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第5章 真相と衝撃

由香子の真之への献身ぶりは、外見上はそれまでのものとは変わっていなかったが、心の中では大きく変化していた。

真之と同じ家で生活する日を重ねるにつれ、由香子の真之へ向ける恋心は大きくなっていく。それはあくまでも漠然とした恋心ではあったが、本当の意味で人を好きになったことのなかった由香子にとっては非常に大きな意味を持つ気持ちであった。

一方で、真之が自分に対して同じ気持ちは決して向けてはくれないということも悟っていた。だからといって、由香子の気持ちが変わるわけではない。

真之はあくまでもメイドとして由香子を見、評価している。そんな真之に対して由香子が出来ることは、まずメイドとして真摯に仕えることだった。由香子の本当に望むものとは違った形であっても、生活を共にしていくうちにお互いの心理的な距離は近づいていく。由香子にしても、最初はあこがれの気持ちと尊敬の念に伴う緊張感しか真之には持っていなかった筈である。真之も由香子には「自分の使用人」としての意識しか持っていなかったであろう。その真之をして、たまたま上機嫌の時であったとはいえ滅多に他人に語ることのない昔話を話せしめるということは、由香子との間の距離がそれなりに近づいていることを意味するといってよいだろう。

ともあれ、由香子の思慕は向上心となって由香子のメイドとしての技量を上げた。真之は由香子の働きについては満足していたし、時々見せる感情の片鱗についても見て見ぬふりをするだけの気遣いをしていた。

だが、そのような形で閉じこめられた由香子の気持ちは、日増しに大きくなっている。

そんな中、由香子に大きな影響を与えるアクシデントが起こった。

春もようやく本格的になってきていた。

一進一退の気候も落ち着き始め、真之の仕事も新しい年度を迎えて、比較的ゆとりの持てる生活を送れるようになっていた。

春になると新鮮な食材も店先に並び始め、それらを使った料理が真之を喜ばせた。

今では時々、由香子はコンチネンタルに出かけて杉野に料理のアドバイスをもらってくることがある。自ら望んでほとんど休日なしで働いている由香子だったが、たまの休みには同じように都心へ出かけて直美と会うこともある。

「レストランの料理と家庭料理は違うものだ」というコンチネンタルの杉野の言葉が由香子の印象に残っていた。それまでの由香子は、料理の技術的な能力を上げようと努力し続けてきたが、今ではそれにとどまらず、真之の食生活を考えながら作ることを常に考えるようになっていた。味の好み、食材の好き嫌いなどはほぼ完璧に由香子は把握しており、一週間単位での栄養バランスなどを考えながら、毎日の夕食を真之に出している。由香子は基本的に真之と食事に同席することになっていたから、そうした配慮は自分の健康にとっても有益であった。

そのおかげか、季節の変わり目を越えても由香子の体調のよさは抜群だった。春や秋の微妙な季節になると風邪を引きがちであった由香子は、後ほど気が付いて驚いたものである。

同時に、こと料理に限らず家事というものの奥深さ、そしてメイドとして家事を提供することの重要性というものを強く感じるようになっていた。

それから、由香子にとって、春の到来はもう一つの楽しみをもたらしてくれた。

庭の芝が少しずつ緑色を取り戻し始め、洗濯物や布団を干すために庭に出てきた由香子に独特の香りを与えてくれるようになった。

また、庭の管理を任されている由香子が少しずつ整えてきた花壇に、草花の種を植える季節がようやくやってきたのである。

黒い土に穴を開けながら、由香子の白く細い指がその穴に種を少しずつ置いていく。メイド服のスカートの丈は長かったから、裾が土に触れて多少汚れてしまうのは致し方のないところであったが、出来るだけ土を付けないように気を付けて種まきを終える。

数日が経過し、由香子の蒔いた種が芽を出し始めた。

この日も、麗らかな天気に恵まれて洗濯物とシーツを干した後、彼らに水を与えるために花壇の方へ由香子はやってきていた。

「元気に育ってね」

そう言って、由香子は花壇の脇にかがみ込んだ。まだ、由香子の小さな指の長さにもなっていない華奢な芽を見つめながら、そんな優しい声を掛ける。植物にも心はあって、声を掛けると元気に成長してくれる。由香子はそんな言説を信じていた。

時々庭を駆け抜けていく風が、由香子の髪やメイド服のリボンを柔らかく揺らしていた。そんな穏やかな朝であったが、一度だけ強い風が洋館を駈けていった。

髪留めの役も担っているリボンが吹き飛ばないようにもう片方の手を添える。そんな由香子には何もなかったが、同じ時に背後で大きな物音がした。その音に驚いた由香子が振り返る時に、無意識のうちにジョウロから手を離してしまった。

「あっ!」

それは、振り返った由香子の視界に入った風景と、自分の足元との両方に対して向けられた悲鳴だった。

風の中でシーツに大きな力が掛かったためだろうか、物干し竿が支えを外れて落ちかけていた。運良く下の段にある別の支えに引っかかったらしく、洗濯物が落下して土にまみれてしまうことは避けられたようだった。その幸運にほっと胸をなで下ろした由香子だったが、足元の方は別であった。

由香子が落としてしまったジョウロは、こちらは運悪く土に跳ねて水をまき散らしてしまった。飛び出した水はしたたかに由香子のメイド服にかかった。ロングスカートのかなりの部分と、上のエプロン、左手の袖までもが水に濡れてしまっている。夏場ならば、このまま太陽の下にいれば自然に乾いてくるのであろうが、まだそういう季節ではない。

