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第2章 大地の物語

果てしない大空の下に、同じように果てしなく広がる草原があった。

その草原を、風が吹き抜けていった。この風はどこから来て、どこへ行こうとしているのかは誰にも分からない。

そんな空気の旅路には無関係に、この草原では馬や羊が草を食んでいた。素朴な衣服を纏った人たちがその傍らで談笑している。

この場所には珍しい一羽の鳥が姿を見せた。この地を冬に覆う氷のような白い羽根が印象的であった。風を受けながらゆっくりと大地に降り立ったその鳥は、誰にも見られぬまま、その場で優雅に羽を広げた。そして、大きく一度だけ鳴き声をあげる。憂いを秘めたような声であったが、誰にも聞かれることはなくその泣き声は空気と同化した。

そして、その鳥は再び空へと戻っていった。そのとき、一枚の羽根が地面に残された。

後にこの場所を偶然に通りかかった一匹の狼が目ざとくそれを見つけた。緑の中にある一点の白に興味を示し、その匂いを伺ったが、これが食物でないと分かると興味を失い、そのまま立ち去った。その時に起きた僅かな風が、一瞬だけ羽根を空中に戻した。そして再び草の間に落ちた。

その後、この羽根がどうなったのかを知る者はないし、そんなものに興味を持つ者もなかった。

この地にも人間は暮らしている。

そして、人の暮らしているところには伝承というものもある。

それは遙か東の島国で言い伝えられているものとは異なっていたが、一面で共通するところもあった。

人の考えの及ぶ範囲というのは、広そうに見えるが実はそれほどでもないのかもしれない。

狼の血を受け継いだ英雄が現れる……、そんな言い伝えがあった。果敢に大地を駆け、獲物を狩るその勇姿に、人間が自分の追い求める姿を託したというのが発端だったのかもしれない。

そんな伝承を具現化した英雄がこの大地に現れた。

彼は一族をとりまとめ、その勢力を伸ばし、国を建てた。

彼自身、軍馬を率いて東や西の地へ遠征した。その力は強大で、短期間のうちにその国を前代未聞の大帝国に拡充させた。

その版図には、たくさんの人間が住んでいた。彼と同族の者、そうではないが与力した者、帰順した者、敵対した者……。

実に多くの人間が彼の前に現れた。そんな人間たちを前にして、彼はいったい何を思ったのであろうか。

馬上の人生は過ぎゆき、結局、彼は自分の創った国がどこまで拡張するのかを知らぬままにこの世を去ることになる。

その人生が果たして幸福だったのかどうかは、余人には分からない。

ただ、伝え聞くところによると、彼には愛した女性がいたそうである。時には戦陣の中にも彼女の姿はあったという。英雄の妻らしく、聡明で美しい女性であったとも聞く。

彼はその愛と血を受け継ぐ子供を残した。永久に自分の国が続くという妄想などを、彼はおそらく持っていなかったであろう。そう思い続けていた人間たちにその夢の終焉をもたらしたのは他ならぬ彼自身であったからである。

人は、何かに頼らないと生きていけない存在なのである。それが、自分自身であるか、愛した伴侶であるか、親しい友人であるか、血を分けた子供であるか、様々であろうが、彼にその全てがあったことを考えれば、やはりその生涯は幸せだったといえるのかもしれない。

この時代より遙か昔に、別の地で悲しみの物語が始まったが、その悲運の主人公にもこれらの全てがあったのである。だが、それは別の形で語られることになるので今は置いておくことにする。

さて、彼の子供たちは父の遺志を継いで、その国を更に拡張させた。

草原と砂漠だけだった彼らの故郷の他に、森、田畑、都市を新たに見た。見たこともない異文化の文物が彼らを驚嘆させた。彼らにも愛する女性がいて、受け継いだ意思を更に伝える子が生まれた。

どんな英雄も、自分の血を受けた子供の姿を見たときにはその顔は穏やかで優しいものになる。

その子供も、自分を一つの命にまで育んでくれた母親の腕の中で幸せそうに無邪気な笑顔を見せる。

何の装飾もない幸せの姿がそこにはあった。人間は生まれながらに平等というが、本当に平等なのはそれがあるからなのかもしれない。

最初の英雄からおよそ百年。

彼の孫の世代になり、ついに草原に発したこの国は海を見た。

それまでの常なる居場所であった馬の背にまたがり、海からの風を受けながら、皇帝と呼ばれるその男は初めて見る海原に目を向けていた。

夏の太陽が無遠慮に差し掛かり、波が不規則な輝きを見せている。水平線の上には空しかなく、その先に何があるのかは分からなかった。

一方の、自分の真上の空では、白い鳥が風を受けながら羽ばたいていた。自分たちを見守るかのように円を描きながら飛ぶその鳥は、やがて供を見つけて共に岩場の先に消えていった。

草原の匂いとは違う、別の自然の匂いがしていた。初めて嗅ぐその匂いは、この皇帝にとってそれほど不快なものではなかった。一度だけ見た「故郷」の風と似たものがあると感じた。しかし、具体的にそれが何であるのかは分からなかった。

「これが……海、か……」

「左様にございます。陛下には海をご覧になるのは初めてでございましたか」

「そうだ。しかし、雄大なものだな……」

「我々にとっては見慣れたものでございますれば……」

「だが、手は届かない。違うか?」

「はい……。そういうものでございます」

「余の一族は草原の出であるが、相通じるものを感じる」

「通じるもの、でございますか」

「草原にも、人間の手の届かない場所というものがある。それを侵すことは出来ない」

「神聖なる場所、ということでしょうか」

「そういうものとは違う。求める何かがあるはずだが、そこには決して届かない、そんな場所だ」

「なるほど……」

付き従っている異国の着衣に身を包んだ、随臣らしい男が、相づちを打つように言う。その不可解な表情を見た皇帝は、海の大きさに負けないほどの大らかな笑い声でそれに答える。

