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第5章 その先の世界へ

 祐一にとって、めぐみとの時間は学生生活の中での淡い安らぎの時間となった。再履修科目の教室での出会いという始まりに不思議な縁のようなものを感じていたが、今の祐一にとって、彼女の存在がどういったものであるかはまだ確定していなかったのも事実である。

 端から見ていると精力的に暮らしているようにも見える。授業にも比較的真面目に出て、優秀とまではいわないが中の上くらいの成績を保持していた。両親の仕送りの負担を減らすため、そして縁あって住むことになったこの街のことを知るためのアルバイトにも精を出す。

 そんな意味で充実した祐一の日常だったが、それは反面、多忙の中に身を置くことで栞のことを忘れようとするためのものでもあった。

 時々、夜に一人になったときに栞のことを思い出すことがある。記憶の中の栞はある意味で神格化されていた。

 雪の街でのデートの時間、その雪に負けないような白い肌、そして笑顔。最後に病室で残していった言葉。栞と一緒に過ごした時間は長くないものであっただけに、かえってそれら全てを記憶としてたどることが出来る。栞はもういないという事実は変えようがないだけに、一人暮らしの部屋では、祐一は自分の孤独を思い知らされることになる。

 同時に、祐一を支えている多くの存在もある。夏に遊びに来た香里の言葉。それから、今でもそれなりに電話で話している名雪との会話。相変わらず、家に祐一がいないことを寂しがってはいたが、名雪も楽しく自分の学生生活を送っているらしい。

 そして、この街で知り合っためぐみという女の子。

 祐一は、未だ手探りをしながら幸せを探している状態だった。幸せになっていいのかという疑問もあった。

「わたしのことを本当に好きでいてくれたのでしたら、祐一さんもこれからもっと幸せになってください」

 そんな栞の言葉を思い出す。あの時、栞は「自分は幸せだった」と言ってくれた。それはおそらく事実に違いないであろう。だが、残された祐一には、あの栞の言葉の意味が理解できずにいた。自分は栞と一緒にいたから幸せだったのだ。栞がいない事実と、幸せになるという事象とは共存できない、背反する事柄ではないかと思い続けている。この街にやってきたのも、栞を思い起こさせる雪から逃げてきたかったからだった。それこそ、自分を暖かく見守ってくれる名雪や秋子のいる家庭から離れてまで。それほど、栞への思いは強かったのだ。

「相沢くん、あなたも強さを持つべきよ」

 香里はそう言っていた。香里は姉としての強さを持っていた。それを引き出したのが仮に自分だったとしても、その自分は強さなど持っているのだろうか。

 そんな疑問を抱きながら、祐一は学生生活を送っていた。

 繰り返しになるが、そんな中で祐一にとって、めぐみとの時間は学生生活の中での淡い安らぎの時間となっていた。

 めぐみと同じ授業を受けるのはその科目の時だけであったが、キャンパスの中で時々姿を見かけ、一緒に学食に行ったり、前の時のように喫茶店におしゃべりに行くこともあった。

 夏休みを過ぎたあたりから、何故かそうして「偶然に」学校で出会うことが多くなったように思えた。そんな時間は祐一にとって楽しいものであったのは事実に違いないが、そんなに何度も偶然は重なるものだろうかと、ふと祐一はそんなことを考えたことがある。

 そんな、珍しいとまでいえないような出来事は、単独では十分に起こりうる。だが、それが重なるということは、確率論的な見地からはほとんど考えられず、偶然以外の何かの要因があると結論付けた方が理にかなっている。そんなことを統計学か何かの授業で教わったような気がする。現実の世界では役に立たないと思っていたそんな机上の理論にも実例があったのだと、祐一は妙な感心をしていた。

 めぐみに会うことが偶然ではないとすれば、そこには何かが働いているのであろうが、それが何であるかまでは祐一は考えていなかった。いや、考えないようにしていたといった方がよいだろう。

 それは、まだ祐一の中に栞の姿が残っていたからである。

 大学祭で盛り上がる秋も過ぎ、すっかり木の葉も落ちてしまった。特にサークルに入っているわけでもない祐一は、授業が休みになるこの時期に気分転換に旅行にでも行こうと思っていたのだが、結局、めぐみに引き込まれる形で大学祭を一緒に見て回ったのだった。

