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阪神大震災モニュメントマップ
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兵庫県芦屋市
(番号は「2000年版震災モニュメントマップ」と同じ番号です)
30 阪神高速芦屋IC南/慰霊碑  芦屋市大東町1
阪神高速芦屋IC南の慰霊碑 「高速道路が折れています!」。テレビのアナウンサーが何度も叫んでいたのは記憶に新しい。震災で阪神高速道路は神戸線、湾岸線で計6カ所が倒壊。ドライバーら16人が亡くなった。
 1996年9月、芦屋料金所近くで、阪神高速道路公団による慰霊碑の建立式が行われた。だが、その席に一部の遺族の姿は無かった。その前の年の12月に公表された建設省報告書は倒壊について「公団の施工・管理に瑕疵(かし)はない」とした。これを根拠に、公団側は遺族への補償に応じなかった。こうした姿勢に遺族は「公団は慰霊碑を造って区切りをつけたいだけだ」と反発したのだった。97年1月には、遺族の1人が「道路の設置に問題があった」として約9200万円の損害賠償を求める訴えを神戸地裁尼崎支部に起こしている。
 碑が建つ敷地の入り口の門には、錠がかけられている。維持・管理のためという。
最寄り駅阪神打出駅から徒歩10分。参拝希望者は阪神高速道路公団神戸管理部総務課(078・331・9801)。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
31 精道中学校/詩碑    芦屋市南宮町9の7
精道中の碑「一瞬にして大切なものを失いました この悲しみをのり越え、新しい希望と夢を 47回生旅立ちの言葉」
の碑文がある。震災で死亡した生徒5人の名も刻まれている。学校が震災の年の卒業記念に設置した。震災直後は授業を再開するだけで精いっぱい。卒業式までにこんな碑ができるとは思わなかった。
間に合ったのは、亡くなった生徒の親友だった3年の女子生徒の一言が大きかった。
 校区は激震地だった。家族と生き埋めになり、助け出された生徒も多い。数百メートルにわたって阪神高速道路神戸線が横倒しになった現場もそばだ。教室や体育館は、避難所になっていた。
 3月に入り、校庭に張ったテント内で、卒業式の練習が続いていた。練習の後、「卒業記念は何を?」と話題が出た。先生たちは震災の碑を残したかったが、とても準備に手が回らない。それを聞いた女子生徒の1人が、「亡くなった親友のために何とかしたい」と、寺の住職をする親に相談したのだ。
 親は知人の石材業者らに声をかけた。すると、瞬く間に協力の輪が広がり、卒業式に間に合わすために黒御影石の立派な碑が、わずか3日間で完成した。そして、式の前日、無償で学校に贈られた。式は、同市内で炊き出しボランティアをしていた俳優の渡哲也さんら「石原軍団」に聞いたテント会社が無償提供してくれたイベント用の巨大テントだった。
 碑文は、この卒業式の答辞の中の一文。死亡した5人以外に、16人の生徒が肉親を震災で失った。石碑の前は、1月17日になると、花でいっぱいになる。              

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最寄り駅阪神打出駅から徒歩数分。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
32 打出浜小学校/打小の森・祥子の木とち  芦屋市新浜町8の2
打出浜小学校の地図打小の森の写真 正門を入ると、ザクロの赤い花が咲き、プルーンの枝には3センチほどの緑の実が揺れている。「震災復興祈念 打小の森」と名付けられた10メートル四方ほどの緑の一角。木々に守られるように、中央付近には「祥子の木 とち」と札のついた木がある。
 木を植えたのは、1996年3月の卒業生たち。地震でアパートの2階が崩れて下敷きになり、命を失った中島祥子ちゃん(当時5年生)の同級生らが「友だちを忘れないでおこう」と土をかけた。
 「祥子の木」をトチにしたのは、手の形に似た葉を広げ、ぐんぐん成長する生命力の強い木を、明るくてクラスをにぎわせた祥子ちゃんが生きた証にしたかったからだという。記念碑ではなく、子供たちが日常的に「命」を感じる場にしようと、リンゴ、グミ、カキなど、実のなる木ばかりを植え、ウサギやアヒルを放し飼いにしている。子供たちの格好の遊び場だ。