「抽象的な話だな。実のところ、余にもよくは分からない」

「恐れ入ります」

「ときに、この海とやらの先には、何があるのか?」

「ここからは見えませんが、一つの国があると聞きます。それがしは見たことはございませんが、時折、かの国の人間が船でこの地を訪れます」

「草原の、地平線の向こうにも人が住んでいるというのと同じなのだろうか」

「そうともいえるかもしれません」

「ならば、会ってみたいものだな、この海の向こうの国の人間に」

丁度、彼らの視界の中に一艘の船が入ってきた。白い帆に風を受けて、音もなくゆっくりと海面を動いていく。穏やかな夏の風景であった。

「よい気分になった。今日は戻るぞ」

「はっ」

海に背を向けて、彼らは戻っていった。夏の空は、それをどんな気持ちで見つめていたのであろうか。

蒙古高原に興ったモンゴル帝国は、稀代の英雄チンギス・ハーンのもとで拡大を続けた。彼の死後も、後継者のオゴタイ・ハーンの指揮で更に版図を広げた。その領域はユーラシア大陸のかなりの部分を占める。

オゴタイ・ハーンの死後、帝国は、チンギスの兄弟をそれぞれ始祖とする国の連合という形で続いていくことになるが、その盟主といえる国が中国を本拠として更に勢力を拡大しようとしていた。

征服した各地の文化や人材を積極的に受け入れることにより急速に発展してきたモンゴルであったが、同様にこの地で中華風の手法を取り入れたこの国は、国号を「元」とした。その皇帝がフビライ・ハーンである。

モンゴルの現れる少し前、中国にあった宋という国は、北方の女真族の建てた金という国に圧迫されて、南遷していた。その金を滅亡させ、代わるように中原に入ったモンゴル族は、前述の通り、元なる国を建てた。フビライの野望はそこにとどまらず、南に遷った宋、即ち南宋や、更にその南の大越、また東の半島にある高麗をも征服の対象とした。

蒙古騎兵の蹄と、それに従う兵たちの威力によって、多くの土地がこの皇帝の支配するところとなった。

そして、その征服者の目は、更に海の先を視野に捉えていた。


夏の日差しが容赦なく照りつけていた。

乾いた空気が草木までも干上がらせるような、この季節の中でも更に暑さの厳しい日であった。

生まれはその地ではないとはいえ、もともと内陸の高原の出身であるイルガイにとって、この国の気候は実際のものよりも更に厳しく感じられた。

この国の軍勢がこの地を蹂躙したのは、もう十年以上前のことになる。大規模な遠征軍は、この地のあちこちを廃墟にした。王室は蒙古軍の苦手な海上の島に逃れ、そこで抵抗を続けた。一方の蒙古軍は、軍を分けて、半島の街をことごとく屈服させた。

やがて、その惨状を見かねた王室は、自ら後継を差し出すことによって和を求めた。蒙古側はそれを受け、ようやくこの長い戦いは終結した。そして、この国は属国となった。

その後、そんな国の方針に不満を持つ武人たちが反乱を起こした。王族の一人を立てて自らを正統と名乗り、同じく国に不満を持つ者たちを吸収して勢力を築いた。国軍と蒙古は協力してこれに当たった。

自分たちの国を取り戻す戦いは、自分たちの国を荒廃させていたことに気付く者は少なかった……。

イルガイの所属する軍勢は反乱の制圧のために目指して各地を転戦した。先祖からの土地を守ろうとする人間たちは強く抵抗したが、国が既に形を為さなくなっている現状では、この大帝国の整然とした行軍に抗する術はなかった。

幸い、大規模な略奪や殺戮などは行われなかったこともあり、町によっては彼らの軍勢が出現しただけで抵抗を諦めた場所もある。

実際、支配者が代わっても、日々耕して食べていくという生活は、多くの人間にとって変わらなかったというのも事実である。

やがて、この反乱も収まっていく。

その過程で、イルガイにとって大きな一つの出会いがあった。

初めて迎えたこの夏の中で、先の地面に見える陽炎のようにぼんやりと、イルガイはその出来事を思い出した。

数日に渡った包囲は終わりを告げ、攻城兵器のうち砕いた城門から騎兵が乱入した。

この瞬間を待っていた兵たちの意気はいやでも上昇し、城内の中心にむかって駆けていった。

割合、統制のとれた蒙古の軍勢であったが、中にはその奔流から逸れて行く者もいた。

もともと、蒙古の人間たちの間には略奪を是とする考え方が存在していた。戦いに勝った者は負けた者から奪う。それが糧であり、目的でもあった。

彼らの崇拝するチンギス・ハーンもそれを公言し、実際に抵抗した者たちを皆殺しにしたこともあった。

だが、蒙古が拡大していくにともない、それは必ずしも美徳とはされないようになってきた。器が大きくなればそれにともなって中身も成長しなくてはならない。今の皇帝であるフビライは、基本的に略奪を禁じていた。だが、蒙古の人間の中には、それが手ぬるいと思う者もいた。

おおよそ、元軍は略奪とは無縁であったが、中には今のように、どさくさにまぎれて個人的に小規模なそれを行おうと思う者もあり、一部の武将はそれを黙認していた。

イルガイは、数十人を配下に持つ部隊長的な存在だったが、自らも騎乗して城門をくぐり、制圧の対象である内城に向かっていたときに、隊列から離れていく一団の姿を認めた。怒濤の軍勢の他に、町中は逃げまどう住民たちでごったがえし、それを気に掛ける人間はないように思われた。

よくない予感を覚えたイルガイは、馬首をそちらに向けて後を追った。

そして、武器を手にしてある民家に入っていく兵の姿を確認した。

何か悪い予感がして、急いでその後を追っていった。

開けられたままの扉をくぐって中に入ると、部屋を物色している男と、その中にある何かを見つけて目を向けているもう一人の男の姿があった。

よく見ると、その男の前には後ずさりをしながら怯えて顔を見せている一人の女の子の姿があった。体を後ろに持っていき、その圧力から逃れようとするが、ついに壁に阻まれる。びくっと体を震わせた彼女の表情が一段とこわばる。

