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阪神大震災モニュメントマップ
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神戸市東灘区
(番号は「2000年版震災モニュメントマップ」と同じ番号です)
47  甲南大学/記念碑「常ニ備ヘヨ」     神戸市東灘区岡本8の9
甲南大学の地図甲南大学の慰霊碑写真 白壁の美しさから「白亜城」と呼ばれた旧制高校の面影を残す本部棟。記念碑はその前に立つ。碑には甲南学園創立者の故・平生釟三郎氏の筆による「常ニ備ヘヨ」という文字が刻まれている。
 学園はこれまでに2度、大災害に見舞われた。1938(昭和13)年7月、阪神大水害で、前身の旧制高校を土石流が襲った。全校生徒がスコップを手に、教室や校庭の土砂を運び出した。平生氏は、復旧作業に汗を流す生徒たちを見舞い、「自然はこんな災害を必ず幾回も繰り返す」と訓示している。この時の経験を忘れまいと甲南小学校に平生氏の筆による「常ニ備ヘヨ」との石碑が建てられた。
 そして半世紀後の阪神大震災。大学の校舎のほぼ半数の5棟が全壊し、学生16人が亡くなった。
 2年後の97年3月、すべての校舎復旧が完了。これに合わせて同年4月、甲南小学校と同じ平生氏の筆を刻んだ御影石の記念碑が新たに建てられ、両方の災害の日付が刻まれた。
 「備ヘ」の教訓を受け、新校舎は耐震構造を取り入れ、廊下や階段の幅が広く、非常時に避難しやすくつくられた。碑文は、当時の理事長、学長名でこう続いている。
「天の災いを試練と受け止め 常に備えて 悠久の自然と共に生き 輝ける未来を開いていこう」
ウォークリポートにも記事があります
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最寄り駅阪急岡本駅から徒歩10分。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
48   宝島池公園/慰霊碑   神戸市東灘区深江北町1の7
宝島池公園の地図宝島池公園慰霊碑の写真「ほうとういけこうえん」と読む。江戸時代には半農半漁の町に作られたため池だったという。
 ほぼ中央に、高さ1メートル、幅1・2メートルのどっしりとした御影石造りの慰霊碑が建っている。
 建立したのは、東灘区深江北町一、二丁目、本庄町一丁目の3町でつくる「繁栄自治会」。「大字繁盛」の「繁」と、「栄町通り」の「栄」をとってつけられた。震災では1600世帯のうち8割以上が全半壊(焼)し、自治会単位では市内最多の97人が犠牲になった。「慰霊碑」の碑文には
「95柱の御霊をここに祀る」とあるが、その後2人の死亡が確認され、全員の名前を記した奉書が台座に納められた。
 97年3月、碑が完成した。
 深江地区にある「大日霊女神社」の例祭。鐘や太鼓の音に合わせて、70人余りの男衆がひく高さ約4メートル、重さ3トンの「地車」が公園の周囲を練り歩く。半世紀前の空襲で焼失し、震災の翌年、地域の人々の寄付で復活した。
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最寄り駅阪神芦屋駅から線路の北側を西へすぐ。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
49  本庄墓地/慰霊碑     神戸市東灘区深江北町5の4
本庄墓地の地図本庄墓地の碑 阪神電鉄の線路沿い。墓地の入口近くにある。
 
「阪神・淡路大震災 犠牲者慰霊碑」高さ約2メートルの御影石でつくられ、第二次大戦の空襲犠牲者慰霊碑、忠魂碑と並んでいる。
 旧本庄村だった深江、青木、西青木の3地区では、激震が襲ったあの日、約4割の家屋が倒壊し、330人余りが命を失った。阪神高速道路の高架が横倒しになった現場にもほど近い。町並みも、人々の生活もあの日を境に一変した。
 「犠牲になった人々を偲ぶ碑を作ろう」。震災1年後の1996年1月、地元自治組織の本庄協議会の会合で、慰霊碑建立の話が持ち上がった。場所は江戸時代からあり、約2000の墓石が建つ本庄墓地に決まった。
 協議会と同じメンバーで作る本庄共有墓地管理委員会が設置者となり、3回忌の97年1月17日に慰霊碑は除幕された。式には遺族ら約100人が参列した。
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最寄り駅阪神深江駅線路沿いに西に歩いて5分。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントマップ」を
