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第4章 転機

 栞はいなくなった。

 そのことを天も悲しんでいるのだろうか、この年は春の訪れがいつもより遅いようだった。三月の半ばを過ぎてもまだ降り続く雪が、祐一に過去の様々な出来事を思い起こさせる。

 年明け早々にこの街にやってきた時、何故かは分からなかったが、祐一はこの街とそして雪が嫌いだった。

 どこか遠くにある記憶がほんの一部だけその姿を見せるときもあったが、その正体を思い出すことはなく、時間が過ぎていった。

 一緒に住んでいるいとこの名雪が、自分を見て時々悲しそうにしているのが祐一にとってもつらかった。

 強くありたい、そう思っていても、栞を失った悲しみは消えなかった。

 好きでなかったこの街と雪景色を、そうでなくしてくれたのは確実に栞のおかげだったといえよう。しかし、その栞が、再び祐一にこの街を嫌わせしめることになるのだろうか。おそらく栞はそんなことを望んではいなかったであろうが、今の祐一にはそれを覆すことは出来なかった。

 終業式が終わる頃になって、ようやく街の中の雪の存在もまばらになってきた。数日前の卒業式では、袴姿の先輩たちが、春を先取りするかのように学校ににぎわいと華やかさをもたらしていた。

 祐一の心がどのような中にあろうが、春は確実にやってきていた。

 同じく、大切な妹を失った香里は、見かけ上は今までと変わらぬ生活を送っていた。なんでも、目標となる大学があるらしく、その受験のための勉強に打ち込んでいるらしい。

「あなたたちもそろそろ準備しないとだめよ」

と言う香里には、どことなく冷たさのようなものがあった。ひょっとすると、香里は勉強に打ち込むことによって悲しい過去の出来事を忘れようとしているのかもしれない。

 だが、祐一にはまだそれを過去にすることは出来なかった。栞と接していた時間の多寡がその違いをもたらしていたのだとすれば、それはある意味で悲しいことであったといえるだろう。

「祐一さんも、幸せになってください」

 そんな栞の言葉がよく思い出される。あの時頷いたことを、決して祐一は忘れていなかったが、それを実現させるにはまだ相当の時間を要するように思われた。

「もう少し時間をくれよな、栞……」

 クラブ活動も残り少なくなった名雪と昇降口で別れ、商店街のゲームセンターで時間をつぶした祐一は、日の傾きかけた川沿いの道を歩きながら、そう独語した。まだ冷たく見える川の水が、淡々と流れていた。流れの中にある大きな石、橋脚、もしくは捨てられた大きなゴミ、そんなものにぶつかって、水は時々流れの方向を変えている。

 人生が川の流れのようなものだとしたら、俺にとっての栞の存在はどんなものに例えられるのであろうか。そんなことを祐一は考えていた。

 ずっと悲しんでいることは出来ないと、祐一にも分かっていた。悲しいのだったら、おそらく香里も同じであろう。そこから立ち直ろうとしている香里の姿、悲しんでいる自分を支えようとしている名雪の姿を見るたびに、祐一は自分の弱さを実感させられる。それを知ると同時に、開き直りや甘えのようなものが存在しているのも自覚する。栞のことは忘れてはいない、決して忘れられるものではないということを、そんな形でしか今の祐一には持ち続けることが出来なかったのだ。それは栞を愛する他のどんな方法よりもつらいものだったとも言えるだろう。そこからの脱却を求めながら、祐一はそこにしがみ続けてもいたのだった。

 やがて時は過ぎ、三年生となっての学校生活も後半に入っていた。クラスメイト達もそろそろ自分の進路をしっかり決め、それぞれの目標を目指して頑張っている。香里については改めていうまでもなく、名雪や北川も大学への進学を目指し、それぞれの志望校を念頭に置いた勉強を進めていた。

 祐一は、漠然と大学に進む気持ちは持っていた。成績はそれほど悪くはなかったので、例えば進路決定の面談などでも「きちんと志望校を決めて頑張れば充分に間に合う」と言われていた。

 そろそろ、きちんと進む道を決めないといけないことは分かっていた。いつまでも悲しみに甘えていることは出来ない。それくらいのことは祐一にも分かっていた。そして、どこかで、きちんと目標に向かって頑張る友人達の姿がうらやましくも見えた。