 地震前は約600人だった児童数が今も落ち込んだままになっている。植樹時、2メートルに満たなかった「祥子の木」は、3メートルを超えた。祥子ちゃんを知る児童たちが学校を去っても、元気だった女の子を、わずか11歳で木に生まれ変わらせた震災が、こうして語り継がれる。
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最寄り駅阪神打出駅から徒歩10分。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
33 浜風の家/「きぼう」の像 芦屋市浜風町31の2 
浜風の家のきぼうの像 兵庫県宝塚市在住のエルサルバドル人の彫刻家、カミロ・ボニーヤさんが作った。カミロさん自身も家族とともに自宅で被災した。家族は無事だったが、その時、故国の教 会にマリア像を作って贈る話をまとめて帰ってきたばかり。その話がどうなるかが気がかりだったという。
 このマリア像は高さ6・5メートル。首都の教会の塔の上30メートルのところに載せる大きな像だった。
 スペイン語で「救世主」を意味するこの国は10年近い内戦が終わったばかりで戦災遺児、孤児も多い。夫婦で文房具や服を調達しては修道院に贈るボランティアを続けているカミロさんの芸術家としての大きな仕事でもあった。
 その像がほぼ完成したころ、今度は、「浜風の家」に像を贈る話が持ち込まれた。
「浜風の家」は、震災遺児、孤児の心のケアのために募金をもとに99年1月完成した。社会福祉法人「のぞみ会」が運営し、理事長は作家、藤本義一さん。
 像は、カーネーションを持つ少女の姿を写したもの。
「きぼうの像」と名づけられた。カーネーションは「愛」の象徴。 「浜風の家」の玄関横に、西を向いて立っている。目の先にはKOBEの街と六甲山がある。
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最寄り駅阪神芦屋駅からバス。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
34 宮川小学校/詩碑・桜の植樹  芦屋市浜町1の9
宮川小学校の碑犠牲児童3人の名前と
「なき友の夢とともに
希望のあしたへ一歩
安らかに」

の碑文を刻んだ黒い御影石の碑が建てられた。3人は川内由季子さん(5年)、麻理子さん(3年)姉妹、神戸市から転校してきたばかりの谷口麻衣子さん(5年)。
 ようやく学校が落ち着いた1995年3月末、3人をしのぶ会が開かれた。地域の商店の協力で、遺影と花を飾った祭壇が。「普段の朝礼ではザワザワしている子供たちが、シーンとしましてね。友達が急にいなくなって、死を身近に感じたんでしょうか」と、当時教頭だった田村寿秀さんは話す。
 碑は、その時の気持ちをそのまま引き継いでいる。4年以上の児童が全員、文案を考え、山口校長が編成した。地域の石材店が引き受けてくれた。
 碑の向かいにPTAが桜の木を1本、植えた。「あの時の子供たちは大人になり桜も大きくなる。子供たちが自分の子供たちを連れて桜を見にやって来て、震災のこと、亡くなった友だちのことを伝えていってくれれば」
 その願いを込めた桜が、静かに碑を見下ろしている。
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最寄り駅阪神打出駅から南西に徒歩5分。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
35 芦屋南高校/石碑「生」     芦屋市新浜町1の2
芦屋南高校の碑 震災1年の1996年1月、教職員や保護者らの寄付でできた。白御影石(幅40センチ、奥行き30センチ、高さ40センチ)に「生」の一文字。先生1人と生徒7人の死を悼み、命の大切さを忘れまいとの思いが込められている。碑は、正門脇の芝生に建つ。今、傍らのベンチでは、生徒たちがひととき憩う姿が見られる。
 埋め立て地に建つ学校と校区は液状化現象で地盤が30センチも沈下した。3日後に8人の死が確認された。淡路島から単身赴任して2年目だった松村吉成先生(当時54歳)と、3年生1人、2年生3人、1年生3人だった。
