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第3章 家族

その祝言は、夏の始まりの穏やかな日に執り行われた。

祝う人は数人、その祝いを受ける人は二人。この時代のどこにでもあるような慎ましやかなものであった。普段より少しだけ立派な衣裳をこの日のために仕立て、それに包まれた幸せそうな笑顔がある。ありふれた光景であったが、本人たちにとってはそれまでの人生の最良の日であったことは、その表情を見れば疑う余地もないであろう。

それから始まる新しい生活。耕し、食べる。それだけのことでも幸せであった。一日が暮れると、その翌日もそんな日が来るという、そんな幸せがあった……。

暑かった夏が過ぎ、すすきの穂が揺れ始める頃、白穂の体に小さな異変が現れた。はじめ、それが何を意味するものであったか分からなかったが、村長の話を聞くと、その苦しそうな表情を一変とさせた。今までに見たことのない笑顔を伴って、白穂は夫に報告した。

「赤ちゃんが出来たんですって」

「まことか?」

「はい、わたしとあなたの子です」

「すごいぞ、今日はお祝いだな」

「はいっ」

その日のささやかな宴で、二人はお互いの幸せが一段と高いところを見たのを実感した。

それから、次の夏の足音の聞こえてくる頃、その新しい命が初めて日の光を見た。今まで知らなかった新しい刺激を浴びた赤子は、大きな声で元気に泣いた。小さな家の中にその声が響き渡る。

苦しそうな顔に汗を浮かべていた白穂も、その声に導かれるかのように表情を変える。その汗すらも、今度は輝きを帯びているかのようであった。

「やったな」

「はい、頑張りました」

産婆の見守る前であるにもかかわらず、白穂の手を取る夫。

確かに、その光景は微笑ましいものであり、幸福の象徴であった。

ただ、一つだけ気がかりがあった。

この子に産湯を与えているときに気が付いた、右手にある小さな痣。痣そのものは何かの病の徴というわけでもなかったが、それに気が付いたときに見せた産婆の憂うような表情。

不吉な徴だという。だが、白穂は、何も知らぬ赤子の安らかな表情を見れば、それは問題にはならないと感じた。この子がいれば幸せ、そしてこの子が幸せを大きくしてくれる、そう信じていた。

夜、すやすやと眠る赤子を見ながら、月明かりの差し込む中で二人が話している。

「不思議なものだな。知識としては知っていても、実際にこうして自分の血を受けた子供がいると感じるこの気持ちは」

「わたしも、尚更ですよ。お腹を痛めたんですから」

その部位をいたわるようにしながら言う。

「それはともかく、この子にも名前を付けてやらないといかんな」

「そうですね、どんな名前が似合うかしら」

二人でいろいろと考える。白穂のお腹の大きいうちからいろいろと考えを巡らせてきてはいたのだが、結局、よいものが思いつかずにここまで来てしまったのだった。

そんな幸せを月の明かりが静かに見つめている。穏やかに流れる雲が、時にその月の姿を隠し、二人の影と姿を薄くする。

「雲が掛かったようですね」

微妙な暗さ、微妙な明るさが三人を包む。赤子の方はそんな変化に気付くこともなく、静かな寝息を立ててひたすらに眠っている。

「そうだ、この子の名前……」

「よい名が浮かびましたか?」

「ああ、『八雲』というのはどうだ?」

「やくも、ですか?」

「町の市場で東の国から来た商人に聞いたことがあるのだが、ここから東の方には、神を祀る社があり、そこは常に多くの雲と霞みに守られている。それを別の名で『八雲』というのだそうだ」

