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第2章 栞の時間

 栞の姿はすぐに見つかった。

 嬉しそうな顔で手を振る栞に向かって、少しだけ気恥ずかしい思いをしながら祐一は軽く駆けていった。

「今日も早く来てたのか?」

「それほどでもないですよ」

「とかいって、十五分とか二十分とかいうんじゃないだろうな」

「はい。えっと……、三十分くらいです」

「おいおい。授業の終わる時間なんて決まってるんだから、そんなに早く来る必要もないのに」

「でも、祐一さんに会いたくて、早く来てしまうんですよ。だめですか?」

「だめとは言わんが……」

 屈託のない表情で覗き込まれると、祐一はそれ以上何も言うことが出来なかった。栞の体を心配しているのは事実だが、一方でそんなに早くから自分を待っていてくれることが、男として単純に嬉しくもあった。

 だが、やはり、栞の体のことはといえば……。

 昼休みのことが思い出された。あの女の子が言うには、栞は入学式の日に学校に来ただけであとはずっと休み続けているという。それだけの重い病気を抱えているのだろう。だが、今、目の前にいる栞からはそんな様子は微塵も感じられないし、無理してそれを隠しているようにも見えない。

 時期が来るまではこのことには触れない方がいいと祐一は判断した。

「どうしたんですか?」

 黙り込んだ祐一を心配して、僅かに不安そうに栞が小さく声を掛けた。

「いや、なんでもない。ちょっと考え事を」

「だめですよ、せっかくのデートの時間なんですから」

「デートなのか?」

「はい、そうです」

 きっぱりと言い切る栞が可愛らしかった。昨日のことがあるにも関わらず、栞はこれまでと同じようにふるまっている。違和感があるということは否めなかったが、まずはこの時間は祐一にとっても喜ばしいものであった。

「じゃあ、また適当に歩くか」

「はい」

「体調は大丈夫か?」

「はい、今日はいつもより調子がいいです」

「でも、油断はするなよ。本当は家で寝ていなきゃならないんだろ?」

「そうですね、わかりました」

 結局、いつものように近くの店でバニラアイスを買った栞は、こうして嬉しそうにして祐一の隣を歩いていた。

「わたしたちって回りから見たらどんな風に見えるんでしょうか」

「どんな、って?」

「例えば、仲のいいカップルとか」

「カップルというよりは兄妹に見えるんじゃないのか」

 心の中ではそうではないことを願いつつも、祐一はそんな答え方をした。こういった会話をしているとき、栞は自分に対して本当のところ、どんな気持ちを持っているのかなどということを考えてしまう。

 ただ、今の状況に於いては、祐一はそこから奥に踏み込むことは出来なかった。昨日の、栞の拒絶の言葉はまだはっきりと祐一の脳裏に残っている。

「祐一さんの気持ちを、わたしには受け止めることが出来ないです……」

「だめですよ、せっかくのデートの時間なんですから」

 背反するような二つの言葉が祐一の中を駆けめぐっていた。それらを繋いでいるのは、他ならぬ隣の栞の姿だった。

 会話が途切れたときには、僅かに身を寄せてくるようにも思える栞のことを思い、目を向ける。

 自分の気持ちには、やはり変化はなかった。

「結局、ここに来てしまいました」

 散歩という名のデートの目的地は、昨日と同じ公園だった。栞が気に入っている場所だというから、それでも構わないと祐一は思った。

「そうだな。でも、栞の好きな場所だっていうんならそれでもいいだろ」

「好きな場所、ですか……」

 どこか遠くを見るような目で、栞がそうつぶやいた。

「どうかしたのか?」

「はい、ちょっと……」

 そう言いながら、栞はベンチに腰を下ろそうとした。

「あ、ちょっと待て。雪が残ってるぞ」

 祐一がそれを手で振り落とした。粉雪がさっと舞って、一瞬、霧がかかったように見えた。その雪は冷たかった。

 この街に最初に来たとき、この雪の量と寒さに絶望的なものを感じた祐一だったが、今はもうそれほどではないということに気が付いた。何がそうさせたのかと言われれば、それはきっと栞の存在なのだろう。

 並木道に栞に激突し、立木の枝に積もっていた雪を浴びせてしまったことを思い出す。これが栞との出会いだった。それからの、中庭や商店街、そしてこの公園で過ごした時間。どこか儚げなイメージと共に、栞は雪と共にあったような気がする。

