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第3章 最期のとき

 一月が終わろうとしていた。

 それは、同時に栞とのかけがえのない時間の終焉も意味していた。

 一月末日の晩、ひっそりとした公園で、祐一は栞の顔を見つめていた。

 そこにあるのは相変わらずの笑顔であり、その中にあるこの小さな女の子の強さを見て取るに及んで、祐一も辛うじて自分の強さによって支えられているのだった。

「もうすぐだな」

 淡く光っている時計の方を見ながら、祐一が言った。

「そうですね」

 少なくとも、誕生日を迎えることが出来るのを栞は喜んでいるのだろうか。そして、自分も喜ぶことが出来るのだろうか。祐一は自問自答した。

「お誕生日を家族以外の人に祝ってもらうのは初めてです」

「そうなのか」

「はい」

「だとしたら、光栄だと思っていいのかな」

「はい。それも、大好きな人と二人で迎えることが出来るんですから、とっても嬉しいです」

「それまで生きられることが出来て」

とは栞は言わなかった。

 ひたすらに強い笑顔を見ている間に、日付は変わった。

 時計の針が重なったとき、栞はそっと目を閉じた。

 何を意味しているのかを知っている祐一は、小さく口を開き一言だけ栞に伝え。

「誕生日、おめでとう。栞」

 その後、祐一の唇は別の方法で栞に自分の気持ちを伝える役を果たした。

 微かに粉雪の舞う深夜の公園で、電灯のおぼろげな影が重なっていた。

 予め言っていたとおり、この日から栞は学校に来なくなった。

 無事に誕生日を迎えることが出来たら、その日から治療に専念するという栞の決意だった。奇跡を信じて待ち続けることしか出来なかったが、信じ続けることがその可能性を増す手段になるのではないかと、祐一は自分に思い込ませることにしていた。そうでも思わないと、無力感に押しつぶされそうになるのだ。

 表向き、普段の生活は変わっていなかった。朝、遅刻ぎりぎりで名雪と一緒に学校に来るというのも、昼休みにいつものメンバーで連れ立って食堂に向かうのも。香里も普段と変わらぬ振る舞いを続けているということが、この場合は祐一にとってはある種の慰みでもあった。名雪も、今の祐一の状態を知っているのだろうか、あえて何も変わらずに接してくれていた。

 そんな人たちに感謝しながら、祐一は無力感と戦い続けながら栞のいない日常を過ごしていた。

 そんなあやうい土台の上にあった数日間が過ぎていった。

 二月のカレンダーが二段目に入った。栞の状態については何も祐一には知らされていなかった。それが病状の悪化を意味するのか、快方を意味するのか、それすらも分からないまま、時間だけが過ぎてゆく。

 何度、病院を訪れて栞を見舞おうと思ったのか分からない。しかし、それはしない方がよいと心のどこかで感じ、思いとどまっていた。栞が今、細い糸の上のような命の道を歩いているということが分かっている。その糸は、回りの誰かが少し動くだけで揺れて切れてしまう可能性がある。そんな比喩に表されるだろうか。

 ともあれ、祐一は栞のことをひとときも忘れたことはなかった。その思いが、栞を支え続けていたともいえる。

 だが、やがて、その時は確実にやってくる……。

 そんなある日のことだった。

 ちょうど、石橋という自分たちのクラスの担任が受け持っている授業だった。

 授業中に教室のドアがノックされた。板書を続けていた石橋が、顔を覗かせている見慣れぬ別の教師と何か話している。

「わかりました。すぐに行かせます」

 後ろの方の席にいる祐一には、最後のその言葉だけが聞き取れた。

 よくない予感が駆けめぐった。

「美坂さん、ちょっといいか」

 その場所から、石橋が言った。

「はい」

 香里が席を立って歩いていく。

 他の生徒が見守る中、香里はその事実を聞かされたようだ。

「わかりました」

 そう言って、香里が席に戻ってきた。そしてすぐに教科書やノートを閉じて鞄に詰める。それが何を意味するのか、祐一にはもはやはっきりと分かっていた。だが、今の祐一にはそれに対して何もすることは出来ない。