「神様ですか」

「この子にこれからどんな人生が待っているのかは分からないが、そんな雲と同じような美しい役割をこの世の中で果たして欲しいものだ」

「ふふっ、ちょっと大げさすぎますわね。でもよい名だと思います」

「それに、雲という字には美しいという意味もあるのだそうだ。そう育って欲しいものだな」

「あなたも、結構欲張りですね」

「そうか……?」

照れたような顔をする夫を、白穂は幸せそうに見つめていた。その幸せをもたらしているのが他ならぬ自分であることに、また満足しているのであった。

「やくも……、素敵な名前ですね」

隣の寝顔に目を向ける白穂。そんな白穂は、自分の柔らかい髪を夫に撫でられながら、今の時間を記憶の中にずっとこのまま残しておきたいと、そう感じた。

この時代、子供が幼逝することはよくあることであった。

ちょっとした飢饉や疫病は、体力と抵抗力のない子供から容赦なくその命を奪い去る。

そんな中、この子、八雲は一つの試練を通り抜けたといえるのかも知れない。その報酬は、笑顔であった。髪と歯が少しずつ生えそろい、元気な笑い声をここまで育ててくれた二親に見せるようになった。

賑やかになった家族は、それ以外にはこれまでと変わらぬ営みを続けていた。季節が何度か変わり、暑い日も寒い日も経験した。そんな季節を越えるごとに八雲は大きくなっていった。

そんな八雲は、白穂と夫にとっては喜びであった。

田圃の稲が大きくなって実るように、この子もその実りの恩恵を受けて育つ。

やがて、何度目かの夏がやってきた。涼気を運ぶ風に、青い穂が揺れる。散歩に出た三人のうち、一人は既に目を閉じてしまっている。背中で気持ちよさそうに眠っている八雲を見ながら、波のように揺れる穂の間にたたずむ。

「いい風ですね」

「ああ」

風を浴びた穂が時折、白く輝く。それに呼応するかのように白穂の髪も同じように揺れる。

こういった日常も、当人たちの力の及びようのない場所で変えられようとしていた。例えば彼らの住む土地を守るべき者たちの遭遇した異国の使いであり、空の上で何かを待ちながら羽ばたき続ける少女であり……。

雲の向こうで、何かがはためいたような気がしたのを二人は感じた。幻のように見えるその羽ばたきを、二人が同じように見たのであるから、夏の陽の揺らぎがもたらした幻覚ではないのだろう。はっきりとその姿を認めたわけではなかったが、それは何故か少女の姿をしていた。

その時、目の前の田圃のどこかから、一羽の白鷺が飛び立った。

地上でその翼の存在を確かめるように、一度白い羽根を広げた後に、その鳥はこの夏の風を一身に受けるかのように大空へと舞い上がっていった。

果たして、どこまで行くのであろうか。

いつの間にか目を覚ましていた八雲が、楽しそうな目をしながら手を空の方に伸ばしていた。

その先には、ふわふわと舞い降りてくる一枚の羽根があった。それは日の光をうけるまでもなく、ただひたすらに白かった。

それは美しくもあったし、八雲が初めて自分の意志で求めようとしたものであったから、白穂はそれを手に取って、八雲に持たせてやった。

その時、この羽根が輝いたような気がした。淡い光が八雲を包み込む。

それが嬉しかったのか、八雲がきゃっと笑う。そんな様子を見た夫が笑い、私も笑う。

だから、この光は祝福の光なのだと思った。

八雲は何かを感じたらしいが、他の二人はそれに気付かなかった。気付いたとしても、まだ八雲はそれを伝える手段を持っていない。

ただ、この時にある物語が始まった。

「そろそろ帰るか」

「そうですね、八雲も起きてしまいましたし」

「来年は、八雲を連れて夏祭りに行くとするか」

「そうですね。もう、お祭りを楽しませてあげられる年頃になるんですね」

「そうだな……」

この子の可愛さ 限りなや

天にたとえば 星の数

山では木の数 かやの数

おばな かるかや はぎ ききょう

七草ちぐさの 数よりも

大事なこの子がねんねする

ねんねんころりよ おころりよ

ねんねんころりよ おころりよ

背で揺られるうちに、再び八雲は眠っていた。その背中に語りかけるように、白穂は自分も幼いころに聞かされた子守歌を口ずさむ。歩調と共に、その調べは八雲の心の中に染み渡っていっただろう。

