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 ここでは、主導権の確保を中心とした戦場での用兵手法について述べた虚実篇第六から九変篇第八までを解説します。

虚実篇第六

 この篇で述べられている「虚」とはすきのある状態を指し、「実」は充実した状態を指す。これまでにも述べられてきたように、実を以て虚を討つことが基本であるが、ここではその手法について詳しく語られている。

 まず、孫子は先に戦場に着いて敵の到着を待つのは楽であるが、後に着いてすぐに戦闘にかからなければならないのは骨が折れると言っている。たいていの場合、地形的な条件から戦場となる場所は予想がつくことが多いが、ここではその戦場を先に確保することの重要性を述べている。これは布陣などに余裕が持てること、兵に休息を与えられること、有利な場所を確保できることなどの多くのりてんをもち、逆の立場になるとそれらがすべて不利にはたらく。つまりは主導権を握るということ(人を致して人に致されず)である。そのための手法として、利益を見せて誘い出す、害を見せて引き留めるなどが考えられる。

 敵の状態を知って、敵の裏をかくような行軍によって主導権を握ることができるのだが、その結果として敵の思いもよらぬところに急進し、敵のいない土地を長躯し、守りの薄いところを攻めることになる。攻撃のうまい人の手に掛かると敵はどこを守ればよいか分からず、守備のうまい人の手に掛かれば、敵はどこを攻めたらよいのか分からない。無形という状態は(正体や意図が敵に把握されないために)最高のものであり、主導権を握るために不可欠である。

 さらにその無形の生む理想的な状態として敵のすきをついた進撃、素早い後退を挙げている。また敵が必ず救いを出さなくてはならないような目標を攻撃することによって戦いたくない敵を戦うようにしむけ、目標をはぐらかすことによって敵にこちらを攻撃させないようにも出来る。

 こうして無形という変幻自在な状態の重要性について述べているが、さらに戦いの必勝の条件として冒頭にもある「実を以て虚を討つ」ことを説明する。これはこれまでに述べたように味方が変幻自在の態勢を取り(形なくして、つまり無形)、態勢のはっきり見える(形せしめて)敵を攻撃することである。具体的には味方は戦力を集中させて一つになり、敵は分散させて十にさせる。これは戦力集中の原則であり、分散した各々の敵には味方の大部隊で立ち向かうことになるから確実な勝利が得られる。先に述べたように、敵に自らの意図を知られなければ、敵はどこを守ってよいのかが分からなくなり、備えのために分散せざるを得ない。兵が有限な以上、どこかを重視すれば手薄になる場所が出来るので、それを味方の集中した攻撃隊で的確に討てばよいということである。勿論、これらの情報収集が重要になるが、それについては孫子は用間篇十三を設けていることからも伺うことが出来よう。

 また、敵情を分析して敵の行動の指針を読みとり、敵を刺激して動かせてその法則性を見極め、敵の態勢からその敵の敗れる地勢と敗れない地勢を知り、敵と小競り合いを行って優秀なところと手薄なところを察知するのである。

 これまでに述べたことから、兵の形の極地は無形であることが分かる。勢篇第五で述べられた有限の中から発生する無限性を用いることにより敵(もしくはその間者)に悟られない自軍の態勢を作り、一方では敵情を察知する。この前提を作り出して戦場に臨めば勝てるのである。だが、これは相手の形にも対応して無形をなすということでもあるので、再現性のないものである。よって具体的な方策は解説の仕様はないのである。

 そして孫子は、究極の無形(つまりは用兵のこと)は水のようなものであるといっている。水は当然定まった形がないのであるが、そればかりでなく高いところから低いところへと流れていき(優位な状況で不利な相手を攻撃する)、物のあるところ(実)を避けて隙間のあるところ(虚)を流れていく。そして地形のままに動くことができるのである。「上善は水の如し」とは老子の言であるが、兵法においても「水」は理想的な物として語られている。

軍争篇第七

 「軍争」とは軍の争うところのことであるが、具体的に何を争うかといえば、これまでにも再三述べられてきたように、主導権である。つまり、機先を制することであり、この篇ではその手法について詳しく述べられている。

 軍争は敵の先手を取ることであり、その手段として、味方が素早く動くことの他に敵を遅らせることも考えられる。先手を取るということは相対的なものであるから、この両者の組み合わせによって、遠い道でも近いものとして行動できる「遠近の計」が考えられる。

 ところで、この軍争とは危険で難しいものであるとも言っている。先手を取るということはただひたすらに急げばよいということではないからである。具体的に孫子は次のような状況を例示している。

  1. 全軍で有利な地を得ようとすれば、大軍であるから動きに敏捷性がなく敵に遅れることになる。
  2. 軍の編成にこだわらず、早いものだけが有利な地を確保しようとすれば、輜重隊が見捨てられることになる
  3. 輜重がなければ補給が得られないのでその軍隊は敗北する

