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第4章 崩れる家族

戦は終わった。

後に「神風」 と呼ばれる季節外れの暴風によって元軍は壊滅し、大陸へと逃げ帰っていった。

海には、再び平穏が訪れた。

中には傷ついたり、四肢の一部を失ったものもいたが、徴発された村人たちが少しずつ戻ってきた。夫や父の無事を喜ぶものたちがいる一方で、少なからぬ犠牲の中に組み込まれてしまったものもいた。

白穂と八雲にとっては、後者であった……。

時が過ぎるにつれ、その事実ははっきりとしてきた。

いつあの人が戻ってきてもよいようにと、薄く紅を差し、好物だった食べ物を用意して、白穂は夫の帰りを待ち続けた。

だが、それは無意味だった。

それでも白穂はそれを続けた。心の中では、あの人は戦からは戻ってこないということを知っていた。だから、これは夢の中にいてそれが現実になるのを祈るような類のことであった。

それでも、白穂は夢の中にいたかった。手を振って見送った愛する夫が、自分の知らない土地で骸となって転がっているということの方が、現実からは遠いものに思われて仕方なかった。

だから、白穂はそうやって夫の帰りを待ち続けた。

夢の終わる日が来る。

それは、冷酷であった。

何も笑い続ける八雲を心の支えにして、愛する人を待ち続けた白穂は、自分の生きた唯一の世界であるこの村に住み続けることさえ許されなくなった。

現実を直視しなかった故のことだとしたら、それはなんと残酷であろうか。あの時、羽根を掴んでしまったからだとすれば、同じようになんと残酷なことであろうか。

ある日、馬に乗った役人が村にやってきた。

白穂には見慣れない、立派な装束を着た中年の男で、どこかいらだっているようにも見えた。そのいらだちは自分に向けられているのではないとしても、どこかその陰鬱な表情は白穂を不安にさせた。

八雲は、あの時に見つけた羽根を手に、嬉しそうに遊んでいた。

何事かと村の中心の広場に集まった人たちの外側で、いづらそうにその様子を白穂は見守っていた。

その役人が、何か言った。供の者が、それをわかりやすい言葉に直して村人たちに伝える。だが、それを聞いた村人は、不思議そうな顔をするだけだった。

税の取り立てや兵の徴発など、役人が村に来るときはあまりよいことはもたらされなかった。

今回の布告は、そういった凶事ではなかったから村人は胸をなで下ろす。それと同時に、そういった現実的な台詞とは縁遠い言葉が役人の口から出たことにとまどっているようでもあった。

「羽根……?」

そんな言葉が聞こえてきた。

ざわめきが落ち着くと、今度は役人の言葉がはっきりと白穂の耳にも届いた。

「羽根を拾った者は、名乗り出るように」

「羽根は、穢れたものであるから、触れた者は名乗り出よ」

咄嗟に白穂は八雲の手を取って、もてあそび続けていたその羽根を懐に隠した。幸い、それに気付いた者はいない。

名乗り出れば、どんなことが待っているのかは分からなかった。だが、それがよいことであるとはどうしても思えなかった。

不思議そうな顔をしながらもそれぞれの家に帰っていく村人たちに紛れるように、白穂も自分の家に帰った。

八雲は、不思議そうな顔で白穂を見ていたが、日が傾くころになっていつものように眠りに就いた。

羽根のことは、何人かの村人は知っていた。八雲が楽しそうに羽根と戯れていたのを知る人も何人かいた。

自分たちを売るような真似を、村の人たちがするとは思いたくなかったが、厳しい役人の追求があれば、このことは分かってしまうかもしれない。その時、村の人たちにも迷惑がかかることになる。

自分にいろいろなものを与えてくれ、いろいろなものを奪っていったこの村だったが、自分のために迷惑を掛けることは出来なかった。

だから、その日の晩、月明かりだけを頼りに、白穂は八雲を抱えて家を、そして村を出た。

乳飲み子を抱えての旅は、楽ではなかった。満足な路銀もなく、夫の贈ってくれた髪飾りもそれに変えての旅だった。

けれども、自分たちを受け入れてくれる土地がどこかにあると信じ、あの人の残した八雲をなんとしても守り通したいと思って、山の中を、海辺の道を越えて歩いていった。

そして、ひと月近く、そんな苦しい旅を続け、ついにこの村にたどり着いたのであった。

その村は、海辺にあって、穏やかなたたずまいで白穂たちを迎えてくれた。

行き倒れ寸前であった白穂に一夜の宿をくれて、彼女が小さな子供を抱えていると知ると、その世話までしてくれた。

何度か道中で見た海が、日の光を受けて輝き、その海に村人たちが漁に出ていく。落ち着きのある村に思えた。

この村ならば、自分を受け入れてくれる。白穂はそう思った。今はまだ何も出来なかったが、やがて自分も村の中で人々の役に立つことが何か出来るかもしれない、そんな風に考えた。

