「いってらっしゃいませ」
玄関を出たところで車に乗り込んだ真之を由香子は見送った。
門へ向かって進んでいく車の後ろ姿に、メイド服姿の由香子が深々とお辞儀をする。
由香子の長所の一つに、このような上品なお辞儀が出来ることを挙げることが出来るだろう。それはよそよそしさやわざとらしさを感じさせず、見る人の心を和ませるような自然な動作だった。
自分に仕えるにあたって、仕事の節目節目でそうして頭を下げることが出来る由香子を、真之は不快には感じていなかった。「そんなにかしこまることもない」と笑いながら言ったこともある真之だったが、意識的にやっているというよりは挨拶や会釈のような自然なものだったので、そう大げさには捉えないようになっていた。
視界から完全に車の姿が消えてしまうまで、そのまま玄関の前で由香子は真之を見送っていた。
この日はあいにく空は厚い雲で覆われており、昼近くであるにも拘わらず外は薄暗かった。
準備をしている真之に折り畳みの傘を渡し、「助かる」と言われたことが嬉しくて、真之が出発した後も少しばかりその余韻にひたっていた。
今にも雨が降りそうな空は、当然に暖かな陽光をもたらしてはくれず、まだそれほどの量でなかったこともあってこの日は洗濯も中止の憂き目を見ていた。冬の訪れを感じさせる風も冷たく、由香子の髪やメイド服のスカートや袖を時々強く揺らしており、真之がいなくなってようやく寒さに気付いた由香子は、静かに洋館の中へと戻っていった。
一人だけの昼食を簡単に終え、食器を洗った後に由香子は真之の残していった新聞に目を通した。受動的にテレビのニュースを見るよりも自分の意志で新聞の文字を追っていく方が事件や出来事も由香子の記憶にしっかり残る。
真之との食卓では時事的な話題が出ることも多かったから、主立った記事は洩らさぬように読むようにしていた。それでも経済や政治に関しては由香子はまだまだ疎いところがあり、真之が稀に丁寧にそれらのことを教えてくれるのを聞くのが好きだった。そうしてご主人様の話相手になることが出来る自分を由香子は嬉しく思っていたが、メイドとしてはそれ以上に努力して話し相手としてのレベルを高める必要も感じていた。だが、家事……とりわけ料理の腕の上達に比べると残念ながらその進歩のペースは緩やかであるといわざるを得なかった。
新聞を一通り読み終える頃には、食後特有の体の重さもだいぶなくなっていた。
「今日はお洗濯が出来なかったから、お掃除をしっかりやっておかなきゃ」
真之が出かけるまでに、一階はいつものようにしっかりと掃除を済ませていたが、二階は物音を立てて真之の仕事の妨げにならないようにと午前中は遠慮していたのである。
真之が出かけている今のうちに、掃除を済ませてしまうとよいだろう。そう考えて、由香子は、物置から用具を取り出すと二階へと上がっていった。
廊下から始まり、客間、真之の寝室と綺麗にしていった由香子は、書斎の掃除に取りかかり始めていた。
割と読書家である真之が落ち着いて本を読むために、明かりも若干控えめに取り付けられていた。この部屋では仕事も行われるため、机の上には電気スタンドとノートパソコン、箱に揃えられた多くの書類が置かれていた。真之の主な仕事内容については由香子も聞かされたことがあり、自分のかつての勤務先であったレストランの仕事についてはそれなりにどういったものかを知っている。なるべく、そうした仕事上の書類は見ないようにしている由香子だったが、机の上に置いてある書類のタイトルにコンチネンタルのメニューの名前を見つけた時は、どこか嬉しくもなるのだった。
大きな椅子は、仕事の時だけでなく読書の時にも疲労を軽減させる効果があるのだろう。掃除の時に動かすのに手間取るこの椅子だったが、真之が気に入っているのを知っているので、動かすときも丁寧にすることを心がけていた。勿論、真之がこの家で仕事をしていることが多いといっても、由香子は四六時中真之の隣に控えているわけではない。多くの時間をこの書斎で過ごす真之だったが、由香子にとってはさほどなじみの深い部屋であるとは思えず、寧ろ、食事時などのリラックスした時と比べて緊張感のある時間をもたらす空間であるともいえた。
それでも、仕事の合間に紅茶を持っていく時、そしてそれを受け取った真之が安らいだ表情で飲んでくれるときには、メイドとして働いている自分が誇らしくも思えるのだった。
あこがれの人、そして好きになりかけている人が見せてくれるそんな表情が、自分にも安堵感や達成感をもたらす。そして、ますますこの人に心からお仕えしたいと思うようになるのである。
もともと綺麗に整っている机の上は、書類を見ないように気をつけながら簡単に乾拭きしただけであった。
次に由香子が取りかかったのは、部屋の両脇に並んでいる本棚だった。
