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レモンのイラスト 震災慰霊碑巡礼 121回〜 
阪神淡路大震災から5年目。あの苦しみと悲しみをいつまでも忘れずに、安心で安全な町づくりの喚起とともに検証のひとつになればと、今回から被災地の慰霊碑や記念碑を訪ねる。レポーターは、本紙客員ライターの西條遊児氏。(神戸市政・兵庫県政情報紙「セルポートKOBE」から)。同社は神戸市中央区中山手通4−22−11 078・242・1161

第 1回〜第 30回
第31回〜第 60回
第61回〜第 90回
第91回〜第120回
第151回〜第179回
第121回
中央区熊内町9丁目
熊内八幡宮の震災の碑
境内には地震の地割れが

JR新神戸駅のすぐ東、新幹線の線路をまたぐように架かった橋を渡ると、目の前に高さ約5メートルの新しい鳥居が目に入ります。

境内は熊内幼稚園の運動場にもなっていて、北側にある本殿と幼稚園の遊戯室の間に、震災で倒れた鳥居の柱と玉垣が設置されています。

境内の南側は、今は鉄柵になっていますが、震災まではずらーっと玉垣が並んでいました。しかし震災で西側半分が北に倒れ、東側半分は南に倒れてしまったのです。そして境内は幅30センチほどの地割れがあったといいますから、おそらく境内を地震が走ったのでしょう。

鳥居は半分ぐらいのところから折れ、笠木と貫はだるま落としみたいに真下に落ちたのですが、幸い近所に迷惑をかけずにすんでよかった、と権禰宜の齋藤洋文さんが話してくれました。

幼稚園の送迎用の機関車バスがモニュメントの前に置かれていますが、これは先代の宮司さんが震災後の沈んだ神戸に、少しでも明るい話題を、とその年のクリスマスに購入した者で、神戸まつりのパレードにも参加したことがあります。

第122回
神戸市中央区
摩耶山・掬屋台のベンチ
被災鳥居をベンチに再生

摩耶山の上の掬屋台の南端、展望台のそばに御影石で作られたベンチと椅子が置かれています。

全部で7基あり、それぞれに「波乗りベンチ」とか「ゆーらりベンチ」「兎のイス」「高貴なイス」などユーモラスな名前がついています。

「兎のイス」は背もたれが兎の耳の格好をしており、「ゆーらりベンチ」は座ると前後に揺れるなど遊び心が一杯です。

作者の彫刻家、勝山浩一さんの話によりますと、震災のため倒れた鳥居が産業廃棄物として処分されようとしていたのを貰い受け、イスとベンチに復活させたんだそうです。

どういう形で生き返らせるか、制作にかかるまで随分迷いましたが、単なるモニュメントにせず、人に触れてもらえるようにと2年ほどかかって作り上げました。

ツンとすました神社の鳥居がこんなに身近な用具に変身して、鳥居もさぞ喜んでいることでしょう。摩耶山へはケーブルとロープウェイ(神戸夢散歩)を乗り継いで片道860円、往復では1500円。乗っている時間はケーブルとロープウェイ、どちらも5分ですが、乗り継ぎの時間を含めて30分ほどみておくのが無難でしょう。

第123回
中国・無錫市
日本・阪神淡路大地震 中国遇難同胞紀念碑
中国・無錫市の慰霊碑

「無錫旅情」でお馴染みの中国・無錫市に震災の慰霊碑があると聞いて訪ねてきました。

無錫市から車で30分の所にある青山公園の小高い山の中腹にその碑はありました。立派な東屋の中に高さ約3メートル、幅1メートルの碑が建ち、表側には「日本阪神淡路大地震 中国遇難同胞紀念碑」と書かれ、裏側には地震の起きた状況や48人の中国人犠牲者の名前、年齢、出身地などが刻まれています。

そのひとり、無錫市出身のト山さんは、神戸の中華料理店で修行中、25歳の若さで亡くなりました。悲しみを乗り越えるため、父親のト偉達さんが慰霊碑の建立を思い立ったところ、中国各地の遺族も参加を申し出て、それを知った日本の企業や個人からも寄付が集まり、あわせて14万元(約180万円)ちかくになったそうです。そして早くも震災の年の秋に除幕されました。東屋に「恋山亭」と書かれた額がかかっています。

お父さんによりますと、この場所が恵山の麓であるのと、息子の名前も山であるので、慕わしく思う気持ちをこめて名付けたということです。

碑の正面から南を望むと太湖が見える絶好の場所ですから、毎日中国人旅行者も訪れ、息子も寂しくないでしょう、と語るお父さんは毎朝ここへ掃除にやってくるそうです。近くの青山寺のお坊さんがあげる読経が朝晩聞こえるのでよい供養になりますよ、と優しい笑顔で話してくれましたが、それだけ余計に悲しい気持ちが伝わってきました。


