それからしばらくして、佳乃が再び意識をなくした。
この時も往人が佳乃を発見したのだが、その往人の首を、佳乃は絞めようとしたのだった。佳乃の瞳には空虚のみがあり、別の者に支配されている様子が感じられた。
「この子は、わがいのち……」
薄れゆく意識の中でそんな言葉を聞いたような気がする。その強い力の中には大きな悲しみが感じられ、ために往人には何故かそれが恨めしくは思われなかったのだった。
往人が完全に意識を失う寸前に、その力は緩められた。佳乃はそのまま倒れ、なんとか動けるようになった往人がそれを必死に抱え込む。
青白い顔色をしている佳乃は、いつもの笑顔の可愛らしい佳乃ではなかった。
「なんだ、こいつは……」
ほとんど出ない声を振り絞ってそう往人は独語した。
そして、まだ真っ直ぐ歩けない自らの体を鼓舞しつつ、佳乃を抱きかかえたまま、聖のいる診療所の方へ戻っていった。
佳乃が目覚めたのは、自分の部屋のベッドの中だった。
おぼろげながら、佳乃は自分の意識を支配していた何者かの存在に気が付いていた。その間、自分が何をさせられていたのかは、今までは分からなかったが、今回は違っていた。指先に残る感覚は、それが確かに往人の首を絞めていたのだということを佳乃に認識させる。
いつからかは覚えていないが、子供の頃から時々、無意識にどこかをさまようことがあったのは知っている。いつも姉の聖が助けてくれたし、疲れているときにはそういう症状が出る子供もいるからという、信頼する姉の診察に、佳乃はどこかで恐れながらも安心して過ごしていた。
それが、ここに来て少し変わった。
その何者かが降りてくる間隔が短くなり、さまようだけでなく自分の近くにいる者に危害を加えるようになった。それは、往人が佳乃の前に現れた時期と一致する。
佳乃の中にいて、佳乃のふりをしているその者は、まるでその往人に何かを伝えようとしているかにみえた。そのために、佳乃の体が媒介として使われているのかもしれない。
佳乃自身の心も、往人の方に向けられ始めていた。佳乃の中に新しく生まれたその感覚は、今までに覚えたことのないものであり、佳乃の中にあるその何者かの存在ともあいまって佳乃を混乱させていた。その混乱に乗じるかのように、本来の佳乃を押しのけて前に出てくる。
「どうして、かなぁ……」
暗い部屋の中で佳乃はつぶやいた。
意識を指先に向けると、再びそれが首に食い込む感覚がよみがえる。
自分のしたことが、はっきりと分かっていた。何がそれをさせたのだろうか。
再び眠りに就いた佳乃に、夢の中でそれは伝えられた。
佳乃を送り届けた往人は、そのまま意識を失ってしまったらしい。佳乃が目覚めたときとは一日日付がずれていたが、やはり往人も診療室のベッドで目を覚ました。
「目が覚めたか……」
白衣姿の聖がそれに気が付いた。体を起こそうとした往人だったが、それすらも上手く出来ない。
「うっ……」
「無理はしなくていい」
それでもゆっくりと体を起こすことが出来た。窓の外には茜色の空が広がり、蝉の鳴き声も落ち着きを見せていた。
「夕方、なのか」
「ああ。君はずっと寝ていた」
往人は自分の首筋に指を這わせる。手で触る限りでは傷のようなものはないようだった。その疑問に先回りして、聖が答える。
「見た目はすこし派手だが、問題はないはずだ」
「そうか……」
往人は既に落ち着いていた。聖は、往人に目を向けるだけで何も話さなかった。
「佳乃は?」
「部屋にいる。今日は念のために一日休ませた。昨日、国崎君が連れて帰ってからしばらくして、目を覚ましたようだ」
「そうか、それならばよかった」
「ああ、君のおかげで、あれ以外には特に異常もない。だから、休ませるのに苦労したぞ。佳乃には、君に後で部屋に行かせるからと言っておいたから、顔を出してやってくれ」
「ああ、わかった」
眠り続けていた自分に対する、聖なりの対処だったのだろう。
何度か首を左右に振ったり、腕を動かしたりして特に異常を感じなくなった往人は、ベッドから起きあがった。
「なら、早いほうがいいかもな」
「平気か」
「ああ、おかげで」
「ならば、頼む」
