祐一の隣を、栞が並んで歩いていた。
商店街は概ね雪かきがされていたが、それでも建物の間であるとか、電柱の傍らなどには土をかぶって少し汚れた雪が残されていた。
この季節、外に出ることすら億劫であると感じられることが多かったが、今の祐一にはそんな気持ちはほとんどなかった。
午後の日差しと隣を歩く栞の笑顔が、寒さをいくらか和らげていたのかもしれない。
いつものように昼休みの中庭で栞と会った祐一は、その最後にこんな提案を受けたのだった。
「今日はいい天気ですから、放課後、もう一度会いませんか?」
「そうだな。俺は別に構わないけど」
「はい?」
「栞は、それまでどうしているんだ?風邪を引いているんだったら長い間外にいたりしない方がいいんじゃないのか」
「あ、それなら大丈夫です。暖かい場所で時間まで待っていますから」
「それならいいんだけどな」
午後の最後の授業が終わった後、商店街の入り口に駆けていった祐一は、自分に気が付いて嬉しそうな笑顔を見せる栞のそばにやってきた。
そして、特に何という目的があるでもなく、こうして並んで歩き始めたのだった。
俺と一緒に歩いていて、楽しいのだろうか。
ふと、祐一はそんなことを考えた。隣の少女の表情を見ていればその答えは自ずから明らかであっただろうが、まだ出会ってからそれほどたっていないこの少女が、自分に対してどういった感情を持っているのかが気になるのが事実だった。その事実は、時には客観性を失わせる。
「待ってる間、寒くなかったか?」
「わたしも来たばかりでしたから、大丈夫ですよ」
「そっか」
病気で学校を休んでいると聞いていたので、祐一は栞の体を心配していた。そうでなくても、どこか儚げな雰囲気を持っている栞を、祐一は守ってやりたいと思うことがしばしばある。そして、そんな気持ちがどういったものに起因しているのかもうっすらと分かっていた。
ともあれ、祐一にとって、そしておそらくは栞にとっても、こうして二人で歩いているただそれだけの時間も嬉しいのは事実だった。
隣の栞の姿を見る。
この季節だと少し薄着ではないだろうかと思われるいでたち。白いセーターに、肩ひもの付いたやや短めのスカート。割合にシンプルな服装だったが、小柄な栞には可愛らしいという感じでよく似合っていた。だが、そんなちょっと子供らしいところを本人は気にしているらしく、そういったほめ方をすると栞は複雑な顔をして少しだけ不満そうにするのだった。
そして、なんとか栞を寒さから守っているのが、お気に入りと言っているストールだった。およそ栞が外出の時にこのストールを身につけていないことなどないことからも分かるように、本当に気に入っている品物らしかった。
「お姉ちゃんが誕生日にプレゼントしてくれたんです」
そう栞は説明してくれた。それに続く姉の自慢話を聞いていると、栞が本当に姉のことを好きなのが分かる。祐一には兄弟はいなかったが、そんな栞をうらやましいと感じたものである。
「どうしたんですか?」
じっと見られていたことに気が付いて、栞が言った。
「いや、なんでもない」
「そんなに見つめないでください。恥ずかしいです」
「アイスが口の回りに付いていたりはしないから安心しろ」
「わっ、そんなこという人、嫌いです。それに、まだアイスは食べていないじゃないですか?」
手に持ったビニール袋に目を向けながら栞は言った。その中には、これから公園で食べるであろうバニラのアイスクリームが入っている。
「だから、冗談だって。純粋に栞のことを見ていたんだ」
「わたしのことを、ですか?」
「ああ」
どんな表情をしてよいか分からない。栞の様子はそんな感じであった。言葉通りの微妙な気持ちがほんの少しだけ祐一の中にあり、それが祐一にそれ以上の言葉を出させなかった。
「‥‥」
「‥‥」
結局、祐一の口から出たのはこんな言葉だった。
「栞の笑顔を見ていると、楽しそうだなってな」
「はい。楽しいですよ。だって、かけがえのない時間ですから」
「どういう意味だ?」
「今のこの時間っていうのは、昔にもなかったし、これから先も永久に過ごせない時間なんですよ。そんな時間があることに、感謝したい気持ちです」
「なんか難しそうな話だな」
「なんとなく、かっこいいですよね」
「また、ドラマか何かの台詞か?」
「はい、実はそうです。でも、今の時間を大切にしたいっていうのは、わたしもそう思います」
