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パラオ旅行記・2日目

今日は今回の旅行の主目的である、ペリリュー島の戦争遺跡見物の日である。

滞在しているホテルでは食事が付かない(というかレストランも併設していない)ので、近くで適当に食べてこなければならないのだが、朝からあまり食欲もないので、スーパーで売っているホットドッグを食べることにした。

パンにソーセージが挟んであるだけという極めてシンプルなものであるが、値段は95セントと格安。味は普通のホットドッグだったので(当たり前だが)、充分であろう。

身支度を整えて、昨日と同じようにツアー会社からの迎えの車で出発した。

今日は昨日の会社とは違うところを利用したのだが、その経緯について少々、紹介しておこう。

今年の夏休みでの旅行の行き先をパラオに決めたのは、今まで行ったことのない南洋の国で、景色が美しいというものも勿論あったのだが、歴史に興味を持っている人間として、先の戦争の跡が残っているということに大きな関心があったからである。

昨年の台湾旅行でも、かの地に日本人が暮らした痕跡が残っていて感銘を受けたものであるが、それとはまた別の形で存在している「歴史」というものを見てみたくなったのである。

ペリリュー島の戦争遺跡についてはその中でも特に興味を引かれ、この島がさほど大きくないこともあって、最初は個人的に渡って見て回るつもりであった。

ところが、調べてみるとコロールからペリリューへの船便の情報が不確実で、滞在期間中に上手く往復できない可能性があること、飛行機もあるが、これは利用者が少ないと運航しない可能性があるということで、最悪の場合、行くことが出来ないことにもなりかねない状況だった。

そんな中、昨日の滝ツアーのようにパラオ国内で催行されているツアーの中に「ペリリュー戦跡を見る」というものがあり、これについて問い合わせてみた。

ツアーにも最小催行人数というのがあって、当日までにその人数が揃わないと行われないということだが、どうしても参加したいものがある場合には、その最低人数分の代金を払えば「チャーター」という形で出してもらえるそうである。

今日の戦跡ツアーの代金は120ドル、最低3人なので、この場合は360ドルとなる。決して安い金額ではなかったが、パラオまで来て大きな目的が果たされないということになれば心残りになるであろうからと、この形での予約を取っておいた。

さて、今日のツアーだが、そんな厳しめな見込みに対して参加者が順調に集まったため、普通のツアーとして出発できることになった。よって代金も120ドルで済む。全部で7人になったということだから、直前の申込みというのも多いのかもしれない。

チャーターで単独ということであれば行動に少し融通が利かせられる(多少、マニアックな要求をしても大丈夫?)ともくろんでいたのでその辺は残念ではあったが、結果としては代金の話は別にしてもよかったのだと思う。

私以外の6人の参加者は、二人組×3である。新婚風のご夫婦、母娘連れ、若いお姉さん二人組である。これに日本人のガイド、パラオ人のボートの操縦士の9人を加えて、船で出発する。大型のモーターボートで、二機のエンジンで海面を颯爽と進んでいく。

ペリリュー島はコロールから50キロほど南に離れた島で、ダイビングや風光明媚な島々で有名なロックアイランドという地域の先にある。珊瑚礁が隆起して出来たこれらの島々は、同じく珊瑚礁で囲まれた内海のようになっているために波も穏やかである。

海上ボートも、船首の下に居室があるような立派なもので、そんな風景を堪能しながらペリリューへ向かっていく。

ペリリュー島へは1時間と少しくらいで到着。唯一の市街地は島の北部にあり、そこの港へと入る。島内はマイクロバスで移動することになっており、別のパラオ人が待機していた。

これから島の中の各種戦跡を見て回ることになるのだが、その時の説明をまとめてという意味で、ペリリューでの戦いについて簡単に紹介しておこうと思う。

日本とアメリカの戦いは緒戦は日本有利に推移していたが、ミッドウェイでの敗北、その後の米軍の物量作戦の本格化によって徐々に押されるようになってきた。

サイパン、グアム、テニアンといった拠点が陥落したことによって敗色は濃厚となり、対する米軍は最終目標へ向けての日本本土への北上が企図される。

この際、太平洋上を北上していくものとフィリピンを拠点に台湾、沖縄と飛び飛びに島を占領しながら本土を目指すものという二つの作戦があった。後者は、フィリピンに利権を持つマッカーサーの思惑もあったようであるが……。

ところで、既にグアムは有名な玉砕で果てていたが、日本軍はここパラオのペリリュー島に東洋一といわれる規模の軍事飛行場を建設していた。フィリピンを攻略しようとした場合、ここを日本軍のものにしておくことは米軍にとって大きな障害になると思われたのであろう。米軍は大兵力を持ってペリリュー攻略戦に取りかかった。昭和19年9月のことである。

