんな地震が来ても倒れない物を作りました」と復興委員長を務めた大沢義一さんは言っていましたが、費用6000万円は氏子の持ち寄りと言いますから夫夫相当の出費になったことでしょう。

第81回
西宮市桜宮町
西宮市立大社小学校
ファミリーとして

阪急夙川駅から北東へ歩いて10分くらいのところにあり、学校の周辺には古くて大きな家が多かったのでほとんどが倒壊し、児童3人のほか校区内で88人が犠牲になった。

校舎のそばに「阪神・淡路大震災 心やすらかに」と書かれた、小振りですがずっしりとした慰霊碑があり、側面に1年生2人、3年生1人の名前が刻まれています。

背面には「兵庫県南部地震(震度7激震、マグニチュード7・2)、西宮市立大社小学校、大社ファミリー一同」とあります。

最大時2446人の避難者が31班に分かれて校内で生活したのですが、救援物資の分配やボランティアの募集を呼びかける時、「被災者の皆さん」とか「避難者の皆さん」では言う方も聞く方も滅入ってしまうだろうと、当時の松田教頭がファミリーという言葉を思いついたそうです。

被災者も教職員も生徒も地域の人もみんな一緒、ひとつの家族のように生活していこうという学校側の思いがよく表れている言葉と言えるでしょう。

第82回
芦屋市潮見町
芦屋市立潮見中学校の碑
校庭に仮設住宅が並ぶ

校門を入ってすぐ右手におにぎり形の自然石を利用して「凛々」と書かれた碑があります。

潮見中学校の校庭は約1万3千平方メートルあり、芦屋市内の学校の中で一番広いのですが、その校庭一杯に200戸の仮設住宅が埋めつくしました。運動場すべてに仮設住宅が建つというのは全国初のことです。

しかし、ボランティア部の古武家育子教諭はいろいろ不便はあったけれど、それに比べ物にならないぐらいの出会いがあり、社会勉強ができたと振り返ります。

最初は生徒も住民を気遣い、なるべく騒がないようにしていたのですが、住民から「もっと騒いでもええよ。君らの声が聞こえることで生きているという実感が持てるから」と言われ、そうだったのかと肩から力が抜け、以後親しく声を掛け合えるようになりました。

その体験を元に近くの復興住宅に住む独り暮らしの高齢者を学校に招いたりしています。

与えるだけが教育ではなく、無ければどうすれば良いかを子供たちに考えさせるのも、これから生きていく上で大事な教育ではないか、それが分かっただけでも大きな収穫だったと話してくれました。

第83回
神戸市兵庫区
三石神社と御崎八幡神社
2つの鳥居が大被害

始発駅の次が終着駅という珍しいJR和田岬線。その和田岬駅のそばに三石神社があります。

明治の後期までは今の三菱重工の敷地内にありましがた、その後今の場所に移転し明治41年に三菱が石の鳥居を奉納しました。大震災ではその鳥居の上部の横軸「笠」がくの字に曲がり、下側の横軸「貫」が落ちてしまいました。

その年の暮れに修復された新しい貫には震災を後世に伝えるため(小林友博宮司)『阪神淡路大震災復興奉納』の文字が刻まれています。

この三石神社から約400メートル北、清盛塚の南にある御崎八幡神社も小林宮司がお世話していますが、こちらは鳥居が壊れ社務所も大きな被害を受けています。厄神さんの前日とあって、遅くまでその用意をしていた禰宜さんは危うく命を落とすところでした。新しく鳥居を建て直した時、折れた鳥居の根元に『未曾有の大震災を後世に残す』と刻み記念碑にしました。

大震災当日「厄除けのお払いをしてほしい」と言ってきた人がいたそうですが、勿論、そんな場合ではありませんでした。

第84回
芦屋市朝日ヶ丘町
芦屋市立朝日ヶ丘小学校
5時46分で止まった時計も

芦屋の山手に建つ学校の中庭に「希望の時計」と名付けられたモニュメントが立っています。

震災の時、多くの生徒が親戚などを頼って他市へ疎開しました。その中で橋本市立城山小学校と大阪市立今川小学校の2校が、育友会や児童会が集めた寄付金を持って寄付金を持って来てくれたのです。「生徒は預かるから頑張って」と。

