花模様あの日あの時、そしていま
遺族の方からの手紙
白木さんからの手紙
石黒さんからの手紙
藤本さんからの手紙
清水さんからの手紙
工藤さんからの手紙
足立さんからの手紙
マップを受け取った方からのお便り

10代の発言
20代の発言
30代の発言
40代の発言
50代の発言
60代の発言
学校から
西宮市立神原小学校
兵庫県立和田山商業高等学校

淡路郡家小学校

遺族の方からの手紙
白木さんからの手紙
[1月21日 ]=14日、神戸大学慰霊祭に参加したあとで
 今、私たちの元へこんなにもたくさんのかわいらしくて、きれいであたたかいお花が届きました。夢ではないかと思うほどこんなにたくさんのご好意をいきなり受けて良いのかしらと恐縮するやら、このあたたかいぬくもりにどうおこたえしていいのやら言葉も見つからない位感激してしまいました。
 一つひとつがまことにていねいに作ってありますこと!!皆さんの優しいお心が一つひとつに込められているんだなあ、と本当にこんなにたくさんいただいていいのですか。早速に息子に供えさせていただきました。
 あれは、そんな悪いこともせず普通に暮らしていた小市民である私達家族に突然おそった震災でした。無防備であったこともあって大事な大事な宝であった息子を失ってしまいました。神も仏もあるものかと、池ができるくらい涙が流れました。息子を守ってやることができなかったことに対する負い目で、毎日毎日「ごめんね、ごめんね」を繰り返しました。
 震災の前日、息子は「あしたは6時に起こしてね」と言って自分の部屋へ・・・そ のまま起こしてやることができず、息子は今も眠ったまま・・
 あれから4年というけど、まだ息子の夜は明けておりません。眠り続けております。我が家の復興はまるでできないまま御影の跡地は更地のまま草ぼうぼうです。(中略)
 このお花は、息子の亡くなった悲しみを死ぬまで背負っていく私たちをいつもなぐさめ続けてくれることでしょう。本当に本当にありがとうございました。
[4月20日]=17日、第1回交流ウオークに参加したあとで
 17日はお疲れさまでございました。今の気持ちをたとえてみますと、打ち上げ花火がどんどん上がって、最後のひとつが消えて全てが終了したあの空しさに近いかも知れません。
 1、2日、ぼーとしておりました。
 あの日は、皆さんの後をついてそっと参加するつもりででかけて行きましたのに、あのように息子のことを取り上げていただいて、本当に本当に夢の中に居るような、ひょっとして私たちって幸せすぎるんじゃないかみたいな錯覚さえおこしてしまいました。参加して下さった多くの方々は、間違いなく全員が善人であることを確信いたしますと何か心が開けてきて、今まで人に話したこともないようなことまでお話することができました。
 いつもどんなに楽しい場にいましても、半分は悲しんでいるもう一人の自分がいるのですが、その自分も、この日はすっかりまわりの空気に同化しておりました。随所に心配りがお出来になって、私たちはそれに甘えてすっかりお世話をかけてしまいました。
 息子も「二人とも、ちょっと目立ちすぎだよ」
と苦笑いしながらも、きっと楽しい一時を過ごしている私たちのことを喜んでくれて、お礼に思いを寄せて下さった方一人ひとりに頭を下げていたと思います。
[7月1日]=6月27日、第2回交流ウオークに参加したあとで
 27日は、お疲れ様でした。
 輪が広がっていくにつれてうれしい悲鳴をあげてらっしゃるのではないでしょうか。
 父のこともありましたので、中止にならなくて本当によかったと思っておりますの。
 昨日、NHKであの映像が流れました。もう感激あるのみでした。
 今までひっそりと影をひそめていた私達がああして人前にでて、映像をとってもらえるなんて、堀内さんとの出会いがなければあり得ない光景です。
 他のご遺族の方々に申し訳なさもあり、
 「ごめんなさい、私たち、めったにこんないい思いをすることはないと思うから、今日だけは今日だけは大目にみて欲しい」と心で唱えながら・・・
 また、息子の声が聞こえてきます。
 「この前の目立ちすぎを通り越して、どこまで行くつもりや。大きな顔をしてたなあ・・・」(大きな顔は生まれつきということもあるけど、カメラさん、アップにしすぎという声も聞こえてきそう・・・)(中略)
 おかげさまで、私達の心境の変化をみるにつけて、やっと暗いトンネルを抜け出ることができたのかなあと実感いたしました。
 「こんなに幸せに思えることもあるから、私達、決して不幸ではないよね。不運だっただけだと思うよ」
とこの日は娘とも語り合いました。