既に日本は制海権、制空権ともに失われており、ペリリュー島を守るのは援軍も補給も期待できない約1万の兵力。一方、米軍は空母を始め、数知れぬ駆逐艦や上陸艦艇に乗った4万2千の兵力。

日本は山岳地帯を中心に島を要塞化し、グアムのような安直な玉砕戦を行わず、徹底した抗戦を行う、いわば「籠城策」を選んだ。

航空機や艦砲射撃でつゆ払いを行った米軍は、圧倒的な兵力差もあって、最初は「こんな島は3日で落ちる」と豪語していたそうだが、いざ蓋を開けると日本軍の抵抗はすさまじく、全島占領に至ったのは72日後だったという。

劣勢に立たされている日本にとっては、僅かな希望の灯火でもあったらしく、天皇陛下も「今日のペリリューはどうなっている?」と何度も声をお掛けになったそうである。それでも戦局は変わることは決してなかったのであるが……。

この島の地形を利用した防衛戦は、後の硫黄島でも採用され、勝者側の米軍の損害率4割という水準は、本国に対して戦争の継続の是非を問いかける場面ももたらしたらしい。

ペリリュー戦を指揮していたルパータス少将は途中で解任になり、一説によると戦後もペリリューの日本兵と聞くと震えたという。

ペリリューで生き残った日本兵は僅か(1万のうちの)34人だったという。一方アメリカも8千以上という大変な損害を出したそうで、後に「これほどの犠牲を払ってまで攻略すべき土地だったのか」と疑問視されたそうである。


さて、話を旅行記へ戻そう。

トーチカ港からバスに乗り込んだ我々一行は、まず集落の中心部へと向かう(トイレ休憩など)が、その途中で早くもストップした。ガイドの案内に従って窓の外に目を向けると、コンクリートで出来た箱形の構造物がある。横に細長い覗き窓のようなものがあるこの建築物は日本軍が使っていたトーチカであるという。早速の戦跡だ。

一方、道を挟んで逆側の海の方へ目を向けると、海中に何本か柱が立っているのが見える。こちらは桟橋の跡であるらしい。戦時は日本軍が駐留していた島であるが、当時も勿論、地元の人たちが住んでいたわけであり、その頃からこの付近は居住地であったのかもしれない。

中央分離帯(?)もある立派な道を進んでいく。

ほどなく、岩場に開いた穴が見えてきて再びバスが停止する。

洞窟陣地洞窟陣地の跡である。「洞窟陣地」という言い方が正確かどうかは分からないが、防御側の日本軍はこの珊瑚起源の岩場を利用して縦横に地下通路を張り巡らした。先にも書いたとおり、持久戦、ゲリラ戦を指向していたから、米軍の上陸を許した後はこのような複雑な陣を頼みにした神出鬼没の戦いを行った。空襲や艦砲射撃からの防御でもある。

中に入れるというので、懐中電灯を持ってガイドの後に従っていく。入って程なく、横への通路と交差する。このようにかなり複雑に縦横に通路が張り巡らされており、これらを通じて兵は襲撃を受けた場所に素早く駆けつけることが出来たそうである。

少し進むと、たくさんの空き瓶が落ちているのに気付く。籠もっている兵隊も飲み食いはするであろうから、その跡である。そういう意味では先ほどのトーチカや後に見ることになる戦車や野砲などよりも生々しい「戦跡」であるかもしれない。それだけでなく、これらの洞窟陣地からは今でも時々、戦死した兵隊の遺骨が発見されることがあるという。

頭と足元に気をつけながらバスへ戻る。

集落の中心部に着いてトイレ休憩をする。その移動の間にも、岩肌に先ほどの陣地の穴があるのが散見される。その他にも、コンクリートの陣地の跡がいくつか見受けられる。それは日本の城に設けられる矢狭間のような構造になっており、こうした防御陣は戦国時代の守城戦も参考にして作られたものなのかもしれない。かつて西南戦争の際、熊本城を攻めた西郷隆盛がその防御の堅さに辟易し「これは加藤清正公と戦っているようなものだ」と言ったというが、兵器の新旧を越えたところではこうした防御法は時代を超えて有効なのであろう。

みたま休憩の後にやってきたのは島民墓地である。十字架の並ぶ西洋式の墓地であるが、その隅に慰霊碑が建っている。戦後に作られた、日本兵の戦死者を祀るもので「みたま」と彫られている。ペリリューの守備に当たった主力は水戸の連隊だそうで、所属している戦死者たちの名前と鎮魂の言葉が彫られている。当時使っていたであろう兜や銃弾などが置かれ、地元の人たちによって花も供えられている。