「あっ、ありがとうございます」

「気にするな。大したことじゃない」

「そんなことないです。祐一さん、優しいです」

 面と向かって言われると、どこかくすぐったくも感じる。

 そんな祐一の微妙な感覚をよそに、腰を下ろした栞は早速、ビニール袋からカップアイスを取りだしている。

「アイス、好きだな」

「はい。祐一さんも一緒にどうですか?わたしのを少し分けてあげます」

「いや、結構だ。栞だけで堪能してくれ」

 この寒さの中、好んでアイスを食べたがる栞の神経だけは、祐一にはどうしても理解できなかった。

「残念です……」

「もっと、あったかくなったら、一緒に食べてやるぞ」

「……そうですね」

 寂しそうな表情を見せた。祐一はそう感じた。何かまずいことを言ってしまっただろうか。祐一はそんな心配をした。

 一方の栞は美味しそうにアイスを食べ続けている。

 正面の少し脇に立っている祐一は、慈しむような表情でそんな栞の様子を眺めていた。

 ふと、その祐一の視線に気が付いた栞が顔を上げた。

「食べているところなんて、見ないでください。恥ずかしいです」

「でも、栞の前で明後日の方向を向きながらぼーっと待っているだけっていうのもどうかと思うぞ」

「だから、一緒に食べましょうって言ったのに」

「それだけは遠慮しておく。栞が口移しで食べさせてくれるというなら別だけど」

「そんなこという人、嫌いです」

 そう言って僅かに頬を膨らませながら、目の前のアイスの方に視線を戻していた。

「じゃ、ここで待たせてもらうとするか」

 そう言って、祐一は栞の隣に腰を下ろした。

 肩が触れ合うような、触れるには遠いような、そんな微妙な距離であった。

 やがてアイスを食べ終えた栞が、満足そうな表情でふたをカップに戻した。

「ふたについているアイスは舐めないのか?」

「そんなことしませんよー」

「いや、基本だろ」

「全然、基本じゃないです。男の人の前でそんな恥ずかしいこと出来ないです」

「一応、そう思ってくれているのか」

「はい。だって、デートですから」

 そんな栞の言葉の真意を、祐一は測りかねていた。「そうだな」と言おうとした祐一の方に、栞が顔を向けた。

「祐一さん……」

「うん?」

 そして、一瞬の間を置いた後、こんな風に話し始めた。

「昨日のことなんですけど、わたし……」

「……」

「わたし、あれから家に帰っていろいろ考えたんです。祐一さんのこと、そして自分のこと……」

「……」

「祐一さんの言葉、とっても嬉しかったです。でも、ちょっとだけ苦しかったんです」

「苦しかった?」

「はい。せっかく祐一さんがわたしなんかにあんな言葉をくれたのに、それに応えることの出来なかった自分が……」

「栞……」

「でも、昨日、一所懸命に考えました。どうしてなのか、って。そうしたら、やっと分かったんです」

「うん?」

「結局、わたしには強さが欠けていたんです。祐一さんの気持ちを受け入れるっていう強さが。祐一さんのために、っていう偽善で、自分と自分の気持ちに向き合うことから逃げようとしていたんです」

「どういうことだ?」

 栞の告白は、祐一にとって意外な形でもたらされていた。栞の方も、おそらくはまだ自分の気持ちに整理が付ききっていないのだろう。霧の中でお互いの姿を探るような言葉の往復がここではなされていた。

「わたし、たぶん祐一さんのことが好きです。今まで、男の人にこんな気持ちを感じたことはありませんでしたから、よくは分からないんですけど」

「……」

「祐一さんの気持ち、嬉しかったです。それこそ、ドラマのヒロインになったみたいでした。でも……」

「もう一度、こんどははっきりと言おうと思う。俺は栞のことが好きだ」

「はい……」

 栞が目に涙を浮かべていた。この涙が嬉しさによるものなのか、悲しさによるものなのかは栞本人にも分からなかった。

「でも、祐一さんのそんな言葉をうれしがる前に、わたしには話しておかないといけないことがあるんです」

「病気のことか?」

「えっ?」

「あんな『風邪』なんて話で誤魔化しきくはずないだろ」

「やっぱり、わかっちゃいましたか」

 言い当てられて驚いた栞。だがその表情はすぐに笑顔へと変わった。ちょっとしたような悪戯が見つかったときのような、気恥ずかしい笑顔。だが、それはこれから栞の話す深刻な話を聞く、話す二人の心を僅かなりとも和らげる役になってくれたのだった。