「そうだな。光陰矢のごとし、ともいうしな」
「ちょっと意味が違いますよー」
「そうか? でも、言いたいのは時間の大切さなんだろ?」
「それよりも、なんでしょう‥‥、思い出の大切さっていうものだと思います」
「思い出って言うほど大層なものじゃないだろう?」
「そんなことないです。今、祐一さんと過ごしているこの時間だって、過去にも未来にもない大切な思い出になるんですよ」
「大げさだな、栞は」
「そうかもしれませんけど」
祐一と栞は、顔を見合わせて笑った。栞は何を思いながらそんなことを言ったのか、この時の祐一にはまだ分からなかったし、後にその栞の言葉の持つ重みが分かるようになるのである。
そんな栞の笑顔が祐一には嬉しかった。
結局、いつものように公園にやってきた二人は、凍結防止のために動き続けている噴水を見ながら、ベンチに腰を下ろしておしゃべりに興じていた。
買ってきたアイスを美味しそうに食べる栞に苦笑し、それを勧めてくる栞からなんとか逃れ、学校や水瀬の家でのありふれた出来事を楽しそうに聞いてくれる栞の反応を楽しんだ。
終始、笑顔を見せてくれる栞。時々、ふと寂しそうな顔をすることがあったが、それは風邪にしては長い間休み続けているためのものであっただろうと、祐一はその程度に考えていた。
会ってからそんなに時間もたっていないこの少女が、惜しげもなく可愛い笑顔を自分に見せてくれる。ひいき目でなくその意味を考えたとき、祐一にもこの女の子に対する自分の気持ちの正体に気が付いたといってよかった。
そういう意味で、祐一には「勝算」もあったのだった。
人を好きになるということは一方的なものではない。祐一はそんな風に考えた。自分が相手のことを好きなるということだけではなく、相手が自分に対してどのような気持ちでいるのかを考える。そして表にはなかなか出ないそんな気持ちを推測し、感じながら自分の気持ちも再び高まっていく。そういったものなのであろうと。
臨界点を越えた気持ちは、やがて相手に何らかの形で伝わることになる。その手段がこれと決まったものではないのは、恋愛というものが当事者達それぞれの固有の形を持つことからも明らかであろう。
ともかく、祐一は半ば雰囲気に飲まれる形で、栞にその言葉を伝えようとした。直接的な表現が出来なかったのは、それでも祐一の中に何かを怖れる気持ちがあったためなのだろうか。
アイスを食べ終わった栞は、満足そうな表情で祐一を見つめていた。
この寒空の中、栞が手に持っているバニラアイスのカップと木のスプーン、そして傍らで勢いよく水をあげている噴水がミスマッチであったが、栞の笑顔はそれらの違和感をうち消してなお充分であった。
「静かな公園でデートって、あこがれだったんです」
「ちょっと静かすぎるとも思うけどな」
雪の積もるこの季節の公園に好んで足を運んでくる人の姿はほとんどなく、駅から住宅地への近道として時々住民が通り過ぎるのが見受けられる以外には、ほとんど誰も足を踏み入れる者はなかった。噴水が澄んだ音をたてており、辛うじて静寂からこの公園を逃れさせている。
「そうですね。でも、そんな公園もわたしは好きです」
「ここは栞のお気に入りの場所って言ってたよな」
「はい」
昔の出来事を思い出すかのように、栞がどこか遠くを見るような目をした。そこにあるのは自分の知らない栞であることに思い当たり、祐一は軽い嫉妬を覚えた。そんな感情を、慌ててうち消す。
「まあ、静かな方が落ち着いていていいよな。どちらかというと栞にはそっちのほうが似合っている気がするし」
「どういう意味ですか?」
「ゲーセンみたいな賑やかな場所にいるより、こういった場所にいる方が栞にはしっくりくるかな、とか」
「そうなんですか?」
「ああ、何となくだけど、そう思う」
「ちょっと複雑な気持ちです」
「そうか?」
「できれば、『どこにいても似合っている』って言ってほしかったです」
「そうか。でも、俺はこう思うぞ」
祐一は、自分の胸が微かに高まるのを感じていた。一瞬の間を置いた後、祐一の気持ちはこのような言葉で表に出た。
「どこにいても栞は栞だ。そんなお前のそばに俺はいたいと思う‥‥」
「祐一さん‥‥」
時が止まったような気がした。
栞は静かに祐一を見つめていた。そこにどんな気持ちがあるのかは、祐一には分からなかった。
沈黙。
「栞、俺は‥‥」
それに耐えられずに言葉を重ねようとした祐一を、座っていたベンチから立ち上がることによって栞が制した。