余談になるが、現在のパラオの人たちはほとんどがキリスト教徒であるそうで、この墓地に十字架が並んでいるのもそのためである。素朴な造りではあるが小さな集落にもほぼ例外なく教会があり、この墓地の隣もそうであった。ただ、ここでは教会の隣に病院があったりして、合理的なのか過剰に迷信に捕らわれないのか微妙なところではある。

再びバスに乗り、内陸部へと進んでいく。原生林を切り開いた道は未舗装ではあるが、凸凹もなく走りやすい。そういう意味では首都のコロールより快適である。ユーモア混じりに運転手曰く「ペリリュー高速道路」だそうだ。

途中、小さな金属製の碑があるところで立ち止まり、ガイドの解説を聞く。ペリリューの戦いは、最後は玉砕になったため日本軍の生き残りはほとんどいなかったのだが、その僅かな生存者が最後に投降した場所であるという。原生林の奧に続く獣道ともいえないような小径が見えるが、その奧の洞窟陣地に隠れていたそうである。

彼ら投降したのは昭和22年であるというから、終戦後(終戦の報を聞かずに)まで戦っていたことになる。尤も、米軍によるペリリュー島攻略は72日で完了しているから、戦いというよりは生き残りと言った方がいいかもしれない。とうに自軍の補給などはないわけで、夜陰に乗じて米軍の陣地に忍び込み、食料や武器弾薬を失敬してきて生き延びてきたそうだ。そのあたりはしたたかで、聞くところによると投降したときに潜伏地には1年分以上の食料、米軍の機関銃までため込んでいたという。

この投降についても一筋縄ではいかなかったそうだ。地元の人は日本兵がまだ隠れていることを知っていたそうだし、先の通り食料を盗んでいたりしたため、米軍側も彼らの存在は知っていたわけであるが、終戦を迎えて正式に投降を呼びかけても、日本兵は「アメリカの罠に違いない」と相手にしなかった。日本陸軍の少将を連れてきて呼びかけてもそれは同じで、困った彼は一度日本へ戻り、故郷の家族に手紙を書かせ、それを渡した(日本兵の通る場所を知っていたので、そこに置いて彼らの手に渡るようにしたらしい)。肉親の筆によるその手紙を見て、兵たちはようやく本当に戦争が終わったのだと信じて出てきたのだという。

次に向かったのは、戦跡の中でも大きな意味を持つ場所である。

朽ち果てたコンクリートの建物は砲撃や爆撃を受けた跡があり、崩れたコンクリートの壁からは何本もの鉄骨が覗いている。無秩序に上や左右に伸びたままになっているその鉄骨は、まるでこの建物の断末魔の悲鳴のようにも見える。時間が止まったかのようである。

もともとは原生林の奥地にあったのであろうが、現在は切り開かれて周囲は芝生になっている。この敷地の入り口に「ペリリュー戦争博物館」とあったように、もともと日本軍の燃料庫であったこの建物が今はそのまま博物館となっているのである。多大なダメージを受けているとはいえ、70年近く前の建物が少なくとも中に入れる状態で残っていることは大変、感慨深い。何本もの鉄骨からも明らかであるが、軍事施設であるためとりわけ頑丈に作られていたからであろう。

銃中はその名の通り、ペリリュー島での戦いに関するものが展示されている。正面には地図と戦いの推移、両軍の指揮官の写真などがあり、壁を挟むようにして往復する形の順路には、戦いの時に使われた兵器を始めとして様々な遺物が置かれている。機関銃、ヘルメット、手榴弾などに始まり、水筒や瓶、缶、寄せ書き入りの日章旗、軍票、島の学校で使われていた教科書など実に多岐に渡る。これらは一般的な博物館にありがちなガラスケースの中に入っているのではなく、長テーブルの上に無造作に置かれているだけあってそれが圧倒的な存在感を感じさせる。触っても構わないという。展示は他にも、米兵の手記や偵察時の航空写真、日本の新聞記事、戦後書かれた戦記の本などに及ぶ。島に残された遺物の他に、米兵が「戦利品」として持ち帰ったものを後にこの博物館に寄贈したものなどもあるという。

メットこうした圧倒的な「戦争の跡」を見ると、日本の城跡やヨーロッパの古城などでは届くことの出来なかった「歴史」というものを生々しく感じることが出来る。戦争とは、生死とは何かということにどうしても心が及ばざるを得ないのである。他のツアーの参加者の人たちも、これらの遺物に驚きを隠せないようである。