この子が、健やかに育ちますように。この笑顔をずっと自分のものにしていられますように……。

だが、この家族が夏祭りを楽しむ時は、永久に来ないのである……。


白い波を立てながら、船が風を受けて進んでいた。

周りには同じ形をした船が数十艘、いや、数百艘という規模で並んでいた。それぞれが竹に張られた白い布を膨らませて、目的地に向かって進んでいる。

龍を図案化した黄色の旗が船の動きにあわせてはためいている。

その船の上では、胸部の鎧だけを身に付けた一人の武将が、どこか遠い先を見つめながらたたずんでいる。

その目は、どこを見つめているのかは分からない。目の前にある果てしない広さの海だろうか、それとも、その上にある秋の大空だろうか、それとも、後ろの大地に残してきた何かだろうか。

「……」

秋の風は、既に心地よいとはいえなかった。海の上を通る風は、その水の冷たさも内包したかのように厳しくイルガイに突き当たる。イルガイは、それに抗うことなく、全身でその風を受けている。

戦のもたらす高揚感は確かにあった。

手始めに襲った小さな島では、彼らの軍は戦闘らしい戦闘をするまでもなく圧倒的な勝利を得た。

その勢いに乗じて船は南下し、本来の目標であるその島へと向かう。

「真淑は、何をしているだろうか」

今まで、行軍の中でそんなことを考えたことはなかった。だが、イルガイはまだあの海岸で感じた真淑の体の温もりを覚えており、海というものを媒介としてイルガイにそれを思い出させる。

「無事でいてくれ」

彼女の安全が脅かされることは考えにくかった。自分の使用人として、合浦の港では残存部隊の長に誤りなく扱うように指示を出しておいた。

寧ろ、予感として感じているように、自分の無事の方を心配するべきであったのかもしれない。

思い過ごしかもしれないが、あの時に真淑の見つけた白い羽根が、何か悪いものをもたらすという感じがしている。具体的に何があるのかは分からないが、実際、あの時を境に真淑が微妙に変わったことが気がかりである。単に、急に押し寄せた別離に何かを後押しされただけであると解釈するのは簡単であるが、それではどうにも腑に落ちないのであった。

戯れに、白い羽根で自分の髪を飾ってみたとき、その真淑の姿は美しかったが、その美しさの奥に悲しみのようなものを感じたのは何故であろうか。そして、その白い羽根と真淑を気にする気持ちが、この日本という国を近くにすると大きくなるように感じられるのは、単なる偶然なのであろうか。そう看過出来ない気持ちがイルガイにはあった。

イルガイの知らないところで作用している物語は、確かにその効力を持っていたのである。それを察することが出来たというだけでも、羽根の持ち主にとっては驚くべきことであったかもしれない。

果たして、その羽根の主は、この結末をどう望んでいるのだろうか。

イルガイは、そんな予感と戦いながら、戦の敗因にもなりかねない迷いを振り払おうとしていた。

空は僅かな雲だけが浮かび、青かった。その澄んだ空に倣い、自分の心も晴れやかなものにすべきであると、そう思っていた。

何度目かの夜を迎えた。

航海は順調で、最低限の見張りだけを残して船は風に任せて先に進んでいる。このまま順調に進めば、翌日には目的の陸地を目にすることができるだろう。

戦いの前の緊張感と、それ以外のいくつかの感情を供にして、イルガイはまだ訪れない眠気に抵抗せずに、星空をみるために船の上に足を運んだ。

「イルガイ様、ご苦労様です」

帆を見張っている兵の一人が、その姿を認めて声をかける。

「ああ、ご苦労」

「いかが致しましたか?」

「いや、眠れないのでちょっと歩いていただけだ」

「そうでしたか。船酔いされているのではと、心配致しました」

「気を遣うな。そうではないので大丈夫だ」

陸上育ちの蒙古兵の中には、慣れぬ船で体調を崩す者もいたが、イルガイは特にその洗礼を受けなかった。馬上で揺られて過ごすことが多いことがあるのか、何でもないという人間もかなりいる。幸い、イルガイはそちらに属することが出来たようであった。

「失礼いたしました」

その兵に軽く手を振ると、イルガイは星空のもとに出た。周囲に広がる海はひたすらの闇の中にあり、僚船から漏れる僅かばかりの明かりが海上の全ての光だった。何も見えぬ闇の中で、規則的に聞こえる波の音だけが海自身の存在を主張している。