 この時が来るのを香里は予測していたのだろうか、取り乱すこともなく淡々と帰り支度をしていた。それを僅かに冷たく感じながら、祐一はいくつかの感情を内包してそっと香里の方に目を向けた。

 香里も、祐一の方を見ていた。そして、そのもう一つ隣の席にいる名雪の方にも目を向ける。どうやら船をこいでいる様子だったが、この場合はそれは幸いだったといえるかもしれない。香里が苦笑する。

 祐一に目を戻した香里は、去り際にこう言い残した。

「相沢くん、今日の午後は、気分でも悪くして早退するといいわ」

 祐一の反応を待たず、香里は教室を出ていった。祐一の机に手をついた香里が、何か紙片を残していった。

 何事もなかったかのように、授業が再開された。

 もはや祐一にはそれを受け入れることは出来なくなっていた。机の上の、香里の残した紙片に目を向ける。

 そこには、市内にある病院の名前と「四一三」という数字が書かれていた。あの城跡の展望台から見た病院と同じ名前だった。

「そうだな……」

 誰にも聞こえぬように、祐一は消え入りそうな声でそう独語した。


 急に気分が悪くなったと説明し、祐一は学校を早退してきた。名雪が本気にとって心配そうにしていたが、あえて何も説明せずに祐一は学校を出た。

 行く場所は決まっている。

 病院の建物に入ると、祐一はナースセンターに立ち寄り、訪問者名簿に名前を書き込んで、メモにあった四一三番の病室を目指す。

 一歩が数分にも感じられる時間が過ぎ、その病室の前に到着した。

 無機質なプラスチックのプレートに、確かに「美坂栞」と書かれた札が差し込まれていた。ドアをノックすると、中から「どうぞ」という声が聞こえてきた。緊張、祈り、その他様々な感情を渦巻かせながら、祐一は病室の中に足を踏み入れた。

 白い壁とカーテンが、清潔さというよりはむしろ寒々しさを感じさせていた。枕元の小棚に飾られた花が、この場合には儚げに見えた。

 その隣に、栞がいた。パジャマ姿の栞を祐一は初めて見た。見たところ落ち着いており、重病人であるという様子は見えない。だが、そこにいる栞は栞であって栞でなかった。

 傍らの椅子に、制服姿の香里が座っていた。祐一は何も言わずにその傍らに立つ。

「両親は、まだ来られないみたいなの。こんな時というのにね」

 香里がそんな言い方で祐一に説明した。

「だけど、その方が都合がいいみたいね、今の場合に限っては」

「……」

「思ってたよりも遅かったわね」

 香里が部屋の時計を見ながら言った。

「いや、これが限界だろう」

「ま、そうね」

 目を閉じていた栞が、祐一の方に顔を向けた。自然、祐一の視線はそちらの方に向く。

「祐一さん……」

「悪いな、約束を破っちまって。ここには来ない約束だったもんな」

 栞は静かに首を横に振った。

「これって、お姉ちゃんの差し金なの?」

 そこに微かに笑顔が浮かんでいる。「栞の笑顔が痛い」と言った香里の気持ちが、祐一にも分かったような気がした。

「差し金とは人聞きが悪いわね」

 そう言って、香里も笑った。

 この姉妹は、最後に分かり合えることが出来たのだと、この僅かな会話から祐一は悟った。

「祐一さん。わたしも、最後に会いたかったです。そして、伝えたいことがいっぱい」

「ああ。でも、無理はするなよ」

「はい……」

 小さく何回か咳をしたあと、栞は話し始めた。

「祐一さんと最初に会ったのは、並木道でしたよね。祐一さんがわたしにぶつかって、その勢いで木にぶつけられちゃって」

「あれは悪かった。いろいろ事情があるんだけど」

「ううん、いいんです。むしろわたしはあの出会いに感謝したいんです」

「そうなのか?」

「あの日は、久しぶりの外出でした。それまではわたし、ずっと病室に籠もりきりで、窓からしか外の景色を見ていなかったんです」

 城跡の展望台で、栞が「この場所に来たかった」と言っていたのを思い出した。健常な人間にとっては何でもないことが、この女の子にとってどれだけの意味を持つのか、祐一は考えた。

