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モニュメントウォークの記録です
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毎日新聞 1999年10月22日
建立者と語り合おう 10月 21日、神戸で震災モニュメントマップ作成委が「集い」
阪神大震災の被災地に建つモニュメントの所在を示したマップを使って交流ウオークを重ねている「震災モニュメントマップ作成委員会」(事務局・がんばろう!神戸)は21日、「震災モニュメントを建立された方々との集い」を神戸市北区の神戸市立鵯越墓園や同市中央区のフェニックスプラザで開く。

現在、同委員会は震災モニュメント105カ所を確認しているが、うち約10カ所のモニュメントを建立した有志の人たちや遺族を囲み、意見交換などを行う。

スケジュールは午後1時に、JR三ノ宮駅前(三宮そごう本館近くのバス停)から貸し切りバスで出発(集合は15分前)。鵯越墓園に向かい、震災の身元不明遺骨が納められている無縁慰霊碑を訪れ、慰霊。また、三宮に戻り午後3時からフェニックスプラザ2階多目的室で意見交換会を開催する。

参加費無料。定員約140人。できるだけ事前申し込みを。同事務局(078・595・1500、ファクス078・595・2801)。
毎日新聞 1999年9月18日
9月18日のウオークの写真阪神大震災の被災地に建つ慰霊碑などを巡る5回目の「震災モニュメント交流ウオーク」(震災モニュメントマップ作成委員会主催)が18日、兵庫県西宮市の夙川周辺で開かれた。静岡県や愛媛県などからも駆けつけ、約150人が4カ所のモニュメントを訪問。震災の傷跡と犠牲者の名を後世に伝えていく意味について考えた。  

震災当時、避難所になった大社小学校、夙川小学校を訪ね、同市関係の犠牲者1081人の名前を刻んだ碑がある西宮震災記念碑公園へ。慰霊碑の前で、全員が黙とうし、地元の運営委員の一人、山川泰宏さん(61)が「この4年と8カ月は、試練だけでなく、人のつながりの中で励ましを与えてくれた」と祈りの言葉をささげた。  

近くの大手前女子大学で交流会が開かれた。震災で長男夫婦を亡くし、今回のウオークで司会進行を担当した足立悦夫さん(67)=兵庫県豊岡市=は「慰霊碑の前にたたずむと1000余人の名前が、胸にぐっと迫ってきた」と話した。  この日は、トルコ大地震の被災者救援のため参加者からカンパを募り、2万3119円が毎日新聞大阪社会事業団に寄託された。  

次回は11月に神戸市須磨区内で開催される予定。問い合わせは同委員会(078・595・1500)。

震災を忘れない、そして、人とのつながりの中で癒していこう―。阪神大震災の被災地に建つモニュメントの所在地を示した震災モニュメントマップを使って歩く「震災モニュメント交流ウオーク」。18日、西宮市の夙川周辺で開かれた5回目のウオークに参加した約150人は、それぞれの慰霊碑の前で花を供え、祈りをささげて、改めてあの日への思いを募らせた。
 
 大社小学校―夙川小学校―西宮震災記念碑公園―大手前女子大学のコースを歩いた。  3人の児童が亡くなり「心やすらかに」の碑がある大社小では、「大社ファミリー」と呼ばれ協力しあった避難者の話、2人の児童が亡くなった夙川小では、慰霊碑と一緒に「水の大切さを知ってもらいたい」と整備された環境学習用の池の説明などを、学校関係者から受けた。  

今回のメーンポイントとなった西宮震災記念碑公園では、慰霊碑の建立を担当した市職員が、西宮市内の被害の状況や慰霊碑に犠牲者の名を刻むことになった経過などを説明した。  最終地点となった大手前女子大学。全壊・再建した本館玄関には、亡くなった2学生の名が刻まれた金属プレートの鎮魂碑がある。大学職員から再建の様子などを聞いた。  

◆参加者のコメント                       
◆神戸市北区のせん画作家、とみさわかよのさん(36) 震災の記録を切り絵の作品にして残している。ウオークに参加するのは3回目だが、毎回カメラを持参して、切り絵を作るときのモチーフにしている。震災で東灘区の実家は半壊した。いつまでも語り継がなくてはいけない。  

◆神戸市東灘区の上西勇さん(72) 今年3月ごろから自転車で100ほどのモニュメントを訪れた。ウオークで知り合った人と別のモニュメントで偶然再会するなど、人との出会いが楽しい。震災では人と人の助け合いを学んだが、それを再確認する場として、これからも参加したい。
毎日新聞 1999年9月15日
西宮市・夙川周辺で18日に「交流ウオーク」 阪神大震災の“傷”考えよう 

阪神大震災の被災地に建つモニュメントの所在地を示した震災モニュメントマップを使って被災地を歩く、5回目の「震災モニュメント交流ウオーク」が18日、西宮市の夙川周辺で開かれる。震災モニュメントマップ作成委員会主催。 

今回は、西宮市の阪急夙川駅南口に午前9時半集合。西宮市立大社小学校―同夙川小学校―西宮震災記念碑公園―大手前女子大学のコース。それぞれの場所に建つモニュメントを訪ねて、地元の人々から震災当時の様子、建立の経緯、モニュメントに込められた思いなどを聞く。最終地点の大手前女子大学では、参加者の交流会も予定している。

今回は、西宮市民らが地区委員として、コースの選定などを担当した。前回のウオーク(神戸市灘区、東灘区)に参加、趣旨に共鳴して今回、委員の一人になった山川泰宏さん(61)=同市甲陽園在住=は「震災後、あの時の“傷”をどういう形で和らげればいいのか考えていた。見知らぬ被災者同士が交わり、人のつながりの中に求めていくことが大事だと思えるようになった」と話している。

交流会も含め午後4時半ごろに終わる予定。弁当持参。参加費無料。マップや今回のモニュメントウオークに関する問い合わせは、同委員会(078・595・1500)。
毎日新聞 1999年9月14日 
[今どき教育学99]大阪狭山市の中学教師ら震災慰霊碑巡り研修、被災者らとも交流

大阪狭山市の中学教師らが夏休みを利用して、阪神大震災の被災地に建つ慰霊碑などを巡り、震災の教訓を語り継ぐ被災者らと交流した。慰霊碑の所在地を示した「震災モニュメントマップ」をもとに、フィールドワークを通じて、教師自身が得た感動を学校現場に生かそうという試みだ。主催した同市教委は「この経験を、命の貴さを考える人権教育の糧にしたい」と話している。         