 秋も深まったある日のことだった。

 部屋で数学の課題に取り組んでいた祐一は、ドアをノックする音でそれを中断された。少し詰め込み過ぎていたと思っていた祐一は、それを奇貨として机を離れる。

「はい。名雪か?」

 だが、外から聞こえてきた声は別のものだった。

「いえ、わたしです」

「あ、秋子さんですか、すみません……」

 少しばかり恥ずかしく思いながら、祐一はドアに急ぐ。

 部屋着のセーターを着た秋子が、いつもと変わらぬ笑顔を浮かべて立っていた。

「どうしたんですか?」

「祐一さんに電話ですよ。姉さん……、じゃなくてお母さんからです」

「えっ、おふくろ?」

「ええ」

 普段はほぼ意識することはなくなっているのだが、秋子は祐一にとっては伯母にあたる。それを何故か不思議に感じながら、祐一はコードレスになっている受話器を受け取る。

「お話が終わったら戻してくださいね。お茶でも入れておきますから」

「わかりました」

 ずいぶんとのんびりした取り次ぎだが、それもまた水瀬家ならではのものであった。そんな苦笑を抑えつつ、祐一は受け取った受話器を耳に当てる。

「もしもし……」

「祐一、元気にしてる?」

「ああ、それは大丈夫。でも、急になんで電話なんか」

 祐一の母は、父の海外赴任先で暮らしている。祐一がこの街にやってくることになったのも、それがそもそもの原因だった。

「なにのんきなこと言ってるのよ。あなたは今年受験でしょ?志望校はちゃんと決まったの?そろそろ願書の提出とか、そういう手続きを準備しないといけないんじゃないの?」

 電話の向こうで、母親の呆れている顔が目に浮かぶようだった。

「うん、それはそうなんだけど……」

「もし悩むことがあったら、遠慮なく相談してくれてもいいのよ。お父さんだって、あれであなたのことはいろいろ心配しているし。秋子も力になってくれると思うわ」

「そうだね」

「大学には行くつもりなんでしょ?」

「うん、それは間違いないと思う」

「で、話を戻すけど、志望校は決まってるの?具体的に」

「いや、それはまだなんだ」

「じゃあ、具体的じゃなくても、そっちで進学するのか、東京に戻るのか、そういったことは?」

「うーん」

「今すぐとは言わないけど、それくらいは決めておいてちょうだいね。あと、国立か私立かとか。それによって、学費とか東京の家のこととかお父さんと考えなきゃいけないんだから」

「そうだね……」

 考えてみれば当たり前のことであるが、ずっと考えずに過ごしてきた現実があった。漠然と考えていた進学先のことだが、この街で選ぶか、東京に戻るか、それだけのことでも人生の大きな岐路になりうるのだ。それに、空気のように当たり前の存在だと思っていた両親や秋子さんが、自分の生活を支えてくれているのだという事実も思い知る。

「どっちがいいのかな……」

「そんなことはあなた自身が決めるのよ、当たり前でしょ」

「うん」

 そう言いながら、何気なく祐一はカーテンを開いて窓の外に目を向けた。

 すっかり夜も更けて、街灯がもの寂しく家の前の道を照らしていた。そんな景色の中で、白いものが舞い降りているのが見えた。

 どうも今日は冷え込むと思ったら、雪が降り始めていたのだ。この冬、最初の雪……。

 同時に、そんな雪のように白かった栞の肌、雪とは違って温かかった栞の体を思い出す。

 この街では、祐一にとって雪は栞と共にあったのだ。雪は直接に栞を思い出させるといってよい。

 苦しかった。

 だが、祐一はその感情を辛うじて押さえ込んだ。押さえ込むと同時に、こんな言葉が口から出てきた。

「まあ、何も考えていないわけじゃないんだ。どっちかというと理系の方が向いていると思ってるし、進学先も……、こっちとか東京っていうんじゃなく、全然知らない街でもいいんじゃないかと思う」

「そうね」

「ともかく、もう少し考えてみるよ。こっちの学校のことだったら秋子さんが詳しいと思うし」

「あまり肩肘張らずにね。でも、ひとまずは安心したわ」

「うん」

「じゃ、電話代も馬鹿にならないからそろそろ切るわね。秋子と名雪ちゃんによろしくね」

「わかった。おやすみ」

「おやすみ。って言っても、こっちは未だ昼なのよね」

「そっか」

 笑いを交わしながら電話を切ることが出来たのは、祐一にとって少しばかりよかったかもしれない。同時に、半ば気まぐれのように口にした言葉を心の中で反芻する。

「全然知らない街でもいいんじゃないかと思う……」

 雪を見て栞を思い出した自分。正直、この街にいたくないという気持ちがあった。だが東京に戻れば、名雪や香里たちこっちで知り合った友人と急速に疎遠になりそうな予感がしていた。