 焼きそばやクレープなどを出す模擬店のあたりをうろつき、ありがちな占いなどで一喜一憂しているめぐみに女の子らしさを感じていた。終始、めぐみは楽しそうにしていて、そんな彼女を見ている祐一もどことなく嬉しく感じたものである。

 名雪の方からはもう雪が積もり始めたという話が舞い込んできている。もうそんな時期になったのかと思いながら、早めに始まる語学の期末試験の準備をしなくてはならないな、などと考える。こうして、二度目の冬を迎えようとしていた。

 そんな十二月中旬頃のある日、祐一はめぐみと一緒に大学の近くの商店街を歩いていた。年末が近くなってシフトの変更が激しいことがあり、この日は授業のあとのアルバイトが休みになっていたのだった。

「それでしたら、またあのお店に行きませんか?」

 例の喫茶店が、めぐみには結構なお気に入りになっているらしい。

「ああ、いいよ。でも、その前にちょっと買い物に付き合ってくれないかな。欲しいCDがあるんだ」

「はい。相沢さんはどんな音楽を聴くんですか」

「そんなに大したものじゃないよ。今日買おう思っているのは、映画のサントラなんだけどね」

「わたしも映画見るの好きです。今度、一緒に見に行きませんか」

「そうだね。年明けくらいにはいろいろ新作も封切りになるだろうし、何か一緒に見ようか」

「はい、楽しみにしています」

 そんな会話をしながらすっかり葉の落ちた並木道を歩いていく。これも一つの冬の姿なのだと、祐一は感じる。

 結局、喫茶店でまた「本日のお勧めケーキ」を食べた後、散歩がてらに商店街をうろつくことになった。

 比較的暖かいこの街でも、そろそろコートやマフラーと仲良くなりたい季節である。祐一はセーターを着ているだけであったが、めぐみのほうは既にベージュのハーフコートを纏っている。襟元から見えるブラウスのリボンが可愛らしい。