震災後、犠牲になった家族や地域住民の慰霊のため、兵庫県内には多くの慰霊碑や記念碑などのモニュメントが建てられた。マップは阪神・淡路復興委員会委員長だった下河辺淳さん、作家の陳舜臣さんや行政関係者ら有志が作成委員会を作り、今年1月に完成させた。

毎日新聞の記事でマップを知った同市教委学校教育課の石橋治主幹(46)は、事務局のボランティア団体「がんばろう!神戸」(神戸市北区、堀内正美代表)に連絡し、約100部を取り寄せ、大阪狭山市内の小、中学校に配布した。

同市内の幼稚園や小、中学校にはこれまでに、阪神大震災で被災した32人の子供たちが親せきなどを頼って転校して来ている。石橋主幹は「親と離れて精神的に不安定になっている子どもたちの心をどうケアしたらいいか難しかった。心の痛みを分かりながら、教師側の力不足から心を閉じたまま卒業した子供もいた。被災した人の本音を知り、教育に生かしたい」と、交流会を計画した。

7月27日の交流研修には同市の小、中学校と幼稚園の教師11人が参加。「がんばろう!神戸」から秦敬さんが道案内を買って出た。

まず初めに、神戸市長田区のJR鷹取駅近くに完成した防災公園「ポケットパーク」を訪問し、震災とその後の火災の中、住民の救助活動に奔走した被災者の体験を聞いた。火災で黒こげになるなどした2体の地蔵と、ボランティア団体が寄贈した地蔵が並ぶ「地蔵堂」も被災の惨状を雄弁に語りかける。教師らはじっと話に耳を傾けた。

続いて、同区内の市立二葉小学校を訪れた。震災当時、同市灘区の灘小学校に勤務していた鈴木かづ子校長が学校に泊まり込んだ体験を語った。

児童の安否確認をしながら、避難者への対応、家族や友人の安否を尋ねてくる洪水のような電話……。ようやく学校再開にこぎつけた初日、校門で児童を迎えていると、ある児童が「家が焼けて、教科書全部なくなったけど来たよ」と話しかけた。「あの日の子供たちの姿を見て、もう一回、教員生活を頑張ろうと思いました」。一瞬、鈴木校長の声が詰まった。校庭には、震災で壊れた焼却炉のレンガを利用したモニュメントが建つ。「やさしさわすれないで」のメッセージは同校の震災学習のテーマになっているという。

1日限りの交流だったが、参加した教師には実り多いものだった。「極限状況で人々が見せた優しさやいたわりを教育現場で取り組む題材にできないだろうか」と語るのは、大阪狭山市立南中学校の森洋校長。同市立第三中学校の辻千里教諭は「いくら防災訓練をしても、実際となると予定通りの行動が出来るだろうか。とっさに判断できる、自分で考えて行動できる生徒に育てなければと実感した」と力を込めた。

石橋主幹は「この研修をすぐに授業に生かすのは難しいかもしれないが、この体験は教師にとって大きいはず。教師の心が動くことで、子供たちのハートに訴える教育に変えてほしい」と話している。
毎日新聞
神戸市で105カ所の慰霊・祈念碑写真展 阪神大震災の記憶、忘れない

阪神大震災の慰霊碑などの写真を集めた「阪神淡路大震災犠牲者追悼 慰霊・祈念碑写真展」が、神戸市中央区のJR三ノ宮駅南のフェニックスプラザで開かれている。

神戸市長田区腕塚町の写真家、徳永竜二郎さん(67)が約1年半かけて記録したもの。訪れた人は、モニュメントを通じて後世に語り継がれる震災のメッセージに見入っていた。16日まで。

徳永さんの慰霊碑巡りは、同市東灘区・中野南公園の元テント村住民が建立した「命」の石碑を見たのがきっかけ。マスコミや図書館、行政機関のほか、墓石業者なども訪ねて情報収集。昨年9月に33カ所、今年3月には80カ所の写真展を開いた。

これをきっかけに今年1月、被災地のマスコミ、ボランティア団体、行政などが集まって「震災モニュメントマップ」を完成させた。

展示されているのは、被災各市町のほか和歌山県・高野山などに建立された105カ所のモニュメント。神戸市が来年1月の完成を目指して建設中の「慰霊と復興のモニュメント」(中央区・東遊園地)の写真横には、「年月がたっても災害を忘れないことが、生き残った者の使命」(徳永さん)の思いを込めて、鉄柵で覆われ放置された戦前の「阪神大水害慰霊碑」(兵庫区雪御所町)が、組写真として出展されている。

徳永さんは「震災から間もなく5年になり、人々の心から危機感が薄れている。阪神大水害も数年たてば忘れ去られ、昨年、今年の新湊川のはんらんを招いた。慰霊碑に込められたメッセージを、将来の自然災害のために役立てなければならない」と話している。会場では、希望者に震災モニュメントマップも配布する。フェニックスプラザは午前10時から午後7時まで。最終日の展示は午後6時まで。問い合わせは同館(078・325・8558)。    
産経新聞 1999年8月7日 
「復興ひろば」の特集に載った「震災モニュメント交流ウオーク」のまとめです。
延べ450人“巡礼”3度 まずマップを作製 震災死の遺族も深い共感

阪神淡路大震災で壊滅的被害を受けた街の惨状も、発生から5年目ともなれば人々の記憶から薄れていく。それを少しでもくいとめようと、今年4月以降、3回にわたって「震災モニュメント交流ウオーク」が被災地で開かれた。街角や学校などに建立されている震災のモニュメントを訪ね歩く催し。主催者のボランティア団体代表で俳優の堀内正美さん(49)は「震災モニュメントの存在を知らせることはいろいろな意味で意義がある」と話す。

堀内さんは昨年末、「震災モニュメントマップ作成委員会」を設立し、代表に就任した。そのきっかけは、震災慰霊碑を撮り続けている神戸市長田区の写真家、徳永竜二郎さん(67)が昨年9月に開いた写真展だった。

被災地に建てられた多くのモニュメントが紹介され、堀内さんはがく然としたという。
「『こんなに多くのモニュメントがあるのか』と気づかされました」。

堀内さんが代表を務めるボランティア団体「がんばろう!!神戸」のメンバーが中心になって、モニュメントの所在地を示すマップを作製していった。今年1月に完成したマップには55カ所の所在地を示すことができた。

