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阪神大震災モニュメントマップ
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神戸市中央区
(番号は「2000年版震災モニュメントマップ」と同じ番号です)

すべてのモニュメントは中央区三宮町1−7、フェニックスプラザ(阪神・淡路大震災復興支援館)でもパネル展示しています。ホームページはここ
67  歓喜寺/慰霊碑「慕心」   神戸市中央区中島通5の1の40
歓喜寺の碑 曹洞宗歓喜寺(かんきじ)の境内にある「慕心」の慰霊碑(縦約1メートル、横約2メートル)は、眼下に広がるその町並みをやさしく見つめるかのように建てられている。
 「慕心とは亡き人を慕い続ける心が供養になるという意味。時が経っても忘れてはならない心構えだと思います」。副住職の横山顕彦(けんげん)さんは話す。
 檀家の中でも10人が亡くなり、葬式もできずにお骨になった人もいた。追悼法要ができたのは3月の彼岸のことだった。「亡くなった人は、さぞ無念だったと思う。生き残った私たちが形のあるもので後世に伝えなければ、という自然の気持ちから建立を決めました」。
 デザインと文字は檀家でもある画家、遠藤泰弘さんに依頼。遠藤さんは九州まで出掛けて石を見て回り、福岡県産の青御影石を使うことに。六甲山の山並みをイメージできる形にしたいと考えていたが、石を半分に割ってみると、丸い縁の部分が地球の地殻にイメージが似ていた。横山さんは「たとえ大都会でも自然の中の一部。畏敬の念を忘れずに、同じ被害を繰り返さないようにとの願いを込めた」という。
 同寺では、毎年1月15日に年頭の法要をしており、碑は3回忌にあたる1997年1月15日に建立。場所も2人で相談して決めた。しかし、除幕式に遠藤さんの姿はなかった。その前月、碑を設置する3日前に脳いっ血で入院。新年を迎えることなく亡くなった。62歳だった。
 「慕心の文字を何十、何百枚も下書きして熱心に取り組んでいました。倒れる前にほとんど出来上がったのも仏縁でしょうか」と妻の久子さん。お寺を訪ねるたび、久子さんは碑に手を合わせてしみじみ思う。亡き人をいつまでも思い出せることは幸せなことだ、と。
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最寄り駅神戸市営地下鉄新神戸駅から徒歩20分。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
68  常光院/押絵千体地蔵  神戸市中央区東雲通1の3の3
常光院の押絵千体地蔵 穏やかな笑顔、悲しみをこらえているような顔、安らかな寝顔……。いろんなお地蔵さんがこちらを見つめている。
 「押絵千体地蔵」は、常光院(山崎泰廣住職)二階本堂の壁面に奉納されている。縦2メートル、横1・8メートルの大きさに、色とりどりの衣装をまとった様々な表情の押絵の地蔵さん1000体が並ぶ。
 奉納したのは、押絵「みやび流」の三代目、小西松甫さんとそのお弟子さん150人。震災前、小西さんらは、みやび流の創流110年を記念した合同作品の押絵地蔵の制作に取りかかっていた。そして被災。小西さんの芦屋市の自宅は全壊した。崩れ落ちた自宅から何とか逃げ出した小西さんは「再びの命を頂き、生かされた」と思った。「自分には、まだやる仕事があるのだ」と感じ「震災で亡くなられた人と残された人たちの心を少しでも安らかにしたい」と制作中の地蔵を鎮魂の地蔵として作ることにした。
 小西さんは、避難生活中にも制作に没頭。その思いはお弟子さんにも伝わった。出来上がった作品は、それぞれの体験、思いが異なるようにどれ一つ同じものはない。お弟子さんの中には家が半壊した人もいた。絶望の中で、作るという作業が心の癒しになった。
 1996年1月に奉納し、毎年1月15日に法要が行われている。
最寄り駅神戸市中央区東雲通1の3の3。阪急春日野道駅から南西徒歩5分。見学は事前に連絡を。電話078・221・3380。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