「相沢さんは北国に住んでたこともあるんですよね。やっぱり、寒さには強いんですね」

「そうかなぁ」

「だって、わたしなんかもうコート無しじゃ外に出られないですよ。相沢さんはそんな格好でも平気そうですし」

「でも、今日はちょっとミスったかも。結構、いや、かなり寒いよね」

「そうですよね」

「それに、実は北国の人はあまり寒さに強くはないんだ。ほら、暖房とか充実しているし、冬は基本的に出不精になるしね」

「そうなんですか」

「ああ、引きこもりに近いかも。まあ、中にはそうでないやつも勿論いるけどね」

 雪の中でも平気でアイスを食べていた栞を思い出す。

「わたしはずっとここに住んでいるから、雪国ってちょっとあこがれちゃいます」

「俺も最初はそう思った。でも、三日……、いやその日のうちに考えが変わったよ」

「ふふっ」

 歩いているうちに、商店街の奥にあるちょっとした公園までたどり着いた。誰も座る人のないベンチが、冬の寂しさをいっそうのものにしている。

「少し休む?」

「はい、そうしましょう」

「ちょっとそこの自販機で飲み物でも買ってくるね。めぐみちゃんは何がいい?」

「えっとですね、お茶がいいです」

「了解」

「あ、もちろん、ホットですよ」

「わかってるって。めぐみちゃんは座ってていいよ」

「はい」

 駆け足で自動販売機のところまで行き、最近出た銘柄のお茶と、こちらは定番化している銘柄のホットコーヒーを買う。

 缶を手に包み込むようにしながら、祐一はめぐみの座っているベンチまで歩いていく。

「お待たせ」

「ありがとうございます。えっと、百二十円ですよね?」

 ポーチから財布を取り出そうとするめぐみを、祐一は手で制した。

「あ、気にしなくていいって」

「はい。じゃあ、ごちそうになります」

「うん」

 プルタブを起こす音が二つ。温かい飲み物を体に入れると、文字通り温もりが体に染み渡っていくような気がする。

 そんな中、めぐみが立ったままの祐一を見上げながらこんなことを言った。

「これって、なんだかデートみたいですね」

 めぐみが嬉しそうな表情をしていた。祐一の心が一瞬、揺り動かされる。

「えっ?」

 そんな不意の言葉に、祐一はそんな反応しか出来なかった。

「あっ、なんでもないです。ごめんなさい……」

 今度は恥ずかしそうに俯いてしまう。飲み物の効果とは違った温かさが祐一とめぐみの体の中を駆けていった。

 微妙な雰囲気が、言葉のない時間を作りだしていた。居心地のよさと悪さが同居している。ここまで来て、めぐみの気持ちに全く気付かないほど祐一は鈍感ではなかったが、まだこの時点では祐一は「強さ」を持ってはいなかったのだ。

 その時、座っているめぐみに目を向けた祐一は、その間を何かが舞っていくのに気が付いた。

 ひょっとして、と思いながら、祐一が空の方を仰ぎ見る。めぐみもそれに気が付いたのか、ほとんど同時に空を見上げた。

「あっ……」

 雪だった。

 暖かいこの街では、雪が降ることは滅多にない。実際、去年は祐一は雪らしい雪を見ないで過ごしていた。

「雪か……。今日はずいぶん冷えると思ったら」

「初雪、ですね。といっても、初雪だけで終わっちゃうこともありますけど」

 祐一の方に笑顔を向けためぐみが言った。

 雪のためもあってか、一瞬、祐一の中でその笑顔に栞の面影が重なった。これまでずっと意識しないようにしてきたが、ひょっとすると祐一の中ではめぐみを栞に重ねていたのかもしれない。どこか栞に似たところのあるめぐみを。

 ひらひらと舞う雪の結晶。この様子だとにわか雪のようなもので本格的な降りになるとは思えなかったが、不意をつかれたようなこの雪は、祐一に栞を思い出させるのに十分なものだった。栞の強さと笑顔。

 祐一の表情が変わる。それは、めぐみの前では見せてはいけないものだった。

「相沢さん……」

 そう声をかけられて、祐一は我に返った。すぐ目の前にいる女の子に視線を戻すと、そこには祐一がこれまでに見たことのない表情があった。

 めぐみは泣いていたのだ。


 祐一はうろたえた。

 何故めぐみが泣いているのかが分からなかったからである。いや、正確にはめぐみが泣くまでに抱え込んでいた気持ちを分かるところまで来ていなかったというべきだろうか。

 目の前の女の子の涙に慌てふためく祐一は、必死に自分の心を落ち着かせようとした。原因は間違いなく自分にある。そしてそれの正体もおそらくは知っていた。

 だが、そうであっても祐一は確かめざるを得なかった。これまで持てなかった強さを持つ覚悟で、祐一は涙を流しているめぐみに声を掛けた。

「めぐみちゃん、どうしたの。どうして泣いているの?」

「……」

 めぐみは答えなかった。嗚咽の声は洩らさず、音無く静かに泣いているめぐみが、祐一の心を痛めつけた。

「……」

 しばらくの後、めぐみはようやく小さな口を開いた。そして、消え入りそうな声でこう言った。

「分かりませんか、相沢さん」

 それに対する言葉を用意していたにもかかわらず、祐一は答えることが出来なかった。

 この時、祐一はどんな表情をしていたのだろう。めぐみはそんな祐一の方に顔を上げた。頬を涙が流れていたが、そこには何故か笑顔が浮かんでいた。前にも見たことのあるような、痛い笑顔だった。

「わたし、ずっと思っていたんです。わたし……」

 若干の躊躇のあと、めぐみはその笑顔の意味を変えて言葉を続けた。

「わたし、相沢さんのことが好きなんです」

 どこかで祐一も期待していたこと、だが、それに向かい合うことができずに過ごしてきたこと。その結果が直接的な形で祐一の前に突きつけられた。もはや祐一にとってもめぐみは単なる後輩の女の子という存在ではなくなっていた。しかし、それを認めることは自分の大切だった人を失うことになるのではないか。そんな思いが、祐一を様々な意味で現実からの逃避をさせていたのだった。