が、堀内さんは「遺族の方がマップを見てどう思われるか、不安だった」という。他人が作製したマップに、自分の家族の慰霊碑の所在地が示されることは、遺族の感情を逆なでしないか。そんな心配だった。

そうした不安も今年1月、神戸大学の学生だった長男を震災で亡くした夫婦に出会うことで消えていった。大学の震災慰霊祭で偶然、夫婦に会い、恐る恐る完成したマップを手渡した。マップを遺族に見せるのはこのときが初めてだった。

夫婦は「それまでは息子のことしか考えられなかった。しかし、マップを見て息子のことだけでなく他の被災者のことも同じように思うことができるようになった」と話す。

堀内さんは「震災の死はプライベートな死ではなく「公」の死として考えなければならない。遺族が自分たちにとっての死としてだけでなく、『公』の死としてもとらえることができるように、震災モニュメントが助けてくれる。そうなることで、遺族は悲しみを乗りこえることができる」と話す。震災モニュメントと、所在地を示すマップは、震災の記憶の風化を食い止めるだけでなく、悲しみを乗りこえる力ともなりうるという。

現在、委員会で把握しているモニュメントの数は、参加者らの新たな情報で105カ所となった。交流ウオークの参加者は延べ450人、遺族の参加も10組を超えた。さらに独自にモニュメントを巡る団体も増えている。

堀内さんは震災丸5年を迎える来年1月17日をめどにマップの新版を作製することを計画している。問い合わせは同委員会(078・595・1500)。
99年7月17日(土) 震災4年半の日
7月17日のウオークの写真7月17日ウオーク都賀公園付近を歩く7月17日ウオーク最後の写真






毎日新聞 7月18日朝刊
阪神大震災の被災地に建つ慰霊碑などを巡る「7・17 震災モニュメント交流ウオーク」(震災モニュメントマップ作成委員会など主催)が17日、開かれた。震災で愛する肉親を亡くした遺族のほか、静岡県や和歌山県などから駆けつけた人々ら1 50人が参加。神戸市東灘区と灘区の慰霊碑を訪れ、震災から4年半の「今」の思いを分かち合った。

東灘区の「弓弦羽(ゆづるは)神社」と灘区の「西灘公園」の慰霊碑には、それぞれ100人以上の犠牲者の名前が刻まれている。

碑を建立した同神社宮司、沢田政泰さん(45)と、西灘公園の地元の自治会幹事長、中村強さん(64)は「碑は、被災地を離れた人々の心のよりどころであり、次世代に震災を語り継いでいく場所」と話した。

長男を亡くした会社員、白木利周さん(57)=兵庫県伊丹市=は、震災当時暮らしていた東灘区御影町の自宅跡に参加者を案内し、「生き残った者が生を全うするよう励まされる気がする」と話した。次回ウオークは9月に兵庫県西宮市で開催する。
問い合わせは、震災モニュメントマップ作成委員会(078・595・1500)。
朝日新聞 1999年7月17日夕刊

=朝日新聞としてはこれが初めて本格的に震災マップ運動を取り上げた記事になりました。

阪神大震災から4年半を迎えた17日、激しい揺れを生き延びた人たちが被災地に立つ犠牲者の慰霊碑を回り、めい福を祈った。ボランティアでつくる「震災モニュメントマップ作成委員会」が今春から始めた「震災モニュメント交流ウオーク」。震災の風化を防ぐため、家族が生きた証(あかし)を伝えるために、遺族たちも胸のうちを語り始めている。

神戸市東灘区の弓弦羽(ゆずるは)神社。兵庫県伊丹市から訪れた主婦、白木朋子さん(55)は、地元自治会によって建てられた慰霊碑に白いユリの花をささげて手を合わせた。黒い石板には、一帯で亡くなった108人の名前が並ぶ。長男の健介さん(当時21歳)の名前が刻まれた一点を見つめる白木さんの目に、みるみる涙があふれた。「ここでどなたか亡くされたのですか」と、参加者が話しかけた。「はい、息子を・・・・。やさしい子でした」と話した。

震災後、家族は健介さんの話を避けてきた。知人の慰めは気休めに聞こえた。だが、今年1月、健介さんが通った神戸大であった慰霊祭に出席し、気持ちが変わった。震災で同大の学生、教職員は計41人が亡くなった。学生や近所の人たちが犠牲者を悼み、献花する姿に「つらいのは自分だけじゃない」と感じた。
健介さんのことを積極的に話し始めた。肩の力が抜け、いつしか、一人で悩んだトンネルを抜けていた。
神戸市兵庫区門口町でクリーニング店を営む松浦潔さん(45)は、この日、初めてウオークに参加した。

震災で長男の誠さん(当時16歳)を失った。今も天井の下敷きになった誠さんが、救いを求めて続けたノックの音が忘れられない。「トン、トン、トン」。何度も名前を呼び、見えていた両足を引っ張った。だが、5分、10分・・・。音がやみ、両足からぬくもりが消えた。「なんで自分の子供だけが・・・」と思い続けてきた。

転機は今年2月、一人のボランティアと出会ったことだ。年齢が近く、気も合った。自宅を訪れ、仏壇に線香をあげてくれた。誠さんの話をすると、同じように震災で子供を亡くした夫婦を紹介された。互いに子供の思い出を語り、「共通の体験をした人がいる」と少し楽になった。

潔さんはウオークで、初対面の参加者らに誠さんの話をするつもりだ。「悔しさは変わらず、体験を話すことはつらい。でも伝えなければ震災自体がどんどん過去のものになってしまう」と言う。

◆マップ作成委員会によると、被災地では学校や、自治体などが独自に犠牲者の慰霊碑を建てており、これまでに105カ所を確認できた。同委員会は震災4周年の今年1月、55カ所を掲載した地図を作製。希望者に無料で手渡すとともに改訂版を発行するため新たな碑の情報を募っている。問い合わせは同委員会事務局(078・595・1500)
1999年6月28日
1999年6月27日、警報の出ている中、集合した第2回「モニュメント交流ウオーク」の模様を、各メディアが次のように報じています
写真は、がんばろう!!神戸の大寺末里子さんの撮影
記事にある宝島池公園では、地元ボランティアによる手作りの「赤しそジュース」をいただきました。参加者の一人が後日そのレシピを事務局まで送っていただきました。レシピはここ
毎日新聞
第2回モニュメント交流ウオークの模様阪神大震災の被災地に建つ慰霊碑などを巡る第2回「震災モニュメント交流ウオーク」(震災モニュメントマップ作成委員会、元気アップ神戸主催)が27日、兵庫県芦屋市と神戸市東灘区で開かれた。10組の遺族を含め、約150人の市民が参加。慰霊碑などの所在を示したモニュメントマップを片手に約15キロを歩きながら、犠牲者を追悼し、震災の教訓を語り合った。