 少しの間をおいた後、栞は話し始めた。

「わたしの病気、重いんだそうです」

「そうか……」

 栞の同級生の女の子の話しぶりから、それは想像がついていた。長期の療養を必要とする病気、それは微妙な年頃にある栞のような女の子にとってはつらいものであろう。

「病名とか、知っているのか?」

 それを知ったところで、祐一にとってはどうなるものでもなかったが、興味以外の要因から祐一は知っておきたいと思った。

 だが、栞は少し考えるような仕草をした後、いつものような笑顔のままでこう言った。

「えっと……、分からないです」

 その笑顔につられるように、祐一も微かに笑った。そこには、病気が深刻でないことを祈る期待のようなものが籠められていたが、残念ながらそれはこれから聞く事実によって砕かれることになる。

「なんだか、複雑な病名だった気がするんですが、忘れてしまいました。でも、そんなことはあんまり関係ないです」

「そうなのか?」

「はい。いろいろなお薬を飲んでも、いろいろな点滴を受けてもほとんど効き目がないんだそうです」

「……」

「それでですね、そんなに長くもないんだそうです」

「どういう意味だ?」

「言葉通りです。今は少し楽になっていますけど、おそらく次のお誕生日は迎えられないって言われました」

「栞の誕生日って、いつなんだ?」

 無神経であると分かりながらも、祐一はそれを聞かずにはいられなかった。栞は、普通に世間話をしているかのように、当たり前のように答えた。

「二月一日です。早生まれなんですよ」

「……」

 どうして栞は笑顔でいられるのだろう。祐一はそう思った。祐一がこの街に来てから二週間近い時間が過ぎた。すなわち、一月ももう終わりに差し掛かっている。栞の言うことが事実だとすれば、残された時間はほとんどないはずである。だから、栞は自分の気持ちを一度は拒んだのか。そう思うと、祐一はとてつもないやりきれなさを感じた。栞のこの小さな体に、どれほどの苦しみや悲しみが蓄えられているのか。自分はそんな栞を支えることが出来るのか。