石黒さんからの手紙
[7月18日]
このたびは、工藤さまのご紹介でモニュメントウオークにご縁をいただき、巡拝さして頂きありがたく存じております。
 初めての時は少し心配しておりましたが、先生がやさしくお声をかけて下さいましてほっと致しました。亡き娘夫婦のことが想い出され取り乱してしまい、申しわけございませんでした。
 でも先生は「今日は泣いてもいいんだよ」と言って下さいました。
 そのお言葉に私の気持は今までにないやすらぎを感じました。今まで人様の前では涙を流すのを必死にこらえてまいりました(泣ける時もありますが)
 娘夫婦とは同居でございました。娘は55歳、娘むこは59歳。長い年月の想い出は次から次へと浮かんでまいります。娘夫婦の名を呼び、涙の枯れ果てるまで一人で泣いてみたいと思うことも多くございました。
 慰霊碑の前では、知らず知らずのうちに先生の胸に亡きすがってしまいましたが、先生は優しく受けとめて下さり、またうれし涙を流してしまいました。
 慈悲深い先生とご縁をちょうだいできたことを真実嬉しく存じます。これからもよろしくお願い申しあげます。
 「モニュメントウオーク」もお一人でも多くの方にご参加いただき大きな輪になり、亡くなられた方々のためにご供養をしていただければと念願いたしております。(中略)

慰霊碑に母は元気と吾子に告ぐ      心のままに

[追伸]
 先日は、さっそく皆様方のお心のこもったカラフルなステッチワークのお花を御贈恵くださいまして誠にありがとう存じます。早速お仏前にお供えさせていただきました。お仏前も一段と華やかになりました。さぞ故人もありがたく思い、喜んでくれていることと存じます。本当にありがとうございました。重ねて厚くお礼申し上げます。
 ささやかなことしかできませんが、、心ばかりのカンパをさせていただきます。ご受納くだされば幸深に存じます。

藤本さんからの手紙
[6月28日]
 6月27日、震災モニュメントウオークに初めて参加させていただきました。雨のため少し遅れタクシーで急ぎましたが、津知公園にて追いつけ、道谷さまのお話の途中から聞き・・・宝島池ではボランティアの人の温かいお心にふれ「赤しそジュース」=レシピはここに=をいただき、作り方をお聞きして・・・次に・・・初めて深江資料館を見学して懐かしい道具などに触れ、お腹も大きくなってがんばって次に歩き出し、新築の本庄小、中学校。校庭のすみに二宮金次郎像を見て本庄墓地の碑、中野南公園、黒御影石、どっしりとしてお話と一緒で重みがありました。
 歴史の話などいろいろと濃やかにお話をしていただき、最後の魚小へ。今工事中で少しせまく、1月17日以後入ることができませんでしたが久しぶりで感無量でした。
魚小が建て替えになると聞きびっくりしました。父、私、娘、息子(亡き直人)と三代が卒業したもので少し残念に思いますが、記念写真を写していただき、思い出にします。菊正宗資料館が新しくなって初めて行きました。
 自由解散の声がありましたので、一口お酒をいただいて帰宅しました。お声をおかけしてお礼をと思いましたが、次々とお話をしておられましたので黙って失礼しましたので、一筆お礼をと思い、長々と書きすみません。
 お心のこもった計画を大変なことを思い、ありがたく嬉しく一日が終わったこと、心よりお礼申し上げます。(私の弟と二人でいけたこと良かったと思っています)
 お体を大切にして下さいまして、またお誘い下さいますと嬉しく思います。手作りのピンクのチューリップ、息子の前にいただいたにから・・・今も飾っています。ありがとうございます。

清水さんからの手紙
[1月]
 日頃、事務局の皆様にはたいへんお世話になり感謝しております。
 私の弟も兵庫区松原通4丁目で被災しました。医師の診断書によれば、家の木材が頭から胸にかけて落下して、圧死とありました。
 弟は、三菱重工の社員であり、大勢の会社員の中に2人の犠牲者で、その中の1人です。痛恨の限りでした。
 モニュメント交流ウオークについて毎回送付していただきありがとうございます。遠路のため参加できなく残念に思いますが、神戸に出る機会もあります。
 兵庫区の被災者はどこのモニュメントに刻まれているのですか?知りたいと思います。ご一報いただければ幸いと存じます。
[8月2日]
 暑中お見舞い申し上げます。
 今年は梅雨も長く、明けると、とたんに真夏日となりました。先日は大変に心のこもった品を送っていただき、またお心配りに感謝いたします。
 さっそくに兄の家に持参し弟の仏前にお供えしました。兄とともに震災時のことを思い出し、当時、小豆島を朝7時20分の高速艇で神戸港に着き、JRの電車で西宮駅までしか通じませんでした。西宮駅から兵庫駅まで何の交通手段もなく、多勢の人たちと徒歩で行軍でした。すっかりあたりが暗くなり6時30分くらいにやっとの思いで兵庫駅に着きました。長い道のりでした。
 住まいを訪ねました当時を振り返り、兄といろいろ話し合い、弟もきっと喜んでいることでしょう。ありがとうございました。
 弟の住まいは次の通りです。
 当時の住所 神戸市兵庫区塚本通7丁目4の24 塚本荘
 氏名      清水 毅
 当時勤務先 三菱重工業叶_戸造船所内 潟潟ーイン神戸営業所
 弟については単身ですので、当時すぐに小豆島に引き上げました。慰霊碑建立協力の通知はどこからも受けることはありませんでした。毎年神戸市から追悼式の案内が兄のところに届き、過去4年間兄妹して参列しております。そこで兄とも話したのですが、今からでも弟の住んだ近くの慰霊碑に氏名を刻み入れていただけないと思います。そうすることにより私たちも上阪することも再々あります。また甥、姪も大阪、神戸市に勤めております。慰霊碑があれば立ち寄ることもできます。ご面倒をおかけしますがご協力いただければ幸いと思います。また、なにがしかの募金の協力もいたしたいと思います。暑さはまだまだ厳しくなります。皆様にはご自愛のほどお祈りいたします。

