自転車でめぐる震災モニュメント

99年1月17日の震災4周年の日に行われた「モニュメントウォーク」に参加した「神戸市民自転車同好会」の会員、高橋広海さん(神戸市北区在住)が会のメンバーに呼びかけてサイクリングを兼ねたモニュメントめぐりを訪ねました。その結果を同好会の会報に載せています。皆さんも一度いかがですか。
自転車マーク 自転車マーク 自転車マーク 自転車マーク ツーリングレポート1999春
サイクリングで震災モニュメントを訪ねて  記・高橋広海
 1999年1月を迎えて阪神淡路大震災は4年目となりました。震災の爪痕をあまり見かけなくなりました。仮設住宅の撤去が3月となっていますが、行き先が決まっていない人が多く、震災は終わっていません。
 振り返ってみますと、同好会会員、家族の方に亡くなられた人はいませんでしたが、4人の方が自宅を失われました。この4人の方々には会員に寄付を募ってお見舞い金を贈りました。
 1月9日の毎日新聞に震災を忘れずにと、震災モニュメントが兵庫県下に55カ所設置されたことが報道されました。
 そこで、我々の趣味であるサイクリングで震災モニュメントを訪ねて会報に記載して150名の会員の方に知ってもらおうと企画した次第です。
 5名の方に会を代表して訪ねてもらいたいとお願いしたところ、皆さん気持ちよくお引き受け下さいました。ありがとうございます。
 訪問担当者 宝塚市、西宮市   中村等、貴法さん
         芦屋市         吉田正広さん
         東灘、灘、中央区  名倉義雄さん
         北、兵庫区      兼清優美子さん
         長田、須磨、垂水区 柴田陽一さん
         明石市、洲本市   高橋広海さん
自転車マーク震災モニュメントを訪ねて  〜宝塚市、西宮市〜自転車マーク   中村等 貴法
ゆずる葉緑地のモニュメントの前で震災モニュメントの訪問記をコースリーダーの高橋さんから依頼されたのは年始早々でした。
 1月9日の新聞に載った、県歌55カ所の震災モニュメントの設置場所が目にとまり、自転車で訪問する企画が立案されたとのことでした。
 私が引き受けた時点ではまだ時間もあるし、少し暖かくなってから一人でぶらりと訪ねてみようと気軽な気持ちでいました。
 ところが、震災モニュメントの資料が届いたのが、1月16日で、4年前のあの日と同じ日の前日だったのです。今年は当日が日曜日であったことから、寒いけれど明日少し回ってみようかなと思い立ったのです。そして息子の貴法を誘ってみると何とついて来ると言うではありませんか。
 早速、4年前のあの日と同じ日の1月17日に、宝塚のゆずり葉緑地=写真=にあるモニュメントを最初に訪ね、西宮の5カ所とあわせて6カ所を、そして、その週の土曜日に残り5カ所を貴法と二人で訪ねました。
 震災モニュメントを訪ねてみると、私の気軽な気持ちは吹き飛んでいました。宝塚に住んでおりながら、市内に震災モニュメントが建立されたことを知らなかったことや、震災の犠牲になられた方々、また、その家族の人の気持ちを思うと、簡単に考えていた自分が恥ずかしくなりました。
 西宮の仁川百合野町にある地すべり資料館では地滑りの怖さを知り、またちょうど4年目の当日であったことから、西宮震災記念公園で執り行われていた慰霊祭の人の多さは、それだけ震災の犠牲者が多かったことを如実に物語っていました。宝塚では118人、西宮では千百余人の方が亡くなられたのです。
 また、西宮市内にある7カ所の小中学校および和裁学院に設置されている慰霊碑を見るにつけ多くの児童、生徒を亡くされた先生や親御さん、そして地域の方々の気持ちを察すると、さぞ悔しかったことと思われます。
 息子と一緒に訪ねたことでより一層身につまされました。
 震災モニュメントを訪ねることにより、今に生かされていることの大切さ、素晴らしさを再認識させていただきました。貴法も少しは何かを感じてくれることと思います。
 私は自転車大好き人間です。自転車を通じて体験させてもらったことを何かの形で還元できればと考えています。少しでも皆様のお役に立てれば、と思いますので、今後とも息子の貴法ともども長いつきあいのほどよろしくお願いします。
自転車マーク震災モニュメント(13カ所)を訪ねて  〜芦屋市〜自転車マーク   吉田正広
津知公園の慰霊碑の前で1、4年目の1/17
 あの大震災から4年。さしもの大震災についてもマスコミはただの「記念日」に戻ってしまったようです。
 数千人の死者と今も仮設に暮らす数千世帯の人々。何年経とうが応えなくてはならないことには応えなくてはならない。政治が「市民の暮らしを守る」という本来の目的を果たすようにすること。