「めぐみちゃん……」

 祐一だけのことであるならばそれでも構わなかったのであろうが、人が人を好きになるということの中には、当然に相手の存在がある。祐一の弱さが、めぐみを苦しめていたのっだ。

「わたし、こういう駆け引きみたいのって得意じゃないですけど、わたしの気持ちに気付かなかったなんてことはないですよね?」

 幾分、笑顔の中から悲しみが薄れたような気がする。ほっとすると同時に、祐一はその気持ちをしっかりと受け止めなくてはならないということを悟った。

「そう……だと思う」

「よかった……。相沢さん、私の隣に座ってもらえますか?」

 ベンチの右側に寄りながら、めぐみが場所を空けた。その言葉に従い、祐一がその隣に腰を下ろす。さっと揺れためぐみの髪から、どこか心地よい芳香が伝わってくる。そして、降り始めた雪が幻想的に舞っている。

「この気持ちを持て余してしまって、ずっと悩んでいたんです。誰にも相談できないから、ずっと一人きりで」

「ごめん……」

 めぐみは静かに首を横に振った。

「そうじゃないんです。わたし、何度も相沢さんに気持ちを伝えようと思いました。でも、出来ませんでした。どうしてだと思いますか」

「……」

「相沢さんはわたしといるときも時々、わたしのことを見ていませんでした」

「いや、そんなことは……」

 ない、と祐一は言おうとした。めぐみと一緒にいるときの時間は楽しかったのは間違いなく事実である。だが、めぐみは祐一の言葉を遮った。

「正しい言い方じゃなかったかもしれませんね。わたしと一緒にいるとき、他の存在を見ている相沢さんに気付いてしまったんです」

 祐一がはっとする。おそらく、栞のことに違いないだろう。女の子というものはそういったものを敏感に察するのだろうか。答えが分かりながらも、祐一はそれに驚いた。

「それがどんな人であるのかはわたしに分かりません。でも、その人が相沢さんの中にいる限り、わたしが気持ちを伝えても叶うはずはないって思うから……」

 めぐみが祐一を隣に座らせたのは、自分の顔を見られたくなかったからなのだろう。祐一の存在を感じながら、その顔は見ずに話の出来る状態。そういうところだったからこそ、めぐみは心の中にうずくまっていた気持ちを話すことが出来たのだ。

 めぐみの、膝の上におかれた白い華奢な手に祐一は手を伸ばした。この街にしては厳しい寒さの中で、この女の子の体温が伝わってくる。その温もりが祐一にも勇気を与えた。

「めぐみちゃんの言っていることは、事実だと思う。もし嫌になったら途中で止めてもらってもいいから、俺の話を聞いてくれるかな?」

 めぐみは、静かに頷いた。

 祐一は、雪の舞う灰色の空を見ながら、あえて淡々と語り始めた。今が、一つの区切りの時であることを実感しながら。

「高校の時に俺が住んでいた街の話はしたことがあるよね」

「はい、あの雪国のことですよね」

「話はそこでのことなんだ。東京からあっちに引っ越してすぐに、俺は一人の女の子に出会った。一つ年下の子だったから、そうか、めぐみちゃんと同じ歳なんだな」

「はい……」

「いろいろあったんだけど、俺はその女の子……、名前は栞って言うんだけど、を好きになった」

「……」

「でも、最初は俺の気持ちは拒絶されてしまったんだ」

「そう……、なんですか」

「栞は、重い病気にかかって、余命はほとんどなかった。だから、『わたしは人を好きになってはいけないんです』ってそう言った。でも、俺の気持ちはそれでも変わらなかった」

「でも、その栞さんは相沢さんの気持ちを受け入れてくれたんですね」

「ああ。俺は例え僅かな時間であっても、栞と一緒に過ごす決心をした。栞は悲しく笑いながら『奇跡でも起きれば治りますけど』って言ってたな。だけど、奇跡は起こらずに結局、それからひと月ちょっとで、栞は……」