 その点、何も知らない新しい街で一から出発するのは割合によい考えなのではないかと思った。

 受話器を戻していないことに気が付いて、祐一は慌ててリビングに降りていった。秋子と名雪は既に座ってお茶を飲んでいるところだった。

「すみません、遅くなりました」

「いいのよ、久しぶりの電話だったんですし」

「あ、お茶、いただきますね」

「ええ、どうぞ」

 ちょうど名雪と秋子の座っている向かいに、祐一は腰を下ろす。

「おばさんと何を話してたの?」

 名雪が興味津々といった面もちで聞いてくる。祐一の母と名雪が顔を合わせることは滅多にないのだが、割と仲がよいのだ。

「極めて散文的な話だ」

「さんぶんてき?」

 不思議そうな顔をする名雪。

「俺の進路のこと」

「あ、そっか」

 家族同然に過ごしてきた三人だったので、「祐一の母親」の存在をひょっとすると名雪は忘れていたのかもしれなかった。

 そんな名雪や秋子と離れることになると認識しながらも、祐一の気持ちは既に傾き始めていた。

 それから何日か情報を集め、ある大きな地方都市に、自分の興味の持てそうな専攻のある大学を見つけた祐一は、決意を固めたのだった。


 頑張りの成果があって、祐一はその大学に見事に合格した。

 香里や名雪、北川もそれぞれ、自分の選んだ学校の合格通知を受け取り、それぞれの夢や未来を目指して頑張ることとなった。

 進む道は違っていたが、高校生活で培ってきた関係は揺るぐものではない。

 卒業式の日、見かけ上はいつものような友人達との雑談の中、これからの生活を祝福しあった。香里もこの街を離れることになり、名雪と北川はそれぞれ別の学校であるがこの街に残ることになった。一番遠くの場所に行く祐一を、みんなが見送ってくれた。最後まで名雪は寂しそうにしていたが、別に今生の別れになるわけでもなく、結局は笑顔で送り出してくれたのだった。

「夏休みになったら遊びに行くからねっ」

「ああ、歓迎するぞ」

「私も現地合流させてもらうわね」

「美味いもの食べられる店を開拓しておけよ」

「任せとけ」

 これからの学生生活を送る拠点になる、新しい部屋に体を落ち着けたとき、一抹の不安と寂しさが祐一の心を襲った。

 考えてみれば、水瀬家に世話になるようになって以来、一人だけで過ごすということはほとんどなかったのだ。学校には仲のよい友人がいて、家にはいとこの名雪、そして伯母の秋子がいた。そして、あの街には栞もいたのだった。

 栞を忘れる意味もあって新しい土地での生活を選んだのに、最初に思い出されたのは栞のことだった。

 神聖化してはいけないと思いつつ、祐一は自分の中にある栞への想いを改めて感じる。栞とは、確かに好きあうことが出来た。病気のことを聞かされてからの日々は、今でも決して後悔することはない。だが、同時に、栞にあのまま振られていた方がどんなに楽だったかとも思う。失恋して新しい恋を見つけることは出来ても、死んだ人間を生き返らせることは出来ない。

 最低限の荷物を解き、簡単な食事を作る。

 久しぶりに自分で作った食事は、お世辞にも美味しいものとはいえなかった。父親が不在がちだった相沢家では、家族が揃って食事出来ることはほとんどなかった。そんな祐一が食卓の温もりを知ることが出来たのには、水瀬家での生活が大きな要素になっていることは間違いない。そして、栞と何回か学食で一緒に食事したことを思い出す……。

「さっさと食べるか」

 環境が変わったための、一過性のホームシックみたいなものだろうと自らを強引に納得させ、とりあえず空腹を満たすためだけの食事を済ませた。

 新しい学校生活は、思っていたよりも楽しくて有意義なものだった。「大学生なんていうのは遊ぶのが職業だ」とまで聞かされていて、割と気楽に構えていた祐一だったが、実際はそうでもないということを思い知ることになる。必修の授業に出席し、出された課題をこなすだけでもかなり大変であった。勿論、中には代返を頼んだり、レポートを丸写しして出すような要領のよい友人などもいたが、祐一はそのあたりは割合に生真面目で、自分できちんとこなしていた。学費や生活費を出してくれる両親や、笑顔で見送ってくれた名雪や秋子、そして、どこかで自分を見ているであろう栞に対しての最低限の義務のようにも思っていたのだ。

 仲のよくなった友人と遊びに行くこともあった。空いている時間を利用して、ちょっとしたアルバイトなども始めた。何もしない時間を持つことを怖れていたのかもしれない。だが、充実した時間の中でぽっかりと空いた僅かな時に、決まって思い出されるのは栞のことであった。