 地震後、初の登校日の23日、登校出来たのは4割。それでも、再会を喜び合う姿に、藤原周三校長(当時)は「君たち、生きていてよかったな」と涙した。
交通機関が寸断されたまま、2月1日、学校は再開された。生徒の2割は避難所からの通学。校舎廊下に支援物資が山積みされていた。陸上自衛隊第十師団も駐屯していた。
 3月の卒業式では亡くなった生徒の名も読み上げられ、級友全員が「はい」と声を合わせて返事した。
毎年1月17日、全校集会で碑のいわれが語られる。
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最寄り駅阪神打出駅からバス。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
36 県立芦屋高校/野島断層と同じ断差をつけた石碑 芦屋市宮川町6の3
県立芦屋高校の碑 正門を入ってすぐ左、藤棚のある小さな広場に「阪神・淡路大震災の碑 平成7年1月17日」と刻まれた高さ80センチ、幅1メートルの半円形をした御影石のモニュメントがある。裏には「中、南館損壊」「犠牲者 生徒3名 卒業生30人」「平成10年1月17日 兵庫県立芦屋高等学校 あしかび会」の文字。碑の頂上部分には野島断層と同じ角度の段差が付けられている。
 高校のある阪神電車の線路以南は被害が大きく、神戸市東灘区にまたがる校区では、合わせて1912人が犠牲になった。碑文の通り、在校生3人と卒業生30人が家屋の下敷きになるなどして亡くなり、教室などのあった中館、南館は使用不能になった。
 何とか持ちこたえた体育館と格技場には住民1500人が身を寄せ、5月まで避難所として開放された。グランドやテニスコート、バレーボールコートにもプレハブの仮設校舎が建てられ、校内での活動がほとんど出来なくなったクラブも少なくなかった。
 今、モニュメント以外には、震災の痕跡は見当たらない。
 しかし、毎年2年生の地学の授業で「震災や復興」「復興と防災」などをテーマにした課題研究に取り組んでいる。生徒たちがそれぞれの体験をもとにまとめた論文の一部は、同校のホームページで公開されている。また、校内の避難所でボランティア活動をしていた生徒らが中心になってボランティア部も発足。日本海のナホトカ号の原油流出事故の際には、100人以上の生徒が、寒風の吹く北陸の海岸での原油回収作業にあたった。
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最寄り駅阪神芦屋駅から南へ徒歩10分。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
37 潮見中学校/石碑「凛々」     芦屋市潮見町20の1
潮見中の碑 学校は、浜風が吹く芦屋市のシーサイドニュータウンにある。石碑は正門を入ってすぐ右に据えられ、校章の下に「凛々(りんりん)」と刻まれている。
 地震の後、教室には201の遺体が安置された。体育館は避難所になり、校庭には200戸の仮設住宅が建った。授業の再開から仮設住宅の完全撤去までの2年4カ月間、生徒は仮設のおじいちゃん、おばあちゃんらとともに学校生活を送った。遺族、被災者と悲しみを分かち合い、命長らえていることのありがたさ、大切さを深く心に刻んだ日々だった。
 震災翌年の「1・17」に建った石碑は幅1・1メートル、高さ約1メートル。「凛々」の2文字は校歌からとった。同校ボランティア部顧問の古武家育子教諭は「命の尊厳をかみしめ、明日に向かって元気に歩むことを祈願したものです」と説明する。
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最寄り駅阪神芦屋駅からバス。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
38 朝日ケ丘小学校/モニュメント「希望の時計」  芦屋市朝日ケ丘町10の10
朝日ケ丘小学校のモニュメント「希望の時計」 中庭に3つの時計を組み合わせた高さ約6メートルのモニュメント。2つの時計は実際に動く。今を記し、未来を刻む。もう1つは震災が発生した午前5時46分を指した鉄製の彫刻。それは、当時4年生だった児童63人と先生らが1997年春、卒業記念に作った「希望の時計」だ。
