「ご主人様、紅茶をお持ちしました」
食後のひとときを居間でくつろいでいる真之に、由香子が声を掛けた。いつもと同じように、食後の片づけを終えた由香子は、ゆったりしている真之に紅茶を持ってくる。
「ああ、ありがとう」
「さっそく、お注ぎいたしますね」
「うむ、頼む」
ソファに深く腰掛けていた真之が、読んでいた雑誌から目を離して由香子の方に顔を向ける。
由香子はそれに気付いて嬉しそうににっこりと微笑むと、静かにポットから紅茶をティーカップに注ぎ始めた。
夕食後はこうして必ず、その他にも在宅しているときは昼間の数度の紅茶を楽しむことが真之の日課になっていた。そして、その時々の真之の気分を適切に把握し、好みの紅茶を用意することの出来る由香子に感謝していた。
「今日はハーブティか」
緑色のかかった、普段とは少し色合いと香りの違う紅茶を手にして、真之が言う。
「はい、今日のご主人様は一日お部屋でお仕事をなさってお疲れだと思いましたので」
「そうか、気が利くな」
「そ、そんなことはありません」
由香子が恥ずかしそうに答える。
これまでと変わらず「ご主人様」という呼び方をする由香子に、真之は安心感を持とうとしていた。由香子が自分の妹であるということを明かした時には、さすがに驚きと戸惑いがあるようだったが、それによって高ぶりかけていた由香子の気持ちが抑えられるのではないかという期待を真之は向けていた。それを除けば、真之にとってはメイドの由香子との生活はこれまでと変わりないものとできると考えていたのだった。
由香子の気持ちが迷惑とまでは思わない真之であったが、あまり強い思慕の情をあからさまに向けられると、辟易するところがあるというのも事実である。
あの二人の娘ということで、含む気持ちを持っていた真之であったが、それは徐々に氷解していき、今では由香子にそうした負の感情を抱くことはなくなっていた。メイドとしても充分以上の働きをしてくれているし、単にメイドの仕事にとどまらない真剣さで自分に仕えてくれていることは心地よくもあった。
あえて自分の妹でもあるということを教えることで、由香子の浮き足だった感情を消し去ることが出来れば、もっとよい娘になれるであろう、真之はそう考えていた。
コンチネンタルでのウェイトレス時代からのことを含めて、由香子の世界が広くないことが心配ではあったが、由香子のような娘であれば、自分に向けるような気持ちをもっときちんとした相手に向けることが出来るようになれば、心の奥で望んでいるような幸福な家庭を手に入れることは可能であろう。真之はそう由香子を評していた。
自分は家庭というものに全く幻想を持ってはいないが、広瀬を始めとして周りにいる人間がそうして幸福を掴むことは純粋に喜ばしいと思っている。家庭を作るつもりのない自分ではあるが、少なくとも自分の力で築き上げた財があり、それはそれなりに満ち足りた生活を与えるものとなっている。
「あの、ご一緒してもよろしいでしょうか?」
そんなことを考えていた真之を、由香子は立ったままじっと見つめていたらしい。
「立たせたままで悪かったな。そうだな、少し話し相手になってもらおうか」
「はいっ」
スカートの裾に気をつけながら、由香子が真之の向かいに腰を下ろした。真之の読みかけだった雑誌に目を向けて、早速それに興味を示す。
「ああ、これはだな……」
表紙の特集記事の内容を、なるべく平易な言葉で由香子に説明する。由香子はそれに深く頷いたり、時々、難しい言葉を問い返したりしながら真剣に真之の話を聞いている。少しでも真之の話し相手にふさわしい人間に近づきたい、そんな気持ちが由香子をそうさせていた。
これまでと変わらず自分を「ご主人様」と呼ぶ由香子を見て、この時の真之は安心していたのだった。
しかし、由香子の中では戸惑いは不安に変わり始めていた。自分の気持ちはどこにあるべきか、そして実際はどこにあるのかがはっきりしないのである。
自分の仕えるご主人様としての真之は、これまでずっと思っていたとおり理想どおりの素晴らしい人である。そんな真之に自分の働きぶりを褒めてもらえればこの上なく嬉しく思えるし、もっと期待に添えるようにしっかりと働いていきたいという原動力にもなる。
一方で、真之のことを一人の異性としても意識するようになっていた。おそらく、真之のような男性から見れば、自分などはまだまだ未熟な子供にしか見えないであろうし、とても対等に扱ってもらえるとも思っていなかったが、それでもいつかは自分を一人の女性として見て欲しいという気持ちが存在していた。
だが、それはメイドである自分を考えると、不相応な望みであるということもはっきり分かっていた。自分の気持ちを、真之の快適な暮らしに転化できるのであれば問題はなかったが、そうでない形になるのだったらそれは抑えておかねばならない……、そうした線引きは出来ているつもりであったのだが、実際はそうではなかったようである。
特に、メイド服を着替えているところを真之に見られるという事件があってからは、どうしても真之を意識してしまって、そんな気持ちを理性やメイドの職分が抑えきることが出来ないようになってしまった。
あまり自分の過去に触れたがらない真之も、この洋館で暮らしを共にしていくうちに何度か由香子にそれを話してくれるようになっていた。好きな人に少しだけ近づいたような気がしてそれを嬉しく思う反面で、由香子は皮肉にもある種の絶望を感じることにもなった。真之は自分をメイドとしてとても評価してくれるが、あくまでもメイドとしての範囲であるに過ぎず、決して自分の気持ちを受け入れてくれることはないであろうと分かったからである。それでも、由香子は真之に対する気持ちを変えることは出来なかった。そんな葛藤の中にあった由香子に、もう一つ突きつけられた現実が、更に由香子に不安を与えることになった。
「わたしが、ご主人様の妹……」
驚くべき事実を知らされたその晩、自室でメイド服を脱いでパジャマに着替えた由香子はベッドの中でその事実を改めて頭の中に教え込もうとしていた。思えば、真之があれだけ厳格に洋館の中でメイド服姿でいることを求めたのは、この事実があってのことだったのかもしれない。
由香子にとっても、あの魅力的な服を着ているときの自分はあらゆる意味でメイドであることが出来ていた。たとえ、真之に思慕の気持ちを向けていたとしても、それより上にメイドとして真之に仕える自分が存在していた。一方、自室でメイド服を脱ぎ、今のようにパジャマや私服に着替えた自分になると、真之のことを好いている一人の女性という存在に過ぎなくなる。そうした二面性だけでも、由香子を戸惑わせるに充分であったのだが、その上に更に「真之の妹」という自分が現れてしまった。自分の中で、真之の妹にどうやって向き合ったらよいのか、由香子には想像が出来なかった。
結局、メイド服を着ている時の自分はご主人様に忠実なメイドとして向き合うことしか出来ない、そう思いこませることによって由香子は辛うじて心の均衡を保っていた。だが、真之の顔を見ればメイドではない由香子固有の気持ちが心の奥からはみ出してくることを止めることも完全には出来なかった。
おそらく真之は、そんな由香子の気持ちは手に取るように分かっているだろう。正直に言えば、由香子はそんな真之にどこか甘えているところもあった。時々向けてくれる優しさがあるだけで、由香子の絶望は少しだけ癒される。真之の妹であることが分かった今では、前以上に真之と結ばれることは現実としてあり得ない状況になっていた。それでも、いやだからこそ、由香子の真之に向ける気持ちは大きくなっていった。
父親に依存する傾向の強かった母は決して自分に愛情を向けてくれないわけではなかったが、その依存があまりにも強すぎたために、子供の由香子は父や母に充分甘えることが出来ずに育ってきた。今まで一人っ子だと信じて育ってきた由香子には、兄弟のように互いに心から頼りにしあえる存在もなかった。道で親子で仲良く歩いている家族を見ると、とてもうらやましく思うのだった。両親が、周りの友だちの親と比べて一回り年上だったという事実も、由香子に自分は普通とは少し違う家庭で育っているのだという意識を与えていた。勿論、この当時には真之という兄がいることも知らず、都会に出て成功を収めたという同じ学校の先輩にあこがれることによって、家庭の中にある欠落を穴埋めしていた。
そんな中で育っていくうちに、逆説的に由香子の中では高度に理想化された「家族像」というものが出来るに至っていた。そして、コンチネンタルで広瀬という人間に出会ったことによってその理想の家族像は間違いのないものであるという確信を持つに至ったのである。
そんな一方で、由香子は真之にメイドとして仕えることになり、真之のひととなりに接していくうちに彼に次第に惹かれていった。昔からの自分のあこがれの人そのものであったというプラスの感情を含めても、自分のそんな気持ちを最初に自覚したときには少なからぬ驚きの気持ちがあった。何しろ、自分に物心がついたころには既に事業で成功を収めていた人である。そして、自分が中学生の時に先輩として憧れる気持ちを持ったときには、既に一家を築いて幸福に暮らしていると信じて疑わなかった人である。その人を自分が好きになろうとは想像すらしていなかった。
