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第7章 あこがれの道の先に

「ご主人様、食後の紅茶が入りました」

居間で本を読んでくつろいでいる真之のもとへ、これまでと変わらぬメイド服姿の由香子が紅茶を持って姿を現した。

「由香子か。今日の紅茶は少し香りが違うようだが」

真之の指摘に、由香子は嬉しそうに表情を緩ませる。

「お気づきになられましたか。今年の新しい葉を買ってきたんです」

「なるほどな、では早速、入れてもらおうか」

「はい、かしこまりました」

真之の前にある小さなテーブルの上に、由香子は静かにティーカップを置いた。そして、砂時計の砂がほとんど下に落ちているのを確認して、袖に気をつけながらポットを手に取り、少しずつ紅茶を注ぎ始める。

宝石のような色合いの紅茶がカップを満たしていくのを、由香子は優しい表情で見守る。

「お前も一緒に、な」

「はい、そのつもりでおりました」

抽出される紅茶の濃さが均等になるように、由香子は自分のカップと交互に注いでいく。

二つのカップが満たされると同時に、ポットの方は空になる。上品な白さが華奢にも見えるポットを、由香子は静かにテーブルの端の方に置いた。

「うむ、味の方も香りには負けていないようだ。やはり紅茶は由香子の入れてくれるものに限るな」

「そ、そんな……。でも、ありがとうございます」

その後の由香子の生活は、徐々に落ち着きを取り戻していった。

真之を好きであるという気持ちは変わっていなかったが、「好き」の意味はこれまでに由香子が夢見ていたのとは違う形のものになっていた。そして、それを表に出す方法も変わっていた。由香子にとっては、ようやく自分が安心して居ることの出来る居場所や立場というものを得られたということになるのだろう。

真之の妹であるという事実は決して変わることはなく、その事実に向き合いながら、兄として、ご主人様としての真之を慕い仕えることが出来るようになったのだ。幻のような恋愛感情は、そんな二つの気持ちに吸収されていったのかもしれない。

時には甘えさせてもらうことも出来る兄という存在。そして自分に大きな価値を与えてくれるメイドという仕事。この洋館の中で、ひとまずは、由香子は自分の探してきた幸せというものを手に入れることが出来たようである。

やがて、由香子も一人の男性を好きになり、今とは別の形の「家庭」を手に入れることになるのだが、それについてはまた別に語られる機会もあるかもしれない。

あこがれの道の先に由香子が見つけたのは、由香子が最初に求めているものとは異なってはいた。だが由香子と、そして真之の成長の中で見出したのはこの洋館の中にあるこんな場所であった。

由香子が丹誠込めて育て上げた草花が、庭を美しく彩っていた。そろそろ夏に差し掛かる頃合いになり、晴れた日に布団や洗濯物を外に出せば心地よさよりも暑さの方が強く感じられるようになっていたが、そんな花たちが向けてくれる優しい表情に由香子の心は満たされるのだった。

「今日は魚料理か。それにしても、ずいぶんと手が込んでいるようだが……」

並べられた皿を目の前にして、真之が由香子に言った。

由香子がメイドとして真之の食生活を司るようになり、真之はそれまであまり関心を持つことのなかった自分の食そのものについて興味を示すようになっていた。

真之自身は料理をすることはなかったが、コンチネンタルを始めとしてレストランや喫茶店を経営する身であるから、全く食に関して無関心というのではない。しかし、自分の食事ということになると、さほど気に掛けるということもなく暮らしていた。

杉野の「レストランの食事と日常の料理は違うものである」という言葉の意味を知り、真之の健康管理までも踏まえた食事を由香子が提供していくうちに、真之も任せきりだった自分の食事に多少の興味を持つようになってきたのだった。

由香子も、自分の作ったものに関心が持たれ、その出来具合を褒められるのは嬉しいことである。この日のメインは魚の蒸し焼きであったが、白身魚を同系の色で彩っているソースは、久しぶりの由香子の自信作であった。それだけに、真之が「手が込んでいる」と気付いて評してくれるのが嬉しい。

