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西條遊児さんのプロフィール   本名 河内武夫さん

西條遊児さんの顔のイラスト神戸市西神ニュータウン在住。1937年(昭和12年)生まれ。関西学院大学法学部卒業後、父、西條凡児の秘書兼見習いとして芸能界入りした。1966年(昭和41年)弟の笑児さん(1998年死亡)とコンビを組み、兵庫県を中心にテレビ、ラジオの番組を担当している。
16年続いたラジオ関西「スタジオTODAY・ホットに語ろう」はギャラクシー賞優秀賞(1992年)、井植文化賞(1987年)、番組コンクール優秀賞(1987年、1992年)などを受賞した。
現在、ラジオ関西の「サンデー神戸」「慰霊碑巡礼」、サンテレビの「ひょうご日曜フォーラム」「フラッシュひょうご」を担当している。また、神戸市・兵庫県政情報紙「セルポートKOBE」の客員ライター、神戸市消防局機関紙「雪」と神戸港振興協会機関紙「神戸港」も担当している。


レモンのイラスト 震災慰霊碑巡礼 
阪神淡路大震災から5年目。あの苦しみと悲しみをいつまでも忘れずに、安心で安全な町づくりの喚起とともに検証のひとつになればと、今回から被災地の慰霊碑や記念碑を訪ねる。レポーターは、本紙客員ライターの西條遊児氏。(神戸市政・兵庫県政情報紙「セルポートKOBE」から)。同社は神戸市中央区中山手通4−22−11 078・242・1161
第31回〜第59回
第60回〜


第1回
東灘区深江北町1丁目
やっと元の町らしく


まず第1回は、東灘区深江北町1丁目にある宝島池公園に行ってきました。
この慰霊碑は、道路を挟んですぐ東が芦屋という神戸市の一番東側の地区の繁栄自治会が震災2年目の97年3月に建立したもので、表側に「慰霊碑 神戸市長 笹山幸俊」、裏側に「この地で犠牲となられた95柱の御霊をここに祀り、冥福をお祈りするために慰霊碑を建立する」と書かれていますが、その後、2人の犠牲者が判明し、結局、繁栄自治会だけで97人が亡くなりました。

高さ1メートル、横1・2メートルの御影石で、約160万円の費用は自治会の積立金と、地域ぐるみで震災を語り継ぐため近隣から募金してまかなったそうです。
1600世帯あった自治会員のうち904戸が全半壊、20戸が全焼ということで、6割近くの人が家を失ったことになります。震災後は約800世帯に減りましたが、今は1100世帯にまで回復しました。

ひっきりなしに通る阪神電車の音と公園で遊ぶ子供の声で、やっと町らしくなってきたと感じさせます。
第2回
東灘区深江北町5丁目 本庄墓地
戦争犠牲者と並んで


東灘区深江北町5丁目にある本庄墓地を訪ねました。阪神深江駅の西側で、電車内から見える大きな墓地の管理小屋のそば、旧本庄村の空襲犠牲者慰霊碑の左側に建っています。

「平成7年(1995年)1月17日午前5時46分に発生した阪神・淡路大震災により、旧本庄村域(深江、青木、西青木)における330余名の犠牲者の方々を偲び、冥福をお祈りするために慰霊碑を建立する。平成9年1月17日(3回忌)」と記されています。
ここは、旧本庄村の共有墓地で、墓地管理委員会と各財産区管理会が103万円で建立、2年後の1月17日に除幕式をした高さ2メートルの慰霊碑です。この地区は9700世帯のうち40%が全半壊という大きな被害を受け、併せて336人が亡くなりました。

第4港区の流通関係の会社に勤めていたブラジル人が深江南町4丁目の文化住宅に住んでいましたが、親子で亡くなり多くの人の涙を誘いました。

第3回
東灘区魚崎中町4丁目 
魚崎財産区
江府町との交流今も

阪神魚崎駅の北、魚崎小学校のそばにありますが、現在(99年5月時点)、老人ホームを建設中で囲いの中にあります。台座を入れると2メートル余りのどっしりとした御影石の慰霊碑で、震災翌年の平成8年5月に除幕式を行いました。