「おい……」

同じ言葉が二つの口から発せられた。

一つは、女の子の前にいる男から。そしてもう一つはイルガイからであった。

自分と違う声がしたのに気が付いたその男が振り返った。部屋の中を見ていたもう一人の男も同じようにイルガイの方に目を向ける。

「そのくらいにしておいてやれ。無意味に人を脅かすこともないだろう」

「はっ……」

ひとまずは規律に違反した彼らが、今度は逆に身を固くする。自分たちのその粗末な武装と、兜まで付けている目の前の武人の地位のどちらが上かは自ずから明らかであった。

「おそらく、この家の主は真っ先に荷物を抱えて逃亡したのだろう。この子を脅しても何も出ないさ」

「……」

「お前たちは持ち場に戻れ。ここには誰も来なかったし、何も奪われなかった。いいな?」

その言葉の意味を察した二人の兵士は、直立の姿勢をとって一礼すると、逃げるように立ち去っていった。

蒙古人の自分として、気持ちも分からないでもなかったが、同時にそういった習慣に後味の悪さも感じるのも事実だった。

「陛下の……、言葉の影響を受けているのかもしれないな」

イルガイはそうつぶやくと、この家の中に残っているその女の子の方に改めて目を向けた。

「……」

薄明かりに目が慣れてきた。壁を背にしたまま、女の子は先ほどと変わらぬ姿勢で立っていた。そして、イルガイの方をどう対応してよいか分からぬままに見つめていた。

「恩を着せるつもりはないが、まあ酷い目に遭わなくてよかった」

「……はい。ありがとうございます」

「あまり聞くのも失礼だが、親御さんは?」

「さっき、あなたがあの兵士たちに説明していたとおりです……」

兵士たちを納得させるための方便にも似た推測だった。しかし、期せずしてそれは当を得ていたらしい。イルガイはまだ妻帯もしていなかったし、子供もいなかったから本当のことは分からなかったが、自分の子供を捨てて逃げるなどということがあり得るのだろうか。

「しかし……」

「わたしたちの国では、あなた方の国とは考え方が違うんです」

イルガイの疑問を見透かしたように、女の子は静かに言った。

「考え方?」

「妻はまた娶ればいいし、子供はまた産めばいいのです。でも、親は、失ったら二度と取り戻せません」

「……そうか。じゃあ、お前は……」

「そんな大層なことではありませんけどね。親の足手まといにはなりたくないというのはありましたけれど」

この時、この女の子が初めて笑顔を見せた。何かを悟りきったような、不思議な笑顔だった。この笑顔が、イルガイには気になったのである。思えば、こうして戦いの中に身を置いて、勝った味方の顔以外の笑顔を見たのは初めてであったような気がする。だからなのであろうか。

「私は、戻ることにする。この街にも太守がやってきてやがて落ち着くだろう。今は将軍が暫定的に治めるだろうが……」

この少女を安心させるために、言葉を選びながら説明する。

「お前は、ここで暮らすのか?」

僅かながらも関わってしまったために出た言葉であった。攻め落とした街に住む名前も知らない人間の今後など、どうでもよいことであったはずだ。それでも、イルガイはそういう質問を発した。

「わかりません。あなたが面倒を見てくださるというのなら別ですが」

再び女の子が笑顔になる。その真意がイルガイにはよく分からなかった。

「ははっ、面白いことを言う。私は、蒙古軍の上軍第三翼のイルガイという者だ。気が向いたら訪ねてくるのもよいだろう」

それだけ言うと、イルガイはこの家を後にした。

それで、この戦いにおける最後のエピソードは終わるはずであった。


「はっ、了解いたしました」

イルガイの属する軍は、この地方の中心的な街であるこの場所を本拠地として、地域の完全な掌握に当たることになった。離散して山中に潜んでいるかもしれない残存勢力からこの街を守るのも重要であり、その任務をイルガイは任された。

街の一角の、主を失った屋敷が与えられ、そこに居を構えることになった。木で出来たその家は、今までイルガイの住んでいたものとは全く異なる建築様式で、そこに自分がいるということに何となく違和感を覚えていた。思えば、おそらく自分の祖父や曾祖父は草原で布の家に住んでいただろうし、そもそもこんな様式の家を目にすることなど、一生なかったであろう。そう思うと、自分がここにいるということが何とも不思議に思えるのだった。

屋敷は、イルガイが独りで住むには広すぎるものだった。見かけは立派であるが、よく観察すると散見されるあちこちの綻びは、この国のたどってきた時間を端的に示しているようだった。

その広い家の真ん中の部屋に腰を下ろし、平服に着替える。自分が感じているのは勝利なのか、そうでないのか、自身にも判断が付きかねていた。

ついこの前までは名前も知らなかったこの街は、イルガイにとってはこれから僅かに残っている生涯で忘れることの出来ない土地となる。

ある日のこと、イルガイは来客のあるのを告げられた。

門衛の兵士が、若干の緊張を伴ってそれを報告に来た。地図を見ながら今後の任務の展開について思案をめぐらせていたイルガイが、そのまま顔だけを起こしてその門衛を見る。

「私に、客か?」

訝しげな表情は隠せない。そもそも、軍の人間以外にこの街に自分を訪ねてくるような人間がいるとも思えない。軍の者だったら、所属を名乗ればそれで通るはずである。

「はい。名前も伺いましたが、よく聞き取れませんでした。申し訳ございません」

「ここの人間ということか?」

「そのようです。割と粗末な身なりをした、若い女ですが……」

「ふむ……」

「イルガイ様の名前を申しておりましたが……」

頬杖を付きながら心当たりを探るが、どうも思い浮かばない。自分に恨みを持つこの土地の人間であることも予想され、そうであるなら関わらずに追い返すことが得策であろうが、自分の名前を知っているという……。

「分かった、会ってみよう。慎重にここに通せ。もし不審な動きがあればすぐに抑えることが出来るよう、お前が後ろを監視しているように」

「はっ、分かりました」

そのまま、再び地図の方に目を戻す。だが、一度とぎれてしまった思考は元には戻らず、単に見知らぬ地形を目で追うだけとなっていた。

「あっ、あのお名前は本物だったんですね」

この場所に妙に不似合いな、そんなのんきな声が聞こえてきた。その声にどこか聞き覚えがあり、イルガイは再び顔を上げた。そこには、確かに見覚えのある顔があった。その記憶を引き出すには少しばかりの時間を必要とはしたのであるが。

自分たちの着ているものとは意匠の違う衣服。そして自分より一回りだけ年下に見えるその少女の表情。少女を抜け出そうとしているこの娘の屈託のない表情は、ある意味では可愛らしくも見えた。

