マップを受け取った方からの手紙
あの日 あの時、そしていま
10代の発言 兵庫県加東郡滝野町の 侑子さん 16歳
激しい揺れで目が覚めた。それが地震だときづくまでには少しの時間が必要だった。
「逃げないと・・・」。
が、体がまったく動かない。私の住んでいる町は震度5くらいであり、被害はなかった。
しかし、そんなことは初めてで、とても恐ろしかったのを覚えている。
震災2週間後、小学6年生だった私は、学校を休ませてもらって母達のグループと一緒に、被害の最も大きかった長田区民センター前の炊き出しに参加した。ボランティア志願というかんじではなかったが、あの時、私は「行って何かしたい」と思った。
センター内にはたくさん、被害に遭われた人たちがいた。みなさん疲れ、ストレスがたまり、精神的ダメージがかなり大きいようだった。
それを支えていたのが、ボランティアの人たちだった。てきぱきと働き、やさしい声をかけ、「自分にできることをしよう」という感じだった。そんな姿勢が被災者の人たちの心を癒したように私は思う。
震災から4年。今もまだ完全復興したとはいえないが、徐々に活気を取り戻してきた神戸。
「災害はいつ起こるか分からない。」
だからこそ、人々の適正な判断と行動力、そして助け合いが大切なんだと思う。
「人のエネルギーはとても大きく、それらがひとつになったとき、さらに大きな力となっていくんだ」
阪神淡路大震災で、私は「人の力」を知ったような気がする。
神戸市須磨区の乙恵さん 19歳
阪神淡路大震災が起きた時、私は受験生でした。
その日の朝、布団の中で突然のもの凄い揺れに、ただ布団をかぶってうずくまるばかりで、私は身動きひとつとれませんでした。揺れがやんですぐ後、母が大慌てで私と弟の部屋に上がってきました。
何がなんだかよく分からないまま、一階の台所に下りてきてテレビをつけると、そこには横倒しになった阪神高速が映っていました。それは、まるでおもちゃが壊れたようで信じられませんでした。その時、大変なことが起こったんだ・・・と実感しました。
私の住んでいる地域は、全、半壊した家もほとんどなく、最少限の被害ですみましたが、水が一週間止まり、給水車に水をもらいに行きました。
あの日から4年が過ぎ、大震災のことを思い返す回数もどんどん減っていきます。地震で受けた傷は、大きくても、小さくても被災者が受けた傷はみんなあるはず。それが今でも癒えていない人もいる。
神戸はどんどん復興していきます。被災者の心の復興も、それと同じように進んでいければ、と思います。
神戸市灘区のひとみさん
幸いに我が家は大きな被害はありませんでした。でも自分が避難所の混乱の中に居ても、少しの不思議もない紙一重で助かったという思いは強くあり、避難所に友人と訪ねていくうち、何かしなければ、と小さなボランティアグループに入りました。
自分では、ボランティアというより助け合い、お互い様という気持ちでできる範囲で動いています。
4年たって、震災の体験の度合いによって、忘れる速度が違うと感じていたとき、1月17日のモニュメントウォークを知り参加しました。いくつかの慰霊碑を訪ね歩き、最終地点の東遊園地にたどり着いた時は、生きていればこそ、と実感し、亡くなられた方たちの無念さを心に留めておこうと思いました。
20代の発言 神戸市東灘区の女性 24歳
震災の思い出を書きたいと思います。私の場合は、「震災」というよりも、震災をきっかけにした個人的なことですが。
震災の日、私は灘区の祖父母の家に泊まっていました。千葉に育った私は、大学で関西に来ました。祖父母は昔から神戸に住む人間で、息子であり(私の母の弟の)叔父と住んでいました。祖父母は経済的に自立していたのと、その性格から自由に暮らしていました。
私は西宮の大学の寮に入り、週末、祖父母の元に遊びに行く生活をしていました。震災は、大学一年の年でした。その時までずっとそうやって学生生活を送るだろうと思っていました。
震災で寮は半壊しました。誰もけがはなく無事でした。
ただ、震災で家族間の微妙なバランスが崩れていきました。半壊の家に叔父家族は残り、祖父は病院、祖母と私は親類宅へと移りました。暮らす場所や温かな食事があるだけでも多くの被災者の方々よりも恵まれた環境だったと思います。
