灼けるような暑さだった。
アスファルトに覆われた地面からはゆらゆらと陽炎が立ち上っていた。
蝉の声が更にその暑さを助長する。この町の、全ての木々にいるのではないかと思われるほど、あらゆる場所からその声が聞こえてきた。
特に観光資源があるわけでもなく、特筆すべき産業があるわけでもない、ごく普通の田舎町だった。
歴史だけはあるらしいが、その歴史の舞台に上ったことも一度もなかった。
そんな町にわざわざ足を運ぶ人など、ほとんどなかった。彼にしても、好んでこのような町にやってきたのではなかったが、物語というのはそういうところから始まるものなのかもしれない。
夏の太陽が銀色の光を放ち、舗装された地面を照りつける。
その一方で、波を幾色もの光で彩る。
穏やかで静かな海。その凪の先に、陽炎が揺らぎ、ゆっくりと漁船が、岬の向こうにある港を目指して進んでいく。
海の見える舗道。そしてその傍らで夏の光を存分に受けて自らの持つ緑色を極限まで誇示しようとする一本の木。隣には夏の到来を象徴するかのような向日葵の花が咲き並ぶ。背景にはその佳境を彩る澄み切った青空がある。
波の砂浜にうち寄せる微かな音が聞こえる。そのささやきを背に受け、残りわずかな生命を惜しむかのような蝉の鳴き声が聞こえる。
疎らに数個の数字が書き込まれたバスの停留所の時刻表。その数字は何かを待つかのようにも見える。
炎天下の容赦ない日光から人を守るかのように立てられた小さな待合所。しかし、この場所でその恩恵に与る者は今はない。
にわかに蝉の鳴き声が途切れる。代わりにこの場所にやってきたのは、暑苦しそうなエンジン音を道連れにした一台のバスであった。そのバスは速度を落とし、海に最も近いこの場所に停止した。その人工の風が小屋にぽつんとぶら下げられた風鈴を数回だけ鳴らす。その音を合図にしたかのように、開いた扉から一人の青年がこの地に降り立った。
より一層の光が夏の太陽から放たれる。これまでと同じように波は打ち寄せ、蝉は鳴き始める。この暑さをほんのわずかだけ和らげる微風が、風鈴を再び鳴らし、彼の髪をわずかに泳がせる。
その彼は、この町で最初に何をしたかというと……。
僅かに涼を与えてくれるのは、海の見えるこの堤防の上だった。
海は静かに凪ぎ、時折入り江の向こうを通り抜けていく漁船の姿が、どこか遠い場所の出来事のように現実から離れたように見受けられる。
海風は湿気を帯びていたが、ひとまずは涼しく感じられた。人に限らず、全ての命は海を源にしているという。潮風がどこか懐かしく感じられるのは、そのためであろうか。懐かしさと同時に悲しさと寂しさも感じられる。それは何故のものなのであろうか。
そんな感慨は、彼の中には実際には存在していなかった。いや、存在はしていたが意識はしていなかったといった方が正しいかもしれない。
とにかく、行き倒れ寸前でこの町に辿り着き、なんとか一夜の宿と食事を分け与えてもらった彼は、これからどのようにして旅を続けるのか、ひとまずは暑さから逃れることの出来るこの場所で考えようとしていた。
彼の名は、国崎往人。自称、旅の人形使いである。手を触れずに人形を動かすという、大道芸に似た見せ物で路銀を稼ぎ、旅を続けていた。単なる大道芸と違うのは、手を触れずに人形を動かすというのが、手品やトリックの類ではなく、本当の彼の「力」 であるところだった。母親から受け継いだその能力を、何故自分が持っているのかは分からなかった。単に、日々の糧を得るためか、それとも、それにはとどまらない重要な役割を持って備わったものなのだろうか。
ただ、今は亡き母親から、こんな話を聞いていた。
『空の上で、風を受けながら待ち続けている女の子がいる』
『それは、ずっと昔から』
『いろいろな思いを抱きながら』
『同じ大気の中で、翼を広げて風を受け続けている』
『そのための力』
『でも』