だが、現実として好きになってしまった。そして、そのような気持ちは決して間違ってはおらず、その人に仕えていることも含めてそんな自分を誇らしく思う気持ちもあった。しかし、由香子が純粋に真之を慕えば慕うほど、決してその人とは結ばれぬという絶望も大きくなっていく。その上、追い討ちをかけるように自分が真之の妹であるという衝撃的な事実を知らされる。妹と兄というのは決して結ばれることはないのだ。
そんな由香子に出来ることは、これまで通りに、そしてそれ以上に強い気持ちで真之に仕えることであった。どのような気持ちから出たものであれ、それがメイドとしての仕事の質を上げることが出来るのならば真之に喜んでもらえるであろうし、少なくとも真之と同じ家で暮らし、好きな人に尽くすことが出来ることは嬉しいことであった。
それでも、一度あふれ出た気持ちは簡単に押さえ込むことは出来なかった。
真之と話している時にはどうしても好きな人と意識してしまう。真之がそれを好ましく思っていないことを知っていても、完全には隠しきれるものではなくなっていた。
真之は言葉に出してそんな由香子をたしなめることはなかったが、そのために自室で一人になったときには一日の自分の言動が気になることが避けられなくなっていた。
「このままでは、いつかご主人様に嫌われて追い出されてしまうかもしれない……」
そんな心配をすることもあった。
どうにもならぬ気持ちを、もてあましていることは否定できなかった。喜びと悲しみ、夢と絶望、相反するような気持ちが今の由香子の中には同時に存在している。そして、辛うじてそんな気持ちを結び合わせているのがメイドという仕事であった。客観的に見ても、今の由香子はメイドとして充分立派に仕事をこなしている、そして他ならぬご主人様である真之は正しくそれを評価している。それが由香子の支えでもあった。
この日の食事は、食堂の雰囲気によく似合っている洋食だった。数日前に真之の許可を得てコンチネンタルを訪れていた由香子は、そこで杉野から料理についてのヒントをもらい、あちらの新メニューを由香子なりにアレンジした料理として真之に出したのだった。
コンチネンタルの経営の詳細は信頼できる広瀬に任せている真之だったが、時には新しいメニューを試食することもあった。ちょうどそれがあったので、真之はこの日の由香子の料理に気が付いて言った。
「少し前にコンチネンタルの初夏メニューに新しいアレンジのソテーが出ることになったそうだが……」
真之が目の前のソテーの豚肉をナイフで切りながら切りだした。
「はい」
「由香子のこの味付けは、どこかそれに似ているな」
「あの……、もしかして、お気に召しませんでしたでしょうか?」
由香子は自分の持っているナイフとフォークの動きを止めて、心配そうに真之に尋ねる。
「いや、そんなことはない。あのソテーは私も試食してみたのだがなかなか美味しかった。由香子は時々、コンチネンタルに行っているそうだから、早速、教わってきたのだろう?」
「はい。ですが、ご主人様が既に召し上がっておられたとは存じませんでした」
「そうではない。由香子の料理の腕も大したものだと思ってな。あれをヒントにうまく味をアレンジしてあって、これも充分に美味しいと思うぞ」
「ありがとうございます」
褒められた由香子は、丁寧に頭を下げて礼を言う。
「ただ、このアレンジだと何人分も作るのは難しそうだな」
「はい、そうだと思います。でも、ご主人様にお出しするのはレストランのメニューのものとは違いますので、多少の手間がかかってもわたしくらいの腕で出来ることでしたら、と」
由香子の言うとおり、今日のソテーを仕上げるまでには何段階かの調理が必要とされていた。それを遅滞なくこなしていかねばならないので、台所には未だ洗っていない皿や鍋がいくつも残っている状態になっていた。
「そうか、立派なものだな」
「お褒めをいただいて嬉しいです」
真之の味付けの好みというものも把握しており、多くの食材を使うことによって栄養バランスも考慮に入れている。唯一のネックはまさに手間がかかることその一点であったが、今の由香子にはそれは問題にはならない。他ならぬ料理のヒントをくれた杉野の「レストランの料理と家庭料理は違うのです」という言葉の意味をそのまま取り入れた、由香子なりのアレンジの結果だった。
「ご主人様がコンチネンタルでご試食なさったとは知らず、恥ずかしいことをしてしまったとも思いました」
「いや、あれとはもう別の料理といっても差し支えないだろう。あれをヒントに作ったのなら、由香子はもう自分の料理の腕を人に自慢してもよいと思うぞ」
「そ、そんな……。わたしにとってお料理の腕を認めていただきたいのはご主人様だけですから」
「やはり由香子は大げさだな」
苦笑いをしながら真之が言った。由香子の方は不意に出た自分の気持ちに思わず顔を赤らめる。遠慮がなくなったというのとはまた違うのであろうが、こうして自分の真之への気持ちが言葉として出るようになってしまっていた。
ずっと心の中に秘め続けるのと、一旦、真之に伝えてしまった以上は、例え受け止めてもらえぬとしてもその気持ちを正直に表すというのと、どちらが好ましいのだろうか。そんな自分への問いかけも常に由香子自身の中にあった。
「そんなことはありません」
「まあ、私も大げさに言わせてもらえば、由香子のようなメイドがいていつも助かっている。ここのところ、不思議と体調もずっとよいようだしな」
「言われてみますと、わたしがご主人様にお仕えするようになってから一度も具合を悪くされていないと思います」
「そうだな、確かにその通りだ。風邪一つ引いていない。これも由香子のおかげか?」
「いいえ、とんでもないです。きっと、この洋館での生活が快適なのだと思います」
「そうか。だが、だとしたらそれには由香子の働きぶりも含まれているのではないかな」
「そんな……。でも、ご主人様にお褒めいただけると、わたしはもっと頑張れます」
「それは助かる」
笑いながら真之は言った。今度は苦笑とは違っているようで由香子は安心した。しかし、一方で、真之が自分に向けてくれる好意というのはメイドとしての自分に対するものを越えることはない。しかしそれだけであったとしても、真之がそうした好意を向けてくれるということは由香子にとって少なからぬ喜びでもあった。
「それからだな、由香子」
しばらく静かな食事の席が続いた後、真之が話題を変えた。
「はい、なんでしょうか」
「実はだな、近いうちにこの家に広瀬一家を招こうと思っているのだ。広瀬が言うには、『家内と娘が一度、先輩の洋館を見てみたいとうるさい』のだそうだ。私も、広瀬一家とは親しくつきあいを持っているからやぶさかではないのだが、そうなると由香子にはいろいろと世話を掛けさせることになりそうなのでな」
「店長のご一家ですか。そんな素敵なお話があるのでしたら、わたしも精一杯おもてなしさせていただきます」
「迷惑ではないのか?」
「いいえ、とんでもありません。せっかくこんな立派な洋館にお住まいなのに、ご主人様は全然お客様をお呼びになられないので、少し残念に思っていたくらいです」
「そうなのか?」
「はい、わたしが頑張ってお客様をおもてなしして、お客様とご主人様と両方に喜んでいただけるのが望みでした」
「なるほど。メイド冥利に尽きるというところか」
「はいっ。それに、前にお聞きしたことがありましたが、店長もこの洋館をご主人様と一緒に見に来られたことがあるのでしたよね?」
「ああ、最初に視察に来たときにな」
「でしたら、是非ご招待下さい。それに、そろそろご主人様がここにお住まいになってから半年になる頃です。そのお祝いも出来ると思います」
「そうか。三ヶ月の時もそうだったが、由香子はよく覚えているな」
真之が皿の料理に目を向けながら、そう言って感心する。
(勿論です。ご主人様にお仕えするようになってからの日を、わたしは一日もおろそかにしたことはありませんから……)
由香子は心の中でそう言った。それは、由香子の気持ちが最初と変わってからも異ならない。
「では、広瀬にも話しておこう。当日はそうだな……、いつもより二人分以上多くの料理を用意しなければならないから、由香子には手間をとらせてしまうと思う」
「ご主人様はそんなことは気になさらないで下さい」
「まあ、家のことに関しては由香子に任せておけば間違いはないだろう」
「あ、あまりプレッシャーを掛けないでください」
由香子が困ったような顔で言う。真之としても相手はなじみのある広瀬一家であるから、それほど肩肘張った場にするつもりもないだろう。
店長であった広瀬の家族思いは由香子も前からよく知っていたから、そんな一家をもてなす役割を与えられた由香子は俄然、張り切るのだった。一方の真之も、自分と由香子の二人だけの生活にアクセントを与えることによって、由香子の膨らんだ気持ちに少しでもよい刺激を与えたいと思っていた。
そしてその当日になった。