博物館を見学した後は、このツアーのメインイベントというべき日本軍司令部跡へと向かう。博物館を臨時で開けてくれた係員(今日は日曜日なので本来は休みなのだそうだ。一応、公営の博物館であるので、管理人さんは「公務員」ということになるそうだ)にお礼を言う。昨日の滝ツアーの話の中で「パラオ語に組み込まれた日本語がある」ということを紹介したが、パラオの人の名前にも日本語由来のものが使われていることがあるという。生粋のパラオ人であるにもかかわらず、世話になった日本人からもらった名前ということらしく「ハルオ」「マユミ」という名のパラオ人がいるそうだ。変わったところでは「タニグチサン」(「さん」を含めて名前になっている)や、人名ではない日本語を名前にしてしてしまった例などもあるそうで、この博物館の管理人さんはなんと「マナイタ(まな板)」さんだという。

三菱零式艦上戦闘機司令部への移動途中、再びバスが一旦停止する。止まった場所から原生林に少し入ると、そこには何かの残骸が放置されていた。風防らしきものが見受けられるので戦闘機かと思っていたが、その通り零戦であるという。墜落した機体であるらしく、後部が半ば失われているが、ひしゃげた翼や車輪の跡などが確認できる。若干、不謹慎な表現になるが、この飛行機の残骸は隙間から生えて成長している野草と一体化して一つの「風景」になっているようにも感じられた。


司令部跡そして、日本軍司令部跡へ到着する。ここも元々は立派な建物だったのだが、激しい米軍の攻撃と時間の経過によって廃墟と化し、原生林と一体化してしまっているような雰囲気である。正面(実はそうではないのだが)から見ると壁面の多くは失われてしまっているが、柱を中心とした基礎構造物は今でもしっかりと残っており、奧に進めば鉄扉や階段も然りである。

ruin of WWUこの司令部に限らず、パラオの戦跡は「残している」のではなく「残っている」というのが実状であり、撤去されないのと同様、管理もされていないため、至る所に落書きが残っている。個人的にはこれらの落書きは興を削ぐと思うのだが、同時にそれが「廃墟らしさ」を演出していることも否定できない。崩れる心配もなさそうで(ちなみに、パラオでは地震や台風といた災害が発生することは稀である)、建物の中に入ることが出来る。一部を除いて壁だけなく天井も失われているので、逆説的ではあるが吹き抜けのような開放感がある。ただ、天井が失われたのは時の経過によるものではなく、米軍の空襲で爆弾の直撃を受けたためであるそうだ。こちらで残っているのは建物の構造物ばかりであり、銃や兜などの装備品はほとんど見られなかった。代わりと言っては何であるが、廃墟として朽ちつつあるなかでも、一つの「建物」として機能したことを示す痕跡がある。隣接の通信所に通じる鉄扉は今でも存在感充分であるし、階段を上って二階へ上がることも出来る。原生林の木々の間から差す無秩序な木漏れ日が南国の廃墟を更にそれらしく演出している。奥をよく観察すると、兵舎の跡もある。しかしながら、これは司令部を占拠した米軍が拠点として用いた時に作ったものらしい。

一階の奧に行けば、トイレや浴室といったもう少し生々しい生活痕というものも見ることが出来る。廃墟はよい写真の被写体でもあるので、重点的にシャッターを押してみる。ファインダーの中にどのようにこの「雰囲気」を切り取るかがまた難しいのであるが、その評価は読んでいる方のそれに委ねることにしたいと思う。

次の戦跡へ移動する。

戦車次に出てきたのは、日本軍の戦車である。先に「パラオの戦跡には手を加えていない」とあるが、このように道の近くにある場合は周りが整備されているから全く手つかずというのでもないのかもしれない。いや、逆に考えると、戦車が残っている場所は当然、戦車が活動していた場所であり、戦中から戦車の通るような道路が存在していて今でも(道路として使われているから)周囲が整備されているように見えるだけなのかもしれない。

ともあれ、この日本軍戦車は小型である。大きさだけならば現代の少し大きめの自家用車やマイクロバスとさほど変わるところがない。日本は海洋国であって大陸国家ではなかったため、戦車の開発に重点が置かれなかったという事情もあるようだが(これには諸説あるみたいだが、筆者は戦車の専門家ではないため、突っ込みはどうかご容赦を)、これから見ることになる米軍戦車と比べると貧弱さは否めない。既に戦局は苦しくなっており、確固たる戦車隊を配備できなかったという事情もあるだろうが。

記念写真砲塔は失われてしまっているが、駆動部(キャタピラまわり)はしっかり残っており、裂けた装甲の間からエンジンらしき部品を見ることも出来る。一方、そうした隙間からは生命力あふれた野草が伸びており、時の経過を感じさせる。ユーモア好きなバスの運転手のいう「植木鉢」という表現もあながち外れてはいないかもしれない。

このツアーに母娘連れが参加していることは最初に触れたが、このお母さんが道中、すっかり人気者になってしまい、そのお母さんの提案で、戦車をバックに全員で記念写真を撮ったりした。