ただ、住む(眠る)場所があろうと、温かな食事があろうと、過敏になった神経や、不安を抱いた生活の中では決して幸せになれないと思いました。震災から4年が経ち、街は再生されていっています。安全な建物の中で豊かな生活が育まれることを願っています。
私の祖父母は、鈴蘭台、神戸と移転を繰り返し、震災の年の5月、神戸のマンションで2人暮らしを始めました。9月に祖父が他界し、その後は祖父だけの生活でした。次の年の10月にその祖母も去りました。
震災の数ヶ月後、一度だけ、祖母は「息子に捨てられた」と言いました。私はその言葉が忘れられません。
そういう気持ちのまま、一人暮らしをさせてしまったことが今悔やまれます。些細なことですが、祖母は最後のころ、しきりに犬を飼いたいと言いました。私を含めて「そんなの大変だよ」と言って聞き流していました。祖母の悔しさをちっとも分かって上げられず面倒なことから逃げていたのでしょう。
千葉市の明さん24歳
私は95年2月から約半年間、兵庫区、長田区でボランティアをしていました。
そしておととい1999年1月17日に久しぶりに神戸に行きました。
この4年間で何が変わって何が変わらなかったのか?そんな思いを持ちました。
この4年間は復興のレールに乗れた人と乗れていない人との溝がどんどんどんどん広がっていっただけの4年間だったかなぁと思いました。表と裏を見たらそう感じました。
99年1月19日
30代の発言
神戸市東灘区の啓史さん 33歳
私にとっては、家は全壊したものの楽観的に考えていました。若いということもあり何とかなるだろうという安易な気持でした。しかし避難所生活はいろいろ大変で、仮設に移ったのは8月半ば。たいへんな孤独感に陥りました。また体調も悪くし、震災後のすぐ3月から1カ月間、その後も同年から翌年にかけて7カ月、翌年1カ月と3回にわたって9カ月の入院生活を送り、現在も通院しております。
ですから、仕事がまともにできず、生活が大変です。また体調が悪い時にはほぼ寝たきりの状態になり、買い物にすら行けないこともよくあり、たまにですが、保健所から保健婦の方がこられます。
仮設に行った時も民生委員の方に食事など大変世話になりました。現在も時々入院の話がでますが震災後の3回も含め計4回の入院歴があり、もううんざりしており、また白衣の天使と呼ばれる看護婦があんなに腹立たしい人だと4回の入院でしっかり学んだため、どんなに苦しく辛くても家で死のうと思って入院はしないと伝えています。
私の場合、年がまだ若いため、また少し太っているため誤解を受けやすく元気そうだね、しっかりしなさいね、と周りの人々にさんざん言われて疲れてしまいます。(中略)
今は、いつの日か、何ヶ月か何年かは分かりませんが、心身共に健康で元気になることが夢です。体調を悪くした原因が震災だけとは思っていませんが、このような状況では、あの人は若いのにいったい何をしてるんだろうという周りの目がとても辛いです
神戸市兵庫区の 有香子さん 38歳
あの地震の朝、5時45分に目覚まし時計で起きようとした瞬間、グラッというよりゴーンときて夫と二人で抱き合っておさまるのを待ちました。何がなんだか分からなかったけど、6時30分頃、実家(兵庫県尼崎市)の母から電話が一度だけ通じました。
お互いの無事だけは確認できましたが、水が止まり、ガスが止まり、交通も電話も遮断されて夫と二人だけで自宅と、留守を頼まれていた夫の実家の後かたづけに走り回っていました。
子供のいない私たちには情報はなかなか入手できなくてウロウロしていると近所の人が声をかけてくれて物資を頂けてとても助かりました。一週間以内に私の兄は自転車で夫の兄夫婦は高松市から遠回りして自動車で来てくれたときには本当にうれしくて久しぶりに顔を見て泣き出しそうでした。
でも他市で被災した夫の妹一家には病気の両親を引き取ってくれていたので、私も、夫も、夫の兄夫婦も余り被害を伝えなかったのです。すると妹一家は、自分たちだけが被災したように感じたのか、私たちがどんなに大変だったか、を考えてくれず、物資を運んでくれず、物資を運んでも何をしても当然のように思われて、あげくの果てには、夫の実家の管理が悪いと、私たちに言いがかりのようなことを言って絶縁されてしまいました。
昨年の義母の葬式以外音信不通です。とても悲しい、さみしいことでした。
震災で私と夫は、二人でいれるならば健康でさえあればいい、と学びました。夫の転職により、収入は2〜3割減になりましたが、二人で努力していこうと思っています。
