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第2章 新しい日常の始まり

この日は好天に恵まれ、洋館も日差しを浴びて美しく輝いていた。

真之が最初にこの洋館を視察しておよそ一ヶ月半、引っ越しの作業も心地よい晴れ間の中で順調に進み、ようやく一段落がついた。同じ日に、由香子もこの洋館へ身を預けることになり、真之のものとほぼ同時に到着した荷物を運び込んだ。二人とも単身で、もともとさほど広い家に住んでいたのではないということもあり、二人分を合わせても一般的な家庭の半分くらいの作業で済んでしまったようである。

運動着姿の真之が、私服にエプロンという簡単な格好の由香子の労をねぎらう。

「ご苦労さん。疲れていないか?」

「はい、わたしは大丈夫です。重いものはほとんどオーナーと業者さんが運んでくださいましたから」

「まあ、意外に簡単に済んだな。広瀬が手伝ってくれるとも言っていたんだが、来てもらわなくて正解だったようだ」

「店長が、ですか」

「ああ。代わりに家族サービスをちゃんとしてやれ、と言っておいたのだが、『それは充分にしていますよ』と返されたよ。だが、結局、今日は家族水入らずで過ごしているんだろうな」

「店長は家族思いの方なんですね」

「ああ、自他共に認める、な。家庭生活の素晴らしさというのをこれでもかと主張してくる。優秀な部下あり、親友であるといっても構わないが、それだけが玉に瑕だ」

「ふふっ、でもそれはオーナーにも素敵な家庭を持って欲しいという店長の望みではないのでしょうか」

「まあ、おそらくはそうなのだろうな」

「オーナーは既にそんな素敵な家庭をお持ちかと思っていました」

「……」

最後の由香子の言葉には、真之は返事を返さなかった。

「ま、それでも少しは疲れただろうから、中に入って一休みしようではないか。細かい荷物の整理はそれからだ」

「はい、かしこまりました」

真之の後に続き、由香子が洋館の中へ入る。実物を見るのは初めてであった由香子は、正面の扉から内装の細かい装飾まで感激の目を向けている。

「そんなに興味津々と眺めなくても、お前もここに住むのだから、明日からいくらでも見られるのだぞ」

「そうですね」

由香子がにっこりと微笑む。そんな由香子にはそれ以上の注意は払わず、真之は台所の隣にある食堂までやってきた。

東南の角に位置する食堂は、比較的ゆったりとした作りになっている。元の持ち主は多くの人間と住んでいたのではないらしく、部屋の広さに比べてさほど大きくはない木のテーブルがそんな印象を与えている。

向かい合わせで腰掛けると、双方の横目に広がるような形で庭が見える。庭はまだ整備がされていないので若干、雑然とした感じを残しているのは否めなかったが、その整備は由香子に任せてみようと真之は考えていた。

「落ち着いて食事をするにはなかなかよさそうだと思わないか」

「はい。先ほど、台所も少しだけ見せていただきましたが、お仕えし甲斐があると思いました」

「食事に関しては、私は正直、ずっと恵まれてこなかった。期待しているから宜しく頼む」

「お口に合うものがすぐに作れるようになりますよう、努力します。お食事の際には、いつもお隣に控えさせて頂こうと思いますので」

「いや、それには及ばぬ。それよりも、私と一緒に食事をして、話し相手になってもらいたい」

昔、まだ暮らしが豊かではなかった学生時代から、家での食事はほとんど一人でのものであった真之は、食事中の沈黙というものをずっと苦手としていた。事業を興してからは取引先や客人、友人との食事の機会もあったが、自分の家では一人で黙々と食べるのが日常であり、それに対する侘しさは、物質的には豊かになった今になっても昔から同じであった。

それ故に、真之は自分の食事において、由香子にウェイトレスのように給仕してもらうことよりも、肩肘の張らない話し相手として同席することを求めたのだった。

「あの……、メイドの私がお食事を共にさせていただいてもよろしいのでしょうか……」

心配そうに由香子が聞き返す。

「勿論、きちんとした食事を作ってからということになるが、私がそれを求めているのだから、気後れする必要はない」

「はい。でも……、感激です」

伏せ気味だった顔を、真之の方に向ける。髪が少しだけたなびいた。

「大げさだな。まさか、毎日感激しながら食事するわけでもあるまい」

真之は笑いながら言った。

引っ越しの作業をしながら、少しずつ真之と言葉を交わすようになって、ようやく由香子の緊張も溶けてきたようだった。複雑な気持ちを以て由香子を雇うことにした真之だったが、本人の人当たりに関しては好ましいものを感じていた。

「少し休んだら、お前の部屋を決めることにしよう。荷物が着く前に決めておくべきだったが、幸い、そう多くはなかったから大丈夫だろう」

「ありがとうございます」

洋館は二階に四つの部屋を持っていたが、そのうちの一つを由香子の部屋として割り当てる予定だった。だが、具体的にどの部屋にするかはまだ決めていなかったため、階段を上った廊下の片隅に由香子の荷物は重ねられたままになっている。

とはいえ、布団の上下という大物を除けば、あとは段ボールで数箱程度という身軽さであった。

「そろそろ行くか?」

「はい、どんなお部屋があるのか、楽しみです」

由香子は、真之の後について階段を上っていった。

結局、由香子が選んだのは東側に位置する部屋だった。昼下がりのこの時刻になると、さすがに入る日の量は少なくなっていたが、それでも、庭に面した窓からは充分な明るさを取り込むことが出来ている。由香子の説明によれば「メイドとして朝も早起きしなければなりませんので、朝日を浴びることの出来る東側の部屋がいいです」とのことだった。

四つの部屋のうち、一番広いものに来客用を兼ねさせることにした。また、北向きの部屋には大きな書棚が据え付けられており、居室というよりは書斎として使われるのがふさわしい内装になっていた。

真之にも異存はなく、こうして由香子の部屋は決まった。

「早速、こいつを運び込むことにしよう」

布団と重めの段ボール箱を真之が、残りの軽めの段ボールを由香子が運び込み、あっさりと作業は終了した。ちょうど由香子の対面に位置する、ほぼ同じ広さの部屋を真之の寝室とすることにした。

「今から、この部屋はお前が自由に使ってもらって構わない。私も、特別な用事がない限りはプライベートには立ち入るつもりはないから安心してもらっていい」

「こんな素敵な部屋を、ありがとうございます」

今まで由香子が使っていたよりも一回り大きいベッドが一番目立つが、軽く張り出した東側の窓枠や、それなりに年代物であろう木の箪笥も由香子には魅力的に見えた。

「必要なものがあれば、近いうちに買いそろえようと思うから、遠慮なく言ってくれ」

「わかりました」

「メイドとして働いてもらうのは明日からだから、今日はゆっくり部屋を整えてもらって構わない。夕食は……、そうだな、夕方になったらどこか近くで適当に探すというのでよいか?」

「はい」

エプロン姿の由香子がそれを見てあることを思いだした。

「あの、済みません、オーナー」

「何だ?」

「明日からのお洋服は用意されているのでしょうか」

これから袖を通すことになるメイド服があると由香子は聞かされていて、それを密かに心待ちにしているのだった。

「それならば、もう持ってきているぞ、その箱に入っているのがそうだ」

よく見ると、由香子が前の部屋から持ってきたものとは別の段ボールが一つあった。

「あっ、こちらですか」

「ああ、コンチネンタルの制服のサイズを参考にして作らせておいた。明日までに一度袖を通して具合を見ておくといいだろう」

「はい、そうさせていただきます」

「私も、自分の部屋を少し見ておきたいと思う。何かあったら声を掛けてくれ」

そう言い残して、真之は部屋を出た。メイドとしての力量はまだ未知数ではあったが、人となりに関してはあの二人の娘にしては好感が持てるものであることを真之は認めざるを得なかった。