返事はせずに、往人は佳乃の部屋に向かっていった。首筋に若干の痛みは残っているが、それほど気にはならなかった。寧ろ、佳乃を意識しているために感じるような類のものであった。
佳乃の部屋の前に立ち、ドアをノックする。すぐに、聞き慣れた少女の声が返ってくる。
「お姉ちゃん?」
「いや、俺だ」
「わ、往人くん?入ってもいいよぉ」
ドアを開けると、佳乃がベッドの上にぽつんと座っていた。嬉しそうな笑顔がそこにはあった。
「ちょっといろいろ聖に働かされていてな。やっと雇用主の認可が下りた」
「お姉ちゃんが今日は一日休んでいるようにって言ってたから、退屈だったんだよぉ」
恨めしそうな目を向けるが、笑顔の方は変わらなかった。
「悪かったな。その聖の指示だから、クレームはお姉ちゃんに言ってくれ」
「うぬぬ……」
困ったような顔をする。無垢な少女にそんな誤魔化しを言うのは少々気が引けたが、仕方のないことでもあった。佳乃を傷つけたくはなかったのだから。
夕日の射し込む部屋で、佳乃と往人の顔も赤く染まっていた。その空気は、何故か二人に言葉を出すことをためらわせていた。
微妙な沈黙のあと、佳乃が意を決したかのように口を開いた。
「往人くん……」
右手のバンダナが寂しげに揺れた。往人にはそう感じられたから、佳乃にその先を言わせずに、黙ってその体を引き寄せた。
「えっ、どうしたの?」
思わぬ往人の行動に、佳乃はとまどった。
その戸惑いに乗じるかのように、往人は佳乃の顔を自分の正面に向け、そっとその額に唇を触れさせた。
何か、温もりが伝わってきた。同時に、佳乃の中にある何かに触れたような気もした。懐かしさと悲しさを同時に感じたような、不思議な感覚が往人の中に走った。
「なんか、不思議な感じだよぉ……」
心細い声で、佳乃も同じことを言った。佳乃も自分と同じ感覚を覚えたのだろうか。
夕日のためでない要因で、佳乃の頬が赤く染まったように見えた。いつもとは違う表情を見せている佳乃。恥じらうようなその仕草に、往人は子供でない佳乃を感じた。
(いつか大人になるときに……)
(魔法が使えるようになるんだよぉ)
佳乃の手を取ると、そこには彼女が常に身につけていたバンダナがあった。大人になるときにこれを外すのだとすれば、それはもうすぐ近くまで来ているのだろうか。
「往人くん……」
「なんだ?」
「もう一度、今の、してもらってもいいかなぁ」
「もう一度、か?」
「うん……。それでね、今度は別のところに、がいいなぁ」
「別のところ、か」
「あたしに初めての口づけを、ください」
佳乃が上目遣いで往人を見つめる。そこにはそんな気持ちがあっただろうか。佳乃以外には決して分からない気持ち。少なくともこの時点では。
真摯な表情を緩める佳乃。往人の沈黙に耐えきれずに、笑いながら、「そんな風に言えたらいいねぇ」などと誤魔化すつもりだったのかもしれないが、往人はそれをさせなかった。
佳乃の望んだとおりに、その唇を塞ぐ。
「う‥ん……」
甘い香りがした。その接点を経て、今まで届かなかったいろいろなものが通じたような気がした。
佳乃と、佳乃の奥にある様々なもの。往人と往人の奥にある様々なもの。
それらが出会った。
この時はそんなことは想像していなかったが、往人は、自分の力を使って人形を操った最後の機会になった。
いつもの散歩ルートにある橋の欄干を、飾り気のない人形が軽やかに走る。
そして、端まで辿り着くと、勢いよくジャンプして、人形にとっては遙か下の地面に着地する。表情のないはずの人形が誇らしげにしているように見えた。
「わぁ、やっぱりすごいよぉ」
佳乃が感心してみせる。感心以上に往人の人形芸が気に入っているらしい。
「本物の魔法だよねぇ」
「ああ、そうだ」
佳乃が不思議そうな顔で人形を触りながら言う。普段はそれに触れられることを嫌う往人だったが、この時は佳乃のするのに任せていた。
「なんのためにあるんだろうねぇ?」
「それで食べるためだろう」
「そうじゃなくって……」
受け継がれてきた力には本当のところ、意味はあるのだろうか。母親から聞かされたあの言葉を思い出す。空に羽を広げた女の子がいて、ずっと待ち続けていると。