 栞が好きという気持ちは、それにとどまらない多くのものを要求しているのかもしれなかった。それを祐一は抱え込むことが出来るのであろうか。

 だが、祐一は迷ってはいなかった。目の前の栞の姿が、祐一の心を支えている。

 大切な人を守るといった、大それた気持ちではなかったが、この子を、しっかりと抱きしめていたい、そんな純粋な気持ちを、祐一は既に持っていたのだった。

 笑顔だった栞が、不意に目に涙を浮かべた。

「ぐすっ……」

「どうした、栞?」

「それでも、祐一さんはわたしと一緒にいてくれますか?」

「ああ……」

「すぐに祐一さんとはお別れなんです。わたしの存在は、きっと祐一さんを苦しめるだけになっちゃうんです……」

「ひょっとして、昨日俺の気持ちを拒んだのは、そんなことを考えていたからか」

「はい、だから、わたしは人を好きになっちゃいけなかったんです。でも、昨日の夜に考えて、やっぱり分かりました。わたしは、祐一さんのことが好きなんです」

「言ったろ、それは俺も変わらないって」

 栞が初めて見せる表情だった。今までの笑顔と違う、心の小さな少女の表情。

 栞が上目遣いで祐一の方を見つめた。

 祐一が微かに頷くと、何かの戒めが外れたかのような勢いで栞がその胸の中に飛び込んできた。

「祐一さん、祐一さん……」

 お気に入りのストールに、そして栞の肩にそっと手を置き、祐一は静かに温もりを与えた。

 栞の体が震えているのは、もちろん寒さのためではなかっただろう。

 やがて落ち着いた栞の顔を、祐一はそっと見つめた。

「いまのわたし、きっととんでもない顔をしてますよね」

 目元を赤くした栞が言う。だが、それは祐一にとってはただ可愛らしさにしか見えなかった。

「確かにそうだな。他人にはとてもじゃないが見せられないだろう」

「あ、ひどいですー」

 拗ねたような笑顔。その笑顔が栞を感じさせる。弾みに、たまっていた涙が筋を描いて頬を伝わり落ちていく。

「他人には見せられなくても、俺には見せてくれて構わない」

「でも、やっぱり恥ずかしいです」

「だったら、見ないで栞を感じるようにすればいいのか」

 栞の体を引き寄せた祐一は、その意味を悟って慌てて目を閉じた栞にそっと口づけた。

「あっ……」

 微かな声が栞から漏れる。それに後押しされるように、祐一はもう一度、今度は明確な意志を籠めて栞の唇を奪った。

 寒さの中で、この部分だけが温もりを感じていた。全身がここから温められるような奇妙で心地よい感覚が祐一と栞の体を支配していた。

 目を開いた二人は、気恥ずかしさも手伝って、無言のままベンチに腰を下ろした。公園の雪景色と、相変わらず冷たい水を噴き上げ続ける噴水が休息に祐一を現実の世界に戻していた。

 栞のいる世界。

「病気、どうしても治らないのか?」

 絞り出すように祐一が言った。

「そうですね。それこそ、奇跡でも起きない限りは」

「奇跡、か」

「でも、起こらないから奇跡っていうんですよ」

 笑顔で栞はそう言った。それは決して達観や諦観からくる笑顔などではなかった。そうだとすると、この笑顔は、栞の強さなのではないか。祐一はそう感じていた。その栞の強さには、自分も強さで向かい合わねばなるまい。好きな人を支える強さ、それを持ち合わせているのか、祐一は試されているのだともいえよう。

「わたし、明日から学校に行こうと思います」

「大丈夫なのか?」

「はい、無理をしなければきっと大丈夫です。現に、こうして祐一さんと歩いて……、キスまでしてもらっちゃいましたし」

 唇に残る感触を思い出したのか、顔を赤くして俯く栞。

「それに、このまま病室で寝ながら待っているのは、嫌です」

「そうだな。クラスの友達も待っているんだろう?」

「そうなんですか?」

「忘れちゃだめじゃないか。教えてもらったぞ、入学式の日に、隣の女の子に『友達になろう』って声を掛けたんじゃないのか?」

「あっ……。はい。でも、なんで祐一さんがそんなことを知っているんですか?」

「そりゃ、本人に教えてもらったんだからな」

 祐一は、昼休みに廊下であったことを話した。

「栞を待っているその子を、喜ばせてやれよな」

「そうですね」

 栞が、ゆっくりと体を祐一の方に預けてきた。

「こういうの、憧れだったんです」

 栞の肩に手を回すことで、祐一はその気持ちに応えた。

「一所懸命考えて、決心した分、今のわたしは幸せだと思います」

「……」

「これから誕生日まで、祐一さんのそばで夢を見させてもらってもいいですか?」

「いや、これは夢じゃないさ……」

「いいえ、わたしには夢にしか思えないんです。春を待たずに消えてしまう雪のような夢なんです」

「……」

「本当に、わたしを受け入れてくれますか?」

「ああ、約束する」

「本当ですか?」

「ああ。栞は、結構しつこいんだな」

 笑いながら言う祐一に対する栞の顔も同じだった。

「はい。ようやく気付きましたか?」

「いや、前から気付いてた。アイスだって譲らないしな」

「こんな時にそんな例えを出す人、嫌いです。でも……」

「うん?」

「やっぱり、夢みたいで不安なんです。だから、何度でも聞いて確かめたくなってしまうんです」

「安心しろ。少なくとも俺と栞の体が温かいのは夢でも何でもない」

「そうですね……」

 祐一の肩の上で首を傾けた栞が、そっと目を閉じた。安心の象徴の中にある栞を、祐一はそっと見つめていた。

 また粉雪が舞い始めたが、それは二人にとっては些細なことに過ぎなかった。


 次の日の朝。

 いつものように半ば駆け足になりながら祐一は学校に向かっていた。

 隣には、その原因となった名雪の姿があり、こちらはそんな状況をどこか楽しむような表情で、同じように学校に急いでいた。

 ようやく校門が見えるようになってきた。時計を確認すると、予鈴の鳴る二分ほど前という時間だった。

「なんとか間に合いそうだな」

「そうだね」

「しかし、毎日これではたまらんぞ。もう少し早く起きるようにしてくれ」

「努力はするよ」

「結果が伴って欲しいものだ」

「うーん」

 そんな名雪だったが、どこか嬉しそうだった。

「あれ?」

 名雪が、校門の所に立っている人の姿に気付いた。ほぼ同時に、祐一もそれに気が付いて目を向ける。制服を着ているから、学校の前にいるのは不思議ではなかったが、中に入らずに立っているというのは、誰かを待っているということなのだろうか。

