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創作メイド小説「あこがれの道」

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第1章 洋館

暖かな日差しが、緩やかに曲がりながらゆったりと上っていく坂道の先を照らしていた。

開発の進んだ地域とはいいながらも、この近辺には雑木林や竹林もそれなりに残っており、駅から通じている大きな通りから入り込むと、すぐに閑静が周囲を支配し始める。

都心から一時間も電車で移動すれば、まだこうしたたたずまいが残っているということが、ある意味では不思議でもあった。過密に向かって進み、いろいろなものを捨ててきたこの国の、その過密の中心地にほど近いところにある落ち着きが、真之を一瞬だけ静かな気持ちにさせた。

そろそろ壮年の後半期に入りかけている福原真之は、僅かに自分よりも若く見えるもう一人の男を従えて坂道をゆっくりと歩いていた。二人ともこの静かな丘陵地には若干不似合いな、スーツにネクタイという服装である。

もし彼らの目的地だけを知っていれば、ほとんどの場合において二人を不動産会社の営業社員とでも考えたであろう。

「ずいぶんとのんびりしたところだな。都心から一時間ちょっとのところとは思えない」

「そうですね。雰囲気は悪くないようですし、交通の便に関しても問題はなさそうです」

「あの道が渋滞を起こすのかは気になるところだが……」

「ええ、それはすぐに調べてみましょう」

真之が、連れの広瀬とそんな会話をしている。感情の変化、特に「喜」や「楽」をあまり表に現すことのない真之の表情が、若干緩みがちになっているのを、広瀬は珍しいと思いながら見ていた。

今年で三十八歳になる真之は、現在はいくつかの不動産を持ち、同じくいくつかの店を経営しているちょっとした資産家である。

このご時世に割と安定しているそれらの資産からの収益で、経済的にはほとんど心配なく暮らすことが出来る身分であったが、もとは田舎の小さな町の出身で苦学の道を歩んできた身である。

働きながら高校から大学へ進学し、学生時代に始めたちょっとした事業が思わぬ高収益を生み出した。いわゆるバブル景気だった幸運がその成功をより大きくしたのだともいえる。

大学を卒業した後は、それなりに名の知れた商社に就職して片手間に事業を続けていたが、景気の陰りをいち早く察知して、それらを全て他人に売り払った。

一方で、会社員としての生活にも見切りを付け、事業の売却資金を元手にして、喫茶店やレストランなどの飲食店を開業した。

こちらの経営も順調に推移したが、生活の糧と資産形成の一手段であると割り切っていた真之は、特に気に入っていた数店舗のレストランを除き、これらの事業も全て売却した。

それからしばらくして、浮かれていた景気は一気に沈み始めた。真之が事業を売り払ったタイミングは、まさに絶妙であったようだ。

値が下がることなどはあり得ないと考えられていた不動産の価格は急落したが、真之は逆にその値下がりした不動産に目を付けた。

実際の価値以上の暴落に巻き込まれた物件を丁寧に探し出し、内装を整備しなおして賃貸に出す。折から、株価や市場金利が絶望的な勢いで下がっていく中で、利便性の高い場所にある不動産というものは、そのもの自体の価格はやはり下がり続けていたが、地道な賃料収入というものを生み出してくれた。過去に店をいくつか運営した経験から、利便性の多寡を直感的に見極めることが出来たのは真之の一つの才能であろう。

真之が最初に事業を始めた学生時代の縁で知り合ったのが、今、隣にいる広瀬敏久である。今で言う「ニッチ市場」を商売の基盤とするやりかたに、公立高校から地道に進学してきた広瀬は大きく興味を持った。

当時から人付き合いの多くなかった真之にとって、広瀬は意気投合できる数少ない人間でもあった。

それが縁になり、広瀬は真之の事業をサポートし続けることになった。

今では、真之が手元に残しているお気に入りのレストランの店長の任に就き、その経営を任されている。

まだ独身である真之に対し、既に妻一人子一人を持つ優しい家庭人でもある。

そうした中、その真之と広瀬が目指しているのは、この坂道の上にある一軒の洋館であった。

もともとは由緒あるどこぞの一族の別邸として建てられたというその建物は、今から思えば半ば歴史の中に埋もれている震災や空襲の被害を免れて、つい最近まで現役であったのだが、何度か代替わりした持ち主が、ついにこの不況下で洋館を維持することが出来なくなり、売却の憂き目を見ることになったのだという。

その話を広瀬から聞いた真之は、にわかにこの建物に興味を持ち、「名門隠れ家的ホテル」のような形で新規事業の用に供することが出来ないか考えたのである。

そのため、その興味を持った洋館を一度実地に見ておこうと、このようなスーツ姿の男二人で郊外までやってきたのである。

「先輩、わざわざ電車やバスなど使わなくてもよろしかったのでは。まだ建物までは少し歩くようですし」

「いや、たまにはいいんじゃないか。それに、少しはこうして体を動かさないと、私も体型が気になる年頃になってきているからな」

「何を言ってるんですか、先輩のその体つきなら、まだ三十代前半で通用しますよ。それに比べて僕は……」

そう言って、広瀬は自分の腕周りや腹部に目を向ける。

昔から細身の体であった真之は、十五年前と体重もほとんど変わっていなかった。だが、少しずつ他の筋肉が腹部の脂肪へとシフトし始めていることを気にしている。とはいえ、少なくとも今のスーツのような普通の服を着ている限り、それはよほど注意深く観察されなければ他人に気付かれることはないであろう。

「まあ、広瀬の場合は幸せ太りなんだから問題ないだろう」

真之がそう言って笑う。真之が指摘するように、広瀬はちょうど結婚した時期から順調に体重を増やしている。それでも、健康に齟齬を来すような水準では決してなく、寧ろレストランの店長という立場の人間としては、貧相な体型であるよりも好ましいともいえるだろう。

「そうですが……。これでも、僕もなるべく運動するように気を付けているんですよ」

「幾ら運動しても、それ以上に美味いものを食べていては、どういう結果になるのかは明らかだろう」

「それは言わないで下さい、先輩」

ここでいう「美味いもの」とは、当然、レストランの食事ではなく、彼の妻の作る家庭料理のことである。家族揃っての食事というものは、ついつい進んでしまうものであるといつも広瀬は言う。尊敬する先輩に唯一欠けているのが伴侶であると本気で思っている広瀬は、そうしてさりげなく真之にアピールをしているのだが、昔から恋愛や結婚といったものに興味を持っていない真之には、全く通じてはいないようだった。

その奥に、触れることの出来ないものがあるとなんとなく察している広瀬は、必要以上に真之に自分の意見を見せつけたりはしないのであった。

「ま、それはいい。もうすぐ着くみたいだな」

「はい、門の前で管理人が待っているはずです」

最後の緩やかなカーブを抜けると、少しずつ目的地の洋館の姿が明らかになってきた。

築後、相当の年数がたっているはずだが、少なくとも遠目にはくたびれた様子は微塵も見えない。立派な建物である。

一瞬、見慣れた日本の風景から離れた場所へやってきた気分になったが、すぐに真之の意識は現実に引き戻された。

広瀬の言うとおり、洋館の入り口には管理人が待っており、彼から鍵を受け取った真之は、早速建物の方へ歩き始めた。

洋館は、気品のある落ち着いたたたずまいを見せていた。例えるならば、嫌みなく着飾った貴婦人といったところであろうか。石造りの重厚な建物は、どちらかというと真之の好みである日本家屋とは違った威圧感も持っており、多少の古さは否めないところではあったが、決して古くささというものは見せていなかった。

正面のドアとその上にある小さな両開きの窓を中心にした左右対称の構造は、見るものにある種の安心感を与えてくれる。

「なかなか雰囲気のある建物のようだな」

「そうですね、敷地を一回りしましたら、中も見せてもらいましょう」

「ああ」

人に対するものと同じように、こうした建物に対しても第一印象というものが存在する。これまでにいくつもの不動産を見てきた真之には、その第一印象から通じる「予感」のようなものがあった。それらを投資対象として見た場合、役に立つのか立たないのか、それが直感的に予測出来るのである。勿論、そのような直感のみで投資など出来ないので、後からきちんと精査することにはなるが、この予感が覆ることはあまりなかった。