「……まあ、よい」

閉じている由香子の部屋の扉を振り返りながら、真之はそう呟いた。

コンコン……。

それからしばらくして、真之の部屋の扉を叩く音がした。

「入って構わないぞ」

「失礼いたします」

軽い音を立てて扉が開き、由香子が姿を現した。

少しばかり顔を赤らめ、少しばかり俯き加減の由香子は明らかに恥ずかしそうにして部屋の入り口に立っていた。

「あの……、早速、着てみたのですが、いかがでしょうか?」

「ほう……」

由香子は、自分のために仕立てられたメイド服に身を包んでいた。コンチネンタルの制服とは違い、くるぶし近くまで隠れる長めのスカートが一体になった濃紺色のワンピースに、機能性を失わない程度にレースの飾りを付けたエプロンを重ねている。髪はリボンで留めてあったが、カチューシャを使うことも勿論出来るであろう。

背中の結び目は装飾を兼ねてか、あえて大きめになっている。頭には、元々の役割から転じてほとんど飾りになったカチューシャが慎ましく留められている。

「とても恥ずかしいのですが、きちんと着られているでしょうか」

「ああ、問題ない。よく似合っているではないか」

女性に誉め言葉を発することはほとんどない真之だったが、この時は素直な賞賛の気持ちを言葉にした。

「それから、一つお尋ねしたいことがあるのですが……」

「オーナーのことを、これからどうお呼びすればよろしいのでしょうか。このお屋敷の中では『オーナー』ではありませんよね」

「確かにそうだな」

笑いながら真之は腕を組んで考える。それは想定していない質問だった。

「まあ、それは任せる。好きなように呼んでもらえればよい」

「それでしたら、『ご主人様』と呼ばせていただいてよろしいでしょうか」

顎に人差し指を当ててわずかに斜めを向き、少しばかり考え込んでいた由香子がそう提案した。

「ご主人様……か。少々くすぐったいが、まあよいだろう。ところで、私はお前を何と呼べばいいのかな」

「名前でお呼び下さいませんでしょうか。『由香子』と言っていただければうれしいです」

「そうか、では、明日から宜しく頼むぞ、由香子」

「はい、一所懸命お仕えいたします、ご主人様」

「ま、それは明日からだ。もう少ししたら出かけるから、由香子も着替え直しておいてくれ」

「わかりました。ご主人様との外出、楽しみにしています」

「そうか……」

由香子のそんな無邪気さが、真之を若干、複雑な気持ちにさせた。それを無理矢理振り払い、真之は残りの小物の整理に取りかかった。


翌日から、由香子のメイドとしての仕事が始まった。

その内容には、ウェイトレスとして働いてきた経験が役に立つものもあったし、そうではないものもあった。まずは、ご主人様である真之の生活パターンを把握するところから始めなくてはならない。また、住み慣れぬ洋館の中に、どのような設備がどの場所にあるのかを知ることも大切であった。

台所は予め見る機会があり、広さも今まで自分が住んでいた部屋と比べれば充分過ぎるものがあったために心配はいらなかったが、浴室、洗濯場、物置などの位置関係を把握するのに多少の時間を必要とした。

いくつかの戸惑いもあったが、あこがれの人に仕えることが出来るということ、そしてその人の与えてくれたメイド服がすっかり気に入ったことが、由香子を大きく励ましていた。

本人が思っているよりも環境への順応力は高いようで、わずか数日の間に、概ね洋館の中のことを把握出来るようになっていた。

一方、同じ時から洋館に住み始めた真之は、自身もこの家に住み慣れていなかったために、最初のうちの由香子の戸惑いからくる多少のミスをとがめることはしなかった。真之もようやくこの家に慣れるようになったが、家事全般を司る由香子とは違い、その慣れは全ての部屋には行き渡っていなかった。料理や掃除は由香子に任せきりであったから、台所や物置は位置くらいしか分かっていない。また、由香子に与えた個室にも、当然、足を踏み入れることはなかった。

そんな真之が在宅の時に主にいるのは、二階にある書斎だった。

本を日焼けから守るために北向きの部屋をあてがわれた書斎には左右両面に立派な本棚が据え付けられていた。少なめだった真之の引っ越し荷物のうち、相当の部分を占めていた書籍は、ほぼ全てをこの部屋へ運び込んだが、それでも書棚にはまだ半分以上の余裕があった。

「そのうち、百科事典でも揃えてみるか」

がらんとしている書棚に目を向けながら、真之はそんな冗談とも本気とも思える言葉を発したのだった。

現在、この部屋の真ん中には大きめの机が置かれている。机の上にはいくつかの書類とノートパソコンが置かれており、ある程度の執務であればここで全て出来るようになっていた。

コンチネンタルを含め、何軒か持っているレストランや喫茶店の経営は責任者に任せているので、真之が管理しなくてはならないのは書類上の諸事だけである。賃貸に出している不動産もほぼ同様で、一応、「社長」という身分ではありながら、実質は個人事業主に近い形で経営を行っていた。よって、出勤すべき「本社」というものも存在していない。

最初の数日は、この書斎を整備することに専念していたため、真之は寝室とこの書斎をほぼ往復するだけの生活を送っていた。勿論、食事や入浴などのために一階に降りることもあったが、それは日に数度に過ぎなかったため、由香子に「せっかく、こんなに素敵なお屋敷にお住いになっているのに、勿体ないです」とたしなめられたものだった。

「まあ、それも最初のうちだけだ、すぐに落ち着くだろう」

その時の真之は、由香子のいれた紅茶を口に運びながら、苦笑してそう答えたのだった。

真之にとって、ようやく家の中が落ち着いたある日、取りかかっていた仕事もようやく一段落が着こうとしていた。古風な作りの洋館の書斎に、ノートパソコンのキーを打つ音と、プリンタが書類を印刷していく音がどこか不釣り合いだった。

背もたれの高い重厚な椅子に身を任せ、腕を組んで最後の書類が打ち出されるのを待っていると、正面の扉をノックする音が聞こえてきた。

「うん、由香子か?」

「はい、よろしいですか?」

「ああ」

扉越しの少し押し殺したような声に対して、簡潔に真之が答える。

「失礼します、ご主人様」

扉が開き、メイド服姿の由香子が姿を現す。ちょうど真之の正面に立つ形になった由香子が、動いているプリンタに目を向けた後、遠慮がちに用件を伝える。

「あの……、お仕事中に申し訳ないのですが、そろそろお夕食の支度が整いましたのでお呼びに上がったのですが……」

「もうそんな時間か。ちょうどよい、仕事は今、落ち着いたところだ。この書類が出来れば今日はもう終わりでいいだろう」

「はい、よかったです。折角のお料理ですから、冷めてしまわないうちにご主人様に召し上がっていただきたいですから」

「そうか、ちょうどお腹も減ってきたところだ、楽しみにしていよう」

「はい、それでは、先に戻って、待っております」

「わかった、すぐに私も降りる」

「はいっ」

嬉しそうにお辞儀をして由香子が部屋を出ていく。コンチネンタルにいた時には、あれが店の接客だと思っていたのだが、そうではなく、由香子本人に備わった仕草なのだということが分かってきた。時には過剰に思えるほど深々と頭を下げる由香子だったが、不思議とそんな動作は自然で嫌味のないものであった。