 そんなことを考えた祐一だったが、すぐにその相手が誰であるかに気が付く。他ならぬ自分であろう。おそらくは。

 果たして、立っていたのは栞だった。

「祐一さん、おはようございます」

 元気に笑顔で挨拶をする栞。

「おはよう。しかし、そんなところで何してるんだ?」

「そんなこと言う人、嫌いですっ。祐一さんを待っていたに決まってるじゃないですか」

「冗談だ。しかし、寒かっただろう」

「平気です。でも、こんなぎりぎりの時間じゃなく、もう少し早く登校した方がいいです」

「それだったら、こいつに言ってくれ」

 隣で状況が掴めずにいる名雪を指差して、祐一が言った。

「この人は?」

「前に話したことがあるだろ。俺が今世話になっている……」

「あ、いとこの名雪さんですね」

「祐一、この子は?」

「あ、まだ紹介してなかったよな。えっと……」

「美坂栞です。宜しくお願いします」

 何故かかしこまって、お互いにお辞儀をしている。

 予鈴の鳴る直前の校門前で、それはどこか平和な光景だった。

「そんなのんきなことしている場合じゃないぞ。もう急がないと」

「そうですね」

 栞の言葉と同時に、予鈴が鳴り響いた。

 結局、半ば駆け足のままで校舎の方に三人は向かっていった。

「じゃ、またあとでな」

「はい」

「しっかり勉強してこいよ」

「はいっ」

 一年生の教室の方へ向かう栞を見送った祐一は、名雪と一緒に階段を上っていく。

「栞ちゃんっていうんだ。わたし、初めて会ったよ」

「そうかもしれないな」

「ずいぶんと仲よさそうだったけど、いつの間に?」

 どこか残念そうな表情で名雪が聞く。

「まあ、いろいろあってな」

「栞ちゃん、ひょっとして……」

「うん?」

「名字、『美坂』って言ってたから」

「ああ、多分そうだと思う。本人は否定しているけどな。なんかわけありみたいだから、時期が来るまではそっとしておいた方がいいと思う」

「うん、わかった」

 意外に気の回るというか、察しのよい名雪に、この時ばかりは祐一は感謝した。香里が栞のことをどう考えているのかは分からないが、親友の名雪が香里の力になれることもきっとあるものだとも思う。

