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第4章 育ちゆく思慕

この日、食堂のテーブルの上にはたくさんの皿が並べられていた。

食事自体はいつもの通り真之と由香子の二人だけのものであるから、一つ一つの量はさほど多くなってはいなかったが、とにかく何種類もの料理がところ狭しと用意されていた。

そうした華やかさを演出するためか、もしくは並べる料理にバリエーションを持たせるためか、この日のメニューとして選ばれたのは中華料理だった。前菜から始まり、蒸し餃子、蒸し饅頭などの点心、エビのチリソース、肉と青梗菜のオイスターソース煮込み、麻婆豆腐、それから……と、とにかく賑やかであった。

「由香子、今日はいったい、どうしたのだ?」

普段とは明らかに違う食卓の充実ぶりを見て、さすがに真之は疑問に思って尋ねた。

食事の用意を整え終えた由香子は、真之の向かい、台所への入り口に静かに控えていた。

「ご主人様、今日もお疲れさまでした。今日は、少し特別な日なので、腕によりをかけて作ってみました」

「特別な日……?心当たりがないのだが……」

自分や由香子の誕生日から、暦上の何かの記念日、果てにはコンチネンタルの創立日まで真之は思い返してみたが、今日の日付と重なるものは見つからない。

「あの……、まずはお座り下さい。冷めても大丈夫なものもありますが、温かいうちに召し上がっていただきたいお料理もあるんです」

「そうか、わかった。だが、由香子がここまでするような特別な日だったのか?」

そう言いながら、由香子の引いた椅子に腰掛ける。嬉しそうな顔をした由香子は、そのまま真之の正面にある自分の席に腰を落ち着ける。

「実は、今日はご主人様がこのお屋敷にお住みになられて、そしてわたしがご主人様にお仕えするようになってから、ちょうど三ヶ月目なんです」

「ほう、そうだったのか。もう三ヶ月か……」

「はい。由香子はご主人様にとってよいメイドになれましたでしょうか?」

「そうだな、お前はよく働いてくれている。料理の腕もだいぶ上がっただろう。これを見ればそれを認めぬわけにはいくまい」

「ありがとうございます」

由香子が頭を下げる。

「しかし、一年や二年の記念というならともかく、三ヶ月でこの盛り上げようは少しオーバーではないのかな」

「そんなことありません!ご主人様にお仕えさせていただいていることは毎日感謝していますし、時々、お褒めいただけるがとても嬉しいんです」

「まあ、物事を祝うというのは悪いことではなかろう。由香子の言うとおり、冷めてしまわないうちに食べることにしよう。さて、どれから手を付ければいいのかな」

「ご主人様のお好みどおりに。ですが、できれば前菜と、こちらからお召し上がりになってください」

小振りの皿に様々な料理が盛りつけられている。温かいスープとごま油を上手く味付けに使った前菜、そして貝の炒め煮を手元に寄せる。

「わたしも、いただいてよろしいでしょうか?」

「ああ、遠慮することはない」

「では、いただきます」

由香子も真之と同じものに手を伸ばす。主人とメイドという関係を考慮してか、二人分を大皿にまとめて盛りつけるということはせずに、最初からそれぞれの皿に取り分けられていた。だが、その分だけ事前の用意も大変なものであっただろう。これだけの品数を一人で用意するには、いくら特別な日だからといっても相当な苦労があったに違いない。

真之がそれを指摘すると、由香子は恥ずかしそうにしながら答えた。

「はい、お台所は大変なことになっています。あれだけ広いお台所でなければとても用意できなかったと思います」

「そうだろうな。後かたづけも大変だろう」

「それは、今はおっしゃらないでください。せっかくのご主人様との楽しいお食事どきですので、今は忘れていたいです」

真之も上機嫌そうであり、由香子にはそれがとても嬉しかった。最初にメイドとして働き始めた頃は真之と食事をすることを躊躇していたが、今の由香子にとっては「ご主人様との楽しいお食事」は全く偽りのない気持ちのものとなっていた。ご主人様として、という他に慕う気持ちを持ち始めている由香子にとって、時間と手間を掛けて料理を用意するのは大きな喜びにもなっていた。勿論、料理に限らず、掃除や洗濯などの家事においてもしっかりとこなすことは常に心がけているところであったが、目に見える成果、そして直接的に感じられる評価のある料理は由香子にとっては最もやり甲斐のある仕事であった。

三ヶ月目のお祝いというのも、そうした気持ちから考え出されたものである。

「はは、それもそうだな。それとこの……」

真之はそんなやりとりをしながら、カップに入ったスープを覗き込んだ。

「な、なんでしょうか……。なにかわたし……」

急に由香子は心配になった。スープに何か齟齬があったのだろうか。

「いや、そうではない。このスープに入っているのは、湯葉なのか?」

「はい、ワンタンを使おうかとも思ったのですが、蒸し餃子がありますので、代わりに」

「湯葉というのは和食の素材だと思っていたが、中華スープにもあうものなのだな」

「そうなんです。お料理の本で見かけて試してみたのですが、よく味にマッチするんです」

スープに問題があるのではないことが分かり、由香子は安心した。

プロの作る中華料理と比べれば味が多少落ちることはさすがに否めなかったが、化学調味料を使わない素朴で純真な味付けは、決してレストランの味に劣るものでもなかった。料理の腕の上達は、真之にもはっきりと分かった。

「食事に関しては、由香子に特に感謝している」

昔の食生活を思い出したのか、一瞬だけ暗い顔をした真之だったが、そんな言葉を聞いて由香子は半ば涙ぐんだ。

「ありがとうございます。でも、わたしにお料理の楽しさを教えてくださったのはご主人様だと思います」

「そうか」

「これからも、ご主人様のために美味しいお食事をお出し出来るように頑張ります」

「ああ、宜しく頼む」

単にメイドが自分の主人のためにというのであれば、そこまで努力出来るものではないだろう。由香子の中にはその他の気持ちも籠められている。ただ、それに気付きつつある由香子も、真之にそれを口にすることは出来なかった。

一人で切り盛りする台所は確かに大変なものであり、今日の食事の準備などは覚悟していた以上の大変さであったが、それでもこうして真之と共にする食事を味わうことが出来るのが由香子には幸せそのものなのであった。

メイドという仕事が、意外に自分に向いていると思ったことがある。ただ、それは仕える気持ちに単なる義務感以上のものがあってのものだということも分かっていた。

であるから、その仕事ぶりを真之に評価されたことが何よりも由香子には嬉しいのである。

結局、これだけの皿を、二人とも全て食べ尽くしてしまった。食後のお茶も、この日は紅茶ではなく台湾産のジャスミンティにした。後かたづけにはいつもより多くの時間を要したが、それすらも今日の由香子には苦にならなかった。

真之の隣で飲むお茶から立ち上る茉莉花の香りが、由香子の心にも染み渡った。

その翌日、由香子は書斎で真之のすぐ隣に座っていた。

メイドであるのだから当然なのだが、これまでの由香子の仕事は家事がほとんどであった。だが、最初から事業家の真之に対してもあこがれの気持ちを持っていた由香子は、そんな真之の仕事の手伝いも出来たらいいと考えていた。

そうした由香子のささやかな望みが、本当にささやかな形ではあったが、この日、叶うことになったのである。

「いいか、この表の数字を、こういう順番で読み上げていってくれ」

細かな字の並ぶ書類の、表を指でなぞりながら真之が由香子に指示する。長時間座るための、がっしりした椅子に腰を下ろしている真之に対し、由香子が座っているのは物置から持ってきた丸椅子であり、座り心地は決してよくないものあったが、由香子は初めて手伝う真之の仕事に、真剣に向き合っていた。数字が並んでいるだけで、何やら難しい書類に見えてしまう。

一度だけ、スカートの裾を気にした後、由香子は真之に促されて数字を読み始める。

「えっと……、二万三千四百五」

桁を下から数えるのに苦労を見せる由香子。それに気が付いた真之が慌てて指示を付け足す。

「そっか、すまないな。数字を読むときは万とか千とかいう単位は言わなくていい。左から数字だけ言ってくれないか」

「申し訳ありません。その、次は……、四、一、五、五、三です」

「そうだ、そんな感じだ」

「はい、続けます。二、七、三、一」

「うむ」

「一、零、三、八……」

由香子が数字を読み上げるごとに、真之は「うむ」と答えながらパソコンのキーを一度ずつ打っていく。

慣れていくと、三桁おきのカンマごとにリズムを取って読んでいけるようになり、由香子の可愛らしい声のためもあって単調な数字の羅列が音楽的なものにすら感じられるようになる。

仕事場の凛々しい真之の横顔に目がいきそうになる由香子は、慌てて意識を目の前の数字に戻す。

「終わりました」

「ありがとう。入力は大丈夫だ。そうだな、あと一つだけ頼む」

真之は立ち上がり、部屋の隅に置いてあるプリンタから、入力を確認した書類を取りだした。ざっと眺めた後に、再び椅子に座る。

「由香子、ちょっと」

手招きをされた由香子が、丸椅子から立ち上がって真之のすぐ隣に並ぶ。メイドとして働いているときも、これほどこの人の近くまで来たことはないということを思い出し、急に恥ずかしくなった。