この日の由香子はいつものように朝食を真之に出した後、早速、台所に籠もりきりになって料理の準備を始めた。肩肘張ったものではないとはいえ、メイドとしてご主人様の客をもてなす最初の機会である。同時に、これまでもよく話として聞いていた広瀬一家の「理想の家族ぶり」に身近に接することの出来る機会でもある。
この日ばかりは、「よそ行きの料理」をこしらえて精一杯もてなそうとする由香子だった。洗濯や掃除などの他の家事は既に前日までに全て終えてしまっており、この日は料理の用意に専念する。
三ヶ月前の、真之との小さな祝いで中華料理をたくさん用意したときの経験も役に立っていた。前菜から始まり、コースメニューのような形式を整える一方で、広瀬の娘のことも考え、食べやすい食材を揃える気配りも忘れていなかった。
食材相手の一人だけの戦場は、一筋縄ではいかなかった。夢中で用意をしている間に、真之が広瀬を迎えに行く約束の時間になっていた。それすらも、由香子は気付いていなかった。
「由香子、料理の用意は順調に進んでいるか?」
珍しく、真之が台所に来て由香子に声を掛けた。多少でも真之が料理をするのであれば、由香子の手助けが出来たかもしれない。だが、由香子にとっては真之が自分のところに来て声を掛けてくれるというだけで感激であった。
「はい、おかげさまで」
「由香子に任せきりにしたままで悪いが、これから駅まで広瀬を迎えに行ってくる。こっちは、引き続き頼んだぞ」
「はい、わかりました。どれくらいで戻られるのでしょうか?」
手を休めずに失礼であるとは思いながらも、火に掛けた鍋に目を向けたままの姿勢で由香子が聞く。
「そうだな、道はそんなには混んでいないだろうから、三十分くらいか」
「はい、その頃にはお迎えいたします」
「そうか。まあ、料理優先で構わないからな」
「はいっ」
台所を出て玄関へ向かう真之を見送った由香子は、本来の仕事へ戻る。洋館を出ていく車の音を遠くに聞きながら、由香子は料理の仕上げに取りかかり始める。
助手席に広瀬を、後部座席に広瀬の妻と娘を乗せて、真之の小型の乗用車が洋館の正面に到着した。
先に車を降りた真之が、三人が降り立つのを確認する。
「わぁ、素敵なお屋敷ですね」
少し長めの髪を上げた広瀬の妻が重厚な作りの洋館を見上げて感歎する。
「香奈子、明美。福原先輩にきちんと挨拶しなさい」
広瀬の妻、香奈子の隣で更に首を上に向けて建物を見上げている娘の明美。よそ行きのブレザーとスカートがどこかぎこちなさを感じさせていたが、それもこの女の子の愛らしさの一部ということも出来るだろう。
「広瀬、それは中で落ち着いてからいいだろう」
慌てて真之に向き直ろうとする香奈子を真之が軽く制した。
「では、そうさせてもらいます」
軽くドレスアップした香奈子と、よそ行き姿の明美に対して、広瀬自身はあまり改まった服装はしていなかった。広瀬がいうには「そんなに着飾らなくてもよいと言ったのだが、家内が『折角のご招待に、失礼な格好は出来ません』と譲らなかった」のだそうだ。危うく、広瀬自身もスーツにネクタイという姿を強要されそうになったそうだ。なんとかそれを免れた広瀬は、仕立てのよいシャツとズボンを身につけて、多少なりとも普段着とは違うということを主張している。夫妻のある種の妥協点がそのあたりにあったのであろう。
「たかが独り身の住まいなんですから、気を遣わなくてもよいのですよ」
真之が香奈子に言う。
「ですが、こんな立派な洋館にお住まいで、主人の大切なご友人でもあると聞いては、とても失礼な格好は出来ませんわ」
「それは過大評価というものですよ。外は立派でも、中は人を雇ってようやく維持できている有様で……」
「メイドさんがいらっしゃると聞いています。娘も、本物のメイドさんに会えるのを楽しみにしているみたいですよ」
そう言って、香奈子が隣の明美を見下ろすが、真之の視線に気が付いた明美は恥ずかしさを覚えたのか、慌てて香奈子のスカートの影に隠れてしまう。
そんな女の子の所作に微笑ましさを感じる真之。自分のものではない「家族」についてはそうした見方が出来るのである。
「まあ、こんなところにいても仕方ない。中へ入ろう」
「はい、お邪魔いたします」
脇役に追いやられそうだった広瀬が真之に答えた。
先頭に立った真之が、正面の扉をゆっくりと開いて中へ入る。
その正面の玄関ホールには、メイド服姿の由香子がまっすぐな姿勢で立って待っていた。そして、四人ににっこりと微笑みかけると、深くお辞儀をして出迎えた。
「いらっしゃいませ、皆様。お帰りなさいませ、ご主人様」
客を迎えるに、まったく疎漏のない仕草であったといえるだろう。さすがの真之もそれには照れくささを感じたようだ。
「出迎えありがとう、由香子。だが、ちょっとそれはやりすぎだ。今、奥さんたちに『そんなに気を遣わなくてもよい』と言ったばかりなのだからな」
「そ、そうでしたか……。ですが、大事なお客様のお迎えに失礼があってはと……」
「すっかり、先輩のメイドさんになっているな、西崎さん」
あえて横槍を入れて助け船とする広瀬。
「あっ、店長。ご無沙汰しています」
「元気そうで何よりだね」
「はい、おかげさまで。こちらは……」
「あ、紹介がまだだったね。僕の家内の香奈子。そして娘の明美だ」
「こんにちは」
香奈子が由香子にも負けぬ上品さで自然にお辞儀をする。慌てて礼を返す由香子。
「こんにちは、メイドのお姉ちゃん」
隣にいた明美はそんな風に挨拶した。おとぎ話の絵本でしか見たことのないメイド服姿に、目を輝かせているのがはっきりとわかる。そして、今度は母親の方に向かい、こんな簡単を口にする。
「ね、すごいよ、メイドさんのお洋服着てる!」
「こら、いけません、明美。そんな失礼な言い方を……」
香奈子が叱ろうとするが、由香子は笑顔でそれを制する。
「ありがとう、明美ちゃん。このお洋服、わたしも気に入っているのよ」
「うん、かわいい」
「明美ちゃんのお洋服も可愛いね」
傍らで恐縮している香奈子と広瀬。
「どうやら、最初の挨拶は無事に済んだようだな。まずは腰を落ち着けようじゃないか」
「そうですね」
いつまでも玄関ホールに立っているのもどうかと思い、程良いところで区切りをつけて奥の居間へ一家を案内する。
「由香子は、紅茶を用意してくれるか?明美ちゃんにはジュースがいいだろう」
「はい、オレンジジュースを用意しておきましたので」
「そうか」
由香子は台所の方へと戻っていく。そして、一旦、料理の手は休めて、紅茶の支度を整える。これまでに聞いて持っていたイメージと違わぬ、幸せそうな広瀬一家の様子に由香子も嬉しくなった。
「わっ、そうなんですか?」
真之が広瀬一家と過ごしている間は、由香子はメイドとして脇役に徹するつもりでいたのだが、当の客人である香奈子にそれはたしなめられるところとなった。普段の広瀬との会話から、真之が由香子をいわゆる「使用人」だけとして見ているものではないということを知っていたこともあるが、自分に近い年頃の女性を、自分たちのために働かせておくということに耐えられないという面もあったのかもしれない。
メイド服は由香子の立場をはっきりと示してはいたが、それは決して使用人を連想させるものではなく、この洋館の住人の象徴ともいえるものであった。
最初は人見知りしていた明美も徐々に由香子に慣れていった。さすがに父親よりも年上の男性である真之とは気軽に話せないようだったが、それは真之にも予測できたことであり、仕方のないことだったといえるだろう。
由香子がこの部屋で真之とワインを飲んだという話題になったとき、そのワインを選ぶときに助言をした香奈子が嬉しそうに思い出話を向ける。
「その時に福原さんからこの洋館のお話を聞いたのですが、メイドさんをお雇いになっていると聞いて、『それでしたらそのメイドさんもお呼びすればよかったですのに』と話していたんですよ」
「はい、ご主人様からそのお話は伺いました。あのワインも、とても美味しくいただきました。それも奥様のおかげだったのですね」
「そんなことないわ。ご主人様とメイドさんというと、なんかこう……距離のある固い関係のようなイメージがあったのだけど、そうではないと聞いて、何故かほっとしたんです」
「先輩には、メイドよりも素敵な奥方を見つけてもらいたいと思っているんですけどね」
広瀬がいつものようにそんな台詞を向ける。
「それは言うな、広瀬。でもまあ、由香子は確かによくやってくれている」
「ありがとうございます」
人の前で由香子を褒めるのは、真之にしては珍しいことであった。幸い、由香子と香奈子たちはうち解けてくれたようであり、真之がある面でもくろんでいた「由香子の世界の拡大」は実現できたようで安心した。
「店長のご家族を見ていると、わたし、とてもうらやましくなります」
由香子がそう言うと、少しだけ残念そうに広瀬が切り返した。
「西崎さんにそう思ってもらえるのは嬉しいが、僕としてはやはり先輩に……。家族というのは、これはこれでやってくのはなかなか大変ですが、やはりいいものですよ」
「まあ、それは認めるがな」
