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パラオ旅行記・1日目

初めて訪れる土地というものには、期待ばかりでなく多少の不安も伴うものである。旅慣れた身であったとしてもそれは同様であろう。

到着したのが夜であったことも少なからず影響を与えていたかもしれない。

パラオの国際空港に降り立ち、ホテルからの迎えの車で首都のコロールへ向かう。基本的に公共交通機関などはなく、タクシーもいるかいないかというこの場所では、送迎を依頼することが必須だと聞かされていたが、確かにその通りである。

今回の私の拠点となるウエストプラザホテルは、コロール市街に数ヶ所の建物を持つチェーンで、他のホテルに泊まる人数人と同乗している。

小高い丘の上から曲がりくねった道を降りていくが、路面は舗装されているとはいえ上質ではない。ガタガタと揺れる道から見える景色はどこか寂しげだった。

それでも、二十分ほどでコロールに到着。ホテルのチェックイン手続きを済ませる。既に夜八時を回っており、今日は特にすることもないだろう。小腹が空いていたので、ホテルの建物の一階にあるスーパーで簡単な弁当を買う。豚肉や野菜の煮付けがご飯の上に乗っている素朴なもので、値段は僅か1.5ドル(今回の旅では、1ドル=110円くらいで換算してください)。ご飯が思いのほか美味しかったのが印象に残った。このことについては後に詳しく話す機会もあるかもしれない。

さて、ここで簡単に説明をしておくことにしよう。

パラオという国は南太平洋に並ぶ島々のうち、西側に位置している。もう少しわかりやすく説明すると、日本の標準時が定められている兵庫の明石のほぼ真南である。そのため、日本との時差はない。

勿論、有史以前より人が住んでおり、独特の文化を持っていたのであるが、いわゆる「世界史」に登場してくるのは、おそらく大航海時代にスペインによって「発見」されてからのことになると思われる。

19世紀の米西戦争に敗北したスペインは、パラオをドイツに「売却」し、第一次世界大戦の時に日本が占領する。それ以降、日本の委任統治領となるが、第二次大戦で敗れたため、それ以降はアメリカの支配下となる。日本統治時代より太平洋上の戦略的要衝であったが、1994年に独立を果たし、国連の185番目の加盟国となった新しい国でもある。

人口は2万人ほどで300以上の島から成り立っているがそのほとんどは無人島であり、人は首都のあるコロール島を中心にいくつかの有人島にのみ住んでいる。

言葉はパラオ語と英語であるが、上記のような歴史的背景もあって日本語が通用するシーンも多い。独自の通貨は持っておらず、米ドルがそのまま流通している。

パラオには公共交通機関というものがほとんど存在していない。人の住む島の間を結ぶ定期船や航空便もあるが便数も限られたものであり、コロールにタクシーやバスが一部あるのみである。そのため、移動手段はほとんどの場合、車ということになる。実際、コロールのメイン通りは多くの車が行き交っている。

そのようなわけで、個人でパラオを訪れたとしても、点在する観光地等を個人的に訪問することはかなり困難である。

その代わりといっては何であるが、現地では日帰りをメインとしたツアーが多く企画されており、それに乗ってあちこちと動き回ることになった。

日本からの観光客も多く、上記の通り日本語の通じる場所も多い。


そんな中、パラオ第一日目の今日はバベルダオブ島にあるガラスマオの滝へのツアーに参加した。

繰り返しになるが、交通機関がないので、ツアーの出発地である催行会社の事務所への移動もホテルからの送迎が頼りとなる。基本的にどのツアーの料金にも「ホテルへの送迎」が含まれている。コロールの町はそれほど広くはないので歩いていくことも不可能ではないのだが……。

今日の旅は、インパックという会社の主催するもので、予め日本で申込み(ネットを通じて日本の事務所にアクセスできる)をしていたものである。スタッフも日本人や日本語を話せるパラオ人が多く、言葉の問題はほとんど気にならない。この手のツアーを利用している限り、パラオでは言葉で困ることはほとんどないだろう。私の拠点であるウエストプラザホテルは英語オンリーであったが、もう少しいい値段のリゾートホテルでは日本語がほとんど通用するようである。