今回、この洋館を目にした真之の直感は、それまでに感じたものとは多少、異なっていた。

この洋館が、商売になるかならないかという次元ではなく、それとは少し違った見地から何かを真之に語りかけているような気がしたからである。

そうであっても、まだ外見を、しかも正面から見ただけである。真之はそうした語りかけを一度封じ込め、広瀬を促して敷地の奥へと歩き始めた。

門から正面玄関まで通じる小径はそれなりに整備されており、舗装こそなされていなかったが、車を乗り入れるにも問題はなさそうであった。

多少の角度があるがほぼ南を向いている裏側に回ると、落ち着いた雰囲気を呈している庭が広がっていた。前の持ち主が去ってからはさすがに手入れの度が落ちてしまったのか、ところどころに雑草が目立っているのが気にはなったが、さほど広くない芝生の空間と、その奥にある花壇、藤棚は少し手を入れれば充分に庭園として立派な姿を見せてくれるであろうことは容易に推測出来た。

奥には木が何本か並び、日陰を作り出しているとともに、無機質な石の壁を軽く覆い隠す役割も果たしていた。

「典型的な、『見るための庭』だな」

「そうですね。芝のあたりから奥までを少し整備すれば、簡単な散策路にはなるでしょうが……」

「だが、この庭は部屋から見る共有財産のようなものだろう。人の出入りはさせないほうが良さそうだな」

「そうですね、庭師やメイドなどが時々姿を見せるくらいで」

「そうした演出も場合によっては考えていいかもしれないな」

「ですね」

日差しは穏やかであった。元の持ち主がここをどのように使っていたのかは知らなかったが、真之と広瀬は、自分たちの目的である「隠れ家的ホテル」が演出出来るかどうかという視点で洋館を観察していた。

「そろそろ、建物の中も見ていきましょうか」

「ああ、そうしよう」

再び正面に戻り、管理人から預かった鍵で両開きの扉を開ける。

中に入ると、石造りの建物特有の匂いが僅かに感じられたが、それも決して不快なものではなかった。

家具や調度は最低限のものしか残っていなかったので、殺風景に感じられるのはやむを得ないところであった。余裕を持って作られたエントランスは、ちょっとしたホールのようになっており、奥の両側から上にのぼる階段が続いているのがまず目に入った。

一階の両脇は、やや外観に反して非対称に部屋が並んでいるようであったが、それは住居としての機能上はやむを得ないところなのであろう。

手持ちの図面を開き、立っている場所からそれらの部屋を確認する。

左側には台所と食堂があり、それに続く形で正面に客間として使われていたであろう広間が配置されている。右手にはいくつかの小部屋や浴室など。二階には家人がそれぞれ持つような個室が並んでいる。

ホテルとして使うには、そのままでは多少の不便がありそうだが、二階の部屋の並びを上手に活用すれば、根本的な改築は伴わずに使うことが出来るように思える。

壁や窓枠などにさりげなく装飾が施されていることや、この建物自体の持つ雰囲気を考えると、真之としてはなるべく内装には手を加えたくない気持ちになっていたというのもあるだろう。

内装を工夫すれば、古さを感じさせない立派なもてなしも充分に行えるだろう。余裕のある広さを持つ食堂と、同じく数人が同時に調理出来るだけの台所もハードとしては全く問題はなかった。

二階の各部屋からは内装と庭の眺望をそれぞれ確認し、ひととおりの観察を終えた真之たちは、管理人の待つ正面玄関へと戻った。

「物件としては悪くないな。ただ、採算に乗るかどうかはいろいろと考えてみなければなるまい」

「そうですね。これだけの建物が売りに出されるのは珍しいのではありましょうが……」

「そうだな……」

帰宅した真之は、先ほどの洋館とは対極にあるような無機的な自宅の中で、その洋館の収益性について試算を始めた。

今日見てきた洋館は、雰囲気は申し分なかったが、果たして、事業として成り立つものなのだろうか……、それはかなり微妙だと感じていた。

始めに見たときの「予感」を思い出した。それは今まで感じたことがあるものとは少し異なっていたのを自覚している。数字が出るまでの間、その感触が真之の心を僅かながら刺激していた。


翌日、真之は自室で洋館の採算性について、あれこれと計算を続けていた。

都心にあるさほど広くはない分譲マンションで真之は暮らしているが、学生時代からずっと独り身であり、今後もそれを変えるつもりはない彼にとっては、この程度の住居がちょうどよいと考えていた。貧乏だった学生時代と比べれば、仕事専用の部屋を持っていることだけでも充分なゆとりと考えられる。交通の便もよく、同じ建物に住んでいる住人はまだ子供のいない共稼ぎの夫婦や、単身赴任をしているような年輩の男性がほとんどだった。都心特有のしがらみのなさが、真之にとっては過ごしやすい環境であるともいえた。

空気こそよくはなかったが、大通りから少し入ったところにあるこのマンションは、立地の割には静かな場所にある。窓を開けさえしなければ、かなりの静寂の中で仕事に専念できる環境だといえる。

そんな中、真之は何度目かの数字をはじき出していた。

「うーむ、少し稼働率が高すぎる気がするが……。かといって、この水準でもこの程度しか出てこないのか」

深い椅子の背もたれに体重を掛けながら、腕を組んでノートパソコンの液晶画面を難しい顔で見つめる。

昨日視察してきた洋館のホテルとしての収支予想を、まずは五年分見込んでみたのだったが、思ったような利益は期待出来ないようであった。地価を後追いする形になる固定資産税の負担が思いのほか収益を圧迫していることをはじめとして、「隠れ家的ホテル」としての質を保つための人件費など、所謂、固定費が重くのしかかっている。それだけであるならば辛うじて利益は確保できる見込みだったが、もともとは住居であった洋館をホテルとして使えるように改装する費用が償却しきれない。

稼働率を若干、甘めにはじいてみてもこの数字であるから、実際は赤字になる可能性が極めて高いのだった。

「見送らざるを得ないか……」

真之は、パソコンの隣に置いてあるミニアルバムに手を伸ばした。昨日の視察で撮影してきた洋館の写真が収められている。アルバム自体も、その写真を現像に出したときについてきたごくありふれたものである。

アルバムを開き、正面玄関の写真から始まる、一連の洋館の姿をもう一度眺める。

「……」

正直に言うと、真之はこの洋館を気に入っていた。収益が見込めるのであれば購入にはほとんど躊躇しなかったであろうし、計算の中で真之にしては珍しく稼働率や経費率を甘めに設定していたのも、この洋館を手に入れたいという気持ちが多分に含まれているためであるかもしれなかった。

一方、事業主としての真之は当然、利益の見込めない投資は行うことは出来なかった。洋館の持つ雰囲気……、そこにある今まで真之が保有してきた物件にはない「味」を魅力的に感じていた。それだけに、今回の分析結果を惜しむ気持ちは大きい。

仮に自分が購入を見送った場合、あの洋館は誰か他の人間の手に渡るのだろうか。それとも、買い手がつかぬまま少しずつ荒れていくのであろうか。その両方の可能性を考えた場合、真之には自分自身のためというよりも寧ろあの洋館のためにそれを惜しむ気持ちが生じていた。

不動産投資には「心」が必要である、真之にはそうしたポリシーがあった。保有し、維持していくことによって主に賃貸料収入という糧を生み出し、時には他人から買い他人に売ることによって金を生み出すものでもある土地や建物だが、人間が生活する上での重要な三要素の一つであるそれには、人が住む以上、そうした彼らの「心」を無視した投資はあり得るはずがない、真之はそう確信するに至っていた。それを忘れ、表面上の富しか見えなくなっていたことがバブル経済とその崩壊の原因ではないか。同じ意味で、不動産の権利をバラバラに切り離し、「証券」という金銭面での価値でしか見ることの出来ない不動産投信というものには真之は不信感を持っていた。

それはともかくとして、結果的に投資を見送ったり手放すことになったものも含めた物件に、それぞれの思い入れを持っていた真之であったが、今回のこの洋館に関しては、それまで以上のものを感じているのだった。端的にいえば「この洋館を手に入れたい」という気持ちである。投資家、事業主としての自分と、物を欲しがる一人の人間としての感情が、残念なことに別々の指針を示していた。

計算結果を保存してフロッピーにデータのコピーを取り、真之はノートパソコンの電源を落とした。

軽い喉の渇きを覚えた真之は、ほとんど使われることのないキッチンに向かって、調理台の上に置きっぱなしになっているコーヒーメーカーから、すっかり煮詰まった美味くもないコーヒーをカップに注いだ。