「……」

 しばらく、祐一もめぐみも無言だった。

 めぐみに話さない方がよかったかと思い始めたとき、そのめぐみがやはり祐一には顔を向けないままにこう言ってくれた。

「栞さん、相沢さんにとって本当に大事な人だったんですね」

「ああ。めぐみちゃんにだから言うけど、正直、今でも引きずっているのは間違いないと思う。それをめぐみちゃんに気付かれたんだろうな」

「はい……」

「あの街でも東京でもなく、何も知らなかった街に来たのは、そういったものを全て忘れようとしたからだとも思うんだ。だけど、忘れられなくて……」

「相沢さん……」

「忘れちゃいけないって思っているんじゃないのかな。特に、今日みたいに雪が降ったりすると、どうしても栞のことが思い出されて……」

 それが結果的にめぐみを拒絶していることになっていたのだという事実を、ようやく祐一は認識することが出来た。ただ、それが自分に思いを寄せてくれていためぐみをずっと苦しめていたことに、祐一は強い罪悪感を感じた。

 だが、そんな祐一に対してめぐみが言った言葉はこうだった。

「栞さんのこと、忘れなくてもいいと思います」

「えっ?」

「でも……、ですね、わたし、こう思うんです。心の中にいられるのは必ずしも一人だけとは限らないんじゃないかって」

「それって、どういう意味?」

「わたしが、栞さんの代わりになれるなんて、そんな立派なことは考えていません。でも、今の相沢さんは、栞さんと過ごした時間を通ってきた相沢さんですよね」

「そうだな」

「そして、わたしが好きになったのは、他ならぬその相沢さんです」

 めぐみが立ち上がった。祐一の正面から、しっかりと祐一を見ながら、はっきりとめぐみはそう言った。

「もし、相沢さんが栞さんの面影をわたしに見ていたのだったとしても、それはいいんです」

「でも……」

 その指摘のように、めぐみのどこかに栞の面影を感じていたのは事実だろう。

「でも、これからはそれじゃ嫌だと思います」

 そう言って、めぐみはにっこりと笑った。

 そんなめぐみに、祐一はこんなことを言った。

「栞が死ぬ前に、俺にこんなことを言った。『わたしのことを本当に好きでいてくれたのでしたら、祐一さんもこれからもっと幸せになってください』って」

「はい……。相沢さんはそれを無理だと思っているんですよね、きっと」

「ああ、栞の言葉の意味が、俺にはずっと分からなかった。栞がいないのに幸せになることは考えられなかったからだ」

「でも、栞さんの立場だったとして、それってつらくありませんか?」

「……」

 既に何も与えることの出来ない自分を想って、好きな人が永久に苦しみ続ける。そんなことに耐えられるだろうか。そうか、そういう意味だったのか。

「わかりますか?」

「ああ……。だから栞はあんなことを言ったのか……」

「わたしにも、栞さんの言葉の意味が分かるような気がします」

「えっ?」

「我田引水っていうんですか、そんな気もしますけど、栞さんのおかげで相沢さんと出会うことの出来たわたしのことを、相沢さんが好きになってくれたら、それは栞さんの求めていた幸せっていえるんじゃないでしょうか」

 めぐみは、そういった心の使い方が出来る女の子だったのか。祐一はそう思いながらめぐみのことを見つめた。いつまでも過去に捕らわれている情けない自分に対して、ここまで心の美しい女の子がいて、自分を好きになってくれるとは……。

