音符のライン
阪神大震災モニュメントマップ
音符のライン

神戸市灘区   
(番号は「2000年版震災モニュメントマップ」と同じ番号です)
60  高羽墓地/慰霊碑   神戸市灘区桜ケ丘町2
高羽墓地の碑 約5000世帯この地区で74人が犠牲になった。周辺には古い住宅が多く、亡くなったほとんどは倒れた家の下敷きになった人だった。あちこちの避難所では、着のみ着のままで逃げてきた人たちが励まし合う光景があった。数カ月後、住民から「亡くなった人のために手を合わせる場所がほしい」という声が出始めた。住民から予想以上に多くの寄付が集まり、市内でもいち早く、1997年1月に碑が完成した。「慰霊碑」の文字は笹山幸俊市長が書いた。自身がこの地区の出身だ。
 この地域は1938年(昭和13年)の阪神大水害でも、川の氾濫でたくさんの犠牲者が出た。地盤のせいか、その時と今回の震災で被害の大きかったところはほぼ重なっている。「また同じところがやられた」。2度の天災を忘れまいと、
震災以後、水害の慰霊碑もこの近くに移転した。
西條遊児さんのコラムに関連記事があります

最寄り駅阪急六甲駅からバス。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
61  神戸大学六甲台キャンパス/鎮魂碑    神戸市灘区六甲台町2
神戸大学の慰霊碑 神戸大学の学生と留学生39人、職員2人が震災で犠牲になった。うち7人が留学生。けが人も学生、教職員あわせて500人以上、研究室などもめちゃめちゃになった。
入試の一部は大阪大や岡山大を借りて行った。41人の追悼のために大学が六甲台キャンパスの中庭に建てた。
大学のシンボル、ヒマラヤ杉の下の明るい場所に、工学部非常勤講師、小林陸一郎さんが制作した。
ピラミッドをイメージした台座にブロンズで描かれた「鎮魂」の文字がある。
「友よ、神戸大学よ、そして世界を見続けてほしい」
の碑文と、41人の名前が刻まれている。

