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阪神大震災モニュメントマップ
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神戸市長田区
(番号は「2000年版震災モニュメントマップ」と同じ番号です)
86 重池町/拓也くんのお地蔵さん 神戸市長田区重池町1の6の4
拓也くんのお地蔵 生後4カ月で亡くなった末っ子、拓也君のために父親、明石健司さんが建立した。足元には震災で亡くなった人の魂を象徴するトンボの彫刻があり、道行く人がお参りしたり、頭を撫でる姿が見られる。
 明石さん一家は5人家族。木造2階建て、延べ床面積180平方メートルの自慢の住宅は震災で地盤ごと全壊した。
 健司さんは、隣で寝ていた長男(6歳)に覆いかぶさり、長女(2歳)とともに無事だった。しかし2階の部屋で寝ていた妻と拓也君(生後4カ月)は屋根の下敷きになった。妻は救出されたが、はりの下敷きになった拓也君は、眠る時の癖だった右手親指をおしゃぶり代わりにくわえたままの姿で亡くなっていた。 地蔵を建立しようと思ったのは震災の年の「地蔵盆」の時だった。拓也君は震災前年の9月に生まれたため地蔵盆に連れて行くことができなかった。それで「自分で拓也の地蔵を作ろう」と決意した。
 大阪の百貨店で個展を開いていた静岡県の前島秀幸さんに制作を依頼。2人で仮設住宅などを歩いた。前島さんは「震災に遭ったすべての人たちのために地蔵を彫りたい」と話した。翌年1月、お地蔵さんが完成した。地蔵は5歳になったときの拓也君がモデル。三等身で頭が大きい。
 前島さんから「道行く人がなでたりさわったりできるように道ばたに置いてほしい」と言われ、崩壊した家の更地の角に、道の方に向けて安置している。「拓也はお地蔵さんに生まれ変わって、いろんな人に影響を与えている」と思えるようになったという。
 毎朝、出勤前にお地蔵さんに会いに行く。日によって赤、黄色、黒、緑のバンダナを頭に巻いてやる。毎朝お参りするのは、拓也が勇気を与えてくれるからだ、と信じている。
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最寄り駅地下鉄上沢駅から北へ徒歩15分。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
87  大丸山公園/被災した木の移植 神戸市長田区大丸町2の10   
大丸山公園の樹 震災で神戸市長田区では917人が死亡した。火災も多く、全半壊家屋は神戸市内で最も多い約2万2000棟に達した。JR新長田駅周辺でも、震災の発生直後から各地で火の手が上がり、一帯は焼け野原になった。駅のすぐ南側の同区若松町3丁目では、約100メートル四方の中で10人以上が亡くなった。
 若松町3丁目のほぼ中央に立っていたのが、戦災と震災に耐えた“神戸の生き証人”「神戸の壁」。その壁の南が一1982年に造られた新長田公園だった。
 公園には、シラカシ、ケヤキ、ナンキンハゼなどの植栽があったが、その多くも猛火にあぶられ傷ついた。国土緑化推進機構や神戸市などの依頼で、兵庫県樹木医会がこうした木々の調査、治療をした。その後、震災後の再開発で新長田公園がなくなることになったため、生き残った約20本の被災木は須磨区の奥須磨公園に移植された。
 この際、長田区北部の大丸山公園に、シラカシとケヤキ各1本が「震災の体験と復興への希望を記憶する証」として移植された。市役所の職員から「被災樹木が、震災から立ち上がる市民の心の糧になれば」という声が上がったためだった。公園の南西角にある。
 シラカシとケヤキは、共に高さ約5b。炎にさらされた側は、樹皮が縦に大きく裂け、むき出した木質部も、ところどころ黒く変色している。しかしそれでも、新しい樹皮が生長を始め、枝には緑葉が繁っている。