非常時に人がどうなるかがよく分かりました。口が上手なだけの人よりも、普段はあまりべたべたしなくても困難に出合った時には、力になってくれる人を多く見つけて行き、私も他人にとってそうありたいと思うようになりました。
40代の発言
滋賀県愛知郡湖東町の 正直さん 41歳
同じ時刻、阪神淡路地域と比較にならないけれど揺れを体感しました。生まれて初めての大きな揺れであり、飛び起きて家族や身の回りの様子を見渡しました。遠く離れた私の所でさえ、大きな動揺を与えたのです。まして、阪神淡路地区の皆さんはどれほどのものであったのか、想像できません。そして時間が経つに従って、ことの次第が明らかになるにつれ、恐ろしさが募ってくるのでした。
当時、私は学校現場で教員をしておりました。子ども達とともにテレビ報道を通して歴史的事実を目を凝らし、驚嘆の思いでテレビ画面と対峙していました。
子どもたちに、私自身に「傍観者であるけれど私たち自身の身の上に突然起こったら」という部分を膨らませながら・・・被災された人々の気持にはなれないけれど、安易に他人事と思わないように、そしてまた、今私たちが見ているのはテレビを通しての事実であり、決して真実ではないということを。
2時間ほど経た11時頃、子どもの一人から、
「先生、5月の修学旅行はやめてすぐに神戸に行こう」
という発言がありました。
私は、「気持、思いは嬉しいけど無理やなあ」ぐらいの素っ気ない返答をしたことを今でも悔いています。
確かに小学5年生が行ったとしてもかえってご迷惑をおかけするだけ。でもそのボランタリーな気持、人間愛にあふれる共感に対して、それ相応の返答をすべきだった、と。
お亡くなりになられた方々に合掌。
神戸市北区の 幸代さん 46歳
大きなショックと不便さは皆さんと同じく味わったことは事実であるが、私と家族にとって1月17日の夕方から生活そのもの、原点から変わり始めました。それは一度も味わったことのない小学2年生の女の子が「衣食住」をともにすることになったからでした。
私の娘は小学3年生。一人っ子として育って子供にとって突然、一つ違いの女の子が家に入ってきたわけですから、彼女にとっても生活を大きく変えることになったのです。
「長田区」に住んでいた女の子で、家を失い、両親とも一緒に住めない状況になったため、結局私の家で暮らすことになりました。当然、親類でもなく、面識のない子供。育った環境も大きく違っていた女の子。
6カ月間ではありましたが、転校し、進級もし、寝食をともにしてきた子供でしたので、別れる時はたいへん寂しい思いをしましたけれど・・。やっぱり行政だけでは絶対に乗り越えられなかったのではないか。一般の市民の力がいかに大きいかということをつくづく思い知らされました。
その後、自身の子供に変化が表れたことに対して大きな問題を抱えてしまいました。小学生の彼女にとって突然の生活変化に合わせていたのにいかにストレスを持たせたか、ということに気がつき私は彼女のケアに心掛けました。震災で家を失い、職を失いと、当人にとっても大変だけど、ボランティアで子供を引き受けた家庭にも大きな影を落とすことになった。
50代の発言
神戸市東灘区の昌市さん 54歳
あの時、暗やみの中でのわけの分からない恐怖。
爆発か事故か飛行機の墜落か「どん」と来たとき、ものの数秒間に家も西方向に傾いたことも生まれて初めて味わった恐怖。
震災当時、家に埋まった人を、どこの誰とも分からない人々が助け合って救い出したことといい、一人ひとりが、お互いにお互いを思いあっていくことを学んだと思うのですが、だんだんとなくなりつつあるように思います。あの日あの時のことを機会があれば親しい人たちには語っていきたいと思う。
今は闇雲に家の再建もし、一家4人平穏に暮らしているが、家のローンで汲々としている。現在、景気が悪く会社が解散か倒産か、の現在、つとめて不安を見せないようにしている毎日ですが、前向きに行くようにしています。
早く忘れたい半面、忘れられない震災。
マップもほしいのですが、努力していただいている人々の一助になればと思い、多少ですが送らせていただきます。
神戸市東灘区の洋さん 53歳
あれから4年。仮設での生活、仮設での家内の突然の死。
あれから2年、娘の母への悲しい思い出。あまり思い出したくないことばかり。いまだに心の底に言い表したくありません。