この地域も被害の大きかったところで家屋の3分の2が全半壊し、氏名が分かっているだけで204名の犠牲者が出、あと10名ほどの方が行方不明という状態です。
碑の裏側には財産区の名前と共に鳥取県江府町の名前が刻まれています。太平洋戦争末期に魚崎小学校から198人が集団疎開したのが縁でずっと交流があり、震災直後から毛布や食料などの救援物資や義援金が次々と届けられました。そのお金と財産区のお金を合わせて、350万円をかけて作られたということです。普段からの地道なつきあいが、いざの時にいかに頼りになるかの好例でしょう。

現在は建物で90%、人口はほぼ元通りに回復してきたということです。なお魚崎小学校の校長室の時計は5時46分で止まったままでした。

第4回
長田区日吉町5丁目
「あわせ地蔵」

板宿の南、JRのガードを越えたすぐ西側にこじんまりとした広場があります。この広場に98年8月に地蔵堂が建てられ、3体のお地蔵がまつられています。真ん中の木の地蔵は大阪の仏教ボランティアからの寄贈で、両端の黒こげになった地蔵と首のない地蔵の2体は焼け跡から掘り出されたものです。この地域は震災直後の火事のためほぼ全滅状態で100人余の方が犠牲になり、その半数は生きながら焼死しました。

「あわせ地蔵」という名前の中には、生きているしあわせを感じ、手をあわせて昔のような町を作ろうという地元の人の願いが込められています。毎年1月17日の法要と8月23、24日の地蔵盆をこの広場で開き、昔の賑わいを取り戻そうと頑張っているのです。

お堂の裏側は防災資材庫になっており「道を広げるのもええけど、防火水槽の完備が先決やないか」と言うのが地元の人の声でした。

第5回
灘区琵琶町3丁目
ガレージ横の小さな祠


JR六甲道駅の南側の琵琶町は1丁目から3丁目までで約600世帯、1600人が住んでいましたが、その8割が全半壊または全半焼という被害を受け61人が犠牲になっています。琵琶町3丁目にあった「ニュー六甲ビラ」という2階建てのアパートも全壊し神戸大学の学生3人が亡くなりました。

今は跡地が駐車場になり、そのそばに木で作った縦60センチ、横30センチの小さな祠(ほこら)があります。そのなかに木彫りのこけしが3体まつられ、それぞれ上野志乃、川村陽子、呉ショウと名前が書かれてあり、飴や花が供えられています。上野さんのお父さんの手作りだそうで、中に「大震災鎮魂、安らかにねむれ。青春まっただ中、無念の死」と書かれた平成7年(1995年)3月17日付けの神戸新聞が貼ってありました。お父さんの無念の気持ちが痛いほど分かります。

琵琶町には2500平方メートルの公園が新しくできますが、その時に慰霊碑を作る計画があるそうです。

第6回
西宮市高木西町 
市立高木小学校
復興の鐘


阪急西宮北口の東北にある高木小学校の校区は、比較的古くから開かれた地域で、家屋の数も多く、市内でも地震の被害の大きかったところです。震災当日は1100人の住民が避難し、9月まで約800人が学校で生活をしました。

ここでは5人の児童が犠牲になっています。その鎮魂と地域復興の願いをこめた「復興の鐘」が震災半年後の平成7年7月17日に序幕されました。
「友よ安らかに眠って下さい。友よ勇気をもってがんばろう。支えあい力を合わせた思い出と明日への希望を胸にいつまでも・・・」
毎年1月17日には生徒代表が鐘を5回鳴らし、全校児童は黙祷をして冥福を祈るということです。

駅から学校までの間はビルの建設ラッシュで、まさに復興のまっただ中の学校という感じでした。 
第7回
長田区二葉町7丁目 
二葉小のモニュメント

大正筋の西にある学校で、校区の大半が火災や倒壊という被害を受けています。校舎は幸い無事でしたが校庭にあった赤レンガの焼却炉が壊れ、震災3周年の平成10年1月17日にそれを利用したモニュメントを花壇の中に設置しました。上には「平和、安定、広がり」をイメージしたオブジェが置かれ、「やさしさ、わすれないで」と名づけられています。