工藤さんからの手紙
[7月7日]
 あの日から1632日目の朝は、いっぱいの水蒸気をためた冷たい空気の中、明けてきました。もうじき5時46分を迎えます。年をとると目覚めが早くなる、きっとそのせいなのでしょうが、とびきりのお寝坊さんだった私も、あの日から、この時刻を眠ったまま迎えることはできませんでした。(中略)
 あんなに長い距離を歩いたのも、笑いながら歩いたのも、あの地震から初めてのことでした。10キロ以上もの長い距離を歩くこと、携帯電話を使うこと。どちらもあの地震のとき初めて体験したことでした。あの時の締めつけられる思いに引き戻されるので意識的に避けてきたことでした。
 今をしっかり見つめなければ、未来に向かって踏み出すことはできないとよく分かっているのですが。
 でも、あのモニュメント・ウオークの時にはいつもどなたかが「笑って!」とお声をかけて下さったので、子供たちも空の上で安心し、にっこり笑っていてくれたと思います。皆様には、本当に御苦労様でございますが、どうぞこれからも続けていって下さいますようよろしくお願いいたします。
 毎回参加させていただくことは不可能かも知れませんが、何かお手伝いできますことがありましたら、どうぞご遠慮なくお申し付けくださいませ。(中略)
 お手紙の中で石黒さんは
「津知公園で、この世の汚れも知らぬままに逝った幼子たちの碑の前に供花をしてくださいと誰かが言われましたが、私はただただ、娘夫婦のことばかり思って他のことは考える余地をなくしていました。慈悲の心をなくしていました。真実に愚か者でした。たとえ少しでも幼子達の御霊に供花をしなかったことを申し訳なく思いました」
と悔やんでおられます。
 私たちには石黒さんのお気持ちがよく分かりますし、誰もそのことを責めたりはしないと分かっていますが、どうして自分のことしか考えられなかったかという自責の念は、私たちの誰もが抱いているのでは、とも思います。
 書きかけては中断し、頭の部分の書き直しを何度繰り返したのでしょう。1633日目の夜明けは梅雨の中休み、おだやかに明けていきます。
 7月7日七夕さま。星空が望めるかもしれません。七夕さまにも幼いころの思い出がいっぱいです。「KOBE」と命名された新しい星にあの子たちはいるのかもしれません。
 みんな一緒に私たちを見ていてくれたらいいなと思います。

足立さんからの手紙
[1月]
 あの日、テレビを見ながら一日中、電話をかけました。何とか無事を確かめたくて。雪のある寒い夜も何度も公衆電話に走った。倒れたアパートの下敷きのままだと連絡のあったのは翌日の朝でした。
 何とか生きていて!!と祈りながら駆けつける神戸はずいぶん遠く夜になってしまった。この目で見るあの惨状は、ほんとに地獄だと思いました。この倒れた建物の下に2人が居る。こうしている間にも・・・と焦るけれどどうすることもできず、夜明けを待ちました。19日の午後にやっと運び出された2人は手の届かないところへ旅だっていました。
 あれから1503日目の2月27日、大阪へ出かけた帰り、あの日生きていて!と祈りながら歩いた2号線の一部を歩いてみました。あの日を思い出すものは何もなく、御影公会堂の回りの木々を見てあの日、やっと近くまで来たと思ったことを思い出しました。
 あの日の10日後、加古川に引っ越す予定だった2人。結婚して4カ月、きっと今頃は孫の顔を見にたびたび出かけていただろうと思いながら一週間に1夜、墓参りをしています。
[6月18日]
 暑い日が続いていましたが、昨日より梅雨空となり、今日も雨が降っています。
 先日はお電話をいただきうれしくてすぐにお礼状をと思っていたら、昨日はまた思いがけず可愛い花束が届き、ありがとうございました。ちょうど4年5カ月の命日で早速仏前にお供えし、夜には主人と娘の3人で経を上げました。
 娘の富子は、明るく、お花が大好きでした。我が家に息子伸也が初めて彼女を連れて来たとき、胸にいっぱいのチューリップを抱えていました。その姿が目に浮かびます。
 先日の日曜日、神戸からお母さんが墓参りに来られ、一緒にお参りしてゆっくり思い出を話しました。同じ悲しみを味わった者同士、遠慮なく自慢話ができ、救われました。
 お花の中に入っていた「自立から自律へ」の中の「赤い月」を読みながら思わず涙しました。
 また堀内さまはじめ皆様のがんばっていらっしゃるお姿はとても力強く、何もしていない我が身が恥ずかしくなります。
 人は皆、明日の命の保障はありません。一日一日を大切に生きなければと思います。
 伸也は「神戸はいい街やで!!」と言っていました。
 大好きだった神戸の街が生きていてよかった、生まれてよかった、と言える街に、がんばってくださいますようお願いします。