娘も、少しずつ明るい性格に戻り、父親にとって娘の友人、まだ病院の友達に深く感謝しております。
こちらの市営(住宅)に移り、1年あまり。娘も近くのマンションの独り暮らし。僕も独り暮らし。
いずれ嫁ぎその時の悲しみが少ないように、と娘に心配だけはかけないと、亡き妻の言葉を思い出し生活しております。
仮設での友人とも3年あまりおつきあいをしていただき、また、弟にもこの人達のおかげで心の支えとし、仕事面、その他なかなか思うようにいきませんが、夢だけは心まで貧しくならないようにしている今日このごろです。
神戸市西区の 啓三さん 50歳
震災の朝、なぜか朝早く目が覚めた。十数分後、上下の激しい揺れで、防火扉になっている寝室のドアは、ひとりでに閉じられてしまった。自宅のある西区のマンションの安全を確かめると、安否の気がかりな兵庫区の両親の元へ駆けつけた。育った家は、見るも無惨に壊れていたものの、二人とも無事で、火の手が接近しているとの情報に驚いて、西区の妹の家へ避難した。この家は結局建て替えることになった。
次は、西宮の勤め先に連絡を取る。不思議に遠方への電話は通じて、被害のすごさを伝え聞いた。
我が家の周りは3日目にはライフラインが復旧し、水と食料調達を除けば不自由はなくなり、家内は救援物資の整理ボランティアに毎日出かけた。自分は原付バイクで西宮に向かったが、瓦礫いっぱいの道路ととてつもない寒さに阻まれ、途中でバイクを降りて歩いた。壊れた町の光景を見るのが辛い。
神戸・西宮間のモニュメントマップはその時の情景だけでなく、そのころの人の心の動きまでも蘇らせる。人助けをしようとする人間の温かさに涙がこみ上げるのを感じると同時に、その対極にある心の貧しさを見せつけられてやりきれない気持になることもあった。
我が家の取り壊し申請、建て替えの算段を一方でしながら、他方で勤務先の建物の復旧にもかかわった。何度も再建の話し合いをする中で、震災前まで無口だった人の言葉の中にも、以前より立派なものを作ろうという意気込みを感じた。震災後14カ月たって着工、その1年後に献堂式を行うことができた。
5時46分のドッカン、その後ひと月余りも続いた余震、そして手の施しようのなかった火事、多くの犠牲者、これらを決して忘れない。4年たって、私は勤め先が変わり神戸を離れようとしている。
生まれ育った神戸。美しくよみがえれ。
60代の発言
神戸市東灘区の恵美子さん 62歳
「ドス」という一瞬の大きな音とともに神戸は無惨な町となり、大半の家屋が全壊し、多くの人がその犠牲となった。私たち家族もその犠牲者だった。
7時間も家屋の下敷きとなって身動きひとつとれず、本当にこのまま、あの世に行ってしまうと思っていた。結局運び出された時、息子は左肩が折れて重傷、娘は意識がなくなっており、虫の息の状態だった。私も頭を打ち負傷した。娘は、すぐに病院に連れていかれた。私たち家族は娘のいる病院で2、3日いたが、その病院も亀裂が入り非常に危ないということで助けに駆けつけてくれた知り合いの紹介で大阪の病院に入院することができた。
入院生活は2カ月、娘もじっと我慢し、息子の手術も無事終わり、さあ、これから家族、力を合わせがんばろうという時に住む家がなく、本当に路頭に迷った。テレビでは被災者には全員、仮設住宅に入れるようにしていくと何度も聞いたが、それなのにただのいい格好を言ってるだけだと思った。
私たちは結局、最後まで仮設に入れてもらえず、娘の仕事先の社宅に半年という期限付きで生活し、5回も引っ越しすることになってしまった。今やっと市営住宅に入ることができた今、震災のことを振り返ると悲しい気持でいっぱいになる。
皆は仮設住宅に入っている人たちばかりがかわいそうだと言っていたが、仮設の人たちは、何かと生活面において何でも優遇されていたが、私たちは家が全壊し、家族が入院までして辛く苦しい目に遭ったのに何の免除もしてもらえず、悲しい思いをしてきた。しかし、あの地震があって、いろいろな人たちと出会って助け合い、励ましあって来たからここまでがんばって来れたと思う。
この先、またどんな天災が起こるか分からないが、いろんな人に優しく助け合っていきたいと思う。
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