『この力は、どのように使っても構わない。その女の子を助けるためにでも、別の誰かを助けるためにでも、単に今のようにご飯を食べていくためだけにでも』
往人は、その女の子を探すための旅をしていた。自分の力がそのために存在するのかは分からなかった。ただ、その旅のための路銀を手に入れる手段は、この力だった。
手を触れずに動き出す人形を、不思議そうに眺める人、嬉しそうに見つめる人、胡散臭そうな視線を向ける人、様々だった。それでも構わない。そう、見物料さえ払ってくれれば。
「さぁ、楽しい人形劇の始まりだ!」
人形が駆ける。
「はぁ……」
人形が崩れる。
長い旅のうちにはそんなこともある。その人形芸が振るわず、路銀も底をついた結果がこれだった。物事は全て必然のうちに成り立っているというのがもし事実だとすれば、往人がこの町にやってきたのもそうなのかもしれない。
旅は、どこまで続くのだろうか。
堤防の上で風を受けながらぼんやりとしていた往人に、何かが激突した。
自分の中に何かがあるのを、佳乃は知っていた。だが、それが何であるのかはまだ分からない。
時々、それが現れては何かを残していくのだが、その記憶は佳乃の中にはない。まるで、その間だけ佳乃が乗っ取られたかのように。
小さい頃に母親を失ってしまい、その原因の一部が自分にあることを知った佳乃は、その時に何を思ったのだろうか。
その頃はまだ父親は健在で、この小さな町での唯一の医師として信頼を得ていた。そんな父は佳乃と姉の聖には優しく、町の人々から頼りにされている父は佳乃にとっても誇らしかった。
姉も、母親がいない代わりにいつも面倒を見てくれる。だから、佳乃はそんなに寂しくはなかった。
佳乃自身が、明るく気さくな性格だったから、学校でも友達が多かった。下の子であるせいか、まだ子供っぽさが残っている佳乃は、クラスの中でも人気者だった。なんとか一号さんとか、妙な称号をつけるの癖があって、「変なの」 とみんなに言われもしたが、つけられた本人は何故か悪い気がしない、そんな魅力を持つ子だった。
そんな佳乃が、母親のことを思い出すと少し悲しくなる。今の自分が不幸せだとは思わなかったが、何かが蓄積されたように、時々その奔流に悩まされる。
自分を産んだために命を縮めてしまった母親に対して、申し訳なさを感じていたのかもしれない。もし、顔を覚えていない母親に会うことが出来たなら、それを謝りたいと思っていた。それが、佳乃の夢だった。悲しい夢ではあったが……。
この日は佳乃は変わらぬ日常を送っていた。
夏休みに入ってはいたが、動物の飼育係を受け持っている佳乃は、制服姿で学校に行く途中だった。親友のポテトという生物をお供に、学校の近くまでやってきた佳乃は、すぐ近くの堤防に誰かが座っているのを見かけた。
「ポテト、行ってみる?」
「ぴこぴこっ」
肯定の返事を受けた佳乃が、嬉しそうに駆けていく。
コンクリートの階段を上り、その人間の姿が目に入る。顔は分からないが、この町では見たことのない人のようだった。年は自分より少し上、あまり立派ではなさそうな服を着て、背中を丸めてなにか考え事をしているようにも見える。
「うぬぬ……、そっとしておいた方がいいのかなぁ」
「ぴこっ?」
「でも、なんとなく気になるよぉ……。もし困っている人だったら助けてあげないと」
「ぴこっ」
「うん、そうだよねぇ」
「ぴこぴこっ」
ポテトの助言に後押しされて、佳乃は決めた。決めたらあとは素早い。それが佳乃の良いところであり悪いところでもあった。
「どーーーんっ!」
佳乃の華奢な体が往人に激突した。
何が起きたのか、往人には一瞬分からなかった。視界が想定外の方向に揺れ、首が妙な音を立てる。
「うぉぉっ!」
思わず声を出した往人は、なんとか体勢を整え直すと、その闖入者を探して周囲を見渡す。
「ごっ、ごめんなさい……」