適度な風は洗濯物を乾かすときに文字通り追い風になるのだったが、突発的な強風は今日の由香子にとっては不運であったようだ。

困り切った顔で濡れてしまったメイド服を眺めていた由香子だったが、ようやく我に返って一度自分の部屋に戻ることに決めた。

水がなくなって軽くなったジョウロを急いで物置に戻し、廊下を濡らさないように気をつけながら階段を上って自室へ向かっていく。もう少ししたら、書斎で読書中の真之に紅茶を持って行かねばならない。一分たりとも時間のずれが許されないというものではなかったが、出来るだけ決められた時間ちょうどに紅茶をお持ちしたい……、由香子はそう思って多少、慌てるところとなった。

期せずして自分の部屋に戻った由香子は、奥の衣裳棚から替えのメイド服を取りだした。そして、一刻も早く濡れた服の不快から逃れようとして着替えを始める。

エプロンだけであるなら簡単に替えられるであろうし、袖にかかった水の方は大したものではなかったから、問題となるのはスカートだけであった。だが、基本的な作りはワンピースであり、その上にレース飾りの付いたエプロンやリボンを身につけているから、意外に着替えるのには手間を要する。この時ばかりはメイド服姿の自分を嬉しく思う余裕も持てずに、新しい服に着替えることだけを最優先に考えていた。

一度書斎に入ると、滅多に真之は部屋からは出てこない。それを知っていた由香子は油断をしていたといえるだろう。この時、由香子の部屋の扉は開いたままになっていたのである。

この日、朝食後の真之は書斎で経済雑誌に目を通すことにしていた。平日ではあったが特に急ぎの仕事というものはなく、定期購読で手に入れながらもこれまでに読むことが出来ずにいた雑誌を読破していく。多少、新鮮さが失われてしまった話題もあったが、大部分は真之の知的好奇心を刺激してくれる興味深い記事であった。二種類の雑誌のほとんどのページを読み終えた真之は、軽く目の疲労を感じて、机の引き出しの中にある目薬を取り出そうとした。

「む……」

取りだした目薬の容器にはほとんど残りがなかった。それでも、今回だけはその残りで目を潤して、しばらくの間、眼球に染み渡っていく液体の感触を味わう。

「忘れぬうちに、新しいのを由香子に持ってこさせるか……」

もう少しすれば由香子が紅茶を持ってきてくれるはずである。その時に一緒に頼めばよかったのであろうが、この時の真之はそれを忘れかけていた。そろそろ洗濯も終わるころだろうと思い、由香子に声を掛けるために部屋の外へ出た。朝食の時に「今日は書斎にいる」と告げた真之に「よいお天気ですから、たまにはお庭に出られてはいかがでしょうか」といった由香子の言葉を思い出す。

廊下に出た真之が階段を下りようとしたときに、その先にある部屋の扉が開いていることに気が付いた。そこが由香子の部屋であると知っていた真之は、この時点で引き返しておくべきだったかもしれない。

だが、しっかりしているようで時々抜けたところを見せる由香子がたまたま閉めるのを忘れていたのだろうと判断した真之が、律儀にそちらの方へ向かっていく。

「困ったものだな。閉め忘れるにしてももう少し慎ましくしておいてもらいたいものだ」

苦笑いをしながらドアノブに手を掛ける真之。そんな真之の独り言に気が付いた由香子が、部屋の中で振り返った。

「ご、ご主人様……」

この時、由香子はちょうど新しいメイド服に着替えているところであった。ロングスカートには足を通したところであったが、上半身はまだ整っていない無防備な状態である。慎ましい下着姿で、胸の膨らみと肩の曲線という二つの女性らしさが露わになっている。また、傍らのベッドにはメイド服と髪に使う二つのリボンが投げ出されていた。髪もリボンを外して僅かに乱れている状態であったから、着替え中といういうことを抜きにしてもとても人に見せられるような姿ではない。

挿絵5 思わず声を出してしまったことが由香子にとっては不運だった。扉にしか関心が向いていなかった真之は、そのまま閉じて階下に向かっていた可能性が高い。だが、中から由香子の声が聞こえ、反射的にそちらに顔を向けてしまった。当然、そんな真之の視界には着替え中の由香子の姿が入る。

「由香子、いたのか……」

さすがの真之も慌てたようである。

「きゃっ!あ、あの……。わたし……」

しかし、由香子の狼狽の方が大きいようであった。他ならぬご主人様に自分の無防備な姿を見られた混乱と恥ずかしさに、思っている言葉が口に出てこない。否、この時の由香子が何を思っていたのかもおそらくはっきりはしていないであろう。

「む、悪かった。私は部屋に戻っている」

「は、はい……。申し訳ございません、このような格好をお見せして」

少々ピントの外れた発言であったが、真之はさすがにそれには答えずに黙って書斎へ戻っていった。由香子は自分でもはっきりと分かるほど体が熱を持っているのを感じた。多重の恥ずかしさが由香子の思考回路を支配していた。緊張感のない妙な姿を見られてしまったこと。自分の慕っている人に見られてしまったこと。慌ててしまい、しどろもどろな言葉しか返すことが出来なかったということ……。

動きが止まっていた由香子は、しばらくそのまま自分の部屋で立ちつくしていたが、ようやく我に返る。服が濡れて慌てていたこともあるだろうが、真之が書斎で読書をしているということでここに来るはずがないという油断も由香子の中にはあった。この部屋を自由に使わせてもらっているが、真之がやってくることはほとんどない。由香子がそうした油断をしていたとしても必ずしもその甘さを責められるものではないだろう。実際、真之も由香子の不注意を責めようとは思っていない。

「あ、早く着替えを済ませてしまわないと……」

そろそろ十時が近づいている。急いで着替えに戻ったのは、真之に紅茶を入れる時間が近づいていたからである。本来為すべきことを思い出して、由香子の意識はメイドのものへ戻る。しかし、それでも紅潮の残滓はまだ存在していた。リボンとエプロンを身につけると、自分がメイド服を纏っていること、そしてそれを着る時の姿を真之に見られてしまったことを思い出す。