69 布引公園風の丘/風・七彩  神戸市中央区葺合町布引公園展望広場
布引公園の地図布引公園の「風・七彩」の写真晴れた日は神戸の街や大阪湾が見下ろせる布引公園・風の丘。芝生の広場の一角に、「風・七彩」がある。幅1メートル、高さ2・5メートルの7枚のガラス板の先に、7色のステンレス板が波打つ。風にたなびくようにも見え、日差しを受けて鮮やかに輝く。
 兵庫県東部の108のライオンズクラブが加盟する「ライオンズクラブ国際協会335―A地区」がつくった。震災直後に神戸に来た国際協会会長が「震災のモニュメントを震源地に近い神戸に作っておく必要があるのでは」と提案し、1995年3月、地域奉仕活動の一環として立案、同年10月に除幕式に至った。
 ガラス板の1枚には「阪神・淡路大震災の教訓を忘れずに未来へ語り継ぐために」との言葉が刻まれた。用地選びやデザインの依頼は「神戸東灘ライオンズクラブ」が担当した。東灘区は被害が大きく、同クラブもメンバーやその家族6人を失った。当時の会長だった竹部和博さん(現・神戸レインボーライオンズクラブメンバー)の自宅も半壊。しかし、震災直後には、市内の避難所や仮設住宅に救援物資を運びながら、亡くなったメンバーの家庭を一軒一軒訪問した。
 毎年5月には「神戸レインボーライオンズクラブ」の23人全員で清掃をしている。
 デザインを依頼された大阪府箕面市の彫刻家・野島二郎さんは「すべての人に夢や希望を感じてもらえたら」。7色のステンレス板はさまざまなハードルを乗り越え未来に輝く“希望の風”を表しているという。
 レッドは情熱、オレンジは躍動、イエローは希望、グリーンは若さ、ライトブルーは理想、コバルトブルーは夢、バイオレットは優しさ……。
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最寄り駅 JR新神戸駅近くの新神戸ロープウェーに乗り風の丘駅下車。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
70 布引公園みはらし台/「未来への手紙」  神戸市中央区葺合町
みはらし台のモニュメント 新神戸駅から徒歩で山道を歩いて20〜30分。布引の滝の上にあるみはらし台にはステンレスのモニュメント「未来への手紙 美しき神戸のために」がある。神戸葺合ライオンズクラブが二十周年記念行事として大川ライオンズクラブ(福岡県)やカリフォルニアの友好クラブからの義援金もあわせ作った。救援の自衛隊員、警察官、医師、多くの市民から寄せられたメッセージが「少なくとも十年間は開けない」約束でステンレスの箱に納められている。 布引の早朝登山の会が定期的に磨いている。いつもぴかぴかに輝いている。




最寄り駅 新神戸駅から徒歩20分。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
71  東遊園地/「慰霊と復興のモニュメント」「希望の灯り」 神戸市中央区加納町6の4
希望の灯り「1.17希望の灯り」は、阪神大震災から丸5年の2000年1月17日午前5時46分、神戸市中央区の公園「東遊園地」に建立されたガス灯。被災した市民、遺族らの思いを一つにしたモニュメントで、半永久的にともり続ける。これに合わせ16日朝から、被災10市10町の人々が託した火をリレーする「『希望の灯り』ウオーク」などが催されたほか、県外に避難した人々からもろうそくなどに託してメッセージが寄せられた。全国18都道県で計約6万本のろうそくがともる。


碑文は、              
 震災が奪ったもの                     
 命 仕事 団欒(だんらん) 街並み 思い出        
 震災が残してくれたもの                  
 やさしさ 思いやり 絆(きずな) 仲間          
 この灯りは                        
 奪われたすべてのいのちと                 
 生き残ったわたしたちの思いを               
 むすびつなぐ
                       