  
                       

マップを受け取った方からの手紙

花模様 あの日 あの時、そしていま

10代の発言

兵庫県加東郡滝野町の 侑子さん  16歳
 激しい揺れで目が覚めた。それが地震だときづくまでには少しの時間が必要だった。
 「逃げないと・・・」。
 が、体がまったく動かない。私の住んでいる町は震度5くらいであり、被害はなかった。
 しかし、そんなことは初めてで、とても恐ろしかったのを覚えている。
 震災2週間後、小学6年生だった私は、学校を休ませてもらって母達のグループと一緒に、被害の最も大きかった長田区民センター前の炊き出しに参加した。ボランティア志願というかんじではなかったが、あの時、私は「行って何かしたい」と思った。
 センター内にはたくさん、被害に遭われた人たちがいた。みなさん疲れ、ストレスがたまり、精神的ダメージがかなり大きいようだった。
 それを支えていたのが、ボランティアの人たちだった。てきぱきと働き、やさしい声をかけ、「自分にできることをしよう」という感じだった。そんな姿勢が被災者の人たちの心を癒したように私は思う。
 震災から4年。今もまだ完全復興したとはいえないが、徐々に活気を取り戻してきた神戸。
 「災害はいつ起こるか分からない。」
 だからこそ、人々の適正な判断と行動力、そして助け合いが大切なんだと思う。
 「人のエネルギーはとても大きく、それらがひとつになったとき、さらに大きな力となっていくんだ」
 阪神淡路大震災で、私は「人の力」を知ったような気がする。

神戸市須磨区の乙恵さん  19歳
 阪神淡路大震災が起きた時、私は受験生でした。
 その日の朝、布団の中で突然のもの凄い揺れに、ただ布団をかぶってうずくまるばかりで、私は身動きひとつとれませんでした。揺れがやんですぐ後、母が大慌てで私と弟の部屋に上がってきました。
 何がなんだかよく分からないまま、一階の台所に下りてきてテレビをつけると、そこには横倒しになった阪神高速が映っていました。それは、まるでおもちゃが壊れたようで信じられませんでした。その時、大変なことが起こったんだ・・・と実感しました。
 私の住んでいる地域は、全、半壊した家もほとんどなく、最少限の被害ですみましたが、水が一週間止まり、給水車に水をもらいに行きました。
 あの日から4年が過ぎ、大震災のことを思い返す回数もどんどん減っていきます。地震で受けた傷は、大きくても、小さくても被災者が受けた傷はみんなあるはず。それが今でも癒えていない人もいる。
 神戸はどんどん復興していきます。被災者の心の復興も、それと同じように進んでいければ、と思います。

神戸市灘区のひとみさん
 幸いに我が家は大きな被害はありませんでした。でも自分が避難所の混乱の中に居ても、少しの不思議もない紙一重で助かったという思いは強くあり、避難所に友人と訪ねていくうち、何かしなければ、と小さなボランティアグループに入りました。
 自分では、ボランティアというより助け合い、お互い様という気持ちでできる範囲で動いています。
 4年たって、震災の体験の度合いによって、忘れる速度が違うと感じていたとき、1月17日のモニュメントウォークを知り参加しました。いくつかの慰霊碑を訪ね歩き、最終地点の東遊園地にたどり着いた時は、生きていればこそ、と実感し、亡くなられた方たちの無念さを心に留めておこうと思いました。


20代の発言

神戸市東灘区の女性    24歳
 震災の思い出を書きたいと思います。私の場合は、「震災」というよりも、震災をきっかけにした個人的なことですが。
 震災の日、私は灘区の祖父母の家に泊まっていました。千葉に育った私は、大学で関西に来ました。祖父母は昔から神戸に住む人間で、息子であり(私の母の弟の)叔父と住んでいました。祖父母は経済的に自立していたのと、その性格から自由に暮らしていました。
 私は西宮の大学の寮に入り、週末、祖父母の元に遊びに行く生活をしていました。震災は、大学一年の年でした。その時までずっとそうやって学生生活を送るだろうと思っていました。
 震災で寮は半壊しました。誰もけがはなく無事でした。
 ただ、震災で家族間の微妙なバランスが崩れていきました。半壊の家に叔父家族は残り、祖父は病院、祖母と私は親類宅へと移りました。暮らす場所や温かな食事があるだけでも多くの被災者の方々よりも恵まれた環境だったと思います。
 ただ、住む(眠る)場所があろうと、温かな食事があろうと、過敏になった神経や、不安を抱いた生活の中では決して幸せになれないと思いました。震災から4年が経ち、街は再生されていっています。安全な建物の中で豊かな生活が育まれることを願っています。
 私の祖父母は、鈴蘭台、神戸と移転を繰り返し、震災の年の5月、神戸のマンションで2人暮らしを始めました。9月に祖父が他界し、その後は祖父だけの生活でした。次の年の10月にその祖母も去りました。
 震災の数ヶ月後、一度だけ、祖母は「息子に捨てられた」と言いました。私はその言葉が忘れられません。
 そういう気持ちのまま、一人暮らしをさせてしまったことが今悔やまれます。些細なことですが、祖母は最後のころ、しきりに犬を飼いたいと言いました。私を含めて「そんなの大変だよ」と言って聞き流していました。祖母の悔しさをちっとも分かって上げられず面倒なことから逃げていたのでしょう。