第124回
須磨区一ノ谷
緑の塔の落ちた地球儀
石造りの地球儀が落下

石造りの地球儀が落下須磨浦公園の東端に大きな女神像が建っています。昭和29年に4月に神戸で開かれた第5回全国植樹祭の時に作られたもので、神戸の飛躍と発展を表し「薫風」と題されています。

この像の両サイドに大きな石で作られた地球儀が設置されていたのですが、それも置くだけでなくセメントで固めていたのですが、あの地震の時に西側の1つが台座から落ちてしまいました。現場に行くと今もそのままにしてあり、地球儀と同じ直径の石の説明文がそばにあります。

「この直径1・2メートル、重さ2・4トンの地球儀を落下させた兵庫県南部地震は正に『地球』すなわち『私たちの世界』を根底から揺り動かした、言語に絶する出来事だったことは間違いありません。いま私たちは、その忌まわしい震災の日々の記憶を失わないためにも、この落下した地球儀をしっかりと見つめ直す必要があるのではないでしょうか」と書かれていました。

これは天地がひっくり返った大災害の生き証人なのです。


第125回
兵庫区松本通3丁目
川池公園の「いのちの碑」
せせらぎが流れる美しいまちに

湊川公園の西、バス道の北側一帯は俗に川池地区と呼ばれ、会下山町、大井通、松本通、上沢通で約3千世帯の人が住んでいました。

しかし、あその阪神・淡路大震災でその7割が全焼、全壊という壊滅的な被害を受け、100人にのぼる犠牲者が出ています。

特に火災の激しかった松本地区は区画整理が実施され、まもなく完了しますが、一帯はせせらぎが流れるきれいな町に整備されました。

そして、地域の防災拠点にもなる川池公園が昨年(2004年)12月に完成、その東隅に「いのちの碑」と名付けられた慰霊碑が建立されました。

碑は高さ1メートル、幅2メートルの黒御影石で、矢田市長の筆で「いのちの碑」としたためられています。震災の中から教えられた命の大切さを忘れないようにと建立委員会の皆さんの総意で決まったそうです。

昨年10月から募金活動を始めたところ、予想以上の320万円が集まり、そのうちの200万円が充てられました。地域の人の犠牲者に対する思いが如何に大きいかがよくわかります。残ったお金はこれから毎年1月17日に行う予定の追悼式の費用などに充てたいということです。

碑の下には亡くなった方のお名前を書いた自然石が納められています。

第126回
灘区徳井町3丁目
徳井会館の復興拠点の碑
救援車であふれた交差点

国道2号線の徳井交差点は、震災直後、全国からの救援車が集中して大混雑をしたところです。阪神高速が落ちたため43号線へ出られず、北から来た車が全部ここで右折しようとしたからです。この交差点の北に徳井会館という地域の集会所があり、その前に「大震災 復興拠点之地」と刻まれた立派な碑が立っています。

大震災では、この地区一帯で約100人が亡くなり、近くの成徳小学校へはピーク時で1400人が避難し、入りきれなかった約200人がこの徳井会館に避難しました。

当時消防団員として活躍した堂内克孝さんの話によりますと、避難所として指定された場所以外にいる被災者、例えば半壊の家や公園で野宿している人などに「救援物資を運びますから」と登録を呼びかけたところ初日で900人、最終的に1700人が登録をしたそうです。

救援物資は消防団員が制服を着て、緊急車両扱いで市の基地まで出かけ、ピストン輸送しました。ちなみに、1700人分というと缶コーヒーで70ケース余り。2トン車の場合はそれだけで一杯ですが、その上にカップめんなどを積んで往復を繰り返したそうです。それだけに、ここは地域のみんなの思いがこもった場所と言えるでしょう。

第127回
須磨区大手町8
飛松中学校の慰霊碑
生徒たちの手づくり

震災で在校生1人が亡くなった飛松中学校に、円錐形の慰霊碑が2年生有志の手で作られ、震災10年の2005年1月17日に除幕されました。

生徒たちが毎日通る通用門の左手に、震災の犠牲者と同じ数の6433個の自然石を約2メートルの高さに積み上げ、地震が突き上げてきた衝撃の強さを表しています。 周りはまだ製作中ですが、土台の側に神戸の町を模して並べ、芝生を張って須磨の海に見立て、後ろに土を盛って六甲山を作ります。

去年、校外学習で市内のモニュメント巡りをした後「校内にモニュメントがあっても良いのではないか」と小菅康生教諭の提案で、2年生18人によるモニュメント実行委員会ができました。