最寄り駅地下鉄上沢駅から徒歩。詳しくは「マップ」か「震災モニュメントめぐり」を
88 六番町/観音さま 神戸市長田区六番町5の15
観音様の写真 商店や銀行などが並ぶ長田区の中心街から、脇道を少し入った住宅街。震災五年を経てなお空き地の目立つ街角にある石造りの一体の観音さまが。身の丈約80センチ、小さなお顔に慈愛が浮かぶ。「慰霊碑」と彫られた傍らの石版に「阪神大震災の被災者此処(ここ)に供養す」とある。
 建立したのは、地元の「福宝警備」(福原義二会長)。震災で社屋が全壊するなど大きな被害を受けた。福原会長自身も自宅が全壊。従業員の多くが被災した。2人の娘を亡くした従業員もいた。会社自体約40人の従業員が一時、半分に減ったこともあった。
 「でも、ああいう時だからこそ頑張ってこれた」と同社の石塚義人部長。ボランティアにも取り組んだ。社員数はその後、震災前の約3倍に増えている。
 観音さまの建立は震災の年の11月。「震災のことは絶対に忘れたらあかん」という福原会長の考えで、プレハブの仮社屋前に建てた。今でも、だれからともなくお花やさい銭が供えられ、毎月17日になると必ず手を合わせに来る人もいる。
 1999年5月、会社は仮社屋をようやく出て、近くの市営住宅1階に移った。観音さまは元の場所のままだ。地域に根ざした企業の心意気といえる。
最寄り駅地下鉄長田駅から西へ徒歩5分。詳しくは「マップ」か「震災モニュメントめぐり」を
89  長田神社馬場先鳥居/石碑「記憶」 神戸市長田区大道通1
長田神社の石碑 震災から4年になろうとする1998年12月、長田神社参道入口で真新しい白御影石の「馬場先鳥居」の通り初めが行われた。鳥居のある大道通地区はお隣りの御船通、川西を含めた約1150世帯のうち8割が全焼、あるいは全壊し、43人が亡くなった。
 長田神社の本来の参道(表参道)はこの「馬場先鳥居」から北へ伸びる道をいう。神社によると、鳥居は江戸時代の1648年の建立。「馬場先」とは参詣者が馬から下りる場所を表している。鳥居は震災で、二本の柱が地上1メートル足らずの根元部分で折れ、うち1本は西側の4階建てビルに倒れ込んだ。
 新たな鳥居は高さ約7メートル、接合部に鋼材を入れ耐震性を強化した。費用は当初、住民間で出し合おうとしたが、地元「まちづくり協議会」の小倉三郎会長(当時)が「みんなの金はまちづくりに使うべきだ」と再建費全額を自己負担し、神社に奉納した。小倉会長は震災後に体調を崩し、通り初めも入院中で出席できず99年4月に他界した。
 折れ残った根元部分は現在、鳥居東側の歩道に移設され、生々しい切断面が地震の衝撃を物語っている。横には「記憶」と題した石碑が建てられ、「地震を忘れず 震災を忘れず 復興まちづくりを進めようと祈念し ここに倒壊した旧鳥居の一部を存置し まちの記憶とする」と記されている。
鳥居とともに損壊した狛犬(こまいぬ)、灯籠(とうろう)各1対も再建された。雌の狛犬は子犬を珍しい形で、家出人探しの信心の対象となっている。
最寄り駅神戸高速鉄道高速長田駅から徒歩。詳しくは「マップ」か「震災モニュメントめぐり」を
90 神戸常磐女子高校/震災之碑 神戸市長田区池田上町92
神戸常磐女子高校神戸常磐女子高校の慰霊碑 校庭の東側に「震災の碑」と刻まれた石碑がある。96年1月20日に建立した。碑の周囲は、パンジーなど季節の花で彩られている。旭校長が提案。卒業生が1人1000円ずつを残して植樹などに役立ててきた寄付を元に建立した。
碑文は、「1995年1月17日、阪神淡路大震災が当地を襲った。本校生徒3名(今井宏美、秋本恵子、宮崎幸恵)をはじめ5千名以上もの尊い生命を奪い、多大の被害をもたらした。ここに亡くなった人の冥福を祈るとともに、震災の教訓を生かし、神戸の町と人々が力強く復興することを祈念し、その録しとして碑を残す」と刻まれている。3人は母親、同校卒業生の姉とともに亡くなったケースや、双子の妹とともに就寝中、はりの下敷きになって姉だけが亡くなったというケースだ。