前のメイド服をハンガーに掛けることを辛うじて忘れずにして、由香子は一階の台所へ向かっていった。

「ご主人様に……」

台所に立ち、いつものようにポットに茶葉を用意して湯が沸くのを待っている。ポットに湯を注いだ後は、砂時計の砂が少しずつ落ちるのを見つめる。そんな時間を持っていると、否応にも由香子の意識の中には先ほどのアクシデントがよみがえってくる。

狼狽の中にあってあまり確かではない記憶をたどって思い出すと、あの時の真之は由香子の姿に妙な関心を向けるでもなく、かといってだらしのない姿を見せたことを叱るでもなく、比較的冷静に書斎へ戻っていったような気がする。

これからその真之の部屋に紅茶を運ぶのであるが、いったい、どんな態度で持っていけばいいのか、由香子には測りかねてもいた。謝るべきであろうか、それとも、蒸し返さずに何事もなかったように普段どおりに振る舞うべきであろうか……。

由香子にとって不思議なことに、真之という男性に下着姿を見られたことに関しては全く不快感を持ってはいなかった。真之が少なくとも表面上は由香子に対してそうした類の感情や視線を向けたことはなかったし、それは「恋愛にも結婚にも興味がない」と公言している普段の言動とも矛盾していないことがかえって明らかになっただけのことであった。

だが、ここが妙なものであるのだが、由香子にとってはそれが少しばかり残念にも思えていた。最初の一瞬は、さすがの真之にも多少の狼狽もあったようであったが、普段は落ち着いて隙のないように見える真之の驚いた表情が、由香子をどきっとさせたのだった。

邪な形ではあるが、自分の姿が真之の心を多少なりとも揺り動かしたのだということに思い至ると、意味もなく由香子の心もときめいた。

人の中にある恋愛感情というものは精神的なものに支配されるのと同時に、本能に起因するような肉体的なものからの影響も受けるのであろうと、由香子は漠然と感じていた。一般的にそれは、生物学的には男性の場合に比重が大きくなる傾向があるのだろうが、真之にも同じような気持ちがあるのだろうか……。由香子がまだ子供といってよい時から働いている真之であるから、由香子に会う前にもそれなりに親しくしていた女性も何人かは存在するのだろう。そのうえで「家庭を持つ気はない」という真之の心に立ち入るような余地は果たして自分にあるのだろうか。メイドとして真之の生活を支える、それは確かに由香子にとっては喜びではあったし、そこに存在価値も見出していたが、正体不明の物足りなさをも感じていた。いや、正確には「正体不明」ではなく届かぬ場所にあるものを求めているに過ぎないのかもしれない。

「あっ」

気が付くと、砂時計の砂はほぼ落ちきろうとしているところだった。

「一つの失敗にとらわれて、失敗を重ねるようではいけない」

そんな真之の言葉を由香子は思い出し、慌てて紅茶を運ぶ用意をした。思えば、真之に初めて強く叱られた時の言葉がそれであった。それ以降、メイドとしてはまだまだ不十分ながらも、そんな真之の言葉を戒めに置いてこの洋館で働いてきた。そして、叱られたにも拘わらず、真之という人間の魅力を感じたのである。その魅力は、由香子の心に少しずつ変化を与えていき、今では自分の中でもはっきりと真之への思慕を感じている。ただ、自分からそれを口に出すことは決して許されない。それもはっきりと認識していた。

「失礼します」

「由香子か、入ってくれ」

紅茶の香りに、ようやく少し心を鎮められた。

途中のページを開いたままの雑誌が、真之の机の上に置かれている。

「お注ぎしてよろしいでしょうか?」

「ああ、頼む」

言葉少なに、真之が由香子に命じる。その言動は普段とほとんど変わらぬものであったが、由香子はいつもとは違う緊張を感じていた。

「さっきは悪かった」

静かにポットからティーカップに紅茶を注いでいく由香子に、さりげなく真之がそう言った。

「いいえ、わたしの方こそ、扉を開けたままであのような……」

「それについては、これからは気を付けてくれ」

「はい、申し訳ございません」

「いや、由香子が謝る必要はない。考え無しに由香子の部屋に行こうとした私もまずかった」

「そんなことはありません。ご主人様は全然お悪くはありません」

心のどこかで、あのような形であっても真之が自分の部屋に足を向けてくれたことを嬉しく思う気持ちもあったのだろう、由香子はそう言って力強く真之の謝罪の言葉を否定した。自分のために一つの部屋を与えてくれたことは勿論、由香子にとっては幸せなことであったが、そこが真之の意識からは切り離された場所になっていては悲しい。そんな気持ちが由香子にはあった。

「そうか、やはり由香子は大げさだな」

そう言って、椅子に座っている真之が半ば見上げる形でポットを見つめる由香子に笑顔を向けた。その笑顔に、由香子はようやく安心を感じたようだった。自分を卑下するというのとは全く違った感情であったが、由香子の心の中では常にご主人様が第一なのであった。それに伴う賞賛や期待を、真之は「由香子は大げさだ」と表現することが多かった。「大げさだ」と言われることを、由香子も少しくすぐったく感じていた。

「いえ、でも本当に……。でも、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか?」

注ぎ終えたカップを、真之が自分から手を伸ばして受け取る。

「うん、何だ?」

「滅多に私の部屋の方には足を向けてくださらないご主人様ですが、今回は何か急ぎの用があったのでしょうか?」

もし、真之が必要としていることに気が付いていなかったのだとしたら、まだ反省しなくてはならない。

「いや、今思うとそんなに急ぎでもなかったのだ。待っていれば由香子がこうして紅茶を運んでくれるのだから、その時にでも言えばよかったのだがな」

「そうでしたか」

「まあ、気付いたときに忘れずに、と思ったのだろう。目薬がちょうど切れてしまってな、新しいのがあったらもらおうと思ったのだ。薬箱のある場所も知らぬ自分にふと気が付いてな」