「ごめんなさい、祐一さん‥‥」
言葉というよりも、表情によって祐一は意味を察した。
そこにあったのは確かな拒絶の意思であった。自分の気持ちを受け入れられるところまで、栞は到達していないのだと悟った。
その解釈は、ある意味では正しく、別の意味では誤っていたといえよう。
どちらにしても、栞から笑顔が消え、どこか寂しいような悲しいような表情が浮かぶようになっていた。自分の気持ちが受け入れられらなかったことよりも寧ろ、栞にそういう表情をさせたことが祐一にはつらかった。自責の念に駆られたといってもよいだろう。
「祐一さんの気持ちを、わたしには受け止めることが出来ないです‥‥」
「そうか‥‥」
「‥‥」
「ドラマなんかによくあるシーンだよな」
栞の十八番を奪うような表現を使う祐一。
「そう‥‥ですね」
そんな言い方に、栞は心を痛めつけられる。自分も、本当はどんなに嬉しいか知れなかった。だけれども、自分には祐一の気持ちを受け入れることは出来ない。これは変えようのない事実であった。それをすることは、好きな人を悲しませる結果にしかならないのだから‥‥。
ただ、自分が決してこの人のことを嫌っているわけではないということだけは、どうしても伝えたかった。そんな栞は、体中の全ての気持ちを動員して、祐一に笑顔を向けた。
「わたしは、人を好きになってはいけないんです」
「‥‥」
祐一は何も言わなかった。
笑顔には、実に様々な種類があるものだと、祐一はそんな的はずれなことを感じていた。今の栞の笑顔は、今までに見たどんな表情よりも強く祐一の印象に残った。おそらく、生涯忘れることはないだろう。
もし、祐一が何かの言葉を発していたら、栞は泣き出していたかもしれない。
ひたすらの沈黙とそれを包み込むかのような水の音が、しばらくの間、二人のいる空間を支配していた。
「今日はもう、帰りますね」
「ああ。気を付けて帰れよ。あと、無理はするなよな」
「はい」
祐一に背を向けて歩き出した栞が、最後に名残惜しそうに一度振り返った。そこにあるのは笑顔だったが、さっきのものとは多少なりとも異なっていたことに、祐一は安堵と僅かな望みを感じた。
栞の姿が見えなくなった後、祐一もこの公園を後にした。
水瀬の家に帰り着く前に、再び雪が降り出した。
その日の晩、寝付くまでの間に祐一は考えていた。
受け入れられなかった自分の気持ち。その時に栞の持っていたものはなんだったのか。
夕食も満足に喉を通らず、秋子や名雪に心配されたことを思い出す。
「すみません、少し体調が悪いみたいです」と言い訳した祐一に、温かいかりん湯を用意してくれた秋子に感謝した。「体、大事にしなきゃだめだよ」という名雪の言葉も、温かく祐一に染み渡った。
部屋で一人になって暗闇の中に身を置くと、自分の存在だけが感じられるようになる。その自分が、栞と共にあったこと、いや、あり続けようとしたことを改めて認識する。
「わたしは、人を好きになってはいけないんです」
栞のあの言葉は、どういう意味だったのだろうか。いろいろと考えたが、答えは出なかった。それは、祐一の予想の及ぶ範囲の外にあったからである。
同じ頃、栞が病室のベッドの中で涙を流しながら自分のことを考えていたことを、当然祐一は知らなかった。
やがて、祐一は睡魔に襲われて意識を落としていった。こんな時でも、ちゃんと眠れるものなんだなと、妙な感心をしながら。
翌日の昼休み、これまでと同じように祐一は中庭に足を運んでいた。
昨日のこともあり、もう栞はこの場所には現れないと思っていた。未練というものではないが、それでも何故か半ば自動的に足を運んでいる。そんな自分に祐一は苦笑した。ある意味で、日常となっていたのだということを改めて認識していた。
中庭は寒かった。栞がいないことを「確認」して、今日は学食で温かいものでも食べよう、そんな風に思いながら、祐一は渡り廊下の重い鉄扉を開ける。
雪の鳴らす音にも寒さを感じながら、その場所へ祐一が向かっていくと‥‥。
「こんにちは」
そこには、ないはずの笑顔があった。
「栞か?」
「はい。まさか、わたしの顔を忘れたんじゃないですよね?」
「そんなことはないぞ。ただ‥‥」
「ただ、なんですか?」
「意外だった」
「意外、なんですか?」
「ああ。栞はもうここには来てくれないと思っていたからな」