二百七十度ほど首を回転させると、往人の方を申し訳なさそうに見つめている一人の女の子の姿が目に入った。夏らしいショートカットの可愛らしい女の子だった。学校の制服に見えなくもない格好をしているが、それにしては幼く見える女の子だった。傍らには見慣れない種の犬のような生物がいる。往人にはまだ状況がよく掴めていなかった。自分を襲った衝撃と、この女の子がどうしても結びつかない。だが、恐縮しているこの表情からすると、おそらくはその動作の主体はこの女の子なのだろう。
「勢い、つけすぎちゃった……」
「お前なぁ……」
怒る前に呆れることしか出来なかった往人。そもそも、この女の子は何者で、なんのために自分にぶつかってきたのであろうか。
結局、それはよく分からなかった。
見ず知らずの自分に親しげに話しかけてくる女の子は、結局自分の言いたいことだけを言って、学校があるからと去っていった。たしかに、この堤防のすぐ側に、学校の校舎のような建物があり、彼女と同じ服装をした女の子たちが出入りしている。
往人は、肩をすくめながら立ち上がり、特にあてもなく歩き始めた。
どこか、涼をとれる場所か、芸を披露する場所が得られればと思ったが、行動を始めた時点で既にそれが望み薄とは分かっていた。
これだけならば、たまたま立ち寄った田舎町で起きた、少しだけ妙な出来事で終わっただろう。
だが、そうならなかったのは、何かの導きなのだろうか。佳乃の中にある何かが、往人の中にある何かに反応したからなのだろうか。
最後の物語がここから始まる……。
往人は、居候先の家からぼんやりと暗いその前の通りに出た。
この奇特な家の住人は、自分を置いてくれる代わりに、酒の席の愚痴につき合うことを強制していた。なんとかそれから逃れた往人は、その酒のためのものも含んでいる暑気を振り払うために、外に出たのだった。熱帯夜の具体例といってもよい夜だったが、それでも外に出ていれば若干は過ごしやすい。
星の瞬く中、あてもなく歩き始める。昼に見たものとは、街の表情も少し違っているようだった。
適当に歩き続けるうちに、家もまばらになってきた。代わりに広がるのは水田で、今が成長の盛りである青い稲は、夜の闇の中で休息をしているかのようであった。昼を支配していた蝉の鳴き声の代わりに、蛙の合唱が響く。やがてその中を流れる小さな川に架かる橋に辿り着く。
(確か、ここには来たことがあったな……)
側にある電灯に照らされたその橋のシルエットと共に、往人は思い出した。この町に来て何日目のことだっただろうか。妙な生物に商売道具の人形を奪われて、追ってきたのがこの場所だった。
そこには、誰かがいたはずである。
子供っぽい笑顔が印象的な一人の女の子……。
「そうか……」
昼に堤防で自分に突撃してきた女の子が、その記憶と一致した。
(しかし、何が面白くて俺にちょっかいを出すんだろうか。よそ者の俺に……)
自分が女の子を引きつけるような魅力を持っているとは思わない。寧ろ、無愛想とか人相が悪いと言われることの方が多かったはずだ。物怖じしないといってしまえばそうなのだろうが、それだけで見知らぬ男を構ったりするのだろうか。
その時、何かの気配を感じた。あまり好ましくない気配だった。
こういった生活をしている往人は、ここよりももっと不気味な山の中で夜を明かしたこともある。時折、こういった奇妙な気配を感じることも何度かあった。直接自分に害は及ばないにしても、その場所にいたくなくなるような気配。そういった気配を感じさせることによって、その場所が悲劇を生み出すのを避けているかのような……。
気配が奥に移動した気がする。
それを追うべきかどうか、一瞬、往人は迷った。もし、それが人に害をなす類のものであるとしたら、追うのは愚かなことだ。
だが、往人の中の感覚はそれを追うように指示していた。それに従い、往人は慎重に足を進める。
橋を越えると、その小径は次第に細くなり、上り坂となっていった。木々がそれを遮り、月の明かりも満足に届かなくなる。
(引き返した方がよいのか?)