今の段階で由香子の長所を挙げろと言われれば、立ち居振る舞いではこのお辞儀、技術面では紅茶の入れ方ということになるだろう。紅茶はコンチネンタルでの経験があるので一朝一夕のものではないにしても、一般的な喫茶店で出されるものよりも美味しいものを出せる力を持っている。

そこを誉めると、由香子はますますやる気を出すようになったらしく、「もっといろいろ研究して、ご主人様にもっと満足してもらえるようになります」と言っていた。

「さて、出来上がったようだな」

立ち上がってプリンタからはき出された書類を確認する。ざっと目を通して、特に不具合がないことを確認すると、ノートパソコンの電源を落として終了させる。

「確かに、食事は冷めてしまったら味も落ちるだろう」

部屋の灯りを消して、真之は一階の食堂へ降りていった。

「待たせたな」

「いいえ、ちょうど、用意が調ったところです。ご主人様、お掛けになって下さい」

さりげなく椅子を引いて、真之の着席を促す。由香子の言うとおり、盛りつけられたばかりの食事が心地よい湯気を立ち上らせている。

「由香子も座りなさい」

食事を取るときは席を共にするようにと言われていた由香子だったが、まだ遠慮がちな気持ちであることは否めなかった。それでも、理由は説明されていたし、同じことを何度も真之に言わせるのは大変な無礼であることも分かっていたので、おそれ多いと思いながら、真之の正面に腰を下ろす。

「まだ、納得してもらえないか?」

由香子の躊躇を敏感に感じ取った真之が、肘を立てて顔の前で指を重ねる。

「いいえ、そうではないんです。ただ……、やはりわたしなどがご主人様とお食事を共にするなんて……」

「そんなに難しく考えることもあるまい。食事は一人でするよりも二人の方が好ましい、それで充分ではないか」

「はい……」

「食事だけでなく掃除や洗濯なども含めても、由香子はもうずいぶんとこの屋敷での暮らしに慣れてきたようだが、これだけはまだみたいだな。由香子にとっての最後の砦か……」

真之が一人での食事を厭う理由は、決して明るいものではなかった。事業を成功させる前の真之は一時代前のものといってもよいような典型的な苦学生であった。食事も当然、満足行かないインスタントの類を一人で部屋で寂しく取るというようなものであった。由香子は「おひとりではありません、わたしがお側に控えておりますから」と言ったが、外食の時はともかく自宅での食事まで誰かに見られながら取るというのでは落ち着かない。

そんな真之を満足させるためには、由香子が食事を共にするというのが最良の考えであるのは由香子から見ても事実だった。

「と、砦ですか?」

「ああ、それとも、仕事上の主人であるだけの私と毎日顔を合わせて食事をするのは好かないか」

「と、とんでもありません!むしろ、その逆です」

由香子の持っている「あこがれ」というものは真之も聞いていた。真之が由香子に持つ感情とは全く逆のその無邪気なそれに、皮肉な巡り合わせを感じずにはいられなかったが、そんな由香子をメイドとして雇うことに決めたのも真之自身の決断である。

粗相があれば遠慮なく指摘するつもりの真之だったが、幸か不幸か、まだ由香子にはそうした不手際はほとんどなかった。

「だったら、お前も私との食事を素直な気持ちで楽しめばよい。メイドならではの特権とも言えるのだぞ」

「はい……」

「広瀬ですら、そうそう私と食事をする機会はないのだからな」

「そうですね、申し訳ございません」

「謝る必要はない。さあ、食べるぞ。由香子の言うように、冷めてしまったら美味しくなくなるだろう」

「はい、ありがとうございます」

ようやく、由香子が箸に手を伸ばす。そんなときでも、真之に深くお辞儀するのを忘れなかった。

「ああ、それでいい。ところで、今日のこれはなかなか美味しそうだな」

メインディッシュのロールキャベツに目を向けて、真之が言った。

「どうぞ、お召し上がりください」

「そうだな……」

「ご期待通りの味に仕上がっていますでしょうか?」

箸を持ったまま、由香子が心配そうに真之に目を向ける。

「うむ。ロールキャベツといえばコンソメの味付けかと思っていたが、トマト煮込みというのか、これもなかなかのものだ」

「ありがとうございます」

「ただ、一つだけ難点を言わせてもらうと……」

「な、何でしょうか?」

由香子の笑顔が急激に曇り出す。

「トマトのへたはだな、慎重に取った方がよい」

器用に緑色の切片を箸で取り出すと、左手の指で挟んで由香子に掲げて見せる。

「あっ……、申し訳ございません、ご主人様」

「まあ、これくらいの方が手作りの味があってよいともいえるだろう。そんなに深く気にする必要はない」

「はい。でも、これからはもっと気を付けます」

「そうだな。ところで、由香子の料理の腕については最初に会ったときにはあまり詳しくは聞かなかったが、どの程度のものなのだ?年頃の娘で一人暮らしをしている身なのだから、私に劣ることはないだろうとは思っているのだが……」

「こちらにお世話になる前は、時々、家で作っていました。お店の賄いが頂ける日も多かったので、毎日炊事しなくてもよかったのです」

「そうか」

「ですから、決して上手ではないと思います。でも、お料理は嫌いではありませんから、これから一所懸命に頑張ります」

「頼んだぞ」

「はい、あのような立派なお台所に負けないくらい作れるようになります」

これまでの真之の食生活を考えると、少なくとも栄養が考慮された食事は充分に満足できるものであったし、本人は上手ではないと言っていても、平均的な二十二歳の娘の料理よりも上出来であるとはいえるだろう。

「話し始めれば、それほど気後れせずに話せるではないか。台所で作る料理だけでなく、食卓でも私を満足させてくれるな」

「はい、分かりました」

ようやく、由香子の必要以上の遠慮というものが消え去ったようだった。


昼近くになり、部屋の掃除を終えた由香子は、台所に入って昼食の支度を始めていた。

この日の真之は、午後から外出の用事があるために、その書類を整えるために書斎に籠もりきりであった。

この洋館で働くようになってからおよそ半月が経過し、由香子の仕事はほぼ間違いなく真之の満足を得られるまでこなせるようになっていた。

来たときには荒廃の否めない姿であった庭も、少しずつ由香子が整えていくことによって美しさを回復し始めていた。残念ながら今からは庭に咲く花というのは期待できない季節になっていたが、一角に小さな花壇を設けて、春には可愛らしい花をつける植物の種を蒔いてみようと考える由香子だった。

一番最初にここを見たときには、自分にこんな庭の整備などが出来るのかと不安で一杯だった由香子だったが、今では植物図鑑や園芸入門の本などを買い込んで密かに勉強し、真之に任された庭を立派にすることが大きな目標となっていた。

メイド服もすっかり着慣れるようになり、長いスカートが仕事の邪魔になることもなくなった由香子の仕事ぶりは順調であったが、最初に真之からメイドの話があった時の仕事の中で、まだ一つだけ由香子がしていないことがあった。

「掃除や洗濯といった家事全般、それから、余裕が出来たらでいいから、私の仕事の補助をしてもらえるとありがたい」

その時の真之の言葉を思い出す。秘書のようなことが出来る能力はなかったが、書類の整理をしたり、パソコンの入力を手伝ったりということだけであっても、あこがれであった真之の仕事を自分が手伝うことができるというのを、由香子は心待ちにしていた。

