目 次
ドイツ・ステーツ
ドイツ 1872
ドイツ 1873-1932
ドイツ 1933-1944
ドイツ在外局
ドイツ植民地
ドイツ海軍艦船郵便
第一次世界大戦占領地区
ベルギー軍占領地区
ドイツ住民投票地区
ダンチヒ
メーメル
ザール
第二次世界大戦占領地区
 第二次世界大戦占領地区
 占領地各地の使用例
 葉書のデータ一覧
地方発行
連合軍占領地区
西ドイツ
ベルリン
東ドイツ
統一後のドイツ

葉書こぼれ話

第二次世界大戦占領地区

ここでは、第二次世界大戦が始まる前の1938年から扱います。

・ドイツが併合・占領した地域と、そこで発行された葉書(1938−1945年)

1938年

・オーストリー

 1938年1月オーストリー警察が、国内で不穏な動きを見せる党員(ドイツの第一党支持者)の摘発のため、ウィーンにあった党本部を急襲したことから、ドイツ・オーストリー両国間に緊張が高まります。事態の収拾のため、2月12日(土)に総統とオーストリー首相の会談が行われました。ここで総統は党員に対する特赦と政府への参加を強要しましたが、このような干渉に対してオーストリー首相は、国民投票によってオーストリーの独立を問う手段に出ました。
 これを口実に、3月10日(木)午後6時半突如ドイツ軍の動員がはじまり、12日にはオーストリー国境を越えてウィーンに侵攻。翌13日にオーストリーはドイツに併合されました。総統は、はじめは連邦の形に組み込む構想でしたが、オーストリー住民があまりに熱狂的に迎え入れたので、併合を決意したと言われています。4月10日(日)に行われた両国の国民投票でも、両国とも99%が併合に賛成の票を投じました。なお、この併合という行為は明らかにヴェルサイユ条約違反でしたが、各国は同じドイツ語圏の国家と言うこともあってか、抗議したものの軍事介入はしませんでした。
 郵便の面から見ると、併合後もオーストリーの切手と葉書がそのまま使用されましたが、4月1日(金)からドイツの通貨が流通し始め、4月4日(月)からドイツの切手と葉書が使用され始めると、両国の切手と葉書の混用がはじまり、オーストリー切手と葉書への鉄十字(+ドイツ通貨)加刷も行われました。その後、11月1日(火)からはオーストリーの切手と葉書がすべて無効となり、ドイツの切手と葉書のみが使用されました。この期間(併合から10月末までの間)に、ドイツとオーストリーの切手と葉書の混用と3段階の料金の変遷があり、その組み合わせと変化が面白く、収集家の間で好んで集められます。当時のオーストリーの料金表は、葉書のデータ一覧を参照してください。なお、混用時は、ドイツ通貨のペニヒとオーストリー通貨のグロッシェンの換算率は、2:3でした。
 下の写真は、ドイツの6ペニヒ葉書(濃い緑)にオーストリーの切手(赤、6グロッシェン分)を加貼りしたものです。6グロッシェンは4ペニヒに相当しましたので、これで合計10ペニヒになります。この料金は、オーストリーを含むドイツからチェコスロバキア宛の葉書料金に相当しました。当時の他の外国宛料金は15ペニヒなのにチェコスロバキア宛が10ペニヒと安いのは、チェコスロバキアがドイツ国境に接する特別割引料金適用国であったためです。
ドイツの6ペニヒ葉書にオーストリーの3グロッシェン切手を2枚貼ったチェコスロバキア宛の葉書