「どうした?」

「い、いえ。何でもありません」

慌てて首を振る由香子。だが、真之はそんな由香子には何も言わず、厳しい顔のまま書類を由香子の前に差し出しながら説明をする。

「この列に数字が並んでいるだろう。縦から何ヶ所か適当に選んで、そこの電卓で、これをこれで割った数字になっているか確認してくれ」

「全部ではなくてよろしいのですか?」

「ああ。そうだな、三ヶ所くらいで充分だ」

「はい、それでは電卓をお借りします」

真之が再びノートパソコンの画面に目を向けている間、由香子は慎重に電卓に数字を打ち込んで、言われたとおりの計算をする。

上の方、中程、下の方から数字を一つずつ選び、真之の言ったとおりの数字になっていることを確認する。

由香子も毎日の買い物の金額をまとめるときに電卓を使うことがあるが、手のひらにぎりぎり収まるような大きめの電卓は初めてであった。

「ご主人様、数字、大丈夫でした」

にっこりと微笑みながら、由香子が書類と電卓を真之に戻す。

「合計は私も確認しておこう。……、ああ、問題ないようだな」

「わっ、すごい早いですね、ご主人様」

電卓は見ずに、書類の方だけに目を向けて、六桁の数字を一瞬で入力した。一つ一つ数字を見ながら計算していた由香子とは雲泥の差があった。

「まあ、こういうのは慣れだからな」

「でも、びっくりしました」

「そうか。ともかく、手伝ってくれて助かったよ。小休止することにしようか」

「はい」

由香子は丸椅子に戻って、再び遠慮がちに腰掛ける。両手を膝の上に揃えて、真之の方に体を向ける。

一方の真之は、一つの書類が出来たことで少し気を緩め、首を左右に曲げて顔をしかめた。何度か、ぐきっというはっきりと由香子にも聞こえる音がして、真之は顔をしかめながら苦笑いをした。

「ご主人様、お疲れですか……」

心配そうな顔をしながら、由香子が小声で言う。

「そうだな、ここのところ、この手の仕事が多かったから、気が張っていたんだろう」

「この手の仕事、ですか?」

「そうだ、数字を扱う仕事は、とにかく気を遣うものだ」

「わかるような気がします。でも……」

「どうした?」

済まなそうな顔をしている由香子に気が付いて、真之が疑問を投げかける。メイドとして側にいる時を含めて、表情の豊かな由香子ではあるが、真之はそれに対しては悪く思ってはいなかった。

「毎日、ご主人様の側におりながら、お疲れであるのを気付くことが出来ませんでした……」

「そうか。由香子のおかげで私はずいぶんと助かっているぞ。それに、このくらいの疲れなど大したことではない」

「ありがとうございます、でも……」

「まあ、気にしなくてよい」

「はい」

そう言った由香子は、そのまま黙ってしまった。そしてしばらく考え込んだ後、意を決したようにこんなことを真之に言った。

「ご主人様、肩をおもみいたしましょうか?決して上手ではないと思いますけれど」

提案する由香子の方が、頼み込むような表情をしている。由香子の性格を把握しつつある真之は、それに委ねてみることにした。

「そうか、では頼もうか。そっちの椅子に移らせてもらうぞ」

「あ、はい……」

由香子が慌てて立ち上がる。入れ替わりで、由香子の温もりの残った丸椅子に真之が腰を下ろす。

「では、失礼いたします」

由香子が白い手を伸ばして、最初は遠慮がちに真之の肩に触れる。真之の体温を手に感じ、由香子は不思議な気分になった。自分からの積極的な意思で真之に触れたのはこれが初めてのことであったかもしれない。

そして、真之の体の意外な堅さに驚きながら、静かに肩をもみはじめる。

「いかがでしょうか?」

少しだけ顔を近づけ、由香子が心配そうに聞く。

「ああ、悪くない。だが、もう少し力を強くしてくれ」

「わかりました」

少しずつ、真之の堅さがほぐれていくのが分かった。身近に男性のいなかった由香子にとっては、働いている人のそうした疲れや、男の背中の大きさというものに驚かされる。平均よりも僅かに背が高いとはいえ、真之は決して大柄な方ではなかった。それでも由香子にはそう感じられたのは、心理的な要因もあったからかもしれない。

「なんだか、少しだけ嬉しいです」

沈黙に居心地の悪さを感じ、由香子がふとそんなことを口にした。

「うん?」

由香子に背を任せたまま、真之が言葉だけを向ける。

「こういうのって、何だか素敵だと思います。前にも少しだけお話ししたことがあると思いますが、わたし、父にあまり甘えることが出来なかったので……」

「私は由香子の父親代わりか?」

笑いながら真之が言った。

「いいえ、そうではありません。父親というよりは、どちらかというとお兄ちゃんのような……」

「なにっ?」

兄という言葉に、真之が驚いた。そんな予期せぬ真之の反応に、由香子の方も慌てる。

「申し訳ありません。ご主人様に対して失礼なことを……」

「……。そうか、確か、由香子には兄弟はいなかったのだな」

平静さを取り戻して、真之は不自然なほど穏やかな口調に戻って言った。

「はい。一人っ子で、父も母のものといった家庭でしたから、ひょっとすると兄弟姉妹にあこがれていたのかもしれません」

「そうか……。だが、由香子のような年頃だったら、恋人でもいるのではないか?」

「いいえ、残念ながらそんな縁には恵まれませんでした。ですが……」

「うん?」

「いいえ、何でもありません」

由香子は顔を赤らめて俯いていたが、真之にはそれは見えなかった。「もう少し強くしてくれ」という真之の言葉をにわかに思い出し、肩もみの手に更に力を加える。

真之もしばらく無言のまま、そのまま由香子のもたらす快適さに身を任せていた。

好きな人が自分に背を向けてくれていることが、信頼の証のようにも思えて由香子には嬉しかった。

それから昼食を挟み、政康は再び書斎で執務に就いていたが、由香子の方は午後は家事に専念することになった。午前中に済ませて外に干してあった洗濯物と、日に当てていた布団を取り込み、綺麗にたたんでそれぞれ自分と真之の部屋に持っていく。台所、風呂場、玄関と、部屋以外の場所を掃除していく。庭の様子を眺めて箒で枯れ葉を集めた後は、真之の小休止のための紅茶を用意する時間になっていた。

先ほど綺麗にしたばかりの台所に戻る。二、三人くらいならば同時に調理が出来るほどの広さを持つ台所は、基礎的な作りはさすがに古めかしいものであったが、水回りはリフォームされて使いやすくなっており、大きめの冷蔵庫やオーブン、いくつかの調理器具が歴史のある洋館の内装と対照的であって面白い。そんな台所であるが、真之は滅多にここに入ってくることはなく、由香子に与えられた部屋と併せて、ほとんど由香子専用の空間となっていた。それを少し勿体なく感じている。だが、考えてみるとこの台所に立って自ら料理をしている真之の姿というのは、想像するのは困難であった。

メイド服の長いスカートを翻させながら、優雅にその台所の中を立ち回る由香子。食器棚から二つの白磁器のティーカップとポットを取り出す。

そして、薬缶を火に掛けて湯を準備する。

「今日は、どちらの紅茶にしようかな……」

顔を少し斜めにして、由香子が考える。そして結局、いつものベーシックなセイロン産を使うことに決めた。早速、戸棚から茶葉を取りだし、ティースプーンでポットの中に入れる。少しずつやかんからも湯気がもれてきているのが見えた。

由香子は、真之のために紅茶をいれるのが好きであった。一番最初に真之に褒められたのがこの紅茶の味であったし、自分も心地よい香りを味わいながら、親愛なるご主人様のすぐ側で琥珀色の液体を注ぐ時の優雅さと落ち着いた雰囲気が由香子を喜ばせる。そして何よりも物理的に真之のすぐ側にいられるのが嬉しかった。

「あ、お湯が沸きました」

多めに用意した湯を、まずは空のティーカップに注ぐ。熱せられたやかんの注ぎ口から沸騰した湯が跳ね上がらないように気をつける。そして、今度は静かに本命のポットの方へ二人分の湯をゆっくりと注いでいく。

ティーポットに小さくて可愛らしい蓋を乗せる。傍らに用意した砂時計をひっくり返し、ポットの中で茶葉が広がっている間に、カップの方の湯は流しに捨ててしまう。

幸せそうな表情で、由香子は少しずつ落ちていく時計の砂を見つめる。

砂の流れを見ながら、由香子は書斎で真之の肩をもんだことを思い出していた。自分の細い指に目を向けると、その手で真之の体温を感じていたことを思い出し、頬が紅潮するのが分かった。

爪は短く切りそろえ、マニキュア等の飾りを一切施していない手は純朴であったが、それはメイドとして働く上で当然であったから、由香子は残念であるとは思わなかった。寧ろ、そうして真之に仕えることの出来る自分を誇らしく思っていた。

何しろ、昔からあこがれの気持ちを持っていたその人の身の回りの世話をすることが出来るのである。自分の慕っている人のために自分が様々なことをすることが出来る。人が働くと言うことを考える中で、これほど幸せな仕事はあるだろうか。

真之の背中は広かったことを由香子は思いだした。男の人の背中というのは、かくも頼もしいものなのだろうか。由香子より一回り年上であっても、それは成熟した魅力というものを由香子に感じさせるだけであった。今日見た背中は服越しであったが、例えば入浴中の真之の背中を流すということになれば、もっと近くに真之の存在を感じられるのであろうか……。

そんなことを考えていた由香子は、時計の砂が半分ほど落ちているのに気が付いて、慌てて現実に引き戻された。自分でもはっきり分かるほど顔が赤くなっている。

「わ、わたし……」

誰もいない台所で、何故か周りを気にしながら由香子は紅茶をトレイに乗せる。

そして、揺らさないように気をつけながら慎重に階段を上っていく。

コンコン……。

あまり大きな音にならないように、しかも中にいる真之には確実に聞こえるように、相反するような二つを満たす難しいノックをする。コンチネンタルのウェイトレスで鍛えられていたので、片手にトレイを持ったままノックをするのは由香子にはさほどの困難でもなかった。それに、この部屋にこうして紅茶を捧げに来るのにもすっかり慣れている。