学校には震災直後、近所の避難所に入れなかったお年寄りらが、着の身着のままで多数集まってきた。避難者はピーク時に高校体育館に600人、隣接する短大に400人。教員らの献身的な介助もあって「常磐にいけば大事にしてくれる」と避難者が増えていき、会議室も開放した。4月8日の入学式前まで使用した。残っていた50人は近くの学校に移ってもらった。
 同校は毎年1月17日前後に避難、消火訓練を行っている。
 震災に関連した詩を数多く発表している詩人、たかとう匡子さん(本名・高藤匡子)は同校の国語科教諭。卒業生のうち3年9組の震災体験文集「その日、その朝」は出版されて話題を呼んだ。
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91 JR新長田駅/寅地蔵 神戸市長田区松野通1の1
新長田駅の地図寅地蔵の写真「壁掛け地蔵さんなんです」 村井靖彦駅長は、そう言って、「寅地蔵」のカバーを外してくれた。
 縦90センチ、幅50センチ、厚さ9センチのヒノキ板に彫られた地蔵さん(菩薩像)の左まゆ毛に、大きなイボがある。寅とイボ。それだけで、これが渥美清さん、というより、寅さんが神様になった姿だと分かる。彫ったのは尼崎に住む元フーテンを自認する仏師の阪田庄乾さん。
 山田洋次監督の「男はつらいよ」のファンなら、シリーズ最後になった48作目「紅の花」(1995年12月公開)で、寅さんが震災直後に被災地の長田で活動し、最終シーンで、再び長田を訪れたことを思い出すだろう。
 その長田ロケは95年10月24日、25日に行われた。山田洋次監督の話によると、地元の人々から「寅さん誘致」の依頼が届いた当初、被災地でロケなどとんでもないと思っていたという。しかし、人情の街・長田の人々の熱意と被災地の実状を知るうちに「長田でロケをすべきなのだと考えが変わった」そうだ。
 渥美さんが死去(96年4月)した後も、地元の人々の寅さんへの思いは深まり、ロケ誘致のために地元で結成された「寅さんを迎える会」が寅地蔵の制作を決めたのが97年2月。翌年8月4日に同駅に設置され「渥美さんも天国で喜んでいるでしょう」との山田監督のメッセージ山田洋次監督のメッセージも届いた。
 除幕は98年8月4日。長田区大橋町3丁目自治会と「迎える会」が管理している。


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92 JR新長田駅/「こうのとりタイル」 神戸市長田区松野通1の1
イラスト「こうのとり」の一つ、吉永小百合さんのもの JR西日本には民営化した時から、ふだん鉄道と関係のない作家や映画監督ら文化人で作る「JR西日本応援団」があった。その「応援団」が被災地に元気を届けようと「元気HAKOBEこうのとり」キャンペーンを企画した。
 「赤ん坊」を元気の象徴としてその元気を運ぶ「こうのとり」をテーマに各界からはがきのイラストを募集し、著名人を含め1307人が賛同しはがきを模写したタイルを、新長田駅の上り線ホームに約900点、下り線ホームに約500点設置した。
 新長田駅は震災で駅舎がほぼ全壊し95年3月から96年4月まで200メートル西の仮駅舎で営業を続けていたため震災復興のシンボルと考えたものだ。
はがきを寄せた人のうち著名人は約200人。
キャンペーンの提唱者の一人でもある漫画家石ノ森章太郎さん、作詞家阿久悠さん、俳優赤井英和さん、浅野ゆう子さん、浅野温子さん、ナイナイの岡村隆史さん、矢部浩之さん、タレントの香取慎吾さん、キンキ・キッズの堂本光一さん、堂本剛さん、作曲家の小室哲哉さん、コメディアンの坂田利夫さん、俳優の高倉健さん、歌舞伎の中村勘九郎さん、女優の西田ひかるさん、野球の長嶋茂雄さん、俳優の根津甚八さん、将棋の羽生善治さん、サザン・オールスターズの原由子さん、俳優の葉月里緒菜さん、吉永小百合さん・・・ら極めて多彩な顔ぶれ。