「それより、急がないと遅刻にさせられるぞ」

「うんっ」

 祐一と名雪は、再び教室へと急いでいった。

 二時間目の授業が終わったあとの休み時間のことだった。

「ちょっといいかしら」

 名雪や北川の姿がないのを見計らったかのように、香里が祐一に声を掛けた。

「ああ、なんだ?」

「聞きたいことがあるのよ」

「わかった」

 場所を変えたいという様子を察して、祐一は廊下の方に歩き始めた。香里はそれを追い抜く形で祐一の前に出る。そして、渡り廊下の方へ向かっていった。

 誰もいない中庭の、寂しそうなたたずまいをここから見ることが出来る。

 その中庭の方に目を向けながら、香里がこんな風に切り出した。

「栞がね、急に学校に行くって言いだしたのよ」

「……」

「わがままなんて決して言わない子だったのに、どうしてもって言い張って……」

「やっぱり、妹がいたんじゃないか」

「そんなことを言いに来たんじゃないのよ」

 祐一ではなく外に目を向けたままの香里は、半ば本気で怒っているようにも見えた。勿論、そんなことを確認するのが、香里の呼び出しについてきた祐一の真意ではない。

「悪い、そういうつもりじゃないんだ」

「いいわ。それで、相沢くん、何か知ってるのかと思って」

「その話というか、決心は、俺は昨日聞いた」

「栞はあなたに会っていたのね」

「そういうことになるのかな。俺は、栞に自分の気持ちを伝えた」

「それはどういう意味?」

「香里の予想している内容で間違いないと思う」

「それで?」

「栞はいろいろ話してくれた。一度は俺の気持ちを拒んだあいつだったが、どうしてそう答えたのか、涙混じりに話してくれたんだ」

「……」

「おそらくは、残りの時間を悔いのないように過ごしたいんだろう。直接は言わなかったが、俺も栞の決心を支持した」

「そうだったの……」

「香里は、なんで『妹なんかいない』なんて言ったんだ?」

「わたしは、妹が……、栞のことが大好きだったわ。でも、栞の病状のことを聞かされて、なんで、あの子がこんな目にって、そう思ったわ」

「……」

「『次の誕生日は迎えられないだろう』ってあの子に教えたのは私。医者や両親はあの子には黙っているように言ったけど、私はそれを無視したわ」

「そうか……。でも、おそらくそれは正しかったと思う」

「それを聞いたあの子は、笑っていたわ。だけど、その笑顔が私には痛かった。遠からぬうちにそれを永久に失うことになるのに、それを防ぐ手段が何もないのだと思うと」

「……」

「私はこれまで、ずいぶんと勉強なんかも頑張ってきたわ。努力すれば全てのことは実現できると思っていた。でも、そうじゃないことが分かって、何が出来るのか分からなくて……」

「あの子の笑顔を見たくなかった。そうしたらそのうちにこう思うようになっていたわ。『妹なんて最初からいなかったと思えば、悲しむことにはならない』って」

「それは違うだろう……」

「ええ。それが何の意味も持たないことは分かっていたわ。現実は変わらないってことも」

「俺なんかの出る幕じゃないってことは分かってるんだけど、あえて言わせてもらおうと思う」

「何かしら?」

「栞は、強いやつなんだと思う。香里も自分の強さで向き合ってやるべきじゃないのか。香里も栞も、決してひとりぼっちじゃない」

「……そうね」

 ウェーブのかかった髪が、憂いを帯びているようにも見えた。目を向けているのが昨日まで栞のいた場所だということを、果たして香里は知っているのだろうか。

 それからは二人とも無言だった。栞という一人の女の子を思う二つの心が、言葉無しで交わされていた。

 やがて、教室に戻り始めた香里の後ろを、守るように祐一が歩いていく。

 教室に入る直前、香里が祐一の方に振り返って言った。

「相沢くん、ありがとう」

「いや、どうということはないさ」

 僅かに、香里が笑ったように見えた。それが祐一には栞の笑顔とも重なって見えたのだった。


 一月のカレンダーも残りが少なくなってきた。

 その事実はどうしても祐一に栞の結末を意識させる。だが、一所懸命に残された時間を生きる栞と一緒にいる決心をしたのなら、それを表に出さないことが祐一の持つべき強さであるのだといえる。

 お互いの心の底に何があろうと、少なくともこの月の間は、祐一と栞は恋人同士なのである。

 金曜日の昼休み、祐一は栞と一緒に食堂に来ていた。

 学食の喧噪がどこか憧れだったという栞の気持ちも分からなくもなかったが、自分にとってはもう食べ慣れた定食を嬉しそうに食べている栞が、なんともいえず面白かった。

 先に食べ終えてしまった祐一が、お茶を飲みながらそんな様子に目を向けていると、それに気が付いた栞が恥ずかしそうに言う。

「食べているところなんて見ないでください。恥ずかしいです」

「とは言っても、俺は手持ちぶさただからな」

「祐一さん、食べるのが早すぎます。体にもよくないですよ」

「そんなに早いか?」

「だって、わたしはまだ半分くらいしか食べていませんよ」

「いや、栞が遅いだけじゃないのか」

「そんなことないですー」

 そんな会話をしながらも、栞は楽しそうに食事をしていた。最初に学食に来たとき、

「祐一さんと同じのでいいです」

と言った栞が、カレーを目の前にして固まっていたのを思い出した。食事が楽しいというのは、人間としての原始的な感情なのかもしれない。祐一はそんな風に思った。

「時間が残ったら、アイスでも買ってきてやろうと思うけど」

「えっ? 頑張ります」

 目の色を変える栞。

「でも、慌てるなよ」

「はい、わかってます」

「時間がなかったら、アイスは放課後でもいいんだからな」

「はいっ」

 嬉しそうな顔をする栞。私服姿しか見ていなかった祐一にとって、栞の制服姿には最初、新鮮さを感じると同時にどこか違和感のようなものがあったのだが、ようやくそれにも慣れてきた。目の前の少女を見ると、思いのほかその制服が似合っているように思える。僅かに茶色のかかった短めの髪の毛が、ちょうどリボンとその色を引き立てあっているように感じる。