「由香子か、いいぞ」

「はい、失礼いたします」

ノックをした手でそのまま扉を開ける。

部屋の正面に座っている真之は難しそうな顔で机の上に目を向けていた。

「ご主人様、紅茶の時間です」

「ああ、もうそんな時間なんだな。紅茶は、ここに置いてくれないか」

机の一角に少しだけ余裕があり、由香子は真之の仕事の邪魔にならないように気をつけながらカップを置く。

「はい、これからお注ぎしてもよろしいですか?」

ちょうど、時計の砂が落ちきった頃合いである。

「ああ」

真之は由香子の方には顔を向けず、声だけで簡潔にそう促した。

由香子は、慎重にポットに紅茶を注いでいく。

「レモンとミルク、どちらになさいますか?」

「そうだな、今日はレモンがいい」

「はい、では添えておきます」

「悪いな、なかなか区切りがつかないものでな。今日はこれを整理しながら飲ませてもらう」

「はい、それでは後ほど下げに参ります」

「ああ」

一度だけ、側に立っている由香子に顔を向けた真之だったが、そのまま書類の方に顔を戻した。

由香子はそんな真之に一礼すると、書斎を出て台所に戻る。

残りの紅茶を、自分のカップへと注ぎ入れる。時間がたって少しだけぬるくなり、少しだけ苦味が増してしまった紅茶を眺める。

仕事中の真剣な表情の真之も由香子は好きであったが、隣でティータイムを過ごすことが出来なくて少しだけ残念な気持ちになるのも否めなかった。

その晩、一日の仕事を終えて入浴も済ませた由香子は、パジャマにセーターを羽織った姿で鏡の前に座っていた。体が温まり、そのまま風呂の余韻に浸りながら寝てしまいたくなる前に、乳液を顔に塗って大事な肌の手入れを行っていた。

しっとりと湿った髪と僅かに上気した顔が、年頃の娘らしい柔らかな色気を見せている。

乳液を肌になじませながら、由香子は入浴中に、そして紅茶の準備をしている最中に浮かんだことを思い出す。ご主人様のお背中をお流しする……、急にどうしてそんなことを考えてしまったのか、由香子にも不思議だった。

自分は最近、調子に乗ってご主人様に甘える心があるのではないか。そんな風に考えてみる。メイドとしてしっかり仕えることと、必要以上に真之に近づくことは異なる。そう分かってはいるのだが、真之に少しでも満足してもらうために、真之の近くで仕事をしたい、最近の由香子はそう思うようになっていた。

同時に、物理的に真之の近くに自分がいるとき、こうしたらご主人様が喜んでくれるのでないかと考えたときに、自分の心が強く揺れるようになっていることにも由香子は気付き始めていた。

そうした言動を、由香子自身は必死に表には出さぬようにしているつもりであったが、それなりの人生経験を重ねてきている真之にははっきりと悟られるところとなっていた。

今のところ、真之はそうした由香子の好意を正面から否定することはなかったが、自分の向けている気持ちがはねつけられるのではないかという危惧は、由香子の中にもあった。

自分はあくまでも真之のメイドである。その事実が由香子に単純な喜びだけでなく葛藤をも与え始めるようになっていたのだった。

「ご主人様……」

明日のために用意してあるメイド服に目を向けながら、由香子は静かにそうささやいた。

向こうの部屋では、ご主人様はもうお眠りになられたのかな……。

静かに更けゆく夜の洋館の部屋で、由香子はそんなことを考えていた。


一方、真之はいくらかの困惑の中にあった。

由香子のメイドとしての働きぶりには充分満足しているところであったが、そんな由香子の言動に、メイドとしてのものの他に存在する気持ちが存在しているのが見えるようになったからである。

自身は恋愛の類にほとんど興味を持っていない真之だったが、自分に向けられているその手の気持ちには、人並み程度に敏感に気が付く。そして、いくつかの理由でそうした由香子の恋心を受け入れることの出来ない真之には、迷惑とまではいえないが、ある種の困惑を感じざるを得ないところがあった。

真之は決して由香子を甘やかしたわけでもなかったし、同じ家に住んでいるからといって必要以上に距離を近くすることもなかった。由香子には自分がメイドであり、この洋館にいるのは自分の仕事のためであるということ、そして自分は真之に雇われている身であるということをはっきり自覚させるために、その象徴であるメイド服に関して一つのルールを定めていた。

それは大きくまとめると「洋館の中ではメイド服を着ていること」「洋館の外に出るときには私服に着替えること」の二つであった。前者に関しては勿論、就寝前などの例外はあったが、少なくとも洋館の中で真之の前に出るときにはメイド服を着て、ということであり、後者は、買い物等で仕事として出かける時であっても、外ではメイド服は着ないようにということであった。ただ、これに関しては洋館の外をメイド服姿で出歩くことは必要以上に人目を引いてしまうだろうということへの配慮という意味合いの方が大きかった。

そうして、由香子と自分の間にきっちりと線引きを設けたつもりであった真之だったが、同じ空間を共有する時間が長くなれば、次第に精神的な距離も縮まっていくのは必然であった。そもそも、メイドというのは主人に快適に過ごしてもらうのが大きな役割であるのだから、そのためには主人の気持ちを察する、つまりは主人との精神的な距離を近づけることは当然求められることになる。

由香子は、最初に洋館に来てからずっとそうすることに努めていたし、真之も由香子のメイドとしてのそうした努力を拒むことはなかった。ある程度の歳の差があり、また必要な時には出来るだけ厳しく接するようにしていた真之には、多少の油断はあったのかもしれない。だが、由香子はそうした真之の心の壁を乗り越えてきた。真之の考えていた歳の差や厳しさというのは、逆に由香子には魅力として映っていたのである。

「あれは、私としては少し無防備であったか……」

由香子に肩をもませたことを思い出しながら、夜の自室で、真之はそんなことをつぶやいた。

食事を共にさせることは間違いではないと思っていたし、三ヶ月記念の豪勢な料理を否定することは、さすがに真之にも出来なかった。その熱意の源泉がどこにあるかはともあれ、料理を始めとする家事の腕前は確かに上達していたし、それは素直に賞賛に値するものであると真之も認めていた。

「だが……」

由香子は時々、自分へ対する思慕を言動として向けてくることがある。おそらく本人は表に出ないように隠しているつもりであるのだろうが、それは真之から見れば児戯に等しいものであった。何しろ、時にははっきりと顔を赤らめることまであるのだから当然である。恋愛の当事者ではなく観察者としての目が、それをはっきり指摘していた。

あの二人の子としては奇跡的に、由香子はよい娘であろう。真之にあこがれの気持ちを持ったりしなければ、年頃までによい相手を見つけていたかもしれない。

思慕の気持ちを向けられるのは決して不快なものではないが、その相手が由香子となると話は少し異なる。いくつかの理由の中に、まだ真之が由香子に話していない事実があった。

この洋館を買うと決めたときに、広瀬から受け取った由香子の履歴書を真之は思い出した。家族欄に書かれた由香子の両親の名前は、真之も知っているものなのである。「あの二人」と真之が心の中で呼んでいる母親の方は、真之を産んだその人であり、父親の方は真之が嫌っていた継父なのである。当時は既に真之は中学を卒業して自力で高校へ通っていたからその場に立ち会ったわけではないが、つまりは由香子は真之にとって妹なのである。由香子は確実にそれを知らないであろう。自分は一人っ子であると由香子自身が話していたし、先日の「父親というよりは、どちらかというとお兄ちゃんのような……」という言葉もそれを示している。由香子の口から出た兄という言葉に、敏感に反応してしまった真之は一瞬だけ声を荒くしたが、今でも由香子が昔から「あこがれの人」と見ていた真之が自分の兄であるとは想像もしていないであろう。

仮に真之に人並みの恋愛感情があり、由香子にそれが向けられたとしてもそうした理由で二人が結ばれることはあり得ない。自分が疎んじている二人の愛娘を、メイドとして自分の意とするところで働かせる……、そうした屈折に価値を感じる負に近い感情が、真之をして由香子を雇わしめる一つの要因になっていたのは事実である。だが、その由香子が自分に思慕の気持ちを向けるようになるということまでは予測していなかった。その予想外の出来事に、真之は困惑を感じていたのである。

「由香子については少し考えないといかんだろうな……」

由香子を解雇することは、真之は全く考えていなかった。そこに真之の冷たさの限界があるとすればそれまでなのであろうが、事業家としての真之は「心」を失った人間には物質的な豊かさも決して持ち続けられないという確信を持っていたから、どれほど心の中に葛藤があったとしてもそういう選択肢を選ぶことはあり得なかったであろう。由香子の生活を合意のものとはいえ大がかりに変えさせたのは真之自身である。その意味で真之には責任もあったし、由香子を放逐することは真之にとっても「負け」を意味する。自分への思慕の情を抜きにすれば、メイドとしての由香子は申し分ないものとなりつつもあり、それは認めざるを得なかった。

僅かに外から月明かりの差し込む寝室で、消えた電灯以外に何もない天井に目を向けながら真之は考える。

(由香子にとっては、世界が狭くなりすぎてしまったのかもしれないな……)

人付き合いの苦手な人間というわけではないのだろうが、コンチネンタルの時も含めて、由香子の人間関係はさほど広い範囲に広がっているものでもないようだった。あの町で育ち、東京に出てきた由香子は、ご多分に漏れずこちらでの友人もそう多くいるのではないだろう。同僚といえるウェイトレスの直美とは仲がよいらしいが、由香子もどちらかというと友人関係は狭く深く持つタイプのようであり、その意味では真之に近いものがあるのかもしれなかった。