 今でも、祐一は栞の温もりを忘れてはいなかったのだ。

 名雪は割合、頻繁に電話をかけてきた。祐一の方から電話することもあった。

 前期試験が終わり、心身共にに一段落ついたころの電話で、こんな話が出てきた。

「ねえ、祐一。覚えてる?」

「うん、何をだ?」

「夏休みになったらそっちに遊びに行くって話をしたこと」

「ああ、覚えてるぞ。本当に来るのか?」

「うんっ。祐一の方はもう試験は終わったの?」

「ああ、昨日で最後だった。名雪はどうなんだ?」

「わたしは明日で終わりだよ。四つも試験があって大変だったよ」

「それくらいで大変って言うなよ。俺なんか十科目だぞ」

「えっ、本当に?」

「一日に三つあったときは死ぬかと思ったぞ」

「うん、よく生きているよね……」

 相変わらずの少し外れた話し方に苦笑しながら、祐一は向こうにいる名雪の表情を頭に思い浮かべた。

「ま、それはいいとして、何日頃に来るんだ?」

「あ、そうだね。お母さんとも相談するんだけど、再来週くらい、どうかな?」

「それくらいなら大丈夫だと思う。バイト先にも言って、休みもらえるようにしておくから」

「祐一、アルバイトもしてるんだ、頑張ってるんだね」

「そうだな……」

 心の空虚のことには、祐一は触れなかった。出掛ける前から浮かれている名雪に、こちらまで楽しくなってくる。

「こっちに来るのは名雪だけなのか?」

「あ、まだ分からないんだけど、香里も誘ったよ」

「そうか。北川はどうなんだ?」

「北川君も誘ったんだけど、先約があるからって言ってた。大学の友達と海外旅行に行くんだって」

「海外旅行か、うらやましいな」

「そうだね。でも、わたしは祐一に会いに行ける方が嬉しいかな」

「ああ、俺も楽しみにしてる。じゃあ、詳しいことが決まったらまた電話してくれ」

「うん。今日はおやすみ」

「おやすみ」

 受話器を置いた祐一は、心が僅かに揺れ動くのを感じた。名雪の住む街と、そこにいる人たちがいろいろなことを思い出させる。時間が確実に過ぎているという事実を祐一は感じていた。

「大したところに案内できなくて悪いな」

「そんなことないよ」

「風が気持ちいいわね」

 祐一が案内したのは、郊外にある公園だった。飛行機でやってきた名雪を空港で出迎えた祐一は、そのまま駅に向かって、別ルートでやってきた香里とも合流した。そのまま電車で移動し、フェリーで対岸まで渡ったこの場所が目的地だった。平均的な観光ルートを一巡りし、少しそのルートから離れたところにある海辺の公園までやってきた。夏の日差しはかなりきつく、香里などは終始、帽子をかぶったままだった。だが、そんな香里の言うように、潮の香を交えた海からの風が心地よく感じられる。

「あのお菓子も美味しかったね」

「だろう?」

「焼きたてとそうじゃないのだと、全然違うのね」

「俺も、最初はそう思った」

 割と名の知れている全国区のまんじゅうだったが、名雪はそう言って喜んでくれた。そういった類のものに懐疑的なものを持っていた祐一だったが、こっちに来て焼きたてのを食べると、その評価を一転させた。そして、名雪や香里に勧めると、同じような評価を下したようだ。

「休んだらもう少し歩いてみるか」

「そうだね」

 山あいの街に住んでいる名雪にとっては、海の景色というのが思いのほか新鮮に映るらしい。それを喜んでくれる二人を見て、祐一もほっとしたのだった。

 途中で知った顔にあったりしないかと、意味もない心配を抱きながらも、二人を案内するホスト役を演じることをそう悪くなく感じている祐一だった。

 結局、海岸に出て夕日を眺めた後に、市内まで電車で戻ってきた。「土地の名物を食べたい」という香里の意向に従って少し豪勢な夕食を済ませたあと、祐一は二人を連れて自分のアパートに戻ってきた。

「名雪から俺の部屋に転がり込むって聞いていたけど、香里もそれでいいのか」

「ええ、構わないわ。それとも、私は邪魔かしら」

「おいおい、誤解を招くようなことを言うなよ。もしホテルを取ってあったりするんだったらって思っただけだから」

「冗談よ」

 そんなやりとりをしている二人を、名雪は不思議そうな顔をしながら聞いていた。

「ま、いいか。それより、着いたぞ。ここの二階だ」

「ええ。おじゃまするわね」

「おじゃまします」

 鍵を開けて中に入る。品定めするかのように、名雪と香里が中を見渡した。昨日、念入りに掃除しておいてよかったと祐一は思う。

「割と綺麗に片づいてるわね」

「まあ、誰もやってくれる人がいないからな」

「祐一、頑張ってるんだね」

 水瀬家では割とぐうたらな生活をしていたから、名雪がそんな風に思ったのも不思議でないかもしれない。そんな名雪の言葉の中には、どこか遠くへ行ってしまいそうな祐一に対する、寂しさのような感情もあったようだ。

「部屋も二つあるから、広い方を女性部屋にしてくれ」

「了解。まずは荷物をおかせてもらうわね」

「あ、わたしも」

 腰を落ち着かせた後は、いろいろな話に花を咲かせた。それぞれの学校での話題、苦労話を興味津々といった感じで聞きあっている。ここにはいない北川の話題も出てきた。

「海外旅行は実は大学で出来た彼女と行くらしいわね」

「そんなことないよ、旅行サークルの合宿だって言ってたから」

「名雪、そんなこと信じてるの。方便に決まってるじゃない」

「そうかな……」

そんな女の子らしい勝手なうわさ話を展開させたりもしている。

 開放感も手伝ってか、途中で近くのコンビニにお菓子の買い出しに出掛けた二人が戻ってきた時、袋の中には何故かお酒まで含まれていた。

「未成年はお酒飲んじゃいけないんだよ」

「そんな固いこと言わないの、名雪。学校でも新歓コンパくらいあったでしょう?」

「うん、そうだけど……」

「香里の言うとおりだよ。久しぶりなんだからいいじゃないか」

「うん……」

 だが、名雪が酒を飲むことを躊躇した理由が残りの二人にはすぐに分かることになった。チューハイの缶が一つ空にならないうちに、名雪の上下の瞼はすぐに仲良くなったのだ。長旅の疲れも手伝っていたのかもしれない。