体力が戻ると、少しずつ白穂は村の人たちの手伝いなどを始めるようになっていた。半農半漁のこの村では、女にも大切な仕事がたくさんある。破れた漁網の修復であるとか、幼子の世話、男たちの食事作りなど、豊かでない中にも充実した明るい暮らしがあった。

村の人たちはそんな白穂を迎え入れてくれた。八雲も、村の子供たちと分け隔てなく扱ってもらえた。

村の外れには小高い丘があり、そこには小さな社が建てられていた。村と海を見下ろすこの場所は、人々を守るためにあるのだそうだ。

社の宮司が、白穂と八雲の面倒を見てくれた。その恩に報いるためにも、何か役に立ちたかった。

そんな風に思ったのは、久しぶりのことであった。

あの人はもう帰らないが、八雲を幸せにすることは出来るのではないかと、そう思った。


だが、そんな希望は再び一つの外力によって破壊される。

季節を幾度か変えて、夏を迎えるころ、それは突然に八雲と、この村を襲った。

疫病……。

八雲が高熱を出した。それとほぼ時を同じくして、村人の中にも変調を訴える者が現れた。

幸い、死に至る類の病ではなかったが、それでも体の丈夫でない赤子をはじめとする何人かが命を落とした。他にも生死の境をさまよった村人も何人かいる。

この社にいたことは八雲にとっては幸運だったのかもしれない。期せずして隔離された状況になっていたので、発した高熱が収まると、体調も次第に落ち着いていった。

慌てる村人たちに適切な対処を指示できる宮司がいてくれたことも幸いだったのだろう。

峠を越えたことを知らされ、ほっとした白穂を待っていたかのように、宮司が神妙な顔つきで白穂を見る。

「この子はもう大丈夫だろう。明日まで眠っていれば熱もすっかり下がるだろう」

「ありがとうございます。よそ者である私たちにこんなに親切にしていただいて」

「それが我らの務めでもある。だから、気にせずともよい。だが……」

宮司に困惑の表情が浮かぶ。その先を話してよいものか、思案している様子であった。

「村の者たちは、今回猛威を振るった病は、あなたがたが持ち込んだと考えている」

「そんな……」

理不尽な、と言いたかったが、話によればここ数十年、この村は疫病とは無縁だったらしい。この社と海が守り神となってくれていたからだと信じていたらしい。

村に白穂たちがやってきて、社に住むようになってからこの病が起きたということは、例えそれが偶然だとしても村人たちにはそう映らなかっただろう。更に、八雲の右手にある痣が、凶兆として受け取られる。

「あなた方をここに招き入れたのは誤りだった……」

「……」

「そう申す者もある」

「そんな……、この子は疫病神などではありません!」

白穂が声を荒くする。自分の声に驚き、慌てて口を塞いで隣に眠る八雲を見る。八雲は眠り続けたままである。

「わかっておる。だが、わしはそうでも村人たちはそうは思うまい」

「この痣は、禍をもたらすものと言い伝えられている。もし村の者たちがこれに気付いたら、疫病を沈めるための贄にせよと言い出すかもしれない」

「この子を、贄にですかっ?」

「この土地では、そうして災いを鎮めてきたのだ」

「そのようなこと、どうして……。八雲はわたしの子です。どうしてそのようなことが出来ましょう……」

宮司は目を閉じたまま黙っていた。重苦しい沈黙。そして、白穂を諭すような静かな口調でこう言った。その表情には苦悶があったのは言うまでもない。

「あなたは、まだ若い。これから子を為す機会もあるだろう」

宮司の言わんとしていることは白穂にも分かった。白穂にとっても、この村に住み続けることができるのならばそれに越したことはない。だが、そのために求められている代償はあまりにも大きいものであり、決して受け入れることの出来ない条件であった。

「いいえ……」

反射的に白穂は答えていた。きっぱりと拒絶する白穂の表情を見て、それを言った宮司の方が悔いるような苦しい表情になる。それを見て、白穂がほんの僅かに顔の険しさを緩める。

「宮司様のおっしゃることは分かりますし、この村の人たちにはとてもお世話になりました。ですが……」

「……」

「この子は……、いつかお聞かせした通りです。あの人の……、今はないあの人の血は、この子にしか流れていないのです。その命を、どうして差し出すことなど出来ましょうか?」