次に向かうのはオレンジビーチである。

内陸部を少し回り道する形で向かうのだが、原生林の中に伸びる素朴な道を進んでいくとほどなく、ぱっとひらけた場所に出る。現在も使われているペリリューの空港である。時々、コロールからセスナ機のような小型機の便がやってくる程度の小さな飛行場なのだが、これも日本統治時代のものがそのまま(若干、手は加えられているのだろうが)使われているものである。土がむき出しの滑走路は、それでも割と滑らかである。戦時中は東洋一の規模といわれたこの日本軍の飛行場は、どの風向きにも対応できるように十字に日本の滑走路が設けられていた。現在残っているのは南北方向の滑走路のみであり、東西のものは半ば原生林に帰り、残った半ばは道路に転用されている。我々がここへ来るのに通ってきた道がそうであるという。

この頃になると米軍は既にサイパン等を抑えていたのであるから、日本にとって大きな価値を持っていたペリリューの飛行場も、アメリカ側にとってはさほど重要ではなかったのかもしれない。

さて、オレンジビーチに話を移そう。

生々しい話ではあるが、この「オレンジビーチ」というのは、上陸を試みた米兵がこの海岸で待ち構えた日本兵の反撃により苦戦を強いられ、米兵の血で青い海がオレンジ色に染まったというのが由来であるという。

オレンジビーチもともと隆起珊瑚礁から成るパラオの島々は、イメージに相違して海岸は岩がちであり、上陸に適した地形である砂浜というのは少ないのである。そのため、米軍も待ちかまえているのを承知で唯一の上陸適地であるここに兵を進めざるを得なかった。物量で圧倒していた米軍は、上陸前に艦載機による爆撃や艦船からの艦砲射撃で「露払い」を行っていたので、多少の抵抗は残っていたとしてもさほど困難なく上陸できるだろうと楽観視していた節もある。

しかし、実際は密林や岩場を利用して巧みに兵器を隠し、兵は洞窟陣地の奧に籠もったことによって被害は軽微で済んだらしく、上陸時期も適切に読まれていた(潮の満ち引きから「適時」が概ね推測できたそうである)ことから、満を持した日本軍に迎え撃たれ、第一陣は一度撤退せざるを得なかったそうである。

海の向こうにはこれまた激戦が行われたアンガウル島が見えるが、現在のオレンジビーチはそんな出来事とは無縁にしか思えない静かな砂浜である。海岸の脇にはアメリカの慰霊施設があり、「USA」とかたどった花壇もある。あまり人の手が入っていないのか、文字が崩れ掛けているのが……。


ここまで来て、時刻は昼過ぎになっていた。バスで島の最南端まで移動し、公園で昼食を含めた休憩となる。

両側に海を見ながらゆっくりと南下すると、ほどなく開けた公園へ到着する。コンクリート造りの小さな建物がいくつかあるが、ベンチの一種であるらしい。

すぐ側に、磯のようになった海岸を見ることが出来る。この辺りは少し波があるようで、侵食されて穴の開いた岩場にそうした波が押し寄せると、時々噴水のように吹き上がる。

近くの海には船が見えていたが、ここも「ペリリュー・コーナー」なるダイビング・スポットであるらしい。ただし、見るからに難易度は高そうだ。実際、ガイドによると時々、ダイバーの死亡事故なども起きているらしい。

ガイドから弁当と飲み物を受け取って、昼食となる。パラオの日本人観光客の間では割と名の知れた「どらごん亭」という店の作った弁当であるようだ。おかずは鶏の唐揚げとハンバーグがメインの、幕の内風である。

私は食べるのが早いほうなので、さっと終えて付近を散歩する。公園の一角に何かの残骸らしい鉄の塊が錆びたまま放置されているがこれが何かは残念ながら分からなかった。

公園の中心には慰霊碑があった。説明が遅れたが、ここは「平和記念公園」といい、日米両軍の戦死者の霊を慰め、今後の平和を祈るという趣旨で作られたそうである。「さきの大戦において西太平洋の諸島および海域で戦没した人々をしのび、平和への思いをこめてこの碑を建立する」と日本語と英語の両方で書かれた慰霊の碑があり、碑の上に置かれている人の目のようなオブジェは、この地で戦死した人の目をイメージしたもので、故郷である日本の方角に向けられている。

余談になるが、外地での戦死者の遺骨や遺品を勝手に持ち帰ることは(該当国からも日本からも)禁じられているのだが、許可を求めるときの国内の担当は厚生省(厚生労働省)になるのだそうだ。この公園の建設にも関わっているそうだ。