仕事部屋に戻り、もう一度アルバムの写真を眺めていた。

「一応、あいつの意見も聞いてみるか」

広瀬の顔を思い浮かべた真之は、まだ若干未練げに写真に何度か目を落としながら、コーヒーを飲み終えた。

真之が広瀬に経営を任せているレストラン「コンチネンタル・ダイニング」は、都心の高級住宅街の外れに位置している。元々はそうしたところに住んでいる比較的裕福な家庭をターゲットにした店であったが、地下鉄の駅から近いこともあって、その沿線を中心とした近隣地域から訪ねてくる客も多くなっていた。

落ち着きと気品を前面に押し出した店構えは、勿論、最初に想定した客層を満足させるためのものであった。一方で、似たような高級店との差別化を図るために、出す食事はあえてフランス料理やイタリア料理といった風に特定の国籍のものに特化することをしなかった。店構えや内装の持つ雰囲気は、欧風の落ち着いたたたずまいであったが、良くも悪くも「ヨーロッパ」をひとくくりに考えてしまう日本にあっては、その程度のカテゴライズが出来ていれば充分であった。料理の外見は「欧風」にまとめる一方で、食材や調味料には違和感のない範囲で広くいろいろな地域のものを使っており、味付けも独特にアレンジされていた。コンチネンタル……、すなわち「大陸の」という店の名にはそうして広く食の楽しみを求めるという意味も籠められていた。

その戦略は割合に成功を納めていた。「フランス帰りの有名シェフ」などに頼らずとも、満足いく内容の食事を極端に高くない値段で出すことが出来るこのレストランは、地道な人気を誇っていた。

メインターゲットの高級住宅街の住人たちにとっては割に気軽に、離れたところから来る客にとっては「ちょっとしたお出かけ」にふさわしい場所として受け入れられている。

幸か不幸か、爆発的な人気には至っていないところが、コンセプトである「落ち着きと気品」を維持できる要因にもなっていた。建物に関しては真之の独特の感覚が、料理に関しては広瀬が探してきたメインコックの腕に拠るところが大きい。そのコックもまだ二十代の若者というのであるから、広瀬のその「逸材探し」の能力には真之も目を見張ったものである。

ランチタイムが終了したティータイムを見計らって、真之はそんな自分の店にやってきた。

地下鉄の出口から上がったところにある大通りは、行き交う車の数こそ多くて慢性的な渋滞を生み出していたが、昼下がりのこの時間は、歩道の人間の姿はまばらであった。

辛うじて二車線を確保している脇道に入ってしばらく進むと、すぐにそんな車の音は遠くからの微音となる。そうした微音もほぼかき消えた場所まで歩いてくると、敷地の広い邸宅群に違和感なくとけ込むようにして建っているレストランの姿が見えてくる。

「営業中」の看板と紅茶のメニューを手書きしている小さな黒板を横目に見て、真之は一人の客となって店の中へ入っていった。

「いらっしゃいませ」

軽やかな鐘の音に反応して、澄んだ女の子の声が奥から聞こえてきた。

それとほぼ同時に、膝丈くらいの落ち着いた服をまとった声の主が、慌ただしさを感じさせず、客を待たせることもない絶妙な間を取りながら入り口にやってきた。

 機能性と雰囲気を同時に満たすような制服は、肩のふくらみと膝丈程度のスカート、そして清潔感のあるソックスが特徴的だった。胸元の大きめのリボンが、白いエプロンと共に着ているウェイトレスの魅力を引き立ててもいる。

そうしたこの店の制服がよく似合う女の子の胸元に真之が目を向けると、慎ましやかに留められた小さな名札があった。そこに記されている名前は「西崎由香子」とある。

挿絵1 「お一人様でしょうか?」

肩の少し上まで慎ましやかにさらりと伸びた髪が印象的だった。リボンとカチューシャを意匠にあしらった髪留めが、嫌みなくこの制服を引き立てている。高すぎない落ち着いた声が、軽い疲労を覚えている真之に心地よく聞こえた。

「ああ」

「ただいまの時間は、ティータイムとさせて頂いておりますが、よろしいでしょうか」

真之は静かに頷いた。それを見た由香子は、僅かに微笑んでその返事を受け取ったことを示すと、メニューを手に取って奥のテーブルへと歩き始める。

真之は何度かこの店で見たことのある娘だと思い出しつつ、その「西崎」という名字に一瞬だけ顔をしかめた。だが、既に真之に背を向けている由香子は、それに気付くことはなかった。

「こちらのお席でよろしいですか?」

「ああ、ジャーマンブレンドを頼む」

「はい、かしこまりました」

この店では、巷のファミリーレストランで使っているような端末携帯の伝票は使っていなかった。そうしたシステムを導入するようなチェーンではないということもあるが、機械を使うことが出来ることについてあえて人間の手を介すことも、一つのサービスであると真之が判断して指示したことでもある。

伝票にボールペンで記入を終えた由香子は、席に落ち着いた真之に軽く一礼した。

「おしぼりと水をお持ちしますので、少々お待ち下さいませ」

由香子が立ち去ると、真之は軽く店内を見渡した。平日の昼、ランチタイムを過ぎたこの時間帯は客の姿も疎らである。友達同士であるらしい初老の二人組の婦人と、外回り中に立ち寄ったと思われるサラリーマンの姿が見えるのみである。耳を澄ましてみなければ分からないほどの微かな音でクラシックのBGMが流れている。温かいおしぼりと水を真之に供した後、奥のキッチンに注文を伝えた由香子が既にフロアに戻り、その入り口に両足を揃えて立っている。

膝丈くらいのスカートからすらりと伸びている足が、女性らしい穏やかな曲線を描いている。この時間帯は人手はそれほど必要ないのであろう、フロアにいるのは由香子だけだった。広瀬はおそらくキッチンの更に奥にある執務室にいるに違いない。ひとまず、客としてコーヒーを飲んでひと息付けてから顔を見せることにしよう……。

真之はそう考えて、深く座り直した。

数分後、由香子の姿が奥に消えたと思って見ていると、ほどなく彼女がトレイにコーヒーカップを載せてやってきた。

「お待たせいたしました、ジャーマンブレンドでございます。お砂糖とミルクが入り用でしたら、こちらをお使い下さい」

「ありがとう」

給仕の動作には、かなり厳しめに目を向けていた真之から見ても問題はほとんどなかった。上品さを主題にしたデザインの制服は、広瀬と創業以来の小月というウェイトレスが相談して決めたものだと聞いていたが、この由香子というウェイトレスにもよく似合っている。

「ごゆっくりおくつろぎ下さい」

そう言って再び由香子が一礼したとき、制服のリボンが真之の視界で軽く翻った。

「そうさせてもらうよ」

口数の多い方でない真之にしては珍しく、そうした一声を由香子に返したが、それが思いのほか嬉しかったらしく、由香子は少しはにかんだような笑顔をもう一度真之に向けた。

「はい」

自分の店の居心地に満足しながら、真之はしばらくゆったりした時間を過ごして気分転換させた。だが、その後は再びあの洋館のことを思い返す。

あの洋館を他人の手に渡してしまうには惜しい……。ある意味、建物に惚れた面があるのは否めなかった。やり方によっては、上手くあの洋館を使うことも出来るかもしれない。時々、真之が思い拠らないようなアイディアを広瀬が出すことがある。洋館を手に入れるかどうかを含めて、広瀬の意見を聞いてみたいと思って真之はここへやってきたのだった。

コーヒーを飲み終える頃には、サラリーマンの姿は消えていた。手帳と携帯電話に、交互に目を向けているようだったから、次の訪問先を確認していたところだったのかもしれない。

真之は小さなガラス細工の筒に差し込まれた伝票を手に取ると、入り口のレジの方へと向かった。それを見逃すことなく、控えていた由香子がカウンターの中へ入る。

「ありがとうございました」

上着の胸ポケットから財布を取り出している真之に、これまでの数度とは微妙に違う角度でお辞儀をする。

「伝票をお預かりいたします……。お会計は五百五十円になります」

真之は無言で財布の中から小銭を取り出す。そして、それを手渡しながらタイミングを見計らって由香子に声を掛けた。

「すまないけれど、店長の広瀬さんを呼んでくれませんか」

目の前の客の思わぬ発言に、由香子は驚いたようだった。

「えっ、店長……でございますか」

その表情には不安も見えている。クレームの類、それも店長を求めるとは相当に深刻なものを想像したのだろう。由香子の接客には客観的に見ても非難されるべきところは存在していなかったのであるから、彼女が不安を感じたとしてもやむを得ないだろう。