その心の中の独語にも関わらず、往人は先に進んでいた。
緊張の支配する小径を抜けた先に、石段が見えた。それはここが確かに人の手の届く場所であるということを示しており、往人を幾分安心させた。
その往人の視界に、何かの生物の姿が入った。それはあっという間に往人に近づき、動けずにいる往人の足にかぶりついた。加減をしているのだろうか、痛くはなかった。
「何だ?」
思わず声を上げた往人だったが、闇はそれに対して何も反応を示さなかった。代わりに反応したのは、その生き物自身だった。
「ぴこぴこっ」
その妙な鳴き声に、往人は緊張を解いた。
「なんだ、お前か……」
何故このような場所にいるのかは分からなかったが、自分に害を及ぼす生き物でないことは分かっていた。
「ぴこっ」
確か、ポテトとかいう名だったその生物が、往人を促すかのようにその足を引く。もう帰ろうとしている往人の動きに抗う。
「おい、やめろ」
「ぴこっ」
ポテトは往人の足を引き続けている。その方向は、石段の上だった。
往人がそちらに目を向けると、ポテトは我が意を得たりとばかりに走り始めた。仕方なく往人はその後を追う……。
石段を駆け上がると、開けた場所に出た。薄暗い中で鳥居をくぐったのを見たから、ここは神社なのだろう。海の方角に並んだ松の木の間から、町の灯りがいくつか見えている。正面には、この雰囲気の中で荘厳さを増した本殿がある。だが、往人が目を留めたのは、そんなものなどではなく……。
一人の少女だった。
袖のない薄着から露わになった肩口を、月の明かりが照らしている。それは不気味なほど白く見えた。その通りにこの子の肌が白かったとしても、今はそんな女性的な美しさよりももっと蠱惑的な、恐ろしいとも言い換えられるような美しさを呈していただろう。そして、その少女の顔に視線を移す。
この少女は、確かに往人がこの町で会ったことのある少女であった。
虚ろな目が、天を見据えている。その瞳は、昼間に堤防で話したときの快活なそれではなく、何かに憑かれたような生気のないものであった。
明らかに様子がおかしい。昼間の、脳天気とも思えるような気さくさは微塵も感じられない。まるで別人である。
「お前……」
近寄ろうとする往人を、何かの力が遮ったような気がした。それに往人の中の何かが反応する。一瞬だけ両者が鞘当てをした感覚を覚えたが、一転してそれは霧消する。
そのまま少女に近づいていくと、小さな口から漏れるように出ている歌声のようなものが聞こえてくる。
「…たとえば…ほしのかず」
「やまではきのかず…かやの…」
断片的なその言葉は、何を意味するのか分からなかった。歌か、若しくは何かのまじないのように聞こえる。
「…おばな…かる…や…」
「…はぎ…き…」
発せられる言葉は次第にかすれていく。往人はそれを見守るのみであった。
「この子を……」
少女が最後に言うと、操り人形の糸が切れたかのように、その場に倒れ込む。
寸前で往人がそれを抱える。
この季節であるのに関わらず、少女の肌は冷たく、その体は往人が想像していた以上に小さく軽かった。
髪の毛から微かに漂う匂いだけが、彼女が現実の、年頃の少女であることを往人に認識させる。
「おいっ!」
抱きかかえた少女の腕が揺れる。その手首に巻かれているバンダナがそれに伴って揺れる。それが往人の腕をそっと撫でる。
息はしているようだった。それに気付いて往人は心を落ち着かせる。
「うぅ…ん…」
強すぎないように加減して、軽く少女の頬を叩く。
それに反応して、彼女は目を覚ました。歪んだ視界は、焦点が徐々に合って、目の前にいる人間の姿を映し出す。
「しっかりしろ、大丈夫か?」
「……お姉ちゃん?痛いよぉ……」
「……」
「あっ」
「……」
「……」
抱きかかえられている体を起こそうとした。だが、その体は思ったように動かず、往人の腕の中で跳ねたような形になる。それほど、少女の体は軽かった。
「あたし、倒れたの?」
「そうみたいだな」
「覚えてない……」
「そうか、まあ、その様子なら大丈夫だな。立てるか?」
抱えている腕の角度をゆっくりと変え、往人が少女を起こす。今度は、少し頼りなかったがきちんと起きあがれたようだった。
しばらくの間は、頼りなさそうな動きだった。
「うーん」
ようやく一安心したところに、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「ぴこっ」