直ぐに始めた石集めは難航しましたが、秋の台風23号の影響で妙法寺川に山からドッと石が流れてきましたので、実行委員全員、一汗も二汗もかきながら、やっと目的の数を達成したそうです。

そして、自分たちでコンクリートを練り、約1カ月かけて作り上げました。業者に頼まず、先生の情熱と生徒たちの努力でできあがったこのモニュメントは、私はすばらしい作品と思います。


第128回
中央区脇浜町1
科学技術高校の山茶花

震災経験を伝えるJR灘駅の南西約5分のところに、昨年4月開校した市立科学技術高校が立派な校舎がありますが、その南側に「震災復興の木」と書かれた山茶花の木が4本植わっています。

この学校は、神戸工業高校と御影工業高校、そして定時制の長田工業高校とが統合されて新しくできた学校ですが、震災当時、御影工業の生徒 4人が亡くなり、その年の卒業生が記念に植樹していたものを、合併と同時に移植したものです。
実は4人のうち1人は直接の犠牲者ではなく、卒業式直前の月、登校の途中に震災復旧工事で混み合う国道で事故に遭って亡くなったものです。しかし、震災させなければ、ということで一緒に植樹されました。

今年2005年の1月17日には、その当時、灘区に住んでいた学年主任の先生が震災体験を話し、その後、全員で黙祷をささげました。「震災を伝えるのは、我々教育に携わっている者の責任であり、義務でもあります」と校長の常本明先生はおっしゃいます。今年以降も1月17日には山茶花の前で集会がもたれることでしょう。


第129回
東灘区森南町2
森公園の慰霊碑
地域のきずな取り戻す願い

JR甲南山手駅のすぐ北側にある森公園に、震災10年にあたる2005年1月17日、森財産区管理会が念願の慰霊碑を建立しました。

森北、森南、本庄町の一部を含む森地区は、震災で約100人が亡くなるなど大きな被害を受けて、区画整理事業の対象になった地区です。

事業の進め方で意見が分かれ、住民同士のしこりが残っていたのですが、10年を節目に亡くなった人への思いや、震災直後の助け合いの気持ちを語り継ぐために慰霊碑を作ることになりました。

碑は御影石製で鎮魂という文字の下に「あの日あの時を忘れたい、でも忘れてはいけない、いつまでも」と書かれた碑文を住民が両側から支えている形になっています。

この碑文は慰霊碑設立委員会のメンバーが意見を出し合って決めたもので、鎮魂だけでなく、地域の絆を取り戻す願いも込められているということです。

そして、その願い通り1月17日の午前5時46分から行われた追悼の集いには、雨の中を多くの住民が集まり追悼の祈りをささげ、婦人会の用意した豚汁やぜんざいを食べながら当時を偲んでいました。


第130回
西宮市愛宕山
広田小学校の碑
地域の人たちが「いのち」の碑を

甲山の麓、愛宕山の傾斜地に建つ広田小学校の北側校門のそばに、震災10年を雨にした昨年(2004年)12月20日、「いのち」と書かれた碑が建立されました。周りには紅葉やもっこく、イヌクギ、りんごなどが植えられ、レンガやタイルが敷き詰められた立派なものです。

広田小学校の校区は全壊1876軒、半壊1150軒、犠牲者72人という大きな被害を受け、在校生2人も命を失いました。

学校には児童2人の鎮魂のために、りんごの木が2本植えられたのですが、昨年9月頃に地域住民から、震災を伝えるモニュメント建設の話が出ました。

北側校門のそばには、震災で倒壊した家から寄付された庭石や木がありましたので、そこにりんごの木の移植と新たに碑を設置することにしたのです。

作業はほとんど地域の人のボランティアで行われ「いのち」の字は近所の習字の先生が書いてくれました。「学校の負担はプレート代ぐらいでした」とは校長先生の話です。

今年(2005年)の1月17日には当時の教頭先生が震災の話をし、正式に児童に碑が披露されました。

第131回
長田区腕塚町5丁目
大正筋のモニュメント1

震災で大きな被害を受けた長田区の大正筋商店街に、今年(2005年)1月17日、3つのモニュメントが設置されました。

久二塚地区震災復興まちづくり協議会が、大震災を風化させないために約2年前から準備を進めていたものです。

「我々としては商業の復興支援が先ず第一の目標で、まだまだ本格的復興とは言えませんが、とりあえずここまで来たし、10周年記念としてモニュメントを作ることにしたんです。3人の作家には復興に対する思い、支援に対する感謝の気持を込めたものを作ってほしいと要望しました」と協議会の前事務局長、二宮英雄さんが話してくれました。

