目 次
ドイツ・ステーツ
概説
 ヴュルテンベルク
 バイエルン
 北ドイツ連邦
 バーデン
 ヘルゴラント
ドイツ 1872
ドイツ 1873-1932
ドイツ 1933-1944
ドイツ在外局
ドイツ植民地
ドイツ海軍艦船郵便
第一次世界大戦占領地区
ベルギー軍占領地区
ドイツ住民投票地区
ダンチヒ
メーメル
ザール
第二次世界大戦占領地区
地方発行
連合軍占領地区
西ドイツ
ベルリン
東ドイツ
統一後のドイツ

北ドイツ連邦 Norddeutscher Postbezirk North German Confederation

通貨単位:
1Thaler(ターラー)=25Silbergroschen(銀グロッシェン)=30Groschen=3Mark
1Gulden(グルデン)=60Kreuzer(クロイツェル)=約1.71Mark
1Mark=16Schilling(シリング):ハンブルク市内郵便

[概説]
 北ドイツ連邦はマイン川(ドイツ中南部、バイエルン州の北部を流れる川)以北の諸邦が集まったもので、1866年のプロイセン・オーストリー戦争にプロイセンが勝利した後、プロイセンを盟主として22の連邦が加わって1867年に創設されました。この北ドイツ連邦は、マイン川以南の諸国との間は攻守同盟(連邦が宣戦布告された場合、軍隊はプロイセン国王の指揮下に入る)が結ばれています。


1.1870年7月1日発行 印面なし

 印面なしの葉書は、ちょうど絵葉書のように、切手を貼る位置を四角で囲んだ葉書です。全部で14種類以上の葉書が発行されています。最初の葉書は1870年6月に各郵便局に配給され、7月1日(日)から一斉に発売されました。フライングで6月30日(土)に発売した局もあります。葉書は100枚あたり5銀グロッシェンで、切手を貼って使用されました。葉書に貼り付ける切手は、以下のように3種類あります。

  • 1銀グロッシェン:北ドイツ連邦内、マイン川以南の諸国宛、オーストリー宛、ルクセンブルク宛
  • 1/2銀グロッシェン:市内便で同時に25枚から100枚まで差し出した場合
  • 1/3銀グロッシェン:市内便で同時に100枚を越えて差し出した場合

 上の写真は、北ドイツ連邦の1銀グロッシェン切手(紅)を貼った使用例です。消印は年号のないタイプのANCLAM(アンクラーム)局のもので、書き込みから1870年8月31日と分かります。当時は普仏戦争の末期で、ちょうどSEDAN(スダン)の要塞を包囲した頃です。翌9月2日にはフランス軍は降伏し、ナポレオン三世は捕虜となりました。

 上の写真は、葉書の下に書かれた注意書きの部分です。ヴュルテンベルクの最初の葉書とだいたい似通った内容です。以下にその内容を示します。

(原文と邦訳)
Zur gefälligen Beachtung beim Gebrauch der Correspondenz-Karte
郵便葉書を利用するに当たっての注意について

1) Formulare, welche mit der Freimarke bereits beklebt sind, können bei allen Postaufgabestellen, Briefträgen und Landbriefträgen bezogen werden; für das Formular selbst wird nichts berechnet.
1) 用紙は、すでに切手が貼り付けられており、すべての郵便局および集配員および地方の集配員から購入できる。これには用紙代は含まれない。
註)印面なし葉書はすでに切手が貼り付けられた状態で売られていて、貼り付けられた切手の代金で購入できる、つまり用紙代は無料であることが記述されています。郵便局はもちろんのこと、集配員もこの葉書を持ち歩いて利用者に売っていたようです。集配員の表現が2種類あるので、ここではLandbriefträgen を地方の集配員と訳しました。

2) Der obige Vordruck für die Adresse ist deutlich und vollständig auszufüllen.
2) この上の宛名を書く欄には、はっきりと正しく記入のこと。
註)ここはヴュルテンベルクの最初の葉書と全く同じです。

3) Die Rückseite des Formulars kann in ihrer ganzen Ausdehnung zu brieflichen Mittheilungen jeder Art benutzt werden, welche, sowie die Adresse, mit Tinte, Bleifeder oder farbigem Stifte geschrieben sein können.
3) この用紙の裏面は、広く使って、通信文をどのような書き方で書いても良い。(表の)宛名も、インク、鉛筆、色鉛筆のどれを使って書いても良い。
註)裏面の書き方ですが、今の感覚から言うと当たり前なことです。しかし、オーストリーで発行された世界最初の葉書は、裏面に書く通信文は20語までという制約がありました。実際はそれを越えて書かれることがあったため、(守れないような無駄な?)制約はありません、とわざわざ書く必要があったようです。書き放題、という印象がありますが、そう言っておきながら一方で、裏面にしっかりと11行の罫線を(しめて12行分の通信欄になるように)印刷してあるところが面白いのですが。なお、ヴュルテンベルクの最初の葉書には「brieflichen」の単語がありません。