99年1月から始まり7回行われた「震災モニュメント交流ウオーク」に、遺族20組を含む延べ約1000人の市民が参加した。肩書や年齢などあらゆる違いを超えて人々が互いに助け合い、支え合った震災直後を思い起こさせる場となった。参加者らは「この思いを形にし、心のよりどころに」と、神戸市と交渉を重ね「「希望の灯り」が設置されることが決まった。
神戸市が2000年1月17日に建てた「慰霊と復興のモニュメント」のホームページは、ここ
「永遠の灯り」をずっと守っている市民の話はここ
最寄り駅JR、阪急、阪神三宮駅を南へ、神戸市役所南側の東遊園地内
72  神戸国際会館/灯りの塔
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73  神戸港震災メモリアルパーク/崩れ落ちた岸壁の保存
震災メモリアルパーク 東遊園地から海に出たところ、メリケン波止場の一角に震災で被災した姿のまま保存され公園化してある。97年7月オープンした。
 メリケン波止場は神戸港発祥の地。近くにアメリカ領事館があり、この名がついた。
 保存ゾーンと復興ゾーンからなり、保存ゾーンは被災した波止場のうち南端から60メートルをそのまま残し、海上回廊を設け被災の生々しいありさまを再現した。復興ゾーンは、神戸港に与えた震災の影響の大きさを映像や写真などを使って伝えている。すぐそばの神戸海洋博物館にも展示されている。
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最寄り駅JR、阪神の元町駅、阪急花隈駅から歩5分。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
74  三宮センター街/ブロンズ像「讃太陽」      神戸市中央区三宮1
讃太陽の像のある三宮センター街の地図讃太陽の写真神戸・生田神社に通じる生田筋と、三宮センター街が交わる南東角にあるブロンズ像。両手を突き上げた高さ71センチの少女の像で、太陽に向かって走っているようにスカートが翻っている。台座に「讃太陽」の銘が入っている。彫刻家、桑原巨守(ひろもり)さん(1927〜1993)の「讃太陽」シリーズの小品である。台座の裏側に「神戸三宮“祈り”そして明日へ!実行委員会 1996年1月17日」とある。
 三宮センター街は震災でアーケードが崩れ落ち、これは「神戸壊滅」の象徴でもあった。
 センター街の商店主らでつくった実行委員会の委員長として像建立にかかわった眼鏡店経営、久利計一さんによると、建立の話が出たのは、プロ野球オリックスの優勝が視野に入った震災の年、95年の秋口だった。
 「手を合わせて涙するのではなく、生き残った者が前に進むことができるような碑にしよう、ということになった」
 そこで頭に浮かんだのが、太陽と桑原さんだった。桑原さんは生前、「太陽の恵みで地球があり、我々がある」と好んで太陽をテーマに創作活動を続けていた。
 「震災直後の闇は本当に怖かった。だが、太陽が昇ると・・。地震で傷つけられたが、同じ自然の太陽に励まされた」
 除幕式があったのは、震災の1年後。「慰霊」のことばはないが、台座下の地中に安置されたつぼの中に、それまでに判明した犠牲者の名簿を記したフロッピーディスクと、震災当日の新聞が納められている。
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最寄り駅JR、阪急、阪神三宮駅から南へすぐ。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
75 新港町/被災した橋脚・伸縮装置・支承   神戸市中央区新港町17
被災した橋脚 ミナト神戸のシンボル・メリケンパーク近くの国道2号の歩道横に、建設省近畿地方建設局が「浜手バイパス被災構造物展示モニュメント」を整備したのは、震災翌年の1996年12月のことだった。震災で兵庫県の国道は6路線、554カ所が壊れた。中でも、大阪と北九州を結ぶ2号、神戸と大阪を結ぶ43号、京都と神戸を結ぶ171号の主要三路線は、高架橋の倒壊などの大きな被害を受けた。
