音符のライン
阪神大震災モニュメントマップ
音符のライン

兵庫県尼崎市
(番号は「2000年版震災モニュメントマップ」と同じ番号です)
6 尼崎市立小園小学校/作文碑  尼崎市若王寺3の23の1
小園小学校の碑 運動場の一角にある大きくておしゃれな飼育小屋の隣に碑がある。
 震災で校舎は大きな被害を受けた。中に入ると太い柱が弓のように曲がったうえに縦に割れ、コンクリート片が散乱。すぐに立ち入り禁止となった。体育館には住民約60人が避難した。4日後から運動場での「青空教室」が始まった。「一番つらかったのは使えるトイレが一つしかなく、長い列ができたことでした」。当時、教頭だった織田耕作さんは振り返る。
半月後、今度は1キロ以上も離れた2つの小学校の教室を借りて授業することに。3学年ずつ500人近い人数で、2小学校へ集団登下校した。
 4月からは運動場に設置された仮設教室に移ったが、運動場は4分の1ほどに狭くなり大半の遊具が使用禁止になった。
 1997年1月、校舎の全部改修が終わり、真新しい学校での生活がスタートした。石碑はその年の4月に完成。児童会の名前で、
「震災での経験、支えてくれた人への感謝を忘れず素晴らしい学校を作ろう」と、決意の言葉が記されている。
碑の全文は、小園小学校のWEBに載っている。。
最寄り駅JR尼崎駅か阪急電車園田駅からバス。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
7 尼崎市立城内小学校/作文碑・公園  尼崎市南城内10
尼崎城内小学校の地図城内小学校の碑 地盤の弱い市南部にある。震災の液状化現象で3階建て鉄筋校舎がひどく壊れた。旧尼崎城跡に建つ縁で1940年につくられ、戦災を生き抜いた城の100分の1の精巧な模型も破損した。プールも陥没した。
 児童とその家族、教職員には死傷者がなかったが、午前8時には最初の避難者が学校に来た。しかし校内でガスが噴出し、「怖くてたばこも吸えない状態だった」と広峰勝義校長は言う。近くの避難所に移ってもらったものの、95年4月末まで約70人が体育館で寝泊まりした。
 校舎の出入り口を補修して授業を再開したが、18クラスすべてに教室を確保できず、傾いたランチルームまで使った。95年末にその校舎を取り壊し運動場に仮設校舎がつくられた。4階建ての新しい校舎で学び始めたのは98年1月になった。
 その2カ月後、校庭に900平方メートルの"城跡公園"が完成した。「戦災と震災を"体験"した城模型をよみがえらせてほしい」というOBの願いが、元の特色を生かしながら被災校舎を復興しようという市教委の「思い出の学び舎事業」に生かされた。
 「思い出の学び舎」の震災記念碑はその一角に立つ。図工の教諭がデザインし、碑文は当時5年生の男子児童の作文が使われた。碑は、人が頑張って立ち上がる姿を表現している。
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最寄り駅阪神大物駅から徒歩10分。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
8 尼崎市立尼崎高校/作文碑  尼崎市上ノ島町1の38の1
市立尼崎高の碑 本を形どった石碑に「人間とはこんなに優しいものか!」という生徒の作文が刻まれている。「いちあま」の愛称で呼ばれる学校の西門をくぐったところにある、一冊の本をかたどった石碑。震災発生時に1年生だった女子生徒の作文が、刻まれている。
 生徒の被害はけが人19人、家の全壊9人、半壊52人。他校を間借りした後、プレハブ仮設校舎の生活が約2年9カ月続いた。昨年2月、新校舎が完成。碑はその翌月に設置された。
 「生きる喜び、命の尊さを多くの生徒が書きました。その中でも、人の優しさへの感動をつづった文章が印象的でした。あの日、私たちが感じた大切なことを次の世代に残そうと思いました」。生徒の文集から碑文を選んだ山之内誠教頭は話す。
 碑文を紹介する。 
 町をボロボロにし、多くの尊い命を奪った地震を憎らしく思う。
しかし、こんな中で、「人間の優しさ」というものをすごく実感している。テレビや新聞などを見ると、ボランティアの人がとても活躍している。外国からも多くの人達が助けに来てくれている。他県の人達も助けてくれている。「なんて優しいんだろう」とすごく感動している。
私は正直言って、北海道であった地震の時や、長崎雲仙の噴火の時など、他人事のようにしか感じられなかった。それなのに、今回の地震では、本当に多くの人達が募金活動やさまざまなことで復興のために頑張っている。他人事ではないと言って…。
人間とはこんなにも優しいものか!と感動している。