・ズデーテン地方

 このオーストリー併合に刺激されて、チェコスロバキアのドイツ人居住地域であるズデーテン地方の住民の間で自治要求運動が活発になると、ドイツはこれを利用し、「自治を認めないチェコスロバキア」を国際世論に訴える手段に出ました。総統は、ズデーテン地方のドイツへの割譲は10月1日(土)がリミットと設定し、9月26日(月)には戦争の手段に訴える演説まで行いました。(実際はチェコ軍の43個師団に対して、ドイツ軍はその半分程度で、本気でことを構えるには不利な立場にありました。)
 これにはさすがにイギリスもフランスも動員令を下し、ドイツ軍部ではクーデターまで計画され、内外で戦争の阻止に向けて動き始めましたが、ここへイタリアが調停に入り、イギリス・ドイツ・フランス・イタリアの4カ国だけで事態の収拾に向けた会議(ミュンヘン会議)が開かれることになりました。そして9月29日(木)に、ドイツが以後欧州において領土要求を行わないことを条件に、ドイツへのズデーテン地方の割譲が認められました(ミュンヘン協定)。10月1日から7日にかけて、協定に定められた4つの地域にドイツ軍が進軍しています。
 郵便の面で見ると、チェコスロバキア切手と葉書への鉄十字加刷が知られています。
 下の写真は、ズデーテン地方のAs(ドイツ名Asch、アッシュ)からチェコスロバキアに宛てた航空葉書です。割譲後はドイツの郵便料金体系が適用されたため、今度はズデーテン地方から見てチェコスロバキアが(ドイツ国境に接する)特別割引料金適用国の扱いになりました。従って、チェコスロバキア宛の葉書料金=10ペニヒ、航空料金=10ペニヒの合計20ペニヒにするため、6ペニヒ葉書(濃い緑)に14ペニヒ分の切手が貼られています。消印は、チェコスロバキア時代のズデーテン地方で使われていた古いタイプのものです。
併合後のズデーテン地方で使われたドイツの葉書。チェコスロバキア宛航空便(10ペニヒに航空料金10ペニヒ加算)

1939年

・ボヘミア・モラビア

 1939年3月14日(火)スロバキアの独立運動によるチェコスロバキア紛争の事態収拾のためベルリンを訪れたチェコスロバキア大統領に対して、これを絶好の機会と見た総統は、独立運動を支援するためただちにプラハへ爆撃機を出撃する等の脅しをかけて、チェコ国民と国土を総統にゆだねる旨の文書に無理矢理調印させてしまいました。(実際は悪天候のためただちに出撃することは不可能だったそうです。)調印後まもなくドイツ軍は国境を越え、翌15日にかけて、大雪の中プラハに侵攻しました。これは結果的に、ドイツがドイツ語圏以外の他国に足を踏み入れて領土要求を行わない、と取り決めたミュンヘン協定を破棄した形になり、それまで抗議程度で半ば傍観していたイギリスとフランスが、対ドイツ強硬策に転じるきっかけとなりました。
 その後スロバキアはドイツの圧力で独立し、チェコはボヘミア・モラビア(ドイツ名ベーメン・ウント・メーレン)保護区を設置させられました。これに便乗するかのように、周囲のハンガリーやポーランドまでもがチェコから旧領土を奪回し、民族自決権の要求の元、チェコスロバキアは解体させられてしまいました。
 郵便の面から見ますと、当面の間、ボヘミア・モラビア保護区では旧チェコスロバキアの葉書が使用されましたが、1939年8月上旬から菩提樹図案の葉書が、1942年から総統図案の葉書が発行されました。全部で18種類の葉書があります。

ドイツ軍侵攻後も当面の間使用された旧チェコスロバキアの葉書(北モラビアの町で1939年6月19日使用)
1939年8月から発行された菩提樹図案葉書。ドイツ語(POSTKARTE)の下にチェコ語(DOPISNICE)を併記


・メーメル(クライペダ)

 ドイツ軍のチェコ侵攻を目の当たりにしたリトアニアは、さっそく、第一次世界大戦後ドイツから獲得したメーメル地区を、自主的にドイツへ返還しました。1939年3月22日(水)からドイツ軍の進軍がはじまります。
 郵便の面から見ますと、葉書には特に加刷などはありません。切手にローカル加刷があるくらいです。それまで通用していたリトアニアの切手と葉書は、3月31日(金)まで有効でした。