「そんな顔をしなくてもよいですよ。店長には私がここを訪ねることは伝えてあります、福原が来たと言って下さい」

「は、はい、かしこまりました。少々お待ち下さい」

さすがに慌てているのか、真之から受け取った五百五十円を受け皿に置いたまま、由香子が急ぎ足で奥に向かっていった。

「少し、驚かせてしまったか……」

その姿を追いながら、真之は苦笑した。

「失礼します」

ウェイトレスの制服を着た由香子が、客に接するのと同じように丁寧な仕草で礼をして、キッチンの更に奥にある事務室へ入った。

「おや、西崎さん?」

作業の手を止めた広瀬が顔を上げると、不安を隠せずにいる由香子の姿が正面にあった。

「店長をお訪ねになっているお客様が見えているのですが……。お名前は、福原さんとおっしゃっておりました」

「福原さん……? あ、オーナー」

一瞬、普段自分が呼んでいるのと違う名前を聞いて首を傾げた広瀬だったが、すぐに思い当たって顔をほころばせる。

「えっ、オーナー、ですか?」

「うん。そうか、西崎さんには伝えてなかったね、ごめんごめん。さっき、オーナーがうちにやってくるって連絡があったんだよ」

「そうなんですか……、あの方が、コンチネンタルのオーナーなんですか」

「ああ、正式な肩書きは『社長』なんだけど、そう呼ばれるのは好みではないみたいでね」

「ふふっ」

「あ、そんな話をしている場合ではないよ。早く戻って、オーナーをこの部屋まで案内してくれ」

「はい、わかりました」

このレストランでウェイトレスをするようになってから二年ほどの由香子であったが、まだオーナーの顔を見たことはほとんどなかった。この仕事に関しては先輩であり、友人でもある同じウェイトレスの直美は何度か会って話したこともあるといい、店長の広瀬も話題にすることがあるので、その人となりについては少しは聞き及んでいた。そうした話から漠然と「オーナー像」というものを心の中に持ってはいたが、それは具体的なものではなかったために、すぐにはあのお客様がオーナーには結びついていかなかった。

由香子はそんなことを考えながら慌てて店のレジまで戻り、静かに立っている真之に声を掛けた。

「大変お待たせしました。店長が奥の部屋で待っております。こちらへどうぞ」

「ああ、ありがとう」

若干緊張しながら、由香子は真之の前を再び事務室に向かって歩き始める。

(どうやら、この子は私のことは知らなかったようだな……)

由香子の後ろ姿を苦笑して見つめながら、真之はその後へ続いた。


「お茶はいらないから、西崎さんはフロアに戻ってね」

「はい、失礼いたします」

もう一度頭を下げて、由香子は広瀬の指示どおりにフロアへ戻っていった。

「先輩……、いえ、オーナー、この部屋では安物ですがよろしいですか」

部屋の片隅にある紙コップとポットの置き場へ向かい、広瀬が真之に言った。

「ああ、適当で構わないよ」

簡単な応接スペースを構成しているソファに腰を下ろし、真之が答える。

「さっき、店でコーヒーを頂いてきたが、あれは結構美味しかったね」

「それはよかったです。ですが、そうなると男の入れたティーパックの紅茶など……」

「まあ、気にするな」

苦笑いをしている広瀬に、真之も笑いかける。確かに、上品なウェイトレスの持ってきた本格コーヒーとこれでは二重の意味で格差があるであろう。

「それはともかくとして、今日は時間を取ってもらってすまない」

「いいえ、この時間でしたらそれほど立て込んでもおりませんので」

「店の方も、普段からあのくらいか?」

一組の老婦人と、サラリーマンがいたことを真之が話す。

「そうですね、もう少し入っていることの方が多いかもしれませんね。ですが、このくらいでしょう」

「そういう時間帯があるのも悪いことばかりではないな」

落ち着いた空間を売り物にしているコンチネンタルにとって、いつも混雑している時間ばかりではなく、くつろげる時間帯があるということはイメージ戦略上も決して無意味ではない。

「ですね。あ、どうぞ」

「お、悪いな」

無粋な紙コップが二人の間に置かれる。

「早速だが、昨日のあの洋館の件だけどね……」

「どうでした、見通しは?」

「うーん、残念ながらあまりよくないようだ。いくつか計算してみたが、甘く見ても五年程度では採算に乗るようにはならない」

「ホテルとして使うとなると、規模が小さいですからね」

「内装次第では、収容人数を十五人程度までは増やせそうだが、そのためにはコックや給仕を増やさねばならないだろう。そのスペースが確保できない矛盾がどうしてもあるな」

「となると、残念ですが見送りでしょうか。建物は僕には魅力的に見えたのですが……」

「ああ、私もそう思ったよ。収支のことを考えなくてよいなら、すぐにでも企画に取りかかりたいと思ったくらいだ」

「このご時世、やはり難しいですね……」

「そうだな、立地が有数なリゾート地とかであればまた別だったのだろうが」

紙コップを口に運びながら、真之がうなる。

「ですが、他の人手に渡らせてしまうのも惜しい建物ですよね」

「そうだな、可能なら私が住んでしまいたいくらいだよ」

真之が笑いながら言う。勿論、それは冗談ではあったが、事業を別にしても、真之にとってはそれだけの魅力を感じるものでもあった。

「えっ、先輩、それですよ!」

「うん?」

しばらく二人で沈黙していた中で、急に広瀬が大きな声を出したので、真之は少なからず驚いた。店の中であるにも拘わらず自分を「先輩」と呼んだことにも気付いていなかった。

大学時代の先輩後輩という間柄で、友人としてのつきあいも深い二人だったが、このレストランをはじめとする仕事の場では「先輩」でなく「オーナー」と呼ぶことを求めていた。それを、この瞬間は二人とも忘れていたようである。

「昨日見た資料によれば、建物自体の価格はそんなに高くはなかったですよね」

「そうだな。寧ろ、改装費用の方が負担になりそうだ」

「オーナーもそれほどお気に入りでしたら、この際ですから、オーナーの家にしてしまってはどうでしょうか?」

「なんだと?」

元々人が住むために作られていたのであるから、そういうことであれば改装にはほとんど費用はかからないだろう。調度の類もほとんどが残されたままになっているので、多少手を加えるだけで充分に真之の住居として成り立つと思われる。

「今のオーナーの家は、便利なところではありますが手狭ではあるでしょうし」

「うーむ……。確かに広い家ではないが一人で住むには充分だぞ。私は今後も……」

「あ、それはいいです。でも、悪いアイディアではないと思いますけれど」

真之はまだ独身で、特定の女性もいない身であったが、今後も結婚をして家庭を持つというつもりはなかった。経済的には全く心配もなく、これまでに思いを寄せてきた女性も何人かあったが、それらをことごとく拒絶してきている。

決して幸福とはいえなかった少年期の暮らしぶりが、真之の人生観にそうした影を落としている。広瀬は既に家庭人でもあり、妻子と共に幸福な生活を送っているのだが、真之自身にはそれを求めるつもりは全くなかった。

そんな真之であるから、現在の住まいは一LDK程度の手狭なマンションであり、今後も特に不満のない限りはそこに住み続けるつもりであった。

であるから、広瀬の突然の提案は真之の意表を突くに充分なものであった。

「あの洋館か……。確かに、私も気に入っているし、個人のものとして買うことが出来ない金額でもないな」

「ですよね」

「だが、一人で住むにはあの建物は広すぎるだろう。庭も含めて、維持していくだけでも大変そうだ。まだ私は隠居するつもりもないぞ」

「隠居なんてそんなオーナーにはまだ数十年は似合わない単語ですよ。確かに広い家ですが……、別にオーナーが身の回りのことを全てする必要はないのではないでしょうか」

「しかし、私は結婚するつもりも、その相手の心当たりもないぞ」

「別に、オーナーに無理矢理結婚を勧めるつもりはありませんから安心してください」

「そうか」

真之が笑いながら言う。本人はそう言うが、自分の暮らしを話すことによって「先輩も結婚して幸せな家庭を作って下さい」という広瀬の真意はしばしば手に取るように分かるので、思わずそうした苦笑が漏れることがある。勿論、広瀬が自分の人生観を強要しないということは分かっているし、広瀬自身が幸福であることもはっきりしている。