「それに、僕の責任もますます大きくなりますから、先輩にもその重大さを理解して欲しいかなとも思います」
「広瀬の責任?」
真之がその言葉を気にして繰り返す。真之はその意味を理解できていないようだったが、由香子は広瀬の隣にいる香奈子が一瞬だけ恥ずかしそうにして俯いたのを見逃さなかった。
「あの……、それはひょっとして」
遠慮がちに口を挟んだ由香子に、香奈子が答える。
「由香子さんは鋭い方ですね。さすが、メイドさんなのでしょうか」
「どういうことだ?」
まだ意味の分からない真之が広瀬に問う。その広瀬の代わりに、静かにお腹を押さえながら香奈子が告白した。
「ええ、二人目を授かったそうなんです。この子に弟か妹が出来ることになったんですよ」
「ほう……」
大人の話に飽きかけていた明美が、急に自分に皆の視線を向けられているのに気が付いて、きょとんとした表情で交互に父と母の顔を見つめていた。
「わぁ、素敵なお話です。ご主人様も、この洋館に引っ越しなされて半年になるのですが、お祝い事って重なるんですね」
「まあ、住んでいればいつかは半年にも一年にもなるだろうがな」
あえて真之はそんな言い方をする。
それからの話題は広瀬一家のことに終始することになった。香奈子へのプロポーズの言葉まで話が及ぶと、さすがに家族の効用と意義を説く広瀬にも照れくささは隠せぬようになったが、そんな話を聞きながら、由香子も家族への思いあこがれというものを更に大きくするのであった。
真之と由香子のもてなしは、広瀬一家にも大いに喜んでもらえたようである。気心の知れた友人でもある真之と広瀬は言うまでもなく、何度か食事の席を共にしたりしてなじみになっている香奈子や、人見知りをする年頃の明美にとっても、珍しい洋館とその主人、そしてメイドという環境で過ごす時間は刺激的で楽しいものにもなったようである。
「ばいばい、お姉ちゃん」
真之の運転する帰りの車の窓から、元気に明美が由香子に手を振った。
由香子は自分も手を振り返して笑顔でそれに答えると、走り始めた車の後ろで深く頭を下げる。
由香子にとっては初めて目の当たりにする家庭人としての広瀬の姿だったが、自慢するだけの素敵な家族であると素直にうらやましく思えた。
同時に、自分にとっての新しい家族というものを考えたときに、一抹の悲しみに心が触れるのを否定できなかった。
「ご主人様……」
ついさっきまで賑やかだったこの洋館に、今は由香子一人しか残っていなかった。広瀬たちを送った真之はすぐに戻って来るであろうが、そんな僅かな時間の孤独も、由香子には寂しく思えて仕方がなかった。
由香子が、自分が真之の妹であるということを知らされてからも、メイドとして主人である彼に仕える姿勢は異なっていなかった。今の由香子に出来ることは、まず真之にとっての最良のメイドになることであり、その上で自分の居るべき場所というものを見つけだすことだった。
もとより、人間は一つの立場だけで生きるものではない。真之にしても、レストランのオーナー、すなわち企業家であると同時に投資家でもある。そして勿論、この洋館の持ち主で、由香子というメイドの主人でもあった。広瀬の友人でもあるだろう。
そんな中で、由香子の居場所というのはどこにあるのだろうか、真之に仕え、想いを寄せながら由香子はそんなことをいつも考えていた。時折、真之が優しい言葉を掛けてくれると、メイド冥利に尽きるというもの以上に嬉しい気持ちで一杯になる。恋愛は対等なものではないと知りながらも、決して向けた気持ちが報われることのない今の立場というものに、漠然とした絶望感も持っている。だからといって、真之から自分の気持ちを離すことが出来るかと考えると、それは絶対に肯定できなかった。
由香子のまだ気付いていない居場所というものを探している過程だといえるのだろう。人が人を好きになるということには、由香子が原理的に考えているものの他にも様々な形がある。夫婦、恋人、兄妹、主従……、どれについてもそれぞれのあるべき姿というものがあり、同時に全てを満たすことは出来ない。由香子に理解できていないことがあるのだとしたら、おそらくそれであろう。
ともあれ、由香子は「好きな人に尽くす」という気持ちで真之に仕えていた。本人はその「好き」は思慕だと考えていたが、多元のその好きがあるべき場所というのはまだ由香子の視界の中には入っていなかったのである。
一方、真之は由香子が自分の妹であることを明かしたことを後悔し始めていた。今となっては由香子はあからさまとまではいかなくても、割合にはっきりと自分の思慕の気持ちを向けるようになっており、その由香子が向ける気持ちを持て余すようになっていた。
メイドとしての働きは申し分ない。自分の気持ちを察して先回りすることの出来る気配りはメイドとしてはとても優れたものであることは確かだったが、それを実感するごとに、由香子と自分の心理的な距離が縮まることに対する本能的な畏れが姿を見せるようになってくる。
かといって、自分を慕っている由香子を貶めたり、つらく当たったりすることも出来なくなっていた。自分の中にある負の感情を不当に由香子にぶつけることは真之の誇りが許さなかったし、幸か不幸か由香子はほとんど非の打ち所のない水準で真之に仕えてくれているので、名分として責めるような間違いもほとんどなくなっていた。
そんな中、自分は由香子とは兄妹だということを知れば、由香子が熱病のように自分に向けている思慕も冷めるのではないかという期待があったのだった。
しかし、その「切り札」は残念ながら空振りに終わったようである。確かに由香子は自分が真之の妹であることを知ってショックを受けたようだったが、だからといって自分に向ける気持ちが消失したわけではないようだった。真之を慕いながら、真之との居場所を探している、今の由香子は真之にはそのように見えていた。
由香子の暮らしてきた家が、自分の育ったそれとはどのように違い、どのようなところが同じだったのかは真之には分からなかったが、由香子は夢想的ともいえる位置で、神聖化した家族像というものを持っているようなのは明らかであった。おそらく、広瀬のような家庭を築くことが出来れば、由香子は幸せになれるだろう。由香子はその相手に自分を求めているのであろうが、いくつもの意味でそれを叶えてやることは出来ない。
「ご主人様、失礼してもよろしいでしょうか?」
書斎で仕事をしていた真之が、一区切り付いてそんなもの思いにふけっていたとき、ノックの音と共に他ならぬ由香子の声で思考を中断させられた。
「由香子か、いいぞ」
「はい、お仕事の邪魔をして申し訳ございません」
「いや、今は少し休んでいたところだ」
部屋の入り口で丁寧に頭を下げる由香子に、真之はそう言って安心させた。
「ご主人様宛に、郵便が何通か届いています。お仕事のものと思えるのもありましたので、早くお持ちした方がよいかと思いまして」
「そうだな、ありがとう」
大小の封筒を抱えた由香子が、重厚な椅子に座っている真之のすぐ隣までやってくる。
「こちらと、こちらです」
由香子が持ってきたのは三通の郵便だった。うち二つは大きめの封筒で、法律事務所の名前の入った納税関係の証明書類、もう一通は定期的に送られてくる喫茶店からの月例報告書だった。
「それから、もう一通は普通のお手紙のようです」
最後に由香子が差し出したのは、立派な手書きの文字で真之の宛名が記された白い封筒だった。先ほどの二通とは違い、温かみの感じられる手紙である。その文字に見覚えのある真之は、裏を返して差出人を確認する。
「あ、やはりそうか……。もうそんな季節になったんだな」
真之はそう言って、仕事向けになりかけていた表情を僅かに緩めた。
「あの……、失礼ですが、ご主人様のお知り合いの方なのですか?」
「ああ、最初は仕事でのつきあいだけだったのだが、こうしてずいぶんよくしてもらっている。知りたいか?」
「はい、是非お聞かせ下さい」
そんな風に話を向けると、由香子は嬉しそうに身を乗り出してきた。
「この人、櫛木さんは鹿児島で農業と畜産を営まれていてな、いい品質の食材をうちのレストランに供給してくれているのだ」
「そうなんですか。ひょっとして、コンチネンタルもそうなのですか?」
「ああ、あの店の料理の美味さは、杉野の腕に拠るところも勿論大きいのだが、ここの食材のおかげであるということも忘れることは出来ない」
「わぁ」
「櫛木さんのことを知ったとき、ちょうど世の中はデフレ一直線でな、手間のかかって単価の高い肉や野菜なんていうものには誰も見向きもしなかったのだ」
「そうなのですか……」
どこのスーパーも安さばかりを競っていた風景を、由香子も身近なこととしてイメージすることが出来る。
「特に外食産業などというのは、いかにコストを抑えるか、そればかり考えていた時期でもあった。だが、それではダメなのだな」
「三代続いたという家業を諦めようとしていた櫛木さんだったが、これほどいい仕事をする人と是非、取り引きさせてもらいたいと願って、今から思えば申し訳ないと思うような値段で肉や野菜を店に入れてもらうことにしたんだよ」
「そうなんですか。鹿児島といいますと、豚肉や鶏でしょうか?」
