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阪神大震災モニュメントマップ
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神戸市須磨区   
(番号は「2000年版震災モニュメントマップ」と同じ番号です)
101 須磨区役所前/桜の植樹・タイムカプセル 神戸市須磨区中島町1
タイムカプセル 「30年たったら、私はいないかもしれないけれど、忘れないでね」。水野美禰子さんは、「埋蔵式」で孫のような子供たちと植樹したサクラの花を見るたびに、震災を思い起こす。
 神戸市の須磨区こども会連合会の代表として、震災後、犠牲になったこども会のメンバー5人の遺族の居場所を探すのに三カ月をかけた。その間に、街は少しずつ復旧し、やがて避難所になっていた須磨区役所前の下中島公園に、区役所主催の震災1周年事業として、サクラの植樹とタイムカプセルが埋設された。
 高さ55センチ、幅60センチ、奥行き80センチの石箱の中に、亡くなった子供たちの名簿や老人クラブの手記、役所の職員名簿、マスコミが出版した震災記録などが納められたのは1996年1月31日だった。同時に、公園の記念植樹も行われた。カプセルを収納した石版の記念碑には、「震災タイムカプセルここに眠る 開封日2025年吉日」と刻まれている。

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102  海浜公園/被災した橋脚 神戸市須磨区若宮町1の3
被災した橋脚 山が海に迫る阪神間では、東西の道路が主要路線だ。神戸市と明石市を結ぶ県道の神戸明石線は、阪神高速や国道2号と並び、1日の交通量が3万台を超える大動脈。
 道路は、神戸市長田区御屋敷通3丁目で、山陽電鉄をまたぐ。4車線全長178・7メートルのこの西代跨線橋は、震災で橋脚6基のうち5基が折れ曲がったり破断したりした。
 道路を管理する神戸市建設局西部工事事務所が須磨区若宮町の海浜公園の東端に、この被災橋脚の一部を展示している。跨線橋周辺は犠牲者が多かったため、気持ちをくんで現地から離れた場所を選んだ。97年末完成した。
 「嫌な思い出を残すためではない。想像を上回るほどの力がかかったということを知ってほしかった」と担当者は話す。
 震災の経験を明日の街づくりにどう生かすか。橋脚の無惨な姿は、それを私たちに問いかけている。
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103 須磨寺正覚院/引き取られたお地蔵さん 神戸市須磨区須磨寺町4の2
須磨寺正覚院の地図正覚院のお地蔵さん神戸市・須磨寺の塔頭。その境内に小さな地蔵が集まっている。
 同院では震災前から、区画整理などで一時的に居場所がなくなった地蔵を預かっていた。そんな事情からか、震災後、長田区や兵庫区など、被害が大きかった市西部の住民から「お世話出来ないので引き取って」という依頼が相次いだ。境内に、知らないうちにこっそり置かれていることも少なくなかった。
 「お地蔵さんを手放すことはつらく、悲しいことだからでしょう」と三浦真厳住職は人々の心情を推し量り、台座は三浦住職が作った。
須磨区天神町の青果卸売業、村井俊介さんも地蔵を託した一人だ。約50年前からあった地蔵は世話人が市外へ避難したうえ、区画整理事業のためお堂の置き場所もなくなった。1996年8月、正覚院へ。
 「私や子供が健康なのも地蔵さんのおかげだから」と、村井さんは仕事が終わると毎日必ず立ち寄り、水をかけ、線香をたく。           
 地蔵を中心に地域住民が集う地蔵盆をことのほか大切にする人々。ここに祭られた約30体のお地蔵さんは、30通りの地域の歴史と、そこの人々の営みを見つめてきたのだ。

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104 須磨寺仁王門横/追悼碑 神戸市須磨区須磨寺町4の6

須磨寺仁王門横の追悼碑 須磨寺の龍華橋を渡り仁王門をくぐった右手に「阪神淡路大震災物故者追悼碑」と書かれた目印の石が目に入る。三方を塀に囲まれた石段の奥にこの碑が立っている。
 碑は財団法人「全日本仏教会」(59宗派、102団体)が創立40周年として寺の敷地を借りて建立、1997年10月15日除幕した。高さ3・3メートルの青御影石製。半球型の台座の上に、仏教式の供養塔がそびえる。一宗派の宗旨に偏らないように留意された。
 全日本仏教会は地震直後から、被災者支援活動を展開した。独自に義援金募集の口座を開設、「被災者に直接届けたい」と義援金は公的機関でなく、仏教系ボランティア団体を中心に寄託した。「曹洞宗国際ボランティア会」、「臨済アジアセンター神戸」、各宗派青年組織などが、避難所に救援物資を届けるなどした。四十九日に当たる1995年3月6日には全国の関係寺院に呼びかけ弔意を示す鐘を一斉についた。全日本仏教徒会議も神戸市長田区で開催され、被災者を招いて落語などを催したり、会場で被災者手作り品を展示、即売した。だが、阪神大震災を機に仏教界、仏教者のあり方が問われたのも事実だ。白幡憲佑・前理事長は創立四十周年記念誌に寄せたあいさつ文で、「復旧が進むにつれ、最も必要なのは心の救援だと指摘されました。だがこの声に充分こたえられなかった無力さを今日も忘れることはできません」と書いた。
 追悼碑の横に建てられた「記録誌碑」には、以下のような碑文が刻まれている。「釈尊の『常あるものなし』の教えが、現代に於ても真実であることを知らされたのである。この悲しみ、この苦しみを風化させてはいけない」
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105 須磨浦公園みどりの塔/落下した2.4トンの地球儀 神戸市須磨区一の谷町5の2
みどりの塔みどりの塔の説明 須磨浦公園の東端、桜並木の散策路の山側にある女神像を台座に頂いた「みどりの塔」は、戦後、神戸市のモニュメントでは最も早い1953年に建てられた。
 塔をコの字形に石塀が囲み、左右の塀の上に高さ1・5メートルの石柱が立つ。その頂きにあった一対の石の地球儀(直径1・2メートル)のうち、左の地球儀が地震の揺れで塀の外側に落ち、そのままの状態で残されている。
 「重さ2・4トンの地球儀を落下させた兵庫県南部地震は、正に『地球』すなわち『わたしたちの世界』を根底から揺り動かした、言語を絶する出来事だった……(略)……あの忌まわしい震災の日々の記憶を失ってしまわないためにも、この落下した地球儀をしっかり見つめ直す必要があるのではないでしょうか」
 落下した地球儀の横に、ほぼ同じ大きさの半球をつくり、落下の様子を点線と矢印で説明した写真と、碑文が記されている。
 神戸市が1996年、市内の公園を管理する各建設事務所に「震災を後世にそのまま残せるものがあったら、企画して欲しい」と呼びかけ、当時、西部建設事務所公園緑地係長だった林潤一さんが考案。翌年3月に完成した。
 みどりの塔は彫刻家の故・新谷英夫さんの作。新谷氏は、震災で神戸市中央区の自宅が倒壊、下敷きとなり、約1週間後に亡くなった。長男で塔の制作にも携わったe紀(ゆうき)さんは神戸女子大教授。

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