昨日の公園での事実が思い出される。栞の思考もおそらくは同じ所にあったであろう。僅かに顔をしかめている祐一に対して、栞の方はいつものような笑顔だった。
「わたしは、祐一さんが嫌いになったわけではありませんから」
「そうか‥‥」
「はい」
しばらく黙り込んでいる二人。何か言葉を出せば、今のこの時間を破壊してしまうような、そんな危うい場所にいるような気がしたのだった。
少し離れた立木から雪の落ちる音がして、ほとんど同時に二人がそちらに目を向けた。
そんな反応が面白くて、思わずお互いを見つめてしまった二人。ようやく笑い声が出て、それからはいつものような、たわいのない会話が始まった。
「祐一さんこそ、どうしてここに来たんですか?」
予鈴が鳴って、教室の方に戻ろうとする祐一に、栞がそんな質問をかけた。
「さあな‥‥」
「でも、わかると思います。きっとわたしが来た理由と同じでしょうから」
祐一は何も答えずに校舎の方に戻った。返事の代わりに軽く手を振った祐一の背中に、栞がこう言った。
「今日も、商店街の入り口で待っていていいですか?」
結局、祐一は振り返る。そして、こう答えた。
「ああ」
鉄の扉の閉じる音が、祐一の意識を学校の中という日常の場所に戻した。
外よりは寒さも緩いはずの廊下に足を踏み入れた祐一は、何故か寒さを感じて手を重ね合わせて何回かこすった。
「ふぅ、早いところ教室に戻るか」
中庭の寒さの中にあっても、栞と一緒にいるとそれを忘れることが出来たのだった。栞との時間から退屈な授業という現実に戻されつつある祐一が、自分の教室へ戻ろうと階段に足を向けたとき、聞き慣れぬ声に呼び止められた。
「すみません、先輩‥‥」
祐一が振り返ると、自信なさそうに立っている女の子の姿があった。制服のリボンの緑色が、一年生であることを示している。一階は一年生の教室が並ぶあたりであるから、この子がこの場所にいること自体は不思議でも何でもないのだが、祐一は面識のないこの女の子に呼び止められて少なからず驚いた。
「えっ、俺?」
「あ、はい‥‥。ごめんなさい、お呼び止めして‥‥」
緊張しているというよりも、恐れを同居させているような声と表情だった。それでも祐一に話しかけなければならない事情があるのだろうか。
「いや、それは構わないんだけど」
「あの、先輩‥‥。今、中庭の方で誰かと一緒にお話ししていましたよね」
「ああ、そうだけど」
「たまたまここの窓から見かけて、つい見てしまったのですが、相手の人、ひょっとして美坂さんじゃありませんか?」
「美坂‥‥?ああ、栞だな。うん、そうだけど」
「やっぱりそうでしたか。遠目だったのでちょっと自信がなかったんですけど」
安心したようで、女の子は僅かに微笑んだように見えた。
「だけど、それがどうしたの?」
「あ、はい‥‥。美坂さん、元気なんでしょうか?」
「うーん、まあ元気なんじゃないのかな。だったら学校にも来ればいいと思うんだけど。本人は病気だって言ってるんだけどな」
「はい、それは本当なんです」
「ああ、風邪なんだろ?」
流行性感冒とか、持って回したような言い方をしていたことを祐一は思い出した。だが、この女の子から返ってきた言葉は祐一の想像の範囲外のものであった。
「いいえ。美坂さん、ずっと学校に来ていないんです」
「ああ、ずいぶん休んでいるみたいだけど」
「はい。美坂さんは、入学式の日に学校で倒れて、それからずっと休んでいるんです」
「えっ?」
「だから、ずっと心配していたんですけど、今は元気になってきているんですね」
「もう少し詳しく教えてくれないか。あ、差し支えなかったらで構わないんだけど」
「はい‥‥」
時間もなかったので簡単にではあったが、この女の子がいろいろと祐一に教えてくれた。
同じ中学から進学してきた友達もほとんどおらず、不安の中にあった自分に、前の席に座っていた栞が話しかけてきてくれたこと。「友達になろう」「一緒に遊びに行こう」と声を掛けてくれたのが嬉しかったということ。
ところが、その直後に倒れてしまい、二年生の教室から来た姉に支えられて帰っていったこと。それから、この教室に栞は一度も来ていないということ‥‥。
「せっかく、初めてのお友達が出来ると思っていたんです」
「そうか‥‥」
だが、栞はこうやって寒い中を自分と一緒に過ごしている。