それでは今日から3回にわたってそれぞれのモニュメントをご紹介しましょう。

まず、国道2号線に面したアスタくにづか1号館の北西角には「かたらい」と名付けられた赤御影石製の像が建っています。

キリンの鼻先にフクロウが止まっているもので、解説によりますと「キリンからは希望とか伸びる、フクロウからは知恵をイメージすることができる。主義主張の異なるものが集まった、共に生活する場である社会において、お互いの意思を通じ合わせることが大切である。双方の言い分が交流し、理解する中で相手に対する感謝の気持が生まれてくるという思いを表現してある」とあります。

作者は、鳴門市在住の居上真人さんです。

第132回
長田区久保町
大正筋のモニュメント2
住民によるまちづくり

大正筋商店街の中ほど、アスタくにづか3番館北西角に、互助の精神をテーマとした「家族の情景」というモニュメントがあります。

作者は、岡山県に住む小林照尚さんで、石材は白御影です。

これからの未来を信頼し助け合っていこうとする夫婦2人と、将来のこの街を作っていく象徴である子供を彫刻の中で表現しているそうです。

施主のまちづくり協議会は、道行く多くの人が見るので、抽象ではなく、出来るだけ分かりやすい具象で、とお願いしたそうですが、私の第一印象は「?、ああそうか」でした。

震災前からこの地区では、地下鉄海岸線の建設計画と道路拡幅を機会に個々の町でまちづくりの話し合いが行われていました。

そして震災をきっかけに、久保町、二葉町、腕塚町が結束して久二塚まちづくり協議会を結成したのです。ですから震災後の立ち上げはかなりスムーズに行き、震災の年(平成7年)の6月10日に、早くも巨大テントの仮設店舗「パラール」をオープンさせました。

当時はその頑張りぶりが全国的な話題になり、1日平均7000人の買い物客を集めたこともあったそうですが、現実は厳しい状況が続いています。

「アスタくにづか」は、1番館から6番館までの1階部分が連なり、平成17年1月現在約70店舗が営業をしています(震災前は98店舗)。

第133回
長田区二葉町
大正筋のモニュメント

久仁塚地区震災復興まちづくり協議会が、大震災の体験や教訓を語り継ぐために震災10年の2005年1月17日に除幕した3体のモニュメント。今回ご紹介するのは、アスタくにづか5番館北西角に黒の御影石で作られた、鎮魂をテーマにした「響き」という楽器を奏でる石像です。

あの日、地震発生7分後の午前5時53分に「長田管内建物火災、長田区川西通炎上中、第2出動を要請する」という長田消防署からの緊迫した声が消防局の管制室に飛び込んできました。これが阪神・淡路大震災における火災の最初の通報ですが、地震直後に少なくとも市内58カ所で火災が発生したそうです(神戸市消防局発行の活動記録による)。

その後の惨状はご存じの通りで、午後零時半に水上消防署の消防艇「たちばな」が長田港に到着。大正筋をはじめ水笠通方面、若松町方面の3カ所へホースをつなぎ、ポンプで吸い上げた海水で消火に当たりました。ホースの総延長は約2キロに及んだということです。

大正筋では午前10時に火災が発生し、長さ330メートルの商店街では当時98店舗が営業していましたが、その9割以上が全焼しました。

震災で亡くなった方の無念さや、やりきれなかったであろう気持を、作品が奏でる響きの中に感じて欲しいという思いで作られました。

作者は、大阪府高槻市に住む吉本豊さんです。

第134回
須磨区千歳町2丁目
千歳復興の礎

山陽電鉄板宿駅の南にある千歳地区は、震災前は縦横の路地に面して住宅が建ち並び、まちかどには井戸があり、談笑や子供の声があふれる温かな下町でしたが、大震災のため地区内の9割以上の家屋が全焼し、47人が亡くなるという須磨区の中で被害が一番大きい地区になりました。

かつて地区の中心だった千歳小学校の跡地に今年2005年4月24日千歳公園と地区センターが完成しました。約1ヘクタールの広い公園には100トンの防火水槽や防災倉庫があり、いざという時の防災拠点になります。

公園南側の入り口近くに珍しい二宮金次郎の銅像があり驚きましたが、これは小学校時代のものを設置したそうで、公園真ん中に高くそびえるメタセコイヤの木とともに地区の財産としてうまく取り入れられています。

そのメタセコイヤの側に「千歳復興の礎」というモニュメントが、公園より少し早めの1月17日に設置されました。

黒御影石製で、表面には「犠牲者を追悼し、震災の教訓を伝えると共に将来にわたってここに暮らす人たちが、健やかに、和やかに暮らしていく礎となることを祈ります」と記されています。