そんな由香子だが、今はこの洋館の中で真之の世話をして過ごしているのであり、それは由香子の接する世界を更に限定していることになるのではないだろうか、そんな事実に真之は行き当たったのである。

そして、おそらく由香子はその中で真之のいないときも「真之のために」ほとんどの時間を費やしているに違いない。ある意味では、真之に思慕が向けられるのは当然ともいえるだろう。

(時々、由香子もコンチネンタルに連れて行くようにした方がよさそうだな)

そんなことを真之は考えた。多少は誇示するかもしれないが、厭がるということもないだろう。真之はそう予想した。幸い、決算期が近づき、真之自身もコンチネンタルを訪問する機会が多くなる。由香子にとっても悪い話ではないだろうと、若干楽観気味に真之は考えていた。

「えっ、わたしも一緒に、ですか?」

朝食後、この日の真之の予定を聞いた由香子は、真之の意外な言葉に思わず、聞き返していた。

「今日は天気はよくないようだし、家事の方に余裕があるなら由香子もついてくるといい。ちょうど、コンチネンタルに行く予定だから、お前も久しぶりに向こうの人間に顔をみせてやるといい」

「本当ですか、ありがとうございます!」

由香子はメイド服姿で大きく頭を下げていた。髪のリボンも大げさに揺れ、頭を戻した時に位置を失ったそのリボンを、由香子が慌てて整える。コンチネンタルへ行くことそのものよりも、真之と一緒に出かけられることの方が由香子には嬉しかったのかもしれない。

「あの……、それでコンチネンタルへはお車で行かれるのでしょうか?」

「そうだな、この天気だから、電車ではなく車で行くことにしよう」

丘を降りてバスに乗り、駅に出る。そこから鉄道で行くという手段もある。バスが渋滞に巻き込まれる時間さえ避けることが出来れば、一番確実な手段ではあるのだが、雨の中では意外にそれは難儀でもあった。

「はい、嬉しいです」

「そうか」

由香子の喜ぶ表情を見ながら、真之は簡潔に答えた。そんな真之に、遠慮がちに由香子はこんな許可を求めた。

「あの……、この格好のままコンチネンタルに行ってはいけませんでしょうか?」

真之の厳命を知っていたから、おそるおそるといった感じの小さな声であった。

「この格好……というと、そのメイド服か?」

「はい、ご主人様の言いつけは存じておりますが、出来ればあちらの直美……、いえ小月さんにこの姿のわたしを見てもらいたいと思いまして」

「うーむ……」

「お車でしたら、さほど目立たずに済むと思いますし、プライベートでお話ししていたときなんですが、小月さんに『メイドの由香子が見てみたい』って言われたこともあるんです」

「……まあ、いいだろう」

コンチネンタルならば身内の世界という面もあるだろうし、無下に断るのも得策でないと真之は考えた。多少の負い目というものもあったかもしれない。

「ありがとうございます、ご主人様」

再び由香子が頭を下げる。そんな由香子の笑顔は、客観的にも魅力的なものではあろうということを、真之も認めざるを得なかった。

「ご主人様が支度をなさっている間に、お車を玄関に回しておきました」

「そうか、それは助かる。雨だから大変だっただろう」

僅かながら水滴の残っているメイド服を見て、真之がそんな由香子の気遣いをねぎらった。

「雨よりも、今日は寒さの方が厳しいです……」

由香子は笑顔でそう答える。そして、真之の正面に回って言う。

「それから、ちょっと失礼させてください」

「どうした?」

「ご主人様のネクタイが、少々曲がっております。あっ、これで大丈夫です」

再び、にっこりと微笑んで言った。

「そうか、気付かなかった」

真之自身もそれなりには鏡を見て身だしなみを整えたつもりだったので、本当に気になるほどネクタイが曲がっていたのかは明らかではなかったが、由香子の振る舞いにはひとまず、異は唱えなかった。

「そろそろ行くとするか」

「はいっ」

真之の愛用している小さな鞄を、先んじて手に取ろうとした由香子だったが、身振りで制止させられる。由香子は一瞬だけ残念そうな表情を見せたが、真之はそれに気付かずに玄関へと向かっていく。慌ててその後を追う由香子。

メイド服のまま外出するのは初めてのことなので、少し浮かれた気分になっているのかもしれない。勿論、そればかりが理由でなく、真之と車で二人で外出するということもあるのだろう。

「あの……、運転は?」

「ああ、そうか、由香子も乗れるのだったな。大丈夫だ、私が運転していく」

「わかりました。わたしは助手席に乗せていただいてよろしいでしょうか」

「そうだな。疲れたら帰りはお前に頼むかもしれない。しっかり道を覚えておけよ」

「は、はい……」

地図を見たり、地理を覚えたりするのはあまり得意でない由香子は、そんな真之の言葉に緊張を覚える。真之に許されたとおり、何度か買い物の時にこの車を使わせてもらったことのある由香子だったが、まださほど長い距離を運転したことはなかった。

「私にとっては、もうだいぶ慣れてきた道だからな」

そんな話をしながら、玄関を出た二人はそのすぐ前に止めてある車に乗り込む。

しばらくエンジンを温めた後、真之は静かに車を動かし始めた。

運良く渋滞には巻き込まれずに、大きな国道を通って車は都内に入った。雨のために慎重さを増しての運転であったが、それでも時々、自分の方に顔を向けて話しかけてくれるのが由香子には嬉しかった。車を運転しているときの真剣な真之の横顔というのは、由香子にとって新鮮であった。地図を見たり、外の景色に目を向けたりしながら、時々ちらっと隣の真之を見るとそのたびに心が揺れた。

どこか浮き上がった気持ちになりながら、こうして由香子は久しぶりに古巣であるコンチネンタルまでやってきた。

真之と由香子が到着したのは、ランチタイムの終わり頃であった。真之の心づもりでは、ちょうどランチタイムが終わったことに到着する予定だったのであるが、思いのほか道が順調に流れていたことが、普段とは逆の形で予定を狂わせることになった。

オーナーらしからぬ慎ましさで勝手口から店内に入ると、まだ忙しく調理を続けている厨房を邪魔しないように気をつけながらその隣の事務室まで進む。

「オーナー、もうお着きになったのですか。済みません、あと十五分ほど、中で待っていてもらえませんか?」

「この時間は、広瀬もフロアに出るのか。ああ、邪魔はしないように待っているよ」

ちょうど通りかかった広瀬に声を掛けられて、簡潔に真之は答える。メイド服の由香子にも気が付いて、一瞬だけ「おやっ」という表情を見せた広瀬だったが、それ以上のことはなく店内に急ぎ足で戻っていく。この時間帯のコンチネンタルの忙しさは由香子も知るところであったから、正直なところ少しだけ残念に思うところもあったが、そのまま真之に従って事務室へ入った。

「少しばかり、時間を測り違えたようだな。広瀬の言うようにここで待つことにしようか」

「はい」

「こいつをちょっとばかり失敬することにしようか」

由香子を座らせた真之が、部屋の隅にある湯沸かしポットの方へ向かっていく。紙コップを二つ取り出し、それぞれにティーパックの紅茶を引っかける。

「あ、お待ち下さい。そのようなことはわたしが……」

「いい、気にするな。ここではお前はメイドではないのだぞ。まあ、その服装のままではあまり説得力はないがな」

立ち上がろうとする由香子を左手で制して、笑いながら真之が言った。メイド服姿の由香子に「お前はメイドではない」と言った真之はそんなおかしな矛盾を自ら指摘してみせる。

「はい……。でも、わたしがご主人様に紅茶を入れさせるなど……」

「普段、由香子に入れてもらっている紅茶とは比べものにならんだろうがな」

「そ、そんなことありません。その……、恐縮です」

並べられた紙コップを見つめながら、由香子が小声で言った。

「広瀬以下、全員を働かせながら我々がのんびりしていてはいかんのかもしれないがな」

「そうですね」

由香子も真之を受けて同じく苦笑いをする。紅茶を飲んで少し心が落ち着くと、由香子の中に懐かしさが感じられてくるようになった。ランチタイムの盛況は今でも変わっていない。それが分かって、由香子は嬉しくもなった。

「オーナー、ようやく少し落ち着いてきました。お構いもせず、申し訳ありません」

黒のスーツに蝶ネクタイという、レストランの男性従業員らしい服装の広瀬が事務室に戻ってきた。

「いや、店としては店主より客の方を大事にするのが当たり前だ、気にしなくていい」

「ランチの終わりまではまだ少しありますが、もう僕がいなくても大丈夫でしょう」

「ああ、ご苦労さん」

自然なねぎらいの言葉を真之が広瀬に向ける。友人でもあるという二人の関係がそうしたところから自然と伺えるが、由香子にとってはそれはうらやましくもあった。

「今日は、西崎さんも一緒だったんですね」

「ああ、久しぶりに古巣に顔を見せるのも悪くないだろうと思って連れてきた」

「店長、お久しぶりです」

由香子が広瀬に頭を下げる。

「公私混同をしないオーナーにしては珍しいですね」

由香子がメイド服姿であることも含めての広瀬の指摘だった。さすがの広瀬も真之の心の内までは理解していなかった。

「まあ、確かにそうだな」

そう真之は言葉を濁す。

「僕としては、西崎さんを推薦したこともあるから気になっているのだけど、オーナーの家での仕事はどうだろうかな?」

広瀬がそう由香子に尋ねる。

「はい、おかげさまで順調です。まだまだメイドとしては至らないところがありますが、そういう時にはご主人様がきちんと叱って下さいますので」

「『ご主人様』か、すっかりメイドさんになっているね、安心したよ」

「あっ……」

由香子が顔を赤くして慌てて口元を手で隠そうとする。ここに来るまでは、真之のことを第三者に対してどう呼んだら考え続けていた由香子だったが、無意識のうちに「ご主人様」という言葉が出てしまっていた。