もうすぐ栞はよくなるから安心しろ。そう祐一は言いそうになったが、その言葉を直前で抑えた。それは言ってはならない言葉である気がしたからである。その理由は明確ではない。ただ、何かの「感覚」がそれを押しとどめたような気がした。
「今度美坂さんに会ったら、わたしのことを伝えてくれませんか?」
それが、この子に出来る精一杯のことだったのであろう。
「ああ、任せてくれよな」
「はい」
女の子は安心したようだった。その笑顔がどこか栞のものと重なって見えた。
本鈴が鳴り、慌てて教室に戻っていく女の子を見送りながら、祐一は自分も階段の方に急いだ。
だが、栞がずっと学校を休んでいるというのはどういうことだろうか。
その疑問が、次の授業中、祐一の頭から離れなかった。
五時間目の授業が終わった。
「ああ、いつもこの時間の授業は眠くて敵わないよな」
いつもの四人の雑談の中で、北川がそんなことを言っていた。
「うん、わたしも眠かったよ」
名雪がそんな北川の言葉に同意する。
「名雪は、いつも眠いじゃないの」
「うー」
「香里の言うことの方が正しいな」
冷静に指摘する香里と、不満そうに拗ねてみせる名雪。更にそれに追い討ちをかける祐一の言葉。
いつものような他愛のない会話だったが、祐一はどこか浮き足だった感覚でその中に身を置いていた。
「あ、悪い。ちょっとトイレに行って来る」
そう言って北川が急ぎ足で教室を出ていった。
「あ、わたしも貸してた教科書を返してもらってこないと」
隣のクラスの友人に、次の授業の科目の教科書を貸していたらしい。
結果的に、祐一と香里の二人が残された形になった。
「そういえば、香里さ‥‥」
何気ない風を装って祐一は切り出す。
「どうしたの?」
「栞は結局、元気なのか?」
「わたしには妹なんていない、って前にも言わなかったかしら?」
香里はそう冷たく言った。だが、触れられたくない部分に触れられたという気持ちが、その言葉にははっきりと見えていた。
「今のは、頭のいい香里らしくないな」
「どういうこと?」
香里は、怒ってはいないようだった。そこに望みを託し、祐一は言葉を続けることにした。
「俺は一言も『妹』とは言ってないぞ」
「そんな揚げ足取りみたいなことは言うもんじゃないわよ」
「俺は‥‥」
栞と、そしておそらくは香里、お前のことも心配しているんだ。
そう言おうとして、祐一は僅かに躊躇した。そこに、香里が言葉を挟み込む。
「そんなことは関係ないのよ」
幸い、祐一と香里の近くには他の生徒もいなかった。
しばらくの沈黙があり、祐一はそれに押しつぶされそうになった。
香里が、窓の外に顔を向けた。
昼休みには日差しも覗かせていた冬の空だったが、ふたたび灰色になって、雪がちらつき始めていた。
そんな空の向こう側を見るように、遠い目をしながら香里がこう呟いた。独り言ではないのだろうが、おそらく、祐一に向けた言葉でもないのだろう。
「ただ、失うと分かっていて持ち続けることは出来る?それならば、そんなものは最初からなかったんだと決めてしまった方がいいと考えたことはない?」
「‥‥」
答えを求めているのではないということが、祐一には分かっていた。求められていたのだとしても、今の祐一には答えることは出来なかっただろう。香里の気持ちは勿論のこと、栞の気持ち、そして自分自身の気持ちすらも正確にわかってはいなかった。
だが、本能的にこれだけの言葉が生まれてきた。
答えとしてではなく、やはり祐一自身の独語として、祐一は言った。
「いや、失われるということと、消滅するということは同じなんかじゃないと思う」
「‥‥」
香里は何も言わなかった。
「あー、すっきりした」
「間に合ったよ」
次の授業が始まるチャイムが鳴るのと同時に、北川と名雪がほぼ同じタイミングで戻ってきた。
何事もなかったかのように祐一と香里は席に戻った。敏感な名雪が何かを察したようにも見えたが、結局、何も言わなかった。
この日最後の授業中、祐一は考え事をしていた。
栞が自分の方を向いてくれていることに、ある程度の確信は持っていた。
そして香里の言葉。あれはどういう意味だったのだろうか。
失う? 最初からなかった?
それから、昼休みの最後に栞の同級生の子が教えてくれたこと。
それらから導き出される様々な推測が祐一の頭の中を巡っていた。憶測といってもよかったが、それはある一つの可能性を示していた。だが、そこに手を伸ばすことを、祐一はためらっていた。
結局、この日の午後の授業には全く身が入らなかった。