その声と、目の前の少女は奇妙に相関深い。昼間に会ったときもそうだった。だが、今度は別の人影がこの生物の後を追ってくるのが目に入った。こちらのやがてその顔が、というよりは服装がはっきりと目に入ると、それも自分の見覚えのあるものであることに気が付く。そう広くない町だったが、そうそう知った顔に出会うのは妙だと思った。しかも、こんな夜遅い時間の、こんな人気のない場所で。
「あっ、お姉ちゃん」
目の前の少女の顔が明るくなった。やはり心細かったのだろうか。自分の記憶の外でこんな場所まで来てしまい、気が付くと男の腕の中にいたのだから。
だが、そんな少女の表情とは裏腹に、こちらの女性の方は、心なしか険しい顔を往人に見せていた。
「……」
少女が状況を説明し、往人がそれを補足しようと試みた。言っていることは確かにそのとおりなのだが、女性はそれを相当厳しく理解したようだった。
大切な妹に手を出そうとしたこの人形使いに、文字通り血の粛清を浴びせようと、メスを懐から取りだして振るう。
逃げながら弁明する往人を、佳乃が意表をついた方法で支援し、なんとか状況が収まる。改めて経緯を説明すると、ようやく分かってもらえたようだった。
「そうか、勘違いして悪かった」
昼に大道芸をしようと試みたのが、この霧島聖という女医の経営する診療所の前だった。そこでいくらか言葉を交わしたというだけの間柄だったが、縁もゆかりもないこの町での数少ない、見知った顔だった。一方で、堤防で自分にぶつかってきたこの少女もそうだ。そしてその二人が姉妹であると説明される。
「心配したぞ」
「ごめんなさい」
可愛らしく首を下げて姉に謝る少女。同時に、往人の方にも体を向けて同じことをする。
「ま、いいさ」
「それでね、国崎くん……だっけ?」
「ん、なんだ?」
「下の名前はなんていうの?」
「往人」
「往人くん?」
一回りは年下と思われる少女にくん付けで呼ばれるのは奇妙な気がした。「くん」 という呼び方はどことなく親しさを感じさせる。だが、往人はそう呼ばれることをなぜかそう不自然に思わなかった。寧ろ、この女の子らしい呼び方だと思った。ともあれ、この時、初めてこの女の子が自分のことを名前で呼んだのだった。
「そうだ」
「いい名前だね」
「そうか、ありがとな」
「えっと……」
「それじゃ、改めて、ごめんなさい、往人くん」
少しばかり恥ずかしげな表情を向け、もう一度お辞儀をする。
「ああ、それはもういいさ」
「それとね、あたしは、佳乃」
「かの?」
「うんっ。あたしの名前、霧島佳乃っていうの」
「あ、名前か」
「よろしくね」
この少女、佳乃は、元気良く手を振りながら家に戻っていった。
後に残された静寂の中に、往人はしばしたたずむ。今までは聞こえなかった木々のざわめきが耳に入り、遙か向こうには波の音と星の光も感じられる。
「俺も帰ることにするか」
佳乃の元気な声を心の中で再生させながら、往人もまたこの神社を後にした。
この小さな町では、大道芸の需要などがあるはずもなく、往人は所期の目的である路銀を稼ぐことはおろか、その日の生活にも困る有様であった。
佳乃と聖は暇なのだろうか、昼間から町中をうろうろしている往人によく出会い、くだらない話の相手をしていた。
居候していた家にもそう長くもいられず、町はずれにある廃線になった鉄道の駅に潜り込んでいた往人は、アルバイトという名目でこの霧島診療所の世話になることになった。一応、雑用という名目で働かされていたので、なんとか自分の中にある面目も立つ。
公私混同甚だしい雇用主は、しばしば私用にも往人を酷使したが、酷使といってもそれは高の知れたものだった。
茶飲み話の相手をさせられることもあり、逆にこれで給料をもらってよいのだろうかと思えるほどだった。
田舎町の平時の医師というのは、それほど暇だった。
そんな時に、学校に行っていた佳乃を迎えるのが、半ば日課のようになっていた。
笑顔の印象的な佳乃はいつも元気で、謎のポテトという犬のような生物を供にして元気に「ただいま」 という声を掛ける。今までずっと一人で旅を続け、そんな言葉には無縁だった往人の、心のどこかに響くものであることに、まだ当人は気が付いていなかった。
聖の方とも次第にうち解けていった。