合わせて数十万円の義援金は無くなった教材などの購入にあてられましたが、残ったお金プラス学校の予算で、感謝の気持を表すためモニュメントを作ることになり。図工担当の秋山道広教諭(当時)がデザインした時計が、震災2年目の97年3月に6年生の卒業制作の形で完成しました。

高さ6メートルのボールに地震発生の午前5時46分で止まった時計と、現在の時刻を表す動く時計2つの合計3つの時計が組み合わされており、止まった時計からは8方向へ希望が飛んでいくさまが表現されています。

これは生徒たちに、絶対に忘れたらあかんものを胸に刻みながら、未来に希望を持って、今を力いっぱい生きて欲しいという願いが込められているのです。

第85回
灘区船寺通3丁目
西灘小学校のソーラー時計
「あの子は天使です」

国道2号線と43号線がクロスする辺りにある西灘小学校へは震災直後、最大時3000人の避難者が詰めかけました。学校周辺の木造家屋がほぼ100パーセント倒壊し多くの犠牲者が出ましたが、当時5年生だった浅井亜希子さんもその一人です。

倒壊した自宅の下敷きになり8時間後に救出されたのですが、破壊された筋肉から出る毒素のよる「クラッシュ症候群」のため手術の甲斐もなく亡くなりました。

手術室に入る前、彼女は心配するお母さんに「泣いたらアカンで、私は大丈夫やから」と声をかけたと言います。

震災から5年後、あの子の生きた証にと遺族やPTAなどの寄付金で、学校の東側の道路沿いに高さ3メートル、直径80センチのソーラー時計が設置され、1月17日に全校生の前で披露のセレモニーが行われました。

「半永久的に残り、必ず人が見てくれる」という願いが込められており、台座には「あの子は天使です」という、お母さんの言葉が刻まれています。

第86回
伊丹市昆陽池3丁目
昆陽池公園の石碑
毎年「追悼のつどい」開催

伊丹市役所の北側にある昆陽池公園では、毎年1月17日に「追悼のつどい」が開かれ、一晩中6400本のろうそくが灯されます。

16日の午後5時46分から17日の午前5時46分までの12時間、灯し続けられるろうそくの数は2万本以上必要で、そのろうそく作りや灯を守るボランティアが全国からやってきます。

この事業に対して、神奈川県のある団体から桜の苗木が贈られ、震災5年目の平成12年1月に9本が池のほとりに植樹されました。

そして、そのそばに黒御影石の「植樹記念の碑」が建てられています。碑文には「あなたの思いを灯してください。失った命の数を蝋燭の灯火にこめて」と刻まれています。

つどいを主催するボランティア団体代表の赤松弘揮さんは「『想い』でなく、『思い』にしたのは、想い出とかでなく、今生きている私たちがどう考えて、どう生きていくかという思いをここに灯してほしいから」と話してくれました。

なお、石碑の費用は募金で集めた30万円で、あとは石屋さんがサービスで原価に近い値段にしてくれたそうです。

第87回
芦屋市新浜町
打出浜小学校の「森」
伸びる木に思いを込めて

芦屋浜の中にある打出浜小学校の校門を入った正面に10メートル四方の緑の一角があり「震災復興記念、打小の森、平成8年3月、育友会」と書かれた白い杭が立っています。

震災の翌年3月、卒業生をはじめ各学年が1日も早い震災復興を祈って、1本ずつ実のなる木を植えました。クヌギ、スモモ、ナツメ、カキ、ザクロ、カリン。そしてもう1本、「祥子の木」というプレートの付いたトチの木が一緒に植えられています。

約800人いた児童のうち5年生の中島祥子ちゃんが、アパートの2階が崩れて下敷きになり亡くなりました。彼女が生きた証にと、各学年の木に囲まれるように植えられています。

当時校長だった岩本英二さんは「しみじみとしたものよりも、これから育っていく子供たちのいる学校ですから、元気のでるもの、スクスクと伸びる木がよいと思いました」と話してくれました。