「はい、白ワインと生クリームを使って、お魚の味を引き立てるように工夫してみました」

「そうか。由香子の和食もなかなか手慣れてきて安心できる味になってきたが、こういう洋風の食卓も悪くはないな」

「ありがとうございます。あまりしつこい味付けにならないように気を付けましたが、ご主人様に気に入ってもらえるでしょうか……」

「それは、食べてから判断することにしよう」

「はい。では、いただきます」

真之は頷いてナイフとフォークを手に取った。由香子も胸の前で両方の手を合わせた後に真之に倣う。

「あの……、いかがでしょうか?」

自信作とは言っても、当の真之に美味しいと思ってもらえるかどうかはやはり心配である。

静かに口を動かしている真之をじっと見つめる形となった。その真之は、由香子に微笑みかけながらゆっくりと頷いた。由香子はようやくほっとした表情になる。

「由香子の『自信作』には偽りはなかったな。だが……」

「はい?」

「私の食べるところをじっと見つめるのはやめてくれないか」

「あっ、申し訳ございません」

由香子が顔を赤くして恥ずかしがりながら謝る。大げさに何度も頭を下げる由香子を片手で制して、真之が言葉を続ける。

「それから、今になってもまだ由香子は『ご主人様』なのか?これまではお前がメイドであることを自覚して欲しいと思ってその服を着るのを強要していたが、もうそんなに気にしなくてもいいんだぞ」

しかし、由香子は小さく首を横に振って真之に答えた。

「いいえ、兄さんとしての真之さまは大好きですけれど、それ以上にメイドとしてのお仕事もこのお洋服も好きなんです。兄さんが許してくださるのでしたら、このままメイドとしてもお仕えさせてください」

「そうか、まあ、私にとってもメイド服姿の由香子はもう見慣れたものだし、構わないだろう」

「ありがとうございます。それに、今までと同じようにお給金も欲しいですし」

「それが目的か」

笑いながら言う真之に、由香子も楽しそうに微笑みながら答える。

「はい、衣食住はきちんといただいておりますが、他にも欲しいお洋服や、化粧品などもありますし」

「まあ、由香子は年頃の娘だから、それも当然だろう」

そんな話をしながら、真之と由香子は食事を続けている。

「それに、わたしがご主人様の妹だというのは、まだ店長も直美も知らない秘密ですから」

「そういえばそうだったな。由香子はこれからも隠していくつもりなのか?」

「あの……、どうしたらいいのかはよく分からないんです。急に『わたしはご主人様の妹でした』って触れて回るのも何だかおかしい気がしますし」

「確かにそうだな……」

「でも、店長や直美には時々会うのですし、そのうちに本当のことをお話しする機会もあるのではないかと思います。それまでは今まで通りにご主人様とメイドでもいさせてください」

「ああ、分かった。その代わり、妹だからといってメイドの仕事では甘やかしたりはしないから、しっかりこの家のことを行うのだぞ」

「はいっ、それはもちろんです」

由香子がサラダを口に運びながら、ふとあることに気が付いて真之に問いかけた。

「あっ、でも、それでしたら……」

「うん?」

「メイドでないときのわたしでしたら、少しは甘えさせてもらえるのでしょうか」

「うーむ……。まあ、度を超さぬ範囲でならばいいだろう」

人に甘えることが出来ずに由香子は暮らしてきたのだ。そんな由香子がようやく見つけた場所で、少しくらい甘えさせてやることは決して悪いことではないだろう。ようやく、真之もそういう目で由香子を見つめることが出来るようになっていた。真之自身も人には甘えてこなかった。そして同時に人に甘えられるという経験もしてこなかった。由香子が甘えたいのであれば、自分は甘えさせる役割を担ってやろうではないか。屈託のない笑みを見せる由香子を見て、真之はそんな風に考えるのだった。

 考えてみれば、甘える場所がなかったことが、由香子を真之への思慕へ向けていたのかもしれない。

「それなら一つ、兄さんにおねだりしてもいいでしょうか」

「なんだ、いきなりに」

食事の手を止めて、真之が問い返した。

「ずっと前に、兄さん……ご主人様の子供の頃の写真を見せていただいたことがありましたよね」

「ああ」

「ご主人様と、その後にわたしも産まれたあの町にある駅だと伺いましたが、是非、あの場所に連れて行って欲しいんです」

「あの駅、だと?」

「はい」

「由香子もあの町で育ったのなら知っているだろうが、あの鉄道はもう廃止になって存在していないはずだ。私が東京へ出て間もなくのことだから、由香子がまだ小さい頃のことになるだろうけどな……」

「ご主人様のあの表情を取り戻せたらいいなと思いまして、わたし、いろいろと調べてみたんです。そうしたら、鉄道は廃止になりましたが、駅は同じ場所に大切に保存されていると聞きました」

「あの駅が、そのまま残っているというのか?」

「はい、敷地は公園とバスターミナルになったそうなので、駅前の様子は少し変わっているかもしれませんが、駅の中はそのまま残っていると聞きました。鉄道ファンの方もよく訪れるそうです」