・ポーランド

 勢いに乗るドイツは、チェコスロバキア侵攻後間もない1939年3月21日(火)、ポーランドに対して自由都市ダンチヒおよびポーランド回廊(旧ドイツ領西プロイセン地方)の返還を要求しましたが、オーストリー併合からチェコ分割まで行ってきた総統の手の内(恫喝外交)を見抜いたポーランドは、26日にこの要求を拒否しました。30日には、これを支援するためイギリスがポーランドの独立保障を宣言しています。ポーランドの頑なな態度に対して、総統はポーランド攻撃を決意します。
 こうしてポーランド攻撃が現実化していく中、8月23日(水)世界を驚嘆させた独ソ不可侵条約(ポーランドとバルト三国の分割を決めた秘密付属議定書)締結の後、総統は26日(土)を開戦日と定めます。しかし、25日にイギリスとフランスが対ポーランド援助条約に調印したとの情報が入り、ポーランド攻撃イコール東西二方面戦争に発展する危険性が生まれました。そこで総統は9月1日に開戦日を延期し、それまで外交で解決の糸口を模索しますが、後ろ盾を得たポーランドは最後まで抵抗したまま会議の席に着くことなく、運命の日を迎えます。
 9月1日(金)午前5時45分、ドイツ国境の放送局がポーランド軍に襲撃されたという事件(実はドイツ側の謀略)を口実に、機甲・自動車化14個師団を含むドイツ国防軍38個師団がポーランドに侵攻。ポーランドと同盟を結んでいたイギリスとフランスが3日(日)に宣戦布告し、ここに第二次世界大戦が始まりました。
 ドイツはスペイン内乱から学んだ戦車と飛行機の集中投入による電撃戦でポーランド軍を圧倒し、単なる国境紛争と考えていたポーランド軍もドイツ軍が全面戦争を狙っていることを認識しました。6日にポーランド軍は国境からの総退却命令を下して敗走する中、17日(日)にはソ連軍が独ソ不可侵条約に則りポーランド国境を越え、これでポーランドにとっては二方面戦争となりました。最後まで抵抗していたワルシャワは27日(水)に降伏し、ポーランドはドイツとソ連に分割占領されることとなりました。10月12日(木)にはドイツからポーランド占領総督が着任しています。予想外のポーランドの敗退に、イギリス・フランスは援護をする機会を失い傍観するのみで、初戦ではドイツの恐れた二方面戦争は起こりませんでした。
 郵便の面から見ると、占領中にドイツの切手や葉書が使われ、12月から加刷葉書が、1940年10月から建造物図案の葉書が、1944年から総統図案の葉書が発行されました。全部で13種類の葉書があります。
加刷葉書発行前の11月にドイツ本国の葉書と切手がポーランドで使用された例で、占領前のデンマーク宛。消印はクラクフ局で、すでにドイツ名クラカウの文字が入れられている。(ドイツ軍が占領したクラクフは、中世以来の歴史的建造物が多く、連合軍も攻撃を避けたおかげで戦火を免れ、今では世界遺産に登録されている。)

ポーランドの葉書は無効となり、左のような加刷が施され、郵便局の通信事務等に使用された。

加刷葉書

1940年

・ノルウェー、デンマーク

 ドイツの戦争続行のためには、ルーマニアの石油とスウェーデンの鉄鉱石が不可欠でした。石油はドナウ川を経由する輸送路で安全に運搬できたものの、鉄鉱石の方は冬季にボスニア湾が凍結するため、ノルウェー北部のナルビクまで鉄道で輸送し、そこで船に積み替えてノルウェー領海を通る船で運ばれていました。さすがに中立国ノルウェーの領海では手を出すことができないイギリスは、チャーチル海軍大臣(当時)の提案でノルウェー沿岸に機雷を設置してドイツの輸送船を封じ込める作戦を採り、さらにはノルウェーの沿岸都市占領も視野に入れて部隊を派遣しました。ドイツも鉄鉱石輸送ルートの安全確保のため、ノルウェーとデンマークの占領を決定し、1940年4月2日(火)から7日(日)にかけて占領部隊を極秘に出撃。8日には機雷設置を開始したイギリス海軍と遭遇して戦闘を交えたり、ドイツ軍を輸送する偽装客船がポーランドの潜水艦に沈められてドイツ兵がノルウェー軍に救出されたりと、極秘作戦が露見する危機はあったものの、予定通り9日にノルウェー・デンマーク侵攻を開始しました。ナルビクを始めとする沿岸都市はもちろん、首都オスロまでもが正午までに占領され、戦史上初の空挺部隊による上陸作戦でデンマークはほぼ無抵抗のまま占領されてしまいます。その後英仏ポーランド連合軍によるノルウェー奪回作戦が続けられたものの、5月10日(金)から始まったドイツ軍の第一次西方作戦(黄色作戦)で追いつめられた連合軍は6月8日(土)にノルウェーから撤退してしまいます。こうして確保されたドイツの鉄鉱石ルートは、大戦末期までドイツを支えることになりました。
 占領されたノルウェーとデンマークでは、占領地用の葉書は発行されませんでした。