それでも、真之自身にはそうした生き方を選ぶことは全く考えられないのであった。

「あのくらいのお屋敷ですと使用人……、例えばメイドを雇って家のことをさせればよろしいのではないでしょうか。掃除洗濯に限らず、食事の世話も頼めば、外食が続いて歪みがちの食生活も改善されると思いますよ」

「メイド、か?」

一瞬、その単語の意味が分からなかった真之だったが、物語の中などで見たことのある独特の衣裳を思い出した。

元々あまり太らない体質だったこともあり、食事に関してはほとんど関心を払ってこなかった真之だったが、壮年といういう時期も終盤に差し掛かる頃になると、やはり多少は自分の健康についても気になりだしていた。

独身生活を続けることに関してはほとんど困ることはない真之だったが、唯一の問題点が食にあったといえるだろう。

その意味では、広瀬の提案はある意味で適切なものであるといえた。

「しかし、メイドなんてどこにいるんだ。『メイド募集』などという求人広告を出すようなものでもなかろうに。それに、赤の他人を同居させるにはそれなりの勇気が必要になるぞ」

「そうですね……」

尤もな指摘を受けて、広瀬が考え込む。だが、自分の提案は悪いものではないと確信しており、代案を探すのではなく、具体策を考えるという方向で頭を巡らせていた。

「それでしたら、例えばコンチネンタルのウェイトレスから選んではどうでしょうか。手前味噌になりますが、素質は普段の働きを見ているので保証出来ます。もし、当人がよいといえばですけれど」

「しかし、この店にとっても貴重な戦力だろう?」

「それはそうですが、割とコンスタントに『うちで働きたい』というお嬢さんが来るのですよ。確かに教育する必要は出てきますが、その点は充分にカバーできると思います」

「なるほどな……」

洋館での生活というものを、少しだけ真之は想像してみた。メイドが身の回りの世話をしてくれるというのは、およそ自分の生活とは遠い場所にあるものだと思えたが、もし、そうした暮らしが出来るのであればそれは決して悪いものでもないようだった。

今住んでいるマンションは、賃貸に出せばすぐに借り手も見つかるであろう……。

そんなことを考えた真之は、自分が既に洋館を手に入れることに前向きである自分に気が付いた。

「そうだな、業者には前向きに返事をしておこう。ただ、よいメイドが見つかったらということだな」

「はい、分かりました。コンチネンタルのウェイトレスの履歴書を用意しましょう」

「ああ、そう上手く話が進むといいけれどな」

「ですね。ですが、小月さんだけは勘弁してくださいね」

「あの子か、今はすっかり重鎮だな」

小月直美という、開業当時からのウェイトレスの顔を思い浮かべる。コンチネンタルの現在の制服は一年ほど前にリニューアルされたものであるが、そのデザインを検討するときに大きな力となったのは彼女の存在であった。短大の家政科で被服を勉強していたというのが思わぬところで役に立って、本人も喜んでいたようである。

「ええ、料理長を任せている杉野ともども、かなり助かっていますよ」

「ま、宜しく頼む。今日は広瀬に相談に来てよかった」

「いえ、お礼はオーナーが無事に転居してからにしてください」

「はは、そうだな。そうだ、さっきの……、西崎さんにも宜しく言っておいてくれ」

「はい、かしこまりました」

立ち上がった真之を、広瀬が見送った。

店を出る真之がフロアに目を向けたとき、由香子が新たな客に紅茶を出しているところであった。

「確かに、広瀬の教育はよく行き届いているな」

自分の店の現状にも安心した真之であった。


数日後、簡易書留でコンチネンタルで働いている二人のウェイトレスの履歴書のコピーが広瀬から送られてきた。

簡単な送付状の下に、手書きで「個人的に推挙したいのはこの二人です。店での働きぶりは申し分ありません」とコメントが加えられていた。正確な数は真之は把握していなかったが、確かあの店では十人ほどのウェイトレスが働いていた筈である。勿論、単なるアルバイトのつもりであって住み込みのメイドに転身できそうな人間は限られていたであろうが、厳しい広瀬の目をくぐり抜けてきているのであれば、「申し分ない」という働きぶりに関しては信頼してよいであろう。

真之は三つ折りにされた紙を封筒から取りだし、まずは一枚目に目を向ける。

顔写真の隣に氏名と生年月日、現住所が書かれているありきたりの履歴書である。一人目の名前は「佐久間涼子」と記されていた。住所はコンチネンタルからそれほど離れていない住宅地である。ひょっとすると、主な客層である高級住宅地の住人であるかもしれない。

経歴を見ると、公立の中学から商業高校へ進学、その後、大学へは進まずにコンチネンタルに応募したようである。年齢は十九歳とあるから、ここで働くようになって一年前後ということであろうか。志望理由欄にはありきたりのことが幼さを残す文字で書かれている。その内容は確かに洗練されたものではなかったが、本人のひたむきさは伝わってくるようである。

特に何かを専門的に学んでいたというわけではないに関わらず、その働きぶりが広瀬の目に留まったというからには、家庭環境や幼時の躾がしっかりした娘なのであろう。写真の娘はその文字と同じように幼さをまだ残しているようであったが、真之にはこの娘の顔は残念ながら記憶に残っていなかった。

「もう一人も見てみるか……」

一枚目を机に裏向きに置き、次の履歴書に目を向ける。

同じ様式の履歴書に、今度は真之の記憶にはっきり残っている写真が貼り付けられていた。

西崎由香子、昨日、真之にコーヒーを入れ、広瀬のいる事務室まで案内したあの娘である。昨日の接客態度も申し分なく、真之も好感を持って見ていたことを思い出す。

西崎という名字に、昨日と同じように一瞬だけ顔をしかめたが、素早くそれを振り払って、先ほどと同じように住所や経歴などに目を向ける。

年齢は先ほどの佐久間よりも少しだけ上の二十二歳とある。直美と同じくらいの年頃だから、由香子の方はベテランに近いウェイトレスなのであろうか。住所欄には店から一駅ほど離れた町名が記されていた。どこにでもあるような建物名と二〇二という部屋番号から察するに、アパートか小さいマンションでも借りて一人暮らしをしているのだろう。おそらく、地方から出てきて東京で一人暮らしを、という典型的なパターンなのだろうと予測して、隣にある本籍欄に目を向けると、期せずして真之の出身と同じ県名がそこにあった。

先の「西崎」という名字と共に、僅かに嫌な予感が真之の頭の中をよぎる。

(単なる偶然だろう……)

真之はそう思い直して、経歴欄の文字を追い始める。

「まさか……」

今度は、思わず驚きが言葉になって口に出ていた。

出身中学は真之と同じ、高校と短大はあの地方の中核地の学校であった。単に同郷であるという偶然だけであればよかったのであろうが、真之の動揺に追い討ちを掛けたのは、家族欄にある父親と母親の名前であった。そこには、真之が再び見ることはないと信じていたはずの名前が記されていたのである。西崎という名字、その下に続く二つの名前、そして出身地……。由香子が彼らの娘であるという事実は、真之に大きな衝撃を与えた。

「そのようなことが、あり得るのか……」

半ば投げるように履歴書を机の上に放った。それでも、その履歴書は正面向きに机の上に舞い降りた。

僅かに微笑んだ写真の中の由香子が、ちょうど真之を見つめるような角度で視界に入ってくる。それに重ねるように、昨日の流れるような由香子の接客態度を思い出す。

何か救いを求めるかのように、真之は由香子の志望理由欄を読み始める。

「私にはあこがれの先輩がいます。同じ中学校の出身で、会ったこともない人なのですが、その方は何もない田舎町から身を起こし、東京で事業を興して成功したと聞いています。一度、雑誌でその先輩のインタビューを見たことがありますが、そこに『心』という文字を見つけて感動しました。こちらのレストランで働くということで、私も短大で学んだことに『心』を植え付けることが出来るのではないかと思いました」

佐久間涼子とは逆に、抽象的過ぎる「志望理由」だった。まともな企業だったとしたら、おそらく見ただけで採用の対象外になっていただろう。だが、一方でこの西崎由香子という娘に対して興味を感じさせるに充分な内容でもあった。

広瀬もこの履歴書を見てから由香子の採用を決めたのであろうから、同じような興味をここに見出したに違いないだろう。結果、採用した由香子は広瀬が期待していた通りの働きをしているのだろうから、そんな目論見は成功したともいえるかもしれない。