往人が分かったことは、この姉は妹の佳乃のことを、単に溺愛と呼ぶ以上に大切にしていることだった。夜中の神社での一件も、その一つであったようだ。ただ聖自身も「佳乃のことになると見境がなくなる」と言っていたが、それにしてはやりすぎだと思ったものだった。
茶飲み話の話題などというのはそれほど多くもなく、自然にその内容は二人の共通の話題である佳乃のことになっていった。往人は佳乃のことを根ほり葉ほり聞こうなどというつもりはまったくなかったが、いろいろと話しているうち、また、聖がこのことについては詳しく話すうちに、だんだんと深い内容になっていった。
往人には一つの疑問があった。
佳乃が常に腕に巻いている黄色のバンダナ。本人に冗談交じりに聞くと、本当に常に巻いているらしい。その理由を聞いても「これを大人になるまで着けていると、魔法が使えるようになるんだよぉ」と笑顔ではぐらかされてしまう。そこで、話が弾んだときに、さりげなく往人は聖にそのことを聞いてみた。
聖は、少しだけ影のある表情をした。
「国崎君も、確か両親を失っていたのだったな」
「ああ、そうだが、それが何か」
「気付いているとは思うが、この家には、つまり私と佳乃には、両親はもういない」
「そうか……」
「特に母親は、佳乃がまだ小さいうちに死んだ。もともと丈夫じゃなかったのだが、佳乃を産んだことがかなりの負担になったらしい」
「それとあのバンダナは、どんな関係が……」
「まあ、慌てるな。こういう話だ……」
聖は数瞬だけ沈黙した後、真剣な表情でこういう話を始めた。
何年も前の夏祭りの日に、ある出来事があった。
佳乃が「遠くに行ってしまった」母親の真相を理解した頃だった。
こっそりと神社の本殿に忍び込んだ佳乃と姉の聖は、そこに不思議なものを見た。
この神社に祀られている小さな羽根。
それは淡い光を発していたが、佳乃たちに反応するようにその光を増し始めた。
好奇心旺盛な佳乃がそれに駆け寄った。
「魔法の羽根だぁ。不思議だよ、光ってるよぉ」
佳乃にとっては、確かにそれは魔法の羽根であったかもしれない。そして、それは確かに不思議な何かを佳乃にもたらした。
聖が手に取った羽根を佳乃に手渡したその瞬間、何かが弾けたような閃光を発した。驚いた佳乃と聖が、慌てて目を閉じる。そして数秒後、おそるおそるゆっくりとその目を開く。
だが、何も起きていなかった。淡い光を発していたはずの羽根が何の変哲もないそれに戻っていた。
顔を見合わせる姉妹を驚かしたのは、別のものだった。
「こらっ、こんなところに入って何をしている!」
「わっ、ごめんなさいっ」
「いいから、早く帰れ。こんな時間だぞ」
「はい、わかりました」
ちょうど見回りに来ていた神社の管理人に見つかり、怒られて退散する。
ぺこりと頭を下げる佳乃と、神妙に頭を下げる聖を、強く管理人は責めることはなかった。だから、単なる夏のひとこまといえる出来事のつもりだったのだが、それから佳乃には変化が訪れたのだった。
この日の晩、夜中に目が覚めた聖は、診察室の明かりがついているのに気が付いた。
消し忘れかと思い、慌てて部屋に入ろうとすると、そこに人影があるのに気が付いた。
それが佳乃だったので、聖は少なからず驚いた。甘えっ子で恐がりの佳乃は、一人で夜中にトイレにも行けないような子だったからだ。
その佳乃が何をしようとしているのか、気が付いた聖は慌てて駆けだしてそれを止めようとした。
佳乃は手にメスを持って、自分の手首に当てようとしていたのだった。
メスは、佳乃を傷つけたが、寸前に聖が気付いたおかげで大事には至らずに済んだ。手首には傷が残ったが、それ以上に聖の衝撃は大きかった。
抱きかかえた佳乃は、何かに憑かれたような虚ろな目をしており、半分だけ開いた口からは、聞き取りにくい微かな声でなにかを呟いていた。
「この子はわがいのち……」
「わたしが身代わりに……」
その意味はよく分からなかった。だが、それを考えている余裕はなかった。佳乃の手からメスを奪い、見よう見まねの応急処置を施し、眠っている父親を起こしに走る。
(こいつは、佳乃じゃない)
聖はそう思った。だが、直感的にそう思うだけで、その正体が何であるかは分からなかった。
その時、佳乃がこう言ったのが聞こえた。
「お母さん……」
聖は、奪ったメスを落とした。
聖は、佳乃が自分の母親に会いたがっているのを知っていた。だからこそその真実が告げられなくて、本当のことが言えずにいたのだ。だが、それがこのような結果を引き起こしてしまった。