「ほう……」

だが、何の目的で自分を訪ねてきたのかはよく分からなかった。ひとまず、彼女を連れてきた門衛に声を掛け、部屋の入り口に待機させる。

「で、何の用事だ?」

「この前の言葉、覚えてらっしゃいませんか?」

悪戯っぽい笑顔を浮かべながら、そんなことを言い出す。確かに、あの時に彼女といくつか言葉を交わした記憶はあったが、その内容までは覚えていなかった。

「私が何か言ったか?」

「せっかく、頼ってきたのに……」

「うん?」

その表情に、警戒心を解きかけている自分に気が付いた。もし、何らかの目的を持ってそう演技しているのであれば、相当に高度な策略家といえるかも知れない。だが、この少女はそうではなかった。

「最後に、お名前と一緒におっしゃいましたよね。『気が向いたら訪ねてくるのもよいだろう』って」

「そういえば、そんな気もするな」

この少女の会話のペースに引き込まれているような気がするが、それも悪くないとイルガイは思った。物心ついた時には陣中にあったイルガイにとって、なにがしかのものを感じたのかもしれない。

「思い出してくれましたか」

少女の顔がほころぶ。

「ああ。だが、それだけでここに来たのではなかろう。どういうつもりなんだ?」

「えっとですね……。わたしを、雇ってください」

「なに?」

イルガイにはその意味が理解できなかった。いつもは冷静である彼らしくもなく、その声は若干裏返っていた。

「住むところがないんです。身の回りのお世話くらいなら出来ると思いますので、ここで食べさせてくれませんか」

その目を見ると、冗談を言っているようには見えない。真意を測りかねていたイルガイは、そもそもの彼女との出会いを思い出した。今、少女は「住むところがない」と言ったが、あの家があるではないか。確かに、両親は既にそこにはいないのであろうが。

そんな疑問を見透かしたかのように、少女は淡々とした口調で説明を始める。

「あの家にはもう何もありませんよ。それに、家だけあっても食べられませんし、一人で稼ぐことなんて出来ませんから。それならば、まずはイルガイ様を頼ってみようかなって」

何ともない口調で言っているが、「一人で稼ぐ」というのがどのようなことを意味するのかは、イルガイにも少女にもよく分かっているだろう。この少女からは危険は感じられないし、確かにこの広い家でいろいろと面倒を見てくれる人間がいれば助かる。上部に要請して誰かを頼むことも出来るのであったが、それならば、この子にその役を頼んでも大差はなさそうである。

「そういうことか……」

それでもさすがに少しは考えていた。そんな再び頬杖を付いたイルガイの様子を、少女が見守っている。イルガイは、自分の感覚を信頼することにした。

「ま、いいだろう。これも何かの縁だろうな。お前を路頭に迷わすのも気が引けることだしな」

「わっ、ありがとうございます。言ってみるものですね」

花が咲いたような笑顔になる。それが、何故かイルガイには嬉しく思えた。

「言ってみるものですね、って、なぁ……」

イルガイが肩をすくめる。

「これでも、一大決心だったんですよ、わたしには」

「まあ、それはそうだろうが……」

「どうせ身一つですから、このままここにおじゃまさせてもらいますね。わたしはどこにいればいいですか?」

執務中ということを敏感に察しているらしい。外見は可愛らしさの残る少女のものであったが、意外に聡明であるのかもしれなかった。

「奥の部屋で昼寝でもしていてくれていい。こっちはもう少しかかりそうだ」

「わかりました。奥ですね」

そのまま、イルガイの指差した方に消えていく。入れ替わりに、部屋の入り口を守っていた門衛が部屋に入り、心配を隠せずにイルガイに言った。

「大丈夫でしょうか?」

「まあ、平気だろう。いづれにせよ人手が欲しかったところだし、知った顔なら少しは安心だ。まあ、しばらくは油断できないだろうがな」

「イルガイ様がそうおっしゃるのでしたら」

「まあ、お前もしばらくは気を付けていてくれ。私もこういった仕事は初めてで何かと大変だ」

「わかりました」

この頃、この国はまた大きな動きを見せようとしていた……。


実際、この少女はよく働いてくれた。

イルガイにとっては不慣れな土地であるこの場所で、ほんの僅かな関わりから始まったとはいえ、知った人間のいるということは暮らしていく上で便利でもあった。

この最初の日も、予定の仕事を終えたイルガイが自分の部屋に向かうと、いつもはほとんど使うことのない厨房から、珍しい芳香の漂ってくるのを感じた。

疲労と空腹に導かれてその源に足を向けると、この少女が食事の支度をしているところであった。

「休んでいて構わないと言ったはずだが……」

そんなイルガイに、彼女は笑顔で答える。

「ここにお世話になるからには、ちゃんと働かないといけないと思います。それだけですよ」

この屈託のない笑顔は、何故かイルガイを安心させる。その理由はまだよく分からない。分からないというのなら、この少女がなぜ自分のところに来たのか、それ自体が不可解であった。確かに、危ないところを救ったというのがあるとはいえ、自分の住んでいた街を占領し、家族との離散を招いたその一因であったはずだ。

だが、幾度かの戦いを経験する中で感じ取った、敵意を察する微妙な感覚は、この少女に対してそれを感じさせなかった。だから、イルガイはその感覚を信用することにした。

「温かいうちに召し上がってください。この土地の料理だからお口に合うかは分かりませんが、それは許してくださいね」

「ああ、ありがとう」

腰を下ろしたイルガイは、器を手に取って、その湯気の上がる料理を口にする。その熱さの上に、基本的な味付けが辛みであることも手伝って、イルガイの体に緊張が走った。だが、確かに慣れぬ味ではあったけれども、充分に美味と思えるものであったことも確かである。