真之は腕を組んで声をうならせる。

「この、『あこがれの先輩』というのは私のことか……。だとすると、世の中にはとんだ皮肉というのがあるものだ」

確かに「若手の起業家」という題目で、経済雑誌のインタビューを受けた記憶が真之にはある。そして、その中で「投資や事業にも『心』が必要である」といった内容のことを語ったのも覚えている。県立の高校から家政を学ぶために短大へ進学したという、およそ経済誌には縁のなさそうな由香子はたまたま何かの偶然にその記事を目にしたのだろう。

そうした偶然が「彼らの娘」である由香子と自分を引き寄せた。そして、ある意味では由香子の暮らしを左右できる、もっと言えば弄ぶことができる鍵と力を自分が持っている。余人には決して理解できない一点の昏さが真之の心の中に姿を見せた。

「とはいえ、まだ候補として挙がっただけだ。広瀬に連絡して、当人の意思も聞いてみる必要はあるだろう」

真之は短い時間に波を立てた感情を、そう声に出すことによって押さえつけた。

「そうですか、では、まずは西崎さんに話を伝えてみましょう。住み込みでということになれば、本人もそう簡単に決められることではないでしょうし。ただ、佐久間さんと比べれば一人暮らしである分だけ身軽かもしれませんね」

由香子に話を伝えて欲しい旨を広瀬に話すと、そんな返事が返ってきた。

「一度、西崎さんにメイドの話をして、前向きな返事が得られたらその先のことを考えましょう。オーナーも一度きちんとお会いして、西崎さんと直接お話をする機会を設けた方がいいと思いますよ」

「そうだな、広瀬がよい返事をもらってきたらそうすることにしよう」

「はい、彼女は今日の遅番に入ってもらっていますから、早速、その後にでも話してみることにします」

「ああ、宜しく頼む」

受話器を置いた真之が壁の掛け時計に目を向ける。

仕事を中断して、半ば息抜きとして二人の履歴書に目を通そうとした真之だったが、思わぬ展開に時間を取られてしまったようだ。軽い空腹を覚えた真之は、それを無理矢理押さえ込んで仕事に戻ることにした。

数字を相手にした作業は、余計な雑念を振り払うには適したものであるといえた。

この日は、ウィークデイとしては上々の客入りだった。

店が賑やかであることは由香子や直美にとっても嬉しいことではあったが、一方で疲労も大きくなることは否めない。ただ、多くのお客様に満足いただいての疲れというものは、彼女たちにとっては心地よい疲れであるといえるのだった。

本来の閉店時刻である二十二時を過ぎると、ようやく店内の客の数も疎らになり、由香子たちも一足先に心を落ち着けることが出来た。

壁に掛かっている欧州のどこかの国の風景画に目を向ける余裕も出てくる。丘の上にある洋館が夕陽を背景に落ち着いたたたずまいを見せている様は、一日働き通しだった由香子の心を慰める役目も果たしてくれる。客の中にもこの絵を気に入っている者がおり、

「これはどこの国の風景なんでしょうか?」

と尋ねられても答えられなかった自分を恨んだものである。

「由香子、お疲れさま。もう少しね」

「はい、今日はいつもより大変でした」

「でも、まだお客さんは残っているから、気を抜かないようにしないとね」

「そうですね」

最後の客は落ち着いた感じの中年の夫婦だった。ご主人の方は仕事帰りなのだろうか、スーツにビジネスバッグという格好で、奥さんの方は静かな色合いのワンピースをまとっている。彼らも、デザートをほとんど終えて、そろそろ帰り支度を始めているようにも見える。

「私、伝票を用意しておくわね」

コンチネンタルに開業当初から勤めている、由香子にとっては先輩にあたるウェイトレスの小月直美が、手慣れた振る舞いでキッチンの入り口の方へ向かっていく。派手さはないが特徴的で印象に残るコンチネンタルの制服は、一年前に新しくされたときに直美の意見も反映されたものだという。チェーン店ではないこの店では、単に制服であっても店の特徴を反映させることと、コストを抑えることといった相反する要求を同時に満たさなくてはならない。その点で悩んでいた店長の広瀬だったが、既製品に近いワンピースを基本に、エプロンや髪飾り、リボンなどの装飾品でそれらの特徴を出すことに成功していた。替えの入手しやすさ、コスト抑制をも念頭に入れた、直美のアイディアである。短大出身で、被服を学んでいた直美が、シンプルな装飾をその制服に施すことによって、更に魅力を引き出している。

かつて、特徴的で客からの人気も極めて高い制服を売りにしていたレストランがあったが、あまりにも手の込んだ衣裳だったためにいざというときに替えが調達できず、やむを得ずそれを廃止したという話を聞いたことがある。広瀬が制服を導入するに当たって気に掛けていたのはそれであったが、直美は簡単にその問題をクリアしてくれた。

店長に続いて店のことをよく把握している直美は、このレストランにとっては必要不可欠な人材であった。

コンチネンタルは開店からおよそ四年になるので、短大を出て就職の見つからなかった時期に運良く採用された直美は、今では二十四歳である。大人の女性の接客がそろそろ好評を得てくる年頃である。気さくな話しぶりで店内の人気も高いが、お客様の前では一転して丁寧な話しぶりになり、広瀬をも驚かせたものだった。

そんな制服が一番に合うと自負しているのも直美である。そして、その直美が「制服が二番目に似合う子」と評価しているのが由香子であった。

「はい、わたしはあの方のお食事が終わりましたら、お皿を下げるようにします」

「うん、お願いするわね」

由香子も、この制服が気に入っていた。由香子がコンチネンタルに勤めるようになったのはおよそ一年前であるから、制服のリニューアルとほぼ同時である。新人にしては間違いのない接客を由香子が誉めながら、届いたばかりの制服をこっそりと先に着せてくれたことを思い出す。

それ以来、由香子は直美を先輩として尊敬すると同時に、友人としても深く信頼するようになった。時々、休みが合ったときには買い物に出かけたりもする間柄である。

先ほどの中年夫婦が由香子の方に顔を向けた。由香子はにっこりと微笑みながらテーブルへと歩いていく。

「ごちそうさま、美味しかったわ」

奥さんの方が、率直な感想を述べてくれる。由香子はそんなお客様の満足そうな表情を見るのが大好きだった。

「ありがとうございます、お会計はレジの方で承りますので、そのままいらしてください」

「カードは使えるのかい?」

「はい、大丈夫です」

上着に袖を通したご主人が、奥さんを気遣いながらレジの方へ向かっていく。

由香子はお辞儀をしてそれを見送った。

「ありがとうございました。またお越し下さいませ」

由香子がちょうど、デザートの皿とコーヒーカップを下げ終わったころ、直美の元気な声がフロアまで聞こえてきた。

本来の営業時間を十五分ほど過ぎていたが、最後の客が帰ってようやく店じまいということになった。

「確認に入りまーす」

奥の事務室に向けて直美が大きな声を出す。振り向いた時に、短めの直美の髪が僅かに揺れた。

それを横目で見ながら、由香子の方は表に出しているお勧めメニューの黒板と「営業中」の札を片づけるために外に出る。今日は一日中よい天気であったが、その余韻を残すかのように綺麗な星がいくつか、この都心の空にも輝いていた。

「これ、片づけておきますね」

「あっ、ありがとう」

ちょうど、広瀬もレジの売り上げ確認に立ち会うために事務室から出てきたところだった。奥のキッチンでは若き料理長の杉野が見習いとバイトとと共に締めの作業に入っている。皿洗いを含めて、キッチンは閉店後もまだ慌ただしさが続いている。