 再び、自分のことを見られているのに気が付いた栞が恥ずかしそうに言う。

「ですから、そんなに見ないでください……」

「あ、悪い」

 くすぐったい感情を持っている栞に、祐一はそんな答え方しか出来なかった。

「放課後といえば、祐一さん?」

「うん?」

「今日は、一緒に出掛けませんか。行きたいところがあるんです」

「ああ、それは構わない、というか寧ろ歓迎だが」

「嬉しいです。それじゃ、放課後に校門のところで待っていてくれますか?」

「わかった」

「わたし、今日はお掃除の当番なので少し遅れるかもしれませんが」

「ああ、別に構わないさ」

「はい。それと、アイスのこと、忘れないでくださいね」

 栞の食事の残っている量と、時計の示している時刻を併せ見る。どうやら、昼休みのうちに食べるのは無理のようであった。

 そして放課後。

 一足先に開放された祐一は、名雪と一緒に昇降口まで降り、クラブに行くという名雪を見送った後、校門の前までやってきた。

 祐一と同じくクラブに所属していない生徒などが賑やかに下校している光景が見えている。

 そんな生徒達を見送りながら、祐一は栞を待っていた。

 相変わらず寒さは厳しかったが、その時間はそんなに苦痛ではなかった。そもそも、この街に最初に来たときから待たされたのだからと、そんなことを祐一は思い出していた。

 ほどなく、栞がやってきた。祐一にも見覚えのある生徒と並んで楽しそうにおしゃべりをしながらこっちにやってくる。

 祐一の姿に気が付いて、元気に手を振って近づいてきた。

「じゃ、また明日ね」

「うんっ」

 栞と一緒に歩いていた女子生徒は、前の昼休みに祐一に声を掛けてきた女の子だった。祐一が勧めたようにちゃんと友達になることが出来たらしい。

「あっ、こんにちは。えっと……、相沢先輩」

「こんにちは」

 祐一がそう答えると、女の子と栞は並んで嬉しそうな顔をしていた。

「栞ちゃん、宜しくお願いしますね」

「えっ?」

 悪戯っぽく微笑む同級生を見て、栞が恥ずかしそうな顔をしていた。どことなく暖かい時間だった。

「ああ、任せておけ」

「それじゃ、わたしは失礼します」

 そう言い残して、女の子は先に帰っていった。

「いい子じゃないか」

「はい。わたしが学校に戻ったのを、一緒に喜んでくれました」

「そうみたいだな」

「えっと、早く行きましょう」

「そうせかすなよ。そんなに遠いところなのか?」

 昼休みに、栞が、行きたい場所があると言っていたのを思い出した。

「そんなでもないです。でも、楽しみにしていたんです」

「そうだな。行くか」

「はいっ」

 さすがに手を繋いで歩くのは憚られたが、駅前までの道のりを、寄り添うように並んで歩きながら、他愛のない話をして過ごした。

 駅からバスに乗って、その目的の場所までやってきた。栞はバスには乗り慣れていないらしく、発車や停車の時に大きく揺れると、体を支えきれずに祐一の方に倒れ込みそうになった。祐一がそれを優しく抱きかかえるたびに、嬉しそうに「すみません、でも、嬉しいです」とささやいていた。そんな栞が、祐一には果てしなく可愛らしく思えたのだった。

 降りた停留所の名前は「城跡前」というところだった。

「ここでいいのか?」

「はい、たぶん大丈夫だと思います」

「たぶん?」

「本当はですね、一度も来たことがないんです。あっ、でもこっちって矢印が出ているから大丈夫です」

 道案内の標識を見ながら、栞が言った。この街に引っ越してきてから間もない祐一には全く不案内な場所だった。

 停留所の名前は「前」ではなく「下」にしたほうがよいのではないかと思いながら、祐一と栞は坂道を登っていった。ちょっとしたハイキングコースにもなりそうな、割と急な坂道で、積もっている雪も足場を悪くしていた。