ツアー出発話を戻して、滝のツアーの方へ。

日系の旅行会社であるためか、今日の参加者も全員が日本人であった。全部で6名。カップル1組と、女性二人組、そして初老の男性と私という単独者2名である。

バベルダオブ島は、首都のあるコロール島に隣接したパラオで最大の島であり、昨日降り立った空港もこの島の南部に位置している。滝は島の北部にあり、道路事情のよくないこともあり、ツアーでは近くの港までボートで行くと説明されていた。しかし、この道路事情が少し改善されたらしく、現在のツアーは滝の近くまで車で移動ということになっている。

運転手、ガイドと共にライトバンに乗って出発する。

途中までは昨日の空港からと同じ道を進む。市街地を出て緩やかな坂道をカーブしながら上り下りすると、コロール島とバベルダオブ島を結ぶ立派な橋に到着する。その橋の下がちょっとした広場になっており、そこで一旦休憩する。

この橋は「NEW KB-Bridge」というのだが「日本パラオ友好の橋」とも呼ばれている。その名の通り、日本の協力で作られたものであるのだが、ここには興味深いエピソードが一つ存在している。

「NEW」というからには、「旧」に当たる橋があったのではないかと予想されるのであるが、その通り、最初は普通の「KB-Bridge」がこの場所に存在していた。こちらは韓国企業によって作られたものであった。

ところが、あの国のお国柄というべきか、安値で落札したのはよいがこの橋がとんでもない欠陥建築であり、最初はパラオの人たちに近代的な橋として歓迎されていたのだが、徐々にその危険性が認識されるようになったそうだ。末期には、この橋を渡る時は「いつ橋が崩れてもいいように、窓は開けて走るのが当たり前」になっていたそうである。

そしてついに橋が崩落、大統領による非常事態宣言が出させるに至った。

友好の橋その後、今度は日本の全面協力によって新しい橋が架けられたのであるが、それがこの「NEW KB-Bridge」である。車は窓を開けずに走っていることは言うまでもない。

橋の脇はちょっとしたビーチになっており、子供たちが元気に水遊びをしていた。パラオの海岸は基本的に岩がちであり、実は海水浴の出来る砂浜は貴重な存在であったりもする。

 

橋を見た後、車はいよいよバベルダオブ島へ入り、北へ進んでいく。

現在、バベルダオブ島を一周する道路が建設されており、来年秋の完成を目指して盛んに工事が行われている。ひとまず、ジャングルを切り開いて用地を確保するところまでは出来上がっているようで、舗装はまだ一部しか完成していないが、こうして走ることは出来るようになっている。

この工事、またもや韓国企業(大宇だそうな)が担当しており、一抹の不安を感じないかというと嘘になる。

滝への入り口まで行く途中、半ばほどのところで一ヶ所、休憩がてら立ち寄ったところがあった。

舗装工事中の道路から少しだけ外れた丘の上に、立派な慰霊碑の建った広場がある。更に開発が進めば小綺麗な公園になるのかもしれないが、今は砂地が広がるばかりの殺風景な場所である。

この慰霊碑は、戦時中に島に住んでいて戦災に遭った日本人を慰めるためのものであるという。

慰霊碑ガイドの説明によると、戦時中のパラオでは現在の首都のあるコロール島が軍港になっており、民間人(主に入植者らしい)がこちらのバベルダオブ島に住んでいたという。現在でもほぼ全体がジャングルに覆われたこの島であるが、それを開墾してサトウキビ栽培(製糖)などを産業として興してきたそうである。それらの人たちの生活の場はこちらの島で、現在はローカルな風景の広がる島も、かつてはパラオ人以上の数である二万人近い日本人が住んでいたという。