空では、星が瞬いていた。もし、空にあって風を受け続けている何かがいるのだとしたら、夜にあっては何をしているのだろうか。

星の輝きは、航海者たちの道しるべとなる。イルガイが最近聞いた話の中にもそういったものがあった。そういった意味では、草原と海には何か通じるものがあったのかもしれない。水への恐怖感と共に、何か親近感も感じるのは、そういうものが原因であるのかもしれない。

中華では、星の運行を見て、人の命運を占うという話も聞いたことがある。無数の人間のいるこの世界の中の自分を、同じく無数の星の瞬く空の中の一つと重ね合わせ、その先行きを自分に還元する。そういった思想というものに、無学な自分にとっては、理論的というよりも感覚的に共感するところもあった。

ともあれ、この星空は美しい。

「お前も、同じ星を見ているのか?」

周りに誰もいないことを確認して、イルガイは星空を通じて真淑に話しかけた。

返事の代わりにイルガイに届いたのは、星の瞬きと波の音だけであった。

最後にイルガイと言葉を交わした海岸に、真淑はやってきていた。

寂しさのあまりとはいえ、あの時の自分の言葉を思い出すと、真淑は赤面を隠すことができなかった。この国の女性の倫理としては、はしたないと言われても反論できないものであった。

だが、自分の幸せを奪うものに対抗するのに、はしたないという些事にこだわっていられるだろうか。

白い羽根に触って以来、自分を後押しする何かが自分の中に同居しているのを感じていた。それが何であるのかは分からない。

あの羽根に触ったとき、一瞬だけ懐かしいという思いと、悲しいという思いを感じた。それが心細くて、真淑はその羽根を髪に飾ってイルガイに見せてみた。あの人は、それを可愛いと言ってくれた。

羽根はあるべきところに戻っていったのだろうが、そうだとすると、それは何かの役を果たしてのことなのであろうか。

遠くに街の灯を見る海岸には、もう冷たくなりかけた風が吹き付けていた。海の上の風はもっと冷たいだろう。

だから、真淑はそう多くを期待してはいなかったが、海の向こうで同じ星を見ているかもしれないその人に対し、こう語りかけた。

「どうか、無事でいて下さいね」

一人になって、初めて浮かべることの出来た笑顔であった。

結局、家族にはなれなかったその二人を、星明かりを通じて、羽根の持ち主は見ていたのであろうか。

その対岸では、小さな家の傍らで、家族になれた二人の男女が同じように星空を見上げていた。

八雲が眠りに就いた後、何かに誘われるように家の外に出た。

粗末な着物を纏っているのは相変わらずであったが、白穂には、衣服以上に自分を温めてくれる存在がいた。

寄り添うように立っている二人を、星空は見下ろしていた。空には、そんな二人と同じように寄り添いながら輝いている星があった。

「きれいな星空ですね」

「ああ……」

「お星様は、いつからあのように輝いているのでしょう」

「ずっと長い間なのだろうな。我々が生まれる前からなのだろうし、我々の父母が生まれる前からでもあるんだろう」

「うらやましいですね」

「そうだな。我々も、その星たちの輝きに少しでもあやかりたいものだ」

「ふふっ、大丈夫ですよ」

「うん?」

「少しでしたら、もうあやかっております。わたしと、八雲は幸せですから」

「そうだな」

白い羽根も、八雲の右手の痣も、結局、何も悪いものはもたらさなかったではないか。

そう、この夜までは……。


元の船団は、ついに日本の海岸にたどり着いた。

以前に蒙古から送られた使者を無視し、ついには斬り捨てた幕府は、この日のあることを予測して、国威を賭けてその備えをしていた。

沿岸には塁が築かれ、武士たちもその来襲に備えていた。

確かに、その備えのある場所に、元の軍勢は辿り着いたのだった。

だが、その規模は守る側の予想を遙かに超えていた。

海を越えて遠征してくる異国の軍勢のその規模は、誰の予想をも越えていたのである。

自分たちの故郷、そして領地を守らんと必死になった防衛の武士たちは、怒濤の如く押し寄せて上陸する元の兵に、文字通り蹂躙された。

海岸の松林は血に染まり、砂浜にはおびただしい数の矢と刀が放置された。そこに残された兵の骸の数は、見慣れぬ軍装のものより、自分たちの土地のそれの方が遙かに多かった。