50 中野南公園/慰霊碑「命」   神戸市東灘区本山南町7の2
中野南公園の碑 公園の片隅で、ひときわ目をひく「命」の文字。
 震災直後、同公園には、学校などの避難所に入れなかった被災者約100人が身を寄せ合っていた。1995年夏、仲間との雑談で「震災の記憶を永遠にとどめるような記念碑を建てよう」と話が持ち上がった。依田さんは「犠牲者を追悼するだけでなく、私たち生き残った者の心のよりどころにしたい」と考え、テント村自治会組織を超えて「慰霊碑を建てる会」を結成。全国に募金を呼びかけたところ、1年たらずで65万円集まった。金額的には足りなかったが、テント村住民の一人が、岡山県笠岡市の石材会社「一亭石材加工場」で働く知人に相談したところ、「ぜひ協力したい」と申し出を受け、公園横に建立が決まった。
 碑に刻むメッセージは、最後までテント村に残っていた仲間と一緒に考えた。激動の1年間を振り返り、
「命」「平和とやすらぎの中で忘れられぬように」に決めた。そして、裏には「ありがとう/地球の仲間たち/あたたかい心/大きな愛/忘れない」と、全国からの支援に対する感謝を添え、96年3月、仲間が集まって除幕した。
 慰霊碑の横には花壇も完成し、地元の老人クラブが花壇の手入れや周辺の掃除を手伝ってくれる。
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最寄り駅JR摂津本山駅から南東徒歩10分。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
51 本山第三小学校/「みんなの心の木」しだれ梅の植樹 神戸市東灘区本山中町1の2の35
本山第3中学校のしだれ梅 校庭横の花壇に、「みんなの心の木」と名付けて植えられた「しだれ梅」が1メートルほどの枝を何本も垂らしている。
 震災で2棟の校舎のうち1棟が全壊。児童6人、家族を含めると28人が死亡した。直後は住民約2500人が避難し、校庭には、救援物資を保管する巨大なテントが並んだ。1997年8月に新しい校舎が完成するまで、残った校舎と近くの公園に建設されたプレハブ校舎に分かれて、授業が行われた。
 震災の年の11月の朝会で当時校長だった野村晋治さんは子供たちに語りかけた。「校庭の樹木は、震災でも倒れなかった。私たちもしっかり大地に根を張り、亡くなった友人の分も生きて行こう」。これがきっかけとなり児童会が、亡くなった6人の慰霊のために、植樹を決めた。募金を呼びかけ、一周忌の96年1月17日、しだれ梅を全児童がひと握りずつ土をかけて植えた。梅は、この季節に花を咲かせるからだ。
 そばのプレートには、6人の名とともに
「亡くなった人たちに見守られ、私たちが命を大切にして、力を合わせ助け合いながら、震災を乗り越え、強く生きて行こうとする気持ちを込めて植えられた木です」とある。
 毎年1月17日の前に、6年生が1年生に木の由来や震災の記憶を語る時間を設けるほか、全児童による「みんなの心の木を囲む集い」を行っている。
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最寄り駅JR甲南山手駅から西へ徒歩10分。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
52 中野北公園/慰霊碑   神戸市東灘区本山中町2の12
中野北公園の地図中野北公園の慰霊碑写真 神戸市戸市東灘区本山中町1〜3丁目。JR東海道線と国道2号に挟まれた南北300メートル、東西700メートルのこの地域で、75人が震災の犠牲になった。「地域で一緒に生きてきた人たちを忘れない」。中野北公園の「慰霊碑」には、犠牲者全員の名前が刻まれている。
 あの日、中野地区青年会長だった2丁目の酒店経営、小田雄二さんは倒れた商品や家具をかき分け外に出た。「助けて下さい」。姿なき声があちこちから聞こえた。3分の2以上の木造家屋が壊れていた。
 余震の中、青年会の若者らを指揮して救助に回った。翌日には無人の倒壊家屋から出火。火の粉が飛び、瓦がなくなった屋根に燃え移る。若者たちはほうきなどでそれをたたいて回った。
 2丁目だけで死者は42人。「お別れさえ、満足にできなかった」。約1カ月後、悔しさがあふれてきた。「1年後には絶対、追悼式をしよう」。自警団の仲間にそう呼びかけ、1〜3丁目各自治会が共同で慰霊碑を建てることに。 碑は青御影石製で、高さ125センチ、幅140センチ。公園西端の本山中町会館の南で96年1月17日、除幕した。神戸市内の公園では最初だった。その後も、毎年1月17日、碑の前で「しのぶ会」が続けられている。