イルガイが顔を上げると、若干心配そうな目で自分を見つめるこの少女の顔が前にあった。

「変わった味だが、確かに美味しいな」

「そうですか、よかったです」

「何がだ?」

「気に入って頂けなかったら、わたしはここを追い出されてしまうかもしれません。そうしたら行くところがないですから」

今度は悪戯っぽい笑みを浮かべる。そんな時は、見かけよりも子供のように見える。とにかく、笑顔の印象的な女の子だと、イルガイは感じた。

「現金なやつだな」

これも、こんな時代を生き抜くための彼女なりの知恵なのだろうか、イルガイはそんなことを考えた。

「まあ、これからは食事が楽しみになるかもしれない。そんな風に思ったのは久しぶりだ」

「食事は、楽しみながら食べないと駄目ですよ」

「それはそうだけどな……」

一瞬、遠くを見る目つきになるイルガイ。それを敏感に感じ取ったのか、それ以上の言葉は加えずに、少女は再び、イルガイの食事を観察していた。

それに気が付いたイルガイが、箸を休めて再び少女に向き合う。

「それはそうと、二つほど気になることがあるのだが……」

「はい、なんですか?」

「まず一つは、お前の名前をまだ知らないということだ。私は名乗ったが、私の記憶の中にはお前の自己紹介は存在しない」

「あっ、そうでしたね。ごめんなさい」

困ったような笑顔という、珍しいものを少女は見せる。

「わたしは、真淑といいます。宜しくお願いします」

頭をぺこりと下げる。そんな仕草には子供のような愛らしさがあった。

「こちらこそ、宜しく頼む」

「はいっ。それで、もう一つの気がかりというのはなんでしょうか?」

「そう、それだ。お前は、何で食べない?というより、私は自分の食事をじっと観察されるのはどうにも落ち着かないのだが」

自分でなくても普通はそうだろうと、イルガイは思った。だが、真淑は何でもない当たり前のことのようにこう答えた。

「わたしはイルガイ様のお世話をする代わりに置いてもらうのですから、イルガイ様の食事が終わるまでは頂けません。もし、何か残りましたらそれを頂ければいいです」

「残らなかったらどうするんだ?」

「大丈夫です。まだ残りの食材がありますからそれで何か作りますので」

「それは分かったが、私の食べるのを見ている理由にはならないと思うが」

「それは簡単です。自分の作ったものが美味しく食べてもらえるかは、やはり気になるじゃないですか」

再び、屈託のない笑顔。

このように人の笑顔を何度も見たのはいつ以来であろうか。そんな感傷からか、それとも真淑自身の魅力なのだろうか、イルガイは久しく忘れていた心の温かさを感じていた。なんとなく包み込まれてしまうようなそんな感覚がある。そしてそれは不快なものではなかった。どちらかといえば口数の少ない方であるイルガイが、こうして言葉を交わしている珍しい自分に気付く。

「気にするのは構わないが、やはりやりにくい。どうだ、お前も一緒に食べろ」

「ですが、先ほど申しましたように……」

「ああ、言っただろう、『食事は、楽しみながら食べないと駄目』だと。一人でお前に観察されながら食べるよりは、その方が楽しめると思うのだが」

「本当にいいんですか?」

心底、不思議そうな表情で尋ね返してくる。そこに恐れや畏まりよりも期待の眼差しが感じられたことにイルガイは安心して、首を縦に振って促した。

「はいっ、今度はわたしの負けみたいですね。それでは喜んでご一緒させてもらいます」

真淑がパタパタと駆けて食器をもう一つ持ってくる。そしてイルガイの正面に腰を下ろして、自分も食べ始めた。

その様子を見ていたイルガイは、自分が向けたのと同じ言葉で真淑に抗議される。

「食べるところを見ていてはいけないのではないんですか?」

「ははっ、そうだったな、失礼。だが、さっきの私の気持ちも分かっただろう」

笑いながら自分も食べかけの皿に戻る。

「そうですね、気を付けますね」

「ああ、これからは遠慮することはない。食事くらい一緒にとればいいだろう」

「はい……」

その嬉しそうな顔に、ほんの僅かに憂いが入っていたが、それはイルガイには気が付かなかった。真淑自身にも気が付かなかったのかもしれない。

イルガイの予想に反して、彼はこの街に割合と長い間腰を落ち着けることになっていた。

近郊の山に立て籠もる残存勢力を掃討したり、戦陣に兵や食糧を送る手はずを整えるのが主な仕事になっていた。

将軍も街に残ったままで、話によればこの反乱も収束の方向に向かおうとしているらしかった。敵の本隊は蒙古の苦手とする海上に根拠を置いて抵抗を続けているらしかったが、王室が蒙古の庇護下にあることもあり、半島のほうの抵抗は目に見えて静まっていった。

これまでの長年の侵攻と、それへの抵抗の結果による略奪と破壊に、既に荒廃していた土地と人間は、対抗する気力も失っていたというのが実情かも知れない。

微妙な平和が訪れていた。それを平和と言えるのかどうかは、立場によって意見を異にするのであろうが、少なくとも大規模な戦いとそれに伴う犠牲者はなくなっていた。

幸いにこの年は豊作で、荒れた大地にもそれなりの収穫をもたらした。ようやく一息ついたというのが大方の人間の正直な感覚かもしれない。

立場が違うと言えば、自分の屋敷に住み込んでいる真淑は、この国を見てどう思うであろうか。

郊外を、数人の部下を連れながら騎乗して巡るイルガイは、こちらは変わらぬ空を見上げながらふとそんなことを考えてみた。

農閑期になっていたが、時々人々の姿を見かける。武装した蒙古人のイルガイを見て、軽く一礼する者、目を逸らす者、様々であった。

彼自身は、この国の人間を苦しめるつもりはなかったが、結果として同じことになっているのかもしれない。真淑を置いて面倒を見ているのは、それに対する罪滅ぼしのつもりなのだろうか。そうだとしたらとんでもない偽善だなと、そんな風に思った。

大都の皇帝陛下の大事業の一翼を担う自分を誇る一方で、そんな気持ちも持っていた。不思議な感情だとは、自分も気が付いていた。そういう意味で、大ハーンの築いた大帝国は、蒙古の人たちにもいろいろな影響を与えていたといえるのかもしれない。

そんな中を、季節は変わらずに巡った。この時の営みは、この国を巡る情勢がどうなろうとも変わることはなかった。

この土地で初めて迎える冬は、イルガイの故郷のそれと比べたらたいして厳しいものでもなかった。遠く離れた場所ではあったが、もとより故郷というものにそんなに思い入れのあるものでもない。そもそも、自分が産まれた場所がどこであるのかもよくは知らず、単に自分たちの一族の出た地であるという意味でしかなかった。