・オランダ、ベルギー

 1939年11月12日(日)に開始する予定であった第一次西方作戦(黄色作戦)は、準備不足、天候不良、参謀将校が乗った飛行機のベルギー領内不時着による黄色作戦漏洩、作戦の練り直し等により29回も延期され、ようやく1940年5月9日(木)総統の指令により作戦が発動されました。10日午前4時30分、空軍による72カ所もの飛行場攻撃を合図にオランダ、ベルギー国境を突破したドイツ軍は、オランダ国境守備隊を破り、最前線で5日間持ちこたえて英仏軍の応援を待つはずのベルギー軍をも圧倒。これで連合軍による対独防衛統合作戦は初日から崩壊してしまいました。11日ベルギーが誇る難攻不落のエベン・エマエル要塞が陥落、13日リエージュ占領、14日ロッテルダム占領、17日ブリュッセル占領、18日アントワープ占領とドイツ軍は快進撃を続け、早くも15日オランダが降伏(オランダ女王は13日に脱出)。頼みの英仏軍がダンケルクから必死に船で脱出する中、28日午前4時ベルギーも降伏してしまいます。
 占領されたオランダでは、占領地用の葉書は発行されませんでした。ベルギーでも、1941年のブリュッセル航空分遣隊に従事するベルギーおよびオランダの労働者用葉書以外は発行されませんでした。

・ダンケルク

 ドイツ軍の主力はオランダ・ベルギー中北部を突破した部隊(B軍集団29個師団)ではなく、ベルギーのアルデンヌ森林地帯およびルクセンブルクを通ってベルギー南部から北部フランスに進む部隊(A軍集団45個師団)でした。アルデンヌ森林地帯は通行不可能と思われていた場所ですが、ドイツ国内の似た地形で訓練を積んだドイツ軍機甲部隊は、5月10日(金)の作戦開始後、早くも12日に森林地帯を突破。13日には西進を続け、計画通り、ベルギーとオランダに向けて前進した連合軍主力の背後に回る形となりました。ドイツ軍はそのまま連合軍を追いつめながらイギリス海峡を目指し各地を占領しますが、24日(金)快進撃を続ける機甲部隊に対して総統はなぜか進撃停止命令を下します。ダンケルクに追いつめられた英仏軍はその「奇跡」を利用して、27日から翌6月4日のドイツ軍によるダンケルク占領までの間に、あらゆる船舶を動員して33万8千人以上を脱出させました。(捕虜は取り残された4万人のみ。)
 ダンケルクでは、7月1日(月)からフランス切手に加刷が施されたものが発行されましたが、葉書は発行されていません。

・チャンネル諸島(チャネル諸島)

 チャネル諸島はイギリス海峡に浮かぶ島で、フランスのノルマンディ半島西方に位置します。6月のドイツ軍による占領後、ジョージ6世図案の1ペニー葉書に1ペニー分の切手を貼った使用例が知られています。(葉書料金は2ペンス)