「そうか……」

「あの……、ご主人様、兄さんと一緒に由香子はその駅に行きたいのですが、お許し下さいませんでしょうか……」

縋るような目で由香子が真之を見つめる。食事の手を止め、ナイフとフォークはテーブルのナプキンの上に置き、両手を膝に掛かるのエプロンの上に揃えている。

「……」

そんな由香子を、真之はじっと見つめていた。由香子は真之があの町に決してよい感情を持っていないことはよく知っているだろう。それを知った上で、それでも行きたいと言っているのだ。しかも、駅の跡が残っているということまでどこからか調べてきたようだ。

「そんなにかしこまることなどないだろう。折角の料理が冷めるぞ」

真之は、まず自分から止めていた食事を再開した。それでもまだナイフとフォークに手を伸ばせずにいる由香子に、真之は出来るだけ優しさを籠めるように気をつけながらこう言った。

「まあ、適度に甘えてもよいと言ったばかりでもあるからな……」

「あの、それでは……」

「ああ、今の仕事が落ち着いたら、連れて行ってやろう」

「はいっ、ありがとうございます、ご主人様」

ようやく、由香子も食事を再開することが出来た。そんな由香子のメイド服は少しばかり光り輝いているようにすら見えた。


由香子が真之の洋館にメイドとして仕えるようになったのは秋が深まった頃のことだった。それから時間が過ぎ、今は春本番を迎えていた。

故郷の町からほど近い温泉に一泊した真之と由香子は、その翌日に目的の駅跡までやってきた。

鉄道の代わりに人を運ぶようになったバスにも、乗客はまばらになっていた。整備された国道には絶え間なく自動車が行き交っている。決して豊かではなかったこの町も、それなりに裕福になったということなのだろうか。

まったりと走っていくバスに揺られながら、真之はそんなことを考えていた。

一番後ろの長い座席で、真之の隣に嬉しそうに座っている由香子は久しぶりに見る故郷の景色を懐かしく眺めているようであった。

ピンポーン……。

ほとんど他には乗客のいないバスの中に、しばらくぶりに停車を示すチャイムが鳴り響いた。横を見ると、由香子がちょうど壁の押しボタンを押したところだった。

「ご主人様、次です」

公共の場所で「ご主人様」と言われるのは恥ずかしいとたしなめた真之だったが、どうしても由香子は改めない。バスは人も少なく、他の人間にそれを聞かれる心配はなかったから、それ以上は真之も由香子に強要はしなかった。

国道から横道に少し入り、一世代前の風景が残るこの辺りとは明らかにミスマッチなコンクリート造りの建物が見えると、その横に吸い込まれるようにしてバスが止まった。

由香子は荷物を持って立ち上がり、前の扉の方へ向かっていく。真之もそれに続き、二人分の料金を支払ってバスを降りた。

入れ替わりに数人の乗客を乗せると、バスはかつての鉄道の終点であった先の町へ向けて去っていった。

山間に位置するこの町は、春が深まったとしてもまだ肌寒さを残しており、由香子の助言で用意したスプリングコートが真之の役に立っていた。

「ご主人様、こちらです!」

先に降りていた由香子が、元駅前広場を横切って、その先を指差した。その奥には、確かに真之の記憶に違わない木造の駅舎が建っていた。常に手入れがされているからだろうか、鉄道が廃止になって二十年近くになろうというのに、この駅舎は朽ちる様子を微塵も見せていなかった。

真之は、中学校を卒業してここから旅だった時のことを思い出した。両親に見送られることもなく、再び両親に頼るということも考えず、乗客の少ない二両編成の気動車からこの町に別れを告げた時のことを思い出した。

まさか、この町に、そしてこの駅に再びやってくる日が来るだろうとは思ってもいなかった。しかも、妹である由香子を道連れにして訪れようとは、針の先程度の可能性としても考えてはいなかっただろう。

当時と違っているのは、駅の脇にあった郵便ポストの代わりにこの駅の説明をする看板が立っていることだけだった。

先に中に入ってしまった由香子を追いかけるようにして、真之も駅舎の中に足を踏み入れる。

「昔の駅って、こんな暖かいところだったんですね」

ようやく入ってきた真之に気が付いて、あちこちに目を向けていた由香子が振り返って言う。真之にとっては懐かしさを感じる駅のたたずまいであったが、由香子にとっては初めてであり、だからこそ新鮮にすら感じられるのだろう。

尻の痛くなりそうな固い椅子の並んでいる待合室。数えるほどしか数字の記されていない、壁に掛かっている発車時刻表。下部の切り欠きと声を通すための小穴の並んでいる丸窓付きの切符売り場。そして、その奥には今では見られなくなった硬券を納める発券機がある。