千葉市の明さん24歳
 私は95年2月から約半年間、兵庫区、長田区でボランティアをしていました。
 そしておととい1999年1月17日に久しぶりに神戸に行きました。
この4年間で何が変わって何が変わらなかったのか?そんな思いを持ちました。
 この4年間は復興のレールに乗れた人と乗れていない人との溝がどんどんどんどん広がっていっただけの4年間だったかなぁと思いました。表と裏を見たらそう感じました。
99年1月19日


30代の発言

神戸市東灘区の啓史さん 33歳
 私にとっては、家は全壊したものの楽観的に考えていました。若いということもあり何とかなるだろうという安易な気持でした。しかし避難所生活はいろいろ大変で、仮設に移ったのは8月半ば。たいへんな孤独感に陥りました。また体調も悪くし、震災後のすぐ3月から1カ月間、その後も同年から翌年にかけて7カ月、翌年1カ月と3回にわたって9カ月の入院生活を送り、現在も通院しております。
 ですから、仕事がまともにできず、生活が大変です。また体調が悪い時にはほぼ寝たきりの状態になり、買い物にすら行けないこともよくあり、たまにですが、保健所から保健婦の方がこられます。
 仮設に行った時も民生委員の方に食事など大変世話になりました。現在も時々入院の話がでますが震災後の3回も含め計4回の入院歴があり、もううんざりしており、また白衣の天使と呼ばれる看護婦があんなに腹立たしい人だと4回の入院でしっかり学んだため、どんなに苦しく辛くても家で死のうと思って入院はしないと伝えています。
 私の場合、年がまだ若いため、また少し太っているため誤解を受けやすく元気そうだね、しっかりしなさいね、と周りの人々にさんざん言われて疲れてしまいます。(中略)
 今は、いつの日か、何ヶ月か何年かは分かりませんが、心身共に健康で元気になることが夢です。体調を悪くした原因が震災だけとは思っていませんが、このような状況では、あの人は若いのにいったい何をしてるんだろうという周りの目がとても辛いです

神戸市兵庫区の 有香子さん   38歳
 あの地震の朝、5時45分に目覚まし時計で起きようとした瞬間、グラッというよりゴーンときて夫と二人で抱き合っておさまるのを待ちました。何がなんだか分からなかったけど、6時30分頃、実家(兵庫県尼崎市)の母から電話が一度だけ通じました。
 お互いの無事だけは確認できましたが、水が止まり、ガスが止まり、交通も電話も遮断されて夫と二人だけで自宅と、留守を頼まれていた夫の実家の後かたづけに走り回っていました。
 子供のいない私たちには情報はなかなか入手できなくてウロウロしていると近所の人が声をかけてくれて物資を頂けてとても助かりました。一週間以内に私の兄は自転車で夫の兄夫婦は高松市から遠回りして自動車で来てくれたときには本当にうれしくて久しぶりに顔を見て泣き出しそうでした。
 でも他市で被災した夫の妹一家には病気の両親を引き取ってくれていたので、私も、夫も、夫の兄夫婦も余り被害を伝えなかったのです。すると妹一家は、自分たちだけが被災したように感じたのか、私たちがどんなに大変だったか、を考えてくれず、物資を運んでくれず、物資を運んでも何をしても当然のように思われて、あげくの果てには、夫の実家の管理が悪いと、私たちに言いがかりのようなことを言って絶縁されてしまいました。
 昨年の義母の葬式以外音信不通です。とても悲しい、さみしいことでした。
 震災で私と夫は、二人でいれるならば健康でさえあればいい、と学びました。夫の転職により、収入は2〜3割減になりましたが、二人で努力していこうと思っています。
 非常時に人がどうなるかがよく分かりました。口が上手なだけの人よりも、普段はあまりべたべたしなくても困難に出合った時には、力になってくれる人を多く見つけて行き、私も他人にとってそうありたいと思うようになりました。