「困ったわね。夏場とはいえ、このまま放っておくと風邪引くわよ」

 香里が名雪の体を揺するが、ほとんど反応はない。

「仕方ない、今日はお開きにするか。悪いけど、名雪を頼む」

「そうね、わかったわ」

「俺はあっちの部屋で寝るから」

「ええ。おやすみなさい」

 毛布を二つ渡して、祐一は隣の部屋に移った。だが、中途半端な酒の回り方で、眠気が全く感じられない。やがて隣の部屋が静かになり、明かりも消えたようなので、祐一は物音を立てないように気を付けながら、寝転がりながら、睡眠薬代わりに読みかけだった本に取り組むことにした。

 二十ページほど読み進んだとき、ふすまが開く音がして、祐一はそちらに目を向けた。そこから顔を覗かせたのは香里だった。

「明かりが消えてなかったから。まだ起きてたのね」

「ああ。中途半端な酒で眠れなくなったみたいだから、本を読んでた」

「私も似たような感じ。割と、環境が変わると眠れなくなる方なのよ」

「じゃあ、引っ越した頃は大変だっただろう」

「ええ、そうね。さすがにもう慣れたけど。ちょっと、そっちに行ってもいいかしら」

「ああ、お互いこんな姿勢で話しているのも変だしな」

 祐一は本を手にして寝転がりながら、香里はふすまの間から顔だけ出しながらという、確かに妙な格好同士である。

「あ、これも持ってくわね」

 残っている酒を何本か手に持って、香里が祐一の部屋にやってきた。

「改めて、乾杯」

「乾杯っ」

 ぬるくなりかけた酒を一気に流し込むと、思いのほか気分が良かった。

 名雪を起こさないように、声を小さくしながら、祐一と香里は先ほどの続きのような感じで話し始めた。少し赤くなった香里の顔とウェーブのかかった長い髪がこれまでになく大人っぽい色香のようなものを感じさせる。

 そんな中、適度な酒が舌を滑らかにしたのであろうか、やがて香里の方からこんな言葉が出てきた。

「そういえばね、相沢くん。ちょっと気になっていることがあるんだけど」

「うん、なんだ?」

「気を悪くしないで聞いて欲しいんだけどね……」

 そう言いながら、手に持ったコップの中身を一気に飲み干した。

「あなた、まだ栞のこと、引きずってるでしょう?」

「……」

 コップを口に運ぼうとしていた祐一の手が止まった。この場合、これが香里の質問に対する明確な回答になっていた。

「姉として、栞のことをずっと思っていてくれる相沢くんは嬉しいけど、それはあまりよくないと思うわ」

「あ、ああ……」

「私だってあの子のことを決して忘れたわけじゃないけれど、相沢くんの場合はちょっと違うわよね。なんて言ったらいいか……、影のままで引きずっているというような」

「分かるのか?」

「ええ。今日一日一緒にいて、何となく雰囲気でね。何も言わないけど、たぶん名雪も気付いてると思うわ」

「折角遊びに来てもらったのに、そんな気を遣わせて申し訳ないことだな」

「ううん、今日はお世辞抜きで楽しかったわ。だけど、もし私の存在が栞を思い出させちゃったのなら、名雪に誘われて遊びに来たのはよくなかったかもしれないわね」

「そんなことはない。ここまで来たならはっきり言うけど、実際のところ、栞のことはやはり忘れられない」

「そうね……。でも、あなたは前に私にこう言ってくれたわ。『栞は、強いやつなんだと思う。香里も自分の強さで向き合ってやるべきじゃないのか』って。そうだとすると、相沢くん、あなたも強さを持つべきよ」

「そうだな……」

「栞は今みたいな相沢くんを望んではいないと思う。今すぐ笑えとは言わないけど、それだけは分かって欲しいわね。姉としても」

「俺も理性では分かっているさ。だけど……」

「それならいいのよ。後は月並みだけど、時間の問題ね。私だって、あの家にいたくないから今の大学を選んだという面もあるし。これは、おそらく相沢くんと同じ気持ちだと思うの」

「ああ」

「ちょっと説教じみた話になっちゃったわね。飲み直しましょう」

「いや、ありがとう、香里。なんかこう、すっかり大人になったな」

 たまたま少し乱れたスカートの裾に目が行った祐一が、そんな風に言った。

「何言ってるのよ」

 気が付いてさりげなく直す香里。二人が遊びに来てくれたことは、祐一にとってもよい気分転換になったことは事実であった。


 結局、状況はあまり変わらぬままに一年が過ぎていった。意味のない悲しみにとらわれ続けることはなくなったが、依然、祐一の中には栞の存在があった。

 今度は迎える立場から眺めていた入学式と、それに伴う賑やかさも一段落してきた。教科書を売る大学生協の仮設のプレハブもなくなり、学校らしい落ち着きがようやく戻ってきた。