しかし、真之はどちらかというと一人で黙々と仕事をするタイプであり、一度手がけ始めると他には目の向かない人であるためか、まだ由香子にはその機会は一度も与えられていなかった。

区切りの時間に、紅茶と手作りのクッキーを持って真之の部屋に休憩を促すために立ち入ったことはあったが、その時も「ありがとう」と手短な声を掛けられただけであった。

自分の入れる紅茶を気に入ってくれたことは嬉しい由香子だったが、微かな寂しさが残るのは否めなかった。

この日も、朝食を済ませた後の真之は書斎に入り、そのままずっと仕事を続けている。ご主人様の邪魔をしてはならないと、掃除の時に物音をあまり立てないように気遣った由香子だったが、そんな真之の見えない姿も尊敬の対象であった。

掃除の後であったので、エプロンだけを新しいものに取り替え、由香子は台所で材料を刻みながら米の炊きあがるのを待っていた。おそらく、頻繁に来客があることを想定して作られたであろう洋館の台所は、十人分くらいの食事も一度に用意できるだけの広さを持っていた。

流しなどの作りつけの部分の古さはさすがに否めなかったが、改装されて設けられた給湯設備や浄水器、大きめの最新型の冷蔵庫は、それだけでも由香子にやる気を出させるに充分なものであった。

時間的な制約もあり、どうしても手軽に作れるメニューにならざるを得なかったが、それも一つのメイドとしての技能であると由香子は考えるようになっていた。ご主人様の望むときには、なるべく早く美味しいものを出せるように……。手間暇をかけた料理だけがご主人様を満足させるものであるとは限らないということを、由香子は学んでいた。

微かに漂ってきた美味しそうな米の匂いに、由香子は幸せそうな表情を向ける。

ここからは手早く調理を進め、十分ほどの後には食欲をそそる皿が二つ、調っていた。

熱さに気をつけながら由香子は食堂のテーブルの上に並べ、急ぎ足で二階の真之のいる書斎と向かっていった。

「失礼します、ご主人様。お昼ご飯の用意が出来ましたので、お伝えに上がりました」

遠慮がちなノックの音に続いて、由香子が廊下から書斎の中へ声を掛ける。

「由香子か。もうそんな時間か……」

中から、小さな声が返ってくる。僅かな間の後に、椅子を引く微かな音が聞こえてくる。時計に目をやっていたのではないかと、由香子は真之のその間の行動を想像する。

「お疲れではないでしょうか」

「ああ、少しな。だが、間に合ったようだから安心だ」

「それはよかったです」

どちらも平均的な身長である真之と由香子だが、それでも十五センチほどの差がある。笑顔を真之に見せようとすると、近くではどうしても見上げる形になる。ノーメイクであるが慎ましい色の口紅だけ差している由香子の唇が、色白の肌と微かに見える白い歯によく映えている。

「安心したところで、空腹を感じてきたようだ」

「すぐ食べられますので、たくさんお召し上がり下さい」

「そうさせてもらうか」

真之も彼にしては珍しい笑顔を見せて、階段を下りていく。その後に付き従うように歩く由香子。長いスカートを纏っていても、ようやく危なげなく階段も上り下り出来るようになっていた。

「ほう、これは、オムライスか?」

真之と由香子の席を挟んで並ぶ二つの皿には、大きさの異なる二つのオムライスが並べられていた。

その傍らには、野菜とフルーツを混ぜてミキサーで作ったジュースが背の高いグラスに華やかさを与えていた。

「簡単なものになってしまいましたが、申し訳ありません」

そう言って頭を下げる由香子に、真之が意外そうな顔を向ける。

「オムライスは簡単なのか?割と手が掛かっているように見えるのだが……」

無造作にケチャップを塗った後、スプーンで端から手にかけ始めながら真之が言う。

「そんなことないんです。具と混ぜ合わせて炒めたご飯を用意して、薄く焼いた卵で包むだけですから」

「だが、これだけ薄く焼いた卵に飯をくるむのは難しいのではないか?」

「いいえ、コツを掴めばそうでもないのです。フライパン全体に溶いた卵を広げて、固まってきたら半分だけにご飯を載せるんです。そして、もう半分をそっとめくりながら重ねて……」

「ほう……。だがこれだけ薄ければ皿に盛るのも難儀だろう?」

「それはですね……。一度、出来上がったオムライスに蓋をするようにお皿を載せて、えいっとひっくり返せば卵には触らずに盛りつけ出来てしまうんです」

台所にいる時と同じように、目の前にフライパンがある如くに真之の前でそんな動作を再現して見せる。釣られて上半身が動いたとき、髪と胸のリボンがそれぞれ優しく揺れる。

「由香子は台所でもそうなのか?楽しそうに料理をするのだな」

「あっ、す、すみません……」

真之に指摘されて、慌てて姿勢を正す由香子。自分の皿はまだ手つかずであったのに気がついて、恥ずかしさを隠すかのようにそっとスプーンに手を伸ばす。

「いや、咎めているのではない。仕事を楽しんでする事が出来るのは悪いことではない」

「ありがとうございます。お料理はまだまだ未熟なのですが、こうしてご主人様に召し上がってもらえるのがとても嬉しくてやり甲斐があります」

「そうか。高い目標を持って進める仕事は、必ず結果も高いレベルに到達するものだ」

それを一面の心理であると知りながら、真之自身にとっては仕事というものは糧を稼ぎ出す手段の域を出てはいなかった。少年時代の生活を思えば、どんなに多忙であっても仕事を嫌うということはなかった。ある意味では、そんな生い立ちが真之を成功に導いたといえるだろう。

「はい、ありがとうございます」

由香子は、そんな真之の人生の背景を知らずにいたが、あこがれの人の話をそうして真摯に聞く。

「しかし、自分の仕事がどれだけ大変でないかを真剣になって語る人間も珍しい」

「あ、その……」

真之の指摘に、今度の由香子は恥ずかしがって顔を赤らめるのだった。

「そろそろ出かけることにする」

食事の後、僅かの時間だけくつろいでいた真之は、そう言って立ち上がった。

「帰りは遅くなるのでしょうか?」

ひとまず、皿を台所に下げた由香子が、書類を手にして戻ってきた真之に尋ねる。

「いや、そんなに遅くはならない。今日は登記の関係で役所やら法務局やらを巡るだけだからな」

「登記、ですか?」

意味の分かっていない由香子は、内心恥ずかしく思いながら聞き返す。

「役所は無意味に待たされるから、時間に余裕が持てるまでついつい先延ばしにしてしまった」

「そうなんですか」

「住民票も移しておかないとならない。本当はこっちに来てすぐにやらねばならなかったのだが……」

本来の規定では、転入の届けは転居して速やかに行わねばならない。

「由香子は、もう済ませているのだろうな?」

「あ、その……、実はわたしも……」

「自分のことは棚に上げるようだが、お前もそのあたりは面倒でもきちんとやっておかねばいかんぞ。明日、臨時に休みをやるから、ちゃんと済ませておくんだぞ」

「お休み、ですか?」

「考えてみれば、半月近く、一日も休ませていなかったな。最初の休みが役所巡りとは不本意だろうが、どうせ向こうへ出るのだったら、コンチネンタルにも顔を見せに行くといい」