名前は児童から募集したもので、オブジェも当時の6年生が図工の先生の指導を受けながら製作したそうです。野球のボールが当たって少し傷がついていますが学校ですので仕方がないでしょう。

一時は2000人の避難所となり、全国からボランティアや救援物資が集まりました。その時に受けたやさしい気持ちをいつまでも忘れないで置こうという子供たちの気持ちがこめられています。一見何の変哲もないモニュメントですが、地域にやさしさと活力を発信しています。

第8回
灘区大石北町4丁目
西灘公園
名前が一人削除された


阪神大石駅のすぐ南にある西灘公園には黒御影石の立派な慰霊碑があります。西郷地区6か町(大石北町、南町、東町、新在家北町、東部、西部)が震災3年目のけじめとして平成9年(1997年)8月に500万円をかけて建立しました。

震災では地域の65%が全半壊し、113名が犠牲になっています。慰霊碑には犠牲者の名前が1列に38人、3段にわたってびっしりと刻まれていますが、下の列に1カ所空白が見られます。実は建立後に、神戸を離れたところでの生存が1人確認されたのだそうです。震災時の混乱をしのばせる空白といえるでしょう。
会社はほぼ復興し、復興住宅も600戸できましたので、人口的には震災前に戻ったのですが、まだ更地で残っているところも目につきます。家族を亡くした家は辛い思い出があるので戻れないのです、と連合自治会長の日笠徹雄さんが話してくれました。

今は新しい住民と手を取り合って、昔の良さを残しながら安全な町を作るというのが皆さんの願いだそうです。
第9回
灘区篠原南町1丁目
都賀財産区の墓地
今なお戻らぬ住民

阪急六甲駅の南側の住宅地の中にある墓で「こんなところにお墓が?」とびっくりしますが、土地の古老に聞きますと、昔から財産区の墓としてあり、後から住宅がどんどん建ってきたということです。

南側の道路に面したところに笹山市長の筆になる御影石の慰霊碑が平成9年(1997年)5月に建立されました。碑の裏側には「都賀地区犠牲者158名、都賀財産区管理会建立」とあります。
財産区の範囲は神前町、六甲町、稗原町、琵琶町、烏帽子町と南北に長く、国道2号の南、阪神電車のガードまであります。震災前に約3200あった町が震災の年の10月に行われた国勢調査では1340世帯と、実に6割近く減少し、最近になってようやく約2000世帯になりました。

管理会の大下政友会長の話では、自治会活動をするにも会員が戻っていない現在、財産区が会費の補助をしなければならないのが現状だそうです。3回忌の時に120万円で慰霊碑を作ったのですが、消費税もかっちり3万6000円取られました。こんな時にでも消費税をかけるというのは、法律は法律だというものの、何か割りきれない感じがするのは私だけでしょうか。
第10回
灘区桜ヶ丘町2丁目
高羽墓地横の慰霊碑

普賢岳被災者との交流で

六甲ケーブル行き市バス高羽停留所の近くに墓地があり、その入り口にヨットの帆のような形の碑が建っています。

桜ヶ丘、土山、一王口、寺口、高羽、楠丘、高徳の各町が所属する高羽協議会5000世帯では、石屋川ぞいの家屋の被害が特にひどく74人が犠牲になりました。
平成9年1月に建てられたこの碑には一つのエピソードがあります。震災の1年半前の8月に雲仙普賢岳の火砕流で埋まった大野木場小学校の5年生全員24人を協議会で3泊4日で招待し、ホームステイや、盆踊り、サーカス見物を楽しんで、残った寄付金の70万円も学校にプレゼントしました。
その縁で震災後すぐに郵便為替で35万円が送られてき、それを有効に使うために浄財を集めて、180万円をかけて碑を作ったのです。亡くなった人の名前や当日の新聞がカプセルに入って埋められています。
震災前からあった5体のお地蔵さんの横に、復興を祈って中国の天津から贈られた石仏が鎮座しています。

第11回
西宮市久出ケ谷町
夙川小学校の慰霊碑

校庭に小振りでですがずっしりとした「心やすらかに」と書かれた石碑が建っています。夙川和小学校では2人の児童が犠牲になり、校区内で55人が亡くなっています。このあたりはいわゆる高級住宅街ですが、それだけに大きな梁や屋根の下敷きになった人が多かったそうです。