第1回の交流ウオークは、今年4月17日、神戸市長田区などをたずねた。今回は第1回に参加した東灘区の繁栄自治会長、佐野末夫さん(63)らの呼びかけで実現。同自治会が97人の犠牲者を追悼した「宝島池公園(東灘区深江北町)の慰霊碑霊碑など5カ所のモニュメントをたずねた。

一時、24世帯128人がテント暮らしをした「中野南公園」(同区本山南町)では、旧テント村自治会が建立した碑の前で、元テント村自治会長で会社員の依田春行さん(51)が「他のモニュメントを建立した人や遺族の方と交流し、震災で学んだ助け合いの輪を広げたい」と呼びかけた。

神戸大学院生だった23歳の長男を亡くした愛媛県伊予三島市の主婦、工藤延子さん(52)は自ら発行するミニコミ紙「THE17TH」で交流している兵庫県豊岡市の食堂経営、足立悦夫さん(67)ら遺族4組と一緒に参加。「私の中で息子は生きている。マップはそんな思いを多くの人に語るきっかけを与えてくれた」と話した。

3回目の「交流ウオーク」は震災4年半の7月17日に開かれる。問い合わせは同作成委(078・595・1500)。マップのホームページはhttp://www1.plala.or.jp/monument/

神戸新聞
第2回モニュメント交流ウオークの模様阪神・淡路大震災の被災地に建つ慰霊碑などを訪ね歩く「第2回震災モニュメント交流ウオーク」が27日神戸市東灘区と芦屋市で開かれた。震災で肉親を失った家族らも県内外から参加し、4年半の思いを供花に託した。

ボランティア団体「がんばろう!神戸」(神戸市北区)の堀内正美代表の呼びかけで発足した「震災モニュメントマップ作成委員会」が企画。同委員会は今年1月、被災地の慰霊碑や地蔵などを紹介する地図を発行し、4月には長田区と兵庫区を巡る交流ウオークを開いた。

この日は、約150人が参加し、芦屋市津知町から阪神魚崎駅までの約10キロを歩いた。56人が亡くなった津知町では、自治会が慰霊碑を建てた公園で、杉本貞夫自治会長(72)が震災当時の様子を説明。昨年、自治会が植えた鎮魂桜も紹介された。東灘区の宝島池公園では、繁栄自治会の佐野末夫さん(63)が「震災前1600あった世帯は今1100。花や緑を増やそうとがんばっている街の様子を見てほしい」と話した。

花を携えて歩く人の中には、泊まりがけで参加した遺族の姿もあった。豊岡市の食堂経営、足立悦夫さん(67)は灘区に住んでいた新婚4カ月の長男夫婦を亡くした。「息子たちは震災の10日後に加古川に引っ越す予定だった。神戸に来たくてどうしようもないときがあり、年に4、5回は来ている」ともくもくと歩いた。

東灘区から参加した吉田好子さんも長男夫婦を亡くし、孫を育てている。「孫もやっと冗談を言えるようになってきた。今日は『パパもママも天国でどうしてるか聞いてくるわ』と言ってきたんです」と、静かに慰霊碑に花を手向けた。
産経新聞
阪神大震災の教訓を後世に残そうと被災地に建てられた震災モニュメントを訪ねる「震災モニュメント交流ウオーク」が27日、神戸市東灘区で行われた。被災者ら150人が参加し、モニュメント建立に携わった地元住民との交流を深めた。

神戸の市民ボランティア「震災モニュメントマップ作成委員会」の企画で今年4月に長田、兵庫区内で実施して以来、2回目。

この日は朝からJR甲南山手駅前に、市民や震災で家族を亡くした被災者らが集合。同委員会が作った「震災モニュメントマップ」を手に、中野南公園や本庄墓地の慰霊碑など東灘区にある5つのモニュメントのほか、阪神高速道路が倒壊した現場などを訪れた。

大学生の息子を亡くした伊丹市の会社員、白木利周さん(57)は「震災の悲劇を記憶から消してはいけないという気持ちがあるからこそ、これだけのモニュメントが建てられた。まだ知られていないモニュメントもたくさんあり、来年に更新されるマップにはさらに多くのモニュメントが書き込まれるだろう」と話していた。

同委員会は来月17日、東灘区御影町から中央区方面へ交流ウオークを行う予定で、事務局代表の堀内正美さん(49)は「市民による市民のための慰霊を今後も続けていきたい」としている。
朝日新聞
阪神大震災の被災地に建つ記念碑を訪ねる「6・27震災モニュメント交流ウオーク」が27日、市民団体などの主催で開かれた。住民や遺族ら100人余りが芦屋市西部から神戸市東灘区の一帯を歩き、犠牲者のめい福を祈った。

同市長田区で4月に実施されてから、2回目の開催。被災場所の異なる人たちが互いの体験を共有し、震災の体験を語り継いでいくのがねらい。この日はまず、主催者を代表して神戸市北区の市民団体がんばろう!!神戸」の堀内正美代表が地震で生き残った私たちは、家族や友人を失った無念さを担いでいかねばならない。ウオークでの出会いを生かして家族のことを話し合ってほしい」とあいさつ。

参加者たちは、同市東灘区の郷土史家、道谷卓さん(34)の案内で計10カ所を訪れ、手にした花束を手向けた。記念碑は地域の公園や墓地などに設けられ、それぞれ、地元住民から付近の犠牲者数や被災当時の様子が説明された。

豊岡市の自営業、足立悦夫さん(67)は大震災で20代の長男夫婦を失った。神戸市灘区楠丘町の木造アパートがぺしゃんこのなり、地震の翌々日になって自ら遺体を掘り出した。「今も一年に数回は神戸に来たくてたまらなくなる。今後、この催しへの参加を続けたい」と話す。

同市東灘区魚崎南町3丁目の主婦、吉田好子さんは、今回初めて参加した。地震では、30代の長男夫婦が倒れた自宅に押しつぶされて犠牲になった。4年半が過ぎようとする今も、あの日の記憶は鮮明だ。