 新しい学年になった祐一は、この日は、一年生と一緒に大きめの教室の中にいた。決して勉強の出来ない方ではなかったのだが、やはり苦手な科目というものはある。必修科目の数学で赤点を取ってしまった祐一は、再履修という形で、少し小さくなりながら、あまり目立たないように窓際の席に座っていた。

 始まりの時間が近づき、時々教室を間違える生徒がいる中、席が埋まり始めていた。チャイムが鳴る頃にはほぼ全ての席に学生が座っていた。前の年も同じ科目を受けている祐一は、後にこの出席率がかなり減ることを知っていたので、そんな光景を苦笑混じりに見つめていた。

 ふと隣の席に目を向けると、やはり新入生らしい女の子が座っていた。

 肩のやや下まで伸びているセミロングの髪と、可愛らしく整った顔立ち。春らしい淡いピンク色のセーターがよく似合っていた。まだ学校に慣れていないからか、自信なさそうな表情をしており、それが祐一には新鮮であると同時に少し痛くも感じられた。

 偶然に目があったので、軽い会釈を交わす。そして、既に使われている教科書を開こうとしたとき、今度は少し困ったような表情を向けている女の子の視線を感じた。

「どうかしたの?」

「あ、はい……」

「何か困ったことがあったら遠慮なく言っていいよ」

「はい……。実は、この科目の教科書、まだ買ってないんです。昨日行ったら売り切れって言われてしまって」

「そうなんだ」

 確か、前の年も同じようなことがあったのを思い出す。必修科目のくせに教科書が売り切れなんて一体ここの生協にはやる気があるのだろうかと、あの時の祐一は思ったものだった。

 一回目の授業であるし、最初の何回かの内容は教科書がなくても自分には分かる。そう思ったので、祐一は自分の教科書を彼女に差し出した。

「だったら、俺のを使っていいよ」

「えっ、でも……」

「あ、今日は初めての授業だからそんなに大変じゃないし。俺の方は大丈夫だから」

「本当にいいんですか?」

 かえって困ったような表情をする女の子。その時、ちょうど教授が入ってきたので、祐一は半ば強引に彼女に教科書を押しつける。

「ほら、先生も来たし」

「わかりました。ありがとうございます」

 ぺこりとお辞儀をする女の子。その仕草がとても可愛らしかった。

 授業の方は予想通り大したことはなかった。今年一年間の進め方、レポートや試験の回数や評価上の配分などの説明をした後、高校の数学とは違っている点、記号の書き方などの説明に終始し、具体的な講義の時間はほとんどなかった。

 九十分の授業時間は程なく終了し、少し時間を残して教授は教室を去っていった。この日の授業はこれで終わりという学生が多いのだろうか、荷物をまとめながら安堵の声を出しているのがあちこちから聞こえてくる。

 祐一も机のノートを鞄にしまおうとした。その時、遠慮がちな声が横からかかった。

「あの……、ありがとうございました」

 隣の女の子だった。指のすらりとした白い手が印象的だった。

「あ、そうだった……」

 笑いながら差し出された教科書を受け取った祐一。

「ひょっとして忘れていたんですか?」

「うん、ひょっとする」

「ふふっ」

 女の子が笑顔を見せた。それを見て、祐一は自分も何故か少しだけ嬉しくなった。

「えっとですね……、一つ聞いてもいいですか」

「うん」

「えっと……」

 言葉を詰まらせた女の子。ここに来て、祐一は自分が未だ名乗っていないことに気が付いた。

「あ、言い忘れてた。俺は相沢祐一。よろしく」

「はい、私は鹿島めぐみっていいます。こちらこそ宜しくお願いします」

 人が疎らになりかけた教室の片隅で頭を下げあっている二人がどことなくおかしかった。

「で、聞きたいことって?」

「相沢さんの教科書、いろいろと書き込みがしてあったんですけど、もう予習されてきてるんですよね。すごいなぁって」

 それを聞いて祐一が苦笑する。

「いや、それはちょっと誤解。そんな大層な奴じゃないんだ」

「えっ、どうしてですか?」

「寧ろ、その逆なんだ。今日初めて話した女の子に言うのはとても恥ずかしいんだけど、俺は実は二年生なんだ」

「先輩なんですか?」

「そう、この科目だけ単位落としちゃって、再履修する羽目になったというわけ。教科書も去年から使っているものだから、書き込みもしてあるということなんだ」

「すみません、そんな話をさせて」

「いや、単位落としたのは俺のせいだから気にしなくてもいいよ。今日はもう終わり?」

「はい。でも、これからクラスコンパっていうのがあるみたいなんです」

「そうなんだ。大学って高校みたいにはっきりしたクラスがあるわけじゃないから、こういった機会に親睦を深めるといいよ。休講の情報を教えてもらったりとか、レポートや試験の直前とかに役に立つから」