一時は学校に1200人が避難し、学校の再開は2月1日からとなりました。1000人近くいた児童で当日登校できたのは468人。2クラス分を1クラスにして先生2人が授業を受け持ち、国語や算数など基礎教科を重点に勉強したそうです。
マイナスをプラスに転換する発想で、普段やりたくてもできない授業形態をとり、震災を乗り切りました、と水永道博校長は話します。

水不足の経験から、校庭の片隅に10メートルの井戸を掘り手押し式のポンプを設置したり、校門を入った地下に緊急用の60立法メートルの貯水槽を備えたりしています。

第12回
神戸市長田区海運町
満福寺の慰霊碑

JR鷹取駅の南、国道2号線沿いにある亀の子寺で有名な満福寺も震災では庫裏と鐘撞き堂が全壊し、本堂は半壊、石垣もほとんどがつぶれました。

このあたりは火災がひどく60人以上が犠牲になっています。(ちなみに長田区では3986棟が87棟が半焼しています)
住職の志保見文彦(ぶんげん)さんの話では、寺の手前まで火が来たとき風向きが変わって、幸い焼けなかったが、亡くなられた方の霊を慰めるため、門柱を直すときに石材店の好意で慰霊碑を寄贈してもらったということです。

「自分の気持ちだけでもお慰めできればと思っており、大々的に言うつもりはありません」と住職さんの言うとおり境内の西すみにひっそりと建っていますが、その両脇に防火用でしょうか、ポリ容器が置かれているのが印象的でした。

第13回
芦屋市浜町
芦屋市立宮川小学校

阪神打出駅の南西、国道43号線の南に、震災後新しくできたモダンな校舎の学校があります。その校門を入った左側の花壇に「なき友の夢とともに、希望のあしたへ一歩、やすらかに」と書かれた慰霊碑が建っている。

碑には3人の犠牲者の名前が刻まれ、そのうちの2人は5年生と3年生の姉妹でした。震災当日の11時ころ、お父さんが学校に助けを求めに来られ、教職員が駆けつけたのですが、軽量鉄骨が覆いかぶさりどうすることもできなかったということです。
3人をしのぶ会終業式の日に行われ、普段はざわついている子供たちもさすがにこの日は静かに、そして涙して3人の冥福を祈ったということです。

校舎の大半が潰れたのと残った校舎にも避難者がいましたので、授業再開の2月2日から約40日間は近くの打出浜小学校の3階を借りて勉強をしました。朝礼で2人の校長先生がお話をしたり、校庭で2校の生徒が一緒に遊んだりと、大変だったけれど良い体験になったことでしょう。

第14回
神戸市兵庫区門口町
久遠寺の慰霊碑

JR兵庫駅の南にある柳原恵比寿神社を東に行くと久遠寺という法華宗のお寺があります。境内を入ったすぐ右手に「妙法・阪神淡路大震災物故者慰霊碑」と書かれた石碑があり、その横に25人の犠牲者の名が刻まれています。

その中にスコット・マッシュという外国人の名前が書かれていますが、これは久遠寺の近くでクリーニング店を営む松浦潔さん宅にホームステイをしていたオーストラリアの英語教師で、松浦さんの長男の誠君とともに犠牲になりました。
誠君は当時高校2年の17歳。スコットさんは誠君の中学時代の英語の先生で24歳。3カ月前からホームステイをしていたそうです。英語の得意な誠君は将来は、語学を生かした仕事をめざし、スコットさんは日本で仕事を続けるべく勉強中でした。