 2、1/17自転車で芦屋市内の「慰霊碑」の建っている場所を訪ねて回る。
 津知公園の慰霊碑=写真=、ベンチに休憩する。
 押部さん(83歳)、娘さん(60歳)、女性2人に今日は「いい天気ですね」と近づき、「被災者の方ですか?少しは話を聞かせて下さい。私はこういうものです」
 住まいは芦屋近くの東灘区深江町「阪神高速3号線」の落下したところで、その日たまたま灘区にお住まいの娘さんのところであの地震に遭遇され、すぐに娘さん夫妻と3人で一人住まいだったおばあちゃんの家(深江町)に行ってみると高速道路が落下して全壊。いつものようにここにいたらと思うと体が震えて止まらなかったとのことでした。学校に避難して、全壊した家からボランティアの方々のお陰で布団、毛布、必要なものを掘り出していただき本当にありがたいことでした。あの方々に今一度お会いしてお礼を言いたい。
 その後、灘の24カ所の仮設に世話になり、昨年10月に市の世話で老人ホームに入所している。(おじいちゃんを昭和63年に亡くしたとのこと)
 今では夜、および風邪気味の時など考え込んでしまう日が多く、外を歩くことも少なく足が弱くなってしまった。こう話しながらもそばの娘さんは、買ってきた服や靴下などを重ね着させておられた。
 娘さん曰く。私たちは母一人娘一人で、私夫婦には子供がなく主人の都合で母と同居できないのです。
 今日はホームより母を連れだし、小さい時から行っている某所のカトリック教会へ4年目の追悼ミサに来ての帰りにここで休憩しているところでした。
 色々と話し合って母の喜ぶ笑顔は何年ぶりでしょう。別れの時、親子はベンチより立ち上がって「ありがとう」と言われ、私も「どうかいつまでもお元気で。きっとまたどこかでお会いしましょう、本当にありがとうございました」と胸に熱いものを感じてその場を去りました。
自転車マーク震災モニュメントを訪ねて  〜東灘、灘、中央区〜自転車マーク   名倉義雄
神戸大学のモニュメントの前で 1995年1月17日午前5時46分、ズシーンと突き上げるような衝撃で目が覚めた。今までに体験したことのないような衝撃だ。その後も大きく部屋が揺れている。
 室内は暗く、ただ揺れるにまかせ、台所の食器棚で食器の触れ合う音や、床に落下した食器の割れる音が続く。幸いにも寝室には家具などの転倒もなく、時は過ぎた。これが私のあの時の記憶である。
 3月初旬のある暖かい日、東灘区と灘区に設置されている阪神大震災のモニュメントめぐりに出かけた。冬の間は自転車をお休みにしていたが、久しぶりに乗る自転車は心地よく感じた。
 最初に訪れたところは山の傾斜地に建てられた神戸大学六甲台本館前に設置されているモニュメント=写真=である。この場所までは長い坂道を登って行かねばならず、鈍った身体には少しハードであった。大学の正門にある守衛所で訪問理由を述べ、入校許可を得て、目的の場所に着いた。広い前庭の中央付近に設置されたこのモニュメントは学生ら41人の犠牲者を追悼したものである。
 その後、自転車を東に進め、甲南大学中野北公園中野南公園宝島池公園などのモニュメントを訪れた。あるモニュメントでは犠牲となられた方々の氏名が石碑に刻み込まれており、家族と思われるものも多数目についた。
 モニュメントを探して町中を走っていると、あちこちに空き地や駐車場が目立つ。これらは震災による家屋の倒壊があったことを示している。当時、町中を歩いていると崩れた家の前で家族であろうと思われる人が、花と線香を供え、手を合わせている光景にしばしば出会い、胸が締めつけられる思いが昨日のことのように思い出されてきた。
 一方、公園では若いお母さんが震災後に生まれた幼児と遊ぶ姿を見ていると「落ち着き」「静けさ」「平和」を感じた。
 今日のモニュメントめぐりで、震災の残した爪痕の大きさを改めて感じさせられた。犠牲となられた方々のご冥福をお祈りするとともに、あれから4年が経過した今もいくつかの公園や広場には仮設住宅が残っており、そこで生活している方々が早く元の生活に戻れるよう願う一人である。
自転車マーク震災モニュメントを訪ねて  〜神戸市北区、兵庫区〜自転車マーク   兼清優美子
薬仙寺 @旧神戸母子寮
 とてもかわいらしい身長10センチくらいのお地蔵さんが6体祭られています。このあたりは新しい家が多く、建設中の家やまだ、更地のところもありました。復興へ向かっている町をお地蔵さんが、お地蔵さんを町の人々がお互いに優しく見守っている気がしました。
 A海向山阿弥陀寺
 「同入円寂」(亡き人は安らかに集まっている、の意)という石碑があります。その碑の後ろに木蓮の花が雨の中、しっとりと咲いていたのが印象的でした。
 B大輪田橋