一方、フロアの方は今日は直美と由香子の二人でこなしてきた。それほど席数の多いレストランではなかったが、二人で切り盛りするには少し今日の客は多めだったといえる。

「西崎さん、これから少し時間がとれませんか?」

直美の隣に立っている広瀬が、由香子にそう声を掛けた。

「はい、大丈夫ですが……。キッチンのお手伝いですか?」

「いや、そうではなくて、ちょっと話があるんだ」

「わかりました」

少しだけ意外そうな顔をして、由香子が頷いた。

「えっ、私には用はないんですか?」

隣にいる直美が、手は動かしたままでそう茶々を入れてくる。

「すまないね、今回は小月さんではなく西崎さんへの用なんだ」

「ふーん……」

悪戯っぽく目を細めて、直美が妙な笑いを見せた。

「変な想像はしないでくれよ」

「あら、どうして分かったんですか?」

今度は、笑顔が楽しそうなものへ変わる。

「直美さん、そんな顔をしていたら誰でも分かっちゃいますよ」

「あらら、失敗ね」

そんな軽口を叩く。単なるからかいであることは明白だった。こういう嫌みのない悪戯心も、直美がこの店での人気を高めている理由の一つであろう。

「店長、確認、完了しました。伝票とまとめて封筒に入れておきました」

「ああ、ご苦労さん。小月さんはもう上がりでいいよ。少しオーバーしてしまったしね」

「はい、ではお先に失礼させていただきます」

「お疲れさま」

更衣室へ向かっていった直美を、広瀬と由香子が見送る形となった。取り残された形の由香子が、若干緊張の面もちで広瀬の方に目を向ける。

「あの……、お話とはどのようなことでしょうか?」

「うん、少し説明が必要だから、事務室の方へ行こうか」

「わかりました」

広瀬の後について、由香子が事務室へ向かう。由香子にはあまりなじみのない事務室は、思っていたよりも無機質な部屋ではなかった。スチールの机と少し型の古いデスクトップのパソコンが事務室であることを強く主張してはいたが、来客用の応接セットが何とかそうしたよそよそしさを消している。

「ま、座って。ティーパックだけど紅茶を入れるから」

「申し訳ありません、店長」

「いいから、もう仕事の時間は終わったんだから、楽にして構わないよ」

「はい」

そう答えた由香子だったが、事務室で店長と向き合うとなると、緊張と不安は隠せなかった。

先日、真之に出したのと同じように、紙コップに二杯の紅茶を注いだ広瀬が小さな応接テーブルの上にそれを並べて置く。

「早速だけれど、話というのはだね……」

「……」

いざ切り出したのはよいが、どういった順序で話すべきなのかを広瀬はあまりよく考えていなかったので、すぐに言葉を詰まらせた。

洋館の話から始めた方がよいと思い、まずはその話から入ることにした。

「先日、オーナーがこの店に見えたのは覚えているよね?」

「はい、オーナーだとは存ぜず、失礼をしてしまいました」

「いや、そんなことはないようだよ。オーナーは西崎さんの接客を気に入っていたようだし」

「そんな……、ありがとうございます」

レジで声を掛けられた時のことを、由香子ははっきりと思い出した。ほとんど顔を見たことがないとはいえ、自分のいる店のオーナーが来たことに全く気付かなかった自分が恥ずかしかった。

「この前、オーナーと僕で郊外にある洋館を見に行ったんだよ。由緒ある建物が売りに出されると聞いて、新しく落ち着いたホテルとして売り出せないかと考えてね」

「洋館、ですか?」

一瞬、和菓子を頭に思い浮かべた由香子が、慌てて石造りの建物の像を頭の中に作り出す。

「オーナーは何年か前まではいくつものお店を持っていて、久しぶりに新しい事業を始めようと思って張り切っていたみたいだったんだが、残念ながら採算には乗らなさそうだということになって……」

「そうなんですか……」

「だが、建物自体はかなり気に入ったらしくてね、このまま他の人手に渡るのを見過ごすのも勿体ないって感じていたようなんだね」

おもむろに席を立った広瀬が、机の引き出しから何枚かの写真を撮りだして持ってきた。

「これが、その洋館の写真だ」

「見せていただいてもよろしいですか?」

由香子が、ほとんど身を乗り出しながら言った。由香子にとって洋館というのは、例えばおとぎ話の世界の中にしか存在しない、現実感の乏しいものであったから、それの写真と聞いてにわかに興味が首をもたげてきたのである。

「ああ、構わないよ」

広瀬が写真を手渡すと、由香子は目を輝かせながらその写真を見つめた。

「わぁ、素敵なお屋敷ですね……」

「だろう?西崎さんは知らないかもしれないが、オーナーは今、都心の小さなマンションで暮らしているんだ。独り身の方とはいえ、それでは少々手狭だろうと思って、僕はオーナーに『それでしたら、御自分の住まいになさっては如何ですか?』と提案したんだ」

「わっ、本当ですか。オーナーは何て?」

「うん、オーナーもあの建物を気に入っていたから、前向きに考えてくれたようなんだけれども、一つだけ問題があってね」

「何でしょうか……?」

「これだけの広さの家だと、一人では維持していくのも大変だ」

「そうですね……」

「そこで、僕はもう一つ提案したんだ」

「どんな提案ですか?」

「家の仕事や先輩の身の回りの世話をするメイドを雇ってはどうでしょうか、とね」

「メイドさん、ですか」

「幸い、オーナーは店を持っていて、そこにはそうした気遣いの出来そうな人間が何人かいそうだ。勿論、本人の気持ち次第だけれど、勧められる人間がいますって伝えておいた」

「……」

「僕が推挙した中で、オーナーも気に入ってくれた人がいて、今、ここに来てもらっている」

「えっ、まさか、それってわたしのことですか?」

「ご名答。もうここからははっきり言うけど、オーナーの家でメイドとして仕える気はないかな?」

由香子にとっては晴天の霹靂であったから、言葉が詰まったのは当然だろう。だが、それは拒絶では決してなく、予想しない展開に驚き戸惑っているというのが本当のところだった。

「ですが……」

「勿論、西崎さんはオーナーのことをまだよく知らないだろうし、オーナーももう一度くらいは顔を合わせたいとおっしゃっている。住み込みということになるだろうから、西崎さんも簡単には『はい』とは答えられないことは分かっているから、返事は急ぐ必要はないよ」

「あの……、オーナーってどんな方なのでしょうか?」

極めて抽象的な質問を由香子が投げかけた。心なしか、お気に入りの制服姿も縮こまって見えるようである。

「今はここを含めて数件のレストランや喫茶店を経営していて、他にいくつか都内に賃貸マンションを持っている人だ。それまでは他にもいくつか店を持っていたんだけれど、バブルが弾ける前に手放している。その手の『勘』っていうのは凄いと思うよ」

「やっぱり、お金持ちなんですね……。そんな凄い方にしては、まだそれほどのお歳でもないように見えましたけれど……」

「うん、僕はオーナーの大学時代の後輩で、歳は四つ違いかな」

「えっ、店長って……」

「僕は今年で三十四だよ。オーナーが在学中に始めた、アルバイト代わりの事業が運良く成功してね、それを元手に資産を増やしていったんだ。オーナーの才覚は凄いけど、好景気っていう運のよさもあったと思う。僕が大学にいたとき、規模が大きくなって大変になっていたオーナーの仕事を手伝ったのが縁で、それからずっと、って感じだね」

「そうだったんですか……」

「あまり人付き合いの広くない人なんだけど、僕のことは気に入って『友人』と言ってくれるし、コンチネンタルを任せてくれたのも感謝しているよ」

「いいですね、そういうお話……」

「子供の頃はあまり恵まれていない生活だったらしくて、苦労人なんだよ。そういえば、オーナーは西崎さんの履歴書を見て驚いていたよ。同じ町の出身だって」

「えっ?」

「それを聞いて思い出したんだけど、西崎さんの履歴書の志望理由には少し変わったことが書いてあったよね」

「あ、はい……」

そのことは由香子もよく覚えているのだろう、恥ずかしそうに俯いた。地元出身の事業家の「心」という言葉に感銘を受けて、自分も自分なりに心を籠めた仕事をしたい、といった内容だった。

「僕はその経済雑誌というのは知らなかったんだけど、ひょっとすると、西崎さんの憧れの先輩っていうのは、ひょっとして……」

「オーナーかもしれないんでしょうか?」

「その可能性は高いんじゃないかな」

「そうだとしたら、わたしはあこがれの人にお仕えできるかもしれないんですね」

「ああ」

広瀬が満足げに頷いた。

「まずは、オーナーに会ってみてはどうかな」

「はい、是非お願いします!」

由香子の表情が花開いた。

「前向きな返事を僕も期待したいな。もし、メイドが見つからなかったら、オーナーはあの洋館を諦めてしまうと思うから」

「そんな、あんな素敵なお屋敷を諦めるなんて勿体ないです!」

由香子は思わず身を乗り出しそうになって、慌てて席に戻った。乱れたスカートの裾を慌てて元に戻す。

「仕事の内容や待遇などはオーナーに直接聞いて、それから決めればいいからね」

「はい」

「今日はもう上がっていいから。時間を取らせてすまなかったね」

「いいえ、とんでもありません」

由香子はいくつもの意味で心を揺らしながら、更衣室へ戻っていった。


「失礼します」

由香子がさすがに緊張を隠せない様子で事務室の中へ入る。

真之は既に到着しており、ティータイムの仕事を終えた由香子が制服姿のままでやってきたのだった。

フロアと化粧室で、そして事務室のドアの前でもう一度、自分の服装が乱れていないかを確認する。おそらく間違いなく、といった高い可能性でこれから会うのが自分の憧れの人だと考えると、何度深呼吸をしても緊張はほぐれない。