「西崎さんの後に来た新人さんも、もうだいぶ仕事に慣れてきましたよ。彼女は今日はシフトに入っていないんですけどね。あ、ランチが終わったら小月さんにもこの部屋に来るように言っておきました」

「それは楽しみです」

店長とオーナー且つ主人と同席して、遠慮がちに由香子は紙コップに手を伸ばす。

「小月さんも休憩に入るだろうから、一緒に話でもしてくるといい」

真之が由香子に顔を向けてそんなことを言ってくれる。

「はい。でも、小月さんの都合もあるでしょうし……」

ちょうどその時、事務室のドアをノックする音が聞こえた。

「小月です。フロアは一段落いたしました」

「そうか、ご苦労さん。ちょっと入ってもらえるかな」

「はい、失礼いたします」

気さくな言動が魅力の直美だったが、同時に礼儀をわきまえるべきところはわきまえている。由香子にとっては懐かしい制服姿の、直美が事務室に足を踏み入れた。

「あっ、由香子!」

思いがけぬところで思いがけぬ人間に出会って、直美は一瞬だけそんな礼儀を失った。だが広瀬と真之がいることに気付いて、慌てて言葉を改める。

「オーナーと西崎さんがいらしていたのですね」

「ああ、店長と打ち合わせることがあってね。折角なのでと由香子も連れてきたのだが……」

どうやらメイド服に関心が向いているらしい直美に、真之が我が意を得たりと説明する。

「どうやら、君とそういう話をしていたことがあるみたいでね。由香子のたっての頼みで、今日はメイド服のままで来るのを許した」

「わ、西崎さんもなかなかやりますね。私と話をしていたときには『ご主人様はこの服で外に出るのをお許しにならないから難しいかも』って言っていたのに」

「な、直美……」

すっかり顔を赤くした由香子がうつむいてしまう。そんな女性陣二人のやりとりを、広瀬が楽しそうに聞いている。そんな再会に水を差すほど真之も無粋な人間ではなかった。

「でも、西崎さんが小月さんに見せたいって思うだけあって、よく似合ってますよ」

「うん、この制服にも負けないくらい可愛い」

そんなコンチネンタル組の由香子評も、今は恥ずかしさを助長する効果しか持っていなかった。

「さて、そろそろ打ち合わせに入ろうか」

それぞれの再会を懐かしんだ頃あいに、真之が広瀬にそう言って本来の目的に戻ることにした。

「小月さんはこれから休憩でしょう、今日はフロアの席でいいから、西崎さんと賄いをもらってもう少しお話でもしてきたらどうかな」

「よろしいのですか?」

「構わないですよね、オーナー」

「そうだな、由香子もそれでいいだろう?」

「はい、ありがとうございます」

「というわけだ」

「では、お言葉に甘えさせていただきます」

直美に続いて由香子も立ち上がり、それぞれ特徴的な服を着た二人が真之と広瀬に会釈を残して部屋を出ていった。

「由香子を連れてきたのは正解だったかもしれないな」

「小月さんも喜んでいるでしょう」

「そのようだ」

そう言いながら、真之は鞄から書類を取りだした。広瀬の前に並べて、数字の説明を始めたときには、真之は既に事業家の顔に戻っていた。

「そろそろ出来る頃だから、ちょっと待っててね」

ランチからティータイムまでの休憩時間は、店も一旦休業モードに入るため、フロアの中には誰もおらず閑散としていた。由香子と直美はそんなフロアを特別に独占させてもらえることになっていた。

一度、キッチンを覗いてから戻ってきた直美は、かつては由香子も着ていた制服姿のままで隅の一席に由香子と並んで腰掛けていたが、話し始めて五分ほどすると、そう言い残して再びキッチンの方へ向かっていった。

元の職場で、今はメイド服姿でいる自分を少し不思議に思いながら、懐かしい店内に目を向ける。出窓にさりげなく飾られた小物や民芸品、壁に掛けられた小さな風景画など、店の様子は由香子の働いていたときとほとんど変わっていなかった。久しぶりにこの場所に身を置くと、自分が真之のメイドとなってから三ヶ月以上たっているという事実を一瞬だけ忘れさせる。

(でも……)

やはり、自分は変わったのだと由香子は思う。コンチネンタルで働いている時の自分の生活も充実していると思っていたが、今の方がもっと一日が充実していると実感出来る。不特定多数の人にサービスを提供するウェイトレスという仕事と、特定の人に快適に過ごしてもらうためのメイドという仕事は、似ている面も確かにあったが、大きく異なるものである。最初は戸惑いもあったが、今はやり甲斐と誇りを持ってメイドとして働くことが出来ていると由香子は信じていた。常に真之の姿を思い浮かべながら、「こうしたらご主人様は喜んでくれるに違いない」と考えるのが好きなのである。それに、由香子にとって真之は単なるご主人様だけではなくなっていた。それもまた、由香子の働く原動力ともなっていたのである。

コンチネンタルまでのちょっとしたドライブを思い出しながら、奥の事務室にいる真之の姿を思い浮かべていた由香子は、近づいてくる足音によって意識を引き戻された。

「お待たせ、杉野さんの作ってくれたオムライスよ」

「お久しぶりです、西崎さん。お元気でしたか」

大きめの皿とスープの入ったカップを二つ持っている直美の隣に、コック姿の男性がもう一人続いてやってきた。フロアでの接客がメインだった由香子にはあまり接する機会のなかった料理長の杉野だった。彼も由香子の分のオムライスの皿と、アイスコーヒーの入ったグラスを持っている。そして、裏方であるコックにしては丁寧な動作で、座ったままの由香子の前に皿を置く。

「あ、杉野さん。ご無沙汰しています」

由香子は慌てて立ち上がり、杉野に一礼する。由香子よりも後にコンチネンタルに来た杉野は、店長の広瀬がヨーロッパ旅行中に知り合った人間と聞いているが、広瀬に期待されているだけあって腕の良い料理長としてコンチネンタルを支えている。

料理長とはいっても、決して高級レストランではないこの店では便宜上の役職に過ぎず、肩肘を張って接するような立場というものでもない。まだ二十代後半である杉野は、見た目も好青年そのものである。直美あたりとひょっとしたらお似合いかもしれない、密かに由香子はそんなことを考えたものであった。

「賄いは今日は二人分欲しいと言われて、少し驚きましたが、西崎さんが来ていたんですね」

「はい、今日はオーナーのお供でお邪魔しています。あ、でもオーナーの分のお食事は……」

「それについてはご安心を。これから、店長の分とあわせて用意させて頂きますので」

「でも、オーナーや店長よりもわたしたちの分が先というのは……」

湯気の立ち上っている美味しそうなオムライス。それを見つめながら由香子が心配している。

「オーナーの分は、これからきちんと作ります。こういっては何ですが、賄いの方は『あり合わせ』だから早いのですよ」

「そうそう、杉野さんの手際の良さには驚いちゃうわ」

横から、直美がそう言って褒め称える。そんな直美の笑顔を見て、由香子もようやく納得する。

「そうですか、それなら安心です」

「メイドというお仕事も大変だと思いますが、元々はこのお店での仲間、応援していますよ」

「ありがとうございます」

「さ、冷めないうちに召し上がってください」

「あ、そうね。杉野さん、どうもありがとう」

「いえいえ」

そう言って杉野はキッチンへ戻っていった。彼も夕方の仕込みの前に食事を向こうで済ませるのであろう。

「それじゃ、頂こうかしら」

空腹を感じる時間帯に、美味しそうな食べ物を目の前にして直美の顔が緩む。

「うん、そうしよう?」

由香子も、親しい友人の前で言葉を崩し、リラックスした気持ちで食事に取りかかる。

静かなコンチネンタルのフロアの中で、この一角だけが賑やかになっていた。

「このオムライス、本当に美味しい」

料理のプロである広瀬と自分とでは比べものにならないのは当たり前であったが、それでも、ある意味では自分もプロである。自分の作るものとは段違いの味を実感して、文字通り由香子は舌を巻いた。

「そうね、この卵のふわふわはどうやって作るのかしら」

「わたしも、もう少し料理が上手になりたいなあ……」

真之の姿を思い浮かべながら、由香子はしみじみと言った。

「でも、由香子の料理も上達したって、オーナーも認めてくださったんでしょ?」

「うん、それはそうなんだけど、こんなに美味しいのを食べちゃうと」

「でも、杉野さんはうちの料理長なんだし、食材だって違うんだから」

「それも分かってるんだけどね」

「今の由香子なら、私よりもずっと美味しい料理を作ってくれそう。って、私なんかより上手って言われても嬉しくないわよね」

「そ、そんなことないよ」

慌てて由香子が手を振って否定する。

「そうだ、時々、アドバイスもらいに来ればいいんじゃない?杉野さんって人に教えるのも上手い人だから、由香子ならきっといろいろ吸収出来るわよ。オーナーも、『時々、こっちに来てもよい』って言ってくれてるんでしょ」

「うん」

自分の置かれている環境を最大限に役立てることを直美は得意としていた。立ち上げの時にはいくつかのトラブルもあったこの店を広瀬と共に支えてきたのは直美のそうした長所が少なからず助けになっていたに違いない。

真之が、時々由香子がコンチネンタルを訪れることを勧めるようになったのは別の意図からのものであったのだが、そうした真之の意図とは別のところで由香子はその機会を上手に利用しようと考え始めていた。

そんなところから始まり、友達同士の気の置けない話まで、美味しい食事は別の意味でも二人の舌を滑らかにさせていった。

「ごちそうさまでした、杉野さん」

「あ、お粗末様」

コンチネンタルの制服姿の直美、そしてロングスカートのメイド服姿という由香子。少しばかり共通点のある服装の二人が同じ動作でキッチンに食べ終わった皿を下げに来るのは、少しばかりユーモラスであると同時に、相当の華やかさも持っていた。

