音符のライン
阪神大震災モニュメントマップ
音符のライン

兵庫県明石市
(番号は「2000年版震災モニュメントマップ」と同じ番号です)
113  明石公園/2メートル9センチの詩碑 明石市明石公園内本丸跡南
明石公園の慰霊碑とジャイアント馬場さんの姿これは いつかあったこと
これは いつかあること
だから よく記憶すること
だから 繰り返し記憶すること
このさき
わたしたちが生きのびるために


この詩は詩人 安水稔和さんの「これは」
98年4月に除幕された碑は、高さ209センチ。
なぜこの高さなのか。99年1月亡くなったプロレスラー、ジャイアント馬場さんの背と同じなのである。
馬場さんは生前から「明石は第2の故郷だ」と話していた。
明石公園はかつてプロ野球のキャンプ地。馬場さんは読売ジャイアンツ時代、明石キャンプに来て妻元子さんと知り合った。
プロレス入りしてからも興行で関西に来ると元子さんの親戚の家に泊まった。
震災で明石も大きな被害を受けた。しかし、あまりマスコミには取り上げなかった。その話を聞いた馬場さんは興行の際、募金箱を置いて義援金を募った。使途を相談された元子さんの親戚や明石ロータリークラブの会長だった開業医、田路良博さんらが記念碑を作ることを決めた。
式に参列した馬場さんが碑の前に立った写真がある。人柄をしのばせるはにかんだような笑顔。その人柄もあってか、馬場さんと明石公園の碑のかかわりもほとんど知られることもなく馬場さんは逝った。
碑にも「寄贈 全日本プロレスリング」の名はあるが「ジャイアント馬場」はない。
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最寄り駅JR明石駅徒歩すぐ。詳しくは「マップ」か「震災モニュメントめぐり」を
114  明石銀座商店街/偲ぶ碑・タイムカプセル 明石市桜町11
明石銀座通りの地図明石銀座通りの写真JR、山陽電車共用の明石駅近くの国道2号の交差点南東角。明石市桜町の「明石銀座商店街」の北側入り口にその石碑はある。碑の頂上にある石の鳩が目を引く。
 「兵庫県南部地震を偲ぶ碑」は、明石市内の高齢者でつくる「明石市高年クラブ連合会」によって1998年3月17日に建立、同市に寄贈された。
 碑文には同クラブの3原則「健康・友愛・奉仕」の文字と並んで、「復興のシンボルとして」と意義が刻まれている。「全国からの義援金で出来たもの。横断歩道で待つわずかな間でも多くの人に助けてもらったこと、あの日の記憶を思い起こしてほしい」と会長の橘賢次さん。将来に語り伝えるために、石碑下には震災当時の体験記録、写真、新聞記事などを詰めたタイムカプセルが保管されている。「震災半世紀」に開かれる。
 震源地の淡路島・北淡町を明石海峡越しに臨む同市も、東部を中心に震災の被害が大きかった。10人が死亡、1884人が負傷、全壊2941棟、半壊6673棟。震災後、仮設住宅856戸が建設され、雨風をしのぐための青いビニールシートの屋根が目立った。
 横断歩道を挟んで西側には、49年2月、480戸が燃えた大火災を教訓とした、火の用心の拍子木を持った子供のブロンズ碑も建つ。
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115 観音寺/やすらぎ観音 明石市二見町東二見1643
観音寺のやすらぎ地蔵 ボランティア団体「RACK」(臨済アジアセンター神戸)が、震災後、亡くなった人の数だけつくり、被災者に配った「やすらぎ地蔵」という身の丈10センチほどのお地蔵さんがある。被災地の土を混ぜて焼き、空を見上げで合掌する姿は、RACK会長で花園大学長、河野太通さんのデザイン。うち5000体は、交流のあるベトナムで焼かれた。
 「やすらぎ観音」は、このお地蔵さんづくりにかかわった観音寺住職の神足(こうたり)守正さんが、同様に「鎮魂と復興」の思いで、自分の寺に建てた。いわば、兄弟にあたる。
「うちは本尊が観音さまですから」。身の丈約2メートル。震災丸1年に開眼した。
 境内の墓石は約60基も倒れたが、本堂が無事だった河野さんは、震災直後からRACKの仲間と避難所を単車で回り、便所掃除などの活動をした。観音さまには「慈悲の力で被災者や復興を温かく見守っていただきたい」をお祈りしているという。

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