「そうだな……」

由香子に会って思い出すまでに、真之もいろいろなものを忘れ去って来たのだろう。あの時の写真がなぜ捨てられずに残っていたのかは分からないが、確かに由香子があれを見つけだしたことで何かが変わったのだろう。

「こっちがホームだな」

薄暗い駅舎に、改札口から光が射し込んでいる。

「ご主人様がお父様を見送った場所ですよね」

「そうだな、見てみるか……」

歩き出した真之に由香子が続く。だが、数歩で由香子が足を止めた。

「あっ、すみません、ご主人様。ちょっと……」

由香子が外の一角に目を向けて言った。この駅舎から見れば不釣り合いに整った手洗所が由香子の視線の先に見えた。

「分かった、先に出ている」

「はい、すぐにわたしも参ります」

真之に背を向けて、由香子が小走りに駅舎の入り口から外へ出ていった。そんな由香子を苦笑して見送り、真之はホームへ出る。

対向式ホームも、転轍機小屋も、タブレット受けも、そしてホームの間の二本の線路もそのまま残されているようだった。レールは構内の端にある腕木信号機の先にもまだ続いているようだった。

「駅長・STATION MASTER」と濃い青色の地に白く書かれた看板もそのまま残っている。確かに由香子の言うとおり、鉄道ファンならば一度は訪れてみたくなる駅だろう。

砂利を踏む音を聞きながら、真之は日の当たるホームの先にあるタブレット受けまでやってきた。螺旋形に曲がる鉄の管は何のために使われるのか真之には分からなかった。当時、父がそれを説明してくれたような気がするが、幼い真之には理解できなかったのであろう。

「家族、か……」

由香子が真之に思い出して欲しいと思ったのはそれなのであろう。きっと、自分のあこがれの人に心の闇を少し取り除いて欲しい……、そんな純粋な気持ちが由香子にあのような我が儘を言わせたのかもしれない。

空を見上げる。

ようやくこの町にも春が訪れるようになったようだ。長期予報では今年は全国的に暑い夏になるというのを聞いたことを思い出す。そうなればこの町の、さほど有名でもない米も、今年は豊かに実るのかもしれない……。

そんな真之の耳に、砂利を踏むもう一つの音が聞こえてきた。

「由香子か?」

そう言って真之が振り返る。

「はい」

挿絵7 近づいてくる由香子の姿を見て、真之は目を見張った。日の照らすホームを駈けてくる由香子は、メイド服姿であった。真之は一瞬、自分が幻を見ているではないかと思い、目をしばたたかせた。宿を出るとき、由香子はメイド服などは着ていなかったはずである。

「そこで、着替えてきました」

真之の疑問に先回りして由香子が答えた。

「そこというと、さっきの手洗い所か?」

「はい、そうです。綺麗なお手洗いなので助かりました」

「そうか。それにしても由香子は大胆なことをするな」

真之が肩をすくめて見せる。だが、不思議なことに決して不快は感じていなかった。

「どうしても、この姿でご主人様とここに立ってみたかったんです。ご主人様、兄さんの思い出の場所に、わたしをご主人様に引き合わせてくれたメイドの姿で来てみたかったんです」

「ふむ……」

カチューシャとリボンも身につけている由香子は、真之の正面で姿勢を正し、駅員がするように右手を額の側に当てて敬礼をした。メイド服とその仕草のミスマッチに、思わず真之が笑みをもらした。

一瞬、そんな由香子の向こうから来るはずのない機関車の姿が見えたような気がした。

帰りのバスに乗り込んだ真之は、窓枠に肘を突いて外の景色を眺めていた。隣の由香子は駅跡で少しはしゃぎすぎたのか、僅かに真之の肩に頭を乗せるようにして眠っている。

バスが小さな停留所を通りかかった。一旦速度を落とすが、乗降のないことを確認して再び加速を始めたその時に、由香子がその揺れで目を覚ました。

ぼんやりと外に目を向けた由香子が、反対側の停留所にいる人間に気付いて、急に顔を起こした。

そこには、一組の老夫婦の姿があった。杖を持ち難儀そうに歩いている男性を、もう一人の老女が支えるようにしていた。真之からはその老夫婦ははっきりとは見えなかったが、由香子にはそれが誰であるのかはっきり分かったようであった。