同じ服であっても、着ている本人がそれを気に入っているのと、単に服として袖を通しているのみなのとではそれが醸し出す魅力というものは全く異なるのかもしれない。

「そうそう、由香子がもっとご主人様のために料理の腕を磨きたいって言ってるから、時々、アドバイスしてあげてもらえるかな」

皿とカップを渡しながら、直美がさりげなく杉野に言った。

「あれは、もしそういう機会があればっていうことだから」

遠慮がちに由香子が口を挟もうとするが、杉野は気にせずに笑顔で答えた。

「ええ、それは構いませんよ。西崎さんはすっかり、オーナーのメイドさんになっていますね」

「いえ、そんな……」

そうした指摘をされて、恥ずかしそうに俯く由香子。ひょっとしたら、料理の腕を磨きたい本当の理由を見透かされてしまったのではないかと考えてしまう。

「ですが、一口に料理といってもいろいろありまして、私のような料理人が作るものばかりが『料理』ではないんですよ」

「えっ、そうなんですか?」

オムライスの味がまだ忘れられない由香子は、恥ずかしさから立ち直ると今度はそんな杉野の言葉に興味を向ける。

「そうなの?」

隣にいる直美も、同じ興味を杉野に向ける。

「ああ、杉野くんの言葉の意味は、僕にはよく分かるよ」

「あ、店長。オーナーとの打ち合わせは一段落ですか?」

「そうだね。アイスコーヒーでも一杯もらおうと思って」

急に後ろから声を掛けられて、びっくりして振り向いた直美と由香子だったが、その正面に立っていた杉野は既に広瀬に気付いていたようである。

「わ、店長、脅かさないでくださいよー」

直美は少し大げさに驚いてみせる。そんな仕草にも嫌みがないところが、直美の魅力なのであろうと由香子は思っている。

「あ、では久しぶりにわたしに入れさせてもらってもよろしいですか?」

折角の休憩時間ということもあり、今回は居候に近い立場の由香子がそう提案する。

「ご主……、いえオーナーの分も用意されるんですよね?」

「それは勿論だな」

「でしたら、尚更わたしにさせてください」

「じゃ、頼んでしまおうか、いいかな、小月さん」

「はい、私も楽が出来ますし」

笑いながら直美が賛同する。こうして、由香子は久しぶりにコンチネンタルでコーヒーを用意することになった。実質的に初めて真之に出会ったときも、由香子はコーヒーを出したことを思い出した。

「さすが、手慣れてるね」

隙のない由香子の動作に、素直に直美が感心する。

「普段はたいてい紅茶なんです。コーヒーは久しぶりなので、上手く出来るか心配だったんですけど……」

そう言いながらも、由香子は確かな手応えを感じていた。

一滴ずつドリップされていくコーヒーを見ながら、由香子は三人の方に向き直った。

「それで、杉野さんの言う『料理の違い』っていうのは?」

タイミングを見計らったように、直美が話題を戻す。

「普段、料理というと女の人というイメージがありますよね」

戻ってきたメイド服姿の由香子を確かめて、杉野が話し始める。

「そうですね」

「ですが、うちもそうですけど、レストランのコックというのは男性がとても多い」

「あ、確かに」

言われてみれば、とそんな表情で直美と由香子が頷く。

「それが何故かということを考えたことがありますか?」

「うーん、そうね……」

問いかける杉野に対し、直美が腕を組んで考え込む。由香子も首を傾げながらいろいろとその理由を考えてみるが、なかなか納得行くものへはたどり着かない。一方、男性の広瀬は杉野の言わんとしていることが分かるらしく、したり顔で二人の女性を見ている。

「何となく、男の人のお料理とわたしたち女の料理は違うっていうのは分かるんだけど……」

「わたしも、オーナーのお屋敷の台所を任されていますけど、なかなか完璧なお料理って出来ないです。それに……、あ、もしかすると」

「おや、西崎さんは気付きましたか?」

広瀬が由香子に顔を向ける。少し悔しそうに、直美もそんな由香子の方に目を向ける。

「はっきりとは分からないのですが、例えば、料理が上手な男の人の作るものって、とても手が込んでますよね。材料にもお金をかけたりして」

「確かにそうね」

「それに比べて、わたしは『冷蔵庫には何が残っていたかしら』とか『昨日はお肉だったから、今日は魚がいいかな』とかそんなことを考えて作っています」

「そう、それは答えに近いことだよ」

「そうなんですか?」

挿絵4「言うなれば、男の料理というのはある種の職人芸であるのに対して、女の人の料理というのは生活の一部なんだよ」

「なるほど」

「だから、よそ行きであるレストランのコックには男性が向いていて、普段の家庭料理には女性が向いている。私はそう考えています」

「うんうん」

直美が頷きながら杉野の説を聞いている。

「あ、コーヒーが用意できました。ちょっと待ってください」

話に夢中になりそうだった由香子が、漂ってくる香りによって辛うじて自分の任務を思い出した。

「氷、使わせていただきます」

奥にある冷凍庫から透明な氷をいくつか取り出し、真之と広瀬の使うグラスに入れた。そして、入り立てのコーヒーを静かに注いでいく。

「わたしが部屋までお持ちした方がよろしいでしょうか?」

遠慮がちに、由香子は広瀬にそう尋ねた。

「いや、僕が持っていくからいいよ。西崎さんは家庭料理の重要さというのを引き続き杉野くんから教わるといい」

「そんな……、ありがとうございます」

アイスコーヒーを二つ受け取ると、広瀬は事務室の方へ戻っていった。

後に残された三人が再び料理の話題を始める。コックとウェイトレスとメイドが料理の話題で盛り上がる。なかなかに華のある光景である。

「ですから、西崎さんに料理のアドバイスは出来ると思いますけど、それはそのまま西崎さんの『オーナーのため』になるとは限らないということに気を付けてください」

「はい……」

「勿論、技術的なことなどはどちらの料理でも同じです。ただ、由香子さんがオーナーにお出ししている家庭料理というのは、一種の『経営』でもあるんですよ」

「経営、ですか?」

家事とはあまりなじみの深くなさそうな単語を聞いて、由香子が不思議そうな顔を向ける。隣にいる直美も静かに杉野の高説に聞き入っている。

「先ほど、西崎さんの言われた『昨日はお肉だったから、今日は魚がいいかな』というのがまさにそれなんです。我々コックというのは、特別な場であるレストランでこの食事だけ特別美味しいものをお出しすればいいんです。ですから、お客様の味の好みは考えても、健康状態や栄養バランスまでは考える必要はないんです」

「確かにそうよね」

「ですが、家庭料理ではその食事一度限りの美味しさよりも、日々の食生活全てに気を遣わなくてはなりません。いうなれば、家庭の主婦の方や西崎さんのようなメイドさんは、家の人の健康管理を託されているわけですよ。それに応えられるものを作らなくてはなりません。勿論、食べ物を出すだけでなく、食事自体を楽しいものとすることも必要です」

「あっ……」

真之が自分に「食事を共にするように」と言った真意がようやく由香子にも分かったような気がした。時々、孤高の人に見えることもある真之も、やはりそうした食生活を望んでいたのだ。それが分かって、由香子は少し嬉しくなった。

「店長も『コンチネンタルの料理には自信を持てるが、やはり一番美味しいのは家内の作る飯だな』って言ってるよね。それもそういう意味ですよね?」

「そういうことです。ですから、私が西崎さんにアドバイスできるのは料理の中でも技術的なごく一部分のところだけです」

「でも、由香子ならその点は心配いらなさそうよ」

「そうですね、私もそう感じました」

二人の発言を聞いて、由香子は顔を赤くした。由香子がどういう気持ちで真之の食事を作ろうとしているのか、概ね直美たちにも分かっているのだろう。

「あの……、それでは宜しくお願いします」

そうした杉野の話を聞いて、由香子は家族というものに対するあこがれを新たにするのだった。由香子が経験し、考えてきた家族像の中には、そこまではっきりとした愛情は存在していなかった。子供の頃、家族団らんがなかったとはいわないが、どちらかというと料理は得意ではなかった由香子の母は、半ば義務的に食事を作っていたような気がしている。それが逆説的に由香子に、食事に対するあこがれの気持ちや向上心を与えることになったのかもしれない。一方で、真之も同じく家庭での食事の楽しさというものをほとんど経験することなく生きてきたのであろう。二人の間にはこうした奇妙な共通点があった。

ただ、由香子はそこから真之との距離を近づけようと思い続けているのに対し、真之の方は由香子とは一定の距離を置こうとしていた。由香子はまだ自分の身に関する真相を知っていなかったから、ご主人様を慕い続けることによってその距離を縮めることが可能であると信じていた。

真之が許したように、これ以降、時々由香子はコンチネンタルを訪れることになる。時に臨時でここの仕事を手伝うこともあった由香子だったが、杉野からは技術をいくつか教わり、確実にそれを真之のための料理に反映させていった。由香子自身の気持ちにそうした技の加わった手料理は、真之に大きな満足を与えるようになっていた。