「買い物って言ってたよな。ずいぶんとたくさん買い込んでいたみたいだったけど」

「祐一さん、あのとき、私が何を買っていたか覚えていますか?」

 紙袋からずいぶんといろいろな物が転がり出てきたことははっきり覚えているが、具体的に何があったかはもう記憶にはなかった。

「いや、残念だけど……」

「わたしはよく覚えています。祐一さんに初めて会った時のことですから」

「ごめんな……」

「いいえ、祐一さんは悪くないです。で、その買い物なんですけど、その中に、カッターナイフがあったんです」

「カッターナイフ?」

「あの日の晩、わたしは手首を切ろうとしていたんです」

「なんだって?」

 淡々と告白する栞に、祐一は驚いた目を向けた。隣にいる香里も、彼女らしからず同じ表情をしている。

「ひとりぼっちで、何も出来ずにこんなところで寝ているだけで、わたしなんて生きている意味はないって思ったんです。大好きだったお姉ちゃんにも嫌われて……」

「栞、あなた……」

 香里が苦しそうにして妹の顔を見つめている。だが、栞は僅かにしろ、表情をほころばせすらして姉を見つめ返した。

「でも、結局出来ませんでした。昼間に祐一さんに会ったときのことを思い出したら、もっと悲しくなっちゃったんです。あの人は見ず知らずのわたしにあんなに優しい笑顔を投げかけてくれたのに、わたしは一体何をしようとしてるんだろうって思って……」

「……」

「馬鹿な話だって思わないでくださいね。でも、その時から祐一さんの姿が頭の中から離れなくなったんです」

「結果的に、俺が思いとどまらせたってことになるのか」

 栞は軽く頷いた。

「祐一さんの服装を思い出しました。しばらく考えたあと、一度だけ自分も見た、学校の男子生徒の制服だと分かったんです。それで、次の日、病院を抜け出して学校に行ったんです」

「そっか……」

「祐一さんに会えて、わたしの気持ちは間違っていないことに気付きました。祐一さんは、わたしにいろいろなものをくれたんです」

「そんな大げさなものでもないだろう」

「わたしは男の人を好きになったことなんかなかったから、自分の気持ちがどういうものなのか、よく分かっていませんでした。でも、今は違います」

「ああ、それは俺も同じだ」

「はい、嬉しいです」

 この時の笑顔は、本当の栞のものであっただろう。

「あの時、馬鹿なことをしなくてよかったと思いました。祐一さんと一緒に過ごす時間は楽しかったですし、お姉ちゃんと仲直りもさせてもらいました。あれって、祐一さんの差し金だったんですよね」

「そうね」

 香里が横から口を挟んだ。

「差し金、はあんまりだろう」

 祐一が笑いながら言う。

「お姉ちゃんと同じこと言ってます」

「そうだな」

 三人に笑顔が浮かんだ。

「生まれて初めて、生きていてよかったと思いました。わたしの病気、もうだめなんだと思いますけど、あの時に死なないで今まで来てよかったです。ほんの何週間かの違いですけど、わたしには一生分の価値があります」

「栞、そんなこと言うな」

 祐一は思わず声を大きくした。何かに縋るかのように祐一は隣の香里の方に目を向けたが、半ば俯きながら床に目を向けているだけだった。香里が早退してまでこの病院に駆けつけた事実を改めて思い出す。目の前の栞が、ある意味で今までとほとんど変わっていないということが、この場合は祐一にはつらかった。