「ああ、さすが台所を預かる由香子だな。黒豚と地鶏、これらのよい品が安定して入るようになってうちのメニューもだいぶ充実できた」
「私の考えたことは間違ってはいなかった。安売り競争に疲れ果てた店の中には、廃業に追い込まれるところも出てきたが、うちの店はどこもそんな危機とは無縁だった」
「はいっ」
「やがて、櫛木さんはじめ、良質の食材を出してくれるところの人気は高まってきて、今ではいい値段が付くようになったそうだよ。廃業を考えていた櫛木さんも、すっかり元気になった」
「わ、よかったです」
「うちは今でも昔と同じ値段で売ってもらっているので、それは申し訳ないと言っているんだが、買値を高くしたいと言っても、櫛木さんの方が認めてくれなくてね」
「そうなんですか?」
「ああ、『わたしどもを支えてくれた恩人ですから』と。それはお互い様なのにな。それでも前に、少し値段を上げさせてもらった。櫛木さんは恐縮して、年に一度、こうして郷土料理でもてなしたいからと招待してくれるのだ」
「素敵なお話です。わたしがコンチネンタルで働かせてもらえたのも、その方のおかげかもしれませんね」
「そうだな」
手紙を開いて読みながら、真之は隣に立っている由香子に顔を向けた。
「そうだな、来週にでもまたごちそうになってくる。ついでに見て回りたい店もあるから、少し出かけてくることにする」
「ご出張……、ですか?」
僅かに由香子の表情が曇ったのを真之は見逃さなかった。
「ああ、少しの間だが、家を空けることになるだろう。留守の間も、この家のことを頼むぞ」
「はい、わかりました。でも、何日もご主人様がいらっしゃらないのは寂しいです……」
「まあ、そう言うな」
「はい……」
「私の居ない間に、またコンチネンタルにも顔を出すのもいいだろう」
「そうですね。あの、それでしたら……」
「うん?」
「お土産を期待してもよろしいでしょうか?」
由香子が辛うじて笑顔を保つために、そんなことを言った。半ば冗談で、半ば本気で出た言葉だった。
「そうだな。楽しみにしているといい」
冷たくなりきれない真之は、そんな笑顔を見せる由香子にそう言うのだった。その間に、由香子の高まった気持ちが幾分でも落ち着くとよいのだが……。笑顔の由香子を見ながら、真之はそんなことを考えていた。
「行ってらっしゃいませ。お気をつけて」
幾分の寂しさを感じながらも、そう言って由香子は真之を見送った。身の回りのものの少ない男性らしく、由香子などからすれば驚くほど量の少ない荷物に感歎した由香子だったが、真之は「まあ、遊びに行くのでもないのだからな」と軽く受け流した。
この日は、玄関を出て門まで見送りに出た由香子に、「相変わらず大げさだ」と苦笑する真之だったが、若干の開放感を伴っていることもあり、悪い気分ではなかった。
「ああ、何かあったら連絡する」
「はい、お帰りを楽しみにお待ちしています」
いつもより更に深く頭を下げて、由香子は真之の背中を見守った。個人としては遠出を伴うような趣味を持たない真之であったから、今回が洋館に住むようになってから初めて、数日に渡って家を空ける機会になっていた。それは即ち、由香子にとっても初めて真之から数日を離れて暮らすということでもあった。たとえ自分の気持ちが届いていなくても、そうして同じ屋根の下で暮らしていたことはとても幸せなことだったのだということに、由香子は改めて気付かされる。
真之の姿が見えなくなって、ようやく由香子は洋館の建物の方へと戻っていった。
「ご主人様が戻られるまで、しっかりがんばらなきゃ」
由香子はそう言って自分を励ます。
真之の表敬訪問と出張は四日間の日程であった。一度、自分の部屋に戻った由香子は、ペンを手にして、壁に掛かっている可愛らしい小動物のポスター・カレンダーの真之の帰宅日のところに丸を付けた。今の日付からそこまでの数日間が、長いものと由香子には感じられる。
洋館は広いだけに、自分一人だけになるとその寂しさを増す。今までにもそうした寂しさを感じることはあったが、真之が帰って食事をする時間になれば由香子のそんな寂寥はすぐに満たされた。だが……。
「留守の間も、この家のことを頼むぞ」
由香子は大きく首を振って、そんな真之の言葉を思い出した。真之がいないからこそ、自分はこの洋館を快適なものに保たねばならない。真之が帰宅したときに、心から落ち着いてくつろげるような場所を提供すること、それも自分の役割である。
鏡を見た由香子は、少しだけ乱れているエプロンの紐を結び直した。頭のカチューシャとリボンももう一度整え直して、自らを励ますように笑顔を向ける。このメイド服は、自分に元気を与えてくれるのだ。そして、このメイド服は真之が自分のために仕立ててくれたものに他ならない。
「今日は、ご主人様のお部屋もしっかりお掃除出来ますね」
そんなことを考えながら、由香子は自分の部屋を出て、再びこの家のメイドに戻っていった。
真之が出て二日目の晩、居間にある電話が鳴った。
もともとあまり鳴ることのない福原家の電話であったが、真之が留守の間は一度も鳴っていなかったので、由香子は少し驚いて受話器を取った。電話の応対、特に最初の言葉はその家の「格」というものを端的に示す。それを知っている由香子は、いつも緊張して電話を取る。
「はい、福原でございます」
そんな由香子の耳に入ってきたのは、自分の聞き慣れた声であった。
「ああ、由香子か。私だ、真之だ」
「あっ、ご主人様!」
緊張が解けて、思わず嬉しさをそのまま声に出していた。真之に伝わるのは声だけで、今の表情までは見えないことが勿体なくもあり、ありがたくもあった。
「市内のビジネスホテルに落ち着いたところだ。明日は移動日にして、着いてから店を視察に行き、明後日の夕方前に帰ることになると思う」
「はい、お帰りを心待ちにしています。今日は、櫛木さんのところに行かれたのですよね」
「ああ、すっかりごちそうになってしまった。焼酎まで飲まされてな、まだ少し残っているようだ」
「櫛木さまは、久しぶりにご主人様にお会いになられて喜んでおられましたでしょうか」
「ああ、それはもう。ご子息が跡を継いでくれることも決まったそうで、終始上機嫌だった」
「それはよかったです。ご主人様もお楽しみになられたようで何よりです」
「そうだな。家の方は特に問題はないか?」
「はい、大丈夫です。今日はよいお天気でしたので、布団を日に当てましたし、お屋敷の中も隅から隅まで綺麗に掃除してしまいました」
「はは、そうか。だが、今は由香子一人なのだから、少しは気を抜いて休んでもいいのだぞ」
「はい、こちらもかなり落ち着きましたので、お庭を整えましたら、コンチネンタルへ行こうかとも思っています」
「ああ、そうするといい。まあ、しっかり頼んだぞ。何かあったらまた連絡する」
「はい、おやすみなさいませ」
「おやすみ」
さほど長い会話ではなかったが、由香子は旅先の真之と話が出来て嬉しかった。
当の真之の目を気にしなくてよいせいもあろうが、若干、顔が赤くなっているのが自分でも分かる。まだ数日、由香子はこの洋館に一人でいなければならなかったが、この僅かな間はそのことを忘れることが出来た。
「あ、そろそろお風呂の時間にしないと」
真之がいない時の特権が、メイドの身でありながら一番風呂を独占できることであった。もとより一人で入浴する分には充分な広さのある浴室だったが、メイド服を脱いで純粋な一人の女となり、足を伸ばして適温の湯のもたらす浮力に身を任せていると、心もゆっくりと温まってくるのが分かる。
「早くご主人様にお会いしたいです……」
立ち上る湯気をぼんやりと眺めながら、由香子は小声でそんなことをささやいていた。
由香子がコンチネンタルを訪れたこの日は、この時期にしては驚くほど気温が低くなった。夏の装いを準備していた人たちはさぞかし慌てたであろうが、由香子もその例外ではなかった。
薄手の私服を用意し、友人である直美を始めとするコンチネンタルの人と会えるのを楽しみにしていた由香子だったが、朝、目が覚めたときの空気の冷たさに少なからず驚かされることになった。
寝起きの表情のままで少し悩んでいた由香子は、真之のいないことを奇貨として、少しだけルール違反を犯すことにした。即ち、改めて衣裳棚から冬服を引っ張り出してくるのではなく、いつものメイド服で出かけることにしたのである。
真之は由香子がここでメイドとして働く上でのルールとして、洋館の中では常にメイド服でいるように、外出するときには常に私服に着替えるようにと命じていた。勿論、就寝時などの例外はあったが、内ではメイドとしての自覚を保つという理由の他、外では無用に目立つ姿を他人に見せたくはないという心遣いもあったのであろう。家の買い物に関してもそれは例外でなかったから、時には手間に感じられることもあったが、由香子にとってもメイド服と洋館はそのルールによって強く結びつくことにもなって、好ましいことであった。勿論、そのメイド服と洋館はそのまま真之にも結びつく繋がりとなる。