「めぐみちゃん……」

 この子を抱きしめたかった。同時にこの子に謝りたいとも思った。だが、祐一はそのどちらも出来ずに、目の前の女の子を見つめ続けるだけだった。

 お前の望んで俺の幸せを、この子なら与えてくれるような気がする。そう思ってくれるよな、栞も……。

 そんな祐一に、めぐみは言った。

「栞さんが求めていた相沢さんの笑顔を、わたしが手に入れてはだめですか?」

 祐一は、これほど綺麗な笑顔を見たことがなかった。雪の中で手に入れて雪の中で失った笑顔を、再び雪の中で手に入れることが出来たのだった。

 祐一は静かに立ち上がり、めぐみの体をしっかりと抱きしめた。

 突然のことだったので驚かれたり、拒否されたりするのではないかと危惧していたが、寧ろめぐみの方から祐一の体にしっかりと抱きついてきた。

 コート越しにでも、めぐみの華奢な体とその中にある温かい気持ちが感触として伝わってきた。

 目を閉じながら、めぐみも祐一の存在を感じていた。


 再び、めぐみが涙を見せていた。だが、言うまでもなくそれは前に見せたものとは違ったものだった。

「相沢さん……」

 愛おしそうに、めぐみが祐一を呼んだ。

「ああ……」

「もう一度、言います。わたし、相沢さんのことが好きです」

 祐一はゆっくりと頷いて、その気持ちを受け入れた。祐一に浮かんだ笑顔が、めぐみのそれをいっそう輝かせる。

「それと……、信じてもらえるかわからないけど」

「えっ?」

「俺も、めぐみちゃんのことが好きなんだと思う……」

「はいっ」

 めぐみが祐一に抱きかかってきた。祐一は包み込むようにしっかりと受け止める。

「それから、お願いなんだけど……」

「なんでしょうか?」

「ずっと前にめぐみちゃんは言ってくれたけど、俺のことも、名前で呼んで欲しいな」

「わかりました」

「俺の名前、覚えてる?」

 そんな言い方をする祐一。軽くこぶしを握っためぐみが、そんな祐一の背中を軽く叩いた。

「覚えてないはず、ないです。祐一さんの名前、忘れたことなんかないですよ」

「そうか、光栄だな」

「だって……」

 祐一はもう一度しっかりとめぐみを抱きしめたので、めぐみは言葉を途中で止めた。そんな言葉よりももっと暖かい方法で祐一を感じ取りたいと思ったからだった。

 やがて体を離しためぐみを、祐一は見つめた。その瞳の奥に、自分の姿と、自分を見守っている多くの人たちの笑顔が浮かんでいた。

 幸せは一人で掴むものではない。

 一人が幸せになれば、同時に誰かを幸せに出来るものなのかもしれない。

 目の前の笑顔を見ながら、祐一はそんなことを考えた。

 おそらく、これが正しかったのだろう。どこかにいる栞は、やはり笑顔で今の俺たちを見守ってくれているに違いない。

 自分勝手な考え方だと祐一は苦笑したが、どこか心地よい場所にいるのを感じていた。

「どうしたんですか、祐一さん」

 それに気付いためぐみが、祐一の顔を覗き込んだ。

「いや、なんでもない……」

「そんなことないはずです。当ててみせますね。えっと……」

 首を傾げるめぐみ。そして、不意に祐一の手を取ると、その甲を軽くつねった。

「栞さんのことを考えてましたね」

「いや……。そうだけど、そうでもない」

 曖昧に答える祐一。そんな祐一に見せる笑顔は、こう言葉を続けた。

「ライバル宣言です。わたし、栞さんに負けませんからねっ」

「そうだな……」

 めぐみに取られたままの手を、今度は祐一が不意に引っ張った。

 バランスを崩して祐一の方に倒れかかってくるめぐみの体を、しっかりと祐一が抱き留める。

 目の前に、めぐみの顔があった。

 揺れた心を抑えきれず、祐一はめぐみに言った。

「キス、してもいい?」

 不意をつかれ、放心したように祐一を見つめ返しためぐみは、祐一の期待に反してこう答えた。

「えっと……、今はだめです」

「今は?」

「はいっ」

 あからさまに残念そうにする祐一。柔らかな髪をそっと撫でられているめぐみは、こんな風に今の自分の気持ちを伝えた。

「なんだか、今は夢の中にいるみたいなんです。だから、今キスしてもらっちゃうと、それが夢の中の出来事になってしまうみたいで恐いんです」

 はっきりとした、思い出に残るものにしたい。めぐみはそう言いたかったらしかった。

 めぐみが軽くぴょんと跳ねて、祐一の正面に立った。

「ですから……」

 ひらひらと舞う雪が、めぐみの可愛らしさ、そして美しさを引き立てていた。

 めぐみが言った。

「キスは明日、してくれませんか?」

 その向こうにある雪雲が、青空よりも明るいように感じられた。

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