だが、皮肉にも由香子の目を外にも広げさせるというそもそもの真之の意図には反して、由香子の心はますます真之の方を向く結果になっていたのである。


それからしばらくたち、ようやく関東地方も春らしくなってくるようになった。

桜の便りが南から少しずつ上ってくるようになったこの日、真之は珍しく上機嫌であった。

コンチネンタルを始めとする、手持ちの店の決算が出そろい、このご時世にしては幸いなことに順調な利益を上げているということが分かったからである。

不動産の保有というものは、思ったよりも安定的に利益をもたらしてくれるものであると真之は考えていた。不動産投資で失敗する事例をこれまでに何度も見てきていたが、その失敗要因は概ね二つに収束される。値上がり益を見込んでの失敗と、投資対象と立地のミスマッチによる失敗である。前者についてはいうこともないが、後者は例えば、住宅街にビジネスマン向けの店を開いても成功しないといったようなことである。これを念頭に、同業との一定の競争力を保つ人的な力があれば、そうそう経営には失敗することはない。結局のところ地に足の着いたオーソドックスな経営が実を結ぶというものなのであろう。

ともあれ、数軒の店の中では立地の有利さもあり、今年はコンチネンタルが利益のトップであった。最後に数字をまとめたのがこの店であったということもあり、真之は広瀬のねぎらいも兼ねて、都心のホテルにあるレストランで広瀬一家と食事をして帰ってきたのである。

週末ということもあって人の数が多くて普段の落ち着きからは少し離れた雰囲気の中にあったが、彼らとの私的な食事の席は真之もいつも楽しみにしているところなのであった。

広瀬と夫人の相変わらずの仲の良さや、広瀬の家庭自慢にはいつもながら辟易する真之であったが、そうした価値観の違いも彼に関しては不思議に不快に感じることもない。

そんな真之の上機嫌は、帰宅したときにもまだ残っており、由香子はそれにすぐに気が付いたようであった。

「お帰りなさいませ、ご主人様」

仕事上のつきあいなどもあるから、外で酒を飲んで帰ってくることも時々ある真之であったが、今日のように少し酒量が進んで顔を赤らめているのを見るのは由香子にとっては珍しいことであった。この日は夕食を共に出来ずに寂しく思っていた由香子だったが、他ならぬ真之が機嫌良く帰宅したことは嬉しく思った。

「ああ、由香子か。言っていたよりも遅くなってしまってすまぬな」

腕時計を見ながら、真之が言った。壁の大きな掛け時計を見ると、予定よりも三十分ほど遅い時間になっている。

「いいえ、そんなことは気になさらないで下さい。それよりも、よいお食事だったのでしょうか」

「ああ、久しぶりに話が弾んだよ」

「それはよかったです。何かお飲物を用意いたしましょうか」

「そうだな、冷たいものがいい」

「はい、ではご用意させていただきます」

「その間に着替えさせてもらおう。それから、そうだった」

真之が急に思い出して、手に持っている紙袋を由香子に差し出す。

「今日の店で買ってきた土産だ。由香子にも時間があるなら、その後、少しつき合ってもらえるか?」

「はい、わたしは大丈夫ですが、これは……?」

紙袋を受け取りながら、由香子が尋ねる。細長い箱に入った中身は、思っていたよりも重かった。

「今日の店で勧められたワインだ。由香子も少しは飲めるのだろう?」

「はい。すぐに赤くなってしまうそうで、お恥ずかしいのですが」

「まあ、明日はゆっくりしていてもいいだろう。悪いが、支度の方を頼んだぞ」

「かしこまりました」

そう言い残して、真之は二階の自分の部屋に戻っていった。

そんな真之の背中に一礼して、由香子は受け取った紙袋の中身をもう一度眺めてみる。英語ではないアルファベットの並びが見える。

夜の小宴に誘われて、それまで寂しいと思っていた由香子の心が急に明るくなった。

「あっ、でも……」

冷たい飲み物を出すように言われていたことを思い出し、由香子は慌てて台所へ向かった。折角、上機嫌で帰宅した真之に不快を感じさせてはならない。さすがにそこは、メイドであった。

「意外にすっきりした味なのだな」

開襟シャツと幅に余裕のあるズボンという、ゆったりした服装に着替えた真之は、食堂の椅子に腰掛けて由香子から受け取ったグラスの中身を一気に飲み干した。

「おかわりをご用意いたしましょうか?」

「いや、さっきのワインがあるだろうから、もう充分だ。これはいつもの紅茶なのか?」

氷だけが残ったグラスを目の前に掲げて、真之が由香子に聞く。

「はい、普段お出しするよりも濃いめに出しまして、器ごと一気に冷やすんです」

「なるほど。紅茶とコーヒーはホットに限ると思っていたのだが、認識を改める必要があるな」

「そういってもらえると嬉しいです」

由香子がそう言って微笑みかける。

「ご主人様が満足してくださったのでしたら、先ほど頂いたワインを用意してもよろしいでしょうか」

「そうだな、誘っておきながら支度をさせてしまうが、頼む」

「いいえ、お誘いいただいて嬉しいです」

「そうか」

「それと……」

タイミングを見計らって、由香子が少し恥ずかしそうに切り出した。

「うん、他に何かあるのか?」

「今日、ご主人様がお出かけの間に、チーズケーキを作ってみたんです。ご主人様のお口に合うかどうかは分からないのですが、わたしにとってはよく出来たと思えるので、よかったら召し上がってもらえませんでしょうか」

「ほう、由香子のチーズケーキか。そうだな、食べさせてもらおうか」

「はいっ、ありがとうございます!」

ぱっと花開いたような笑顔の由香子。真之から受け取った紅茶のグラスを手に持って台所へ戻った由香子は、ほどなく、トレイにワイングラスと小皿を乗せて再び食堂へやってくる。

「ワインは、まだあまり冷えていないと思いますが……」

向き合う位置にグラスとチーズケーキの乗った小皿を置き、もう一度ボトルを取りに食堂へ往復してくる。

「なかなかの出来具合だな」

チーズケーキを見た真之がそう評する。

「ありがとうございます。でも、見た目よりも味の方が気になります」

「そうだな」

座っている真之の隣にやってきた由香子が、丁寧にワイングラスに黄金色の液体を注ぐ。注がれるときの音が、心なしか由香子には上品に聞こえた。真之の向かいの席に戻った由香子は、今度は自分のグラスに少し控えめに注ぐ。

「あの……、ありがとうございます」

腰を下ろした由香子が、真之を見つめながら改まってそう言った。

「どうした?」

「ご主人様にこうした席がいただけたのがとても嬉しいんです」

「そうか。由香子は大げさだな」

笑いながら真之が言った。いつもよりも上機嫌であることを自覚している真之であったが、急に由香子とこうして杯を並べる気になったのは、普段の由香子への接し方への後ろめたさがあってのことだったのかもしれない。

「いいえ、そんなことはありません。今日はご主人様も何だか楽しそうに見えて、わたしも嬉しく思います。今日のお夕食は店長とご一緒だったんですよね」

「ああ、広瀬と彼の奥さんだ。相変わらずの家庭自慢には参ったけれどな。私の方が一人だったからか、由香子の話が出たときに『まあ、それでしたらそのメイドさんもお連れ下さればよかったですのに』などと言われたが」

「そうだったんですか」

真之と同席しているよそ行き姿の自分を想像して、慌てて由香子はそれを振り払う。確かに真之を慕う気持ちはあったが、そうした想像をするほど自らをわきまえない自分ではないはずだった。

「ま、それはそれとして、まずはワインとケーキを食べるとしよう」

「はい、乾杯させてください」

ワイングラスの足を手に取った真之を見て、由香子もそれに従う。洋館の中の小宴は形式張ったものではなかったが、真之のメイドとして恥ずかしくないマナーで応じたかった。

グラスを重ねる軽快な音が響き、満足そうに口に運ぶ真之を見ながら、由香子もワインを味わうことにする。

おそらく、これまでに由香子の飲んだことのない高級なワインは、甘さと僅かな酸味の調和した不思議な味をしていた。今までに飲んだことのある酒のどれよりも上品で軽やかな味わいであった。

「美味しいです」

すぐに飲み終えてしまうのは勿体なく感じ、二口ばかりを飲んで由香子はグラスを一旦、テーブルに置いた。

「そうだな、さすがあの店のソムリエが勧めてくれただけのことはある」

真之も満足そうだった。

「では、このチーズケーキの味にも期待させてもらうとしよう」

「あ……」

真之が菓子用の小さなフォークを手に取るのを見て、由香子は緊張した。自分なりには美味しくできたという自信はあったのだが、いざ、真之が口にするとなると果たしてきちんとしたものに仕上がっているかどうか心配になる。初めて作った菓子を真之に出すという大胆さに由香子自身も少し驚いていたが、滅多にない上機嫌の真之が背中を押してくれたのだと考えることにしていた。

「あの……、如何でしょうか」

口元に指を添えて、小声で由香子が真之に問いかける。

目を閉じて感覚を味覚に集中させる真之と、味覚ではなく視覚に集中させている由香子。

数秒後、目を開いた真之は満足そうに由香子に答えた。

「ほう……、これは美味しい。そこいらの店のものよりはずっといい味に仕上がっていると思うぞ」

「あ、ありがとうございます。気が付いてみればわたし、ご主人様にとても厚かましいことをしてしまったと思って……」

「そんなことはないぞ、由香子は他にも気が利くし、よくやってくれていると思う。礼を言わせてもらうぞ」

「そんな、勿体ないです」

「ワインも、遠慮なく飲んでいい」

「はい、いただきます」

真之に従って、由香子もグラスに手を伸ばす。美味しいと思ったワインが、更に美味しくなったように感じられた。一方の真之も、元々の開放感も手伝って少しずつ口が滑らかになっていた。