当然、パラオの人たちとの交流があり、現在のパラオ語には日本語がそのまま定着した語彙もあるそうである。センキョ(選挙)、デントウ(電灯)など、従来のパラオの生活にはなかったものにそれは顕著であり、中には日本では死語になってしまったチチバンド(ブラジャー)というのもあるらしい。また、意味が転じて微妙に変化したものもあって興味深い。ダイジョーブ(大丈夫)という日本語はそのままパラオ語にもなっているが、食べ物が美味しい時は「アジダイジョーブ(味、大丈夫)」というそうな。もう一つ面白い例を聞いたので紹介しておく。

既に書いたように、現在のパラオの首都はコロール島であり、多くの人もこちらに住んでいる。一方、戦時中はコロールは軍事基地であり、民間人はこちらのバベルダオブ島に住んでいた。面積もバベルダオブ島の方が圧倒的に広く、多くの人たちにとってはここが「本島」であった。このホントーという言葉は現在もパラオ語として残っているのだそうだが、今の人が「ホントー」と行った場合、それは「田舎」という意味を含むそうである。

そんな話を聞きつつ休憩を終えた我々は再び出発する。

ごく一部のみ舗装が完成しているが基本的にはまだ未舗装のままなので、よく揺れる。単なるダート道などという甘いものではなく、諸処に穴があいているようなものなので、車も速度を上げたり落としたりと忙しい。対面通行になっているところも多く、交通整理をしている係員もいるが、砂埃がすごいため顔全体を布で覆って仕事をしている。日本語も出来る運転手が冗談交じりに「あれ、テロリストね」と言っていたが、見かけはまったくその通りである。案に相違してというと少々失礼かもしれないが、パラオ人はこういう土木工事現場で働くことを好まないらしく、こうした仕事に従事しているのは他国からの出稼ぎの人であるそうだ。主にフィリピン、バングラディシュなどからやってくるそうである。

そして滝の入り口へ到着。

車で移動できるのはここまでで、あとは徒歩での進軍となる。

靴を履き替え、必要な品だけを持って、ここからは山歩きとなる。駐車場を兼ねた入り口の広場では、地元の管理人さんが入場料(観光税)を徴集している。

ここから滝までは歩いて約40分とのことで、まずは原生林の中へ続く小径を降りていく。一応、観光ルートとして開発されているので、普通のハイキングコースのように歩くことが出来る。

直射日光の元ではとにかく暑いパラオであるが、日陰では意外に過ごしやすい。ぬかるんでいるので足元には気を付けなければならないが、さほど困難もなく進むことが出来る。

最初の坂道を降りきると、微妙に広くなった場所に出た。よく見るとレールのようなものが伸びている。「これはなんだろうか?」と疑問に思ったところで、タイミング良くガイドの説明があった。

廃線跡結論から言うと、それはまさにレールであった。枕木などはなく、単純にレールが二本、奧に伸びているのである。しかも複線である。これは、かつて日本軍が山中の鉱物資源を採取し、港まで運び出すために建設したトロッコの廃線跡であるという。パラオには鉄道はないから廃線跡というものも当然、期待していなかったのであるがこうした形で遭遇したのには驚きである。この廃線跡は滝へのルートの一部にもなっている。

線路跡を百メートルほど進んだところで、再びこちらからは分かれて小高い丘の上へと向かう。

丘の頂上からは原生林を一望することが出来るが、その中に目指す滝の姿もあった。また、このあたりは赤茶色の土に覆われているが、その中にいくつも小石のようなものが転がっている。これが先の日本軍が採取していたボーキサイトの鉱石だそうである。これを本国(日本)に運び、精製してアルミを作る、それが戦闘機などの材料になるというわけである。

更に未開のジャングルを進む〜日差しの強い中を降りていき、再び原生林の中へ入る。途中、川を歩いて渡ったりしながら進み、ついに滝へ到着する。落差、幅共にかなりの規模を持つ滝で、水の音も涼しげである。今回のツアーの目的地はここであるが、その存在感はやはり圧倒的である。別のツアーの一行もほぼ同時に到着し、山中のこの楽園に20人ほどの人たちが遊ぶこととなった。私も早速、水の中へ突撃する。落ちてくる水はとても気持ちよい。