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最寄り駅阪急武庫之荘駅から徒歩10分。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
9 尼崎市立立花中学校/石碑「安寧・克己・復興」    尼崎市上ノ島町3の1の1
立花立花中の写真 校庭に、ひょうたん形の池がある。
ひょうたんのくびれた部分に石碑があり、
「復興」「克己」「安寧」と刻まれている。
震災で、同校の生徒数人が火事で焼け出された。三つの校舎のうち北側二つには、壁や柱に大きなひびが入った。「突然二つの校舎が立ち入り禁止になったので、はじめの10日ほどは独自の判断で授業を3部制にし、生徒を入れ替えた」と、当時から校長の上谷善彦さんが述懐する。
「とにかく生徒の顔をみられればそれでよかった」
 検査の結果、校舎のうち1棟は柱の損傷がひどく、建て替えが必要となった。その間使う仮設校舎が、校庭の隅に建てられた。音が響き、落ち着かない校舎だったが、1997年9月に新校舎が完成するまで使われた。
 そんな思い出を残す何かを、と考えていたところ、市の「思い出の学び舎作り事業」が実施され、同校は「震災の記憶を刻むため、池と石碑を作りたい」と希望した。碑の文字は震災から立ち直り、落ち着きを取り戻そう、との願いが込められている。
 筆は同校国語科の山口泰二教諭。池は98年3月に完成した。じっくり整備を進めるという。
最寄り駅阪急武庫之荘駅、JR立花駅から徒歩15分。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
10 尼崎市立立花西小学校/詩碑  尼崎市南武庫之荘3の14の9
立花西小学校の碑 地域の防災施設と、子供たちの野外活動の場を兼ねた「ふれあい広場」(630平方メートル)が1997年4月、グラウンド東側の片隅に設けられた。素朴な木のベンチや、かまどが整備されている。
「ベンチにすわって ゆっくりとくつろぐ 回りは木々に囲まれていて 桜の花が満開 花びらを拾ってみたり スケッチしたり とても いごこちがいい」。淡いピンクのさくら御影石に、柔らかな言葉が並ぶ。当時六年生だった児童らが合作した詩「広場の四季」が刻まれている。
 詩を作った時、広場はまだ出来ていなかった。だから、春、夏、秋、冬……それを囲む後輩を想像してつくった。卒業した後も、ずっと大切な人の、大切な場所であってほしい。直径70センチの円をモチーフにした石碑(高さ1・1メートル)には、そんな卒業生の願いが詰め込まれた。
 幸いにも震災で、児童や学校関係者の中から犠牲者は出なかった。しかし、避難所になった体育館には、ピーク時で約400人が集まった。5分の1の児童の自宅が、何らかの被害にあったという。
広場では、かまどで調理した後、すぐ隣りのテーブルで食事を楽しむことが出来る。現在は主に高学年が中心に授業で活用している。石碑の通り、テーブルを囲む子供たちの笑い声がグラウンドに響く。
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最寄り駅阪急武庫之荘駅から南へ徒歩10分。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
11 フォルザ武庫之荘/復興アート
フォルザ武庫之荘の碑 1999年10月1日、震災後5年を経てようやく再建されたマンションに「頑張れ」という意味のイタリア語をヒントに命名された。そのマンション北東角に石で造られた一つの造形物がこれ。
 7枚の石板を組み合わせた1・4メートル四方のモニュメント。中央に
「1995JAN17 546am 1999OCT1」の文字。細かな説明書きはない。20年以上住み慣れたかつてのマンションが倒壊した日と、新たな希望を託したマンションが生まれた日を記した。「この5年近い年月は、私の人生そのものを再建する期間でもあったのです」。再建組合の理事長だった田村孝さんは話す。
 「街に溶け込むアートにしたかった」。再建組合からの依頼を受けて、モニュメント制作にあたったのは、神戸市東灘区在住の造形デザイナー、畑弘行さん。
 シンプルなデザインながら、各所に復興への“こだわり”を見せた。材料は、神戸市で倒壊した建物に使われていた万成石と御影石。7枚の石板の組み合わせは、横から見ると元気の「元」という字に見える。
 畑さんは震災の日、長野県に居た。家族は芦屋市で被災。青いテントが並ぶ神戸に帰った日、「当日は何もできなかった。これからは芸術という分野で人を励ませれば」と心に誓った。
 以来毎年、自宅に海外から画家や陶芸家を招き、近くの住民や子供たちとの交流会を実施。各地の復興町づくりにも積極的にかかわってきた。今回のモニュメント制作も、こうした活動の一環だ。
 かつて72世帯いた住民はマンション完成の日、39世帯にまで減った。「みんなの強い意思と行政や企業など周辺の協力がなかったら、決して再建などできなかった」と再建組合のメンバーは口をそろえる。
最寄り駅阪急武庫之荘駅から西へ徒歩5分。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
12 尼崎市立武庫北小学校/詩碑   尼崎市常松2の14の1
武庫北小学校の碑 真竹(マダケ)約100本を中心に、小熊笹(コグマザサ)、孟宗竹(モウソウチク)がグラウンド南の敷地約1600平方メートルに植えられている。
 竹林の整備は1997年3月に完成した。「どの子供にも、大地にしっかり根を下ろした生き方をして欲しい」。小林功校長は、竹林に込められた願いを語った。
 そして竹林の隣には、白御影(みかげ)石で作られた、高さ1・4メートル、幅1・3メートル、奥行き1・35メートルの台座型の石碑が据えられている。石の表面は、ほとんど細工が施されていない。竹林の中に、ゴロンと転がる自然石と言った感じだ。
 表面には、当時4年生だった児童が綴った詩「どっかん ぐらぐら」が刻まれている。
ベッドごとジャンプして
がたがたとゆれた
本だなが
ドサッとたおれた
ぼくは、こわい
と大声でさけんだ