腹具合も落ち着いた後、午後の部へと出発する。途中、サウス・ドッグという小さな港でトイレ休憩を行う(公園のトイレは具合が悪いらしい)。こちらでは釣りを楽しむ人たちが休憩していた。日本人も何人かいたので話しかけてみると、なんとパラオのガイドブックで紹介されている人で、それと気付いた(我がツアーの)お姉さん二人組が驚き喜んでいた。

この港も、よく観察すると古めかしい構造物がいくつか残っているのだが、こちらは日本の戦跡ではなく、制圧語に米軍が(作って)使っていた港なのだそうである。

ペリリュー島は人の住む集落や港などの一部を除けば全土がジャングルに覆われており、それを切り開くように幅3メートルぐらいの未舗装道路が走っている。そしてその両脇、やはり約3メートルほどが草の生えた下生えになっており、その奧は完全なジャングルである。

道路が交差する場所はもう少し広めに切り開かれており、そんな交差点の一ヶ所に、次の目的地である米軍水陸両用戦車があった。

米兵どのような経緯でこの場所に放置されたのかは分からないが、先ほど見た日本軍のものと比べて一回り大きい、存在感のある戦車である。「水陸両用」であるため、足回り(キャタピラ付近)にも覆いが施されていて、一般的な「戦車」のシルエットとは少々異なっている。水陸両用を重視したためか、武装もどちらかといえば簡素なものである。砲塔は失われ、先の日本軍戦車と同じようにさび付いてしまっているが、背後に回るとはっきりと星マークが残っている。日米両軍とも、ドイツやソ連が使っていたような、本格的な戦車と比べると少々物足りなさを感じなくもないが、洋上の孤島という運用環境を考えるとそういうものなのであろう。

その奧の道はなだらかな登りになっていた。脇に鉄条網が見えるのだが、ここは米軍による占領後、捕虜収容施設になっていたという。中には既に遺構はなく、鬱蒼と茂った草木が見えるのみである。

その上り坂が途中から石段となり、突き当たりに日本軍の使っていた砲台が見えてきた。この戦いで日本軍は地形を上手く利用して防御に専念したことは既に述べたが、それを具体的に示しているのがこの砲台といえるだろう。自然のものを利用したのか、それとも岩場をくり抜いて作ったのかは分からないが、上空を含めて外部からは分かりにくい場所に隠蔽された砲台は、足場もしっかりとしていた。奧には更に窪みがあり、おそらく砲弾等はここに貯蔵されていたのだろう。

野砲島で最初に見たような洞窟陣地も近くに作られており、兵士たちの使っていたであろうと思われる兜や銃弾、瓶などもあちこちに残されたままになっていた。

この砲は、米軍の上陸侵攻ルートを想定して南向きに据えられているが、戦いの終盤では既に全島に米兵は上陸しており、この砲のある地点は逆(北)側から攻略されたそうである。そのためにこの砲が破壊されずに残ったといわれているが、そうだとすればある意味、皮肉なものである。

さて、いよいよ戦跡探索も最後に近づく。

ぺりりゅー神社やってきたのは島の中程にあるちょっとした広場である。盛り土のようになった空間に、鳥居や狛犬が見える。石の白さもまだ新しいこの場所が、再建されたペリリュー神社である。二礼二拝一礼の参拝を済ませた後、右側に目を向けると、「君が代」の歌詞にもある「さざれ石」が大切に祀られている。小さな石が寄り集まって出来上がったというさざれ石は、岐阜県で産したものをここまで持ってきたそうである。

その傍らには、米軍の司令官であったミニッツ提督の言葉が碑になっている。曰く「諸国から訪れる旅人たちよ、この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心を持って戦い、そして玉砕したかを伝えられよ」と。

左の方に目を向けると、木で出来た小振りの鳥居と、その奥に小さな祠があった。木の鳥居はかなり古めかしく、他が再建されたものである中で、鳥居は日本統治時代から残っているものであるそうだ。この場所は当時から神社であったそうだが、再建前の神社の遺構(残っているもの)は鳥居以外は別の場所へ移設されたそうである。

神社の左手から、山道へ入っていく。この奧には司令官だった中川大佐が最後に自決したという場所(洞窟)が残っている。小径の奧にぽっかりと口を開いた洞窟陣地があり、その傍らに簡単な説明の書かれた石碑が残っている。二ヶ月以上米軍を釘付けにして抵抗してきた日本軍だったが、最後はやはり衆寡敵せず、このような結末になった。重要書類を焼き捨てた大佐は、コロールに「サクラサクラ」と電報を打ってそれを報告して自決する。残った兵のうち、負傷して戦えない者は大佐に殉じ、そうでないものは武器を手に最後の突撃を敢行したという。「バンザイクリフ」に象徴されるようなサイパンでの玉砕とはまた違った形の玉砕がここにあった。おそらくは「華々しく散る」という意味も籠められているであろうこの電報は、果たしてどんな気持ちで打たれたのであろうか……。