「知り合いでも見つけたか?会ってきても構わないぞ、お前にとってもここは久しぶりなのだろう?」

驚いたように体を起こした隣の隣の由香子に、真之がそう言う。

「いいえ、一瞬だったので、気のせいだと思います」

一瞬、返事を迷った後、由香子はそう言ってバスの中に視線を戻した。

「そうか……」

それ以上、真之は何も言わなかった。バスは何事もなかったかのように元々この路線の分岐していた駅まで進んでいった。

「わっ、寝台特急に乗るのは初めてです」

元の服に着替えた由香子がはしゃぎながら待合室で真之に言った。春の訪れは、淡い色のワンピースという由香子の姿からも感じられる。

長くなってきた日もそろそろ傾き始めていた。満席であればここでもう一泊して帰る心づもりでいた真之だったが、案に相違してあっさりと当日の寝台特急の切符が取れたことに驚いている。

「ただいまより、東京行き寝台特急の改札を始めます。この列車は全車寝台です。乗車券の他に特急券および寝台券が必要となります。尚、食堂車、車内販売の用意はございませんので、お食事等は予めお求めの上、ご乗車下さい」

「聞きましたか、ご主人様。大変です、このままでは明日の朝まで食事抜きになってしまいます」

「そのようだな。そこで弁当を売っているだろう、荷物は私が持つから、これで好きなのを買ってきなさい」

「はい、急いで行ってきます。ご主人様は何になさいますか?」

「任せる。駅弁ならそう妙な物はないだろう」

「はいっ」

由香子が売店の隣に積まれている弁当のところへ駈けていく。どの弁当にするかしばらく悩んでいるようであったが、改札口からのアナウンスに急かされて、ようやく買うものを決めたようである。

既に改札の前まで来ていた真之に合流し、二人分の切符を駅員に見せた真之に続いてホームの中へ入る。

ほどなく、朱い色をした凸型の機関車に牽引された青い客車がホームへ入ってきた。静かに開いた扉に吸い込まれるようにして乗り込み、二枚の寝台券を由香子に渡して場所を探させる。

「五番、六番の下……、あ、ここです」

席に腰を下ろすと同時に、がくんと一度揺れて列車が出発した。他の客の姿はほとんどない。混雑した固い座席の客車で東京へ向かった二十年前のことを思うと、隔世の感があった。これならば、当日の発車間際になっても問題なく寝台が取れるはずである。半ば貸し切りの状態の客車の中で、由香子が物珍しそうに寝台の設備をあちこち眺めている。

窓から差し込む夕陽を浴びながら、真之と由香子は向かい合って弁当を食べていた。

「ご主人様とこんな形で食事をするのも、なんだか楽しいです」

「まあ、たまにはこういう変わった食事の席もよいだろう」

「旅って、心が弾みます。でも、もう帰りなんですよね」

「そうだ、戻ったら、明日からはまたしっかりメイドとして働いてもらうぞ」

「はいっ」

「それにしても、いろいろ変わったものだな……」

今日見たいろいろなものを思い出しながら、真之が半ば独り言のようにそんなことを言った。

「ご主人様……」

どこか遠くを見るような真之の目が心配になり、由香子が横からそっとささやいた。

「変わらないのは、こいつくらいなものか」

真之は笑いながら、由香子が弁当と一緒に買ってきたプラスチックのお茶の容器を掲げて見せた。

「ここを摘んで抽出するなんて、面白いですよね。昔からこれ、あったのですか?」

「ああ、この中途半端なお茶の温かさが懐かしい」

蓋を兼ねている緑色のカップにお茶を注ぎ、真之が弁当のおかずと一緒に流し込む。

そんな真之に、由香子がそっと微笑みながら言った。

「あの、帰ったら、わたしも緑茶をお入れしますね。たまにはお紅茶でなくてもいいですよね」

「そうだな、頼もうか」

夕陽のせいか、由香子の白い肌が少し紅潮しているようにも感じられた。

ピーッ!

機関車の汽笛の音が聞こえてきた。急に窓の外が真っ暗になった。トンネルに入った列車の窓に、並んで真之と由香子の姿が映っている。

窓に映る由香子が真之の方に顔を向けた。

「列車の中で寝るのは落ち着かないかもしれないが、今日はゆっくり休むんだぞ」

弁当を食べ終えた真之は、紙の包みをたたみながら由香子の方を向いて言った。

トンネルを抜けると、車窓に海が広がった。水平線の向こうに、いままさに夕陽が沈んでいこうとするところであった。

これならば、きっと明日も晴れるであろう。

「はい、ご主人様の隣で寝られるのですから、きっといい夢が見られると思います」

そんな由香子の笑顔に、真之も心が満たされた気分になった。そして、いつかやってくるであろう由香子の幸福を兄として、主人として祈るのであった。

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