本当のことを言うべきか、だが、それだけの覚悟が聖にはなかった。
だから、一所懸命に考えて、そして、分からないままに、子供心にいろいろ考えた。
「このバンダナを大人になるまで着けておくんだ。そうすれば、大人になったときに魔法が使えるようになるぞ」
「うんっ」
いつもの佳乃に戻っていた佳乃は、笑顔で頷いた。
それから、本当にずっと、佳乃はバンダナを巻いているのだという。
「何が佳乃にあんなことをさせたのかは分からなかったが、私はこう考えたのだ。手首にあれを巻いておけば、また何かに憑かれて同じことをしようとした時に、意識が戻るのではないかと」
「そうか……」
往人の心の及ばない深さの話に、そう言葉を返すだけだった。
「まだ見知って間もない国崎君に、少ししゃべりすぎてしまったようだな」
「悪かったな、そんなことを話させて」
「いや、それは構わない。ただ、不思議だと思っただけだ。佳乃も、何故か君にはずいぶん懐いているようだし」
「確かにそうだな」
どんな理由があるのか分からないが、佳乃は往人のことを気に入っているらしい。仕草が子供っぽいので、傍目には妹が兄にくっついているようにも見えるのだが、実際のところはそれとは違うものかもしれない。
「佳乃も、そろそろ姉離れをする時が来たようだな」
「そうなのか」
「ああ、もうあの子も大人だ……」
「いや、あいつは充分に子供だろう」
「まあ、すぐに分かるさ」
「……」
聖は、既にそれを知っているようであった。
霧島診療所での生活が始まって数日、いつものように待合室で食事を済ませた往人がそこのソファでくつろいでいる。何となく落ち着きのようなものを感じた往人は、それを不思議に思った。ずっと旅を続けてきた往人にとって、ある場所に腰を落ち着かせることに安心を感じたということはなかった。それが、微妙にこの場所にはあった。聖も佳乃も、そういったものを感じさせる性格とはほど遠かったし、薬品の匂いの漂う診療所そのものに温かみを感じるという風でもなかったから、往人にはそれがある種の違和感に思えたのだった。
洗い物をしている聖はこの部屋にはおらず、佳乃も食器を戻すためにそちらに行っていたので、この割合と殺風景な部屋にしばらくの間往人は一人でいた。それがそんなことを感じさせたのであろうか。
だが、そんな感慨もすぐに破られる。
佳乃が、盆に湯気の立つ湯飲みを乗せてやってきたのだった。そしてそのお供の謎の生物。
「往人くん、お茶だよぉ」
「ああ、分かっている」
「お姉ちゃんもすぐ来るよ。食後の落ち着いたまったりした団らんの時間だよぉ」
その表情は、見ている人間も嬉しくさせる笑顔だった。この顔からは、あの時の虚ろな目と意味不明な言葉を発していた佳乃とは結びつかない。
佳乃の言うとおり、テーブルの上に湯飲みが置かれた時、聖が部屋にやってきた。この時間は、いつものようにたわいのない話をして過ごした。
話が一段落付いた頃、佳乃が唐突にこんな提案をした。
「ねっ、往人くん、お散歩に行こうよ」
「こんな時間にか?」
「お散歩は夜がいいんだよぉ。昼間は暑いから」
「そうか……、って、昼も散歩したような気がするけど」
「うぬぬ、細かいことは気にしちゃだめだよぉ」
「ま、別にいいけどな」
「うんっ。お姉ちゃんも一緒に行く?」
「いや、私はまだ仕事が残っているから、国崎君と二人で行ってくるといい。ただ、あまり遅くならないように」
「うん、分かってる」
「ポテトには監視役を命じる」
「ぴこっ」
「監視役?」
「国崎君が不埒な行為に及ぼうとしたら、すぐに連絡するように」
「ぴっこり」
「あのなあ……。それなら俺を行かせなければいいと思うが」
「佳乃が行きたいと言っているのだ、そうはいかん」
「信用がないんだな」
「信用がなかったら、本当に行かせない。まあ、頼んだぞ」
その言葉に含まれた別の意味を察し、往人は静かに頷いた。佳乃を連れて診療所のドアを開け、外に出る。
昼間は殺人的な暑さであるこの町も、夜になれば少しは過ごしやすい。海風のためであろうか。
佳乃は、終始嬉しそうにしながら往人の隣を歩いている。その足元では同じようにポテトがぴこぴこついてくる。
夜という独特の雰囲気を壊すのを恐れたのか、佳乃はほとんど言葉を発していなかった。結局、やってきたのはいつもの場所であった。 神社へと続く道、その途中の小川に架かる橋。