ほとんど空になった目薬を机の上からつまみ上げて真之が言う。真之の目の前でふらふらと振られる目薬を見て、思わず由香子が表情を緩ませる。

「申し訳ありません……」

「いや、私もいつの間にか由香子に頼り切りになっていたな」

「そんな……。ですが、わたしはご主人様のためにお仕えしているのですから、もっとお頼りになってください」

「そうか。でも、私ももっとしっかりした上で由香子に頼らないとならないな。薬の置き場所を知らぬようでは、いざというときに困る」

「そうですね。でも、ご主人様はいつもしっかりなさっていると思います」

「そうか、褒められたと思っておくよ」

「そんな、畏れ多いです」

恐縮する由香子を真之は遮って、紅茶の二杯目を要求する。ややもすれば大げさにかしこまる由香子を、こうしてさりげなく真之は抑えていた。由香子の向ける思慕の情も同じ形で抑えることがあり、良くも悪くも真之は由香子のことをよく知る人間になっていた。そして、同時に由香子の真之への気持ちが育っていることも知るところとなっていく。


その日以来、由香子の様子が明らかに異なってきた。

これまでも真之は由香子が自分に向けてメイドとして以上の気持ちを持ち始めていることに気付いていたが、それでもまだそんな気持ちを抑えようという努力が見えていた。

真之が誤って由香子の着替えを見てしまってからは、由香子はそうした気持ちを抑えなくなったように感じられる。真之に接する機会があるときはなるべく近くにいようとしたし、何かの拍子に体の一部が触れてしまった時には、明らかに顔を赤くして恥ずかしがっている。由香子はこれまで本格的な恋愛を経験していないということは聞いていたが、まるで思春期の少女に戻ったかのようなその反応に、さすがの真之も由香子のそうした純粋に微笑ましさよりは困惑を感じていた。

だが、事実は真之がそう推測していたのとは異なっていた。由香子は真之への思慕の気持ちを抑えようとしなくなったのではなく、抑えられなくなったのである。

端的に言えば、あの「事件」以来、由香子の中では精神的なもの以上に真之を異性として意識するようになってしまい、それが行動や反応にも顕著に現れるようになったのだ。漠然とした感情が具体化したといってもよいだろう。

もともと由香子の中のあこがれに発した真之への気持ちは、どちらかというと精神的なものが多くを占めていた。物理的な面に関しては、メイドとして真之と言葉を交わしたり、真之の身の回りの世話をすることによって、代替的なものであるとはいえ、それなりに満たされていた。

真之に自分に対して同じ気持ちを抱いてはもらえないことに僅かな悲しみを感じていたが、自分が真之を好きになれば同じくらい真之が自分にそうした気持ちを向けてくれると短絡的に思えるとはさすがの由香子も思ってはいなかった。今の自分に出来ることは、メイドとして真剣に真之に仕え、真之の生活が少しでも快適なものになるようにすることだった。幸い、真之は主人としても出来た人物であり、由香子の恋愛感情を知りながらも、メイドとしての働きぶりには大きく感謝をしていた。感謝の言葉を真之から受けることを、悲しみの反面で嬉しくも思っていた。

洋館で二人だけで暮らすという環境のもとで、由香子の生活と心はそのような微妙なバランスの上に存在していたのである。

その危ういバランスが、あの出来事によって大きく揺らいだということなのだろう。

真之としては由香子の下着姿を目にしてしまったことは申し訳なく思っていたし、それについてはその日のうちにきちんと由香子に伝えたつもりだった。不慮の事故だったこともあり、コンチネンタルのウェイトレスとして一人前に働いていた実績のある由香子を子供と思うことはなかったから、それを後に引くものだとは考えもしなかった。

だが、由香子の方ではそうではなかったようである。

真之に対して、メイドが主人に向けるものにとどまらない献身の気持ち、即ち恋愛感情が生じているということは自分の中でもようやくはっきり自覚するようになっていた。子供の頃にかっこいい男子生徒やテレビや雑誌に登場するタレントなどに向けるような漠然とした恋心というものを勘定に入れないことにすれば、特定の男性を「好きだ」と意識する初めての経験であったので、その正体に気付くまでに多少の時間を要したといえるだろう。実際、そう認められるようになるまでは、自分はメイドとして仕える相手の喜ぶ姿を見たいという気持ちが大きくなったに過ぎないと考えていた時期もある。由香子がイメージしていた恋愛というものの中には、その相手は同年代であるという暗黙の前提もあったのかもしれない。恋愛に歳は関係ない、というのはあくまでも特殊な場合に過ぎないと由香子も信じていた。

だが、歳は一回り以上離れている真之には、これまでに触れたことのない魅力を由香子は感じた。家族を大切にしている広瀬も勿論、魅力的に思っていたし尊敬もしていたが、それはあくまでも人生の先輩、仕事での上席者としての尊敬に過ぎなかった。真之に対しても最初はそうした感覚でしか接することが出来なかったが、自分とは違う世界の住人とも思えるオーナーが、同じ屋根の下で暮らす存在になると少しずつ変わり始めていく。どちらかというと寡黙な方で、理知的な物言いをする真之に最初は冷たさを感じていたが、褒めるにせよ叱るにせよ、そこに「愛情」を感じた由香子は次第に真之に惹かれていくようになった。真之にとっては、これまでに接してきた部下、使用者に対するものと同じことを由香子に向けたに過ぎなかったのだが、由香子のようなタイプの人間に対してはそれが裏目に出る形になった。良くも悪くも、由香子は純粋で素直なのである。叱られた時も反発するでなく、友人に愚痴るでもなかった。気の置けない友人である直美に話したときも「自分の気遣いが足らずにご主人様に不快な思いをさせてしまった。でも、次からはどうすればいいのかを優しく教えてくれた」という言い方をしたものだった。