前途ある2人を含めた25人の慰霊碑は平日の午後5時までなら誰でも参拝ができます。

第15回
長田区重池町1丁目
拓也くんのお地蔵さん

地下鉄上沢駅を北へ上がり夢野台高校の東側の坂道を登ったところに、よう壁とコンクリートの土台だけの更地があり、そこに子供のお地蔵さんが安置されています。

ここには明石健司さん一家5人が住んでいましたが、震災で築後3年半の家は崩れ(よう壁が崩れて家が引っ張られる形で菱形になったそうです)、生後4カ月の拓也くんが犠牲になりました。
拓也くんの思い出を形に残しておきたいと、静岡に住む彫刻家にお地蔵さんの制作を依頼し、震災の翌年1月に完成しました。
「拓也によく似ています、耳の大きな子でしてね・・・」という健司さんは作者との約束で、地域の人にも触ってもらえるように囲い込まず安置しています。
お地蔵さんの下に木の箱があり、その中には花やロウソク、線香のほかにミニカーとおしゃぶりが供えられていました。

家が建つまでまだしばらくかかりますが、健司さんは出勤前にできるだけここに寄り拓也くんと話をするのを楽しみにしています。
第16回
東灘区本山南町7丁目
中野南公園

阪神深江駅の西北に大きなグラウンドと綺麗な花の植わった公園があります。砂場で子供たちが遊んでいますが、震災直後はここに24張りのテントが張られ、約1年間地域の人が生活をしていました。
そのテント村の人たちが亡くなった人々への鎮魂とお世話になったボランティアたちへの感謝の気持ちを込めて「命」と書かれた碑を震災翌年の3月に作りました。

制作費用は全国からの基金と青空市場、バザーなどの売上金を合わせた65万円です。立派な碑の割に安いのは身内を亡くした石屋さんが「一生一代の仕事をしたい」と言ってくれたからです。
碑の裏側には「ありがとう地球の仲間たち、あたたかい心、大きな愛忘れない」と書かれていました。テント村の自治会長だった依田春行さんは7回忌に向けて現在もバザーなどで費用を集めています。ようやく13万円ほどになりましたが、まだ足りないので、1口500円の「命を守る会」を作り、協力会員を募集しています。<問い合わせ電話078・452・4891>

第17回
灘区六甲台町
神戸大学の慰霊碑


36系統の鶴甲行きの市バスに乗って神大正門前で降り、石段を50段上がると本館前の庭に出ます。目の前に六甲アイランドをはじめ、市街地が一望できる大学の一等場所に碑は建っていました。

赤御影石で作られた台座はメキシコのピラミッドをイメージしたもので、その上に「鎮魂」と「慈」の文字をかたどった金箔を施したブロンズが置かれています。
神戸大学では校舎自体の倒壊はありませんでしたが、教職員2名、学生39名が犠牲になりました。その霊を慰めるために翌年3月に、工学部の非常勤講師で京都精華大学美術学部長の小林陸一郎さんの制作による碑が作られたのです。

横の銘板には「友よ、神戸大学を、そして世界を見つづけてほしい」とあり「私たちは諸君一人ひとりの学問への情熱と輝かしい青春の限りない想いを永久に留めるために、この碑を建立する」という碑文が41名の名前とともに刻まれています。

第18回
津名郡北淡町野島
北淡町震災記念公園


阪神・淡路大震災の震源地にある野島断層記念館の横の広場に「べっちゃないロック」と名付けられた石積みの立派なピラミッドが3つ建っています。べっちゃないとは、もう大丈夫という意味とがんばるぞという意味の方言で、三角錐が天に向かっているのは震災への怒りと、犠牲者への慰霊の気持が天まで届くようにということだそうです。

その前に40人の名前が刻まれた慰霊碑が4月16日に建立されました。北淡町で犠牲になったのは39人ですが、兵庫区で亡くなった北淡町出身者の名前も一緒に刻まれているのです。
この慰霊碑は500万円かけて作ったそうですが、その費用は岐阜県根尾村からの義援金が当てられました。実は根尾村には100年ほど前に起きた濃尾大地震の断層を保存した記念館があり、同じ震源地として根尾村から震災直後に義援金が1000万円送られてきました。その半分を慰霊碑に使わせてもらったそうです。ちなみに、根尾村の記念館も震災後は入館者で長蛇の列だということです。

第19回
西宮市奥畑
西宮震災記念碑公園


阪急苦楽園口駅から東へ7分のニテコ池のそばに、市が1億6900万円かけて整備した公園があり、奥まった所に「阪神・淡路大震災犠牲者追悼之碑」と書かれた横長の大きな石碑があります。