93 アスタくにづか/鎮魂と復興のベンチ(神戸の壁) 神戸市長田区腕塚町
 神戸市長田区の公設市場に1927年、1枚の防火壁が築かれた。高さ7・3メートル、幅13・5メートル、厚さ23センチの壁は、神戸大空襲と阪神大震災の二つの大火に耐え、歴史の“物言わぬ証人”として、「神戸の壁」と呼ばれるようになった。
 震災では、壁の周辺で十数人が亡くなった。翌月、「震災の象徴に」と保存委員会ができ、両親を失った所有者の山下郁子さんや地元住民の力で、神戸市による公費解体は中止になったが、99年3月、壁はついに市街地再開発事業で解体され、淡路島・津名町に移転した。町は町立しずかホールの野外ステージにモニュメントとして復元した。
 一方、保存運動に中心的な役割を果たしてきた神戸市垂水区の現代芸術家、三原泰治さんは「壁のあった場所近くにも何か残せないものか」と、壁の基礎部分をいすの形にデザインしたモニュメントを制作した。
 「鎮魂と復興のベンチ」と名付けられたこのモニュメントは、「久二塚地区震災復興まちづくり協議会」の協力で、99年11月、神戸市長田区腕塚町5にオープンした再開発ビル「アスタくにづか」の地下通路に展示された。
 「戦災や震災の犠牲者に思いをはせてもらう中で、少しずつ色や形を変えてゆくモニュメントになれば」と三原さんは話す。東充・同協議会事務局長も「住民が思い入れを持てる物が出来てよかった」。地下回廊には、壁の保存経緯などが、壁のレリーフとともに置かれたコーナーもある。
淡路島のページにも「神戸の壁」の記事があります
最寄り駅JR新長田駅から徒歩5分。詳しくは「マップ」か「震災モニュメントめぐり」を
94 神戸市立二葉小学校/レンガのモニュメント 神戸市長田区二葉町7の1の18
二葉小学校の地図二葉小学校の写真 グラウンドの花壇の中に、レンガ色のモニュメントがある。
 校舎に被害はなかったが、グラウンドの隅にあった赤レンガ製の焼却炉が壊れた。大火に遭った周辺地域の惨状を考えれば、「とるに足らない小さな事」かもしれない。だが、同小の佐々木勉教諭は、このレンガを「震災の象徴とし、残したい」と考えていた。
 1996年4月、佐々木教諭は、防災学習や児童の心のケアを行う復興担当に就任。そして、同年11月、隔日発行の99年の1月16日に行った震災学習も「受けつごう震災体験・やさしさわすれないで」をテーマに、学校近くの仮設集合店舗の関係者ら地域住民から体験を聞いた。
 モニュメントはそれほど目立つ存在ではない。だが、モニュメントを製作したことで「あの体験を忘れない」との意識が確実に学校生活に残った。
 除幕式で女子児童が読んだ作文の一節には、ボランティアへの感謝などを「いつまでもわすれません」と書かれ、こう続けている。
今日からは                        
ぼくたちが
わたしたちが
やさしさをわけてあげられる人になりたいです。
99年3月24日、二葉小からも震災を経験した6年児童が巣立った。
「その思い、いつまでも忘れないでね」 モニュメントも呼びかけている。
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95 日吉町ポケットパーク/あわせの地蔵 神戸市長田区日吉町5の4    
ポケットパークの地図ポケットパークのあわせ地蔵 震災で大火に遭った。ポケットパークは市の土地区画整理事業で完成した防災公園。そこに地蔵堂がある。中央に柔和なほほ笑みを浮かべる木彫りのお地蔵さん、その左右に赤い着物を身につけた小さなお地蔵さんの計3体が並ぶ。
 「左右のお地蔵さんは、震災前から地域にあったもの。中央のお地蔵さんは、寄贈されたものです」。自転車店経営の町内会長、石井弘利さんが説明してくれた。