40代の発言

滋賀県愛知郡湖東町の  正直さん   41歳
 同じ時刻、阪神淡路地域と比較にならないけれど揺れを体感しました。生まれて初めての大きな揺れであり、飛び起きて家族や身の回りの様子を見渡しました。遠く離れた私の所でさえ、大きな動揺を与えたのです。まして、阪神淡路地区の皆さんはどれほどのものであったのか、想像できません。そして時間が経つに従って、ことの次第が明らかになるにつれ、恐ろしさが募ってくるのでした。
 当時、私は学校現場で教員をしておりました。子ども達とともにテレビ報道を通して歴史的事実を目を凝らし、驚嘆の思いでテレビ画面と対峙していました。
 子どもたちに、私自身に「傍観者であるけれど私たち自身の身の上に突然起こったら」という部分を膨らませながら・・・被災された人々の気持にはなれないけれど、安易に他人事と思わないように、そしてまた、今私たちが見ているのはテレビを通しての事実であり、決して真実ではないということを。
 2時間ほど経た11時頃、子どもの一人から、
 「先生、5月の修学旅行はやめてすぐに神戸に行こう」
という発言がありました。
 私は、「気持、思いは嬉しいけど無理やなあ」ぐらいの素っ気ない返答をしたことを今でも悔いています。
 確かに小学5年生が行ったとしてもかえってご迷惑をおかけするだけ。でもそのボランタリーな気持、人間愛にあふれる共感に対して、それ相応の返答をすべきだった、と。
 お亡くなりになられた方々に合掌。

神戸市北区の   幸代さん     46歳
 大きなショックと不便さは皆さんと同じく味わったことは事実であるが、私と家族にとって1月17日の夕方から生活そのもの、原点から変わり始めました。それは一度も味わったことのない小学2年生の女の子が「衣食住」をともにすることになったからでした。
 私の娘は小学3年生。一人っ子として育って子供にとって突然、一つ違いの女の子が家に入ってきたわけですから、彼女にとっても生活を大きく変えることになったのです。
 「長田区」に住んでいた女の子で、家を失い、両親とも一緒に住めない状況になったため、結局私の家で暮らすことになりました。当然、親類でもなく、面識のない子供。育った環境も大きく違っていた女の子。
 6カ月間ではありましたが、転校し、進級もし、寝食をともにしてきた子供でしたので、別れる時はたいへん寂しい思いをしましたけれど・・。やっぱり行政だけでは絶対に乗り越えられなかったのではないか。一般の市民の力がいかに大きいかということをつくづく思い知らされました。
 その後、自身の子供に変化が表れたことに対して大きな問題を抱えてしまいました。小学生の彼女にとって突然の生活変化に合わせていたのにいかにストレスを持たせたか、ということに気がつき私は彼女のケアに心掛けました。震災で家を失い、職を失いと、当人にとっても大変だけど、ボランティアで子供を引き受けた家庭にも大きな影を落とすことになった。


50代の発言

神戸市東灘区の昌市さん      54歳
 あの時、暗やみの中でのわけの分からない恐怖。
 爆発か事故か飛行機の墜落か「どん」と来たとき、ものの数秒間に家も西方向に傾いたことも生まれて初めて味わった恐怖。
 震災当時、家に埋まった人を、どこの誰とも分からない人々が助け合って救い出したことといい、一人ひとりが、お互いにお互いを思いあっていくことを学んだと思うのですが、だんだんとなくなりつつあるように思います。あの日あの時のことを機会があれば親しい人たちには語っていきたいと思う。
 今は闇雲に家の再建もし、一家4人平穏に暮らしているが、家のローンで汲々としている。現在、景気が悪く会社が解散か倒産か、の現在、つとめて不安を見せないようにしている毎日ですが、前向きに行くようにしています。
 早く忘れたい半面、忘れられない震災。
マップもほしいのですが、努力していただいている人々の一助になればと思い、多少ですが送らせていただきます。

神戸市東灘区の洋さん  53歳
 あれから4年。仮設での生活、仮設での家内の突然の死。
 あれから2年、娘の母への悲しい思い出。あまり思い出したくないことばかり。いまだに心の底に言い表したくありません。
 娘も、少しずつ明るい性格に戻り、父親にとって娘の友人、まだ病院の友達に深く感謝しております。
 こちらの市営(住宅)に移り、1年あまり。娘も近くのマンションの独り暮らし。僕も独り暮らし。
 いずれ嫁ぎその時の悲しみが少ないように、と娘に心配だけはかけないと、亡き妻の言葉を思い出し生活しております。
 仮設での友人とも3年あまりおつきあいをしていただき、また、弟にもこの人達のおかげで心の支えとし、仕事面、その他なかなか思うようにいきませんが、夢だけは心まで貧しくならないようにしている今日このごろです。

神戸市西区の 啓三さん   50歳
 震災の朝、なぜか朝早く目が覚めた。十数分後、上下の激しい揺れで、防火扉になっている寝室のドアは、ひとりでに閉じられてしまった。自宅のある西区のマンションの安全を確かめると、安否の気がかりな兵庫区の両親の元へ駆けつけた。育った家は、見るも無惨に壊れていたものの、二人とも無事で、火の手が接近しているとの情報に驚いて、西区の妹の家へ避難した。この家は結局建て替えることになった。
 次は、西宮の勤め先に連絡を取る。不思議に遠方への電話は通じて、被害のすごさを伝え聞いた。
 我が家の周りは3日目にはライフラインが復旧し、水と食料調達を除けば不自由はなくなり、家内は救援物資の整理ボランティアに毎日出かけた。自分は原付バイクで西宮に向かったが、瓦礫いっぱいの道路ととてつもない寒さに阻まれ、途中でバイクを降りて歩いた。壊れた町の光景を見るのが辛い。
 神戸・西宮間のモニュメントマップはその時の情景だけでなく、そのころの人の心の動きまでも蘇らせる。人助けをしようとする人間の温かさに涙がこみ上げるのを感じると同時に、その対極にある心の貧しさを見せつけられてやりきれない気持になることもあった。
 我が家の取り壊し申請、建て替えの算段を一方でしながら、他方で勤務先の建物の復旧にもかかわった。何度も再建の話し合いをする中で、震災前まで無口だった人の言葉の中にも、以前より立派なものを作ろうという意気込みを感じた。震災後14カ月たって着工、その1年後に献堂式を行うことができた。
 5時46分のドッカン、その後ひと月余りも続いた余震、そして手の施しようのなかった火事、多くの犠牲者、これらを決して忘れない。4年たって、私は勤め先が変わり神戸を離れようとしている。
 生まれ育った神戸。美しくよみがえれ。