「あきらめなさい。疫病で気の立った村の者たちは、あなた方を許しはしないでしょう。あなたが拒絶しても同じことになるかもしれません」

「八雲は、わたしのものです。わたしとあの人のものなんです!」

「この子だけでなく、あなたも殺されてしまいます。それに、あまり言いたくはありませんが……」

「……」

「あなたを置いている私の身も危うくなります」

勿論、宮司は保身のためにそんな言葉を口にしたのではなかった。この村を守るために立てられた社。それを保っていく役割はこの宮司にしかなす事が出来ない。疫病は、そんなことすら村人から忘れさせてしまうほどの災いであったのだ。

確かに、昨日まで元気で笑っていた人たちがうなされて苦しみ、場合によっては命を失っていく。それが近しい者たちにどれだけの衝撃を与えたかは、白穂にも分からないでもなかった。寧ろ、愛する者を失う苦しみは彼ら以上に知っている。

そして、それが自分の力では如何ともしがたいものであったとしたら、その悲しみの原因を他者に転嫁することを、責めることは出来ないのかもしれない。

しばしの沈黙。

白穂の頭の中を、多くのものが駆け抜けていった。

あの人とあげた祝言。八雲を身ごもったときの喜び。八雲の産声。白い羽根をもてあそびながら笑う八雲の顔。戦に向かっていくあの人の後ろ姿。役人の冷たい声。逃避行。村人たちの笑顔……。

なぜ、こうなってしまったのだろうか。何が悲しみを生み出したのだろうか。白穂には分からなかった。

それらの全てを捨てるため、白穂はそっと目を閉じた。そして、自分に言い聞かせるように、こうささやいた。

「わかりました……」

宮司に安堵の表情が見えたような気がした。だが、それはそうではないものだったのかもしれない。本当は、人として、神に仕える者として勧めてはいけないことを勧めてしまったという、苦悶の表情だったのかもしれない。

白穂が、眠っている八雲の傍らに腰を下ろす。峠を越えたという八雲の体は落ち着き、汗も引いてすやすやと眠っている。

白穂は、その八雲の白い首にそっと手を伸ばす。

「ならば、いっそ、わたしが……」

八雲と同じくらいに白い指が、首に触れる。まだ治まりきっていない八雲の体温が冷たい指先を通して伝わってくる。

意を決して、白穂はその指に力を加える。

悲しかった。もう、この子の笑う顔を見ることも出来ない。この子に子守歌を聞かせることも出来ない。そして、大切なあの人の証もこの世界から永遠に失われてしまう……。

白穂は、目を閉じることが出来なかった。目の前の現実から目を背けることは出来なかった。最後の一瞬まで、白穂は八雲と共にありたかった。八雲の心の中に、その指を通じて白穂の悲しみが流れ込んでいく。