 あの日の火災は町を焼き尽くし、5丁目だけで27人が犠牲になった。町内に祭られていた2体の地蔵さんも、火災で1体は黒こげ、もう1体は頭部がなくなった。安住の場もなく、近くの寺に引き取ってもらうことになった。そして「旅立ち前にきれいにしてあげよう」と、石井さんらは頭部を粘土でつくり、1995年8月23日、お別れの地蔵盆を開いた。
 「そしたら、可愛くなってしもうてなあ」          
 お地蔵さんは地域で守っていこう。新たな決意が住民に生まれた。その時の法要に来ていた、大阪府内の寺の住職らでつくる「仏教ボランティア大阪」が、木彫りの「あわせ地蔵」とお堂を寄贈した。
 98年8月22日に完成した地蔵堂の台座には、焼け跡から出た遺品が収められ、内部の名札には、周辺地区の犠牲者名と寄進者名が書かれている。お堂の裏側は、防災器具倉庫になっている。地域への愛着、ボランティアとの交流、後世への教訓…がお堂に詰まっている。
 同地区にも新しい家が建ち始めたが住民はまだ震災前の3分の1程度。それでも「ここはみんなの『帰る場所』だから」と石井さんは、毎朝お堂の扉を開ける。仲間が集いやすいよう、1月15日の震災慰霊祭と8月23〜24日の地蔵盆の日取りも変えないつもりだ。
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仏教ボランティア大阪が贈った「あわせの地蔵音頭」はここに
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96  鷹取教会/キリスト像 神戸市長田区海運町3の3の8  
鷹取教会のキリスト像 両手を広げたキリスト像は、震災で施設の大半が焼失した中、焼け残った。約二千平方bの敷地内には、プレハブ小屋が並び、一見しただけでは教会とは分からない。映画に出てくる野戦病院のような、あるいは学園祭の模擬店を集めたような外観だ。
 1927年に出来た教会。建ち並ぶ小屋は、被災地支援の活動拠点として建設され、現在は地域放送局やNGOの拠点になっている。教会のシンボルとも言える聖堂はまだ再建されていない。聖堂跡には紙製の円柱で構成された集会所「ペーパー・ドーム」があり、全国から建築関係者らが珍しい建物を一目見ようと訪れる。
 「ペーパー・ドーム」は「全国から集まったボランティアと地域の出会いの場」(神田裕司祭)の中核施設として震災のあった1995年9月に建設された。58本の柱とはりが紙製で、柱は直径30センチ、高さ5メートルで中空の構造。巨大なファックス用紙の芯と考えれば分かりやすい。元々は国連高等弁務官事務所が難民用シェルターとして研究していたもので、学生ら延べ1000人のボランティアの手作りだ。
 多国語コミュニティー放送局「FMわいわい」は震災1周年の96年1月17日に開設された。言語のハンディを負う外国人にも平等に情報を提供しようとの試みだった。現在は会社組織に変更され、地域情報の発信基地になっている。
 阪神大震災は宗教も人種も年齢も超えて、人々が助け合う貴重な体験をした。この教会は今も、地域の人々とボランティアが「多文化共生」を復興の理念に掲げて行動する最前線である。
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97 満福寺/慰霊之碑 神戸市長田区海運町4の1
満福寺の慰霊碑の写真 「『ドカーン』という地割れの大きな音を聞いたんです。そして、大地震が起こりました」。住職の志保見文彦さんは、阪神大震災の瞬間を語る。寝所から戸外へ脱出すると、本堂と庫裏は崩れ、鐘撞堂は横転、山門は傾いていた。
 しかし、不思議なことに境内の西南部にある青銅製の白衣観音(高さ約3メートル)だけは、いつもと変わらず姿勢よく立っていた。周囲のろうそく立ても、はめてあるガラスさえ割れていなかった。「その地盤だけ、たまたま堅固であったといえば、それだけのことかもしれませんが……」               街を焼き尽くした大火は、風にあおられ、寺に迫った。北から飛んでくる火の粉が、外壁を越えて寺内の樹木に次々に燃え移った。志保見さんは延焼をくい止めようと、木を切り倒し続けていた。その時、ぱたっと風がやんだ。そして風向きが変わり、火が急速に寺から遠のいた。結果的に、寺と白衣観音の背後にあたる寺の西側の街は火災から救われた。