「はい、ありがとうございます。でも、お夕食には間に合うように帰りますので、いつものようにご一緒させていただけませんでしょうか」

遠慮がちに由香子が尋ねる。

「そうだな……。ではそうさせてもらうか」

「はいっ、他のお仕事を休ませていただく分だけ、頑張って作りますので」

「ああ、期待しているぞ。さて、そろそろ……」

「あっ、お車のキーはそちらに用意してございます。気をつけて行ってらして下さい」

「わかった」

勿論、今の真之には運転手を雇う余裕くらいはあったが、真之は自分で車を運転することにしていた。乗っている車も、社長をイメージさせるような高級車ではなく、小型のセダン、それも前時代的ともいえるマニュアル車だった。

「どうせ私一人しか乗らないのだ。燃費もよいし、小回りも利く」

真之を知る何人かは広瀬を含めて、その車を見たときに異口同音にそれを指摘したが、真之はいつもそう答えるのだった。由香子だけは小振りなその車を「可愛らしい」と評して真之を苦笑させた。

「では、行ってくる」

事務的な茶封筒を持った真之を、由香子は玄関から笑顔で見送った。


朝食の後かたづけが終わった後、由香子は洗濯に取りかかっていた。

その日の予定に関わらず、いつもほぼ同じ時間に朝食を取る真之の生活リズムに、由香子はすっかり合わせることが出来るようになっていた。

この日の真之は十時頃に外出をするという話を聞いており、それまでの時間は読書をするために書斎で過ごすと言っていた。事業の多くを整理してからは比較的時間に余裕が持てるようになった真之は、このように特に急ぎの仕事がない時や、次の予定までの半端な時間が出来たときに仕事関係以外の本を読んで過ごすのが日常となっていた。

食事の席などで、日々の社会的な話題などを振られたときに、あまり満足いく答えの出来なかった由香子は、そうした自分の知識のなさを恥じたが、真之は「恥ずかしがるのもよいが、そこで終わってしまってはいけないのではないか。お前にそのつもりがあるのなら、私のいない間に本や新聞を読んで、社会にアンテナを張っておくのもよいのではないか。この家の中だけが由香子の世界になってしまうのは、好ましくない」という。

今のように積極的に知識や教養を身につけようとしているのを見て、由香子はそんな真之に尊敬の念を新たにするのであったが、自分もそんな助言どおりに、せめて真之の話し相手が務まるくらいの教養を身につけたいと考えるようになっていた。

真之が出かけた後にそんな時間が取れそうな感じがしていたが、今は自分の本来の仕事をこなしてしまわなければならない。

今日のような好天の日は、絶好の洗濯日和である。洗濯機は全自動のものであるから、よほど厳しい汚れがあるとき以外には機械の仕事が終わるまでは由香子の出番はなかった。その間に、隣にある浴室の床を磨いておく。数人が一度に入ることも出来そうな余裕のある浴室は、その広さだけに掃除をする身には大変なものであったが、洗剤の泡の匂いも、由香子にとっては心地よく感じられる。ただ、この季節になってくると、水の冷たさも厳しくなってくるのは否めない。

「そろそろ、お洗濯も終わるころでしょうか」

浴室を綺麗に整えた由香子は、そう言いながら掃除用具を物置に戻す。ちょうどその時、洗濯機から軽やかなチャイムの音が聞こえ、洗濯が終了したことを由香子に知らせてくれた。

「あっ、終わりました」

スカートに埃が付いていないかどうかを簡単に確認し、その長い裾をたなびかせながら由香子は洗濯機の方へ向かっていった。隣に置いてある籠に、洗い終わったばかりの洗濯物を移し替え、早速、庭の方へ運んでいく。

ちょうど日も高くなりつつあるころで、秋の優しい陽光が庭と由香子を照らしていた。

洗濯物を干すためのスペースは、花壇の予定地の隣に作られていた。どちらかというと鑑賞するための目的として作られていたこの洋館の庭には、最初はそのようなスペースはほとんどなかったのだが、由香子は真之の許可を得て、この場所にそれを設けることにしたのだった。

「こんなに日当たりのよいお庭があるのですから、お洗濯ものはお日様に乾かしてもらうのが一番だと思います」

洋館の中にある洗濯機の隣には、大型の乾燥機も用意されていたが、天気の悪い時に使うだけで、由香子は専ら、日の高い時間に洗濯を済ませて外に干すのを好んでいた。

シャツやズボン、メイド服などはともかく、真之や自分の下着を干すときには若干の恥ずかしさを伴うのは否めなかったが、洗い立てで僅かに石鹸の香りが残っている洗濯物を大きく広げて干す時の開放感が、由香子は大好きだった。白い洗濯物が太陽の光をうけるときのまぶしさ、同じく白いシーツが旗のようにそよ風に翻る様子を見ることが、この洋館ならではの洗濯風景のようで、メイドとしての由香子にこの上ない充実感を与えていた。

「今日はいいお天気ですから、お昼過ぎには乾いてしまうかもしれないですね」

乾いた洗濯物を一枚一枚たたみ、綺麗に揃えていくのも由香子は大好きだった。一人で住んでいたときには、ベランダに洗濯物を干すのも大変で、なかなか外に出せない類のものがあったのも事実だったが、ここではそういう遠慮とは全く無縁であった。あまりよい印象のなかった洗濯という家事も好きだということに気付いた由香子は、そんな自分の一面に驚いたものだった。

レストランでウェイトレスをして働いている時の由香子は、勿論、その仕事や制服も大好きであったが、メイドとしてこの洋館に住み込むようになってからはそれ以上に家事そのものに多くの楽しさを見出していた。どんな些細な仕事でもその成果を実感することが出来、それが自分のあこがれのご主人様の生活を支えているということが由香子にとっては嬉しかった。

もう少しして真之が出かけた後には、家の中の掃除を済ませてしまわねばならなかったが、それが終われば洗濯物が乾くまでにはいくらか時間に余裕が持てそうである。

最近、真之の言葉に従って目を通すようになった新聞に取りかかるのにちょうどよい時間となるだろう。

真之と由香子の二人分だけであったから、洗濯物自体はそれほどの量ではない。お日様を浴びてメイド服を踊らせながら全ての洗濯物を干し終えた由香子は、時計を見てそろそろ真之が出かける時刻が近づいていることに気が付いた。

「そういえば、由香子は免許は持っているのか?」

今朝の食事の席で、真之に聞かれたことを思い出した。

「はい。でも、お車は持っていませんので、ほとんど乗る機会はないのですが……」

「そうか、もし空いているときで買い物などで必要ならば、私の車を使っても構わないぞ」

「ありがとうございます。もし大きな買い物などがありましたら、お言葉に甘えさせていただきます」

今日の真之は、車で出かけると聞いていた。

小走りに建物の中へ戻り、籠を片づけた由香子は、いつものように管理を任されている戸棚から車のキーを取りだしてきた。ちょうどその時、食堂の掛け時計が十時を告げた。真之はまだ書斎にいるのだろうか、一分ほど待っていたが降りてくる気配はなかった。読書中なのだとしたら、区切りのつくところまで読み進めてから出かけるのかもしれない。ひとまずはそんなご主人様の邪魔になってはならないと、二階に上がろうとした自分を一度抑える。