・アルザス

 1939年9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻で、フランスはポーランドとの協定に従い、9月8日からドイツとの国境を越え、ドイツの要塞を攻撃する作戦に出ましたが、ポーランドの敗色が濃厚になるにつれて、フランス軍は前進を停止。10月4日には軍の主力がドイツから撤退し、19日には逆にドイツの反撃に遇って全部隊がフランス側に引き返してしまいました。しかし、ドイツ軍はそれ以上フランス軍を追うことはせず、交戦国同士が国境を挟んで対峙したままという奇妙な事態が長く続いていました。
 フランス軍の間でドイツ軍は攻めてこないのではないかという楽観論が湧く中、1940年5月10日ドイツ軍は突如アルザスとロレーヌの飛行場と鉄道と弾薬庫を集中的に攻撃。ドイツ軍の包囲を恐れたフランス軍は、5月15日以降アルザスから部分的に撤退を開始し、6月16日(日)には総退却命令が下されました。(なお、ドイツ軍はすでに6月14日にパリに入城しています。)その後フランスは6月22日(土)に休戦協定を結びました。ただし、休戦協定後も各地で戦闘は残っていて、7月1日にようやく降伏した部隊もあります。なお、ドイツはフランス全土を占領したわけではなく、北部と大西洋沿岸を占領、南部はヴィシー政府の管轄となりました。
 ドイツの占領地域のうち、第一次世界大戦でドイツが失ったアルザス(ドイツ名はエルザス)地方では、7月24日(水)に1918年以前の旧国境に沿った関税境界線が設置され、フランスはドイツから「ドイツとの郵便が再開するまでアルザス(およびロレーヌ)の郵便は再開されない」、と通告されました。それから3週間後の8月15日に、アルザスでは(ドイツの)ヒンデンブルク図案葉書への加刷葉書が発行されました。全部で5種類の葉書があります。(切手の日葉書の絵の違いを入れると19種類あります。)
 翌年の1941年7月15日(火)からは、ドイツ本国の切手と葉書、およびロレーヌ加刷、ルクセンブルク加刷の切手と葉書が使用され、1942年1月1日(木)からはドイツ本国の切手と葉書のみが使用されました。
Elsaß加刷葉書

・ロレーヌ

 ロレーヌ(ドイツ名はロートリンゲン)地方では、1940年8月21日(水)からヒンデンブルク図案葉書への加刷葉書が発行されました。全部で5種類の葉書があります。(切手の日葉書の絵の違いを入れると19種類あります。)翌年の1941年7月15日からは、ドイツ本国の切手と葉書、およびアルザス加刷、ルクセンブルク加刷の切手と葉書が使用され、1942年1月1日からはドイツ本国の切手と葉書のみが使用されました。
Lothringen加刷葉書

・ルクセンブルク

 1940年10月1日(火)から、ヒンデンブルク図案葉書への加刷葉書が発行されました。その後ルクセンブルク葉書への加刷も含めて、全部で9種類の葉書があります。1941年4月1日(火)からは、ドイツ本国の切手と葉書、およびアルザス加刷、ロレーヌ加刷の切手と葉書が使用され、1942年1月1日からはドイツ本国の切手と葉書のみが使用されました。
Luxemburg加刷葉書とドイツ本国の無加刷切手(1ペニヒ黒)

ルクセンブルク葉書への加刷の例(上段にあるフランス語表示を黒で抹消し、印面にドイツ通貨 5Rpf を加刷)

1941年

・セルビア

 1941年2月に、総統がユーゴスラビアに対して三国同盟に加入することを提案すると、ペータル二世の摂政であった叔父のパヴレ公がこれに賛成し、3月25日(火)にウィーンで条約が締結されました。しかし、これに反対する軍部が3月27日に軍事クーデターを起こし、摂政と大臣を投獄。まだ17歳で未成年のペータル二世を担ぎ出して新政を宣言し、新政府を樹立しました。
 これを口実にドイツ軍は4月6日(日)にユーゴスラビアに侵攻し、1週間で国王軍を撃破。4月10日以降はイタリア軍がダルマチア海岸全域に、ハンガリー軍がスラヴォニア東部にそれぞれ侵攻し、これら枢軸国によって分割占領されました。
 6月以後、ユーゴスラビアの葉書への加刷葉書と正刷葉書が発行され、全部で6種類の葉書があります。

・ソビエト各地

 1941年6月22日(日)午前3時15分、ドイツ軍146個師団(300万人)とソビエト軍139個師団および29個独立旅団(470万人)が対峙する独ソ国境で、ドイツ軍が一斉に奇襲攻撃を行い、ソビエト各地を占領しました。同年7月頃から、エストニア、ラトビア、プスコフ、アレクサンドロフカなどでソビエトの葉書に加刷したものが発行されています。(エストニアは4種類、ラトビアは2種類、プスコフは14種類以上、アレクサンドロフカは12月に8種類。)エストニアやアレクサンドロフカの加刷葉書は、第二次世界大戦占領地区の葉書の中で最難関の一つです
 このドイツとソビエトとの戦争は、第二次世界大戦の大半を占めた消耗戦で、今でもドイツとロシアの両国民が「戦争」というものを語るときに真っ先にイメージし、世界情勢や安全保障を考える上でも念頭に置かれる戦争です。