重厚な家具としても通用するこの本棚は、読書家の真之といえども全て埋め尽くされているというのではなく、まだかなりの余裕を残していた。そんな空間にはしっかり雑巾を掛け、本が収まっている段ははたきで埃を払っていく。最近は静電気を起こすような新素材のはたきというものがあり、そっと撫でるだけで表面上の埃程度であれば除去してしまうことができる。
ベーシックで古風とも見えるメイド服と、明るめの色でデザインされたそんな現代的なはたきがどこかミスマッチにも見えて面白かった。
本棚には、真之が買い重ねてきたハードカバーの小説などとともに、引っ越し前、更には学生時代から頻繁に使ってきた参考書や辞書の類も納められていた。
どのような分類で真之が本を収めているのか、由香子にはよくわからなかった。比較的新しい本と、昔からの本を分けて納めているということくらいが由香子の理解だった。だが、真之自身は不便もなくこの部屋の本を手に取っていたから、それはそれでよいのかもしれない。
真之がいないのをよいことに、由香子は鼻歌交じりで本棚を掃除していた。
その古い本のある一角までやってきたとき、部屋の隅の床に一枚の紙切れが落ちていることに気が付いた。
「あら、これは……」
あまり明るくない部屋であったので、最初、由香子はそれが本に挟んであったメモの類ではないかと考えた。端の方にある本で、位置が少しばかりずれたままになっていたのを直したことを思い出した。もし、それを直したときに挟んであったメモだったのだとしたら、きちんと戻しておかなければならない。
由香子はしゃがみ込んでその紙切れに手を伸ばした。しゃがむと長いスカートは綺麗な円形を床に描き出す。だが、今は由香子はその美しさに気を取られている場合ではなかった。
手に取ってみると、それは紙切れではないということが分かった。
メモだと思っていた由香子は、裏返してそちらの方に書いてあるであろう文字を読もうとしたのだが、ひっくり返したその紙にあったのは、文字ではなく一つの場面であった。
「写真……でしょうか」
意外であったので、おもわずそう口に出してその写真の風景に目を向ける。
一応、カラーではあったがずいぶんと古いものなのであろう、端の方から既に色があせ始めていた。写真の右側には大きな朱色の機械のようなものが移っており、その運転席から制服と帽子を身につけた真之より一回りくらい若い男性の姿が写っていた。
左側には、やや背の低い女性に抱かれた小さな子供がおり、運転席の男性に大きな輪っかのようなものを手渡している。その輪っかは子供と比べると滑稽なほど大きかった。輪の内側から見える奥に、ちょうど鉄道の信号機のようなものがあり、ここが駅であると予想することが出来た。
その信号機は由香子にはよくわからなかったが、この当時はまだ現役であった腕木式のものであった。
女性の脇に、運転席の男性とほぼ同じ制服を着た男性がもう一人立っていた。
彼も含めて、写真の中にいる三人の大人は皆、嬉しそうな表情をしていた。唯一、子供だけが真面目そうな表情を見せていたが、この子にしてもきっと楽しい気持ちで居るであろうことは容易に想像できた。
およそこの洋館、そして真之に縁のなさそうな写真がこの部屋にあることが、由香子には不思議に思えた。それと同時に、この写真に対する興味というものが浮かんできた。
この写真に写っているのは誰で、場所はどこで、どんな場面で撮られたものなのだろうか。主観の入った目で見ると、写真の主役とも思えるこの子供の顔は、どこか真之の面影のようなものを持っているように見えなくもなかった。同じく、子供を抱いている女性の顔は、角度の問題で半分くらいしか見えていなかったが、それが自分の母親に似ているようにも見えて、ある種の自分の気持ちを投影したようなそんな主観を慌てて由香子は振り払った。
「わたし、とても失礼なことを考えてしまったのでは……」
そう思って、謝るような気持ちでそっと写真を胸のリボンのところに押し当てて隠すような仕草をする。
心を落ち着かせて、もう一度写真に目を向ける。今度はそうした想像からは少し離れることが出来るようになったが、この写真の中の幸せな表情に惹かれるような気持ちは変わらなかった。そして、写真に対する興味も消えることはなかった。
「でも……」
写真を眺めながら、由香子は思った。
「古いお写真ですし、もしかするとここに写ってらっしゃるのは昔のご主人様なのでしょうか?」
機会があれば聞いてみたい。真之の仕事の合間に紅茶を持ってくることもまたあるだろう。もし、その時に話題に出来れば……、そんなことを考えて、机の上の邪魔にならない場所に、由香子はその写真を伏せて置いておくことにした。どこかの本からこぼれ落ちたものだったとしても、由香子には残念ながらその本が特定できないという理由もあった。
由香子はそれから部屋の掃除を進め、ようやく綺麗になったのを確認して書斎を出た。最後に自分の部屋の掃除に取りかかったが、どこかであの写真の笑顔が気になっていた。