大将を失った守備兵は壊滅した。勝利した元軍は、この地が目標とする府からは離れた場所であることを知ると、一斉にその船の舵を東に向けて去っていった。

戦が、はじまりました。

異国の軍勢が船をつらね、湊に攻め入りました。

敵は軍船千艘、数万という大軍でした。

わが方の騎馬武者は、数千ほどだったと聞いております。

戦にさえ、なりませんでした。

浜辺の方で、雷のような音がとどろきます。

そのたびに馬がいななき、武者たちはなす術もなく討ち死にしていきました。

戦おうにも、矢の一本さえ射かけられないありさまでした。

村の男たちは、ひとり残らず駆り出されていきました。

わたしの夫も、連れていかれました。

入り江の向こうの海から、その軍勢が姿を見せたのはそれから数日後のことだった。

西での戦いの結末が、こちらにまで伝えられたかどうかという頃合いに、その異国の船団が姿を現した。

海を見張っていた武士が、慌ててそれを報告にいく。守護の大将が出陣の支度を下知する。刀の鞘が鎧に当たって立てる音、馬が轡を引かれていななく音、いくさ前のあわただしい音がにわかにこの静かな海岸を支配する。

腕に覚えのある弓の名手たちが櫓に立ち、細かい装飾の施された弓に矢をつがえる。

近づいてくる船の大きさがだんだんと明らかになる。

「殿、敵の船がそこまで来ております!」

「もう少しだけ待て……」

その時だった。雷と紛うような大きな音が響いた。櫓もそのために僅かばかり揺れたような気がする。

「何事だ!」

そう叫ぶと同時に、この武将の傍らに轟音を立てながら何かが落下した。砂埃が落ち着くいてそこに目を向けると、ただ、無慈悲に犠牲になった武士の姿があった。

同じ惨状があちこちで繰り広げられていた。目の前の船から、轟音とともに何かが放たれ、その数秒後に武士が何も出来ずに戦死する……。

こらえきれなくなった者が、矢を射かけ始めるが、敵の船には全く届かず、無意味に海中に沈んでいく……。

「こちらも船を出せ。これでは話にならん」

その命により、小舟が海岸に並べられた。刀を手にした武者たちが乗り込み、櫂で敵の船に向かって漕ぎ出していく。

一方の元軍も、相手方に「てつはう」と呼ばれた砲の支援の元、上陸用の小舟に兵を乗せて、海岸へ漕ぎ出していく。それが波の上で激突する。

空は青く、海は青く、その青さの中で戦いが始まった。

イルガイの乗る軍船も、同じように湾内に入っていた。他の船の並ぶ更に先に、陸地が見える。その先には街らしい家並があるのも分かる。

ついに、日本という国にやってきたのだった。それはおそらく自分や真淑の望んでいた形とは違うのであろうが。

(もしあったら、一緒に連れて行ってくれませんか?)

真淑との会話を思い出す。確かに、それは夢物語に過ぎなかった。この土地のどこかに、真淑と縁のある人間が暮らしているのだろうか。

脳裏に浮かんだその笑顔を、無理矢理に士気高揚に充てる。やはり、生きて再び大陸に帰りたい。そうすれば少なくとも一人はそれを喜んでくれる人がいる。

「砲の準備は出来ているか」

「はい」

「あと少しだけ前に出たら撃つ」

「わかりました」

兵がそれぞれの持ち場に命令を伝えていく。

船がゆっくりと進み、その射程に陸地を捉えた。

「今だ、撃て」

轟音と共に、大陸からの技術で作られた、鉄砲という火器が大きな玉を放つ。放物線を描いたそれは、海岸に着弾して炸裂し、こちらに矢を射かけようとしている敵の兵をうち砕く。敵兵は為すすべもなくその命を散らしていく。