だが、一度、真之に連れられてコンチネンタルに行ったときにはメイド服姿のままであった。今となっては懐かしいコンチネンタルの制服と比べても遜色ないお気に入りは直美にも好評で、「今度来るときも、是非、着てきてね」とリクエストも受けたのだった。
その時は「ご主人様のおいいつけがあるから」としか言えなかった由香子だったが、期せずしてそのリクエストに応えられるチャンスが到来したともいえる。
さすがに電車やバスの中では目立つだろうから、スプリングコートを上に羽織っての外出となったが、由香子はどこか浮ついた気持ちでコンチネンタルを訪れたのだった。
「あ、由香子、こんにちは。もうすぐランチタイムが終わるから、ちょっとだけ待っててね」
忙しい時間帯を外して来たつもりの由香子だったが、幸か不幸か電車の乗り継ぎが良好で思ったよりも早く到着してしまった。
「うん、邪魔したら悪いから、バックの隅の方で待たせてもらうね」
「ごめんね」
「ううん、こっちこそ」
直美と、他にアルバイトのウェイトレスが二人ほど、見慣れた制服姿で店の中を駆け回っていた。
奥のキッチンからは杉野と見習いのコックがこちらも戦場の如く忙しく立ち回っている。
「いまのうちに店長にご挨拶しておかないと」
店に来ることは予め言ってあるし、おそらく直美からも話が通じているであろうが、洋館でも世話になった広瀬にはやはり挨拶をしておきたい。
奥の事務室に向かい、執務中の広瀬の邪魔にならない程度に挨拶を済ませる。「もう少し早く来てくれれば、西崎さんにも手伝ってもらえたな」という広瀬の冗談を受け流せず、「えっ、その……」と僅かに困惑する。
ようやくランチタイムも落ち着いてきた。この時間帯の最後の客を見送ると、夕方まで店の方は一時休息になる。
フロアを整理し終えた直美が、所在なさげに佇んでいた由香子に声を掛けて誘った。
「やっと落ち着いたわ。賄い、また作ってもらっちゃったから、あっちで一緒に食べよう?」
「でも、今のわたしは……」
「ううん、いいのよ。杉野さんも由香子を知らないってわけじゃないんだし、わたしが『由香子の分も』ってお願いしたんだから」
「そうなんだ、ありがとう」
コンチネンタルの制服姿の直美と、メイド服姿の由香子という組み合わせは少しばかり懐かしかった。
「そういえば、オーナーの言いつけで、メイド服は御法度じゃなかったの?」
「相変わらず可愛いわね」と褒めながら、直美がそう指摘する。
「うん、本当はね。でも、ご主人様が出張中だから、こっそりこのまま来ちゃった。用意してた服じゃ今日は寒そうだったし……」
悪戯を見咎められた子供のように、由香子はもじもじしながら答える。
「そうよね。今朝は寒かったからびっくりしちゃったよ」
「だよね」
そんな話をしながら、どちらが促すということもなく、用意された食事を食べ始める。このあたりは気心の知れた女友達同士、気楽なものである。
「やっぱり、メイドさんの仕事って大変でしょう?わたしにはとても務まらないと思うなあ。その服は、わたしも一度着てみたいなーって思うけど」
「うん、確かに大変だけど、やり甲斐もあるかな。もちろん、コンチネンタルで働いていたときもお仕事にはやり甲斐があったけど、それともまた違うのかな……」
「ふうん、そうなんだ」
意味深な目を直美が由香子に向ける。由香子はそれを正直には受け止められずに、思わず俯いてしまう。
「メイドとご主人様っていうのにも、相性みたいのはあるのよね、きっと。実は、わたしの短大時代の友だちにもメイドをしている人がいるのよ」
「えっ、そうなの?」
「うん。短大の時に一番仲のよかった友だちでね、真理子っていうんだけど、『暖かい家庭を作るお手伝いが出来る仕事をしたい』って言って、メイドさんになったの。メイドっていうと、今の由香子がいるところみたいな洋館とか、わたしたちには想像も出来ないようなお屋敷に住んでいるお金持ちとかそういうのを想像しちゃうから、『真理子がメイドさん?』ってすごくびっくりしたのよね」
「そっかぁ。その真理子さんとは、今でも連絡取ったりしてるの?」
「もちろんよ。真理子も住み込みだから大変かもしれないって思ったんだけど、雇い主さんがいい人で嬉しいって言ってるよ」
「そうなんだ……」
「真理子の『ご主人様』は、普通のサラリーマンをやってる人だって聞いて、ちょっと驚いたけどね」
「えっ?」
「しかも、住み込んで働いているのは、お屋敷とかじゃなくて、普通のマンションなんだって。どういうきっかけで真理子がその人のところで働くようになったのかはまだ詳しく聞いていないんだけど」
「へぇー」
一口にメイドといっても、いろいろな仕え方があるのだと由香子は感心した。今の自分と真之のような関係は勿論、由香子にとってよいものではあったが、上下関係は意識せずに半ば対等に暮らしている真理子というメイドも少しうらやましく思えた。
「真理子がその人のことをどう思っているのかは知らないけど、いつも感謝されてまんざらではないみたいね」
「いいなあ」
「何よ、由香子だって『ご主人様に褒めてもらった』っていつも嬉しそうに言うじゃない」
由香子の肩を指先で突っつきながら、直美がそう言ってからかう。
「そ、それは……」
「それにしても、わたしみたいな庶民に二人もメイドさんの友だちがいるなんてちょっと不思議よね」
「あははっ、そうだね」
話に夢中になりながらも、杉野の提供してくれた賄い料理は既にほとんどなくなっていた。直美の友人である真理子の話から始まり、コンチネンタルの近況まで、親しい二人に話題は尽きなかった。
直美の休憩時間も終わり、ティータイムから夕方への準備をする頃合いになった。由香子は、「食事を頂いたお礼です」と、この日は直美のフロアの準備を手伝うことにしていた。
それなりのブランクがあるとはいえ、元の自分の職場でもある。素早く、且つ丁寧に床のモップ掛けを済ませる由香子を見て、直美が感心していた。
「手際がいいわねー。由香子の掃除って、時間を掛けていないから手抜きのように見えるのに、ちゃんと隅まで綺麗になっているのよね」
「手抜きに見えるって酷いなあ」
「でも、同じ時間でわたしにやれって言われたら、とてもじゃないけどこんなきちんとは出来ないわよ」
「そうかなぁ。でも、お掃除は普段からやっているから慣れてるのかも」
「オーナーのお屋敷でも、こんな感じで掃除するの?」
「うん。洋館の床はそうかな。時々、雑巾で乾拭きしたりもするけど。年に何回かのワックス掛け以外はそんなに大変でもないよ」
「ワックス掛けまでしてるんだ。すっかり本職のメイドさんだね」
「ご主人様は、あまり外の人に任せたくないみたいだから。でも、そのおかげで、お庭の手入れもさせてもらってるんだよ」
「ガーデニングっていうの?優雅ねぇ」
「そんなでもないよ。でも、自分の植えたお花が咲くのはやっぱり嬉しいかな。ご主人様にももっと見て欲しいんだけど……」
「由香子はやっぱり素敵なメイドさんね。その服もよく似合ってるし」
そう言って、直美はわざと大げさな仕草で上から下まで由香子のメイド服姿を眺める。
「ロングスカートって、家事には不向きに見えるのにね」
「そうでもないよ。確かに、コンチネンタルの制服の方が動きやすいとは思うけど」
今度は、由香子が直美の制服姿を見つめる。
「そうよね。リボンも動きの邪魔にならない位置と長さに工夫されているし」
デザインに少し関わっている直美にとっては、この制服への愛着も深かった。服装談義に花を咲かせながら手を動かしているうちに、滞りなくフロアの清掃も終了した。あとは各テーブルに一輪挿しを花を添えながら置いていくだけである。
「そろそろお店の準備もしないとね。オーナーは明日帰ってくるんだっけ?」
「うん。今日の帰りにお買い物していくつもり」
「店長も今は少し落ち着いていると思うから、帰る前に挨拶していくといいよ」
「そうだね。ごめんね、今日は邪魔しに来ちゃったみたいで。杉野さんは忙しそうで、ちょっと教えて欲しいことがあったんだけど、また今度にする」
「そうだね。そろそろ夏のメニューを考え始める時期だし」
「うん、それじゃ、わたしは店長のところに行ってくる」
「またね」
キッチンへ向かっていった直美を追うような形で、由香子は事務室の方へやってきた。
ドアに掲げられているシンプルな「事務室」と書かれたプラスチックのプレートの下をノックしようとしたとき、中からうっすらと話し声が聞こえてきた。広瀬の声であることに気付いて、軽く握っていた右手を胸の前で止める。
「あ、そうでしたか。あちらの喫茶の視察は如何でしたか?」
「やはりそうですか……。独自性となると既にあちらではいろいろありますしね」
「なるほど、確かにそういうのも面白いかもしれません。オーナーが考えているより、そうしたソフト面は重要ですよ」
「いえいえ、うちの店のも結構、評判がいいんです」
少しずつの間をおきながら、広瀬の声が廊下の由香子にも聞こえてくる。どうやら、真之と電話で話しているらしかった。
そんな広瀬をうらやましく思いつつも、そのままドアの前で立ち止まっている由香子に次の会話の断片が入ってきた。
「そうすると、明日にでもそのメイドさんと面接を?」
(メイドさん?)