植えた時2メートル足らずだった木は、既に4メートルほどに生長し、根元には今も花が手向けられていました。

第88回
長田区御蔵通5丁目
御蔵北公園の慰霊碑
埋めたカプセル30年後に

長田区の御菅地区は震災の時の火災がひどく127人が亡くなりました。寅さんの映画で有名になった菅原市場の北西にある御蔵北公園には、四角いコンクリート柱が4本立った立方体の慰霊碑が平成13年1月に建てられました。

天井は鉄板で覆われ、そこには122の穴が開いています。床面には震災前の地区の地図を彫った黒御影石が据えられ、穴を通った光が亡くなった人たちの住んでいた場所を照らすようになっているのです(5人は残念ながら不明です)。中をのぞいて上を見ると空に輝く星のように見え、亡くなった方が星になってこの地区を見守っている感じがしました。

この下には白木の位牌、写経、物故者のお名前、焼け土で作った地蔵などが入ったステンレスのカプセルが埋められ、30年後に掘り出される予定だということです。

この碑のすばらしいのは、穴掘りや栗石敷き、コンクリートのバケツリレーなど特別な技術がなくてもできる力仕事を住民が積極的に参加して作ったということでしょう。

正面に書かれた「鎮魂」の文字は曹洞宗大本山永平寺貫首の筆になるものです。

第89回
中央区加納町7丁目
東遊園地のマリーナ像
時計が止まったままの彫刻

大震災では神戸市内の公園も大きな被害を受けました。当時、市内には大小あわせて1300以上の公園があったのですが、その中でも国の補助を受けて大修理をしたのが224件です。

例えば、石屋川公園の石積みが全部崩れたり、相楽園の門が壊れたり、離宮公園では大噴水の水が一夜のうち全部抜けてしまいました。あの噴水には40〜50トンの水が入っていたのですが、一体どこへ行ってしまったのでしょう。

市役所横の東遊園地も大きな被害があり、南側にあるモラエス像の横の垣根は約60センチの地盤のズレが生じ、その被害の大きさを記憶に残すため、そのままに保存されています。

女性が時計を抱えているマリーナ像も倒れましたがこちらは元の位置に復元されています。但し、時計は5時46分を指して止まったままです。

作者の新谷e紀さんは「モニュメントというのは、後世に伝える使命を持った彫刻のことで、このマリーナ像はまさにモニュメントにピッタリの作品になりました」と言うてはりました。

第90回
芦屋市茶屋之町
西法寺の追悼の鐘
風呂に使ったドラム缶で

阪神芦屋駅から線路に沿って東へ5分ほど歩いた所に西法寺という浄土真宗のお寺があります。

このあたりは震災で壊滅的な被害を受け、かろうじて半壊で残った寺には、近所の被災者が70人ほど詰めかけました寒い毎日の被災者の楽しみは、寺が用意しボランティアが焚いてくれるドラム缶のお風呂でした。

この西法寺の本堂が震災から8年半過ぎた今年(平成15年=2003年)9月に鉄筋で再建され、その屋上に鐘が設置されましたが、なんと、それはドラム缶でできた追悼の鐘で、撞けば「ゴーン、ゴーン」ならぬ「ゴン、ゴン」と鈍い音のする代物です。

「本堂の新築に費用が要ったこともありますが、もう一つの理由は犠牲者に対するメモリアルでもあるのです。当時のことをどんな言葉よりも、この鐘の音がよく語っていると思います」と副住職の上原照子さんが話してくれました。

あの時に使っていたドラム缶は劣化して使えませんので、新しいドラム缶を鐘楼の寸法にあわせて短くし、撞木の当たる部分は鉄で補強しています。

屋上は頼めば誰でも入れるようになっており、上原さんの話では毎日誰かが撞いてくれます、とのことです。

この鐘の費用は、本堂を建てた地元の工務店のサービスでしたが、本式の鐘を造るとなると500万円はかかるそうで、しばらくはドラム缶に活躍してもらうことになりそうです。

私としては、なまじ本式の鐘よりドラム缶の鐘で震災を語り継いで欲しいのですが。
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