真淑には、満足な報酬らしいものも渡してはいなかった。相場程度のものを渡そうとしたこともあったし、その程度の余裕はあったのだが、真淑は「ここに置いてもらっているだけで構いませんから」と笑顔で辞退していた。何度か試みても同じ結果だったので、小遣い銭程度のものを渡したり、普段の買い物の残りを受け取らずにいるということで済ませていた。

なんとはなしに、イルガイは幸福のようなものを感じていた。この少女にどんな感情を持っているのか自分では分からなかったが、彼女の笑顔がよい方向に働いていたことは間違いがない。少なくとも、自分の家に戻るのが楽しみになるということは今までにはなかったはずである。

真淑の方は、どんな思いで暮らしているのか、興味のあるところだった。自分の世話は充分以上にしてくれたし、そうでない時間には余暇もあったはずだ。泉のように湧き出てくるその笑顔が、どこを源泉としているのか、そういったものに縁のなかったイルガイには不思議に思われた。


春を迎える頃、街の人たちの表情がこれまでよりも一層重くなったように感じられた。

真淑の笑顔は相変わらずであったが、街の中を歩いていると、人々の表情に疲れ切ったような重さが明確に現れているのを感じる。

それに気が付くとほぼ同時に、イルガイはある日、上からこう言い渡される。

「しばらくしたら、また出兵があると思われる。我が軍もそれに備えて置かねばなるまい。イルガイには一隊を任せることとする。ぬかりなきように」

「ははっ」

一礼をしてそれを受ける。しかし、反乱も鎮圧され、特にこの場所に大軍を動かすような戦場はありそうにもなかった。未だに抵抗を続けている南宋に派遣されるのであろうか。あくまでもさりげなく、それを将軍に尋ね返してみる。

「ときに、どちらへ向かうのでありましょう」

「隠すほどのことでもないだろう。既に大がかりな準備がされているしな。海の向こうだ」

「三別抄の残党ですか?」

「いや、イルガイは知らないか、この半島の南に、日本という島国があるのだそうだ。陛下はこの国との通商を望んでおられた。だが、その使者が限りない無礼を受けたため、討伐の軍を派遣することを決めたらしい」

「しかし、我が軍は船での戦は苦手なのでは?」

離島というよりは飛び地といった方が近いような島でも攻めあぐんだ蒙古軍が、海の向こうに兵を向けるというのは正気の沙汰ではないように思われた。

「今回は、この国の助力がある。現在、必要な兵船も建造させている。遠征軍には高麗兵や漢兵も組み込まれる。彼らは中華の地で水戦の経験がある」

「なるほど」

だが、イルガイは不安を感じていた。海を越えての行軍というのがそう簡単にいくのだろうか。しかし、それを口にすることは出来ない。

イルガイは、もう一度将軍に深く一礼すると、持ち場へと戻っていった。

必要とされる軍船は一千近いものになるらしい。当然、それだけの備えがこの国にあるはずもないので、新たに建造されることになる。海から少し離れたこの街でも、近郊の木が切られ、必要なものが工芸所で作られた。先に見た人々の疲弊はそれが原因なのだとようやく理解した。

幸いと言うべきか、そんな中でもイルガイの日常は変わらなかった。戦いの準備のために移動するのではないかと予想されたが、それもまだなかった。

真淑の方も、そんな変化を知ってか知らずか、変わらぬ笑顔で近くにいてくれる。

そんな春が夏に移ろうかという頃、イルガイは城門を出て散策をしていた。田園風景が見慣れたものになってきている。その田圃には成長途中の稲が並んでいる。

イルガイは気が向いたからか、この日は真淑を伴っていた。軽い気持ちで声を掛けたイルガイに、真淑は本当に嬉しそうな表情でついてきた。

イルガイにとっては苦手な夏がそこまで来ていたが、この日の風はまだ心地よかった。その風に、隣にいる真淑の髪が緩く流される。

「よく分からないが、城の中にいるよりはこっちの方が落ち着くな」

「はい、わたしもです」

「私は草原の出だからだろうか。ここは草原とは違うが、少なくとも城の中よりは自然に近い」

イルガイが空を見上げながら言う。空を流れる雲も、春の穏やかなそれから躍動的なものに変わろうとしていた。その先には、青空。

「なんだか、懐かしい気がしますね」

緩やかに空を飛ぶ鳥の姿がある。今、この国は喘いでいるのかもしれないが、自然はそれとは無関係に自らの営みを続けていた。

「懐かしいのか。お前は農村の出ではないと聞いたが」

「はい、わたしもよく分かりませんが、懐かしいんです。わたしの祖母は、海の向こうからこっちに渡ってきたと聞いたことがあるんです。海の向こうでは田畑を耕していたのかもしれませんね」

吹き抜けた風を気持ちよさそうに受けて、自然と笑顔になる。その表情が、イルガイには美しく感じられた。

「海の向こう、か……」

「あっ、イルガイ様はご存じないかもしれないですね。この半島の南から船を出すと、別の国があるんですよ」

「いや、知っている」

遠征の話は聞いていたが、それは真淑には話していなかった。

「ご存じでしたか。一度、その国に行ってみたいですね」

「そういう機会もあるかもしれないな」

「もしあったら、一緒に連れて行ってくれませんか?」

今度の笑顔は、少し幼女じみた可愛らしいものであった。なじんだ家族に向けるような、邪心のない笑顔……。

「ははっ、夢に近い話だな」

「そうですね」

二人で空を見上げる。自分がその国へ行く機会は近くあるのかもしれなかったが、それは、到底、真淑の空想しているような状況ではあるまい。勿論、彼女を伴うなどということはあり得ないだろう。

「あっ……」

空を見ていたためであろうか、隣を歩いていた真淑が不意にバランスを崩す。手を差し伸べたイルガイのそれを、反射的に掴む。

「気を付けろよ」

「はい、すみませんでした」

「疲れているのか?」

「そんなことはないですよ」

その言葉に、若干の陰りがあった。今、この娘に「自分が幸せか」と聞けば、おそらく、少しだけ考えるような仕草をした後、笑顔で「はい」というに違いない。だが、それは完全な本心ではないだろうと、イルガイは真淑の手を引きながら考えた。自分も、幸せかどうかというとよく分からない。そもそも、そんなことを意識したこともなかった。