最寄り駅阪急武庫之荘駅からバス。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
13 尼崎市立武庫南小学校/詩碑  尼崎市武庫町4の11の1
 碑は校舎の裏で、目立たない。しかし、子供たちは休み時間、この碑をめがけて集まってくる。目当ては、碑の周りにある川と池。
 震災を忘れないために何かを残そうという話が持ち上がった時、当時の校長、吉田慎三さんは迷うことなく「子供たちが遊び、学べる川をつくろう」と決めた。
 校舎4階の廊下に立つと、眼下に武庫川、少し向こうに六甲山が見える。この六甲山のラインを模した碑に武庫南小学校の碑未来をめざして」と題した詩が刻まれている。
 
ぐらぐらと街が震えた/くずれた家/消えた命/二人で一つの机を使い/プレハブ校舎で助け合った日々/せまい運動場も/ゆずり合って使ったよね……
 全児童が詩を書き、その中の言葉を使ってまとめた。
 震災で、南校舎は半壊した。壊れなかった北校舎の教室には、2倍の子供が入り、廊下にも机が並んだ。やがて、運動場にプレハブの仮設校舎が2棟建ち、ドッジボールやサッカーは出来なくなった。代わりに縄跳びや鬼ごっこで遊んだ。
 碑は1997年3月に完成した。当時の6年生が武庫川から魚をすくって来て、この裏庭の川に放した。植物も入れた。川はソーラーシステムで還流し、魚は産卵もした。
 「いま、新しい学び舎とともに未来をめざそう」。詩はそうしめくくっている。
最寄り駅阪急武庫之荘駅から西へ徒歩25分。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を
14 尼崎市立水堂小学校/詩碑   尼崎市水堂町1の32の8
尼崎水堂小学校のモニュメント「友」の字をかたどったモニュメントが校門をくぐったところに建つ。高さ約1・4メートル、幅1・3メートル。碑文は「コブシの木のもとで 出会い 集い 学び 遊び 友情の輪を広げ 明日への旅立ち」と刻まれている。
 阪神大震災当時、学校の体育館は500人を超える避難者であふれた。亡くなった児童はいなかったが、自宅が全半壊して体育館から通学した子もいた。体育館での避難生活は長い人でその年の夏まで続いた。使えない教室も多く、卒業式も図書館で行った。
 「子どもたちは震災でさまざまな不便や困難を強いられたが、だからこそ友の素晴らしさや助け合うことの大切さを学んだはず」 
 碑文を考えた中島泰三校長にはそんな思いがあった。建立は1997年春。当時、そのすぐわきに校舎3階にとどくほどのコブシの巨木がそびえていた。
 そのコブシの木がモニュメント建立後、数カ月で枯れてしまった。毎年、卒業式のころに白い花をつける学校のシンボルだった。震災の復旧工事で根を傷めたらしい。2代目もまた枯れた。
 近く新しいコブシを植える予定だ。「震災の時も子どもたちをやさしく見守ったコブシ。あの花をまた子どもたちに見せてあげたい」。中島校長の思いだ。
最寄り駅JR立花駅から北西、阪急武庫之荘駅から南へいずれも徒歩10分。詳しくは「マップ」と「震災モニュメントめぐり」を

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