大山からの眺望このように、先に見た司令部が失われた後は、ここが日本軍の最後の拠点だった。「自決の地」から更に山道を登っていくと、島を一望できる展望台がある。

「大山」と呼ばれたこの場所は、その意味でも、日本軍の最後の拠り所だったのである。今では、島を一望できる展望台となっているが、このような場所にも占領を記念した米軍の記念塔がある。


これでペリリュー島の戦跡訪問は終了である。

港近くの集落に戻ってしばらく休憩する。今回のペリリュー島戦跡訪問は、当初の予定に反してツアーでの参加ということになった。ツアーであるとどうしても「お仕着せ」の感が否めないところではあるが、今回はそれを抜きにしても有意義な訪問であったといえるだろう。ガイドブックや戦記などの事前調査では把握しきれないようなガイドを聞くことが出来たし、全島に散らばる戦跡の主要な部分を見落とさず見ることが出来たのはツアーだったからである。反面、他の人があまり見たことのないような物件には当たらなかったが、それはまあ仕方のないことであろう。ガイドによれば、今回のツアーで見たものは「大きなところは概ね、抑えた」というレベルのもので、全て(完全には絶対に不可能であろうが)の戦跡を見るには一日では足らないということである。

港からボートでコロールまで戻ることになる。

帰りはロックアイランドの美しい島の間を通りながらということになった。

景勝絵はがきに出てくるような場所を、軽快に進んでいく。バスの運転手もコロールに用事があるとかで同乗し、新婚さん二人組の旦那さんと一緒に三人で英語で雑談を楽しむ。

「ナチュラル・アーチ」という、名前そのままの景勝などを見た後、PPR(パラオ・パシフィック・リゾート)の桟橋に立ち寄り、こちらに泊まっているお姉さん二人組を下ろした後、コロール島へ帰還する。

行きと同じように車でホテルまで送ってもらい、今日のツアーは終了する。


今日の第二部は、アラカペサン島である。最終目的地は、先ほど船で立ち寄ったPPRで、ここから見る夕陽が美しいということなので、泊まりもしないリゾートホテルであるが出発する。

その前に、済ませておかねばならないことがあった。今回の拠点にしているウエストプラザホテルであるが、ここは今晩までの二泊しか予約していない。日本で手配すると手数料が掛かって割高であることや、気が向いたら別のホテルへ移動することを考えてそのままパラオにやってきたのであるが、ここの居心地と地の利が気に入ったため、残り二泊を追加することにした。その旨、フロントのお姉さんに話してみると、快く受け付けてくれた。日本では一泊1万円であったが、追加分は70ドルと少々割安である。

ちなみに、部屋は寝室の他にリビングもある広々としたところで、一人で泊まるには勿体ないくらいである。

ともあれ、後顧の憂いを絶って夕方の散歩に出発する。

メイン通りを昨日と同じように西へ歩く。ほどなく、大きな交差点が見えてくる。このまま直進すれば昨日のミナトバシ→マラカル島のルート、今日はここから右へ曲がりアラカペサン島へ向かう。信号機もあるのだが、何故か使われていない。

すぐに海岸を突っ切る道路が見えてくる。こちら側コロール島とアラカペサン島とは、橋ではなく堤防のようになった道路で結ばれている。現在工事中で、拡幅と防壁の設置が行われているようだ。長さおよそ400メートルほどのこの道は、海面すれすれのところをガードレール無しのスリルたっぷりに作られていたのだが、さすがに安全性に問題があると判断されたようだ。

橋を渡り終えてアラカペサン島に入ると、道は緩やかに登りながら左手へ曲がっていく。立派な病院の建物が見えてくる。その奥には大統領府やパスポートセンターといった行政施設が見えてくる。だが、今日は日曜日であるためか閑散としている。

そのまま進んでいくとメイン通りに戻り、少し進んだ集落の門から右手の海の方へ降りていく。途中すれ違う人たちや子供たちが「アリー」と気軽に声を掛けてくれる。パラオ語で「こんにちは」という意味だ。そんな素朴さを嬉しく思いながら、海辺の公園に到着した。

ひこうじょう広い公園の奧は幅の広いコンクリート造りの桟橋のようになっているが、これも日本統治時代の遺構である。平地の少ないパラオでは貴重な場所らしく、戦後、そのまま公園になったようだ。元々は日本軍の飛行機の発着するランプがあったのだ。飛行艇などが出入りしていたことを示すように、桟橋の先端は緩やかな斜面となって海に入っている。ちなみに、この場所は「ミューン・スコウジョウ」と呼ばれているが、「スコウジョウ」は「飛行場」の訛った言葉であるという。