旅を続けてきたのは、彼女を見つけるためだったのだろうか。それとも、空にいる少女というのは比喩であり、自分の求める女の子がどこかにいるのだろうか。
その少女とは、佳乃ではないのか。
佳乃は、空を飛びたいと言った。そして、母親に会いに行きたいと言っていた。
魔法。佳乃はまだそれを持たず、往人は持っていた。その事実に何らかの意味があるのだろうか。
「あたしね、聞いたことがあるんだよ」
「何をだ?」
「魔法っていうのは、誰かを幸せにするためにあるんだって。もし本当だったら、あたしも誰かを幸せに出来るのかな?」
「そうかもな。けど、俺の魔法は誰も幸せにはしてないぞ。自分が食べるだけで精一杯だ」
「うぬぬ、そんなことないよぉ」
佳乃のバンダナが揺れる。それによって何かを思いだしたかのように、佳乃がぴょんと勢いを付けて、腰掛けていた欄干から地面の上に降り立つ。
「今日、餌やり当番だったのを忘れてたよぉ」
「明日じゃなかったのか?」
「今日の担当の子が用事あるからって、あたしが代わりを引き受けたの」
「そっか」
「だから、先に行くね。往人くんの服、あたしの部屋にあるから」
「そうだな、俺も着替えに戻るか」
「また、あとでね」
手を振りながら佳乃は駆けていった。往人もゆっくりと同じ道をたどっていった。
夏の日差しは強く、朝に洗った服は昼前にはすっかり乾いていたようだ。佳乃が、自分で畳んだ服が、部屋に置いてあった。心地よい太陽の香りがきちんと整えられた服から伝わってくる。
その服に袖を通すと、服の間に挟んでおいたと思われる紙がひらひらと舞うのが見えた。
三つに折り畳まれている便せんのようなそれを開く。中には、佳乃のものらしい子供っぽい字で何かが書かれていた。
それを読んだ往人の表情が変わる。
往人くんには信じてもらえると思うから、これを書いています。
わたし、やっぱり空に行くことにします。
そうすれば、みんなが幸せになれるような気がします。
往人くんが探してる人にも、会えるような気がします。
いつになるかわからないけど、かならずその人をつれてきます。
それまで、ここに好きなだけいてくれると、うれしいです。
お姉ちゃんを助けてもらえると、うれしいです。
ホントはお姉ちゃん、すごくムリしてるから。
追伸
首のキズ、ホントにごめんね。
佳乃は知っていたのだ。あの時、往人の首を絞めたのが自分自身だと。そして、決意を固めたのだった。
佳乃は、自分の異常に気が付いていた。往人や聖に何度も助けられた佳乃だったが、自分の中の「それ」が往人を傷つけるに及んで、自ら往人からは立ち去ろうとしたのだった。
大切な姉にも、これ以上自分のために窮屈な思いをしてもらわなくて済む。
きっとそう考えたのだろう。
あの時、佳乃が往人を欲したのは、最後の思い出が欲しかったからなのか。魔法を使う資格を得るために、大人になろうとしたためだったのか。
果てしない喪失感が往人を襲う。
この手紙が、散歩に出る前に用意されたものだとしたら、佳乃は計画的に飼育係の話を演じたことになる。あの佳乃が、そんなことをするとは、思いたくなかった。そういったものとは一番遠いところにいる少女ではなかったのか。
落ちるように階段を下り、聖にその手紙を見せる。聖はしばらく沈黙したままであったが、これまでにない険しい表情で一つだけ往人に問うた。
「君は、どうするのだ」
その意味は分かっていた。そして、その答えも考えるまでもなかった。
診療所のドアに足を向けながら、背中の向こうの聖に答える。
「佳乃は、俺が取り戻す」
聖は、何も言わなかった。姿を消した往人の方向に、あとからこう言っただけだった。
「佳乃を……、頼む」
夏の日が赤く変わり、それも闇に取って代わられる頃、往人は佳乃を発見した。
あの橋の先、神社へと続く道の石段に、佳乃の体が横たわっていた。
尋常な状態でないことは明らかだった。既に限界を迎えていた体を無理矢理に動かし、その側に駆け寄る。
右手には、一つの例外を除いて外されることのなかったバンダナはなかった。寄り添うようにその隣で静かに揺れるのみである。そして、常にそのバンダナがあった場所が、赤黒く光っていた。
往人が、最も見たくなかった色だった。