滝みな、水浴びをしたり写真を撮ったりとめいめいに過ごしている。勿論、お約束の「滝に打たれる修行僧」を演じる人も。

そして脇に設けられているテント(運動会などの時に本部として使っているような)で各自、弁当による昼食ということになる。この弁当はツアー代金に含まれていて、普通に日本でも見られるような幕の内弁当である。日本人のやっている店で作っているということらしく、このあたりには違和感はない。米も立派に美味しいものである。

余談であるが、パラオでは米を栽培していないので、全て輸入品。日本から入ってくる米もあるらしいが、大部分はアメリカのカリフォルニア米だそうだ。今回のツアーの運転手氏によると、「カリフォルニア米ももともとは日本の新潟の米ね。お米は日本のが一番いい」と。ありがたいことである。

こうして滝で遊んだ後、車の方へ戻ることになる。隣のツアーの方は黙々と撤退していくが、こちらの方は人数も少ないこともあってアットホームな雰囲気で、足場をお互いに気遣ったり、雑談をしながらゆっくり戻っていく。行きの記述では省いたのだが、石畳のようになった川場を歩く場所があり、そこに水流の影響でちょっとした窪みが出来ているところがある。

川そこで小休止して、軽く川遊びをすることになった。見た目は河原の露天風呂のような雰囲気なのだが、水は川の流水である。ただ、緩やかに流れる水がたまっている箇所では、そこまでの水が陽光で温められるため、半ば温泉のような温度になっているところもある。かつてはもっと勢いよく流れていたのだろうか、場所によっては足が立たないほど深いところもあり、私も一度その罠にはまってしまった。眼鏡を掛けたまま背の立たない場所に飛び込んでしまったので少しばかり危険だった。

 

行きに見たトロッコ廃線跡から坂を上り、出発地点に戻ってきた。

今回のツアーは「ガラスマオの滝」であるから、これで目的は終了で街に戻ることになると思ったのだが、二箇所ほど寄り道をしてくれるらしい。

車で再び出発して向かったのは、ここから少しだけ離れた場所にある小さな集落である。

メインとなる道路は少し内陸部の丘の上を通っているので、その集落へ行くためには小さな道を下っていくような形になる。降りて確かめることが出来なかったので確かなことはいえないのだが、この道路も先のトロッコの線路跡を使っているようである。道の脇に、ところどころ錆びたレールらしいものが無造作に突き出たりしているのだ。

ほどなく、集落に到着する。椰子の木が適度な木陰を作るのんびりした町で、かつては日本人も結構、住んでいたらしい。日本統治時代に作った小学校の正門跡というのが残っている。

車はトイレ休憩も兼ねて、集落にある商店に到着する。ここでは冷たいココナツジュースを飲ませてくれるという。ガイドが店から持ってきた卵形の身の頂上付近を何度か鉈のようなナイフで刻んでいくと、ぱかっと蓋が取れるように中身が覗き、そこにストローを指して飲むような形になる。日本でも輸入雑貨店などでココナツジュースを飲むことが出来るが、加糖していない分、それよりもあっさりした飲み物といってよいだろう。

飲み終わった後は、身を半分に割って、中の果肉を食べることが出来る。これが柔らかい食感で悪くない。一説には、刺身醤油で食べればイカの刺身と同じ味わいだというがさすがにそれはどうかと思うが……。

二つ目の寄り道は、小松さんという日本人の経営している農園だという。

場所は出発地のコロールに近いところなので、着た道をひたすら戻る形になる。先にも書いたとおり、道がでこぼこしてよく揺れるので、歩いて疲れた身にはこれがいい揺りかご効果になるようだ。何人か、寝てしまっている人もいる。