由香子は一瞬、聞き間違いかと思ったが、次の言葉がそうでないことをはっきりと示していた。
「いえ、メイドさんですよ。それで採用が決まればいいですね。いろいろと準備期間は必要でしょうけど」
「そうすると、帰りは遅くなりますか?」
「ですね、伝えておきましょう。では、オーナーもお気をつけて残りの日程を」
「はい、失礼します」
「メイド」「面接」「採用」という言葉が由香子の頭の中で繰り返された。半年前、自分が他ならぬこの事務室で真之に会い、面接を受けたことを思い出した。出張先で、オーナーは新しいメイドを雇おうとしているのだろうか。そんなことを考えたとき、由香子の頭の中は真っ白になった。オーナーが新しいメイドを求めているということは、即ち、自分の居場所はその人に取って代わられることを意味する。その心当たりが全くないわけではなく、由香子は大きなショックを受けた。自分はご主人様に甘えすぎていたのではないか。
人は自分の見たいものしか見えないと同時に、不確実な環境の中では見たくないものが必要以上に大きく見えることもある。疑心が暗鬼を産み出している。
辛うじて由香子は自分の体を支え、事務室の扉をノックする。
「はい」
中からいつもと変わらない広瀬の声が聞こえる。広瀬一家を洋館でもてなした時のことが頭によみがえってきた。
「あの……、西崎です」
「あ、西崎さん。どうぞ、入って。ちょうどよかったよ」
「はい、失礼します」
由香子が心配そうな面もちで中に入る。それでも、広瀬にきちんとお辞儀することは忘れていなかった。
「ちょうど今、オーナーから電話があったところだよ。明日は予定が変更になって、帰りが少し遅くなるかもしれないそうだ」
「はい。実は、お話が少し聞こえてしまったのですが……」
(その、新しいメイドさんというのは……?)
喉まででかかったその質問を、辛うじて由香子は押さえつけた。
「そうか、西崎さんにもすぐに連絡すると言っていたけど、こっちに来ているから私から伝えると話しておいたよ」
真之の口から、直接聞かされるということであろうか。負の連還に陥った由香子にはそうした想像が次から次へとわき起こる。つい数日前に、出張先の真之と電話で話したことを思い出す。それすらも、今の由香子には絶望への序曲に聞こえるのだった。
「はい、ありがとうございます。でも……」
「うん、どうしたのかい?」
「いいえ、何でもありません。ご主人様……、いいえ、オーナーの今日の泊まり先はこちらでよかったんでしたよね?」
エプロンのポケットから、いつでも取り出せるようにしていた出張中の連絡先を出して広瀬に見せる。
「ああ、確かそうだよ」
「わたしからも、一度オーナーに連絡してみます」
「その方がいいかもしれないね。オーナーも西崎さんの手料理を久しぶりに堪能したいだろうしね」
そんな広瀬の言葉も、今は空虚に聞こえてしまう。
ある一つの決心を持ちながら、感情を表に出さないように辛うじて自分を支える。
「はい。それでは、今日はお邪魔して申し訳ありませんでした」
「気にしなくていいよ。また来てくれると私も助かるかも」
コートを忘れて出かけ掛けた由香子は、慌ててコンチネンタルの入り口で気付くと、急いで羽織って外に出た。この日だけ急に寒くなった意味が、由香子には分かったような気がしていた。
真之とはたとえ結ばれ得ないとしても離れたくはない。今はその感情が由香子を動かしていた。
それから約一時間後、由香子は東京発の新幹線の車中の人となっていた。
自分がメイド服を着ていることを思い出し、座席に落ち着いて脱ぎ掛けた春物のコートのボタンを慌てて掛け直した。
中途半端な時間帯だったからか、のぞみ号は思ったほど混雑しておらず、由香子の隣の席も空いたままであった。
流れるような窓の外の景色を眺める余裕もなく、景色というよりは単なる抽象的な背景のように思いながら、時折、トンネルに入ったときに窓に映る自分の姿を見つめる。
(ご主人様と、一緒に暮らしたい……)
由香子の思いはそこにあった。まだ自分でも気が付いていない、由香子の求めるものもそこにあるのである。
髪のカチューシャは外してあったが、リボンだけはいつものように身につけていた。そして、コートの襟元にはメイド服のリボンが同じように見えている。由香子は、ポケットから真之の滞在するホテルを書いたメモを取りだした。もう何度も見て、ホテルの名前どころか電話番号まで覚えてしまっている。
一刻も早く、真之に会いたかった。そして、自分をこれからもあの洋館に置いてもらえるように頼むつもりだった。最速ともいえる交通手段を使っても、由香子の焦りを押さえることは出来なかった。
車窓から見える山々が、そんな由香子をひっそりと、しかし優しく見つめているようであった。
新幹線を降りた由香子は、他の乗客に続くようにして改札を出た。突然の、しかも慣れぬ旅は由香子を戸惑わせたが、メモの内容を頭の中に思い浮かべながら目的の場所を探していくと、思いのほか簡単に見つかった。
神殿を模したような立派な造りのフロントに立ち寄り、真之の泊まっている部屋番号を教わると、半ば駈けるようにしてエレベーターに乗り込み、その階へと向かっていった。
薄暗いともいえる廊下を進み、真之のいる部屋の前までやってきた。そこまで来て、いったい自分はどんな顔で真之に話しかければいいのか、そんな心配がわき起こってきた。
だが、最早ここまで来て引き返すことは出来ない。ここで自分の気持ちを真之に伝えなければ、あの洋館に置いてもらうことは出来なくなってしまう……。そんな風に由香子は思い詰めていた。
コンコン……。
いつもとは違うノックの音が響いた。
数秒の間、由香子はドアの前に直立して待っていたが、反応がない。
コンコン……。
もう一度ドアをノックする。
すると、部屋の中からドア越しのくぐもった声で返事があった。
「どなたかな?」
それは、確かに由香子のよく知っている声であった。一瞬だけ、どのように答えてよいのか分からなくなったが、思い切って自分の名前を言うことにした。
「ご主人様。あの……、由香子です」
「なにっ、由香子?」
「はい」
内側からロックが解除され、チェーンを付けたままの状態で扉が半開きになった。このような場所に真之に用事があって訪れる人間のあることを想定していなかったであろうから、当然の用心であるとはいえる。
しかも、真之は扉の向こうにいるのが由香子であることに驚きを隠せない様子であった。だが、確かに目の前にいるのが由香子であることが分かり、冷静になって言った。
「わかった、少し待ちなさい」
一度ドアが閉じられ、中からチェーンを外す音が聞こえた。そして、今度はきちんとドアが開き、まだ上着だけ脱いだスーツ姿の真之が姿を現した。
「連絡も無しに、急にどうしたのだ。まあ、とりあえず中に入れ」
「はい、わかりました」
由香子が真之に一礼して、後に続いて中に入った。一等地にあるこのホテルは、フロントの高級感に劣らぬ間取りを各部屋に持っているようであった。そんな部屋の奥まで真之に導かれ、促されるままに奥のソファに座った。
「家に何かあったのか?ここの電話番号は教えてあったし、広瀬を通じて私と連絡を取ることも出来ただろう?」
「はい。ですが、どうしてもご主人様と直接お話がしたくて……」
「明日の夕方には戻ると言ってあっただろう。そんなに急ぐことなのか?」
由香子のただならぬ雰囲気を真之は感じ取ったようである。だが、それが何を理由にして生じているのか、真之には想像が付かなかった。
「はい、わたしにとっては……」
「そうか、まあ慌てることはないからゆっくりと説明してくれ」
真之が落ち着いていることが、由香子の心配を更にかき立てた。コンチネンタルで聞いたところによれば、真之は明日、新しいメイドに会うことになっているらしい。広瀬は「それで採用が決まればいいですね」と言っていたが、真之の中では由香子の代わりになるメイドは既に決まっているのではないだろうか。
「今日、コンチネンタルに行きました。そこで店長から聞いたのですが、明日、こちらでご主人様が新しいメイドを採用するか決めるのだと聞いたんです」
「ああ、その話か。メイドか……、まあ、確かにそうだな」
「あの……、わたしはご主人様のメイドとして失格だったのでしょうか?ご主人様に知らぬうちに不快な気持ちばかりをさせているメイドだったのでしょうか?」
顔をくしゃくしゃにしながら、由香子が必死に真之に問いかける。
真之は、腕を組んで黙って聞いていたが、やがて、重苦しく口を開いた。失敗をたしなめる時と同じその様子に、由香子の緊張は最高潮に達した。だが、その真之が一瞬だけ笑みを見せたような気がした。それが今の由香子には幻のように見えた。
「由香子、お前は何か大きな勘違いをしているのではないのか?」
「えっ?」