「上陸の準備をせよ。相手が混乱したらそれに乗じて陸の陣を急襲する」

「了解しました」

イルガイの船の上の兵の動きがあわただしくなる。

小さな湾を埋め尽くさんばかりの他の船も同様である。

やがて、準備の整った船から、兵が陸に向かって進んでいく。相手の陣からも、同じようにいくらかの船が海に出され、それを迎え撃とうとしている。

そして、それが激突し、刀を交える音がここにまで聞こえてくる。

戦場だった。

そして、それはイルガイがずっと生きていた場所でもあった。

日が傾くころ、この日の戦いは終結した。前回のように、日本側の守備隊は一日で壊滅することこそなかったが、甚大な被害を被っていた。

そもそも、戦い方が違うのである。鎌倉武士たちは名乗りを上げて敵将とおぼしき相手に向かって単独で馬を走らせる。それに対して、その敵将は、旗の一振りで配下の兵たちを一斉に向かわせる。

個々の武勇は日本側の方が優れていたが、その戦闘は元の方に軍配が上がる。数も少ない日本の武士は、撤退を余儀なくされ、内陸の山腹に引き揚げた。その夜の軍議で、この地方の農民の徴発を決定した。それは即日実行され、次の戦闘では彼らが戦いに投入された。

一方の元軍は、海岸の砦を占拠した。一部の部隊が突出して日本軍を追撃しようとしたが、巧みな反撃により阻止された。未だ海上にある兵の上陸もあるため、ひとまずは占拠したその砦に拠ることとし、戦いは一度、落ち着くことになった。今度は、陸地での戦いとなる。

ちぎれるぐらいに袖を振って、わたしは夫を見送りました。

八雲はなにもわからないのか、ただきゃっきゃとはしゃいでおりました。

それきり、夫は戻ってきませんでした。

敵の兵たちは、それは酷い仕打ちをしたと聞いております。

刃向かった者はすべて、みな殺しにされたと聞いております。

軍神をまつる八幡さまさえ、敵の手にかかり、焼け落ちました。

もはやこれまでと、みなが覚悟しておりました。

最愛の妻と娘を家に残し、彼は徴発されてこの戦場にやってきた。

異国の軍が攻め寄せ、自分たちの土地と妻や子供を守るために戦わなければならないという説明がされた。異国とは何なのか、それがどれほど強力なのかは分からなかったが、ちぎれんばかりに腕を振って見送ってくれた白穂と、かけがえのない笑顔を見せてくれた八雲のために戦わなければならないのだったら、そうする気持ちは充分にあった。

普段は滅多に食べられない米の飯を糧食として食べ、自分たちを指揮するという鎧武者の後に続いて戦場に向かう。

そしてその翌日、再び戦いは始まった。

戦場で、粗末な槍しか持たぬ兵と、それなりの軍装をしている武将が対峙した。既に乱戦になり、あちこちで弓矢と刀、槍が飛び交っていた。

そんな中の、一つの戦闘に過ぎなかった。

最初からその技量には何者の介入も許さない格差があった。数秒のにらみ合いのあと、武将が槍を一閃した。ねらい過たず、それは敵兵の腹を貫く。

「ぐぶっ……」

倒れるその兵に向かい、一度槍を抜いた武将は、とどめを刺すべく、再び槍を構える。その穂先の刃が、日光を受けて輝き、その反射光が哀れな敵兵の目に当たる。その時、その瞳がこの武将にとって何かに見えた。それが、一瞬、槍の動きを躊躇させる。

「しら……ほ……、やく……も。すま……ない……」

その言葉は、この武将には分からないものだった。最期の言葉を言い終えた敵兵は、持っている刀を地面に落とした。そこに、槍の一撃が正確に左の胸を襲う。

「私の名は、イルガイだ」

イルガイにとって、この地で自らの手で奪った最初の命だった。この兵の瞳に、白い羽根が一瞬見えたのだった。それが、真淑を思い出させ、一瞬の躊躇をさせた。だが、戦場での逡巡は時として命取りにもなる。そういう意味で、今のイルガイには容赦は無用であった。