佳乃は、こんな手段で空に旅立とうとしていたのか。魔法は幻だということにも気付かずに。
泣いていたのだろうか。目には乾いた涙のあとがあった。
「佳乃っ!」
ゆっくりと顔を起こして自分の方に向けるが、反応はなかった。自分の顔を見ればいつも無邪気な笑顔を見せてくれた佳乃は既にそこにはない。
本当に、佳乃はいなくなってしまったのか。
往人が佳乃の体を抱きかかえる。とても軽かった。佳乃の体はまだ温かかった。その事実によって心を落ち着かせた往人は、佳乃にまだ息があることに気が付いた。
「佳乃は、俺が必ず取り戻す」
診療所を飛び出したときにそう決めたはずだ。だから、それを遂行しなくてはならない。
そのために、往人は佳乃を背負い、診療所へと戻った。
あとは聖の領域であるはずだ。
力つきた往人は、そのまま眠り込んだ。
夢など見ないほどの疲労であるはずなのに、その中で一つの風景を見た。
風に揺れるすすきの穂が、夕焼けの光を受けて輝いていた。その中に、何者かが立っているのが見えたような気がする。
それは、誰だったのであろうか。その場所はどこだったのであろうか。
眠り続ける佳乃を前にして、聖は呟くようにこんなことを言った。
「私は、佳乃を助けると言い、実際にそうしてきたつもりだった」
「だが、結局、本当は何も出来なかったのではないのか」
「そして、こんな結果だけが残ったのではないのか」
往人は、ただ沈黙するのみだった。この姉の心にあるものを、今の自分は癒すことは出来ない。
佳乃は、ゆっくりと胸を上下させて呼吸を続けている。それだけが佳乃が生きている証だった。
穏やかな顔が、聖と往人に向けられていた。だが、本当にこれは佳乃が望んだことだったのだろうか。
魔法……。
『魔法っていうのは、誰かを幸せにするためにあるんだって』
佳乃がそんなことを言っていたような気がする。だとしたら、佳乃が使ったのは魔法ではない。なぜなら、それは誰にも幸せをもたらさなかったからだ。
往人の使える魔法がある。ならば、それで誰かを幸せに出来るのか。出来るとすれば誰を幸せにするのか。
輝く羽根。
佳乃を支配した何者か。
手を触れずに人形を動かす力。
高台にある神社。
空に最も近い場所。
風を受けながら待ち続ける少女。
いのち。
家族。
おもむろに、往人は立ち上がった。
「どこかへ行くのか?」
その聖に対し、往人はこう答える。
「ああ、佳乃を連れ戻しに行く」
「どこに……?」
「神社だ。あの場所に佳乃を連れ戻す。そのために、こいつも連れて行く」
佳乃の姿をして横たわるその体を、往人が指差す。
「全てを結びつけるものが、あの場所にあると思う」
「そうか……」
自らの医学的な手当が全て無意味に終わった聖は、黙って頷いた。そして、白衣をもう一度纏い直すと、自分も立ち上がった。
「私も行こう」
「ああ、頼む」
神社にたどり着いたときは、既に日は完全に落ちていた。
危うい月明かりの中を、往人と聖、ポテトが歩いていく。
そして、本殿の扉を開けて、中に入る。
佳乃が、羽根に触れて変わってしまったその場所へ。
この奥に、この神社が祀る羽根があるという。その姿は……。
ぼんやりと輝いた羽根が、祭壇に置かれていた。まるで往人が来るのを待っていたかのように、輝きが脈打った。
その光の一部が往人の中に流れ込む。
悲しい。
その光は、往人にそう感じさせた。
往人は、ゆっくりとその羽根を手に取る。羽根の輝きが増したように思われた。聖は、その幻想的な光景を息を飲みながら見つめるのみであった。
床に横たえた佳乃の体に、羽根を置いた。
質量の全く感じられない羽根は、それ自体が存在であるかのように光を放ち続ける。
往人は、意識をその羽根に向けた。
人形を動かすときに向けるのと同じ力を、その羽根に向ける。だが、それは動かすためのものではない。この羽根の中にある何かに、自分が触れるための力である。
羽根が震える。その介入を拒むかのように。だが、構わずに往人は力を送り続けた。
ぶつかる意識が発するのか、その光は強さを増していった。そして光は風を巻き起こし、弾けた。
聖が、何かを叫んだようなように見え、それを最後にこの場所から離れた。
見たことのある神社だった。この場所で、古くから執り行われてきたであろう夏の祭りが、そこにあった。