それに呼応したかのように、八雲が目を開いた。

その瞳に、白穂の姿が映っており、それが白穂自身の目にも入る。そう、八雲の首を絞めている自分の姿が。

八雲の瞳は、自分を責めていなかった。ただ、それは悲しみを内包しているのみであった。

白穂は、その悲しみと戦っていたが、ついに耐えきれなくなって指先の力を緩める。

「できません……」

「……」

宮司は黙って見ているだけであった。言葉をかけることも、視線を合わすこともしなかった。

白穂も、八雲にも宮司にも目を向けずに、天井の木目を見上げながら心の奥から絞り出すように言葉を紡ぐ。

「我が子を殺す親がどこにおりましょうか?」

「自分の腹を痛めて生んだ、愛する人との繋がりを、どうして自らの手で絶てましょうか?」

「たとえ、この子が村に災厄をもたらす存在だとしても、わたしにはその命は絶てません」

「この子は疫神なんですか?」

「そうだとしても、わたしはこの子を殺しません」

白穂のまとう白い着物は、部屋の僅かな明かりを受けて炎の色となっていた。

白穂の視線が部屋の中を泳ぎ、あるものに行き着いた。

しばらく忘れていた、粗末な化粧道具。

帰ることのないあの人を待ち続けて、身を飾っていたあの日……。

「わたくしが身代わりになります。わたしの命で、この子と村の人たちを救ってあげてください」

「待ちなさい!」

宮司が駆け寄ったが、手遅れだった。

剃刀の刃が、幾度も白穂の手首の上を走る。それと同時に幾筋もの鮮血が跳ねる。

八雲は、それを見ていただろうか。見ていたとしたら、それを見て何を思ったのだろうか。

この子の可愛さ 限りなや

天にたとえば 星の数

山では木の数 かやの数

おばな かるかや はぎ ききょう

七草ちぐさの 数よりも

大事なこの子がねんねする

ねんねんころりよ おころりよ

ねんねんころりよ おころりよ

どこかから、失われたはずの子守歌が聞こえたような気がする。その子守歌は優しげで、悲しみに満ち……。

一つの家族が、その営みを終えた。

残ったものは、色を失ったかつて白穂だった体と、一人の赤子、その子の頭を撫でながら苦しげな表情を隠さずにいる宮司、そして果てしない悲しみだけだった。

この日を境に、村の疫病が収束していったのは、白穂が命を投げ出したからなのであろうか。それは誰にも分からない。


風が吹き抜けていった。

不安をもたらす風であった。

真淑は、イルガイと感じたあの風のことを思い出したが、それとは違う空気を、この風は運んでいた。

人の帰りを待つということを、真淑は初めて経験していた。それが、どれだけ心細いものなのか、実際にその立場に立って初めて理解できた。

イルガイは確かに「必ず帰る」 と言ってくれたが、それが何の保証にもならないことは、真淑自身もよく知っていた。だが、それに縋る以外に、彼女には何が出来ただろうか。

だから、真淑はこの港町にあってその人の帰りを待っていた。

イルガイが言い残したように、普段の生活には不自由はなかった。まさに、「家族同様」 の待遇であったことは間違いない。けれども、その大切な何かを、真淑はまだ得られないままでおり、それを得ることを何よりも待ち望んでいた。

傷ついた船が港に入ってきたという話を聞いたのは、それから数日後のことだった。疲れ果てた兵が陸に上った。遠征軍の指揮を執っていた名の知れた将軍も帰還してきたらしい。

数日の間、そんな光景が港では繰り広げられていたらしい。

真淑は港に駆け出したかったが、警戒下にある兵にそれを止められた。それに、真淑はイルガイが戻れば自分のところに来てくれると信じていたから、この街の仮の住まいである小さな家でそれを待ち続けた。

やがて、船はもう海の向こうから戻ってこなくなった。

その時になっても、イルガイは姿を現さなかった。

それが何を意味するのか認めたくないにせよ、真淑には既に分かっていた……。

足が自然に海に向かっていた。

そして辿り着いたのはあの海岸だった。イルガイの温もりを感じ、生まれて初めて自分にも家族が欲しいと思ったあの場所だった。

ここにいると、必ずイルガイを思い出してしまうであろうから、本当は来なければよかったのかもしれない。しかし、来ずにはいられなかったのも事実である。

この日の風は穏やかだった。

既に風は冷たさを増し、この国の秋が深まっていることを感じさせた。海は穏やかに陽光を反射して輝き続けていたが、それは既に二人で見たあの海ではない。

砂浜に生えた草が風を受けて揺れていた。

それを見つめながら、真淑はイルガイのことを考える。それが無意味であると知っていても。

あの人は草原の出身と言っていた。草原というのはどんなところなのだろうか。この海は草原に似ていると言っていた。自分は山がちのこの国しか知らないが、自分の祖になる人が生きていた海の向こうの国や、あの人の祖になる人が生きていた草原の国はどんなところなのだろうか。

その国にも家族があって、笑顔があったのだろうか。 悲しみもあるのだろうか。

あの人は、自分の笑顔を気に入ってくれた。最初は、そんな意識はなかったが、笑顔を見せることが嫌ではなくなった。自分の笑顔は、実は悲しみから生まれたものだった。豊かでない生活の中で、少しでも暖かくいられるようにと努めた笑顔。その笑顔が、あの人によって本物に変えられた。それが嬉しかった。