60代の発言

神戸市東灘区の恵美子さん  62歳
 「ドス」という一瞬の大きな音とともに神戸は無惨な町となり、大半の家屋が全壊し、多くの人がその犠牲となった。私たち家族もその犠牲者だった。
 7時間も家屋の下敷きとなって身動きひとつとれず、本当にこのまま、あの世に行ってしまうと思っていた。結局運び出された時、息子は左肩が折れて重傷、娘は意識がなくなっており、虫の息の状態だった。私も頭を打ち負傷した。娘は、すぐに病院に連れていかれた。私たち家族は娘のいる病院で2、3日いたが、その病院も亀裂が入り非常に危ないということで助けに駆けつけてくれた知り合いの紹介で大阪の病院に入院することができた。
 入院生活は2カ月、娘もじっと我慢し、息子の手術も無事終わり、さあ、これから家族、力を合わせがんばろうという時に住む家がなく、本当に路頭に迷った。テレビでは被災者には全員、仮設住宅に入れるようにしていくと何度も聞いたが、それなのにただのいい格好を言ってるだけだと思った。
 私たちは結局、最後まで仮設に入れてもらえず、娘の仕事先の社宅に半年という期限付きで生活し、5回も引っ越しすることになってしまった。今やっと市営住宅に入ることができた今、震災のことを振り返ると悲しい気持でいっぱいになる。
 皆は仮設住宅に入っている人たちばかりがかわいそうだと言っていたが、仮設の人たちは、何かと生活面において何でも優遇されていたが、私たちは家が全壊し、家族が入院までして辛く苦しい目に遭ったのに何の免除もしてもらえず、悲しい思いをしてきた。しかし、あの地震があって、いろいろな人たちと出会って助け合い、励ましあって来たからここまでがんばって来れたと思う。
 この先、またどんな天災が起こるか分からないが、いろんな人に優しく助け合っていきたいと思う。


学校から


バイオリンのマーク学校だより「かんばら」平成11年1月20日号より
西宮市立神原小学校  西宮市上原12の62
忘れない「1.17」  みなさん、被災地の各所に慰霊碑や地蔵などが建てられているのを、ご存知でしょうか。その慰霊碑や地蔵などに込められた思いを語り継ごうと、このたび、ボランティア団体「がんばろう!!神戸」の人たちが、「震災モニュメントマップ」を作成しました。・・・「モニュメントマップ」を手に、家族そろっての「モニュメントウォーク」をしてみてはいかがでしょう。そういう機会に語られる家族の会話は、きっと子どもの心を揺り動かすものとなるでしょう。
かけがえのない家族、心を通わせ合った友、支え合ってきた隣人との突然の別れ・・・。この悲しみについて語り合う。また、あのとき、人々はどのように助け合い、支え合ったかについて語り合うー。これは、子どもにとっては貴重な体験だといえるでしょう。
学校長 川本 賀一
神原小学校は、児童の犠牲者はなかったのですが、震災で体育館の天井が落ちるなどの被害を受けました。


バイオリンのマーク兵庫県立和田山商業高校      兵庫県朝来郡和田山町枚田岡376の1

防災訓練の日、生徒達にモニュメントマップを手渡したあと、生徒達が感想文を書き、作成委員会に送ってきました。
震災当時、小学校6年生でした。

絵美さん 15歳
 「グラグラ」と一瞬した、と思って目が覚めました。私の勘違いだと思ってもう一回、寝ようとしたときに「グラグラ」「ガタガタ」とすごく揺れていました。一度も地震を経験したことのない私はすごくこわくて布団のなかで泣いていました。そして朝テレビを見て、神戸の町はすごいと言うことに気づきすごくびっくりしました。
 たくさんの人がなくなられたりしてすごくかわいそうでした。
 今は、地震のおそろしさがすごくわかるようになってきました。
 地震で転校してきた女の子がいました。その子は地震のショックが大きくて、来たときにはすごくさみしそうな感じだったけど、神戸に帰る日が近づくにつれて元気になっていました。それが分かった私は、なんかすごくうれしい気持になったことを覚えています。
 その子とは今も、仲良しの友達です。なかなか会えないけど、手紙を通じて元気なのかを確認しています。