その日の晩の食事の席で、由香子は書斎で見つけた写真のことを話題にしようかとも思ったのだが、結局そうすることは出来なかった。この日は郊外の住宅地で発砲事件が起きたということが大きな話題になっており、真之との会話の話題もそれに終始することになった。
この洋館のあるあたりは治安のよい場所ではあったが、発砲事件もそう言われていた場所で起きたものということであったし、真之が不在の時には必ずしも防犯が完璧でないこの家で由香子は一人でいることになるのだからと、それなりの心配を持っているのだという話もしてくれた。
由香子はメイドとして真之の周りの世話をしているのだが、改めて考えてみると、真之はそんな自分にメイドとしての報酬の他に、住む場所や安全も与えてくれている。あこがれの人であり、好意を持ちつつある人がそうして自分のことを気に掛け、心配してくれているということが嬉しかった。
真之の話の中には、防犯意識の徹底や社会環境の悪化などの散文的なものも多く含まれていて、おそらくは由香子が感じたような「嬉しさ」には気が付いていなかったであろう。それでも、由香子は満足していたのだったが、残念ながらこの日は夕食の席で写真の話を持ち出すタイミングが掴めなかった。
日を改めてしまうと、更にその写真のことを持ち出すこともためらわれた。偶然とはいえ、真之のプライベートに立ち入る可能性の高いものに触れてしまったことを口にするのが不安でもあった。また、真之は学生時代以前の昔話をあまりしたがらない傾向にあることも由香子は察するようになっていた。由香子は苦労して今の財を築き上げた真之を、その苦労時代を含めて尊敬していたが、本人はそうした苦労についてはあまり積極的に思い出したくはないのであろう。ご主人様を不快にさせたくはないという気持ちがあったから、由香子はそうした昔話についてはなるべく触れないように気を付けていた。
だが一方で、そうした制約は由香子の中の写真に対する興味を大きくさせる効果もあった。真之のプライバシーに土足で踏み込むような真似はしていけないと思いながらも、敬愛するご主人様のことをもっと知りたいと思う気持ちも存在していた。また、それほどまでに写真の中にあった子供の表情が印象的であったのである。
そんな写真のことを頭の片隅に置きながらも、由香子はメイドとしての仕事を上々にこなしていた。
週末になり、久しぶりに真之が一日中、在宅する日となった。メイドとしての由香子の仕事にはほとんど休日というものは存在していなかったが、遅めの朝食を、心なしかゆったりした気持ちで食べてくれる真之を見ていると、由香子の方も休日気分を少しだけ味わうことが出来る。朝食後に紅茶を飲む時間が持てることも嬉しかった。この時間は、一週間の洋館での家事についての報告をする時間も兼ねられていたが、食費をはじめとするお金の計算などの、由香子にとって苦手の部類に関することを話していても、紅茶の心地よい香りがそれを和らげてくれる。紙に並んだ数字を見ながら、片手にペンを、もう片方の手にティーカップを持っている真之の横顔が由香子は好きであった。仕事をしているときの男の人が一番かっこいい……、直美からそんなことを聞いた記憶もあったが、なかなか仕事に専念している真之に接する機会のない由香子にとっては、この時の真之の表情はそうした「しごとびと」の一端を見せてくれるように思えるのである。
「どうした、由香子?」
自分の顔を見られているのに気が付いた真之が、不思議そうな表情で由香子に顔を向ける。
「あっ、すみません。何でもないです……」
微妙な心の中を見透かされたように感じて、由香子は慌ててそう答えた。
「私が思っているよりも上手くやりくりしてくれているみたいだな」
「あ、ありがとうございます。でもわたし、お金の管理などは苦手で……」
「そうか?ある程度の光熱費がかかってしまうのはやむを得ないだろうが、食費がこの範囲で収まっているのは立派だと思うぞ。私が一人で暮らしていた時とそう変わるものでもないくらいだ」
「ご主人様がお一人で暮らしていらしたときは、ほとんど外で済ませていらっしゃったと聞いています。さすがにそれではお金がかかってしまうと思います」
「確かにそうだな。由香子は一人暮らしをしていたときもきちんと作っていたのだろう。大したものだ」
「そ、そんな……。わたしの仕事はご主人様ほど大変ではありませんでしたし、前にもお話ししたことがあったと思いますが、コンチネンタルで賄いを頂くことも多かったので」
「まあ、そんな自炊の経験がメイドの仕事にも役立っているのなら、それに越したことはないだろう」
「ありがとうございます。でも、もっとお料理の腕を上げて、もっと美味しいものをご主人様に食べていただけるようになりたいです」
「期待させてもらうぞ。ここに最初に来たときよりはかなり上手くなっていると感じる」
「はい、これからも頑張ります」
真之の隣で、由香子が深々と頭を下げる。紅茶は若干冷めてしまっていたが、味を損なうものではなかった。
昼食後、台所と食堂の掃除を終えた由香子は、余った少しの時間を自室で過ごしていた。