 「寺は守られたが、多くの方が亡くなっています。偶然かもしれんし、このことは、あまり話しませんでした」と志保見さん。しかし、1995年11月、近隣住民の犠牲者の鎮魂碑である「阪神・淡路大震災慰霊之碑」(青石製、高さ1・8メートル)を建立するにあたり、住職は「観音様の近くがよい」と、白衣観音の並びに碑を置いた。
 新しい本堂も建てられた。変わりゆく街で、せめてもの歴史をとどめようと、修復可能だった山門や石垣は、昔ながらの姿に戻した。 山門前の寺の名を刻んだ石柱は、震災で三つに折れたが、つなぎ直してそのまま残した。金属の枠で四方を囲み、補強して立たせている。
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98  大国公園/倒壊鳥居の石を使ったモニュメント 神戸市長田区本庄町2の1
まちづくり協議会のモニュメント 震災で地区864戸の住宅のうち全壊・全焼家屋が70%、半壊・半焼を加えると96%の家屋が被害を受けた。ほとんどが木造老朽家屋の下敷きになって41人が死亡した。しかし、コミュニティの結束の強さから、倒壊家屋からいち早くお年寄りらが救出されたほか、消防活動も行われ最小の被害ですんだという。
 モニュメントの材料は、神戸市灘区にある「六甲八幡神社」の倒れた鳥居の石。東灘区真言宗寺院「理性院」で、神奈川県横須賀市秋谷1の11の11、仏師、岡倉俊彦さん(1940年生まれ)が、菩薩像、お地蔵の2体に加工した。まちづくり協議会長、浅山三郎さんが大国公園への受け入れを決めた。95年7月9日、開眼法要のあと、公園に設置された。
 お地蔵さんの表側には、海辺や魚をアレンジした彫刻が施されている。裏面には、浅山さんの要望で「開拓心地」の言葉も刻まれている。旧野田村時代から伝わる言葉で「土地を開いて、人の心を開く」の意。水田地帯だった同地区を住宅商業地域に発展させた先代のまちづくりに対する敬意とともに、今後は「まちづくりは人づくり」の思いで復興にあたりたいとの決意がこめられている。台座になっている巨大な御影石は、阪神大水害(1938年7月5日)で高取山からここに流れ着いたという。
 地区で亡くなった人たちについては、九州から来た仏教ボランティアの手で7カ町ごとに追悼、慰霊法要を営んだ。震災3カ月後には合同慰霊祭も行った。その後は慰霊式典よりも「地区を離れていった遺族が、一日も早く町に帰ってこれるために」公営・民間借り上げ共同住宅の建設などにお金をかけてきたおかげで、約8割の人たちが地区に帰ってくることができた。毎年1月17日にはだれかれとなく地蔵さんにお参りする姿が見られるという。
 大国公園は、元々、池を埋め立てた土地。大黒さんを祭っていたという言い伝えからその名がついた。昭和初期に、須磨区大手町のお寺の火災でここに本尊が移されてきた。阪神大震災の時、火災の延焼を防いだクスノキは、この時、植樹されたものだ。
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99  大国公園/写真プレート 神戸市長田区本庄町2の1
写真プレート火災延焼を防いだ公園に建つ。震災直後の町をステンレス板の写真で紹介している。








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100 大国公園/「復興基準点」 神戸市長田区本庄町2の1
復興基準点建設省国土地理院が震災後の復興区画整理、市街地再開発事業のための測量基準点として作った。








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