祭りを楽しむ人々の中に、佳乃の姿があった。新調した浴衣を着て、手には可愛らしい風船を持っている。そのせいか、佳乃は幼くも見えた。
その向かいで、慈悲深い瞳で一人の女性が佳乃を見つめていた。
「お母さん……」
「はい、ここにいますよ」
心の中でずっと望んでいた風景だった。楽しみにしていた夏祭りに、母親と一緒に遊びに来て、お菓子やおもちゃを買ってもらう。ずっと会いたいと思っていた母親と、こうして話すことが出来る。
佳乃の魔法が望んでいたのは、これだった。
だが、佳乃のどこかに迷いがあった。この幸せは本当に手に入れてしまってもよいものなのだろうか。
この幸せは本当に自分が望んだものなのだろうか。そのためらいが、佳乃を振り向かせる。
既にないはずの、ここまで佳乃を運んできた道がそこにまだ残っていた。
ここにたどり着いたとき、たどってきた道が消えたのを確かに佳乃は見ていたはずだ。みんなが幸せになれるように、自分だけがたどってきた道は、もうないはずだった。しかし、それがまだそこに残っている。
その事実が、佳乃に何かを教えていた。
「お母さん……」
「なぁに?」
「えっと……、ね」
その先を言うこともまたためらわれた。だが、佳乃はその道に既に教えられていた。
「あたし、もう帰るね」
「お姉ちゃんやポテトが待ってるから」
「それにね……」
恥ずかしそうに佳乃が言葉を続ける。母親はそれを優しく見守り続けていた。
「好きな人が出来たの」
「その人はね、空にいる女の子を捜して旅をしているんだって」
「あたしは、その女の子じゃなかったから、その子を探す手伝いが出来ればいいなぁって思ったの」
「お母さんにも会いたかったから、ここまで来たけど、それは間違ってたみたい」
「……」
「つらいのだったら、お母さんと一緒にここで暮らしてもいいのよ」
しかし、佳乃は遠慮がちに、しかししっかりと首を横に振った。
「お母さんに言いたかったことがずっとあったの」
「あたしを生んでくれて、ありがとう」
「あたしのために、お母さんは長生きできなかったかもしれないけど、お母さんのおかげで生まれることが出来て、大切な人を見つけられたから」
「大切なことも教えてくれたんだよ」
佳乃は、そう言って笑った。悲しそうな顔をしていた母親も、娘の笑顔を見て笑った。娘の幸せを願わない親がどこにいるだろうか。だから、佳乃の母は、そのままの笑顔でこう言った。
「よかったわね、佳乃」
「あなたには、羽根はないからここにはいられないの」
「だから、あなたはそこで幸せになりなさい」
「あの人たちの分まで……」
その輪郭が薄れていく。最後に、母はどこかを指差したような気がした。佳乃は、その方向に目を向けるが、そこには何も存在しなかった。
そして、佳乃は自分の意志で道を歩き、戻ってきた。
何かが、佳乃を見送ってくれたような気がしたが、佳乃は振り向くことはなかった。
「ありがとう」
ただ、それだけを伝えた。
いつもは閑散としている神社が、この日は大いに賑わいを見せていた。まだ昼なので、人出もそれほどではないが、夜になれば今以上に囃子や太鼓の音がこの夏を祝ってくれることだろう。
佳乃の夢が、叶えられていた。
家族みんなでお祭りに来て遊ぶこと。
綿菓子や飴細工の屋台に目移りする佳乃と、それを見守る往人と聖。
こんな賑やかな中でなら、きっと往人の人形芸も多くの人を楽しませることが出来る。
佳乃は、そんな風に喜んでいた。
だが、往人は首を振りながら、「あれはしばらく休業することにした」と言うのみだった。
折角の提案を否定されて残念そうな顔をする佳乃を、聖がこう言って納得させた。
「こういう場所では、勝手に芸は出来ないんだ」
「そうなの?」
「ああ、所場代というものがあってな、顔役にちゃんと話を通さないとならない」
「ふぅん……」
「今の国崎君が、それを払えると思うか?」
「そっか、無理だよね」
「おいっ」
笑顔で即答する佳乃に、往人が抗議したような気がした。
だが、もうそれで生計を立てる必要もなくなった往人は、本当に怒っているわけではなかった。
あの力は、もう失われてしまったのだった。