「ありがとうございます、先輩」

「先輩って言われるとちょっと恥ずかしいな」

「あっ、ごめんなさい、気付かなくて」

 悲しそうな顔をするめぐみ。そんな顔を見て祐一が慌ててフォローに入る。

「あ、そういう意味じゃなくって、なんかくすぐったいというか……。どっちにしても、鹿島さんが悪いんじゃないから。ともかく、コンパ、楽しんでおいでね」

「はい。あっ、そうだ、相沢さんも参加しちゃったらどうですか。まだみんな顔と名前も分からないから、大丈夫ですよ」

 知らない人ばかりの大学でようやく話せる人を見つけた安心感からか、めぐみがそんな提案をした。決して思いつきばかりではなかったのかもしれない。

「うーん……。でも、それはちょっとやばいよ」

「そうですか」

「ほら、自己紹介とかあるだろうし」

「あっ、そうでした」

 照れ笑いをするめぐみ。

「それに、今日はこれからバイトなんだ。折角の提案を断っちゃって悪いけど、今日はもう帰るね」

「わかりました。これからも宜しくお願いします」

「うん。数学の授業だけかもしれないけどね」

 そう言って祐一は教室を後にした。再履修の後ろめたさが、少しだけ癒されたような気分だった。

 それから何回か、この鹿島めぐみという女の子と教室で話す機会があった。再履修とはいえど、全く分からない授業でもなかったので、正直なところ前半は出る必要もなかったのだが、祐一は割と真面目に出席していた。さぼったところで、バイトの時間まで別の場所で時間をつぶさないとならないという現実的な事情もあったのだが。

 めぐみは祐一とは割と気軽に話せると思ったのだろうか、特に席の指定されていない中で祐一の近くに座ることが多かった。ようやく再入荷した教科書を買うことが出来たらしく、嬉しそうに祐一に見せてくれたのを思い出す。

 彼女を含め、一年生達も徐々に学校に慣れてきた頃のことだった。この数学の授業でも空席が目立つようになり、そんな様子を見ながら苦笑していると、教科書とノートを鞄にしまっためぐみが祐一に気が付いて声を掛けてきた。

「相沢さん」

「うん?」

「今日もアルバイトなんですか」

「そうだよ。でも、先方の都合で今日は一時間遅れなんだ。どこかに暇潰しに行こうと思って」

「あ、それならわたしとお茶でも飲みに行きませんか」

「いいの?」

「はいっ」

 祐一にとっても渡りに船だった。考えてみるとこっちに来てからそういうことは久しくなかったような気がする。

「じゃ、行こうか。お勧めの場所とかあるのかな?」

「えっとですね、お勧めじゃないんですけど、駅の向こうにちょっと気になる喫茶店があるんです」

「わかった、じゃあそこにしようか」

 祐一も鞄を持って立ち上がる。

 駅に続く並木道を、祐一はめぐみと並んで歩く。今までは気付かなかったが、めぐみは割と背が高くない方らしい。祐一の肩よりも少し上の位置がめぐみの背丈になっている。時間帯によってはそろそろ暑さも感じられる季節になったが、初めて会ったときのような淡い色の服を着ているめぐみの爽やかさがそんな暑さを忘れさせてくれる。

 めぐみに連れられてやってきたのは、存在だけは祐一も知っている喫茶店だった。去年、語学のクラスの同級生の女の子が「ケーキが美味しいよね」などと仲間同士で盛り上がっていたのを思い出す。

「あ、ここか」

「知ってるんですか」

「いや、俺は来たことないんだけど、ケーキが美味しいって話を聞いたことがある」

「やっぱりそうなんですか。わたしもこのケーキセットが気になっていたんです」

 入り口に立てかけてある黒板のようなものに、「本日のお勧めケーキ」と称して可愛らしい文字が書いてあった。どうやら今日はチーズケーキらしい。

「ま、早速だけど中に入ろうか」

「はいっ」

 ドアを開けると軽やかなベルの音が響いた。エプロンをした中年間近のマスターが顔を出し、祐一たちを奥の方の席に案内した。

「鹿島さんは……、ケーキセット?」

「はい、飲み物はミルクティでお願いします」

「俺は、ジャーマンブレンドにしようかな」

 おしぼりを持ってきたマスターに注文を伝える。

 改めて店内に目を向けると、割と落ち着いた雰囲気でよい感じである。雑多にならない程度に民芸品や小さな額に飾られた風景画などが飾られている。女の子ばかりの店かと思ったが、予想に反して休憩風のサラリーマンなどの姿も見受けられた。