 1995年の卒業生はむろん、翌年の卒業生も、震災を卒業記念のテーマにする余裕はなかった。 家が壊れて転校した児童も多かった。
しかし、励ましがあった。児童が疎開した和歌山県橋本市立城山小学校と大阪市立今川小学校の児童会などが「復興のために」と寄付金を送ってきてくれた。
 「忘れてはいけないものを記録し、『これから朝日ケ丘小は頑張っていく』という決意を、寄付をくださった方にも、そして自分たちにも示したい」。そんな気持ちが6年生と先生からわき起こったのは、 校舎の改修工事が進んだ97年1月ごろだったという。
 寄付金の残りなどを使って製作が始まった。児童と先生がアイデアを出し合い、設計図を描いた。図工を担当していた秋山道広教諭が西宮市の「ミムラ鉄工」に鉄を買いに行くと、「そういうことなら」とただで譲ってくれ、切断もさせてくれた。溶接しようとすると、今度は校舎を改修していた工事業者が溶接機具を貸してくれた。完成した彫刻は、5時46分から、「希望」が8つの方向に飛んでいくさまを表現している。
 土台は、穴を掘ったり、コンクリートを型枠に流し込むなど全員で作った。そこに1人1人がタイルでモザイク模様を描いたものを組み込んだ。
最寄り駅阪急芦屋川駅、JR芦屋駅から徒歩25分。詳しくは「マップ」と「モニュメントめぐり」を
39  三八通商店街/布袋像    芦屋市大桝町4の1     
布袋さんの写真 宝飾店経営、山田勝己さんが、自宅の倒壊で犠牲となった両親と地域住民の慰霊のために建立した。事務所前に、高さ約1メートルの布袋さんがある。
 昭和3(1928)年8月に出来たことから名がついた「三八通商店街」は、震災で約40軒の店舗兼住宅が全壊した。今も更地が目立ち、営業を再開しているのは約半数に過ぎない。
 「この顔を見て怒る人はいない。パワーを感じるいい顔でしょう」と山田さん。買い物帰りの女性が立ち寄り、手を触って行く。皆が触るから布袋さんの手の部分は変色している。さい銭を置いて行ったり、花やお菓子を供える人もいる。
 震災で山田さんの自宅兼店舗も全壊。近くの実家も全壊し、両親が亡くなった。布袋像は、避難所生活をしていた山田さんが立ち寄った石材店で見つけた。「うちへ来たそうな顔をしていた。両親の慰霊のために、すぐに買おうと決めた」 
 しかし、布袋像が山田さんのもとに運ばれたのは、それから4年近くたった昨年12月だった。実家の跡地に自宅と店舗を建て、96年4月に営業を再開したが、三八通周辺の区画整理事業がなかなか進まなかったからだ。
 山田さんは以前の自宅兼店舗があった場所に事務所を建て、布袋さんは、仲間の手で作られた台座にようやく納まった。事務所前では、震災前から約20年間使っている井戸水を地域の人に開放していて、水くみに訪れる人が絶えない。布袋さんは「水の番人」でもある。
 「いつか布袋さんの社を作り、この町の復興をいつまでも見守ってもらいたい」。亡くなった両親のためにと山田さんが据えた布袋像はいつの間にか「町の布袋さん」になり、笑顔を振りまいている。
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最寄り駅JR芦屋駅から南西、阪神芦屋駅から北東へそれぞれ徒歩15分。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
40 精道保育所/詩碑    芦屋市精道町9の16
精道保育所の碑こわかったね
いたかったね
さむかったね
もうだいじょうぶだよ
あなたたちのえがお
あなたたちのわらいごえ
いつまでも
いつまでも

 園児6人(4遺族)が震災の犠牲になった。1歳児2人、2歳児から5歳児が1人ずつ。中には兄弟ともにマンションの倒壊のため、両親ともども犠牲になった園児もいた。芦屋市内にある9つの保育所(園)で死者が出たのはここだけだった。
 碑は、保育所の南西隅にある。震災から2年後の1997年1月17日、犠牲となった園児らの3回忌に除幕式を行った。徳島県・吉野川産の薄緑色の自然石を使用。幅約2メートル、高さ約1メートル。表には、8行の詩が、裏には犠牲となった園児の名前が記され、碑の周囲には今も四季折々の花が添えられている。
 碑は慟哭の証。その周りで園児が無邪気に遊んでいる。