「大丈夫か、栞」

「はい、ゆっくり歩けば平気です」

「ま、つらかったら言えよな。おぶってやるから」

「そんな恥ずかしいこと、言わないで下さい」

 そんな会話をしながら十五分ほど登っていくと、視界が開けて目的の場所にたどり着いた。

 城跡といっても、立派な天守閣があるというのでもなく、復元された小さな屋敷のようなものが残っているだけだった。その建物はちょっとした郷土資料館になっているらしかったが、今は冬季閉鎖期間ということで門が閉じられていた。

 こんな場所に他に人が来るはずもなく、やや寂しげな場所に、祐一は栞と二人きりという状況を持つことになった。

「ここは戦国時代の武将、小野寺氏の居城だったが、関ヶ原の戦いで西軍についたと見なされて、戦後、領地を召し上げられてしまったんだよな。後釜に座ったのが佐竹氏で、城代の戸村氏が城下町を整備したのだと」

「そうなんですか、全然知らなかったです。祐一さん、歴史に詳しいんですね」

「いや、そこの看板で見ただけだ。栞がアイス食べている間にな」

「祐一さんも一緒に食べればよかったのに……」

「いや、それだけは遠慮する」

 それでなくても、相変わらずの寒さは厳しい。栞と一緒でなかったら、とっくの昔に家に帰っていただろう。

「それにしても……」

「どうしたんですか?」

「ここでよかったのか?」

「はい」

「でも、なんでまたこんなところが、『行きたかった場所』なんだ?」

「えっとですね……」

 そう言いながら、栞が歩き始めた。少し出っ張った場所があり、そこから栞は今やってきた方角を見下ろす。

「やっぱり、です」

「うん?」

 後を追いかけた祐一が、栞に並んで同じ方に目を向ける。

 この街が一望できる、絶景が広がっていた。どんよりとした冬の雲が見下ろす冬の町並みは、あまり軽快といえるものではなかったが、その見晴らしは確かにここまでやってくる苦労に見合うものではあった。

「景色、いいですよね」

「そうだな」

「祐一さん、あっちの方角に大きな建物があるのが見えませんか?」

 祐一たちの通う学校と、商店街を挟んだ反対側にあたる方向に、確かに五階建てくらいの建物があるのが見える。

「あの、屋上に看板の建っているやつか?」

「そうです」

「それがどうしたのか?」

「わたし、あの病院に入院していたんです」

「そうか……」

「病室の窓から、この城跡が見えたんです。きっと、ここからだったら町の景色がよく見えるんだろうなって思っていました」

「だから来てみたかったのか」

 病室で過ごす栞の心を祐一は想像した。町の景色を一望できそうなこの場所は、栞にとって祐一が想像する以上にあこがれる場所になっていたのだろう。ある意味で、栞にとっての世界の象徴だったといえるかもしれない。

「はい。思った通りの見晴らしで嬉しいです。それに……」

「うん?」

「祐一さんと一緒に来られたのが、もっと嬉しいです」

 そう言って、栞は町の方に向けていた体を祐一の方に向けた。

「ああ、悪くないな」

「そんな言い方、しないで下さい」

「どうも、恥ずかしくてな。栞と二人きりだと意識してしまうと」

「あっ、そういえばそうですね……」

 栞の方は全く気付いていなかったようだ。だが、祐一の指摘が、それとわかった栞の体を固くさせる。居場所を失わないように、祐一の手を握りながらそっと体を寄せてきた。

「キスしてもいいか?」

 栞の腰に手を回し、祐一がそっと言った。

「そんなこと、聞かないでください」

 そう答えながら、栞はそっと目を閉じた。

 祐一の唇が、栞のそれにそっと重なる。しばらくそのままお互いの温もりを感じた後、わずかに開いた口を通して、二人の舌がそっと触れた。

「あっ……」

 溢れたような声が、微かに栞の口から漏れた。

 栞は、これまでに見せたことのない表情をしていた。

「今日という日を、忘れたくないです……」

 そんな栞の言葉の重みを、祐一はよくわかっていた。

 だから、祐一は栞をもう一度抱き寄せて、再び口づけした。

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