真之は読みたい本があるといって、食後すぐに書斎に向かっていった。折角、真之が一日この洋館にいるというにも拘わらず、常に真之の側に控えていることが出来ないのが由香子には少々残念に思えるのだった。
それでも、三時には紅茶を持って来るように書斎に籠もる前に言いつけられており、掃除を終えて三時になるまでの少しの時間を、こうして由香子は自分の部屋で過ごすことにしたのだった。
まだ、明るい日差しが部屋に差し込んでいる。秋から冬へ移り掛けているこの季節、日の射し込む角度は浅くなっている。洗濯を終えてアイロン掛けも済ませたエプロンを丁寧にたたんで、古風なクローゼットに納めておく。同じくクローゼットに収まっている替えのメイド服を見て、由香子は自然な笑みを洩らした。
コンチネンタルの制服はかなり気に入っていたから、メイドになってそれが着られなくなることを残念に思った由香子だったが、今のメイド服もその制服に劣らぬほど気に入っている。朝、パジャマを脱いでメイド服に袖を通すときに得られる、一日の仕事が始まる緊張感は、少なからずこのメイド服がもたらしてくれるものであろう。
真之の言いつけどおり、外に買い物に出るときには一度私服に着替えなければならなかったが、その手間すらも「帰ってきてからもう一度メイド服に袖を通すことが出来る」嬉しさを与えてくれるものに過ぎないと思えるのだった。
単調になりがちなメイド服の着こなしも、髪の飾りをリボンにするかカチューシャにするか、胸元のリボンの色をどれにするかなどと考えることによって、充実したものとなる。そうしたちょっとしたおしゃれに真之が気付いて声を掛けてくれることがないのが多少の不満ではあったが、この服が似合うということは何度か言ってもらえたことがあったので、それで充分でもあった。
真之に気に入ってもらえるように……。
メイドとしての仕事ぶりを、というのは当たり前であったが、それ以上にそうした評価を由香子は求めるようになっていた。そんな心の変化は、由香子自身もまだ気が付いていない微妙なものであったが、メイドの仕事に慣れていくと同時に、より高度な仕事ぶりで仕えたい、ご主人様により満足してもらいたいと思う気持ちが大きくなっていった。
最初はどうしても躊躇してばかりであった食事の席も、今では楽しんで真之と一緒することが出来るようになった。そうした感じ方をしてはいけないと心のどこかで思いつつも、真之との食事と会話を楽しみにしている自分があった。
失敗をした時には叱責を受けることもあったが、決して感情的でない真之の叱り方は、由香子がこれまでに経験したことのないもので重みがあった。そして、それに対して重みだけでないものも感じ始めている。
クローゼットを閉じ、鏡に向かって髪とリボンを整え直す。時計を見ると、そろそろ三時が近づいてきているようだった。
「そうだな……、三時頃になったら、紅茶でも持ってきてもらおうか」
書斎に向かうときに真之の残していった言葉を思い出す。
「そろそろお紅茶の準備をしなくちゃ」
鏡に向けた笑顔に満足した由香子は、スカートの裾を摘んで持ち上げ、ポーズを取ってみる。
「ふふっ」
鏡に映った自分の姿に気恥ずかしさを感じながらも、決して悪い気分ではない。
自分はメイドだと改めて認識しながら、由香子はご主人様のための紅茶を用意するために台所へと向かっていった。
「ご主人様、三時になりましたので、紅茶をお持ちしました」
片手にポットとティーカップ、砂時計を乗せたトレイを持って、由香子は書斎のドアをノックした。トレイのバランスを取るのは実はそれなりに難しいものではあるが、コンチネンタルでウェイトレスをしていた由香子には手慣れたものであった。ウェイトレスをしていたときのことを、一瞬だけ思い出しながら、由香子は中からの返事を待った。
「由香子か、入っていいぞ」
「はい、失礼いたします」
ドアを開き、入り口で軽く一礼する。
本に目を向けていた真之が顔を起こし、正面に立っている由香子に目を向ける。
「ちょうど、一区切りついたところだ。一休みさせてもらおうか」
「はい、今、お注ぎ致しますので、少しだけお待ち下さい」
紅茶の抽出時間を計るための砂時計の砂が、ほとんど下に落ち尽くすところであった。微かな緊張感を由香子が感じる。
「ああ、頼む」
読書中の真面目な表情が、紅茶を前にして緩む。そんな真之の変化を見るのも、由香子は好きだった。だが、その「好き」を悟られないように気をつけながら、茶こしを乗せたティーカップに、丁寧に紅茶を注ぎ始める。不規則に立ち上る湯気と共に、紅茶の心地よい香りが真之と由香子の間の空間を満たしていく。
「む……?」
満足げに注がれる紅茶に目を向けていた真之が、何かに気が付いて表情を変化させる。
「由香子、いつもの紅茶とは少し香りが違うようだが」
気付いてもらえた由香子が、にっこりとそんな真之に微笑みかける。
「はい、ご主人様は読書で少しお疲れだと思いまして、紅茶にハーブを加えさせていただきました」