最寄り駅阪神芦屋駅から南東へ徒歩3分。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を 
41 精道小学校/石碑「祈」     芦屋市精道町8の25
芦屋精道小学校の地図  校庭を見下ろす花壇の中に立っている。児童らが校庭で元気な声を上げるのをやさしく見守るように。
 台座には、
「祈」の1文字が大きく彫り込まれ、その上部に、黒御影石の彫刻がある。命を慈しみながら、復興に向かう意志を表したもので、図工科担任の教師らがデザインした。裏側には、震災で死去した児童8人と保護者6人の名前が刻まれている。
 除幕されたのは震災1年後の1996年1月17日。校区では、156人が死亡、家屋の7割が全半壊した。芦屋市内でもっとも被害が大きかった地域だ。「1周年には碑を」と、学校とPTAがまとまるのも早かった、という。
 同小では、「1・17」前後に、碑の前で全校児童参加の追悼式を開いている。8人の児童の顔写真を各クラスに回し、全員がメッセージを書いた千羽ヅルをささげる。その日は多くの父母も参加している。転勤先の東京から駆けつける犠牲児童の父母もいる。
普段から碑には鉢植えの花が供えられている。月命日にそっと置く遺族がいるのだという。
 図書室を利用して「震災資料室」もある。内外からの励ましの手紙や人形、自衛隊の臨時ぶろの看板などのほか、校区内の被災の様子を写した数十枚の写真が掲示されている。復興担当の内林知子教諭らが「碑と合わせ、あの日のことをきちんと記憶させる手助けになるように」と資料の整理を続けている。 
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最寄り駅阪神芦屋駅から徒歩すぐ。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
42 芦屋公園/句碑      芦屋市浜芦屋町5
芦屋公園の地図芦屋公園の句碑震災に 耐へし芦屋の 松涼し
 樹齢60年を超えるクロマツの林の中。石碑は、芦屋川を抜ける涼風を受けて、空を見上げるように建っていた。芦屋市役所の南側、海岸近くまで松並木が続く芦屋公園の一角に、御影石を組み合わせて造られたモニュメント。形も大きさも違ういくつもの石が支え合い、空に向かって伸びるデザインだ。
 同市在住の俳人、稲畑汀子さんが震災の年の夏に詠んだ句が彫られている。
被災地の中でも家屋の倒壊率が最も高く、443人もの人が犠牲となった芦屋。大正から昭和初期にかけ、モダニズム文化が花咲いた情緒ある街並みも、多くが失われた。
 しかし、松並木は激震を耐え、その年の夏も、すっかり変わってしまった街に、昔と変わらぬ木陰のやすらぎを与えた。松のりんと立つ姿に、稲畑さんは震災に立ち向かう人々の姿を重ねた。「震災がもたらした恐ろしさも、松並木の美しさも、ともに自然が生んだもの。どちらからも目をそらさず自然を見つめることで、震災を乗り越えていけるのでは」                   
 碑の下には、芦屋の震災犠牲者の名を刻んだ銅版を安置するための場所が設けられているが、まだ納められてはいない。市は、震災復興土地区画整理事業が進む芦屋・中央地区に、2002年春ごろ完成する大桝公園への移設を検討している。移設後は周りに木を植える計画もある。
最寄り駅阪神芦屋駅から南へ。市役所を過ぎたところが公園。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
43 精道幼稚園/石碑「忘れない」     芦屋市川西町11
精道幼稚園の碑 わすれない あなたのことを
 わすれない あのひのことを

 花壇に囲まれ、ひらがなだけが刻まれた丸い碑。悲しい出来事で建ったのに、園児たちをやさしく見守っているような温かさがある。園児だった米津深理(よねづ みり)ちゃん(当時5歳)の両親、勝之さんと好子さんが、震災翌年の1996年春に建てた。深理ちゃんを含め亡くなった園児3人の名が刻まれ、裏に
「父と母 之を建てる」とある。
 米津さん一家は、芦屋市津知町のアパートで被災した。深理ちゃんと市立精道小一年だった兄、漢之(くにゆき)君(当時7歳)の幼い命を奪い、このアパートだけで5人が亡くなった。
 精道小には、震災一周忌にPTAらによって「祈りの碑」が建てられた。そこで米津さん夫妻は「深理ちゃんが通った幼稚園にも」と考え、園に申し出た。