知亜紀さん  16歳
 私にとってあの日の地震ははっきり言って同じ兵庫県に住んでいながら、まるっきり他人事のようだといったところが正直な気持でした。
 でも、テレビとか新聞を通じてあの惨状を目の当たりに繰り返し、繰り返し見たり読んだりしていると、少しずつ私にも恐怖というのか、次のもし、自分の近くでこのような地震が発生したら、どうすればいいだろうと、途方に暮れる自分を想像することができます。
 ずいぶん前に、北丹大震災がこの近くでもあったと聞きましたが、本当に、そのような地震が来たことを想定すると、とても対岸の火事と他人事のように見ているわけにはいかなくなってきました。
 あの時の神戸の人たちの気持は察するに余りありますが、私が、そうしてあげることもできません。そんな自分に歯がゆさを感じずにはいられませんでした。

憲人くん    16歳
 4年前の1月17日に起こったあの阪神淡路大震災は、とても悲惨に感じられました。
 一瞬にして街や建物が崩壊した姿を見ると、ひどい有り様としか思うことができませんでした。6000人以上の犠牲者がでたにもかかわらず、助かった人たちが家族や友人を失った哀しみから立ち上がって協力し合う姿に素晴らしさを感じました。
 いまだに仮設住宅に住んでいる人たちを忘れてはいけないと思いました。
 あまり震災について考えたことがなかった僕が、今よく考えてみるといろいろなことを思うようになりました。
 そして災害の犠牲になった人たちへの思いを決して忘れることのないようにしたいです。

正くん     16歳 
 僕が小学校6年のときに阪神淡路大震災が起こった。あの日は、地震が起こったことに気づいてすぐ起きた。その後、テレビをつけたら、ものすごい地震が起こっていたと聞いて驚いた。死者6000人以上の人が亡くなったことで、ものすごい地震だと思う。神戸に行ってみたいと言う気持は、そのころは全然なかった。
 約2カ月後、神戸へ出かけた。震災の跡がひどかった。仮設住宅がその時は、ものすごくあった。震災の後から2、3カ月間、CMがたくさんあった(関西)。
 その年の11月くらいに再び神戸に行った。だいぶよくなってきたように見えた。
 そして現在までものすごく神戸が変わってきた。
 その後、英語で再び大震災のことを学んだ。ボランティアをしている話だけど、とっても感動する。
 あれから4年の年月が流れ、神戸はとっても平和へと進化してきた。4年前とは今では全く違ってきている。
 同じ県だけど、やはり、ぼくたちにとっても大きなできごとであるし、この5時46分に事件は起こった。これは100年たっても歴史に残ること。だからとっても重たいと思った。

千草さん   16歳
 あの日、予想もしなかった大きな地震で目は覚めた。南部(兵庫)では多くの人・動物が命を失う。線路はぐにゃぐにゃに曲がり、高速道路は倒れているのがテレビの映像や雑誌や新聞などに大きく取り上げられていた。
 当時は小学6年生の時で、文具を集め、寄付することにし、給食後、女子が集まっておにぎりを作って持っていってもらうことにしました。学年によっては、励ましの手紙を書いて送ることに行っていました。
 今現在、いつもの様な生活だ。1月17日が来ると、南部の皆様はよくがんばったなあと思います。悲しみからいつまでもくじけずに乗り越えた彼らの気持、忘れません。                     


バイオリンのマーク  淡路郡家小学校  兵庫県津名郡(淡路島)一宮町

震災当時小学校2年生だった子どもたちが6年生になって書いたものです。
菜美さん    12歳

 私は、あの大地震がおきた時、タンスの下じきになりました。まっくらで、何がおこったのか分かりませんでした。
 二年生だったのですごくこわかったです。今ではよっぽどの事がないと地震の事を思い出しません。
 そんな時は、「やっぱりちゃんと覚えておかないと・・・」と思います。あの地震さえなかったら、家もかわらなくてよかったし、小学校の悲しい思い出として残らなかったのにって思います。でも地震は、たくさんの物をうばっていくばかりではありませんでした。
 私たち人間が忘れていた何かを教えてくれたんだろうと思います。
 今は「地震がおこって、ひとのあたたかさや、協力する事の大切さが分かった」って言ってるけど、地震がおこらなかったら、そんな事、ほとんどの人が言わないと思います。だから地震を「ひ害にあった」って考えるばかりじゃなく、「大切なことを教わった」と思うようになれば、人間が忘れていた何かをとりもどす事ができると思います。

円さん      12歳

 私にとって震災とは、忘れられないそんざいです。
 あの時は、まだ二年生だったので震災とはどんなに恐いことか分かりませんでした。
 震災がおこった日、たくさんの人に家のかたづけをしてもらったりしました。しょっきなどがたくさん割れてしまったけど、親せきの人などにきちんとかたづけてもらいました。
 今、私は震災がおこる前のように平和な楽しい生活を送っています。私がこのような生活ができるのも自衛隊員をはじめ、多くの人々のおかげだと思っています。あの時、いろいろお世話をしてくれたみなさん、本当にありがとうございました。