「ほう……」
「カモミールと申しまして、目の疲れを癒したり、心をリラックスさせる効果があるのだそうです」
「なるほどな、由香子は気が利くな」
簡潔な言い方ではあったが、そのように真之に誉められて、由香子は顔を赤らめた。紅茶を注ぎ終えると、そんな恥ずかしげな表情のまま、カップを真之の正面まで移動させる。
真之は持っていた本に栞を挟み、机の脇に置く。そして、香りごと堪能するようにしながら由香子の入れた紅茶を味わう。
「多少のクセはあるが、味は悪くはないな」
「ありがとうございます」
真之の隣に立っている由香子が、頭を下げながら言う。
その時、本を追うような形で机の上に目を向けていた由香子は、その片隅に例の写真が置いたままになっていることに気が付いた。この部屋を由香子が掃除していたときに見つけ、その時に置いたままの場所である。
(ご主人様は、まだお気づきになっておられないのでしょうか……)
にわかに、そうしたことが気になる。
一方の真之は、由香子の紅茶をゆったりした表情で味わっていた。早くも残りが僅かになり、もう一杯を注ぐよう由香子に求めようとする。顔を上げた真之は、そんな由香子が机の上のある場所に目を向けていることに気が付いた。
「美味しかった。紅茶はまだあるのか?」
「はい、もう一杯分ほどでしたら、残っております」
「では、注いでもらえないか」
「かしこまりました」
袖口に気をつけながら、由香子はやや濃さを増した二杯目の紅茶を注ぎ始める。それを受け取った真之は、ティーカップを口に運びながら、由香子に指摘する。
「私の机の上に、何か気になるものでもあるのか?」
「えっ、あの……。はい」
心の中を見透かされたように感じた由香子が、慌てて正直に答えてしまう。
「うん?」
「実は、先日、この書斎のお掃除をしていた時に見つけたものがあるんです」
「見つけたもの?」
「はい、おそらく、どちらかの本に挟んであったものだと思うのですが、お部屋の隅の床の上に、その写真が落ちていたんです」
机の脇に伏せてある写真を指差しながら、由香子が説明する。
「古いお写真のようでしたし、ちょうど、ご主人様が昔からお持ちの本の収められているあたりだったのですが、どの本に挟んであったのかまでは存じ上げませんでしたので、そちらに置かせていただきました」
そう言いながら、由香子は写真のあった部屋の隅に目を向ける。
「そうか……、どんな写真だったか……」
真之がその写真を手にして、表を向ける。
数日前と同じ可愛らしい子供の表情が、再び由香子にも向けられた。
だが、真之は難しそうな表情で写真を見据えている。半ば、睨みつけているようにすら感じられた。
「……」
「あの……」
無言の真之に、由香子がおそるおそる声を掛ける。
真之は無言のまま、写真から目を離し、由香子の方に顔を向けた。
「このお写真にいらっしゃるお子様は、昔のご主人様なのでしょうか?」
好きな人への興味が、この際は勝っていたのであろう。躊躇しながらも心の中に持ち続けていた疑問を由香子はそうして真之に投げかける。
「……そうだ」
複雑な表情で真之は沈黙の後にそう答えた。子供の頃の真之がいた場所とすれば、由香子が産まれ育った町とも同じ筈である。真之の心中とは裏腹に、由香子の心は自分と真之との共通点の存在を嬉しく思っていた。だが、由香子にはこの写真が撮られた場所の心当たりは残念ながらない。
「駅と、汽車のように見えるのですが……」
「ああ……」
気を逸らそうとするかのように、真之は少しずつ、だが頻繁に紅茶を口に運ぶ。一方で由香子は、普段の由香子らしくなく浮かれた気持ちで写真に関心を向けていた。実際には、一緒に暮らしていても知ることのなかった真之の昔のことに関心が向いていたのである。
真之の心の波に気付かずに、由香子は無邪気な表情でその写真への興味を口にする。
「汽車の運転手さんに何かを手渡しているんですね。この時のご主人様、なんだか嬉しそう……」
そんな由香子の心の中に、邪心は全くなかった。写真への興味がそんな純粋さからのみ出たものであることが真之には分かったので、過去をえぐられたという不快を感じながらも、感情的に由香子を抑止することが真之には出来なかった。
「その機関士は、私の父だ。父は国鉄に勤めていて、あのローカル線で列車を運転していた。今はもう、廃止されてしまったがな」
真之がそう説明する。
「ご主人様のお父様が運転手だったのですか。こんな言い方をしては失礼かもしれませんが、凛々しくてかっこいい方ですね」
制服姿の人間というものは、ある種、凛とした印象を与える。由香子のようにウェイトレスやメイドとしての制服を着ている場合にも動揺であるが、制服の持つ秩序がもたらす美しさというものが男女問わず表に出るのであろう。
「……そうだな」
「お父様のところに遊びにいらした、っていう場面でしょうか。わたしは父に甘えた経験があまりないので、なんだかうらやましいです」