第135回
灘区桜口町4丁目
六甲道南公園の鎮魂碑
新しい街づくりを

JR六甲道駅南側一帯の六甲道南地区は震災で135人の方が犠牲になった所で、震災直後から国の防災指定公園を含む震災復興市街地再開発の指定地域になり、新しい街づくりが進んでいる地域です。

(2005年)9月にオープンするまでとなった公園の一角に、4月17日、南八幡自治会連合会の南八幡会館がオープンし、その前に鎮魂碑が設置されました。

1月17日の神戸市中央区の東遊園地での慰霊祭で使われる竹筒のローソク立てをイメージした形で、直径約80センチの円筒形白御影石で出来ています。その表面に「街が新しく生まれ変わっても、あの日のことを検証し、決して忘れることなく伝承していく」と書かれた黒御影石の碑文が組み込まれ、それを挟んで北側は山を、南側は海をイメージした凸凹がつけられています。

周りは公園の工事中ですが、南八幡会館のオープンに合わせて一般の人も碑の側まで行けるようになりました。

地元では9月に新しい街の「街びらきイベント」を開くべく、住民主体でその企画の最中です。


第136回
長田区日吉町
山古志村の地蔵
中越地震で倒れた杉で

長田区日吉町は大震災のときの火災でほぼ全滅、100人余りの方が亡くなるという大きな被害を受けた地域ですが、この春、住民の憩いの場所であるポケットパークの合わせ地蔵堂に新しいお地蔵さんが加わりました。

新潟中越地震で倒れた高さ30メートル、樹齢約200年の杉2本を使って、京都の仏師が作った9体の地蔵のうちのひとつがやってきたのです。

6体は復興のシンボルとして山古志村に安置され、1体は三宅島へ行き、もう1体はアフガニスタンに贈られます。

高さ約70センチのふっくりとした可愛らしい顔のお地蔵さんですが、阪神・淡路大震災の数ある被災地の中でなぜ日吉町へ来たのかというと、中越地震の後の昨年11月に、同じ被災者の苦しみを味わった者として自治会長の石井さんらがお見舞いと激励に行き、今年1月17日の地域の慰霊祭には亡くなった山古志村の5人の方の慰霊もしました。当日は、山古志村の村長さんもやって来て交流を深め、その縁でこちらへ地蔵さんがやって来ました。

生の木なので割れないかと心配なんです、と言う石井さんですが、「この夏の地蔵盆には外へ出して子供に触ってもらおうと思ってますし、可愛い顔をしているので、何かいい名前を付けてあげたいとも思っています」と話してくれました。


第137回
中央区北野町3丁目
「萌黄の館」の煙突
地面に突き刺さった煙突

観光客でにぎわう北野町異人館街で、「風見鶏の館」と並んで人気のあるのが「萌黄(もえぎ)の館」です。

以前は、「白い異人館」と呼んでいましたが、昭和62年の修理で分かった建設当初の色、グリーンの外壁に復元され、今の名前になりました。

昭和55年に国の重要文化財に指定されたこの館の見所のひとつでした、赤レンガ化粧積みの3本の煙突は、阪神・淡路大震災のため全て落下し、中央の1本はメード室に、東側の1本は庭に落ちて粉々になりました。そして西側の煙突は地面に突き刺さった状態で立っていました。

建物自体も痛みが激しく、約1年かけて修復し煙突も新調されましたが、地震の激しさを後世に残すため、西側の煙突はそのままの状態で保存されています。

この写真は1階の記念品売り場の窓から許可を得て撮ったものです。

建物や室内の調度ほど注目されていませんが、西側の庭に回って、是非とも見ていただきたいモニュメントです。


第138回
東灘区森南町
桜子ちゃんの童観音
道行く人も手を合わせ

JR甲南山手駅の東、線路沿いにある古賀幸夫さんのお家の門扉の側に薄い桜色をした祠があり、その中に可愛らしい観音様が安置されています。

阪神・淡路大震災で大きな被害を受けたこの地域で、古賀さん宅も例外ではなく、木造2階建ての家は全壊しました。

1階で寝ていた当時6歳の桜子ちゃんが生き埋めになり、助け出されたときは帰らぬ人になっていたのです。

「私の側に寝ていて、あの子だけが行ってしまったのが慚愧にたえません」という幸夫さんは、自宅再建の時に祠を建て、孫によく似た顔の観音様を置き、毎日手を合わせています。

実は最初、岡崎市の仏師にお地蔵さんを頼んだのですが、作っているうちにどうしても観音様になってしまったということでした。

ちょうど駅に行く道の角にありますので、道行く人も手を合わせ「桜子ちゃんの観音さん」と呼ばれるようになりました。

5年前に新しい男の孫さんも生まれ、最近ようやく元気を取り戻してきた古賀さんは「私たち家族にとっては、桜子は今でも6歳のままです。誰にでも挨拶をし、すかれる子でした」と話してくれました。