最寄り駅JR摂津本山駅から東へ徒歩5分。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
53  保久良神社/折れた鳥居の「記念石」   神戸市東灘区本山町北畑680
保久良神社の折れた鳥居の記念石 大阪湾を望む天王山の山頂にある保久良神社は、境内に古代の祭祀遺跡とされる環状列石が残るほか、弥生時代の土器なども出土しており、太古から神聖な場所だったらしい。また、大鳥居の前に立つ石燈の火は、航行する船の目印として「灘の一つ火」と呼ばれた。海に生きる人たちの守り神としても親しまれてきた。
 宮司の猿丸義也さんはあの朝、いつものように、ふもとの社務所から約20分の道のりを神社まで登り、社殿に入ろうとしていたところだった。衝撃とともに体が持ち上げられ、柱に必死でしがみついた。「爆弾が落ちた」と思い、地震だと気付いたのは、しばらく経ってからだった。もうもうとした土ぼこりの中を見渡すと、先代の宮司だった父が1940年に改築した社殿はほぼ全壊、大鳥居は倒れて折れ、「灘の一つ火」の石燈も、がけ下の道路にころげ落ちて壊れていた。急坂の続く保久良神社への道は、六甲山系で盛んな早朝登山のコースの一つ。当時も境内には20〜30人がいたが、高齢男性4人が休憩所の下敷きになり亡くなった。
 神社の復興は比較的早かった。震災の年の12月にまず、石燈を修復した。戦争中を除いて消えたことがない石燈の明かりは、地域住民にとって心のより所だからだ。大鳥居と社殿の修復は翌年10月と12月。氏子や早朝登山のメンバーと、近くの神戸商船大の卒業生ら海で働く人たちからの寄付だ。あわせて、震災の恐ろしさを伝えるため、折れた古い大鳥居の一部をそのまま「記念石」のモニュメントとして残した。
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54  中之町公園/「慰霊碑」   神戸市東灘区田中町2の7
 「阪神・淡路大震災犠牲者ご芳名」の文字とともに、田中町一丁目から五丁目、甲南町二丁目から四丁目という地域ごとに百三十三人の名前が刻まれた碑。
 田中町と甲南町からなる田中地区は、第二次大戦中の神戸空襲で多くの家が焼かれ、戦後に再建された住宅街。阪神大震災は、そんな町並みの約8割を破壊した。家の下敷きになり命を奪われた人は「慰霊碑」に記名されなかった人も含め146人にのぼった。
 碑は高さ約1・4メートル、横2・2メートルの御影石製。震災から丸3年の1998年1月17日、田中財産区管理会と田中区評議会によって建立された。除幕には、神戸を離れた遺族が北海道や九州からも参列した。
 中之町公園には、仮設住宅14戸が建てられたが、99年1月末に全ての被災者が震災復興住宅などへ転居した。自粛していた地区の盆踊り大会もその年の夏に4年ぶりに開かれた。春祭りでも、東灘区で一番大きな田中地区のだんじりをはやし立てる掛け声が以前のように聞かれるようになった。
 しかし、増井清次・田中区評議会会長は「震災までの住民の約2割が、地域外に転居したまま。『戻りたいけど戻れない』という人も少なくない」と言う。
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55  本山国道2号線/お地蔵さん(再建)  神戸市東灘区本山中町4の1の6
国道地蔵 JR摂津本山駅の南東、本山中町の国道2号線の北側に1932(昭和7)年に建立された「国道地蔵」は交通安全のためのお地蔵さん。震災で壊れたが、98年8月、再建された。地元有志23人が発起人になり再建実行委員会を作って建て直した。交通事故と震災犠牲者の供養を祈念している。








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56 魚崎の特別養護老人ホーム/慰霊碑  神戸市東灘区魚崎中町4の10
 神戸市東灘区魚崎地区は200人以上の死者を出す大きな被害を受けた。魚崎小学校に隣接する魚崎財産区所有地に、立派な御影石の慰霊碑がある。老人ホーム1階のコミュニティースペースのテラスからもよく見える。
 背面の銘板の記述は地震の発生日時などを書いただけでシンプルだが、建立者として
「魚崎財産区」「魚崎町協議会」とともに、義援金を寄せた「鳥取県(日野郡)江府町」の名称が刻まれている。
 第二次大戦中、魚崎地区の子供たちが江府町に疎開していたお礼に住民が同町を訪問したことがきっかけになり、10年ごしの交流が続いている。「都市と農村の交流」事業のモデルケースとして江府町の特産品の販売に魚崎地区の住民が協力するなどしていた。