「ご主人様、もう一杯どうぞ」

真之のグラスが空になったのを見て、由香子がボトルに手を伸ばした。

由香子の方も半分くらい杯が進んでおり、さほど強くない由香子の顔は少し赤くなってきていた。

「そうだな」

真之が、注がれたグラスを手に持って、再び何口かのワインを飲み進める。少しずつ食べていたチーズケーキも、そろそろなくなろうとしている。

「由香子も、もう少し飲むか?」

「はい、ではいただきます」

由香子の方も、若干、気持ちが高ぶっているのだろう。普段ならば遠慮がちになっていただろうが、真之自らが由香子のグラスにワインを注いだときも、嬉しそうにそれを見ているのみだった。メイドと主人の小宴というシチュエーションも由香子には感激のあるものだったのだが、何よりも真之その人とこうしてお酒を飲む機会をもらえたということが何よりも喜ばしかった。

「たまには、こういうのも悪くはないな」

「ありがとうございます」

「このケーキも美味しかった。由香子は家庭的なよい嫁さんになれるのではないか」

自分はそうしたものの価値を重く見ていない真之であったが、だからこそそれは由香子への大きな褒め言葉であったのだろう。突然、そう言われた由香子は驚くとともに、心の中を見透かされたようで一気に恥ずかしくもなった。ワイン以外の要因で、顔が急激に赤さを増す。

「そ、そうでしょうか……。でも、わたしなんか……」

「そんなに恥ずかしがることもあるまい」

「すみません。でも、そうしたお言葉をいただけて嬉しいのと同時に、不安でもあるんです」

真之を見つめながら、由香子はそう言った。

「不安?それはまたどうしてだ」

「誰かのお嫁さんになる……、結婚するということは、相手の人と新しい家庭を作るってことですよね。わたしにそんな素敵な家庭が作れるかどうかって考えると、不安になってしまうんです」

「なるほどな」

「ご主人様から、店長のご一家の話を伺っていますと、とてもうらやましくて憧れるんですが、わたしに同じことが出来るのかと思うと……」

「まあ、広瀬の奥方自慢は凄いからな」

笑いながら、真之は広瀬の顔を思い出す。

「奥様の話をされるときの店長は、とても信頼しているのが分かって。わたしも同じように旦那さまになる人に同じようなことが出来るのでしょうか」

一瞬、由香子の頭の中に、目の前と別の真之の姿が浮かぶ。由香子の方も、アルコールの回りで多少、思考が開放的になっているようでもある。

「由香子の心配も分かるが、私のような人間からは何も言ってやれないな。広瀬の奥方に会った時にでも聞いてみるか?」

「はい、是非お願いします。ですが……」

「うん?」

由香子がさすがに少し躊躇しながら言葉を繋ぐ。

「ご主人様は立派な方でいらっしゃるのに、ご家庭をお持ちでないのが不思議です。でも、そのおかげでこうしてわたしがお仕えすることが出来るのですが」

「家庭か……」

「ご主人様のように社会的にも成功されている方でしたら、その……、失礼な言い方ですが、引く手あまただと思うんですが」

心配そうに由香子が真之に聞いてみる。どちらかといえば規則正しい生活をしており、普段はこの洋館で過ごすことも多い真之だったが、それでも、外で人に会う機会は多いだろう。そんな中で、真之と親しくしている女性が一人くらいいても不思議ではないだろう。ただ、由香子の女性としての勘は、そういった人がいることを真之に感じさせない。しかし、同時に自分に対しても由香子が持っているのと同じ感情は向けてくれていないこともうっすらと分かっていた。

「そう見えるか。だが、私は結婚をしたり家庭を持ったりすることは全く考えていないのだ」

「そうなのですか……」

「由香子のような、年頃の女の前で言うのは悪いとは思うのだが、私にとって女性というのはその時々の生活に少しばかりの潤いを与えてくれる存在に過ぎない」

「……」

「私だってこの歳まで生きてきたのだから、今までに親しくなった女性が一人もいなかったとはいわない。しかし、そこからその相手と一生寄り添って生きるということまでは考えられないのだ」

「何故でしょうか。ご主人様は、店長のご家族とも親密にしておられますし、決して家庭といったものがお嫌いではないと思うのですが」

由香子が前々から思っていた疑問であった。まだ、真之の生い立ちや、自分の母の姿を見て感じた「家庭」に対する不信感、そういったものは由香子は知らなかった。そんな真之に、由香子は反論を試みるが、それは真之を論破したいというよりも、慕っている相手のそうした恋愛観や家族観といったものを否定したいという気持ちからのものが大きかったであろう。自分の気持ちが真之に受け入れてもらえるかどうかは別にして、その前提が存在しないということはどうしても認めたくなかったのである。

「まあ、広瀬のように友人が幸せな家庭を築いていることを否定するつもりは勿論ない。しかし、自分がそうしたものを作りたいとはどうしても思えないのだ」

「そんな、勿体ないです」

「物質的にはこうして恵まれているし、由香子のようなメイドを雇う余裕もあるから不便は感じないしな」

「ですが……」

「由香子のあこがれている『真之像』としての期待に添えないのは申し訳ないが、まあ、仕方のないことでもあるのだ」

「そんな……。でも何故、仕方がないのですか?」

「私が苦学して事業に成功を収めたのは知っていると思う。だが、私を育ててくれたのはそうした苦学そのものであるし、そんな環境で育ってきたのは他ならぬ家庭に問題があったからなのだよ」

「えっ?」

意外な真之の言葉に、由香子が驚いた。酔いが回って薄れかけている思考力を必死に取り戻し、大好きなご主人様の言葉を一つも聞き漏らさないように努める。

一方の真之も、普段であれば由香子に自分の生い立ちの話などはしなかったであろう。話題が家族、家庭のことにならなければこうしたことを由香子に言うこともなかっただろう。

仕事の区切りがついた開放感、ワインの心地よい酔い、それらが重なって真之の口から滅多にない身の上話が出てきている。由香子に対して、自分は恋愛には興味がない、もっといえば由香子の思慕を受け止めるつもりもないということを話す機会を欲していたのかもしれなかった。

「まだ話していなかったかもしれないが、私にはもう両親はいないのだ。父親を事故で失ったことは、前に写真を見つけた時に言ったと思うが、母親も既にいない」

「そうだったのですか……。確か、ご主人様にはご兄弟も……」

真之はそれには答えずに、静かに頷く。それが今の真之にとっては由香子への精一杯の誠意だった。

「母はあまり強い人間ではなかった。残された私にとっては家庭というのは決して安らげる場所ではなかった。だから、家族や家庭というものに由香子のような幻想は持っていないし、自分でそれを求めていこうとも思わない」

「そんな……」

「だが、それはあくまで私の心の中だけの話だ。広瀬の例もあるように、自分の周りの人間には、出来ることなら幸せな家庭を築いてもらいたいとは思っている。勿論、由香子についても同じだ」

「でも……」

その真之の言葉は嬉しかったが、由香子にとってはそれを実現するためにはその真之の心は矛盾しかもたらさない。かといって、今の由香子に真之への思慕の気持ちをはっきり伝えることは出来ない。そんな葛藤を由香子は抱え込むことになった。

由香子自身、真之とは違った形で、母親や家庭というものに対して失望を持っていた。だが、似た道を歩いてきても、たどり着いた場所は異なっていた。真之はそのような家族などには頼らずに生きていく道を選び、由香子は望んでいる家庭を自分で作りだして実現したいという気持ちを大切にする道を選んだ。そんな由香子が、真之を好きになってしまったことは、多くの意味で皮肉であった。

真之にとって、由香子をメイドとして雇うことは、自分の「両親」に対する復讐の意味もあったのだが、それがこのような方向に向かうことは予想していなかった。

「幸い、私は暮らしに困らぬだけの経済的な余裕を持つことが出来た。そしてさっきも言ったように、由香子のようなよいメイドを雇うことも出来て、生活上の不自由はほとんどない」

「メイド」という単語を強調する真之。由香子はそれを聞いて感激すると同時に、今は表に現すことの出来ない痛みをも感じていた。

「ありがとうございます、でも……」

「由香子の言いたいことは分かる。だから、今はすまないとしか言えないが……」

「ご主人様……」

無意識のうちに、由香子が瞼に手を伸ばす、気付かぬうちに涙が出てきていたらしい。おそらく、真之は女の涙に心を惑わされる人間ではないだろう。そう知っていても、由香子の目には涙があふれてきていた。

「私のことでそんなに悲しむこともあるまい。少し話しすぎてしまったかもしれないな」

「ありがとうございます。ご主人様のお話を聞けたのはとても嬉しかったんです。ご主人様は、あまり御自分の話をなさらない方ですから」

「そうだな……。いずれにしても、由香子の働きには感謝している。それなのに嫌な話を聞かせて悪かったな」

「そんな、勿体ないです。明日から、これまで以上にご主人様にお仕えさせていただけますでしょうか」

「ああ、頼む」

真之が由香子に笑みを向けてくれる。そして由香子の注いだワインを味わってくれる。どんな気持ちの中にあっても、由香子はそれを嬉しく思った。

自分に気持ちを向けることはないと言われるのは、初めて人を好きになった由香子にとってはこの上なくつらいことであった。それでも、由香子は真之のメイドとして働くことが出来ることを嬉しく思い続けてもいる。

自分の気持ちを否定されても、いやだからこそ更に、由香子は真之を慕う気持ちを大きくした。最初に持っていたあこがれの気持ちも失ってはいなかったが、もはやそのあこがれは由香子が真之に向ける気持ちの一部に過ぎなくなっていた。

この場合、由香子を支えていたのは、由香子が真之に向けている気持ちが単なる思慕だけでなく、尊敬、あこがれ、メイドとしての奉仕の気持ちなどが重なって存在していたためであろう。

今の由香子には、メイドとして真之に真摯に仕えるという形で、真之の近くに居場所を作るということしか出来ないのだろう。それでも、由香子の真之に対する気持ちは変わらなかった。

メイド服姿の自分を見るたびに、由香子はそんな気持ちを増していくのであった。

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