第139回
中央区新港町
浜手バイパスの橋脚
道行く人も手を合わせ

阪神高速道路京橋インター出口近くの国道2号線沿いに、震災で大きな被害を受けた浜手バイパスのモニュメントがあります。

鉄筋がむき出しになった橋脚、路面のつなぎ目に伸縮装置、橋げたと橋脚をつなぐ支承の3点セットですが、残念ながら道行く人はあまり注目をしていません。

阪神・淡路大震災では阪神高速道路の東灘区深江本町付近での倒壊現場の印象が強すぎて他の個所の記憶が薄いのですが、国交省(当時は建設省)が管理する国道でも大きな被害が出、この浜手バイパスでは72基の橋脚のうち58基が壊れ、橋桁も大きく崩れたりしました。そのほか、灘区の岩屋高架橋や西宮の門戸高架橋なのでも橋脚が傾いたり、橋桁が落下したりしています。

夜を日に継いでの復旧作業の結果、翌年5月2日の浜手バイパスを最後に472日ぶりに全て開通。震災を風化させないために、ここにその一部を展示しているのです。

私としては、倒壊した東灘区の阪神高速道路の一部も残しておいて欲しいのかったのですが・・・


第140回
中央区山本通
一宮神社のモニュメント
みんなの元気が出るように

一宮神社は昔から北野村の氏神さんとして親しまれてきましたが、大震災で社務所や鳥居、玉垣など全て倒壊し、かろうじて残った本殿も瓦や壁が全て落ち、柱だけの状態だったそうです。

宮司の山森大雄美さんの話によりますと「皆さん滅入っているので賑やかにできる場所を」と、先ず社務所を震災の翌年8月に再建しました。

その社務所の北側にある本殿の横に、「陽として依然輝く」と題したモニュメントが設置されています。作者は、石の彫刻家、マ・ガ・ラさん。堺市に住む30代の青年で、震災のときに活躍した「神戸芸術村」のメンバーです。

平成8年1月17日から3月末まで毎日オートバイでやってきて、倒れた玉垣を利用して境内で製作しました。機械を一切使わず、ハンマーとノミだけで作っています。

宮司の奥さんは「毎日聞こえるハンマーやノミの音を聞いていると勇気を与えてもらえました。息子と同年配なんで、なんや他人と思われへんのです」と当時を振り返ります。それだけに設置場所は境内の一等場所になりました。

そばの説明板には「震災からの再生と鎮魂を祈り、朝日の輝く状を表現している」とありました。

確かに、見るだけで元気がもらえそうなモニュメントです。


第141回
灘区神ノ木通
都賀川公園の復興の碑
まちの復興を見守る

灘区民の憩いの場である都賀川公園の一角に、おにぎりを拡大したような「復興の誓い」というモニュメントがあります。

震災では灘区内で933人が犠牲になり、1万8432棟の家屋が全半壊した他、区内全域で約2カ月間、ガス、水道などのライフラインが断たれました。

そして、川をはさんで西にある区民ホールの地下も、震災時は避難所として使われていました。

この都賀川は以前は汚れた川でしたが、付近住民の努力で鮎が棲むぐらいのきれいな川になっており、震災のときもこの川の水が生活用水として生かされたのです。

00年1月17日、前年10月に区内の仮設住宅が解消し都賀川がきれいに復興した記念に、灘区勢振興会の協力でこの碑が作られました。

碑文の『協働と調和の精神を財産とし、更なる復興へと力強く歩む』という文句に、新しい街づくりへの区民の意気が感じられます。

この公園では、毎年春に「桜祭り」、秋には「ふれあいまつり」が行われており、碑は区民の賑やかな声に囲まれながら、まちづくりのシンボルとして灘区の復興の姿を見守っています。


第142回
兵庫区五宮街
五宮神社の慰霊碑
子どもたちが火入れ式

五宮町のバス停から5分ほど細い道を北のほうへ登ったところにある五宮神社の境内に「あの日、あの人たちを忘れない」と刻まれた慰霊碑があります。

震災では、この辺り、平野小学校区内で3人が亡くなり、全半壊した家屋が多く、近くの平野小学校と湊中学校は避難者でいっぱいの状態でした。

神社も拝殿の屋根が壊れ、灯籠や玉垣も倒れましたが、けが人が出なかったのが幸いでした、とは宮司の奥さんの話です。

氏子の寄付で平成12年1月17日、拝殿の修理に合わせて慰霊碑が建立されました。

毎年1月17日には午前10時から慰霊祭を行い、お祓いをしていますが、今年(2005年)1月に平野小学校で行われた「とんど祭り」の時には慰霊碑からトーチに移した火を、震災の日に生まれた小学校5年の子供が行進して火入れをしたそうです。