そんな由香子の言葉は、何気なく洩れた本心であっただろう。しかし、真之にとってはそれは意外な言葉であった。
(由香子が、父親に甘えてこなかった?そんなはずはなかろう)
だが、由香子が嘘を言っているとはとても思えなかった。父を早く亡くした真之も両親に甘えた記憶はほとんどない。辛うじて残っているのが、この写真にあるような幼時の思い出である。だが、そうした懐古的な思いも、その後の苦労によってほとんど記憶としては消されてしまっている。
「そうなのか?由香子の両親はまだ健在なのだろう」
思わず、真之は由香子にそう聞き返してしまった。
「はい……。ですが、父には母がべったり甘えきっているのが分かっていましたので、私は父にはなるべく甘えないようにして来たんです」
由香子はそう語りながら、表情を悲しくさせる。
「……」
それを聞いた真之は無言で由香子を見つめたが、その無言の中で、由香子のそうした説明に納得していた。
(確かに、そう言われてみれば納得出来なくもない)
見つめられているのに気が付いた由香子は、それに伴う沈黙の意味を取り違えて、今度は慌てて真之に謝った。
「申し訳ありません、ご主人様。わたしの父の話などをお聞かせして……」
父のいない真之に、自分の父の話をした気遣いのなさを謝っているのである。
「いや、気にせずともよい」
「それに、興味本位でご主人様のことをいろいろとお聞きして……」
ようやく、真之は自分の過去に触れられることをあまり好んでいないということに由香子は気が付いた。
真之が話題から避けようとしていたのは、苦学だった学生時代からさかのぼって、まさに由香子があこがれの先輩と同じ空間を共有した中学時代までのことであった。それもあって、そこから更にさかのぼった幼少期の真之に興味を向けたのであるが、だからといって真之の心情を考慮しきったとは言い切れない。
「それも、普段のお前の働きぶりと、このハーブティの味に免じて許してやろう」
「ありがとうございます。でも、このご主人様とお父様の表情が素敵なのは、お写真を見つけて拝見した時も今も、本当にそうわたしには思えます」
「そうか……」
由香子の興味が、この子供を抱いている母親らしき女性に向かなかったことは、この時の由香子にとっては幸運だったといえるだろう。もし、由香子がこの女性についても説明を求めたとしたら、真之の反応は大きく異なっていたに違いない。
真之が由香子には話しておらず、これからもおそらくは話さないであろう真相がそこにあったからである。
そうした危うい場面を、由香子はそうと知らないうちに乗り切ったといえるのかもしれない。
その後、そんなティーブレイクを終えた真之は読書に戻った。
由香子は、自分の知らなかったご主人様の過去の一端を知ることが出来た喜びを感じる一方で、その過去を「話させてしまった」自分の行いを後悔してもいた。だが、その相反する気持ちは、「だから、ご主人様に報いることの出来る仕事をしよう」という一つの行動へと転化した。
この日の夕食は、由香子が自分でも自信作と感じることの出来る出来映えになり、その味は寡黙な真之をも喜ばせた。そして、そうして誉められたことによって、自分の中で「この人のために」と思う気持ちがますます大きくなっていった。それは、今までに由香子が経験したことのなかった淡い恋心ということも出来るだろう。由香子の中の「好き」の意味が、徐々に変わり始めていたのである。
「ご主人様、紅茶とデザートの用意が出来ました」
夕食の後、居間でくつろいでいる真之のもとへ、由香子がやってきた。
「ほう、なかなかいい香りがするな。いつものものとは違うようだが……」
立ち上る香りが普段のものとは違っていることに気が付いた真之が、由香子の方に顔を向けながら指摘する。
由香子は嬉しそうに説明を始めた。
「はい、新しい葉を試しに買ってみました。フルーツのフレーバーで、マスカットの香りが添えられているんです」
「そうか」
「いかがでしょうか。今日のような、少しゆったりした気分の時に合うと思ったのですが……」
「そうだな、飲んでみるか。それにしても、この前はハーブティだったが、そんなに何種類も紅茶を買っているのか?」
真之がそんな疑問を口にする。
無駄遣いと指摘されたのではないかと考えた由香子は、慌てて首を横に振って否定した。
「いいえ、そんなことはありません。いつもの紅茶と、ハーブティ、それに今日のマスカットだけです」
「そうか。まあ、由香子の入れてくれる紅茶にはいつも満足している」
「ありがとうございます」
由香子が真之の隣でお辞儀をする。既に差し出された紅茶と並べて、デザートに用意したプリンの小皿を置く。
「これも、由香子が作ったのか?」
「はい。卵とミルクに少し余裕がありましたので、今日の昼間に挑戦してみました。お味の方はいかがでしょうか……」
若干、心配そうな顔をして、スプーンを手にした真之を気に掛ける。
「そんなにじろじろと眺めるものじゃない」