激しい揺れが収まった後、すぐに近くの長男宅に走った。全壊した家の前で二人の孫娘や長男夫婦の名を呼び、無事を祈って避難所の学校を探し歩いた。だが、近くの人たちが掘り出した長男夫婦は、すでに息を引き取っていた。

助かった上の孫娘(16)を引き取って夫と3人、以前の自宅近くで暮らす日々。地震直後はほとんど言葉を発しなかった孫娘が、最近になってようやく落ち着きを取り戻したように思う。この日の参加を伝えた時も冗談めかし、こんな言葉が返ってきた。「パパやママに会えるかなあ」
同ウオークは震災から4年半となる7月17日、同市東灘区ー中央区で3回目が実施される予定。
99年4月18日
4月17日に行われた「第1回モニュメント交流ウォーク」についての共同通信の記事です。日経新聞、京都新聞などに載りました。

阪神大震災の記憶を風化させず、当時の体験を共有しようと、被災地に建てられた慰霊碑などモニュメントを見て回るイベントが17日、神戸市内で開かれ、被災者ら約150人が約10キロの行程を歩いた。

主催したのは、ボランティア団体や企業などでつくる「震災モニュメントマップ作成委員会」。同委員会は今年1月、被災地の55カ所に建てられたモニュメントを載せた地図をつくり、今回はその後、新たに判明したものを含む7カ所を巡った。

参加者は、同日午前、神戸市須磨区のJR鷹取駅前を出発し、配られた地図を見ながら、地域の住民や寺院などが建てた地蔵などを歩いて回り、関係者から説明を受けた。

震災で大学生の長男を亡くした兵庫県伊丹市の主婦(55)は「息子の死がつらくてずっと心を開けずにいたけど、これで他人にも目を向けられるようになった気がします」と話した。

同委員会事務局長の堀内正美さんは「震災の体験を思い出すのは痛みが伴うが、今より一歩前に踏み出すためには、ほかの被災地で何があったかを知ることも大切では」としている。
同じ「モニュメントウォーク」の神戸新聞1999年4月18日朝刊の記事
阪神・淡路大震災の犠牲者を悼む慰霊碑や追悼碑が各地に建った。そのモニュメントを訪ね歩く交流ウォークが17日、神戸市内で行われ、約150人が参加した。

まだ、被災地には空き地が残る。参加者らは元の住人らに思いをめぐらせながら、慰霊碑に向かってそっと手を合わせた。
毎日新聞1999年4月17日夕刊
第1回モニュメント交流ウォークの写真阪神大震災の被災地に建つ慰霊碑などを訪ねて震災の教訓を語り継ぐ「4・17  震災モニュメント交流ウォーク」が17日あり、約150人の参加者が神戸市長田区と兵庫区にある7カ所のモニュメントで、建立者らの話を聞いた。震災モニュメントマップ作成委員会と、神戸の市民団体でつくる「元気アップ神戸」が主催した。 これまで互いに訪れることがなかった被災地域の住民同士の交流をはかる狙いもあ り、 震災5年目の新たな市民運動として注目される。

午前10時、集合場所のJR鷹取駅(神戸市長田区)に家族連れやお年寄りらが続々と集まった。神戸の典型的な下町だった駅周辺は、震災後の土地区画整理事業で真新しい建物が並び、景色が一変している。

駅の東に完成した防災公園「ポケットパーク」(長田区日吉町)のモニュメント 「地蔵堂」前で、地元町内会長の石井弘利さん(58)が語り始めた。「地域の人たちの半数近くが復興住宅などに移りましたが、みんな手を合わせに来るんですよ」 。堂には、震災後の火災で黒こげになるなどした2体の地蔵と、ボランティア団体から寄贈された地蔵が並ぶ。

「遺族や、地域に戻れない人を思いやる心は、どこでも同じなんだね」。石井さんの話に耳を傾けていた佐野末夫さん(63)=神戸市東灘区本庄町1=がつぶやいた。

東灘区深江と本庄の3町でつくる繁栄自治会の会長を務める。地域では震災で1600世帯のうち8割以上が全半壊し、97人が犠牲になった。1997年3月、人々の憩いの場「宝島(ほうとう)池公園」に慰霊碑を建立した。佐野さんは今年1月に完成した「震災モニュメントマップ」を見て、自分たちと 同 じような大きな被害を受けた町が神戸にあることに改めて気づき、自治会のメンバー7人と参加した。両地域とも街並みが一変し、お年寄りらが住み慣れた古里に戻れない。悩みは同じだ。佐野さんが石井さんに語りかけた。「今度は東灘に来て下さい」                      
                       ◇  ◇  ◇                     
マップ記載のモニュメントは55カ所だが、その後、新たに26カ所が確認された。この日訪れた二葉小学校(長田区二葉町)もその一つ。校庭には、震災で壊れた焼却炉のレンガを利用したモニュメントがあり、「やさしさわすれないで」の言葉が刻まれている。

今年4月に赴任した鈴木かづ子校長は、震災当時、神戸市灘区千旦通の灘小学校に勤務。学校に泊まり込み、避難者のために奔走した。授業再開の日、震災で犠牲になった2人の兄弟のため教室に花を供えようとしたが、 周辺の店は営業していない。そのことを知った避難者が、トラックに花を満載して持ってきてくれた。「震災の時、本当の意味で地域に開かれた学校になった。『やさしさわすれないで』は、私自身のテーマでもあるんです」。鈴木校長はそう話した。  
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JR新長田駅(長田区、村井靖彦駅長)には、元気の象徴の赤ちゃんを運ぶコウ ノ トリをテーマにした約1400枚のイラストのパネルがある。また、震災後に映画 「男はつらいよ」第48作のロケが行われたことを記念した寅(とら)地蔵も設置してある。JR西日本は、参加者がマップなどに押せるよう「95・1・17を伝え て」 と書いたスタンプも作った。スタンプのデザインをした西岡泰樹・神戸駅長は「将来、各駅に周辺のモニュメントの詳しい地図を置きたい」とウォークを後押しする。