道路に面して立つ神木のクスノキは樹齢400年以上の立派なもので、西隣に禅の修行道場で有名な臨済宗妙心寺派の祥福寺があります。


第143回
神戸市中央区海岸通
神明倉庫の煉瓦の壁
バラバラになった煉瓦で再建

あかふじ米でおなじみの神明の煉瓦倉庫の一部が、震災のモニュメントとして05年1月17日に生まれ変わりました。

明治時代からあった英国式の煉瓦倉庫は、戦後まもなく先代社長は大倉財団から買い取ったものですが、大震災で跡形も無く全壊しバラバラになってしまいました。

先代社長が「どうしても残すように」と厳命していましたので、形のある煉瓦約3500個を集めて他の倉庫に保管していましたが、更地の跡に建てた老人ホームのそばに、約2000個の煉瓦を使った厚さ40センチの壁として、鎮魂の意を込めて再登場することになったのです。

『鎮魂のうた』と題された伝承プレートには「ふるさと神戸の美しいまちや港の風景を一瞬にして瓦礫に変えた天災は、永い風雪に耐えた明治の息吹を今に伝えた煉瓦倉庫までも私たちから奪い去った。でも神戸を愛する心と未来に託す夢はいささかも砕かれなかった。今ここに、残された小さな煉瓦の壁は、新しい使命をもってよみがえる。鎮魂の祈りとともに」と書かれています。


第144回
灘区赤松町3丁目
六甲カトリック教会の聖母像

教会が被災者救援基地に

阪急電車の六甲駅から北へ5分ほど歩いたところに六甲カトリック教会があります。

ここは震災のときは全国からカトリックの医療団が集まり各所で診療したり、神父が若者を連れて家屋の後かたづけに行ったり、周辺の被災者の避難所になるなど救援基地になった場所です。

この教会の入り口にある鐘楼には、イエスを抱っこしたマリア像が設置されていますが、これは震災の翌年、ベルギーのアントワープ市民から贈られたものです。

教会2代目の主任司祭であったべーテル神父はベルギーの人でしたが、甥っ子さんが震災視察のために来日した途中ここに寄り、救援基地としての働きに感動して、帰国後、六甲教会と神戸市民のためにと募金活動をして、マリア像のレプリカを贈ってくれました。アントワープの大聖堂のマリア像は14世紀に作られた有名なものです。

贈られた聖母像は約1メートルの大理石で作られ、イエスがマリアの頬をつついているユニークなもので、設置後しばらくは10円や50円のお賽銭も置かれていたそうです。今は、朝の散歩の途中に立ち寄って拝んでいく人もおり、すっかり神戸の街に馴染みました。銘板には「阪神淡路大震災の犠牲者をしのんで。アントワープの市民より」と書かれています。

第145回
愛媛県松山市石手
四国石手寺の震災被災石
遠く四国の地に被災石

夏目漱石の「坊ちゃん」でおなじみの道後温泉の近くに、石手寺という真言宗のお寺があります。というより四国八十八カ所巡りの五十一番札所という方が分かりやすいと思いますが、ここの境内に震災関連のお地蔵さんがあると聞いて、他の取材の途中に立ち寄りました。

広い境内には沢山の地蔵さんや灯籠が並び、本堂裏側にも奇妙な仏像が点在していて、どれがどれやらさっぱり分かりません。境内を掃除していたおじさんが「震災関連ならあそこにある」というので境内左奥へやっと見つけたのがこの石です。

表面には、少し読みにくいのですが、『阪神淡路震災被災石』と彫られています。

住職の加藤俊生さんが震災直後からの支援活動を通じて知り合った人たちから、全壊した住宅の礎石やお寺の石柱などを提供してもらい、それで地蔵を作ったと聞いていますので、おそらくその時の被災石の一部なんでしょう。

取材時間の関係で、お目当てのお地蔵さんには会えなかったのですが、遠く離れたところから沢山のボランティアに来てもらったことや心ならずも遠くに住むことになった被災者のことなどを思いながら石手寺をあとにしました。

第146回
JR六甲道駅南
六甲道南公園の桜
更地に伸びたサクラの若芽

JR六甲道駅の南に大きな公園があります。震災復興のシンボルとして去年の9月にオープンした六甲道南公園ですが、公園の東北隅い移植されて養生中の桜の木が1本あります。

実はこの桜は震災と大きなかかわりがあります。

この辺りは震災で家屋の95パーセントが全半壊し、郵便局も全壊しました。その更地に鳥が種を運んだのか風に乗ってやってきたのか、春になると桜の若芽が伸び始めましたが、更地に仮設の郵便局が建てられ、若芽の上にはATM機が設置されました。