自分を捨てていった父母が今はどこで暮らしているのかはもう分からないし、興味もなかった。それよりも大切な人をようやく見つけることが出来たのだから。

たまたま出会ったあの人は自分を側に置いてくれ、単なる使用人以上に優しく面倒を見てくれた。

自分の国を侵略した一員であるにも関わらず、その優しさを感じることが出来た。

立場の差というものがあり、それを表に出すことは出来なかった。

あの人のために食事を作ることが嬉しいと思うようになったのはいつからだっただろうか。

だから、あの人の昔食べていた料理というのを教わり、自分も作ってみたことがある。本物とは違う味だと言っていたけれど、あの人は満足してくれた。

たとえばこんな過去の光景……。

「こういうのもなかなかいいものだな」

「はい、そうですね。でも、もっと頑張ってみます」

「そう願いたいものだ」

「大丈夫ですよ、結構、飲み込みは早いほうなんです」

「そのようだな」

イルガイが傍らにある見慣れぬ袋を手に取る。その口をほどき、真淑の入れたお茶を飲み終えた陶の器にそれを注ぎ込む。

気分の良いときに飲むのだと言っていたそれが何であるのか、真淑はまだ知らなかった。

「イルガイ様?」

「何だ?」

「前から気になっていたんですが、その飲み物はなんですか?」

乳白色で、僅かによい香りを呈しているその液体を、イルガイは気持ちよさそうに流し込む。

「ああ、これか。これは草原の酒だ」

「草原の酒、ですか?」

「私の故郷ではいつも飲まれているらしい。私も、この味が好きなのだが、さすがにこの地ではなかなか手に入らない」

「だから、とっておきなんですね」

「気が付いていたのか」

「はい、イルガイ様は機嫌のよろしいときにいつもそれを飲まれていますから」

「なかなか鋭いんだな、真淑は。少し飲んでみるか?」

「いいんですか、とっておきを頂いても」

「言っただろう、機嫌がいいのだと。ただ、お前の口に合うかは保証できんが」

「構わないです。頂きます」

自分の器に遠慮がちに注ぎ込まれたその白い酒を、真淑も口にする。さっきよりも近くから芳香が伝わってくる。

その酒は、微かな甘みと酸味を持った、草原の味だった。

「美味しいです。もう一杯下さい」

笑顔の真淑を見て、イルガイが僅かに肩をすくめる。そんな遠慮のない言葉は、この時が初めてだった。それを知ってか知らずか、イルガイはそれに応えてくれた。

「これがイルガイ様の故郷の飲み物なんですね。なんか、不思議です」

「不思議?」

「少しですけど、お腹が温かくなってきました」

見ると、僅かに頬が赤くなっているようにも見える。

「ひょっとしてお前、酒を飲むのは初めてか?」

「はい。こちらのお酒は強いのが多いので、女の人はあまり飲ませてもらえないんです」

「確かに、これはそんなに強くはないのだが……」

「美味しいですよ。でも、このくらいにしておきますね」

「それがいい。せっかくいい気分になっているんだ。片づけは後で構わないぞ」

「ありがとうございます。でしたら、もう少しお話しさせてください」

そんな思い出と入れ替わるように浮かんだ言葉。

何か、焦りのような感情に支配され、あの人を失うのではないかという焦燥感に駆られた。真淑は知らなかったが、それはいつか拾った白い羽根の影響だった。この白い羽根に籠められたものが何であるかを知っていたら、この悲劇はなかったのであろうか。

真淑は、その思いに後押しされて、自分の気持ちを伝えたつもりだった。

何が自分をあの人に惹き付けたのであろうか。あの人の中にもあった、自分と同じような寂しさだったのだろうか。それを埋めてくれる者がこの人だと感じたからか。

(わたしに、あなたの胤を下さい……)

確かにそう自分は言った。だが、あの人はそれを受け入れてくれなかった。もしかすると、自分が戻れないことをあの人は知っていたのかもしれない。

そうと知らずに信じ続けた自分は、無意味なことをしたのだろうか……。

(だから、今は心を交わらせてくれ、真淑)

確かに心は交わった。そして、それは今でもそのままだと信じられる。

肉体と精神は、どちらの結びつきの方が強くいられるのだろうか。

海からの風に、イルガイを感じたような気がした。

失われた家族、否、得られる前に奪われた家族。

海の向こうで、イルガイの討ち取った一人の兵とその家族にまつわるもう一つの悲しみの物語を、真淑は知る由もなかった。家族を失うのと、家族になる前に失うのと、どちらがより悲しいのだろうか。

真淑は知らぬうちに涙を流していた。涙に耐えられないからこの場所に来たのに、ここに来ても同じだった。

風の中に、イルガイを感じることが出来たから、真淑はその海に正対し、海の向こうのどこかに存在しているはずのイルガイに向けて笑顔を向けた。

涙がまだ頬を伝わっていたが、自分の一番綺麗な笑顔を見せることが出来たような気がする。

それを最後に、真淑はこの場所を後にした。

これが、真淑の最後の笑顔だった。

この海に身を投げて、後を追うことも考えたが、そんな苦しみの中でイルガイに会いに行っても、あの人はきっと喜んではくれないだろう。

だから、生きることにした。

生きていれば、心の中に自分とあの人が居続けることが出来るであろうから。

いつの日かやって来る、特別な夏を待ち続けるために。

海は青く、冷たかった。

その海は、冷たすぎた。

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