パパイヤの木そして農園に到着。主の小松さんという人は、白髪で背の高い年輩の方だった。それもそうで、何でも会社を定年退職してからこちらに移住したのだという。各種フルーツなどを栽培していて収穫物の加工品などをコロール市内で土産物として売っているという。

敷地は2万5千坪以上というから、簡単に想像できるものでもない。畑や果樹園とよりは原野に木をそのまま植えたようなイメージで、よく見てみると椰子やパパイヤ、バナナなどの木が実を付けているのが分かる。小松さんの案内に従い、よく熟したスターフルーツの実をもいで一ついただいてみる。ラグビーボールの側面をへこませたような形の黄色い実で、その凹凸に対し直角に切断すると断面が星形になるのが名前の由来である。味は洋なしとリンゴを足して二で割ったような感じである。

そうして農園を少しぶらついた後、建物に入って少し休憩。ここで栽培しているものから作ったというノニ茶、グワバ茶をいただく。最近、日本でも「健康によい飲み物」とされているのだが、実は味の方はあまりよろしくはない。冷たいので気持ちよくはあるのだが……。

これで今日の行程は全て終了。

最後に例の橋を渡ってコロール市内に戻り、宿の前までそのまま車で送ってもらい、ツアーは終了する。


ホテルの部屋に到着し、小休止。夕方5時ころになっていて、緯度の低いこの地域ではそろそろ夕方の雰囲気になってきている。

少し体力が回復したところで、関心は今日の夕食に移る。そして、ツアーの出発点近くにあった橋が少し気になったので、散歩がてらそれを見に行くことに決める。

港橋 この橋は、コロール島とその隣にあるマラカル島を結んでいて、名前は「ミナトバシ」というから日本統治時代の名残である。今朝のツアー出発の時に少し見えたのだが、その名の通り、日本の港近くにあるような雰囲気の橋である。名前も橋そのものも当時のまま残っているのだろうか、アメリカ時代の地図にも正式名称として「MINATO-BASHI」と記載されている。

橋の近くは、かつての桟橋が公園になっており、そこで泳ぐことも出来るため、橋からその海に元気に飛び込んでいる子供たちの賑わいが。

橋の先はちょっとした沿岸道路のようになっているのだが、ガードレールすらもなくなかなかのスリルである。実際、時々酔っぱらい運転の車が文字通り道を踏み外して海中に突っ込むというから何とも……。

マラカル島に入り、1キロほど歩いていくと、少しわかりにくいところにあったのだが今日の夕食目的地へ到着する。マラカル島は商業港がメインの島であるといい、確かに雰囲気が少し違っている。岸壁のコンテナや倉庫などがある。

今日の夕食は「レッドルースター・カフェ」という場所である。「レッドルースター」というのは、パラオ初(というか唯一)のいわば地ビールメーカーである。赤いエビのようなロゴは割と町中でもよく見られ、土産物屋ではオリジナルのTシャツなどもあった。

なので、店に入って早速、ビールを注文する。普通のビールや黒ビールの他に、ちょっと代わった「マンゴー」というのもあるのでそれを頼もうとしたのだが、残念ながら売り切れとのこと。仕方ないので黒ビールを頼んでその間に食べるものを決める。

実は、このお店には日本食もあって、いろいろ悩んだあげく、「魚天ぷら定食」を注文することにした。

きちんと作っているらしく、出てくるまでに少し時間がかかったのであるが、その間にビールをもう一杯。

天ぷらは(おそらく)ナポレオンフィッシュというこちらの魚で、白身で味もあっさりしていて美味しい。天ぷらも上々の揚げ具合だと思ったら、調理を担当しているのは割烹着を着ている日本人のおばあさんであった。

定食には味噌汁の他に漬け物もあって、本格的な和定食になっていた。ビール二杯の効果もあってか、充分満腹になった。

食後の運動も兼ねて市内へ戻りダウンタウン(特に中心部をそう呼ぶ)のスーパーで飲み物などを買って、帰還。特にすることもないので、適当なところで休むことにした。

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