震災3周年の平成10年1月17日に除幕され、「安らかにお眠りください。こよなく愛された西宮を安心して暮らせるまちに、希望に満ちた美しいまちに、再び築き上げることをお誓いいたします」と碑文が書かれていました。

碑は縦3メートル、横9メートルの茨城県産の花崗岩で、内側の黒御影石に1079名の犠牲者の名前が6段にわたって刻まれており(後に2名追加)、碑の制作費用は3500万円ということです。

市域の犠牲者は1146人で、そのうち遺族の了解の取れた人だけを刻名しました。

追悼碑を取り囲むようにして写真を焼き付けた8基の石が半円形に並んでおり、倒れた団地や地すべり現場、避難所、仮設住宅など震災の状態が時系列的に配置され当時を偲ばせてくれます。

第20回
芦屋市津知町

津知公園の慰霊碑


神戸市と境を接する国道2号線のこの町は、震災で430世帯のうち実に98%が全半壊し「一夜にして町が消えた」と報道されました。

公園には40余りのテントが張られ、その年の5月末まで多いときには200人が生活したのです。
平成9年4月に、亡くなった56人のため「絆」と書かれた慰霊碑が建立され、平成10年には亡くなった子供たちのために「しだれ桜」が植えられました。
子供も20人以上が犠牲になり、町の子供会のメンバーも震災前には110人いたのが震災後は10人に激減し、現在ようやく50人に戻り、今年の夏休みから公園でのラジオ体操が再開されました。しかし恒例だった盆踊りはいまだに復活していません。区画整理にかかっていますので勝手に家を建てることができず、今でも300世帯くらいしか帰っていないのです。

津知の人々は震災前から結束がかたく震災直後も自警団を作って町を守りました。慰霊碑の「絆」はその象徴とも言えるでしょう。
第21回
芦屋市南宮町
芦屋市立精道中学校


精道中学校の校区は西は神戸市、東は西宮市と接する東西に細長い校区で一夜で町が消えたと言われる津知町や市役所周辺の中央地区など芦屋で一番被害の大きかった地域が含まれ、5人の生徒が亡くなったほか、親兄弟を亡くした生徒が16人います。

校庭の西側の花壇きれいな花に囲まれて慰霊碑があり、碑文には
「一瞬にして大切なものを失いました。
この悲しみをのり越え、新しい希望と夢を。
いつまでも安らかに。
47回生旅立ちの言葉」
と書かれ、亡くなった5人の生徒の名前が刻まれています。
建立されたのは震災の年の3月。つまり47回生の卒業式の時で、震災慰霊碑としては最も早く建てられたのではないでしょうか。

亡くなった3年生の北井香子さんの親友が、親せきの石材店に頼んで最優先で作ってもらったそうです。
碑文の初めの文句は卒業式の答辞の一部で、次は3年生担当の先生方の発案、最後はその親友の言葉だそうで、まさに学校挙げての追悼と言えるでしょう。

第22回
西宮市薬師町
西宮市立瓦木中学校


阪急西宮北口駅から北東へ歩いて20分ほどのところにある瓦木中学校の中庭に「鳥の日時計」と名付けられた三角形の慰霊碑があります。

校区の西宮北口周辺の商店街はほぼ壊滅状態で、高木地区も4分の3が壊滅しました。そして女生徒3人がなくなっています。
三角形の各頂点には金属製の球がはめ込まれており、これは3人の魂を表しているそうです。真ん中の円形は日時計になっており、指針は3人に代わって未来に羽ばたこうとしている鳥を表しています。
陰が5時46分に来るところに線が引かれ、永遠にこの時を忘れまいという思いが込められています。
これは、当時美術を担当していた先生が図案化し、西宮在住の立体美術家が制作しました。

震災半年後の7月17日に除幕され、以後毎年1月17日にはこの碑の前に全校生が集まり、命の尊さや助け合うことの大切さを話し合うということです。

第23回
須磨区戎町
信行寺


震災で焼き尽くされた町にプレハブの家が目立つようになってきました。
昨(99)年11月、5年ぶりに再建された信行寺も地震直後の火災であっという間に焼け、住職一家は数珠一つ持ち出せず近くの大黒小学校に避難しました。