「気分転換になるかどうかは分からないが、私は時々こうして城外の空気を吸いにくる。これからも、お前さえよければ一緒に来るか?」

「はいっ、わたしもこの景色は嫌いじゃないです」

日差しは緩やかになっていた。まだ本格的な夏が来るまでには少しの時間があった。

「まあ、今日はもう戻るか」

「そうですね。お腹も空いてきたので、今日は頑張って美味しいものを作ります」

「期待しているぞ」

「はい、期待してください。あっ……」

急に真淑が声の調子を変える。

「どうした?」

「あんなところに、何かが落ちていますよ」

土と草の色とは不釣り合いの、白いものが落ちているようだった。ちょうど真淑が体をよろけた場所である。真淑が小走りでそれに近づいていく。その仕草を見ながら、イルガイもゆっくりと近づく。

「羽根、みたいですね。何の鳥のでしょうか」

その羽根は、不自然なまでに白かった。単に落ちていただけの羽根であったら、土や風に洗われて少しは汚れるのが普通なのだろうが、この羽根はそんなものを全て拒絶したかのように純白であった。

真淑は、その美しい白に魅せられたかのように、そっとそれに手を伸ばした。

真淑の指の先が羽根に触れた瞬間、何かが起こったような気がした。ある衝撃が真淑の体の中を抜けていったような気もするし、見ていたイルガイにはその羽根が一瞬輝きを放ったようにも見えた。

「どうかしたか?」

イルガイが心配そうな顔で尋ねる。だが、真淑の笑顔は変わらないものだった。

「いえ、なんでもないですよ。見てください、綺麗ですね」

「そうだな……」

「こんなふうに飾ってみたら、どうでしょうか?」

はにかんだような笑みを浮かべ、真淑がその羽根を耳の上の髪に挿してみる。黒髪とその白い羽根のコントラストが美しかった。

「なかなか、似合うじゃないか。可愛いぞ」

率直な感想をイルガイは言う。そんな言葉に満足しながらも、真淑はあえてこんな風に答えてみた。

「ちょっと残念です」

「何故だ?」

「『可愛い』というより、『綺麗だ』と言って欲しかったです」

「すまんな。でも、そんなものなのか」

「そうなんですよ」

その時通った風が、真淑の髪からその羽根の飾りを持ち去っていった。

「あっ、飛んでしまいましたね」

「ま、あの羽根も還るべきところに還っていくんだろう」

「還るべきところ、ですか?」

「やはり羽根は空にある方がふさわしい。今のお前のも惜しくはあったが」

「そう言ってもらえれば、わたしは嬉しいですよ」

「ま、今日は戻るか」

「はいっ」

若干だけ長くなった影が、二人を見送っていた。この羽根がどこに立ち去っていったのかは誰も知らない。

夏も終わりが近づいた。

蝉の鳴き声も何度か変わった。山の緑もその色合いを少し変えてきたように感じられる。

予想していたことではあったが、ついにイルガイにも出陣の命が下されたのだった。武人として、それは当然のことであったが、何か心の中に引っかかる不安のようなものがあった。

遠征先が海の向こうであるからという簡単なものではなかった。かといって、ならばどんな類のものであるのかも分からなかった。

その日の夕食の時に、イルガイはそれを真淑に簡単に告げた。

「そろそろ、時期が来たらしい」

「何の時期ですか?」

「お前も察しているかもしれないが、我々はこれから新しい戦に出なくてはならない。当然、私もその一員として出陣することになる」

「はい……」

真剣な表情のイルガイに釣られるように、笑顔だった真淑の表情もそれに変わる。

「長くなるかもしれない。それは別に構わないのだが……」

「構わないんですか?」

少しだけ悲しそうな表情を真淑はする。なぜ、この子はこんな顔をするのだろうか、一瞬だけイルガイは不思議に思った。だが、イルガイには彼女の心の内を察するだけの能力は持っていなかった。

「この場合、『構わなかった』というのが正確な表現だろう。この家は、私がここにいるとき限りの私の家だから、出陣に際しては返上しなくてはならない。誰に返上するのかはよく知らないのだが……」

冗談めかしたその言葉に、ようやく真淑も少しの笑顔を取り戻す。だが、それを見る余裕もなく、イルガイはその先を告げる。

「だから、お前をここに置いておくことが出来なくなったわけだ」

「そうですね、暇を頂かなくてはいけないんですね」

「出来ればそうしたくはないのだがな。上の方に言っておけば、しばらく暮らすのに困らないだけのものを渡してやることが出来るが……。それだけで済ませてしまうのは気が引ける」

「では、こうしませんか?」

名案を思いついたように、表情をほころばせた真淑が口を開いた。

「うん?」

「今すぐ、私に暇を下さい。もし、イルガイ様の行った先で、また会えましたら、そこでまたお世話をさせてください」

「ははっ、簡単に言うな。どこに行くのかは……、まだ知らされていないのだぞ」

「いえ、すぐに分かります」

「大した自信だな」

「そうかもしれませんね」

「だが、それでいいのか。本当に再会できる保証はないのだぞ」

「大丈夫です。もし、出来なかったら、その時は諦めます」

「……」

「……」

「そうか、わかった」

「それで、最後に一つだけお願いしてもいいですか」

「何だ?」

「今晩だけは、イルガイ様と同じ部屋で寝かせてもらえませんか?」

「なにっ」

「妙な意味じゃないですよ。わたしも、寂しいんです。これからしばらくはひとりぼっちなわけですし……」

「なるほどな。まあ、いいだろう」

「よかったです……」

この時の嬉しそうな顔を、イルガイはしばらく忘れることが出来なかった。

その日の晩、二人は自分たちの立場を少しだけ越えて、いろいろな話をして過ごした。それは、普段の食事の時などにしているような、とりとめのない話であった。

話は、いつしか自分たちの過去のことになっていた。お互い、あまりよい産まれ育ちではなかったらしい。産まれた場所も育った場所も環境も違ったが、イルガイと真淑が割合とすんなり相手になじんだのも、今から思えばそういった境遇のためあったのだろう。