芽はまっすぐに伸びられず、10センチほど横に出てきてL字型に上に伸びていきました。
これを「はなクラブ」の前田和子さんが見つけ世話を始め、5年後には花を咲かせるまでになりましたが、再開発事業のため郵便局が移転。桜の木も神戸起業に一時預けられます。

公園の完成に合わせてこちらに移されましたが、根元ががんに侵されたのかこぶになって枯れかかっています。

桜口という地名にちなんで、なんとかシンボルツリーにしたいと前田さんたちは、根元に肥料を入れたり、樹木医に手当てをしてもらっていますが、このままで行くと枯れる運命にあるそうです。

根元のカーブがわかるでしょうか。

同じ六甲道南公園には「鎮魂碑」もあります。

第147回
灘区大内通1丁目
都賀川公園の慰霊碑
震災前の人口に戻った

灘区民ホールの南側に昨年(2005年)7月、河原自治会の新しい慰霊碑が建立されました。
河原地区は都賀川をはさんで警察署や消防署、税務署、区民ホールなどがある灘区の中心地で、将軍通や神ノ木通、灘北通など36の丁がある大きな自治会です。

震災ではJRから南、特に国道から南の阪神電車沿線の被害が大きく、家屋の倒壊や火災のために100人余りの人が亡くなりました。

自治会長の大森末弘さんの話によりますと、直後は婦人会の炊き出しをはじめ、消防団や自治会の夜回りなど地域を挙げて復興に取り組み、今では震災前の人口に戻ったということです。

慰霊碑の建立については以前から話が出ていましたが、震災10年を期して、震災時に生活用水など大いに役立った都賀川のほとりに建てることになりました。

御影石の立派なものですが、趣旨に賛同した業者のサービスで100万円ほどでできたそうです。

碑には「安全で安心して暮らせる町づくりを目指してここに追悼の慰霊碑を建立する」と刻まれています。

都賀川公園には「復興の碑」もあります。

第148回
尼崎市築地2丁目
初嶋大神宮の狛犬
満身創痍で立ち続け

阪神尼崎駅から南へ15分ほどのところにある築地地域は、阪神・淡路大震災による不等沈下のため最大2メートルの凸凹ができ、地域全体を10年がかりで土盛りをして平成17年度末に土地区画整理事業が完了し全く新しい町並みになっています。

地域の氏神さんである初嶋大神宮も拝殿や鳥居が全壊しましたが、このほど氏子らの寄進で再建されました。

その初嶋大神宮の真新しい拝殿の北側にある本殿の前で、満身創痍の狛犬が神さんを守っています。地震のため左側の雄の狛犬は真っ二つに割れ、右側の雌の狛犬は顔の一部や足が欠けてしまいました。

どちらも宮司さんにコンクリートで貼り付ける応急処置をしてもらい、現役復帰を果たしました。

写真の彼女は、木製の入れ歯をしてもらい、右足は義足です。
作られたのが、寛延3年と言いますから、今から255年前、大岡越前守の時代に生まれた彼女にとっては大変な仕事でしょうに、今日もけなげに立ち続けています。

倒れた鳥居は、伊勢神宮から譲り受けたもので、その笠木が、境内の西側に保存されています。

第149回
阪急三宮駅北側
でこぼこ広場の復興モニュメント
商店街の活性化願って

阪急三宮駅北側のでこぼこ広場に、珍しい形のモニュメントが立っているのをご存じでしょうか。女性の下半身が何体もつながって天に伸びているというもので台座には「アモーレ」と刻まれています。
これは兵庫県商店街連合会が立てた「震災復興のモニュメント」で、作者は彫刻家の新谷e紀さんです。

阪神・淡路大震災では多くの商店が被災しましたが、県商店街連合会では、神戸空港の開港を控え、商業再生への思いを込めて、鎮魂と復興を表すモニュメントの制作を新谷さんに依頼しました。

実は、このモニュメント、開港にあわせてお披露目をしたかったのですが、1か月遅れの3月15日のデビューになりました。

「最初に作ったのが小さかったので予算オーバーを覚悟で大きいのに作り直したんです」とは新谷さんの話です。

高さは、台座を入れると4メートルありますが、真夜中に原型を現場に持っていき実際に置いてみて感触を確かめました。

「その時、ひっくり返って肋骨を折りましてね、ヤンキーのお姉ちゃんに『おっちゃん何をしてるの』と言われたりして(笑)」

エネルギーを蓄えて伸びていく、地面から立ち上がっていく姿を現しているそうで「種から芽が出て、伸びて、花が咲く。植物の中の生命力というか植物の持つエネルギーを人間という分かりやすい形で表現しました」と話していただきました。
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