神社に行こうとしているのかと若干緊張した往人だったが、橋のたもとに腰を下ろした佳乃を見て、それを解いた。
暗がりの中を流れる川からは、昼間と同じようでいて異なるせせらぎの音が聞こえる。ぽつんと立っている街灯が佳乃の顔を幻想的に照らし出す。
聖の言っていた「佳乃も大人になった」というのが何となく理解できたような気がした。聖は、佳乃をずっと見続けてきたのだろうから。
その雰囲気に後押しされたのか、言葉少なげだった佳乃の話し始めたことも、普段とは少し違ったものであった。
「往人くん……」
「どうした、佳乃」
少し憂いを帯びた微笑を見せながら、佳乃は手に巻いたバンダナを揺らしてみせる。
「往人くんの、人形、すごかったよぉ」
「あれは、トリックの類じゃないからな」
「往人くんは、魔法が使えるんだよねぇ」
「ああ、あれを魔法というんならな」
「あたしの魔法のことも、言ったことあるよね」
「その、バンダナのことか」
「このバンダナが解けるようになって、もし本当に魔法が使えたら、それで叶えたいことがあるの」
「その魔法で、か。どんなことだ?」
「あたしね、お母さんを小さいときになくしちゃったの。あたしを産んでから病気がちになって」
「それで、いなくなっちゃった……」
「お姉ちゃんがいてくれたから寂しくなかったけど、お母さんに会いたいって思ったことはあるんだよ」
「だからね、魔法が使えるようになったら、お母さんに会いに行く」
「そして、お母さんに言わなくちゃ」
「『あたしのせいで長生きできなくなっちゃって、ごめんなさい』って」
佳乃の願いが本当にそれなのだとしたら、普段は明るいこの子の心はなんと哀れなのだろうか。あの時の佳乃も含めて、どれが本当の佳乃なのだろうか。
佳乃は、月明かりに促されるようにそんな風に淡々と話していた。往人は黙って聞いていたが、そこでそれを遮る。
「佳乃……」
「どうしたの、往人くん」
「お前は、本当にそう思っているのか?」
「えっ?」
「本当に、母親に謝りたいのか?」
「……」
往人の言葉の意味が分からずに沈黙する佳乃に、今度は往人の方が一人で言葉をつなぐ。
「佳乃がここにいるのは、母親が産んでくれたからだろう。それなのに、『産まれてきてごめんなさい』なんて言っていいのか?」
「もし、俺が親だったら、そんな娘は叱りとばすぞ」
往人にも既に母親はいない。妙な力の使い方だけを教えて、ほんの少しの間一緒に旅をしただけで、先にいなくなってしまった。それからの生活は大変であったが、自分が生まれてきたことを悔やむということなどは一度もなかった。人は、そんなことを思ってはならない。そんな、自分を否定するようなことは。
佳乃に向けた往人の言葉は厳しかったが、それとは裏腹に目は優しげであった。
だから、驚きを隠せない佳乃であったが、何かを知ったようににっこりと笑って、こう往人に答えた。
「そうかも。お母さんに会ったら、お礼を言わないといけないんだねぇ」
「そうさ」
「あたしは、生まれてきてよかったと思ってるから。こうして往人くんとお話していられるのは、お母さんが生んでくれたからだもんねぇ」
「そういうことだ」
佳乃の心の奥深くに流れる何かは、そんな佳乃の気持ちに感応したのだろうか。やがて、大きな出来事が佳乃を襲う。
家族、親子……。そこにあるのは単なる遺伝子上の共通点だけではない。叶えられた望み、叶えられなかった夢、この地上にある、あっただけの営みが全て含まれているといえよう。
愛する人を失い、ずっと悲しみを抱え続けている少女。それを救うために失われていく命から願いを後継に託した青年。夫を奪われ、子供をも奪われようとした母親。拠るべき母親の笑顔を目の前で永久に失った赤子。気持ちを通じさせながらも、家族にすらなれずに命を海の底に沈めた武人。最後までそれを待ち続けた少女。
それらは、白い羽根に司られた、多くの悲しみのほんの一部に過ぎないかもしれない。だが、それぞれは人が一人で抱えていくにはあまりにも大きすぎる悲しみである。
だから、人は家族を求めるのだろうか。時に家族自体がその悲しみを生み出すにしても。
佳乃は、確かに大人になった。
男の人を好きになるという、その一面にそれが現れていたのも事実である。
大人になる佳乃は、何を求めているのか。佳乃の中にある「別の存在」はそれに対して何を為そうとしているのか。
その答えがすぐ近くにあった。