西條遊児さんのコラムに関連記事があります
最寄り駅阪急六甲駅からバス。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐりを
62   都賀財産区墓地/慰霊碑   神戸市灘区篠原南町1の3
都賀財産区地図都賀財産区 碑は神戸市立六甲小学校から約60メートル西にある住宅地に囲まれた都賀財産区の墓地の一角に建つ。歩道に面し、子供らを温かく見守っている。
 震災翌年の1996年末、同財産区管理会会長の大下政友さん(77)ら住民9人は、大規模な都市開発を復興の参考にするために名古屋市まで出かけまもなく来る3回忌についても話し合った。「慰霊祭も大事だが、このままでは震災の体験が風化してしまうのでは」と、慰霊碑の建立が決まった。
 慰霊碑は御影石造りで、高さ約75センチ、幅約90センチ。表に「阪神淡路大震災 慰霊碑」の文字、裏に地震発生日時と地区の犠牲者「158名」の数字が刻まれている。97年5月17日、住民ら約60人で除幕した。
 「震災を語り継ぐ意味でも、子供たちと触れ合える最高の場所に建立出来た。犠牲者の魂は、碑とともに永久に生き続けてくれることでしょう」と大下さん。
西條遊児さんのコラムに関連記事があります
最寄り駅阪急六甲駅から南へ徒歩5分。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
63 JR六甲道駅南/全線開通記念モニュメント  神戸市灘区永手町4の1の1
JR六甲道駅南のモニュメント 脱線、転覆した車両137両、落下した山陽新幹線の橋げた8カ所……。JR西日本の被害状況だ。
 六甲道駅はJR西日本の駅舎で唯一、全壊した。その南口玄関わきにある銀色に輝くモニュメント。
 あの日、駅長の中尾智俊さん(その後明石駅長)は、姫路市内の自宅からあわてて駅に電話した。「駅長さん、えらいことじゃあ」。うわずった助役の声の後ろで火災報知機が鳴り続けていた。小雪の舞う中、バイクにまたがり4時間がかりで駅へ。崩れ落ちた駅舎の後ろで、商店街が炎に包まれていた。それから2カ月半後の運転再開の日まで、駅員たちは早朝深夜の寒風にこごえながら代替バス停留所で案内を続けた。
 みかげ石の台座と鏡面仕上げのステンレスがマッチしたモニュメント(高さ1・5メートル)は96年4月1日に建立。デザインは列車のヘッドマークなどをデザインしている事業開発室の3人が案を出し合い、北隅耕三さんが最終的に取りまとめた。
「生々しさを感じさせずに被災地の様子と鉄道の再開を表現するのに悩んだ」と北隅さん。結局、ステンレス部を神戸の町並みと海の部分に分けて、震災による亀裂を表現、その間を2本のレールでつないだ。上からのぞき込むと、ステンレスに映ったレールがどこまでも続いているように見える工夫も凝らし、正面には地震計のデータをもとにしたグラフと開通までの歩みを記してある。
 最後まで不通だった住吉|灘間が開通した4月1日。六甲道駅の利用客から「おめでとう」と声をかけられた中尾さんは、1番列車のヘッドライトに涙ぐんだ。
64 西灘公園/慰霊碑    神戸市灘区大石北町8
西灘公園の碑 西郷(にしのごう)では、8割近い家屋が全半壊し、113人がなくなった。
 その全員の名を刻んだ「慰霊碑」は、1997年8月9日、建てられた。本御影石に刻印された名前のなかに3人、4人と並ぶ同じ姓が、一家ごと幸せを奪い取った震災のむごさを記す。そのなかで、一人だけ氏名を塗りつぶした跡がある。一人暮しの男性で、家は全壊していったん死亡認定されたが、実は直後に疎開し、4年後の98年末になって健在とわかった人だ。
 地域には、沢の鶴をはじめ酒造7社の蔵が集まり、浜に神戸製鋼の高炉がある。新旧産業と古くからの住民とがうまく溶け込んでいるから、近所づきあいも比較的濃いように見られがちだが、実は、震災直後からの救助や炊き出し、独自仮設住宅建設、そのケアなど復興に力を合わせて、初めて地区ごとが結束した。
 その成果は、「元気出してがんばろう」を合言葉に碑から目と鼻の先にある西郷小グラウンドで毎夏開催して5回目を数える「西郷フェスティバル」に表われ、毎年3000人近い地元民が集い、“けっして消えることのない痛み”を分かちあっている。
西條遊児さんのコラムに関連記事があります
最寄り駅阪神大石駅のすぐ南。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
65  都賀川沿い/桜の植樹  神戸市大石南町1
都賀川の桜 都賀川は、被災地のほぼ中央にあたる神戸市灘区の摩耶山から神戸港へと注ぐ。その山手にある灘丸山公園と河口付近の遊歩道約200メートルに1999年3月、170本の八重桜が植えられた。最終的に犠牲者の数と同じ6400本の植樹を目指す。
 中心になって進めるのは東京都目黒区在住の歌手、しらいみちよさん。震災後、復興コンサートなどに参加して被災地と縁が生まれた。10年前から各地でコンサートとともに植樹をしてきたが、レクイエムロードの構想は1997年の暮れにみた夢がきっかけだった。
 和服を着た女性が「震災で亡くなり、迷っている魂は多い。いやす場所をつくって欲しい」と、神戸に桜を植えてくれるように頼んだのだ。神戸市役所の知人に相談し、山と海を結ぶ美しい都賀川をその舞台に選んだ。
 資金はしらいさんが開くチャリティーコンサートでまかなう。これまで神戸だけでなく、東京や富山などでもコンサートを重ねてきた。目標の6400本は個人の努力では、はるか遠い。
 しらいさんは「腰が曲がるまでには何とかと思ってますが……」と笑いながら、「逆に長くかかればかかるほど、震災の記憶を忘れることなく新たにしてもらえる」と秘めた決意を語る。灘丸山公園の桜は苗木で、まだ人の背丈ぐらい。見ごろにはまだ数年かかる。都賀川の遊歩道の方は成木で99年春、きれいな花を咲かせた。
 毎年春分に植樹し、「1・17」だけでなく震災の記憶を新たにしてもらうつもりだ
メモ 都賀川河口の桜は神戸市東灘区大石南町1にあり、阪神大石駅から南に徒歩約5分。灘丸山公園は同区五毛にあり、阪急六甲駅からバスで五毛停留所下車、北に徒歩約10分。
最寄り駅河口は阪神大石駅から徒歩5分。灘丸山公園は同区五毛。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
66   西灘小学校/時計   神戸市灘区船寺通3の4の1 
西灘小学校の時計 1999年12月、震災で自宅の下敷きになり、24日後に死亡した浅井亜希子さん(当時11歳)をしのぶソーラー時計が設置された。母鈴子さんが「娘の生きたあかしを残したい」と寄贈した。
 家族5人が住む自宅は全壊した。亜希子さんは8時間後に救出されたが、壊れた筋肉から出る毒素による「クラッシュ症候群」に侵されていた。震災2日後に手術。その直前、亜希子さんは鈴子さんの首を抱いて言った。「お母さん、泣いたらあかんで。私、大丈夫やから」。それが最期の言葉だった。亜希子さんの容体は悪化し、2月10日に亡くなった。
 浅井さん一家はその後、須磨区に転居した。どの路地でも娘の歩く姿が浮かぶ元の街は耐えられなかった。99年2月、同級生が近くの高校へ受験に来たのを見かけた。成長した亜希子さんの姿が重なり、「お母さん、お別れした後、私に何をしてくれたの」という声が聞こえた気がした。
鈴子さんは同月下旬、学校を訪れ、モニュメントを設置させてくれるよう依頼。「震災を伝えるために」と承諾した学校側と相談した結果、子供たちがいつまでも眺められるソーラー時計を学校東側の花壇に置くことになった。時計は高さ3メートル。台座のプレートには「あの子は天使です」という鈴子さんの言葉も刻まれた。
 資金は、鈴子さんの負担に加え、参加している遺族のセルフ・ケアグループ「あじさいの会」(神戸市)が「多くの人と思いを分かち合いたい」と募金活動し、教職員や同級生、地域の人々が寄付した。懐かしい場所に帰った「アッコちゃん」の時計は、かれんな花々に囲まれながら、子供たちや多くの人々のために時を刻んでいる。

最寄り駅阪神大石駅から西へ徒歩5分。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を

阪神大震災モニュメントマップのホームページに戻る