「すてきなお店ですね」

「そうだね」

 程なくやってきたケーキと飲み物。嬉しそうにフォークをチーズケーキに向けるめぐみ。女の子は総じてケーキに目がないのだろうか。

「美味しい?」

「はい、とっても」

「ならよかった」

 祐一とめぐみの会話は、そんなとりとめのないところから始まった。一年多くこの街に住んでいる祐一が、近くのお勧めの店などを教えてあげた。安くて食べ応えのある定食屋とか、美味しいラーメン屋などは女の子のめぐみにとってはあまり縁のないものであるかもしれなかったが、何故か嬉しそうに話を聞いていた。

「相沢さんは東京の出身なんですか」

「うん。でも、両親が海外赴任中だから、ここ数年はほとんどあっちにいたことはないんだけどね」

「でも、高校は東京だったんですよね」

「二年の途中まではね。ちょうど二年生の冬休みの時に事情があっておふくろも親父のところにいっちゃって、俺は別の学校に編入ということになったんだ。これがまた別の街で」

 そう言いながら、祐一は雪の街を思い出した。名雪や秋子の姿、あちらで出来た大切な友人の姿が脳裏に浮かぶ。そして、栞のことも。

「そうなんですか」

「うん。こっちと違って雪国なんだ。冬なんか寒くてもう大変だったよ。毎日のように雪が降るし、気温がマイナスじゃないと『今日は暖かいね』なんて言われるし」

 雪が栞のことを連想させる。ほんの僅かに影の差した祐一の表情を、めぐみは見逃さずにいた。

「大変なんですね。でも、ちょっとうらやましいです」

「そうなの?」

「わたしは自宅生なんです。生まれたときからずっとこっちなので、いろいろな土地に住んだことのある人ってなんかかっこいいです」

「そっか」

「でも、気に入ってます。ここで生まれ育ってよかったなって」

「俺は逆にそういうのがうらやましいな」

「お互い、持ってないものにあこがれるんですね」

「そうみたいだね」

 そう言って微笑むめぐみの表情が可愛らしかった。最初のどこか頼りなさそうな印象はなくなり、ちょっとした彼女の仕草にもこういった可愛らしさが感じられるようになっていた。小さな縁から始まった関係が少しだけ成長したことが、祐一にとっては単純に嬉しかった。男として、こうして女の子に懐かれることが嬉しくないわけはない。「懐かれる」という表現が適切かどうかは定かでないにしても。

 どこか、栞に似たところがある……。心の奥の方でそう感じていたとしても、無意識のものだったであろう。祐一の心の中に栞の存在はあり続けていたが、それとは別に、今の時間は祐一にとって楽しいものであったことは疑いない。

 その後も、お互いの高校時代の話などで盛り上がった。話に夢中になっていて、めぐみの半分くらい残っていた紅茶はすっかり冷めてしまっていたが、そんなことは些細なことだった。

 自分はこんなに話好きだっただろうかと、祐一は自分でも驚いたものである。

「あっ、もうアイスになっちゃいましたね」

 笑いながら残りのミルクティーを飲んだめぐみが言う。

「そうだね。なんか店も混んできたし、そろそろ出ようか」

 入り口には何人か待っている人の姿も見受けられた。

「はい。すっかり話し込んじゃいました」

 時計の方に祐一が目を向けた。それに気付いためぐみが心配そうに言う。

「相沢さん、アルバイトだったんですよね。じ、時間、大丈夫ですか?」

「うん、まだ大丈夫。少し急がないといけないけど」

「ごめんなさい……」

「鹿島さんが気にすることないって、俺も楽しかったし」

 この子にこんな顔をさせてはいけない、祐一はそんな風に思った。

 伝票を持って立ち上がった祐一に、めぐみが声を掛ける。

「えっと、おいくらですか?」

「あ、今日は俺がおごるよ」

「でも……、わたしが誘ったんですから」

「ほら、一応先輩だし、気にしないで」

「はい……」

「ここは男の俺にいいかっこさせてやるとでも思って」

「わかりました。ごちそうさまでした」

 ぺこりを頭を下げるめぐみ。そこに笑顔が戻ったのに安心して、祐一は勘定を済ませて店を出た。

「じゃ、俺はバイトに行くから。鹿島さんも気を付けて帰ってね」

「はい、今日はありがとうございました。それと……」

「うん?」

「よかったら、わたしのことは名前で呼んでくれませんか? 昔からそう呼ばれることが多かったので、その方がしっくりくるんです」

「名前?『めぐみさん』って?」

「はい。でも、『さん』じゃなくて『ちゃん』の方が嬉しいです」

「わかった。『めぐみちゃん』だね」

「はいっ」

 花の咲いたような笑顔とはこのようなものを言うのだろう。名雪に香里、それに栞。そんな風に女の子を名前で呼ぶことにはそんなに抵抗のない祐一だったが、今回は何故か少し気恥ずかしく感じられた。

「じゃあ、また……来週かな」

「はい。アルバイト、頑張ってきてくださいね」

「ありがとう」

 一瞬、めぐみの顔に寂しさが浮かんだように見えたが、気のせいだと思うことにした。めぐみの言葉のおかげか、それなりに大変なアルバイトの時間は、今日は短く感じられたのだった。

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