再建された本堂は鉄筋コンクリート3階建ての立派すぎる(失礼)ものですが、これは住職さんの「被災してここを頼って来られた檀家のみなさんを受け入れられなかったのが何としても心残りで・・・」という執念とも言える結果なのです。
「今後は燃えない、壊れないというのがテーマです」と言うてはりました。
本堂の前に親鸞聖人の銅像と、合掌をデザインした復興記念碑があり、碑には檀家で亡くなった28人の名前と「涙を越えて」という文字が刻まれています。

焼け跡から唯一掘り出された鐘が玄関に下げられており毎年1月17日には震災の生き証人として、以前と同じ音を響かせているそうです。

第24回
北区
鵯越墓園の慰霊碑

広大な墓園の一角に無縁墓地があり、そこに平成11年1月17日、神戸市が建立した慰霊碑が建っています。

南向きの一等場所で高さ1メートル50センチ、幅1メートル90センチと立派な碑ですが、無縁と聞くとやはり淋しい気持になります。
大震災では4590人にのぼる神戸市民が犠牲になりましたが、そのうち9人の方の身元がいまだに分かっていません。
碑の横のプレートに「石碑内部のカロートには9体がそれぞれ壷に収められて安置されています。発見場所等の記録は管理事務所において閲覧できます」と書いてありましたので、事務所で見せてもらいました。
9人の遺骨保管番号がそれぞれ書かれて、氏名、年齢、性別、特徴、死因、場所、所持金などの項目がありますが、分かっているのは場所だけで後はほとんど不詳となっています。兵庫区内5人、長田区内2人、須磨区内2人で全員焼骨骨片です。

救いは慰霊碑に花や線香の香りが絶えないことで、身内の墓参に来た人が入れ替わり立ち代わり花を手向け、手を合わせて帰るということです。

第25回
東灘区岡本
甲南大学の災害記念碑


正面を入った突き当たり、1号館の前に高さ1メートル60センチの碑があります。黒色と灰色の御影石をかぎ型に組み合わせたようなデザインですが、上部の黒御影のラインは地震の起きた午前5時46分の時計の針を表しています。

色紙大の白御影には「常に備えよ」という学園創立者・平生釟三郎さんの言葉が書かれ、その下のプレートには大震災の日付と昭和13年の阪神大水害の日付の他に「天の災いを試練と受け止め、常に備えて、悠久の自然と共に生き、輝ける未来を開いていこう」と書いていました。
2度の大水害の経験を踏まえ、今の日本に一番欠けている危機管理を呼びかけているように見えます。学生はもちろん、大企業の責任者にも是非見てもらいたい碑です。

大学の主な建物はほとんど全半壊しましたが、新しくできた校舎は耐震構造で、廊下や階段の幅を広くし避難しやすく作られているそうです。
第26回
芦屋市大桝町
三八通商店街の布袋さん

昭和3年8月にできたのでその名がついたと言われる三八通商店街はJR芦屋駅の南約300メートルのところに南北に通っていますが、商店街とは名ばかりで、お店がポツンポツンと建っているだけで、更地や建設中の工事現場が目立ちます。震災で約40軒あった店舗兼住宅全壊してしまったのです。電柱に「銭よ、三八へ」と書いた立て看板があり、厳しさを感じさせます。

ここで宝飾店をしていた山田勝己さんの仮設事務所前に、高さ約1メートルの立派な石の布袋さんが鎮座しています。震災で両親を亡くした山田さんが友達に誘われて行った石材店が見つけ、供養にと手に入れました。「何や、うちに来たそうな顔をしてましてん・・・」と笑う山田さん。

布袋さんにパワーがあるのか、これに触った人が元気になったりしているそうです。近所の人が毎日、花や酒、賽銭などを供えて行き、皆がさするのでお腹はだんだん黒光りしてきました。
もっとパワーを発揮して、一日も早く町の復興のシンボルになってほしいものです。
第27回
洲本市由良町熊田
洲本市の日時計