もともとあこがれていた人、そして同郷の人という意識が由香子にはあったから、それが形を変えて思慕になっていくこともある意味では自然であったといえよう。届くかどうかは分からない思慕をメイドとしての働きぶりで真之に向けていく、心身両面の由香子のバランスはそんな場所で保たれていたのである。

あの出来事はそんなバランスを大きく揺らした。自分の無防備な姿を他ならぬ真之に見られたということは、一般的な恥ずかしさを由香子に感じさせたが、それと同時に自分が女であり、真之が男である、そして、二人が同じ洋館に住んで暮らしているということを改めてはっきりと認識させるきっかけになったのである。

勿論、由香子が真之を好きであるというのは、自分が女で真之が男である前提の元でのことなのは今更新しく知るところではない。だが、メイドと主人という、ある意味では非日常的な世界の中に身を置いて、そのメイドとして真之に接する生活を送っていくうちに、「男と女」であるという感覚がその輪郭を曖昧にするようになっていたのである。それこそが、由香子に対して様々な気持ちを持っている真之にも快適さをもたらす要因となっていたのだが、その曖昧さの霧を急速に晴らす働きをもたらしたのがこの事件であった。

真之から与えられたメイド服を、由香子はとても気に入っていた。不運によるものとはいえ、それを誤って濡らしてしまったことにも多少の申し訳なささを感じていた由香子が、そのメイド服を新しいものに着替え、自分の肉体的な女らしさが無防備にさらされているその瞬間を他ならぬ真之に見られたことは、その現実以上に大きな衝撃を由香子にもたらした。それは決して、不快や困惑というものではなかった。かといって、勿論、喜びや嬉しさというものでもない。

滅多に見ることのない真之の驚きの表情も、由香子にとっては自分の姿と引き替えにかいま見た真之の無防備な心、即ち内面として受け止められるところになった。この時の由香子の心の中にごちゃ混ぜになっていたのは、そうした諸々の動きであった。そして、どこかで「見られてしまったけれど、ご主人様にだったらそれでもよかった」という気持ちを否定できないでいる自分に気付き、それをはしたないと思う自分が慌てて否定した。

だが、一瞬でもそうした気持ちになった自分そのものを否定することは出来ない。そして、その気持ちがわき起こったそもそもの要因も改めて知らされるところとなった。

その結果、メイド服を着ている自分を見ると、不意打ちだっただけに強力な印象を残したあの出来事が由香子の中によみがえり、どうしても真之を一人の男性として意識してしまう自分に気付く。

ワインの杯を重ねる機会をもらったときに、真之は上機嫌な中にいながらも「自分は結婚や恋愛を求めるつもりはない」と言っていた。いや、上機嫌な中から出てきた言葉だからこそ、それは真之の本心であるのだろう。その背景の一部をおぼろげながら知る由香子にとっては、他ならぬその人の哲学を否定出来なかった。それが、一面で由香子を苦しめ、自分の感情を抑えることによって由香子の内部で純化されるようになっていた。そして、あの出来事をきっかけにしてあふれ出してきたといえるだろう。

皮肉にもこれまで独り身でいた真之からは、外見上の若さは実年齢を経てのものほど失われてはいなかった。精悍さの残る表情と体つきが、由香子に真之が男性であることを大いに意識させるところになった。真之に触れたときにはっきりと赤面するのはそうした意識からであり、本来は向けてはならない思慕を抑えようとすることを放棄したからでは決してない。

だが、そうして由香子が気持ちに堰を設けようとすればするほど、真之への思慕は大きくなっていく。

真之がそんな由香子に困惑しながらも否定しきることが出来ないのは、まさに由香子の惹かれた真之の優しさによるものだったのかもしれない。由香子をメイドとして雇った動機も、由香子を冷たくあしらうことの出来ない後ろめたさの一部になっていたともいえるのだろう。

だが、由香子がメイドとしてこの洋館に住んでいるのは、生活を支えるためであって生活に困惑をもたらすためのものではない。そして、由香子の気持ちが浮ついているのであれば、今のような状況は悪化することはあっても改善されることはない。真之にはそれははっきり分かっていた。微妙な心が相手であるから、あまり強い言い方をすることは出来ないが、由香子に今の自分をもう少しきちんと認識してもらう必要がある。真之はそう結論づけた。


「お代わりをお持ちいたしましょうか?」

空になったスープ皿に気付き、由香子が遠慮がちに声を掛ける。食事の際の会話は楽しそうにしながらも、時々、上目遣いで真之の顔を見ては再び恥ずかしそうに俯いてしまう。なるべくそうした挙動は表にしないように本人は気遣っているのであろうが、それはほとんど功を奏していない。真之はそんな由香子に苦笑を禁じ得なかった。多少のいらつきはあったとしても、由香子を責める気持ちにはならないのが自分でも少し不思議に思えた。

「そうか、では頼もうか。だが、だいぶお腹もふくれたので、半分くらいでいい」

「はい、かしこまりました」

手を伸ばした真之から皿を受け取った由香子が、一度台所へ向かっていく。メイド服の後ろ姿には、白いエプロンのやや大げさな結び目、そして由香子の髪を飾っているリボンが目立った。家事を行う人間の制服としての機能と、その整った美しさを持つデザイン力、そんなものが同居していることに真之は感心する。確かに、由香子はメイドとしてもよくやってくれている。だが、知らぬことがあるとはいえ自分にこれ以上好意を向けることは由香子自身にとっても好ましいことではない。僅かな間、由香子の存在を意識しながらも一人になった真之は、そんなことを考えた。どこかで、歯止めを与えてやる必要もあるかもしれない……。