マップ作成委事務局の「がんばろう!!神戸」代表の堀内正美さんは、長田区、兵庫区の被災者が東灘区を訪問する“第2弾交流ウォーク”を参加者に呼びかけた。モニュメントを巡る動きは震災5年目にさらに広がりそうだ。 
毎日新聞 1999年4月18日神戸版
震災モニュメント交流ウォーク 立場、世代超えて」の記事  ほかの被災地域を訪れることがなかった神戸市東灘区の住民、愛する家族を亡く し た遺族、震災・防災学習に生かそうという教員・大学生―。さまざまな立場の参加者と、彼らを迎えた神戸市長田区、兵庫区の被災者らとの交歓の輪が広がった。「震災モニュメント交流ウォーク」(震災モニュメントマップ作成委員会、元気アップ神戸主催)。参加した約150人の市民は、“あの日、あの時”を次代に語り継ぐ誓いを新たにした。

慰霊碑など55カ所を記した「震災モニュメントマップ」のうち、(1)ポケッ トパークの地蔵堂(長田区日吉町)(2)満福寺の慰霊碑(同海運町)(3)二葉小学校の「やさしさわすれないで」(同二葉町)(4)新長田駅の「寅地蔵」「こうのとりのイラストタイル」(同松野通)(5)福宝警備の「観音さま」(同六番町)(6)久遠寺の慰霊碑(兵庫区門口町)を訪ねた。
◆迎えた人々
マップ作成委に託された滋賀県立河瀬高吹奏学部の千羽ヅルをまつった長田区日吉町のポケットパークでは、地元町内会の小笹照子さん、清原田鶴子さんが「多くの人がお参りしてくれ、他地域の人々との交流の場になることが分かった」。また、満福寺住職の妻、志保見暢子さんは「地域の6カ町が焼け尽くされたが、何もすることができなかった。みなさんが参ってくれることが最高の供養になる」と歓迎した。

多くの児童、教員が参加者を迎えてくれた二葉小学校。復興担当教諭の佐々木勉 さんは「子供たちと大人が一緒になり、未来に向かって生きる力をはぐくむ。その原動力になっているのが 『やさしさわすれないで』 の言葉」。また、JR西日本新長田駅長の村井靖彦さんは「イラストなどを見て、もう一度がんばらなあかんな、という気持ちを持ってもらえたと思う」。福宝警備部長の石塚義人さんは「多くの人の犠牲の上で私たちが生きている」と、それぞれモニュメントに込められた思いを強調した。
◆参加した人々
ポケットパークのある長田区の鷹取地区同様、100人余りの犠牲者を出した東灘区深江地区から参加した市原聡美さんは「電車の窓から長田の街を見ることはあったが、これだけつぶさに歩いたのは初めて。つらさ、楽しさを分かち合えたことが最高の思い出になった」と感動した様子。

震災直後の1カ月間、神戸市内の小中学生を迎えたという徳島県吉野町教育委員 会の鎌田恭年さんは「子供たちはガレキの中からはいだした経験を語ってくれたが、彼 らが暮らしていた町並みを歩いてそのつらさが実感できた。子供たちの笑顔、震災の経験を伝えていきたい」。

震災で愛する長男を亡くした夫妻同士の出会いもあった。白木利周さん、朋子さん夫妻=伊丹市南町=と、松浦潔さん、美佐子さん夫妻=兵庫区門口町。白木さん夫 妻は「住民が一致団結して、復興に立ち上がっている長田の人たちの姿に感動しました。息子を追悼することと同時に、今後は、他の多くの犠牲者のお祈りを続けていきた い」 と話していた。

ウォークを企画した「がんばろう!神戸」代表の堀内正美さんは「今後も、慰霊碑を中心に被災地を訪ねながら、人と人、地域と地域の交流の輪を広げていきたい」 と思いを新たにしていた。
1999年5月16日 毎日新聞神戸版
 震災モニュメントマップを利用して被災地訪ね校外学習」
京都府福知山市立日新中学校の2年生198人が15日、被災地に建てられた慰霊碑など55カ所を1枚の地図に記した「震災モニュメントマップ」を使って、神戸市と芦屋市で校外学習を行った。本格的な修学旅行シーズン到来で、被災地を訪れる小中学校の間でモニュメントマップを利用するケースが増えている。

同校では、震災学習交流センターやフェニックスプラザの紹介でモニュメントマップを知り、今回初めて校外学習に組み込んだ。

この日午前、フェニックスプラザで神戸市立鷹取中学校(同市須磨区)の近藤豊宣・元校長から避難所運営の経験などを聞いたあと、午後から阪神電鉄芦屋駅、山陽電鉄須磨駅などを起点に6〜7人ずつのグループに分かれてフィールドワーク。生徒たちは、毎日新聞の連載「1・17を歩く」などを使った事前学習で自ら考えたコースに沿って被災地を歩いた。

同市灘区大石北町8の「西灘公園」を訪ねた松山祥子さん(13)と半田奈央さん(13)は「本当に震災があったかと思うほど街は復興していましたが、慰霊碑を訪ねて、自宅が半壊した経験を聞くことができました」と話していた。

校外学習を企画した木村茂教諭は「マップは、震災の被害が広範囲にわたっていることが一目で実感できる。生徒が地元の人に震災当時の話を聞きながら歩くことができるのも魅力。今後も被災地での学習を続けていきたい」と話していた。

1999年5月20日毎日新聞夕刊

 「神戸大学が震災モニュメント研究に乗り出す」
阪神大震災被災地に建つ慰霊碑などのモニュメントの学術的調査を、地元の神戸大が始めた。モニュメントは、所在地を示した「震災モニュメントマップ」を見ながら訪ね歩く市民運動が活発になっているが、学術調査は初めて。震災から5年目。被災者が「忘れない」という思いを込めてめいめいの地域に築いたシンボルを、大学が調査によってむすび、つなげる新たな試みだ。

調査に載りだしたのは、震災を研究テーマにしている岩崎信彦・文学部教授(社会学)と大学院文化学研究科の今井信雄さん(30)ら学生4人。今井さんが今冬、「マップ」を目にしたことがきっかけだった。
 調査は、マップ掲載の55カ所のモニュメントを訪れ、関係者から@建立の経緯A形や碑文の意味B建立による地域の人々の意識の変化ーーなどを聞き取り、傾向などを分析。2年後に報告書をまとめる予定だ。

今井さんは「モニュメントが、未来にとってどんな意味を持つのかを考えたい。震災では神戸大でも学生39人、職員2人が亡くなった。被災地に役立つ学問をすることは、被災地の国立大学としての責任と思った」と話している。