 孫子は、大軍で敵を圧倒するのが戦いの基本であるとしているが、大軍は(指揮系統が優れていたとしても)動きが敏捷ではないので、先手を取るために争う場面ではそれ自体が足かせにもなりうる。

 重い鎧も外し、昼夜兼行の強行軍を行えば、強健な一部の兵が十人に一人程度の割合で戦場に到達するだけになり、三軍全ての将が捕虜となる大敗を喫するであろうし、その半ば程度の距離でも、兵の半分くらいが脱落するので先鋒の上将軍が敗北を見ることになる。三十里程度でも到達するのは三分の二くらいであり、このことからも軍争の難しいことが理解できよう。

 このように、自軍が急進することには自ずから限界があるので、敵の裏をかくことを中心に考える必要が出てくる。ここで、有名な「風林火山」の語が出てくるのであるが、実のところ、この四つは以下の軍争の原則の一部に過ぎない。全てを箇条書きにすると次のようになる。

 一方で、勢篇第五で述べたように、大軍を整然と運用するための手段として、の鼓鐸(太鼓や鐘)や旌旗(旗や幟)を挙げている。これらは味方への合図となるだけでなく、敵を威嚇して気力をそぐ効果もあるとしている。

 こうして、気力充分な敵を避け疲れて休息している時に当たり、整然とした状態で混乱した相手に立ち向かい、冷静な状態でざわめいた敵を攻撃する。これらは心の状態で勝つということである。更に、戦場の近くにいて長躯してきた敵を待ち受け、安楽な状態で疲労した敵に当たり、兵糧の充分な状態で飢えた敵を討つ。これらは戦力において勝つということである。

九変篇第八

 ここでは戦場で取るべき九つの変化について述べている。これまでにも語られてきたように、戦場で敵に主導権を握られないためには、自軍の意図を敵につかませないことが重要になってくるが、虚実篇第六で触れられた「無形」を実現するためにも戦場での基本的事項をおさえ、それを応用することが必要になってくる。勢篇第五の例えにある色や音階、味の五要素に相当するものが述べられているといってよいだろう。

 その九通りの原則とは次のようになる。

 これまでに述べられてきた考え方をふまえればその教えるところは容易に理解できると思う。高地は弓の射程を含め、物理的に有利な状況であり、丘を背にするということは背後からの襲撃の可能性のない状態ということである。これらを始めとする、味方より有利な状況をもつ敵は避けるのが得策である。

 また、母国に帰る軍は、その戦闘を乗り越えれば故郷に帰れるということから通常よりも気鋭の高い軍勢となり、完全に包囲された敵や逃げ道のない敵は戦う以外には死を逃れるすべがないので必死となる。窮鼠と敵が化すのを防ぐのが逃げ道を開けることであり、これによって敵はもしかしたら逃げ切れるという期待感から戦闘力が減少する。また進退窮まった軍が通常以上の力を発揮するのを逆用した戦術がいわゆる「背水の陣」である。城攻めに当たって、短期で確実に攻略するために目標以上の日数の食料を自ら破棄する戦術も見られるが、これはかなり危険な策ではある。

 これらとあわせて、五つの避けるべき事項があるとも言っている。状況に応じて的確に判断しなくてはならないことで、これを見誤ると敗北につながる。

 特に、孫子は後宮の女官の訓練の話でも分かるように、戦場における将軍の権限の確保を重要視している。君主の役割は戦争を始めるかどうかの見極め(彼我の比較検討)と有能な将軍の任命にあるのであり、戦場レベルでの君主の指揮は不要であるばかりか、兵士にとっては命令系統の多重化につながるために有害ですらあると考えている。

 これらの九変の利益を知っている戦場で善く戦うし、そうでないならこの五つの忌避事項を知っていても十分に戦うことは出来ない。

 よって、智者は物事を利害の両面から考えることが出来るのである。利益に対しては害も考慮した上で行動するので成功をもたらすであろうし、害に対しては利益も考慮した上で対策をとるので必要以上に悲観することもない。軍の運用に限らず、大切なことであるといえよう。

 これは楽観的な推測に基づく行動を戒めることでもある。戦争の原則としては敵のやってこないことを頼みにするのでなく、いつ来てもよいという備えを頼みにすべきであり、敵が攻撃してこないことを頼りにするのではなく、敵が攻撃できないような態勢を作り上げることを頼みにすべきである。

 また、将軍のもつ資質について以下の五つの注意事項を挙げている。

 これらの性質は有利に働くこともあるが、それを逆手に取られることもある。表裏一体であるともいえよう。

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