果たして、そのきっかけは思ったよりも早くやってきたようである。

「お待たせしました、ご主人様。少しだけですが、温め直してあります」

「そうか、ありがとう」

意識的にではなかったが、真之の前にスープ皿を出すときに、腕が一瞬だけ真之に触れた。メイド服の袖越しにも、やや堅さのある男性特有の肌の感触が伝わってくる。

動揺を隠しながら皿を置き、すぐ隣にいる真之に顔を向ける。その由香子には、明らかに恥じらいの表情を持っていた。

「どうした、由香子」

見かねた真之が言う。

「申し訳ありません……」

心の中を見透かされたような由香子が、慌てて謝ろうとする。だが、そういう意味で真之は由香子をとがめ立てしたのではなかった。

「そこまで恥ずかしがることもあるまい」

苦笑しながら真之は言う。あの日以来、由香子の挙動が変化していることははっきりと悟られているのだろう。隠し切れていないということは由香子もそれなりに自覚しており、慌てながらもその指摘を否定できずに戸惑っているのだった。

「はい……。ですが、わたしはご主人様を……」

その後にどんな言葉を続けようとしていたのかは、由香子には分からなかった。半ば本能的に出た言葉は、後が続かずに途中で途切れる。ひょっとすると、それを知っていたのは真之の方だったかもしれない。

「まあ、よい」

真之はどういう意味でその曖昧な言葉を発したのかは分からなかった。そして、由香子もどう受け止められるのかが分からなかった。ただ、由香子は反射的に俯いていた顔を起こして、思い詰めたような目で真之を見つめた。スープ皿に手を伸ばそうとする真之をその目で制したような形になった。

「いいえ、なぜならば……。わたしはご主人様のことを、その……、お慕い申し上げていますから」

どちらかというと古風な言い回しで由香子はついに自分の気持ちを口にした。由香子と真之の双方にとって、それは幸運なことであったかもしれない。仮に由香子の語彙が不足しているか、もしくは感情の抑制が利かなくなっているかで、直接的に「好き」という言葉で気持ちを表現していたら、真之は瞬時にその由香子の感情を斬り捨てて拒絶したであろう。真之は由香子の望む形では由香子を愛することは出来ない。由香子が知らないその前提がある以上、そうすることだけがこの娘に対する愛情なのである。

真之は静かに手をテーブルの上に乗せた。そして、半ば瞳を潤ませた由香子の顔を見つめ返す。

だが、その由香子の言葉に対しては無言のままであり、それが由香子を更に緊張させる。

「お前がはっきりと変わって見えるようになったのは、あの時からだな」

「はい。ですが一つのきっかけに過ぎなかったようにも思えています」

少し、軽く見過ぎていたかと真之は後悔した。自分が考えているよりも由香子は純粋な娘だったようだ。メイドとしてこの洋館に住み込んで暮らすうちに、あこがれがそれ以上の気持ちに変わっていったことも真之は軽く考えすぎていたのかもしれない。自分の作りだした陥穽と由香子の心に、もしかすると自分の方が追いつめられていたのかもしれない。あの二人の娘である由香子に対して非情に徹しきれなかったところが真之の弱さでもあり優しさでもあった。そして、真之の負の感情は全て符号を変えた形で由香子の心に響き渡ったのだともいえる。

真之は、そんな由香子の気持ちを受容も否定もしなかった。ここに至って言えることは、由香子が知らない一つの真実だけである。この娘は、自分を好きになっても幸せにはなれない……。真之はそれを知っていた。

「そうか……。私は、由香子の気持ちを厭うつもりはない。だが、ひとつ話しておかねばならないことがあるようだ」

「あの、それは……」

心配そうに由香子が尋ねる。この僅かな言葉のやりとりの間に、由香子の中には様々な不安が駆け抜けていた。

「食事中の雑談として話すようなことではなかろう。後でいつものように紅茶をもらいたいが、その時に話すことにしよう」

「わかりました」

「勿論、紅茶は二人分用意しておくのだぞ」

「はいっ」

こうした時、由香子はメイドと主人としての距離を保とうとすることは分かっていた。だからあえて、真之は二人分の紅茶を持ってくることを求めた。

改めて、冷めかけてしまったスープに真之が手を伸ばす。由香子の食事もまだ少し残っていたが、味の方はもはやよくは分からなくなっていた。

「お待たせしました、ご主人様」

由香子が紅茶を持って現れた。少しお腹を落ち着かせたいからと、食後、多少の間をおくことを真之が求めたので、その間に由香子は皿洗いを済ませていた。台所に立つメイド服姿の自分を意識すると、先ほど真之に伝えた言葉が果たして現実のものだったのだろうかと不思議な気持ちに見舞われる。この洋館の使い慣れた台所に立っていると、そこはあまりにも日常と近くて先ほどの言葉も夢の中のものに過ぎないのではないかという錯覚を感じる。

真之からは明確な肯定も否定も受け取っていなかった。かといって、そのままうやむやにするような人ではないことも由香子は知っている。「話さねばならないことがある」という真之の言にその真意があるのだろう。果たして、それはどういうことであろうか。真之は身を固めるつもりはないと言っていたが、それはあくまで表向きのことだけであり、実際はそうではないではないか……。そんなことも由香子は考えていた。

推測と妄想の区別は、今の由香子にはつかなかった。ただ、いつものように食後の家事を終え、紅茶を用意する。茶葉から立ち上るかぎ慣れた香りが、僅かに由香子の心を落ち着かせてくれた。

そして、久しぶりに感じる緊張を伴い、その紅茶を真之へ運ぶ。

「ありがとう。由香子も座ってくれ」

真之が今のソファの隣の空間を手で軽く叩く。

「あの、お隣でよろしいのでしょうか?」

遠慮がちに問う由香子。一瞬、躊躇した様子の真之だったが、静かに頷いて由香子を促した。

「はい、それでは失礼いたします」

向かい合わせのソファの間に置かれているミニテーブルの上の、真之の前に由香子がティーカップを置く。そしてその隣に自分のカップを置くと、いつものように丁寧に紅茶を注ぎ始める。ちょうど、砂時計の砂が落ちきったところだった。