「お車、表に廻しておいたらよいのではないでしょうか」

真之を待ちながら、そんなことを思いついた。

由香子はそんな自分のひらめきを嬉しく思い、早速、勝手口から車庫へ向かう。

慎ましやかな屋根の着いている車庫ではあったが、午前中の日が射し込んで車の中は少し暑くなっているようである。

丁寧にキーを差し込んで、ドアを開ける。車を動かすのは久しぶりなので若干、緊張していたが、スカートの裾に気をつけながら運転席に乗り込み、窓を開ける。涼しげな風が入り込み、車の中のよどんだ空気と入れ替わった。

キーを差し込み、エンジンを始動させる。左右の壁に気をつけながら、静かに車を車庫から出して移動させる。そして洋館の玄関まで進めて、その正面にゆっくりと止める。

「ご主人様は降りて来られたのでしょうか?」

ブレーキを確認したあと、一度、由香子はキーを抜いて右手に握りしめ、一階の居間の方へ向かった。

ちょうど由香子が居間の中に入ったとき、それを追うようにして真之も部屋の中へ入ってきた。

「少し過ぎてしまったようだが、そろそろ出かけようと思う。由香子、キーは用意してくれたか?少し慌てているようだが……」

「あ、はい。大丈夫です。キーはこちらにございます」

そう言って、手の中にあるキーを真之に渡す。玄関に向かって歩き始めた真之が、何かを言いたそうにしてすぐ後ろに付き従っている由香子に気が付いて、振り向いて声を掛ける。

「うん、どうかしたのか?」

「あの……、差し出がましいとは思ったのですが、ご主人様のお車を正面まで廻しておきました」

「そうか、由香子も免許を持っていると言っていたものな」

「はい、深読みが過ぎたかもしれませんが、それならばご主人様のお車を用意して差し上げられるのではと思いました」

「それは助かる。あれはそういうつもりで聞いたのではなかったが」

「勝手なことでしたでしょうか……」

ちょうど靴を履き終えて扉を開けた真之の視界に、見慣れた自動車が止まっている。

「いや、由香子の気遣いは嬉しかった。夕方までには戻るだろうから、夕食はいつもと同じ時間で構わない」

「はい、かしこまりました」

運転席に乗り込み、シートベルトを締めながら真之が言った。窓が開いたままになっているので、直接にそんな真之と言葉を交わすことが出来るのが由香子には嬉しかった。

「では、行ってくる」

「はい、お気をつけて運転なさって下さい」

動き始めた車を目で追って、由香子はその後ろ姿に深々と頭を下げた。

初めて自分の判断で行った気遣いが、真之に満足を与えることが出来、そしてそれを誉めてもらえたことが由香子には幸せであった。メイドという仕事の創造性、そんなものを実感した由香子であった。

だが、この日の由香子の仕事は、残念ながらそんな上首尾のものだけでは終わらなかった。

夕刻になり、日が落ちたころに帰宅した真之を出迎えた後、由香子は夕食の準備に取りかかっていた。

この日のメニューは豚肉のソテーがメインであり、慣れてきた手つきで順調に食事の支度を整えていた。米の炊きあがりはもうすぐで、肉を焼きながら同時並行で進めていた野菜スープの味付けも整った。

丸い皿につけあわせの人参とスパゲティを先に乗せ、スープ皿に野菜スープを盛りつけたところで火を止める。ちょうど、真之が居間から食堂へ移ってきたのに気が付き、由香子は手を急がせた。

「すみません、もう少しで準備できますので、お掛けになってお待ち下さい」

「わかった、そんなに慌てなくてもいいぞ」

「はい」

そう答えながらも、由香子はご主人様をお待たせしてはならないと思い、最後の仕上げを急いでいた。

「では頂くことにしよう」

「はい、いただきます」

いつものように真之に向かってお辞儀をして、食事を同席させてもらうことに感謝しながら、由香子はフォークとナイフに手を伸ばした。真之も同じように両者を手に取って早速、食事に取りかかり始める。

「出来たての食事は、やはりよいものだな」

「ありがとうございます。お味も気に入っていただけるとよいのですが……」

「どれ……」

満足そうに食事を進めていた真之の手が急に止まった。そしてナイフでの肉の切り口を注意深く見つめる。

「由香子……、これは豚肉だったな」

「はい……」

急に心細くなった由香子が、小さな声で真之の問いに答える。

「中がまだ赤いようだが……、大丈夫なのか?」

豚肉の生焼けは危険であるということは真之も知っていたが、中には無菌状態で育てられたために問題なく食せるものが存在することも知っていたので、念のために確認する。

「えっ、本当ですか?」

由香子が驚き、声を大きくした。真之の心配は深読みではなかったようである。

肉の大きさに大小があったので、由香子は大きめの方を真之の分として盛りつけていたのだが、そちらの方に火が通りきっていなかったらしい。由香子の心遣いは裏目に出た形になってしまった。

真之が肉の切り口を見せると、由香子のそれまでの満ち足りた気持ちが霧消した。慌てて立ち上がり、真之に詫びる。

「申し訳ございませんでした。でも……」

動転している由香子は、どうしたらよいのか分からなかった。台所に戻って調理し直すのがよいのか、それとも、急いで別のおかずを用意するのがよいのか……。

「向こうにレンジがあっただろう。それで温め直してこい」

皿と台所の方角に交互に顔を向けている由香子に、真之が助け船を出した。それは由香子も考えないこともなかったが、大事なご主人様にレンジで再加熱して味の落ちた食べ物のようなものを出してよいのか、逡巡していたのである。

「あの……、それでもよろしいのでしょうか?」

おそるおそる、由香子が確認する。真之の表情はさすがに友好的なものではなかったが、特段に声を荒くすることもなく淡々として頷いた。

「由香子にも時にはミスがあるだろう、それは。まさか捨ててしまうわけにもいかんだろうしな。多少味は落ちるだろうが、食べられないことはないだろう」

「分かりました、早速、その通りにさせていただきます」

由香子は泣きそうになりながら、真之の皿を持って台所に向かう。電子レンジのドアを開けて、内側にその皿を乗せる。

再加熱は僅か一分ほどで終了したが、その時間が由香子にはとても長く感じられた。

機械の放つ音を聞きながら、由香子は申し訳ない気持ちと自分を責める気持ちでいっぱいになる。

「うむ、今度は大丈夫そうだ。食事再開といこうか」

「はい……」

そう言って、真之は何事もなかったかのように再びナイフとフォークを手に取る。自分からは新たな話題を口にすることが出来ずにいた由香子は、普段のように由香子の家事や日常の話題を振り向けてくれる真之になんとか答えるのみだった。昼の外出時に車を廻したことを誉められもしたが、今の由香子にはそれを嬉しく思う余裕もなかった。

「ごちそうさま」

真之の食事を終えたときの言葉は簡潔である。だが、今日はいつもと同じはずのその簡潔さも由香子の心には痛く響いた。

「全部食べて下さって、ありがとうございました。これからはもっと気を付けて料理をお出しします」

頭を下げて由香子が再び詫びる。

「これからは気を付けるのだぞ」

「はい。すぐにお片づけさせていただきます」

「うむ」

寛大ともいえる真之を、かえって由香子は正視することが出来なかった。半ば逃げるようにして、由香子は台所へ皿を下げていく。

「向こうで少し休んでいる。いいね」

真之が食堂の隣にある居間の方を向いて言った。

「はい、もう少ししましたらお茶をご用意いたします」

何とかそれだけ伝えると、由香子は流しの方へと急いでいった。

悪いことは重なるものなのか、由香子の動揺が抜け切れていなかったためであろうか、不運なことに、由香子はもう一度大きなミスを犯すこととなってしまった。

ソテー、スープ、ライスの皿を洗い終えた由香子は、砂時計の砂が全て下に落ちるのを見て、ポットを手に取って紅茶をカップに注ぎ始めていた。

書斎に居るときや読書中などで一人の時間でいることを真之が特に求めない限り、食後の紅茶の時間も由香子は同席が許されていた。この日も、食事中にミスをした身ではあったが、もう一度紅茶を一緒に頂きながら真之に謝ろうと考えて、由香子は二人分の紅茶を用意しようとしていた。