メイン通りに戻り、PPRへ向かって歩いていく。地図で見ると2キロちょっとの距離だが、山を越えて曲がりくねった道であるため、意外に難儀である。だが急がないと日が暮れてしまう……。

途中、高台からマラカル島やミナトバシが一望できた。それに励まされるようにして進んでいくと、ようやく目的地のPPRに到着した。普通は徒歩で来るところではないため、道は少々、分かりにくかった。ホテルの入り口の近くに、地元の人が談笑している廃墟があったのだが、これも日本の戦跡なのだろうか。

PPRはパラオ随一のリゾートホテルで、アラカペサン島の西に広い敷地を持っている。レストランや免税ショップなどに始まり、椰子の木立に囲まれたコテージが点在する側には、テニスコートやプールがある。プライベートビーチも持っており、おそらく一番気軽に楽しめるシュノーケリングポイントがある。

夕陽先ほど、ペリリューからの帰りに寄った桟橋が見えてきた。ちょうど日の沈む時間で、海の向こうに沈んでいる夕陽が美しい。雲が少し覆いのが残念であるが、それは仕方のないことだろう。


さりげなく戦跡PPRの敷地を奧に進んでいくと、ボートが何艘も留めてある桟橋があった。夕暮れ時で人の姿もなく、寂寥感の漂う場所だが、それもまたよい雰囲気を醸し出している。奧の岬に向かう道が開けて、ちょっとした広場になっているのだが、ここが今回の目的地である日本軍ランプ跡である。スコウジョウで見たのと同じような独特の傾斜があり、それはところどころ朽ちかけている。角度を変えてこの場所を見ると、ちょうど夕陽を背景にした雰囲気ある構図も取れる。

敷地の片隅を見ると、英語で書かれた小さな案内板があった。それは確かにここが旧日本軍のランプの跡だったことを示していた。

夜の帳も見えてきたので、満足してこの場所を後にする。

ホテルからはおよそ5キロ、時間のことも考えると歩いて帰るのは少々きつい。

幸い、PPRからダウンタウンを結ぶシャトルバスが走っているので、これで戻ることにした。

ロビーでバスを待っていると、なんと昼間のツアーで一緒だったお姉さん二人組に出会った。PPRはコロール全体から見れば外れの方にあり、ホテルの中のレストランを利用しないとなると町に出るしかないから、考えられないという偶然でもなかった。

5ドルを払ってバスに乗ると、歩いてきた道をくねくね曲がりながら進んでいく。富士レストランや美都寿司という和食の店があるあたりでお姉さんは降りていったが、私はお昼の弁当でもお世話になった「どらごん亭」を目指すことにする。「どらごん亭」は町の東端にあるので、そのまま乗車。他のバスの乗客は次のWCTCスーパー前で皆、降りてしまった。次のバレイシアホテルにバスが立ち寄るがここで二度目の偶然が。ホテルでバスを待っていた二人組は、なんと昼のツアーで一緒だった新婚さんだったのである。

ここから先で行くところはもう「どらごん亭」しかないので、目的地は一緒。折角だからと食事を共にすることにした。

バスを降りてお店へ。ここはパラオに移住した日本人が経営している居酒屋で、雰囲気も日本のそれに似ている。食事は日本食に留まらず、パラオの食材をアレンジしたものもあり、期せずして3人となった我々は珍しさも手伝っていろいろと注文してしまう。マングローブ蟹などがそうだが、豚の角煮なども美味しい。

そしてここで再三の偶然が。店に入って右の席を見ると、やはりツアーで一緒だった母娘さんが。これでなんと、今日のツアーの人全員に再開したことになる。

今日が最終日であるという新婚さんとビールで乾杯する。暑さと疲れも手伝って気持ちよくジョッキを飲み干したところで、もう1杯ずつのビールがやってきた。「追加は注文していないよ」と店員に言うと、「これはあちらからのおごりだ」と言って母娘さんのテーブルを指差した。粋な心遣いに感謝である。お礼を言ったあと、新婚のお二人とすっかりうち解けていろいろな話で盛り上がる。私も旅好きだが、旦那さんもなかなかのもので、ロシアや果てには北朝鮮まで行ったことがあるといい、ある意味で貴重な話を聞かせてもらった。

こうして思わぬ幸運にも恵まれて満腹した後、シャトルバスでホテルへ戻る。お二人とは途中のバレイシアホテルでお別れし、自室に戻った私は友人や母親(父親はまだベトナム赴任中なのだ)に絵はがきを書いた。

シャワーで汗を流し、今日の行程のメモを取った後、日本では考えにくい健全な時間に就寝した。

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