 除幕式。勝之さんは園児にこう語りかけた。「つらいことがあったとき、みんながこの碑を見て、元気になってくれたらと願っています」。
 「わすれない…」のメッセージは、勝之さんが考えた。「漢之と深理を忘れまい、という決意と同時に、二人の友人へ対する感謝の気持ちも込めている」という。深理ちゃんの同級生は、卒園まではいつも深理ちゃんの写真を携え、今も命日前後に集まる。幼稚園では「深理ちゃんの豆」と名付けられたエンドウの鉢植えが芽を伸ばしていた。

最寄り駅阪神芦屋駅から北西へすぐ。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
44   如来寺/十三重石塔「いのちの塔」      芦屋市川西町8の6
如来寺いのちの塔の地図如来寺のいのちの塔の写真 境内にある高さ約7メートルの石塔。
 震災で如来寺も大きな被害を受け、本堂などが全壊、1928年に建立された十三重の護国念仏塔も倒壊した。神戸市東灘区との境に位置するこの辺りは、亡くなった人が多く、藤谷信道住職は生き埋めになった人たちの救出に走り回った。
 よく境内で遊んでいた近所の子供も犠牲になった。いつも寺の子安地蔵に手を合わせていた幼い男の子は、両親のたっての希望で、地蔵の前で葬儀を行った。
 藤谷住職が「慰霊碑を建てたい」と考えていた時、護国念仏塔が県の歴史的建造物等修理費助成事業の対象になり、再建が決まった。そこで、「わかりやすい名前に」と
「いのちの塔」と名付けた。
 97年12月、本堂の落慶法要に合わせ、塔の完成式も行った。近所の子供たち75人が稚児として参列。「おもいでのアルバム」をみんなで合唱した。
 塔に使われていた13枚の石のうち、割れずに残った10枚はそのまま使った。
「震災で命を失った人々や小さな生き物たちの数知れぬ死を悼み、この震災の体験を子に孫にと語り継ぐことです」
と由来文が刻まれている。
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45 津知公園/石碑「絆」・「鎮魂桜」      芦屋市津知町1   
芦屋津知公園の地図芦屋津知公園の碑 目印の大きなクスノキのある公園。
 園内の西はずれ、桜の木に守られるようにたたずむ高さ約1メートルの
「絆」の石碑。地元の津知町自治会が97年4月に建立した。
 芦屋市内の犠牲者は、神戸市、西宮市に次ぐ442人。うち1割を超える56人が津知町で亡くなった。被害は同市内最悪で、全建物309戸中、全壊260戸、半壊28戸、一部損壊20戸。無傷だったのは実に1戸に過ぎない。
 津知公園には震災から約4カ月間、最大約120人が暮らしたテント村ができた。近くの理髪店主が"村民"のためにボランティアで散髪をした。「ただやったら悪い」。だれともなくそう言い出し、募金箱が置かれた。
 募金箱にみんなが少しずつ寄せた志は、いつしか30万円を超え、記念碑建設に使うことに。刻まれた「絆」の文字は町内報で公募し決めた。あの時生まれた結びつきの象徴でもある。寄付はその後も集まり、97年2月、子供の犠牲者を悼む
「鎮魂桜」=右=も園内に植えられた。津知公園の鎮魂桜
 震災直前の1994年12月に1218人だった人口は、98年末でも932人。「"復旧"が終わっただけ。"復興"には早くてもあと10年かかる」。自治会長の杉本貞夫さんの言葉がよみがえる。
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最寄り駅JR甲南山手駅南東へ歩き国道2号津知交差点の南側。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
46   甲南中・高校/記念碑「常ニ備ヘヨ」     芦屋市山手町31の3
甲南中・高校の碑甲南学園が、創設者、平生釟三郎氏の言葉「常ニ備ヘヨ」を刻んだ碑を建立した。

詳細は、甲南大学










最寄り駅阪急芦屋川駅から北へ徒歩20分。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を

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