・東部地区(OSTLAND)

 1941年11月から、エストニア、リトアニア、ラトビア、白ロシアの地域で、総統図案葉書への加刷葉書が発行されました。全部で3種類の葉書があります。加刷の文字は、これらの地域の総称である「OSTLAND」です。

・ウクライナ

 1941年11月から、ウクライナの地域で、総統図案葉書への加刷葉書が発行されました。全部で4種類の葉書があります。このうち、6ペニヒ往復葉書が難関です。(使用済は現存3点程度と言われています。)

・ベルギー

 ブリュッセルの航空分遣隊に従事するベルギーおよびオランダの労働者用に、ヒンデンブルク図案の専用往復葉書が発行されました。体裁は黒枠葉書ですが、色がワインレッドのため、そのようには見えません。1944年に、この往復葉書の残りを裁断して6の額面を加刷し、市外用葉書としたものがドイツ国内で発行されました。
往復葉書の往信部

1943年

・アルバニア

 ドイツは、1943年9月10日(金)からアルバニアを占領を開始し、同月、アルバニア葉書への加刷葉書が発行されました。全部で6種類の葉書があります。市場では、未使用と、記念押印と思われる使用済が見られます。

・ザラ

 ザラは、現在クロアチアのザダルで、アドリア海に面した海岸の町です。第一次世界大戦のさなかの1915年4月、フランスとイギリスはイタリアとの間にロンドン秘密条約を締結し、イタリアが連合国側に参加することを条件に、このザラを含むイストリア半島からダルマチア海岸までの広大な地域をイタリアの領土として承認することを約束しました。この約束に従って、1918年11月3日にイタリア軍がこの地に進駐し、1920年のラパロ条約で割譲が確定しました。その後1943年9月にイタリアが降伏すると、代わりにドイツがこの地を占領し、1943年9月と11月に、イタリアの葉書に加刷したものが計2種類発行されました。使用済は、第二次世界大戦占領地区の葉書の中で最難関の一つです。

・モンテネグロ

 1943年11月頃、モンテネグロでユーゴスラビア葉書への加刷葉書が1種類発行されました。しかし、現在市場にある物は未使用のみで、使用済は確認されていません。

・ロードス島

 1943年から44年にかけて4種類(そのうち3種類は往復葉書)の葉書が発行されました。図案は鹿とハイビスカスの2つの紋章です。

1944年

・コトル(モンテネグロ)

 1944年1月、イタリア葉書への加刷葉書が2種類発行されました。しかし、現在市場にある物は未使用のみで、使用済は確認されていません。なお、コトルでは10月からドイツの通貨が使用されました。

・リュブリャナ(スロベニア)

 1944年1月、イタリア葉書への加刷葉書が発行されました。全部で6種類の葉書があります。

1945年

・クールランド

 クールランドは、ラトビアのバルト海沿岸、エストニアのリガ湾、フィンランド湾周辺地域を指します。この地域では1945年1月、軍事郵便葉書に似た葉書が1種類(プロパガンダの種類で分けると2種類)発行されました。未使用のみ知られています。

葉書こぼれ話(第二次世界大戦編)

・世界最初の葉書発行70年記念(1939年10月1日発行予定が戦争勃発で不発行)

 オーストリーで1869年10月1日に世界最初の官製葉書が発行されてから70年後の1939年、そのオーストリーを前年に併合したドイツは、葉書発行70年記念の葉書を印刷して発行に備えていました。
 しかし、発行のちょうど1ヶ月前に当たる9月1日に第二次世界大戦が勃発したため、その予定されていた記念葉書は発行されず、ウィーンに保管されていました。それが、戦後の混乱期にこの保管先から一部流出して、市場に出回りました。その葉書の一部を以下に紹介します。葉書の印面の図案は、位置的には写真の右の外にありますが、総統の横顔の図案です。(印面図案をカットしています。)

写真は印面の左側部分です。

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・お断り
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