マップは、被災地の行政や企業などの有志が作成委を結成し、今年1月に完成した。先月17日には、神戸市東灘区の被災者がマップを基に同市長田区と兵庫区のモニュメントを訪問する初の「交流ウォーク」も行われている。
マップの問い合わせは、マップ作成委員会事務局(078・595・1500)まで。
ここからは日が戻ります

  毎日新聞1999年1月17日
震災4年の99年1月17日、印刷を終えたばかりの「震災モニュメントマップ」を使って「モニュメントウォーク」が、約100人の参加をえて行われた。多彩なメンバーが集い交流した。以下は、記者であり参加者でもあった毎日新聞神戸支局、中尾卓英記者のリポート。

阪神大震災の被災地に建てられた慰霊碑、祈念碑を通じて「あの日」の記憶や教訓を伝え聞く「震災モニュメントウォーク〜語り継ごう、あの日のことを」が17日、園児から81歳のお年寄りまで約100人が参加して行われた。  慰霊碑などの所在を示す「震災モニュメントマップ」制作をきっかけに、マップ作成委員の震災ボランティア団体「がんばろう!!神戸」の堀内正美代表(48)が呼びかけた。

兵庫県芦屋市から神戸市中央区まで約15キロの間にある中野南公園(神戸市東灘区本山南町)など8カ所の慰霊碑を訪ねた。  園児6人が犠牲になった兵庫県芦屋市の精道保育所では保母、保護者の共同作業で建立された慰霊碑「祈」の前で、佐藤うめ子所長が説明した。  

こわかったね  いたかったね  さむかったね  もうだいじょうぶだよ

などと刻まれた碑を見ながら「子供を亡くした親、保母の精神的ショックはいまだに大きいが、多くの人が訪ねて下さり、私たちも勇気づけられた」と話した。  

1987年から3年間、同保育所に勤務した錦織志津子さん(36)=松江市古志原町=は「教え子が犠牲になった同僚のショックを考えると被災地に来る決心がつかなかった。ウォークに参加して先輩の保母や当時の保護者にも再会できました。マップが人の輪を広げるきっかけになれば」と笑顔で話した。  

神戸市東灘区本庄町1、深江北町1、2丁目でつくる「繁栄自治会」は160世帯のほとんどが全半壊し97人の犠牲者を出した。  

この宝島池公園の慰霊碑の前では、自治会の8人が準備した温かい甘酒が振る舞われ、支え合った“あの日”がよみがえった。自治会役員の市原聡美さん(56)は「新築、再建されても、仮設住宅などに避難した一人暮らしのお年寄りが帰って来られない状況。それでも慰霊碑建立で、通りがかりの親子連れが手を合わせてくれるなど、コミュニティの輪が広がっている」と話した。  

堀内代表は「地域の人と交流しながら歩けたことで、あの日の体験を語り継ぐことの大切さを改めてかみしめた。被災地の人たちが当時の経験を語り始めていることに感動した。参加者が『震災の語り部』になってほしい」と話していた。
毎日新聞 1999年1月24日神戸版
震災マップでウオーク  神戸市の小学生がモニュメント訪ねる
神戸市北区の小・中学生たち10人が1月23日、阪神大震災被災地の慰霊碑など55カ所を記した「震災モニュメントマップ」を使って同市東灘、長田両区を歩くオリエンテーリングをした。

年間を通じて、農業やキャンプなど、子供たちの主体的な自然学習プログラムを実施している私塾「学半舎」(同市北区、秦敬代表)の主催。10人は3班に分かれ、起点の阪神・魚崎、阪急・岡本、神戸市営地下鉄・新長田の各駅をスタート。マップを頼りに近所の人に道を聞きながら、約5時間かけて3〜5カ所のモニュメントを訪ねた。

東灘区岡本の甲南大学にある「常ニ備ヘヨ」と刻まれた記念碑を訪ねた神戸市立南五葉小4年、永末千陽くん(10)は「スケッチするぼくたちを見て、『うちの大学にも碑があってんな』と話す大学生がいたのには驚いた」。

長田区若松町の「神戸の壁」などを訪ねた同鈴蘭台小4年、北島翔太くん(10)は「長田区にはまだ空き地がたくさんあった。校区にある仮設住宅の人たちが家を建てられないんだ、と思うと、人事ではないと思いました」と話していた。
毎日新聞 1999年1月30日
"市民の財産”次代へ

阪神大震災の被災地に建てられた慰霊碑など55カ所を一枚の地図に示した「震災モニュメントマップ」の活用法などについて話し合う震災モニュメントマップ作成委員会がこのほど、神戸市役所で開かれた。出席者からは、「震災5年目に国、県、神戸市が取り組むべき最大のテーマ」などの意見が出された。

マップは神戸市長田区在住のカメラマン、徳永竜二郎さんの写真展をきっかけに、市民ボランティアネットワーク「がんばろう!神戸」代表の堀内正美さんが呼びかけ、作家の陳舜臣さん、教育長の栗原高志さん、JR西日本広報室長の森長勝朗さん――らが加わって作成委員会を結成。毎日新聞社が調査、取材を担当し、1月17日に完成した。

委員会には17人が出席。初めに、徳永さんが「慰霊碑のほとんどは忘れられる以前に覚えられていない。『(モニュメントは)将来のために役立てなければ何にもならない』ことを強調したい」と撮影の動機などを話した。

続いて、タクシー会社によるマップ配布、新たに寄せられたモニュメントの取材などを撮影したサンテレビジョンの特集番組を見た後、意見交換を行った。委員会事務局には、20カ所を超える慰霊碑などの情報が寄せられており、新たなマップや冊子を作ることも話し合われた。主な意見は次の通り(敬称略)。  

下河辺淳・東京海上研究所理事長 「1・17」が市民に永遠に記憶されることが必要。モニュメントを通じて、震災経験がなく痛みも知らない次世代に語り継ぐことは、国や兵庫県、神戸市が取り組むべき最大のテーマ。

神田勉・神戸国際観光協会専務理事 誤解があるかもしれないが、マップを「観光」に生かし、神戸を訪れる人に見てもらうよう協力したい。

清原桂子・生活復興局長 「一人の母親、女性」として事業にかかわり続けながら、子供や親しい人を亡くした遺族の思いを共有したい。  三枝博行・AMこうべ報道制作部長 モニュメントを市民の財産として育てていくため、4月以降、慰霊碑を行脚する番組を作る。

横山修二・神戸新聞社社会部長 被災者の生活再建、防災という面からも震災5年は非常に大切な年。「何を忘れないか」ということを大切に、報道の中でマップを生かしていきたい。