また面白いものを見つけたらしく、そちらに駆けていく佳乃とポテト。その背中を見送りながら、聖は往人に言った。
「本当にもう、力は戻らないのか?」
「ああ、何度か試してみたが、もう何も起きない」
「それで、よかったのか?貴重な力だったのだろう?」
「構わないさ。もともと、そのための力だったんだ」
「どういうことだ?」
「俺は昔、母親にこう聞かされた。『この力で、あなたの出来ることがあるのならば、そのために使いなさい』と。これがそうだったのさ」
「あの子が、どんな思いで君を見ていたと思う?」
「俺は、たっぷり三日は眠っていたんだってな」
「ああ、これで君が死んだりしたら、私は決して君を許さなかっただろう。たとえ佳乃を取り戻してくれたのだとしても」
「あれが、俺の出来る限界だった。道の先に佳乃が見えたが、それ以上介入することは出来なかったんだ」
「もし、無理にそうしていたら、全てが崩壊していたかも知れない」
「俺も、羽根の一部になっていたんじゃないだろうか」
「あの羽根は、結局、何だったんだ?」
「悲しみ、だ」
「そうか……」
羽根はあの場所から消えてしまったらしい。それは当然だろう。往人と佳乃は、この羽根に関する限り、歴史の中から続いてきた悲しみを救うことが出来たのだから。
代わりに、ご神体には適当な羽根が用意されて、祭壇に置かれているらしい。不思議な力などなくとも、その方が祀られるにはふさわしいかもしれない。人が何かに願いを託すのは、幸せになりたいためなのであろうから。
「さて、私はもう診療所に戻らねばならない。佳乃のことは宜しく頼んだぞ」
「ああ」
聖が鳥居の方へ戻っていく。途中、一つの屋台に立ち止まり、そこの親父と二言三言、言葉を交わしている。そして、受け取ったものを往人に渡す。
「佳乃に、渡してやってくれ」
「これをか?」
ちょうど佳乃が戻ってきた。
受け取ったばかりのその風船を、佳乃に手渡す。
「私と、国崎君からだ」
「わぁ、ありがとう、お姉ちゃん、往人くん」
「私は戻るから、国崎君ともう少し楽しんでくるといい」
「うんっ」
本格的な賑わいを見せる前の、まだ明るい夏祭りを佳乃と往人は楽しんだ。一通り見て回った二人は、佳乃の案内でこの場所へとやってきた。
神社の裏手に、少しばかり開けた場所があった。
喧噪も、こちらにはその勢力を伸ばすのを少し遠慮しているようにも感じられる。
夏色の草を抱えるように、青い海と空がその向こう側に広がっていた。
二人は、空を見上げながら何か話をしていたが、何かに誘われるかのように草の上に腰を下ろし、そして寝転がった。
二人の視界には、青空と白い雲のみがあった。
「あたしもね、実は魔法が使えるんだよぉ」
「その魔法を使うとね、この町のことが大好きになるの」
「そしてね、空にいる女の子のことなんて、すぽーんと忘れちゃうの」
「それでね、その魔法は、自分の大切な人を、幸せにしてあげることが出来るんだよ」
佳乃が体を往人の方に寄せた。甘えているような、頼っているような、そんな仕草であった。
満足そうにその様子を見ていた往人の同じ箇所に、佳乃が自分の手に巻いたバンダナを外して、結びつけた。
「ダメ…かなぁ?」
そんなことを言っていた。のんびりした口調だったけれども、そこには強い気持ちと期待が籠められていた。
そして、それが裏切られることはなかった。覗き込むように往人を見ていた佳乃は、不意に体を引き寄せられ、その唇を塞がれた。それが答えだった。
佳乃に満面の笑みが浮かんだ次の瞬間、手に持っていた風船がそこを離れ、空に舞い上がっていった。
「空には、あいつに行ってもらおう。そして、伝えてもらおう」
「うん」
(俺たちは、きっと家族になれる、と)
往人は、それは口には出さなかった。それが、彼らに対する礼のように思えたからだ。
風船が、青空に向けて昇っていく。
この風船は自分の気持ちを別の何かに伝える使者だったのかもしれない。
人のたどり着けないその場所に、一つの歴史の結末を伝えに行く使いの役を帯びた風船。全ての悲しみが消え去る日などはないのかもしれないが、少なくとも一つはここにそれを終えたのだった。
きっと、彼女も喜んでくれるだろう。