彼は知らないが、もう一人の、羽根の継承者の親族が、ここでその命を終えた。

二つの物語の、誰にも知られぬ交錯であった。

この日の戦いは、元の勝利に終わった。

だが日本側の奮戦もあり、元側にも相当の被害が出ていた。この遠征の総大将である忻都は日本側の奇襲を警戒し、海上の船まで軍を後退させた。

勿論、日本側も相当の被害を受けており、この地を守る戦いの行く末は、次のいくさに持ち込まれることとなった。

その夜のことです。

大風が吹きました。

その季節にはまれなほどの、それはすさまじい風でした。

夜が明けた時には、なにもかもが変わっていました。

湊を埋めつくしていた異国の軍船は、一艘残らず海に沈みました。

夕方より勢いを増し始めていた風は、夜中になると更にその威力を増していった。夜襲をかけて元の陣地を脅かすという計画も、中止せざるを得なくなっていた。

この季節にしては稀にみる強い風がこの一帯に吹き付けていた。

人々は、震えながらその風の音を聞いて夜を過ごしていた。

元軍は、慣れぬ土地での野営を避け、比較的安全と思われる海の上の船上にいたが、これが命取りとなった。

猛威を振るう風は、この港にも大きな波となって押し寄せ、ひしめくようにあった軍船を混乱させた。

昼の戦いで疲れ果て、負傷や疲労で動けずにいる兵も多く、闇の中でむやみに動かした船が他の船に衝突する。

突貫作業で建造した軍船は、この大波と衝突に耐えきれず、次々に海に沈んでいった。風の音がその惨事を陸上の日本側の人に伝えなかったのは最後の幸いだったかもしれない。

阿鼻叫喚、混乱の渦巻く中、ごく僅かな船だけが辛うじて湾内を脱した。残りの船はこの異国の地で海の藻屑となり果てた。

イルガイの乗る船は、辛うじて港を脱した。翌日は、その大風が嘘であったかのように穏やかな天気に戻っていたが、当然、その顔は晴れてはいなかった。前日の戦いで配下の兵も無視できないほどの数を失っていた。また。彼の船も昨晩の嵐で大きな被害を受けた。沈みこそはしなかったが、喫水の付近に大きな被害を受け、合浦まで戻れるのかは未知数であった。

「……」

この時のイルガイの脳裏にあったものは何であろうか。無益になった日本との戦いであろうか。それとも、自分を待っている人の面影だろうか。

青い空を見上げながら、前と同じように風を受けて立つ。

僅かな生き残りの船が海を進んでいくが、傷ついたこの船は次第にそこから落伍していく……。

空に、一枚の白い羽根が見えたような気がした。

付近には鳥の姿もなかったから、ひょっとすると幻だったのかもしれない。イルガイが腕を組みながら視線を海の上に戻すと、船がその波を受けてにわかに大きく揺れた。

「浸水です。側壁の板がはがれ落ちました」

血相を変えて兵の一人が報告に来た。イルガイはそれを、どこか遠い場所での出来事のように聞いていた。他の船の姿は、既に水平線の向こうに消えようとしている。これまでにも落伍した船はいくつもあり、その仲間に加わったに過ぎない。

船が傾き始めた。

既に、イルガイには出来ることは何もなかった。鎧を外す気にすらならなかった。予想された人生の終焉が、ようやくやってきたのだという認識に過ぎなかった。

異国での戦いと嵐を切り抜けてきた自分が、何もない穏やかな海に沈もうとしているのが滑稽に思えた。

(しら……ほ……、やく……も。すま……ない……)

昨日の戦いで討ち取った、日本の雑兵の最後の言葉が思い出された。あれは、何を伝えようとしていたのだろうか。あの時、彼の目に見えたものは何だったのであろうか。

(あの予感は的中してしまったようだ……)

イルガイの体が、船と共に海中へと沈んでいく。

(やはり帰れなかったな、真淑よ、すまぬ……)

約束は果たされぬまま、この男も悲しみの物語の中に消えていった。

海は青く、冷たかった。

その海は、冷たすぎた。

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