市の中心部から立川水仙郷の方へ15分ほど車で走った所に、震災時の解体家屋482戸を埋め立てた処分場跡があります。

今はきれいな芝生広場になっており、そこに家屋の敷石や門柱を利用した日時計が紀淡海峡に向かって立っています。デザインしたのは洲本市環境整備課の久保拓也さんという青年職員で、自然の力を永遠に記憶するために太陽の光を使った時間で表現しようと日時計を思いつきました。
天気のよい日には午前6時から午後6時まで正確に時を刻んでいます。そして日時計から少しはずれた所に「時のしらべ。平和な日々をくつがえした阪神・淡路大震災。よもやと思いつつ現実なんだと思い直す今、日常の大切さを感じる。ここに記念としてモニュメントを建立する。1996年3月20日」と書かれた碑文が設置されています。そしてその位置は午前5時46分の位置でした。

日時計の回りには、同じく解体家屋の木材を利用したテーブルやイスが置かれ、市民の憩いの場にもなっているようです。
第28回
尼崎市上ノ島町
市立尼崎高校の記念碑
災害に強い学校に

平成10年2月に新しくできた校舎の西側に本を開いた形の石碑が建っています。
市立尼崎高校の校舎は地震のため亀裂が入り、立入禁止になりましたので1月中は校庭で青空教室、2月、3月は他校での間借り授業、4月からはプレハブの仮設教室での勉強と、生徒達は約3年にわたって不自由な学園生活を強いられてきました。

碑文は震災直後の教室の宿題で書かれた作文の一部が含まれています。
「町をボロボロにし、多くの人を奪った地震を憎らしく思う反面、ボランティアの活動を見て、人間とはこんなにも優しくなれるものかと感動した」などと書かれていました。
新校舎は鉄筋7階建てで耐震設計はもちろん、屋上に太陽光発電装置を備え、事務室には出火場所がすぐに分かるモニターなどがあり、まさに「防災の砦」という感じです。

その隣にできる体育館の屋内プールには水を飲料水にする浄化装置も付けられ、いざに備える態勢が整っています。
第29回
神戸市西区伊川谷町
神戸学院大学の大時計
子午線時計を設置


グラウンドの南側に直径6メートル20センチの大時計が日本一正確な時を刻んでいます。
それもそのはず。これは明石天文科学館の2代目の子午線時計で、震災の後97年3月5日に設置されたものなのです。

震災で高さ54メートルの子午線塔の内部が倒壊し大改修をすることになり、大時計の行き先が宙に浮いていましたが、同じ東経135度線上にある神戸学院大学は早速「是非ともシンボルにしたい」と明石市に申し込み認められました。

しかし何分にも重さ4トン、直径6メートル余りという大物だけに4分割して深夜そろそろと搬送され、グラウンドを深く掘って土台をしっかり作り、学生の目線で見える位置に設置しました。
「デジタル時代に育った学生に震災を超えて時の流れと歴史の大切さを知ってもらえたら・・・」と事務局の中村晃三さんは語ります。

それだけに万一進んだり遅れたりすると大変ですので、毎日午前7時と午後7時の2回、NHKの時報に合わせているそうです。

第30回
神戸市長田区海運町3
焼け残ったキリスト像
救援基地のシンボル


被災者救援基地として有名になったカトリック鷹取教会。そのペーパードームの横に両手を広げたキリスト像が立っています。

震災でこの辺り一帯は焼け野原になりましたが、この像のそばで火事は消えました。一部マスコミでキリスト像が火を止めたと書かれたりしましたが、教会の神田裕神父は「そんな迷信みたいなことはありません」と一笑に付します。
「しかし両手を広げている姿は、被災者でもボランティアでも誰でも来て下さいと迎えているようで、まさに救援基地のシンボルにはなったでしょうね」と語ります。

教会には、常時40人〜50人、多い時には150人が寝泊まりし、全国から延べ1万人以上のボランティアが活躍し、今も活動は続いています。

震災6年目に入り恒久的な市民活動支援の拠点となるべく、2000年4月から「たかとりコミュニティセンター」と名称を変え、夏にはNPO法人格を取る予定ですが、名前は変わってもキリスト像はシンボルとして残り、活動を見守っています。

第31回以降は
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