「わたしもご一緒させていただきます」

濃さを一定に保つため、交互に二つのカップに注いでいく。そして、琥珀色の液体が綺麗に注がれて、並んだ二つの湯気を立ち上らせる。

ポットを置いた由香子が、真之の隣に腰を下ろす。長いスカートが真之の邪魔にならないように気を付けるが、それが適切な距離を保つ手助けにもなった。そっと、真之の横顔に目を向けると、既に満足そうな表情で紅茶を口にしているところであった。

「ああ、由香子の入れてくれる紅茶は美味しいな」

「ありがとうございます」

ただ入れるだけであるならば難しくもない紅茶だが、最大限の味を引きだそうとなると話は別である。そしてその場合には技術よりも寧ろ「美味しい紅茶を飲んでもらいたい」という気持ちが持てるかどうかの方が重要になってくる。

由香子も、しばらくの間手をスカートの膝の上に置いていたが、真之に誘われるように自分のカップに口を付ける。

真之が半分ほど飲み終わったところで、口を開いた。

「由香子の気持ちは分かった。だが、私は前にもいったとおり、そういったものを受け入れられる人間ではないのだ」

「はい、それは承知しております。でも……」

「前から薄々とは気付いていたが、不思議と不快ではなかった。だが、恋愛観云々以前に、残念ながら私にはその気持ちを受け取ることは出来ない現実というものがある」

「あの、それは……」

遠回しの否定ではないかと、由香子は心配になった。だが、こういう重大なことに関して言葉を濁すようなご主人様ではない。それを知っているからこそ、その現実とはいかなるものなのか、由香子はますます気がかりになる。

「由香子は知らないと思うが、お前の母親と私の母親は同じ人間だ」

「えっ?」

言われたことの意味が、すぐには理解出来なかった。一瞬、「他の動物から生まれてくることなどないのですから、同じ人間なのは当たり前ではないですか」と的はずれなことすら考えていた。真之に気持ちを告白したことによって心が乱れていたためもあるかもしれない。しかし、もう一度、頭の中で真之の言葉を繰り返してみる。自分の母と真之の母が同一人物である……。そういうことはあり得るのだろうか。

「それは、どういう意味なのでしょうか?」

たまりかねて由香子が真之の方に体を向けながら言う。

「もっとはっきり言えば、由香子、お前は実は私の妹に当たるのだ。血のつながりは半分だけということになるが」

「わたしが、ご主人様の妹……、ですか」

完全に想像の範囲外にあることは、驚きを違う形でもたらすものであるらしい。

それを聞いた由香子は、意外に自分が動揺していないことに気が付いた。

「ああ」

そして、真之は由香子の母親の名前と、父親の名前を言う。それだけならば真之が目を通したという履歴書に書かれた範囲のものだと想像が付くが、二人の身長と、「今も変わっていなければ」という前提付きでではあるが、母親の日常の習慣までをも指摘されると、由香子はそれを真実であると認めざるを得なかった。

「ですが、わたしとご主人様では歳も離れていて……」

真之は、自分の生い立ちを話し始める。事故で父を失ったことや、母が再婚したことは前にも由香子に話したことがあったが、その後、中学を卒業して自活し始めたこと、稀に来る母からの手紙に一度だけ娘が産まれたことが記されてあったことなどを時系列的に並べてたどっていくと、自分の生い立ちにもぴったり符合することが由香子には分かった。

「由香子とお前の母親との歳の差はいくつだ?おそらく、三十八か九で間違いないだろう」

それを聞いて、由香子は頭の中で計算してみる。確かに、自分は母が三十八の時に生まれた子だ。子供の頃、同級生の母親と比べて自分の母は一回り年上であることを気にした記憶もある。

信じられないことであるが、自分があこがれて慕ってきたご主人様、コンチネンタルのオーナーは自分の兄だったのである。

「ご主人様は、それをご存じだったのですか?その、私をメイドに雇うと決めたときには」

真相を知れば当然に生じる疑問を、由香子は真之に投げかける。

「ああ、知っていた。履歴書を広瀬に見せてもらったときは、その偶然に驚いた。何しろ、自分としては決して忘れられない名前が思わぬ欄に書いてあったのだからな」

家庭というものに失望していた真之は、実質的に両親の存在は切り捨てて生きてきた。その真之に他ならぬ彼らの名前を突きつけられたのである。同時に、ある種の復讐心が真之の中に生じた。あの二人の子供を、自分が雇用者として使う。決して明るいとはいえない心根から生じたものであった。だが、知らぬこととはいえ、真之のそのような昏さとは裏腹に由香子はしっかりと真之に仕えていた。だからこそ、由香子の向ける気持ちに困惑を禁じ得ないようになっていたのだ。

「そんな……。でも、それは偶然だったのですよね」

由香子の意味することは真之には分かっていた。誰でも、自分が高みから支配されている人間である、他者の手のひらの中で生かされている人間であるとは思いたくはない。ましてや、それが自分の慕っている人間だったとしたら。

「そうだ。広瀬が由香子をウェイトレスとして雇ったのは本当に偶然だろう。由香子が私の妹であることは今も広瀬は知らないはずだ。単にたまたま同郷の人間だと思っているだけだろう」

「はい……」

「あの日、コンチネンタルに行って客としてコーヒーを頼んだことは覚えているか?」

「はい、オーナーだと知らずに、後で真っ青になったのを覚えています」

辛うじて、二人は笑いながらそんなことを思い出す。

「その時の名札に、あの名字を見て一瞬、不快な気持ちになったのだが、まさか、本当に彼らの娘が自分の店で働いているとは思わなかった」

「そうだったのですか」

由香子が、自分の西崎という名字を改めて思い出す。そこで一つの疑問が沸き起こった。

「ですが、ご主人様の名字は私とは……」

「そうだな、私は自分の父の名字を名乗っている。母は、二度、名字を変えているはずだ」

どのような問いにも迷いなく答える真之を前に、由香子は事実を受け入れざるを得なかった。

「私が、ご主人様の妹だったなんて、すぐには信じられません」

真之が由香子を正面ではなく隣に座らせたのは、こういう話を真っ直ぐ向き合ってしたくなかったからであろう。かといって、現実を告げることから逃げているというのでもない。自分自身への防御であると共に、自分よりも大きなショックを受けるであろう由香子への配慮でもあった。