4) Die Entnahme von Postvorschuß ist bei Correspondenz-Karten nicht zulässig; dagegen ist das Verfahren der Recommandation, sowie der Expreßbestellung gestattet.
4) 郵便葉書を代金引換に使用できないが、書留および速達には使用できる。
註)ここでは、特殊扱いの規定について述べています。Postvorschuß は、正確には現在の Nachnahme (代金引換)の前身に当たるサービスを指します。最初の代金引換は、先に差出人に徴収予定の金額を渡すやり方をとっていたのですが、受取人が支払いを拒否し、さらに差出人が返済を断るケースが増えたため、1856年にプロイセン王国で現在のサービスの形に直し、それが後に広まったようです。なお、ここはヴュルテンベルクの最初の葉書と全く同じ書き方です。

5) Die Correspondenz-Karte kann zu schriftlichen Mittheilungen sowohl innerhalb des Norddeutschen Postgebiets, als auch für den Verkehr nach Süddeutschen Staaten, nach Oesterreich und Luxemburg benutzt werden.
5) 郵便葉書は、北ドイツ連邦領内だけではなく、南ドイツの諸邦、オーストリー、およびルクセンブルク宛の通信に使用できる。
註)宛先の注意書きです。ヴュルテンベルクの最初の葉書の場合、これが市内限定の葉書にまで書かれていたため、「市内限定の葉書でもこのまま外国宛に使える」という誤解を生み、改訂することになりました。

6) Der Absender ist nicht verpflichtet, sich namhaft zu machen.
6) 差出人は氏名を記入する義務はない。
註)直訳では「名前を挙げる義務はない」ですが、名前を書くのが当たり前な現代には通じるところがないので、適訳が見つかりません。当時の差出人は、裏面に差し立て地(市町村の名前のみ)、日付、本人のサインを書くくらいでした。(個人の住所を書く例は、まずありません。)おそらく、(表に)差出人氏名を明記しなくて良い、という内容だったのではないでしょうか。

 以下に、印面なし(切手付き)葉書の全景を示します。
(プライバシー保護のため書き込みを抹消しています)

2.1870年発行 印面なし 軍事郵便葉書

 ドイツ最初の葉書が発行されて3日目の1870年7月3日(火)、スペインは、ブルボン朝最後の女王イサベル2世を軍事クーデターで追放した後、王位継承者としてドイツのホーエンツォレルン・ジグマリンゲン候の子レオポルトの名前を公表しました。ところが、隣国にドイツ人が王として着任することに対して、両側から挟まれる形になるフランスは猛反発し、9日と13日に駐独大使を通じて、二度とレオポルトを擁立しないことをプロイセン国王のヴィルヘルム1世に迫りました。
 ヴィルヘルム1世はいったんはその気になったようですが、ビスマルクは、このままフランスの要求を飲むと北ドイツ連邦の盟主であるプロイセンが威信を失い、まだ連邦の外にいたバイエルン等の南ドイツ諸邦を引き込めなくなることを大いに懸念しました。そこで、この会見もようの電報の内容を自ら巧みに縮めて作り替え、「恐れ多くも我らが国王に法外な要求をするフランス」、というイメージを仕立てあげ、ドイツの世論を煽りました。
 この作戦は功を奏し、両国の国民感情は悪化し、16日(月)ドイツは対仏戦争の動員を行い、これに応じて19日(木)フランスはドイツに宣戦布告しました。
 動向が注目された南ドイツ諸邦ですが、ビスマルクの読み通り、プロイセン側に付いて参戦しました。これに力を得たドイツ軍は、まず、鉄道網の未整備から動員が遅れて手薄になっているフランス軍をザールで包囲殲滅する作戦に出ましたが、ドイツ軍は作戦ミスで失敗し、その予定を変更。8月からの局地的勝利の積み重ねで徐々にフランス軍を圧倒し、SEDAN(スダン)要塞包囲後、9月2日(日)ついにフランス軍を降伏させました。ちょうどその要塞に来援していたナポレオン三世は捕虜となり、2日後パリでは共和制が布告されました。しかし、パリの新政府はドイツに対して徹底抗戦を宣言し、およそ半年に及ぶフランスの祖国防衛戦に発展していきます。
 この戦争(一般には普仏戦争)に従軍した北ドイツ連邦軍兵士用に、ドイツ最初の軍事郵便葉書が発行されました。発行時期は7月終わり〜8月始め頃と推定されています。
(プライバシー保護のため書き込みを抹消しています)

 上の写真は、軍事郵便葉書(Feldpost-Correspondenzkarte)の使用例です。軍事郵便葉書は兵士に配給されたため、一般向けの場合と異なり、切手は貼られていません。葉書には、SAARLOUIS(ザールルイ)局の1870年9月8日の二重丸印が押されています。重なるように押されている一重丸印は、9月10日のベルリンの配達印です。差出人はフランスが降伏した9月2日に、SAARLOUISの南東約80kmにあるアルザスのGOERSDORF村から差し出していますので、差出人はアルザス駐留軍の所属だったようです。なお、SAARLOUISは、フランスのモーゼル州の北にある、独仏国境付近のドイツ側の町です。

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