 神戸空襲の跡が残っており所々が黒くなっているこの橋は大正時代に架橋されました。親柱が震災で損壊してしまい、それを記念碑にしています。歴史を感じさせるどっしりとしたおもむきのある古い橋だけに、損壊した柱はもの悲しい感じをより一層感じさせると同時に震災の大きさを再認識させられました。
 C薬仙寺=写真=
 損壊した大輪田橋の一部を利用したモニュメントには、戦災の日付も入っており50年後に発生した震災を強調しています。戦災の碑もあり、花が一面に供えられていました。神戸は空襲、地震とそのたびに皆で力を合わせて復興してきたのだなあと思い、神戸の町の力強さを感じました。
 D久遠寺
 町内の犠牲者25名の名前の刻まれた碑があります。
 ◆◆◆
 サイクリングをした春分の日は、雨の降る寒い日でした。雨に濡れているモニュメントを見ると、震災の時の気持ちが色濃く思い出されました。仮設住宅にお餅つきに行った時に「ここに住む人がだんだん少なくなっていく」と話されていた方の不安な目。あの方は今どうしているのでしょう。被災された全ての人が落ち着ける神戸の町が、早く戻ってきて欲しいと願うばかりです。
自転車マーク震災モニュメントを訪ねて  〜神戸市長田区、須磨区、垂水区〜自転車マーク   柴田陽一
正覚院のお地蔵さん 2月のある日曜日、僕は自転車に乗って家を出た。
 普段は気ままに神戸を走っている僕だが、その日は震災モニュメントを訪ねるという明確な目的があった。
 僕が訪ねるべきモニュメントは計8カ所だ。その中には僕が普段走っている道の近くにあるものも幾つかあった。
 最初に行ったのは多聞六神社で、そこから舞子駅まで下って国道2号に入り、東に進んで須磨の須磨寺、長田の神戸の壁(注・その後淡路島へ移設されました)、や満福寺など訪ねて回った。
 モニュメントにはさまざまな形があった。例えば石碑、地蔵、お堂など。
 しかし、どのような形をとっていても、そこには人々の震災に対するさまざまな想いがこめられているのであろうと思った。
 また須磨の正覚院の行き場を失った地蔵=写真=や、いまだに空き地の多い長田の街並みをみていると、震災はまだ終わっていないのだなあと感じた。
 モニュメントには、いろんな文章が書き添えてあった。ひとつ紹介すると、
 あわせの地蔵
 今生きるってしあわせ 生きてることこそしあわせ
力あわせ 手あわせ 巡りあわせ 待ちあわせ 音あわせ
あわせることで倍になる『いのち』の響きが聞こえてくる
 今生きるってしあわせ 生きてることこそしあわせ
 一人一人にできること?
与えられた『いのち』いっぱいに『今こそ一心に生きること』
 あわせの地蔵に祈りをこめて・・・

 みなさんは、これを見て、どう思うだろうか。
 僕は思う、震災は神戸の人々を大きくしたと。
 たしかに震災で5千人以上もの尊い人命が奪われ、多数の家屋が壊れ、ガス・電気・水道が止まり、不便な生活を余儀なくされた。悲壮感に街が溢れた。
 しかし、同時に、震災によって人々は、人間にとって一番大切な他人への思いやりや助け合いの精神を学び、復興へと立ち上がった。
 不死鳥のように甦ることを願い名づけられたフェニックスプラザは、そうした神戸市民の強固な意志の表れだと思う。
 だから僕は、神戸の歴史全体の中で見るときは、震災も結果的にはプラスに働いた面もあったと思いたい。
 少なくとも僕はそう信じている。 
自転車マーク震災モニュメントを訪ねて  〜明石市、洲本市〜自転車マーク   高橋広海
熊田処分場のモニュメントの前で 岩屋から洲本、由良の熊田処分場にある淡路島唯一のモニュメント=写真=まで往復96キロのサイクリングでした。由良の人は処分場のことは知っていても地震の碑の存在は知りませんでした。淡路では北部で57名亡くなられていますが、由良区域では地震の被害はあまりなかったので関心がないと思います。
 処分場の南端に左右は林、真ん中に海に向かって日時計として時を刻んでいました。ロケーションはいいのですが、こんな不便な場所より洲本、大浜公園にあってみんなに知ってもらう方が良いのではと思った次第です。
 明石公園にある石碑は今年2月に亡くなったプロレスラーのジャイアント馬場さんの奥さんが明石出身、震災で26名亡くなられたのにマスコミの扱いが少なかったこともあって、馬場さんは興行先に募金箱を置いて寄付金を集めて明石市に寄付されました。その寄付金をもとに馬場さんの身長と同じ2メートル9センチの石碑が設立されたという。明石公園、野球場裏芝生にあります。練習に訪れたときにでも一度見て下さい。
 明石公園銀座通り、2号線の交差点南側に高年クラブが寄贈した復興のシンボルとして3つの石からなるモニュメントがあります。

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