「メイドというのはだな、今日、視察してきた喫茶店の女性の店員のことだ。今日はその店に行って店長と話をしてきたのだが、ちょうど明日、新しいアルバイト店員を面接すると聞いたので、私も同席させてもらうことにしたのだ」
「そ、そんな……。てっきりわたしは……」
「由香子をクビにして、新しいメイドを洋館に住まわせるのだと思ったのだろう」
「は、はい。新しいメイドと聞いて、いても立ってもいられなくなって……。どうかご主人様に、わたしをこれからも置いてもらおうと頼みに来たんです」
「そうか……」
「わたしは、ご主人様に真摯にお仕えするメイドです。そして、ご主人様の妹でもあるんです。だから、どうかわたしをこのまま置いてくださいって言おうと思って……」
安心感と危機感、相反するような気持ちが同時に由香子の心を揺らしていた。由香子の中には、本来は決して表に出してはならない思慕の気持ちを、真之に見せてしまっているという後悔が常にあった。ことに、自分の気持ちを口にしてしまってからは、どうしてもそれが隠しきれなくなっている。また、真之がそれを好ましく思っていないことも分かっていた。いうなれば、「自分が逐われるのではないか」という心当たりが暗鬼を生じていたのだ。
「大丈夫だ、由香子は私にはなくてはならぬ人間だ。ただ、前にも言ったとは思うが、私に思慕の気持ちを向けるのは止めて欲しい」
「はい、でも……」
「まあよい。まず少し落ち着いたのなら、そのコートはもう脱ぐといい」
「はい、わかりました」
真之の言いつけ通り、コートを脱いだ由香子。その下のメイド服がふわっと舞った。いつもとは違う場所で、いつものようなメイド服姿で真之に相対する形になる。それがよいことであるのか、由香子には判断できなかった。少なくとも幸いなことに、真之は由香子のメイド服姿を見てもとがめ立てはしなかった。
座り直した由香子に、真之が言う。
「さっき、由香子は言ったな、自分はメイドであって、妹であると。お前は自分の都合のよいようにメイドになったり、妹になったりするのか?」
真之としては、それほど痛烈な意味を籠めて発した言葉ではなかった。
だが、その言葉は由香子の心に大きな刃のように突き刺さった。
正体の分からないショックを受け、由香子は目に涙をあふれさせた。決して自分は真之の言うように都合よくメイドや妹の立場を使い分けているのではなかった。これまでの由香子の中では、思慕の対象としての真之が第一にあり、あこがれ、尊敬するご主人様としての真之が次にあった。自分がそんな真之の妹であることを聞かされたのは最近のことであり、その事実が由香子の中できちんと消化できていない以上、そのように「使い分ける」ことなど出来る筈もない。
そんな真之の言葉が由香子を傷つけたが、同時に由香子に自分が真之の妹であるという事実をはっきりと受け止めさせることになった。
俯いた由香子の目から涙のこぼれ落ち、スカートを覆うエプロンの上に雫を広げた。
そんな由香子の反応に、さすがの真之も狼狽した。今までの由香子への態度がことごとく裏目に出てしまっていたことへの不快もあっただろうが、自分の言葉が由香子という娘を傷つけてしまったことははっきりと分かる。
今の由香子の涙に打算の気持ちなどはないことはよく分かっていた。女の涙に心を乱されることのない真之ではあったが、決して冷酷な人間でもない。
考えてみれば、由香子は由香子なりにいろいろなものを抑えて暮らしてきたのだ。そして、由香子をそういう気持ちにさせたのは結局のところ、他ならぬ自分である。
由香子は涙を流すことで気が緩んだのか、感情を抑えきれなくなり、大きな声で泣き始めた。
「悪かった、由香子。今の言葉はきつすぎた」
真之は立ち上がり、俯いたままの由香子の顔に手を当てて自分の方を向けさせた。
由香子は泣いたまま首を大きく左右に振る。
「お前の気持ちを分かってやれずに、悪かったな」
目線を合わせるべく、その場にしゃがみ込んだ真之を前にして、由香子は狂ったように首を振り続ける。
「違います、ご主人様は、お兄さんは悪くありません」
そう言おうとしているのだが、泣いているために言葉が出ない。それを補うかのように由香子は首を左右に振り続けるのだった。
真之はどうすることも出来ずに、由香子の両肩に手を置いていた。自分は由香子の恋愛感情を受け止めることは出来ないし、決してそうすることもないだろう。だが、由香子は自分の妹でもあるのだった。たとえあの二人の子だとしても、自分と同じ血を少なくとも半分は受け継いでいる。由香子が受け入れずにいたその事実を、由香子とはまた違った形で真之も受け止める時が来たようだった。
目の前で泣いている女に狼狽したのは、真之にとって初めてのことであった。
為す術もなく左右に揺れるリボンを見ていた真之であったが、ようやく由香子の動きが緩やかになってくる。
動きを止めた由香子は、涙目で真之を見つめる。両の目から、幾筋かの涙が頬の曲線に沿って流れ落ちていく。
真之は静かに頷いて、そんな由香子を見つめ直す。決して自分から家族を作るということはしないであろう真之が、唯一家族と認めることの出来る存在、それが由香子なのだった。
「ご主人様、ううん、お兄ちゃん……」
辛うじてそれだけ言うことの出来た由香子は、再び感極まって泣き出した。
真之の胸に顔をうずめ、真之の体温を肩に感じながら、これまでに抑えてきたものを全て流し出すかのように大きな声で泣いた。
真之は、由香子の肩に乗せていた手をそのまま後ろに回し、背中をしっかり抱きしめた。
由香子の知らなかった、男の広い胸と太い腕にしっかり守られて、その体温が伝わって、ようやく由香子は少しずつではあるが落ち着くことが出来るようになっていた。
安心……。
居場所……。
由香子の求めていたのは、恋の相手ではなく、もっと根本にあるそうしたものだったのかもしれない。両親に甘えることが出来ずに、しかも一人っ子として育ってきた由香子は、無条件に甘えることの出来る場所は恋愛や結婚の中にしか存在しないのだと思っていた。しかし、その幻想は崩されて、幻の霧が晴れた中から由香子の甘えられる場所へたどり着いた。
真之が感じていたのと同じように、父親に依存する母親をどうしても由香子も好きになれずに育っていた。自分はそういう人間になりたくないと思いながらも、結局は「甘える場所」という依存を真之に向けていたのではないかと、そんなことを真之の胸の中で考えていた。
真之は自分をメイドとして雇い、立派なメイドに育ててくれた。その間に覚えた家事の技術やそれを行う喜び、そんな多くのものを自分に与えてくれた。
「由香子は、ご主人様のことが好きです」
ようやく泣きやんだ由香子は、真之に向かってそう言った。しかし、言葉は同じであってもそれはそれまで由香子が幻想していたものとは異なっている。真之も由香子を見てそれに気付いたであろう。
由香子がここに来たのは、揺れていた由香子の感情がもたらした誤解からであった。しかし、それは最終的にはこの兄妹に居るべき場所というものを与える手助けになった。
これまでに、由香子はこうして好きな人の温もりを感じることは出来ずに真之と暮らしていた。ようやく、こうして由香子の心は満たされることになったのだ。
今度は、うれし涙が由香子の両目からあふれてきた。
由香子は真之の妹であり、メイドである。そして、まだ慕う気持ちはそのままであろう。
だが、今の由香子はもう真之を思うが故の苦しみからは解放されていた。そして、それは真之の中にあった昏さも解き放ったのである。
真之が由香子の髪をそっと撫でた。心地よさが由香子の背中を駆け抜けて、由香子は静かに顔を上に向けて目を閉じた。
「こら、調子に乗るのではない」
由香子の唇に触れたのは真之のそれではなく、無骨な人差し指であった。
「はい。でも、由香子は、ご主人様のことが好きです」
由香子は同じ言葉を繰り返した。「好き」という言葉には実にいろいろな意味が籠められているのだと由香子には思えるのだった。いつかは別の意味で、由香子は一人の男性を好きになり、その人と家庭を築く時が来るのだろう。
だが、今はようやく見つけた自分の居場所で、自分が大事な人に守られているのだということを感じていたい。
「幸い、この部屋にはベッドが二つある。今から由香子を追い出すわけにもいかないだろうから、今日は私と一緒にこの部屋に泊まっていくがいい」
「はいっ、ありがとうございます」
半年以上を同じ屋根の下で過ごしながら、そして半分ではあるが血の繋がった兄妹でありながら、同じ部屋で一夜を過ごすのは初めてのことであった。
「今だけは、お兄ちゃんに甘えさせてもらってもいいですか?」
メイド服とは若干不釣り合いな由香子の言葉だったが、真之は優しく妹に頷いた。
「そうだな。だが、由香子ももう子供ではないだろう。『お兄ちゃん』というのだけは勘弁してもらえないか」
「はい、それでしたら、『兄さん』とお呼びしてもいいでしょうか」
涙を拭いて、ようやく心からの笑顔を見せて由香子は真之に言うのだった。