濃さを均等にするために、数度に分けて交互にカップに琥珀色の紅茶を注いでいく。佳い香りが立ち上り、ようやく由香子の心も落ち着き掛けていた。

だが、その時、紅茶の一滴が跳ねてカップを持つ由香子の手の甲に当たった。

「あつっ!」

気を付けてはいたのだが、反射的に由香子はポットを持つ手を離してしまった。

「あっ!」

由香子は思わず大きな声を出したが、時既に遅く、ポットが由香子の足元に落ちていく。白い陶器製のポットは上品なものであったが、この事態にあってはそれは災いでしかなく、床で大きな音を立てて割れた。

目の前を落ちていくそのポットがスローモーションのように見えていた。

その派手な音は、居間にいた真之にも聞こえたようで、慌てて台所に入ってきた。

「どうした、由香子」

割れたポットと、中に残っていた紅茶がまき散らされて惨状を呈している台所の床。それを由香子は泣きそうになって見つめていた。

「ご主人様、わたし……。申し訳ありません……」

涙目になった由香子が、辛うじて真之に顔を向けた。

「……」

あえて言葉を返さない真之に、由香子は更に心配の度を増したのか、気持ちばかりが先走って詰まらせた言葉を重ねていく。

「さっきも失敗してしまいましたのに……、わたし……。ご主人様の……」

「怪我はないか?」

いつものように、落ち着いた低い声で真之は由香子に聞く。

「はい、大丈夫です。でも、ご主人様にお入れするための紅茶が……」

「今はそれを気にしている場合ではない。早く片づけてしまいなさい」

「わ、わかりました……」

真之に命じられ、ようやく自分が今すべきことを思い出す。

急いでモップと屑籠を持ってきた由香子は、白い破片を拾い集める。手で拾える破片を屑籠に捨てきった由香子は、紅茶で濡れている床をモップで拭き整える。

「それで大丈夫だろう。注ぎかけの紅茶は勿体ない。ここで飲んでしまおう」

由香子がモップを戻している間に、台所の調理台の隣に立っていた真之が並んでいるティーカップの一つに手の伸ばして、中途半端な量のままだった紅茶を一息で飲み干した。

「念のため、掃除機も掛けておくんだぞ。私は向こうに戻っている」

「はい……」

「まあ、怪我がなくてよかった」

それだけ言い残すと、真之は居間の方へ戻っていった。

由香子の視界から真之の姿がなくなると、今までこらえていた涙が急に溢れてきた。そのまま泣き崩れかねない由香子だったが、まだ後始末が残っていることに気が付いて、ようやくそれを終える。

周囲も含めて慎重に掃除機を掛けたので、十分ほどを費やしてしまった。

冷め切ってしまった紅茶が一つだけ残っているのに気付き、躊躇した後に由香子もそれを飲み干した。

そして、メイド服のエプロンのポケットからハンカチを取り出すと、涙を拭いた。

二度も続けてしまった失敗を詫びようと、居間にいる真之のもとへ向かっていった。

「由香子か……」

部屋に入ってきた由香子の姿に気が付いて、真之は本を閉じて顔をそちらに向けた。

「はい……」

「そこに座りなさい」

小さな応接テーブルを挟んだ向こう側のソファを、座ったままの真之が指差した。

由香子はスカートを乱さないように気をつけながら言われたとおりに腰を下ろし、白い綺麗な手を膝の上に揃えて置いた。

「失敗は、ある程度は仕方のないことだ。お前はこれまでもしっかりメイドとして働いてくれているから、一つ二つの失敗を責めるつもりはない」

「はい……」

そうは言いながら、声が多少荒くなっているのは否定できなかった。真之は失敗に対して怒っているのではなく、ある意味に限って苛立っているのであった。

「料理に関しても、毎日努力をしてよいものを作ろうとしているのはよく分かる。今日はたまたまそれが裏目に出てしまったのだろう」

「本当に申し訳ありませんでした」

「それはよい。ただ、由香子に一つ聞きたいことがある」

「何でしょうか」

「由香子が今日の失敗を詫びようとする気持ちはよく分かる。しかし、お前は何について『申し訳ない』と繰り返しているのだ?」

「えっ、何について、ですか……?」

由香子は自分の失敗を責められていることだけが頭にあったから、その質問の意味がよく理解できなかった。

「そう、何を申し訳ないと思っているのか」

「それはもちろん……、お食事とお紅茶の……」

「そうではないのだ、由香子」

真之の口調に厳しさがあった。怒鳴られる方が由香子にとってはまだ楽だったかもしれない。何も答えられずにいる由香子に、今度は諭すように真之が話を続けた。

「さっきも言ったように、ミスそれ自体に関しては責めるつもりはないのだ。だから、それについて何度も『申し訳ありません』という必要はない。今日の由香子の悪いところは、二つ目の失敗が一つ目の失敗を引きずって起こしたというところにある」

「あ……」

挿絵2 「お前のことだ、料理のことが気になって、少し注意が散漫になっていたのではないのか。一つの失敗が次の失敗を引き起こしてしまうようでは、いくら詫びる気持ちが深いものであってもかえって害のあるものになる。失敗したことをすぐ忘れるのがよいことでないのは勿論だが、かといって、あまり深刻に悩むのはもっとよくないと知るべきだ」

「はい。ご主人様のおっしゃる通りだと思います」

皿を洗っている時から、どこか上の空になっているところがあった。そんな状態では、ポットを落とさなかったとしても洗っている皿を割ったり、紅茶を運ぶときにカップを落とすようなことになっていたかもしれない。

真之の言わんとしていることが、由香子にもようやく理解できた。

「完璧な人間など存在しない以上、ミスが起きることはやむを得ない。だが、ミスを起こりにくくすることは出来る。私のやっている仕事でもそうだが、それは由香子のメイドの仕事であっても同じではないのか」

「はい」

「では、明日からそう心がけて仕事をしてもらえればよい。今日はもう、休んでいいぞ」

「わかりました。ご主人様は……」

ようやく、由香子は真之の顔をまともに見ることが出来るようになった。その真之は、脇に置いてあった本を手に取っているところだった。

「もう少しで終わるから、これを読み終わったら寝ることにしよう」

「はい、あまり根を詰めすぎないようにしてください。それでは、おやすみなさいませ」

「ああ、おやすみ」

最後には、真之は笑顔らしいものも見せてくれた。居間を辞そうとしていた由香子にはそれがとても嬉しかった。

「あの……、ご主人様」

「どうした?」

一度、本に落とされた視線を由香子に戻して真之が答える。

「今日は、叱って下さってありがとうございました」

そう言って、由香子は深々と頭を下げた。

「そうだな、お前の働きには期待している」

その言葉に、由香子は微かに涙ぐんだ。顔を上げると、既に真之は本に目を戻していたので、それ以上ご主人様の邪魔をしないようにと、静かに立ち去った。


この洋館での生活の取り決めでは、由香子は真之の後に浴室を使うことが許されていた。

最新式の給湯設備が整っているわけではないこの洋館では、風呂を適切な温度で用意することは由香子の大切な仕事の一つでもあった。

真之にとって就寝前の一番のリラックス・タイムであることを知るようになってから、由香子は彼の好みの湯加減が経験的に分かるようになり、最近ではほぼ完璧にその温度を実現出来るようになっていた。