由香子の視線を感じた真之が注意すると、慌てて姿勢を正す。
「……」
静かに口を動かした真之は、そのまま紅茶の方へ手を伸ばし、ゆっくりと一口飲み込んだ。
「よく出来ているじゃないか。美味しい」
「ありがとうございます!」
どのような場面であっても、自分の作ったものを美味しいと言われるのは嬉しいものである。
「由香子も立っていないで、座りなさい」
「はい。ですが、あの、今日は……お隣に座らせていただいてもよろしいでしょうか?」
「うん?まあ、構わないが……」
「では、失礼いたします」
普段は真之の正面に座って、話し相手になる由香子だったが、この日は真之の隣に座ることを選んだ。
自分の手作りの菓子を食べてもらっている間、隣に座った由香子は心の中でそれを見つめていた。プリンがなくなるまでの間は、静かな空気の中でそうした気持ちを味わうことが出来る。由香子にはそれが嬉しかった。メイド服の長いスカートの膝の上に両手を揃えて置いたまま、時々、真之の横顔に視線を向ける。
皿がきれいになった後、残った紅茶を味わいながら真之は由香子に話しかける。この日の話題は必然、このプリンの話になる。ご主人様に食べていただきたい……、そのご主人様に対するいろいろな気持ちを籠めながら作った時の気持ちを思い出しながら、しかし、そうした気持ちは表には出さないように。それでも、由香子はプリンの作り方などを聞いてくる真之に、喜々として答えを返すのであった。
あの写真についてのやりとりがあって以来、「好きな人のために作ることが出来る」という大きな調味料を手に入れた由香子の料理の腕前は急速に上がっていった。食事の席で真之と話す時間もすっかり慣れたものとなる。
一方で、真之は敏感にそうした由香子の心の変化に気付き始めていた。
由香子を自分の側で働かせることを決めたのは真之自身であったし、そこに複雑な感情が入っていようとも、由香子の方は真剣に自分に仕えてくれている。それは、はっきりと真之も認めていた。
真之と由香子は一回り以上、歳も離れていたし、由香子に対してはどちらかというと厳しく接していた。どのような形であっても由香子に「気を向ける」ということはなかった筈である。そもそも、真之には結婚して家庭を持つという考え以前に、特定の女性に恋愛感情を向けるという欲求が存在していなかった。勿論、仕事上のことを含めた人付き合いにおいて女性と接することを全て拒んでいるというのではない。
真之の中にある、ある種屈折した感情というのは、その生い立ちに起因しているものであったから、今後どのように生きていくのだとしてもそれが変わることはないだろうと自覚していた。
由香子が見つけた写真に写っていたのは、幼時の自分と、両親であった。裕福であるとは決していえない家ではあったが、国鉄の機関士として自分の住む町へ人や物を運ぶという仕事をしている父親を、子供心に誇りに思っていたし、そんな父親を自分と共に強く愛していた母親のことも大好きであった。おそらく、そのまま成長すれば真之も情にあふれた優しい人間に育ったであろう。
だが、ある出来事がそんな幸福の中にあった家族を崩壊させた。
真之が小学生になり、少しずつ自我というものを意識し始めたころの出来事だった。
大きな台風がこの地方を襲い、真之の父が運転している列車が土砂崩れに巻き込まれた。突然、斜面を雪崩れ落ちてきた大量の土砂の前に、旧型の客車はひとたまりもなかった。荒天の中であるとはいえ、その客車の中には数名の乗客が乗っていた。無線で緊急事態を知らせる一方で、閉じこめられた客を救い出すため、真之の父は危険を顧みず、土砂まみれの客車の中へ突入していった。何往復かして、最後の乗客を救い出した瞬間、土砂のもう一波が客車を襲い、飲み込んだ。
助け出されたばかりの親子連れが呆然と見つめる中で、真之の父の姿は土砂とねじ曲がった客車の中に消えていった。
悲しい出来事ではあったが、命を省みず乗客を助けた真之の父の行動は多くの人に称えられた。だからといって父が生きて戻ってくるということでは決してなかったが、幼い真之に誇りという支えを与えてくれたのは事実だった。
だが、真之の母にとっては少し違っていたようである。
残された母は、真之をそれなりに育ててくれてはいたが、自分が頼るべき人を失い、経済的精神的ともに支えを失ってしまったのである。
母が父を強く愛していたのは事実であっただろう。だが、一方でそんな母は父という男性に頼りながらでなければ生きていけない人間でもあった。真之がもっと成長していれば、特に精神的な面で父の代わりに母の支えになり得たかもしれない。だが、まだ小学生である真之にはそんな役を担うことは出来なかった。
それから数年がたち、母はようやく「頼ることの出来る人間」を見つけたようだった。やはり同じ町に住むある男性と、母は再婚することになったのだ。