 震災当日の深夜、江府町から福田正臣町長を先頭に飲料水やおむすび100人分などの救援物資を積んだトラック4台が到着した。福田町長は、「六甲山をぐるっと回って現場に着くまで18時間もかかった。1滴も水を飲んでいなかったという人もいて、行ったかいがありました」と、振り返る。
 その後も江府町からの支援は続き、「被災児を喜ばそう」と、雪遊び用に大量の雪をトラックで運んで来てくれたりもしたという。
 歯科医師で魚崎町協議会会長だった寺内fさんは震災直後、住民代表として役所との打ち合わせなどに奔走した。江府町からの寄付金を「形の残るように使おう」と、慰霊碑の建立を提案。1996年5月に完成式典をした。震災の疲れもあり、寺内さんは翌97年に肝臓がんのため76歳で亡くなった。妻の房子さんは、98年に江府町を訪問。「夏祭りを見せてもらい、夫への感謝状までいただきました」と語った。
 慰霊碑は土台も含めた高さが約3b。わきには太平洋戦争の戦死者のための忠魂碑が建つ。
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57  求女塚東公園/慰霊碑   神戸市東灘区住吉宮町1の9
もとめづかひがし公園の地図もとめづかひがし公園慰霊碑の写真 悲恋物語の伝説にちなむ碑がある。その公園に1996年5月、もう一つの碑「阪神淡路大震災慰霊碑」が建った。自治会の住之江地区協議会などが施主となった。背丈ほどの高さの石碑に、地区の形の石板がはめ込まれ、裏には40人の犠牲者の名前が刻んである。
 震災で地区内の約1100世帯のうち、5割以上の家が全半壊した。慰霊碑には、花が絶えない。近くで花屋を営む川口一栄さん(68)も供え続けている。川口さんも親類を亡くした。「人のためにやっているのではなく、自分のためなんですよ」        
 金魚草、カーネーション、アイリス。アイリスはギリシャ神話の女神。求女塚の公園に似つかわしい。
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最寄り駅阪神住吉駅から北東へ。市立遊喜幼稚園の東側。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
58 弓弦羽神社/慰霊之碑  神戸市東灘区御影町郡家千本田125の6
ゆずるは神社の地図ゆずるは神社慰霊碑の写真  108人の名が刻まれている。山手幹線沿いの住宅街にある弓弦羽神社)の参道入り口に「慰霊之碑」がある。
 御影郷と呼ばれた地域。阪急電車が走り、時代ととも開発は進み、同神社の氏子地区など計10地域の人口は増え続けた。
 「10地区だけで130人もの人々が犠牲になった」と同神社の澤田政泰宮司。肉親を、友人を、仲間を失った住民らは、少しずつ街並みが復旧していく中で「手を合わせる場所がほしい」と思い始めた。そして、各地区の自治会が動き、資金を出し合った。
 震災丸4年の99年1月17日に除幕式が行われた。その碑が建った土地も、神社に寄贈された。
 名前を刻まれた108人の中には、異国の地に骨を埋めた外国人2人も含まれている。
弓弦羽神社のWEBはここ
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59    御影工業高校/さざんかの植樹  神戸市東灘区御影中町3の2の1
さざんかの木 阪神電鉄御影駅のすぐ北側。正門を入ってすぐ左手に三本のさざんか(山茶花)の苗木が植わっている。脇に「震災復興の木」と書かれたヒノキの柱が立つ。震災で亡くなった三人の生徒への慰霊の思いが込められている。
 学校近くに住んでいた松尾貴広君、見谷雄次君、山下能永君の三人は、自宅で倒れてきた柱に挟まれるなどして亡くなった。一年生だった松尾君は入学して初めて迎えた冬だった。三年生の見谷君、山下君はあとひと月で卒業だった。さらに、卒業式前日、三年生の男子生徒が登校中、復旧工事で混み合う国道で交通事故死する不幸なできごともあった。
 卒業式。見谷君らの遺影が友人たちの手にあった。卒業生約270人の中にも自宅の全半壊、全焼など被害を受けた生徒が60人近くいた。全員で黙とうをして若くして命を落とした同級生の死を悼んだ。それから数週間、震災復興への願いも込めて卒業生や先生らがお金を出しあって山茶花を植えた。
 学校では毎年1月17日、全校集会を開いて震災の犠牲者の冥福を祈る。山茶花が赤い花をつけるのも同じ1月。その花を前にして両手を合わせる当時の避難者もいるという。
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