時々、湯上がりの真之に会い、彼にしては珍しいゆったりした表情をしている姿を見ると、そんな気持ちを与える手伝いの出来た自分が嬉しくなると共に、少しばかり胸が揺れ動くのだった。

失敗を重ねてしまったこの日の由香子であったが、読書を終えた真之が入浴を終えたのを確認すると、ようやく自分も一日の疲れをとるために浴室へ向かう。

洋館には浴室は一つしかなかったから、当然と言えば当然であるが、由香子のメイドとしての余慶の一つに、この広い浴室を使わせてもらえるということがあった。充分な広さを持ち、足を伸ばして入ることの出来る浴槽は、真之ではなくても気持ちをリラックスさせるに充分であった。

髪も洗い終え、心身共にさっぱりした気分になった由香子は、バスタオルと脱いだメイド服や下着を籠にまとめると、洗濯機のところまで運んでいく。そしてパジャマ姿に薄いカーディガンを羽織り、湯上がりの体を冷やさないように気をつけながら自室まで戻った。

ベッドの端に腰を下ろし、手鏡で自分の顔を見つめる。真之に与えられたこの部屋は、由香子にとってすっかりお気に入りの空間となっていた。少しずつ、私物も増えてきていたが、元から備え付けられていた家具など含め、部屋全体の雰囲気が由香子は好きだった。

そんな部屋にいる自分を実感しているうちに、この日に起きた出来事がいろいろと思い出される。

洗濯物を干している時の心地よい気持ち、ご主人様の車を用意して、その気遣いを誉めてもらったこと、日の高いうちに乾いた洗濯物を取り込み終え、一つ一つ綺麗にたたんでいく作業の時に感じる、不思議な厳粛さ。一度私服に着替えての買い物。洋館の中では常にメイド服でいることを固く命じている真之だったが、同時に仕事としての買い物を含めて外に出るときには必ず私服で行くことを命じていた。

この日の仕事はここまでは順調だった。だが、その後に思い出されるのは、真之に出した豚肉のソテーに火がきちんと居なかったこと、そして、食後の片づけの後に用意した紅茶を注ぐときに誤ってポットを落として割ってしまったこと。居間で真之に叱られたこと……。

由香子は昔から憧れていた先輩にメイドとして尽くすことが出来ることをとても幸せに感じていたし、事業で成功を収めた真之という人物が相当の厳しさを持っていることもよく分かっていた。

日々努力をしながらも、まだメイドとして充分に真之の期待に応えられていない自分を自覚してもいる。それだけに、今日の二つのミスは由香子にとって大きなショックだった。

「そこに座りなさい」

その時の真之の声は重かったが、落ち着いていた。由香子にとっては大声で怒鳴られた方が気持ちとしてはまだ楽だったかもしれない。だが、単にミスを責めるということにとどまらず、真之は由香子に仕事をする心構えというものを教えてくれた。失敗をして申し訳ないという気持ち……、それだけではメイドの仕事として不十分であるということを真之は指摘してくれた。叱られている中であっても、由香子にはそれが嬉しかったのである。

そんな由香子は、メイドとして真之に仕えていくうちに、僅かずつ最初に持っていた気持ちが変化しつつあることに気付き始めていた。

コンチネンタルで広瀬から「メイドにならないか」という話を聞き、自分の仕える相手が憧れの先輩その人であることを知ったときは、驚きが一番大きかった。

実際にその人に仕えるようになり、人となりを知っていくうちに憧れと同時に尊敬の念を持つようになっていった。

そして、今日、あのようなお叱りを受けるうちに、決してわかりやすくはない形で見せてくれる真之の優しさ、これまでに自分が接してきた同年代の男性にはない落ち着きというものに惹かれ始めていた。

由香子にとっては父親は甘えるべき存在ではなかったし、中高生の時の同級生の男子生徒は子供にしか見えなかった。コンチネンタルでは優しい人が多かったが、客の中にはあからさまな色目を使うものもあって辟易する場面も少なくなかった。

特に恋をすることもなく育ってきた由香子にとって、真之はそれまで会ったことのないタイプの人間だった。由香子にとってこれが初恋になるのかどうかはまだ分からなかった。しかし、最初に仕えるべきご主人様にメイドとして感じた気持ちとは別のものが由香子に存在するようになっていた。

この日、真之に叱られたことは、そのきっかけになったともいえるだろう。

霧の掛かったような気持ちを心の中で泳がせている間に、心地よい眠気がやってきた。

正体の分からない気持ちを胸の中にそっとしまい込んで、由香子は布団の中に入った。

「お前の働きには期待している」

そんな期待に応えられるメイドにならなくては……。時々見せてくれる真之の笑顔を思い出しながら、由香子はそっと目を閉じるのだった。

一方、入浴後の真之も寝室で一日の残り時間をゆったりと過ごしていた。

カレンダーを確認して、明日しなければならない仕事を簡単に頭の中にまとめた後は、軽く読める雑誌を手に取って読み進めていたが、ほどなくそれにも飽きてしまってベッドの脇の小さなテーブルに投げ捨てる。

「少し、厳しく言い過ぎてしまったか……」

失敗を重ねた由香子を座らせて、居間で叱ったことを思い出した。

あの二人の娘ということだけで由香子に厳しい目を向けている真之だったが、少しばかりその厳しさを後悔してもいた。由香子という娘をある意味で自分の従属下に置くということに自分の心の昏さを自覚せざるを得ない真之だった。勿論、だからといって理不尽な扱いを由香子にするというほど真之の価値観は荒んでいなかったし、メイドとして期待以上の働きや心遣いをしている由香子を評価する気持ちもあった。

由香子をメイドとして雇うという立場である以上、その仕事ぶりに不足があった場合は容赦なくそれを指摘するつもりであり、実際にそういう場面も何度かあったのだが、心の昏さから発した感情は、自分が予期していたよりも頻繁には姿を現さなかった。

寧ろ、真之は由香子の不思議な魅力を感じていた。本人も言うとおり、専門的なことを学んでメイドになったわけではない由香子の仕事ぶりには多少、物足りないところがあるのは否めなかったが、彼女の持つひたむきさというものは充分に伝わってきた。それが由香子という娘から向けられたものであったとしても、不快には感じない。

厳しい生活を乗り越えて今の自分を築き上げた「疲れ」をどこか癒してくれるような魅力が由香子には感じられるのである。

一方で、やはり由香子の身の上を考えるとそうした働きを素直に賞賛することも出来ずにいた。その辺りの事情は、勿論広瀬は知らなかったが、自分が推挙した、そして元々は自分の従業員であった由香子の働きぶりを気に掛けるのか、時々連絡をしてくる彼に対し、真之は「よくやってくれている、満足している」と答えるのみであった。

由香子は、はっきりと自分にあこがれの気持ちと奉仕の気持ちを向けており、それを決して不快なものではない。だが、そうした気持ちを素直に受け止めることの出来ない自分というものを自覚していた。

「今日は、叱って下さってありがとうございました」

深々と頭を下げて自分にそう言った由香子のことを、真之は複雑な気持ちの中で思い返すのだった。

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