真之は少し斜め向きに座り直し、カップを持ったまま由香子の方に目を向ける。

「まあ、そうだろうな」

真之はそれだけ言うと、静かに手にしたカップを受け皿に戻す。紅茶が飲み干されているのに気が付いて、由香子は静かにポットから注ぎ足した。

「そうしますと、わたしはこれからご主人様をどうお呼びすればよろしいのでしょうか」

その間の沈黙に抗しきれず、由香子はそんな疑問を口にした。

「……難しいな。由香子も『はい、では今からお兄さんと呼びます』とは割り切れぬだろう」

「はい、正直に言って、ご主人様をお兄さんとは考えにくいと思います」

「だろうな。だったら、由香子の好きなように呼べばいい。今までどおりでも構わないし、私の名で呼んでもらってもよい」

「真之様……」

すぐ隣にいる真之にも聞こえないほどの小さな声で、由香子がそう試してみた。真之からは由香子の唇が僅かに動いたようにしか見えなかっただろう。だが、それを心の中で反芻してみて、由香子はすぐにその呼び方を採ることをやめた。名前に「様」を付けて呼ぶのは、今まで以上の距離感を感じさせる。兄妹であるのならば、さんづけであったとしてもどこか他人行儀である。

「それでは、今までどおり、『ご主人様』でよろしいでしょうか。でも、少しずつ『お兄さん』とも呼ばせて下さい」

「そうだな、あまり意識することもあるまい」

そう言う真之だったが、由香子にとっては意識しないというのは難しいことであった。自分が想いを寄せる対象がご主人様であるというだけで普通とは違う恋を感じるのに、その人が兄であるという事実は更に複雑な感情をもたらした。たとえ頭ではそれを理解したとしても、まだ感情がそれに追いついていない。自分があこがれて尊敬する人が兄であるということを誇らしく思うことがきっと出来るのだろうが、今はそれよりも気持ちを向けた人がその気持ちを受け入れてくれない立場にあるという衝撃が大きかった。単にそれが真之の恋愛観に立脚するものであったならば、由香子の努力によって少しずつ変わっていく可能性も僅かながらあっただろう。由香子が気持ちを向け続ける自由というものもあったはずである。だが、その真之が兄であるとなると話は別だった。しかしながら、その人が兄であるということが分かったからといって、急に自分の気持ちが変わるはずもない。

「ご主人様でよろしいでしょうか」というのは、由香子のそうした気持ちを反映していた。由香子が仕えているのは真之その人であり、まだ兄であるとか家庭というものに対して否定的な感情を持っている人間であるとかいうこととは関係のないことだった。

結局のところ、そうと知っても由香子は真之のことを慕っているのである。由香子は、真之のことを見つめながら改めてそう確信した。真之も多少の負い目があるからなのだろうか、この時だけは由香子の視線を避けようとはしなかった。それが由香子にとっては微かに嬉しいところではあったが、真之の顔を見て安堵を得ると同時に新しい心配が急激に沸き上がってくる。

「わたしはご主人様のことを、その……、お慕い申し上げていますから」

今日の衝撃的な出来事は、自分のその言葉から始まったことを思い出す。心の中で抑え続け、表に出すことが出来ずにいた気持ちを半ば勢いで見せてしまったという事実に改めて思い至る。自分の気持ちは確かだったが、真之はそんな気持ちを向けられることを決して喜ばしく思ってはいないだろう。そうだとすると、自分はこれから先、この洋館でメイドとして働き続けさせてもらえるのだろうか。そんな心配がわき起こる。

「どうした、由香子?」

いつもと変わらぬ口調で真之が尋ねてくる。自分と同じ気持ちを持ってくれていなかったとしても、やはりご主人様はわたしをよく見てくれている。由香子はそう感じた。

「わたしは、お暇を頂かなくてはならないのでしょうか?」

ひょっとすると、自分はメイドとしてしてはならないことをしてしまったのではないだろうか。真之が側にいない生活は、由香子にとってはもう考えにくいものになっていた。そんな気持ちの中での問いであった。

「なぜ、そんなことを言う。由香子は確かに私の妹だということを明らかにしたが、同時に私の大事なメイドでもあるのだぞ。それとも、兄である人間にはメイドとして仕えることはもう出来ないか?」

「いいえ、決してそんなことはありません!」

思わず、由香子は立ち上がってそう叫んでいた。メイドという立場であっても、真之の側にいることが出来ることは由香子にとって幸福なことであった。決してそれを失いたくはない。そして、そう考える自分は、決して妥協から出たものでもない。メイドである自分をこれほど嬉しく思ったこともなかった。涙があふれそうになったが、ご主人様の前で泣き出すわけにもいかず、必死にそれを押しとどめる。

「そうか、安心したよ。まあ、座りなさい」

由香子を見上げるような形になった真之が、静かに諭す。自分の姿に気が付いた由香子が、慌てて真之の隣に座り直す。

「はい」

「由香子にはずいぶんと助けられている。これからもこれまでどおりに働いてくれ」

真之が由香子の肩にそっと手を乗せて言った。真之の気持ちがどこにあろうとも、由香子がその手を通して感じたのはこの人の優しさだった。

「はい、ご主人様」

由香子は真之を見つめながらそう答えた。ようやく、由香子に笑顔が戻っていた。

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