そして、少なからず今の生活に満足しているのも、過去の生活があまり恵まれたものでなかったからなのかもしれなかった。

「もう遅い。そろそろ寝るか」

「そうですね」

「お前はこのベッドを使うといい」

「そんなこと出来ませんよ、ここはイルガイ様の寝所ですよ」

「いや、私は戦場でいくらでももっと酷い場所で寝たことがある。女のお前がそこを使うといい」

「でも……」

「そう言うな、好意は素直に受けておけ」

「分かりました」

薄明かりの中でも分かる笑顔を見せると、真淑は蒙古風の装飾の施されたそのベッドに潜り込む。真淑の来ているこの国の服と、その装飾がミスマッチでまた面白かった。

ベッドの上に座った真淑が、その笑顔を変えぬままで、その下に体を横たえようとしていたイルガイにこんなことをいった。

「イルガイ様、私の好意も代わりに受けて下さい」

言いながら、イルガイの手を引いた。

「うん?」

「わたしの隣で、寝てください」

「なにっ」

少し前と同じ言葉が出る。それほど、この提案はイルガイの想像の外のものであった。

「ですから、妙な意味ではないですよ。ただ……」

「……」

急に声を小さくした真淑の続きの言葉を聞く。

「寂しいんです、やっぱり……」

それを聞いたイルガイは、黙って真淑の隣に体を横たえるのみであった。

やがて、満足そうな寝顔を見せながら、真淑は静かな寝息を立て始める。武人らしいがっちりしたイルガイの体に手を添えるようにして、安心そうな表情で眠っていた。

時には悟りきったようなことを言い、察することの鋭いこの少女は、今は一人の小さな女の子として眠っていた。

この子が今までどのような気持ちで暮らしていたのか、どれがこの子の本当の姿なのかは、イルガイにはよく分からなかった。


海が見えていた。

海の向こうから吹く風が、イルガイの着けている鎧の飾りを不規則に揺らしている。

イルガイにとって、初めて見る海だった。

夏の過ぎたこの季節の海は、その穏やかさを徐々に手放そうとしていた。この海はひたすら広く、その先に何があるのかは分からない。その先に、これからイルガイは赴こうとしているのだ。

草原に、ある意味では似ていた。自分自身はそこにいたことはなかったが、受け継がれてきた血は、草原の懐かしさを感じ、それと共通する何かをこの目の前の海に見いだしていた。

不思議な気持ちであった。心が落ち着くようであり、何かにかき混ぜられるようでもあった。

港には、建造されたばかりのものも含めて、おびただしい数の船が横付けされている。そのうちの一艘に乗り、イルガイは戦場に赴く。

そこは、いつか真淑と話したことのある、自分の知らない国であるはずだった。それを、真淑は知っていたのであろうか。いや、知っていたのだろう。なぜなら……。

「いい風ですね……」

同じように、長い髪を風に流されるに任せたまま、真淑がそんなことを言った。

そう、風はいつでも心地よい。

「そうだな」

「だから、言いましたよね、ちゃんと会えるって」

「ああ」

「だから、今は嬉しいです。あの晩が最後にならなくて……」

「私も、おそらくそう思っている」

「出るのは、明日なんですか?」

そう問いかける真淑の目には、涙が浮かんでいるようにも見えた。そうだとすると、それはイルガイが見る初めてのそんな彼女の表情だった。

「天候次第だが、おそらくそうなるだろう」

「戻るのはいつですか?」

「それは分からない」

「頂いた路銀の残りで、それまでは食べていけますね。ですから……」

その先を言わせてはならないと思い、イルガイは傍らの真淑を抱きしめた。彼女は、されるがままでそのひと回り以上大きな体に包まれていた。

イルガイは、真淑を更にしっかりと抱きしめた。この少女が自分に何を求めているのかは分かっていた。そして、それを受け入れる……、いや、もっといえば自分も同じ類のものを求めているということも分かっていた。

真淑があの羽根に触れて以来、彼女は少し変わったような気がした。それは微妙な違いであった。

終始笑顔を見せていながらも、それまでの真淑には遠慮のようなものと、一定の距離がイルガイとの間にあった。だが、あの時以来、それを取り払ったような振る舞いを見せるようになった。

あの街での最後の晩は、それの最たるものだっただろう。だが、それでも構わないとイルガイ自身も感じるようになっていた。

お互いの境遇とそこから来る寂しさがお互いを引きつけていたのかもしれなかった。端的に言えば、「家族が欲しい」とそういうことであったのだ。

「わたしに、あなたの胤を下さい……」

これだけの距離だからこそ聞こえる程度の、彼方で波の打ち寄せる音にさえ消されてしまいそうな小さな声で、しかしはっきりと真淑は言った。その言葉にどれだけの覚悟と気持ちが籠められているのか、もはや知らないイルガイではなかった。

だが、今はまだそれを受け入れることは出来なかった。それは新しい悲しみを生み出してしまう。だから、イルガイはゆっくりと首を横に振った。

「それは、今はまだ出来ない」

「なぜですか?」

「察してくれ」

「……はい」

「ただ、お前にそれを言わせたことはすまないと思っている」

「そんな……、勿体ないです」

「だから、待っていて欲しい」

「……」

「いつになるかは分からないし、私に決められないが、きっと戻ってくるだろう。遠征の後は、この国にずっととどまることになるかもしれない」

「はい、お待ちしています」

「戦いで、必ず生きて帰るということは、本来は言ってはいけないのだが、今だけはそう言いたい。きっと、戻る」

「はい」

真淑はやはり涙していた。

「だから、その時、今度は……」

「ええ。気を付けて行ってきて下さいね」

涙を残したまま、真淑が笑顔を向けてくれる。

「なんか、変ですね、この会話」

「ははっ、そうだな。でも私は好きだぞ」

「本当に、ご無事をお祈りしています」

その笑顔を、イルガイは正視できなかった。だから、イルガイは真淑に背を向けて海を見る。

この戦いから戻る可能性はほとんどないと、イルガイは予感していた。だが、その事実を告げることは出来なかった。真淑を悲しませるのなら、それを現実にするのは少しでも先の方がよい。

希望を、捨てさせてはならなかった。例え奪うのが自分なのだとしても。

「だから、今は心を交わらせてくれ、真淑」

それならば、今の自分にも与えることが出来るし、受け入れることが出来る。

海に向けて放った言葉だったが、それは真淑にも届き、真淑は返事の代わりに自分の顔をイルガイの背中にそっと埋めた。長い髪が、海風に流されてはためいている。

海は、変わらぬまま波を岸に寄せていた。

秋が、足音を聞かせようとしていた。

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