「いいえ、自分の体のことは自分が一番分かっています。本当は祐一さんとお話しすることだって出来ないくらいですから」

「苦しいのか?」

「大丈夫です。それより、このまま祐一さんとお話しできないままの方がつらいです」

「……」

「わたし、幸せでした。祐一さんに幸せをいっぱいもらいました」

「俺もだぞ、栞」

 そう言おうとした祐一よりも先に、栞が言葉を重ねた。

「だから、祐一さんにはお願いがあるんです」

「なんだ?」

「わたしのことを本当に好きでいてくれたのでしたら、祐一さんもこれからもっと幸せになってください」

「ああ、栞が治って俺のそばにいてくれたらな」

 自分が無茶を言っているのは分かっていた。だが、祐一はそう言わずにはいられなかった。願えば、奇跡は起きるのではないのか。

「そんなこと言う人、嫌いです」

 栞が、悲しそうな顔で笑いながら言った。栞はどこまでも笑顔の印象的な、笑顔の似合う女の子だった。それは今のこの時でも変わるものではない。

「祐一さんは、わたしと残された時間を過ごすのを後悔しないって言ってくれました」

「ああ、言った」

「でしたら、これからも後悔しないでください」

「……」

「ずっと悲しんでいる祐一さんを、わたしが望んでいると思いますか?」

「そんな言い方、卑怯だぞ」

「でも、本当の気持ちです。最後にたくさんの幸せをくれた祐一さんに、こころから幸せになって欲しいって思います」

「……」

「わたしにはそのお手伝いが出来ずに、ただお願いするだけなのが心残りですけど」

「栞……」

「一緒に食べたアイスクリームや、並んで座った公園のベンチ、展望台からの景色、みんな覚えてます。ドラマのヒロインみたいに、優しくキスしてもらったことも」

 香里が、優しい顔で栞のことを見つめていた。妹の幸せを喜ぶ気持ちを、こんな状況の中でも持ち続けることが出来る。そんな香里の強さを、祐一はかいま見ることが出来たように思った。

 栞も、最後まで笑顔でいるつもりらしかった。祐一は泣きわめきたい気分に支配されていたが、どうしてこの場所でそんなことが出来ようか。最後の強さが、祐一を支えていた。

「栞は、幸せだったのか?」

 その幸せを、本当に自分は好きな女の子に与えることが出来たのだろうか。

 その答えは明確だった。

「はい。ですから祐一さん、約束してくれませんか。祐一さんも幸せになるって」

 祐一は、ただ頷くことしか出来なかった。

 栞が何度かせき込んだ。体をさすってやろうと手を伸ばす祐一を手で制した。

 やがて落ち着いた栞は、祐一を見つめながらこう言った。

「キス、してくれませんか?」

「香里が見てるけど、いいのか?」

「はい……」

 決まり悪そうに、祐一は隣の香里の方を見た。「いいのよ」と香里の目が言っている。

 ゆっくりと起きあがった栞を祐一は抱きしめ、唇を重ねた。

 これが、祐一の感じた最後の栞の温もりとなった。

 栞は笑顔だった。その笑顔は果たして何を意味しているのだろうか。

「祐一さん、お姉ちゃん。わたし、眠くなってきたみたい」

「そうね。少し休むといいわ」

 淡々と香里は言った。

「俺は、そろそろ帰った方がいいだろうな。香里も大事な妹と話すこともあるだろう」

「そうね。悪いわね、気を遣わせて」

「いや、俺は寧ろ礼を言うべきだろう。香里、どうもありがとう」

「それじゃあな、栞。ゆっくり休めよ」

「はい」

 そう答えると、栞は目を閉じた。

 その日の晩、ベッドの中で祐一は事実を再認識した。

 同時に、これまで流すことの出来なかった涙が堰を失って溢れてきた。

 祐一が布団の中で嗚咽しているちょうどその頃、栞は静かに息を引き取った。

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