 浜手バイパスは、三宮ー元町の国道2号の渋滞緩和のため86年に開通した高架道だが、72基の橋脚のうち58基が壊れ、橋桁も最大で3・5メートル横ずれした。交通を再開できたのは96年5月2日。被災した国道の高架橋の中で最後だった。
 モニュメントは橋脚、路面と路面を結ぶ伸縮装置、橋桁と橋脚を結ぶ支承の3種類。橋脚はコンクリートがはがれ落ちて中の鉄筋が曲がっている。支承は縦530トン、横94トンの力に耐えられるが、これも一部が破断しており、地震のすさまじいエネルギーを今に伝える。
最寄り駅JR元町駅南へ歩10分。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
76 元町商店街/メッセージ入りのレンガ
 震災の年1995年春、米国・ジュリアード音楽院からやってきたバイオリニストがメリケンパークでチャリティー演奏会を開いた。参画した地元の辻本功さんは、足元のレンガが崩れているのが気になった。が、やがてひらめく。震災で壊れた道を、被災者へのメッセージを焼いたレンガで埋める「神戸レンガプロジェクト」の発想はこうして始まった。
 まず、芦屋市の村山実さん(元阪神タイガース)の自宅を訪れた。「それ、ええなあ。やろ、やろ」。村山さんはその場で「辛抱」の2文字を書いてくれた。村山さんの自宅兼事務所のマンションは、阪神高速神戸線の目の前。「70メートルも歩くと、橋脚がねじ切られたあの現場。命があるだけでも不思議な感じやったな」。当時、そう語っていた。
 大小、1万円と3000円。1998年末までに約8000人が参加した。「始めたときは、観光でも買い物でも、とにかく神戸に来て欲しいという一心でした。今、自分のレンガを確かめに来てくれる人が大勢います」と辻本さん。神戸ゆかりの著名人も多く参加した。土井たか子さんのレンガには「再起 わが町」、淀川長治さんのレンガには「神戸 わが町」。オリックスの仰木彬監督は正力賞の賞金の半額250万円を寄贈し、子供たち八百人に無料参加してもらった。
 レンガは元町商店街、南京町、ハーバーランド、メリケンパークなどに敷かれた。
うち、人も車も出入りする元町商店街のレンガは傷みが激しく、一番街商店街の2000枚は路盤改修で撤去される。しかし、商店主らはアーケードの東入り口に置く花壇に、レンガの主の名を刻んだ銘板を張ることにした。
 泉下の人となった村山さん、淀川さん。そして多くの人々の。形は変わっても、「レンガの心」を留めるために。
最寄り駅元町商店街は、東端がJR元町駅東口、阪神電車元町駅のすぐ南。レンガは入り口付近と、途中の海文堂前に敷かれた。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
77 大倉山公園/慰霊碑        神戸市中央区楠町4
大倉山公園のモニュメント 神戸市中央区楠町4の大倉山公園の名物は、35県のお国自慢の木々が県ごとにに植えられた「ふるさとの森」。神戸鹿児島県人会連合会が同県出身の犠牲者204人を追悼した慰霊碑は、「鹿児島県の森」の一角に立つ。ソテツやデイゴの木。桜島の溶岩。碑は懐かしい古里の風景に抱かれるようにして、たたずむ。
 犠牲者の多さは阪神間に暮らす鹿児島出身者の多さが影響している。県出身の川崎正蔵が神戸に開設した造船所が1896年、株式会社川崎造船所(現川崎重工業)となり、発展していく中で、同社が多数の鹿児島出身者を採用したことも無縁でない。
震災で、同連合会の事務局が入居していた三宮駅前のビルも半壊した。碑の建設が具体化したのは98年秋の役員会だった。「これほど多くの犠牲者が出たのだから、慰霊碑をつくろう」と全員一致で決まった。国内外の鹿児島県関係者から送られた義援金の残りで、幅1・2メートル、高さ1メートルの黒御影石の「慰霊碑」が制作された。99年5月20日。100人が参加して建立式が行われた。碑は、鎮魂の思いとともに、古里を共有する温もりも伝えている。
最寄り駅市営地下鉄大倉山駅。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を

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