張りつめた気持ちのままで、由香子は事務室の中を見渡した。

昨日、自分も座っていた応接セットのソファに、真之は既に腰掛けていた。広瀬は立ち上がって由香子の入ってくるのを待っていたようで、深くお辞儀をしようとする由香子を軽く手で制する。

真之も立ち上がり、横向きだった体を由香子の方に向けた。

「コンチネンタルでお世話になっております、西崎由香子です」

今度は広瀬が制する前に、由香子は真之に頭を下げていた。それまでの僅かな間に真之の姿に感じたのは「落ち着き」だった。

「オーナーの福原真之です、宜しく」

自然な仕草で、真之が右手を差し出した。それに導かれるように、由香子の右手がそこに吸い寄せられ、真之の手に軽く握られる。由香子の手には温かさが、真之の手には柔らかさがそれぞれ伝わった。そんな自分の手に由香子が目を向けると、男性特有の無駄のないがっちりした指が見える。由香子より一回りは年上である真之の手は年相応の年期を帯びているように見えたが、まだまだ肌には衰えは感じられない。

「さ、西崎さんはそちらに座って」

広瀬の手が向けた席を見て、由香子は躊躇した。そちらは上座だったからである。

「今日は私が呼びつけたんだ、遠慮することはないですよ」

真之にも促され、ようやく由香子はそちらに腰を下ろした。スカートが一瞬だけふっと舞ったが、その裾は乱れることなく綺麗な円形を描いて落ち着いた。

「先日は驚かせて済まなかったね。コーヒーはとても美味しかったよ」

「あ、ありがとうございます。オーナーだと知らずに、とんだ失礼を」

「いや、いつも他のお客さんにあれだけの接客が出来ているなら、私としても頼もしく思えるよ」

「そんな……、勿体ないです」

ひたすら恐縮して見せる由香子。オーナーをその人だと気付くことが出来なかった自分を、まだ後悔しているようにも見える。

「それはいいとして、昨日、広瀬から話を聞いたと思うんだけれど、今ここに来てくれたということは、少なくとも門前払いではないと考えていいんだね」

「はい、突然のお話でびっくりしましたけれど。メイドのお仕事というのは、どのようなことをすればよいのでしょう」

「掃除や洗濯といった家事全般、それから、余裕が出来たらでいいから、私の仕事の補助をしてもらえるとありがたい」

「先輩、食事もですよ」

「あ、そうだな、家事の中には食事の用意も勿論、含めてくれ。料理は出来る方かな?」

「すみません……、一人暮らしでそんなに豊かでもないので、自分の食べるもの程度です」

 由香子が申し訳なさそうに言う。

「ほう、それでも出来合で済ませたりはしないのかね」

興味深そうに、真之が由香子に投げかける。広瀬は満足そうにその隣で頷いている。

「コンビニのお弁当やお総菜は高いですし、スーパーのものはどんな材料を使っているのか安心できないんです。少し前に、安い中国産の野菜が農薬まみれだと聞いてからは、やっぱり怖くて……」

「そうか、それなら大したものだよ。例えば、どんなものが作れる?」

由香子は和洋中からそれぞれ一つずつレパートリーの中から料理の名前を挙げた。

「ほう、それは楽しみだ」

普段は難しい顔をしている真之が、僅かに微笑みを見せた。あこがれの人かもしれない真之の微かな笑顔に、思わず由香子はどきっとした。

「それから、あの家となると庭の手入れも頼みたい。庭師のような大仰なことはする必要はないけれどね」

「はい、わかりました」

「それから、私としては住み込みで働いてもらいたいのだが、その辺の都合はどうだろうか。勿論、あの洋館の中にあなたの部屋は用意させてもらう」

「わたしのお部屋がいただけるのですか?」

「ああ、間取りには充分すぎる余裕があるからね。日当たりのいい部屋を一つ、あげようと思っている」

「ありがとうございます」

「あと、報酬のことだけれど、最初はこれくらいでどうだろうか。広瀬から普段の西崎さんのシフトは聞いているが、今出している給料よりは少し少なくなってしまうが」

真之が内ポケットから手帳を取りだし、手慣れた仕草で数字を書き込むと、ぴっとそれを破って由香子の前に差し出す。数字が一つ書かれているだけだったが、その値は、確かに今由香子がもらっている額よりは若干低めだった。

「慣れてくればもう少し上げようと思っているし、食費と住居費がかからないことを考えれば、悪くはないと思うのだが……」

「はい。ですが、そんなによくしていただいてもよろしいのでしょうか、わたしなどに」

確かに、光熱費を含めた住居費が掛からないのは大きな魅力である。さほど新しい建物でなくても、都内に女性が安心して住めるような部屋を借りればそれなりの家賃負担になる。正直、由香子にとって一番苦しいのがそこであった。

それに、写真でしか見ていないが、あの素敵な洋館の一室に住まわせてもらえるというのは由香子にとっては夢のような話でもあった。

「うちのウェイトレスを無理矢理メイドにしようというのだから、出来る限りの待遇はさせてもらいたい」

「無理矢理なんて、とんでもないです」

ようやく、由香子は笑うことが出来た。生活環境が変わることになるから、全く不安がないといえば嘘であったが、オーナーから直接話を聞いても充分に魅力的に思える。

「西崎さんの方から、オーナーに聞きたいことはないかな?」

話が一区切りついて、しばらくの沈黙があった後に広瀬が話を向けてきた。

由香子は、待っていましたという気持ちと、おそるおそるという気持ちを同居させながら、遠慮がちに口を開いた。

「あの……、昨日、店長から私とオーナーが同じ町の出身だとうかがったのですが……」

「ああ、履歴書を見て驚いたよ」

「差し支えないのでしたら、オーナーの通ってらした中学校を教えていただけませんか?」

過去を思い出したのか、真之は一瞬だけ暗い顔をする。だが、由香子や広瀬がそれに気付かないうちに元の表情に戻り、何気ない昔話をするように答える。

「確か町立の……」

あまり思い出したくはない過去の記憶の中から、真之が固有名詞を引っ張り出してくる。そんな真之の心の棘には気付かず、由香子の顔の方はぱっと花開いた。

「わっ、やっぱり私と同じです!」

由香子が嬉しそうに言った。どこかしら、誇らしげな表情をしている。

「わたし、中学生の時に先生から東京に出て成功した先輩の話を聞いて、ずっとあこがれれていたんです」

「ほう……」

「そのうえ一度、本でその先輩のインタビューの記事も見て、いつかこんな立派な先輩に会えてお話しできたらいいなってずっと思っていたんです」

「それが、この私か?」

「はいっ、お話しするだけでなくて、その先輩……、オーナーのお屋敷でお仕えさせていただくことが出来る、かもしれないなんて、本当に夢みたいです」

胸元のリボンに手を当てながら、由香子が興奮を隠せない様子で話す。もしかしたら、のあこがれが事実へと変わり、その喜びがその表情にはっきりと表れている。そんな由香子を、真之は苦笑混じりの複雑な気持ちで眺めていた。

真之のメイドになるのだとすると、お気に入りのこの制服を着るのももう僅かということになるだろうが、そんなことも今の由香子の意識の中からは消えていた。

「そうか、じゃあ、来てもらえるんだね」

「はいっ。でも、本当にわたしを雇っていただけるんですか」

「ああ、宜しく頼むよ」

「頑張ります」

真之が満足そうに頷いて立ち上がった。慌ててそれを追うようにして由香子も立ち上がる。

再び差し出された右手を、由香子は最初とはまた違った気持ちで握り返した。

「小月さんは寂しがるかもしれないから、時々はこっちにも来て欲しいところだね」

広瀬がそう言うと、真之は笑いながら「そうした方がいいな、なるべく機会が作れるようにしよう」と答える。

こうして、由香子はレストランのウェイトレスからメイドへと大きな転身を図ることになったのだった。

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