板谷英明・阪神電気鉄道広報課長 震災で会社存続の危機を迎えた当事者である私たちも、震災の記憶が薄らいでいる。気持ちを新たにマップを市民に広めていくことに協力したい。  
毎日新聞 1999年3月21日
モニュメントマップつくりのきっかけをつくった徳永竜二郎さんの写真展が3月22日から4日間、神戸市中央区のフェニックスプラザでありました。これはそのお知らせの毎日新聞の記事。  

阪神大震災の被災地に、震災後建てられた慰霊碑などを記録し続ける写真家、徳永竜二郎さん(67)=神戸市長田区腕塚町7=の写真展が22日から4日間、同市中央区三宮町のフェニックスプラザで開かれる。約1年間がかりで訪ね歩いた80カ所。徳永さんの活動は、県などでつくる実行委が今年1月17日に完成させた「震災モニュメントマップ」作成のきっかけにもなった。会場ではマップを配る。

徳永さんの慰霊碑巡りは、同市東灘区の中野南公園で避難のため住んでいた住民が建立した石碑を見たのがきっかけ。戦前の阪神大水害(1938年)の慰霊碑が放置されていることに心を痛めていた徳永さんは震災後、マスコミや資料室、市役所、警察から、墓石業者までを訪ねて情報収集。昨年9月、33カ所の写真展を開いた。

今回は、それ以降に訪ねたものを含め80カ所の慰霊碑、追悼碑などの写真を展示。、マップに収録した55カ所のうち51カ所も含まれ、エリアは西宮市から淡路島・一宮町まで被災各市町に及び、パネルには建立者、碑の由来などが書き添えられている。

徳永さんは「モニュメントは、鎮魂、復興の近いなどの思いが込められている。将来の自然災害のために生き残った私たち一人一人が役立てなければならない」と話している。
毎日新聞 1999年4月16日
モニュメントマップとウォークに関する毎日新聞の特集記事の抜粋
阪神大震災の被災地に建つ慰霊碑などのモニュメントの所在地を示した「震災モニ ュメントマップ」が、大きな反響を呼んでいる。 作成委員会事務局のボランティア団体「がんばろう!!神戸」(神戸市北区、堀内正美代表)には、感想や新たなモニュメントに関する情報提供などが次々と寄せられている。今月17日には、マップを使い、神戸市東灘区の被災者が長田区の慰霊碑を訪れ る 初の「震災モニュメント交流ウォーク」もある。モニュメントをめぐるさまざまな思いと動きをまとめた。

マップは阪神・淡路復興委員会委員長だった下河辺淳さん、作家の陳舜臣さんや行 政関係者ら有志が作成委を結成し、今年1月に完成させた。震災4年の同17日に は 堀内さんの呼び掛けで、マップを使って慰霊碑などを訪ね歩く「震災モニュメントウォーク」があり、約100人が参加した。独自に碑を巡る個人やグループも増えており、そうした人たちからの手紙やメッセージが「がんばろう!!神戸」に届いている 。

「前略ごめん下さい。(略)あれは、普通に暮らしていた私たち家族に突然おそった震災でした。無防備だったこともあって、大事な大事な宝であった息子を失ってしまいました。神も仏もあるものかと、池が出来るくらい涙が流れました。息子を守ってやることが出来なかったことに対する負い目で、毎日『ゴメンね』を繰り返しました」 

兵庫県伊丹市の主婦、白木朋子さん(55)は、神戸大経済学部(夜間)3年だった長男健介さん(当時21歳)を、神戸市東灘区の自宅で失った。昼間、郵便局で働いていた健介さんは、翌朝6時に起こしてくれるよう白木さんに頼んで離れの自室へ。震災で隣の蔵が離れの上に倒れ、犠牲になった。

「息子は『あしたは6時に起こしてね』と言って、自分の部屋へ……。そのまま起こしてやることは出来ず、息子は今も眠ったまま……。あれから4年というけれど、まだ息子の夜は明けておりません」と手紙は続く。

今年1月14日、神戸大の慰霊碑前で追悼行事があった。白木さんは毎日放送ラ ジ オで行事を知り、夫の利周さん(56)とともに参列。マップの説明のために参加 していた堀内さんから会場で声を掛けられたのがきっかけで、亡き健介さんへの思いなどをつづった手紙を堀内さんに送ったのだ。

神戸大の学生の犠牲者は健介さんら39人。白木さんは「震災が忘れ去られてしまうことが一番悲しい。だから、一人でも多くの人に慰霊碑を訪れてほしい」と話す。

「4年たって震災の体験の度合いによって忘れる速度が違うと感じていた時、1月17日のモニュメントウォークを知り参加しました。いくつかの慰霊碑を訪ね歩き、最終地点にたどり着いた時は、生きていればこそ、と実感し、亡くなられた方たちの無念さを心にとめておこうと思いました」(神戸市灘区、女性、51歳)▽「ウォークに参加し、震災の傷跡を見て回りました。見たくないからといって、見ずにいるべきではないでしょう。私の立場で、私の視点であの日を振り返りたいと思います」 (同市東灘区、女性、24歳)など、寄せられたメッセージは約160通にのぼる 。

また、サイクリングの愛好家でつくる「神戸市民自転車同好会」(同市北区、会員約150人)のメンバー6人は、分担して全モニュメントを自転車で巡り、会報にリポートを掲載した。マップを防災学習の教材にした兵庫県立和田山商業高校の生徒からは「人と人とのつながり、助け合うことの大切さを学んだ」というメッセージも事務局に寄せられた
毎日新聞1999年4月30日
同じ特集に載ったフェニックスプラザについての記事です
震災モニュメントマップを手に、被災地を歩く人たちが増えている。こうした動 き を受け、神戸市中央区のJR三ノ宮駅南フフェニックスプラU(阪神・淡路大震災復興支援館)では、マップを活用した新たな震災・防災学習をスタートさせる。また、マップに関する情報をふんだんに盛り込んだホームページの運用も始まった。

地震のメカニズム、復興プロジェクトなど、阪神大震災に関するさまざまな情報が展示されているフェニックスプラザには、市民や修学旅行生ら年間約50万人が訪れる。プラザを運営する兵庫県は、マップの反響が広がっていることに注目。今後、モニュメントマップのパネル展示▽ミニシアターやジオラマ(大型模型)でのモニュメント紹介▽慰霊碑写真展の開催――などを計画している。