思春期に入った真之は、複雑な気持ちにならざるを得なかった。「母は父を慕っていたのではなかったのか」という気持ちと、「父の面影だけを見ながら人生の残り全てを過ごすのは決して母に幸せをもたらすものではない」という理解が葛藤をもたらしていた。
その男性は、決して人格に問題はなかったのであるが、父を誇りに思い続けている真之にとってはそう単純に受け入れられるものでもなかったし、運の悪いことに、理性や感情を越えたところにある「相性」というものが完全に不一致を見せていた。端的に言えば、どうしても真之にはこの男を「父」と考えることが出来なかったのである。
だが、母はこの男を好きになっていたようで、真之にとっては悪いことに、母にとってこの男が「依存できる相手」になってしまったようである。
おそらくは彼も真之と家族としてうまくやっていくことを望んだのであろうが、残念ながらそれは叶わなかったようである。ちょっとした対立の中で、再び依存できる相手を失うことを極度に恐れていた母は、この男にべったりと追従することになり、それが真之に大きな失望を与えた。
そんな家庭にいることを真之は強く厭うようになり、彼らの支えなどなくても生きていけるようにと、中学を卒業したと同時に家を出たのである。真之の苦学はここから始まっている。高校、大学と学びながら、住居費生活費を含めた全てをアルバイトで賄う生活をしていたのであるからその苦労は並大抵のものではなかった。だが、自ら望んでそうするほど、新しい家庭には嫌悪感を抱くようになっていたのである。真之にとっての家庭観というものは、この時点で確定的なものになったといってもよい。
幸い、そんな苦学の中の努力は報われて、今のように一財産築くことが出来たのであるが、高校入学以来、あの家には一度も寄りつくことはなかった。それでも、高校時代には時々母親から安否を気遣う手紙が送られて来たこともあったが、大学に進んでからはそれに返事を返すこともなくなっていた。東京の大学に入ることによって転居していたから、おそらく母は真之の住んでいる場所すら知らない状態になっていただろう。今では、偶然に道ばたで出会っても見知らぬ他人へのものと同じ反応しか返さないだろうと真之自身も考えていた。
そんな真之であったから、当然、自分が家族を持とうなどということは考えようもなかった。世の大富豪と比べれば慎ましいものではあったが、それなりに一旗上げた真之に魅力を感じ、若しくは打算的に真之に言い寄ってくる女性もいなくはなかった。だが、母を見て本質的に不信感を持っている真之には、一時の彩り以上に彼女たちと交際を深めるつもりもなかった。広瀬という友人が幸せな家庭を持ち、それに関しては素直に祝福できる気持ちを持つことが出来たというのは、真之にとっては奇跡にも近いことなのであった。
由香子にしても、その働きぶりと献身は大きく認めるところではあったが、それでもメイドとしての評価の域を出るものではなかった。広瀬とのつきあいや経済的な余裕を通じて、真之の心の中にも人間としての丸さが出来るようになり、厳しさ一辺倒の人間ではなくなっていたが、かといってメイドの由香子に対してどんな種類の「愛情」も感じることはなかった。由香子が由香子でなかったとしてもそれは同様であっただろう。
だが、皮肉なことに由香子はそうした影のある真之に魅力を感じるようになっていたらしい。あの時、写真を通じて今まで知らなかった真之の過去に触れられたということによって、由香子の中で微妙な感情が育ち始めていた。
由香子は真之を「あこがれの人」として見ていた。そして、そのあこがれの人に仕える中で、あこがれ以上の気持ちを持つに至ったのであろう。メイドとしてとはいえ、同じ屋根の下で暮らしていく中では、そんなあこがれの人に対して幻滅を抱きかねない場面もあり得たであろう。だが、真之にとっては不運なことに、そうはならなかった。昏い感情も含めた真之にとって、それは予想外の展開であったに違いない。真之がメイドとして由香子を雇ったのは、決して由香子を喜ばすためではなかったからである。
繰り返しになるが、真之は由香子のメイドとしての働きには満足していた。だが、その満足があるからこそ、由香子が自分に振り向けるようになった気持ちに困惑することにもなった。そして、その由香子の思慕が今も徐々に大きくなりつつあることにも戸惑っていた。
由香子の自分へ対する気持ちが大きくなるに連れ、メイドとしての働きぶりも上昇していく。それを評価する一方で、少しずつ思慕という感情を隠さずに表に出すようになってきた由香子をもてあますようにもなっていた。
もし、真之が極めて冷たい人間であったとしたら、由香子を洋館から追い出すという選択を取ることも考えたのであろうが、自らそうと決めて由香子を雇ったことを除いたとしても、真之にはそうする考えを持つことは出来なかった。それに、由香子を洋館から追い出すことは真之にとって、自分の中の負の感情への敗北を意味することになる。
そんな真之の葛藤までには思い至らない由香子は、真摯に真之へ仕え続けるのであった。