また、この海辺の小さな町にも夏が来た。容赦ない日差しと、それを受けて輝く海。この時代においては夏が夏らしい姿を見せてくれる貴重な場所であるのかもしれない。
その夏は、遙か昔から綿々と続く時の流れの一部に過ぎないのかもしれないが、この町に身を置く彼らにとっては、今年の夏は今年限りのものである。ましてや、待ち続けた新しい出会いの叶った夏であるのだとしたら尚更である。
町はずれの高台に神社があった。
ちょうどこの日、年に一度の祭りが開かれているようであった。賑やかな囃子や笛の音が、海岸沿いの方まで聞こえてくる。
本格的に盛り上がるのは日が落ちてからなのであろうが、それでも町の多くの人たちがこれを楽しみに、高台まで足を運んでいた。
その神社の裏手に、少しばかり開けた場所があった。
喧噪も、こちらにはその勢力を伸ばすのを少し遠慮しているようにも感じられる。
夏色の草を抱えるように、青い海と空がその向こう側に広がっていた。
この町で時々見かける、夏にしては少し暑苦しそうな格好をした女の子が一人。短い髪と笑顔、そして手に結んである黄色いバンダナが印象的である。見た目以上に幼く見えるのは、隣の祭りで買ってきたと思われる可愛らしい風船を手にしているからだろうか。
そしてその隣には、その女の子より一回り歳が上に見える男が立っている。隣の女の子に比べると、シンプルすぎるほどの出で立ちであった。
二人は、空を見上げながら何か話をしていたが、何かに誘われるかのように草の上に腰を下ろし、そして寝転がった。
二人の視界には、青空と白い雲のみがあった。
女の子が体を隣の男の方に寄せた。甘えているような、頼っているような、そんな仕草であった。
満足そうにその様子を見ていた男の同じ箇所に、女の子が自分の手に巻いたバンダナを外して、結びつけた。
「ダメ…かなぁ?」
そんなことを言っていた。のんびりした口調だったけれども、そこには強い気持ちと期待が籠められていた。
そして、それが裏切られることはなかった。
女の子に満面の笑みが浮かんだ次の瞬間、手に持っていた風船がそこを離れ、空に舞い上がっていった。
彼女にとって、この風船は自分の気持ちを別の何かに伝える使者だったのかもしれない。
人のたどり着けないその場所に、一つの歴史の結末を伝えに行く使いの役を帯びた風船。全ての悲しみが消え去る日などはないのかもしれないが、少なくとも一つはここにそれを終えたのだった。きっと、彼女も喜んでくれるだろう。
人の営みは続いていく。
無数のそれは、ごく一部が記録され、後世に残される。一方で、誰にも知られぬままの営みもまた存在する。
それは重要なことなのだろうか。そうなのかもしれない。人の生は有限ではあるが、後の人が自分の足跡を知る手だてがあるということは、自分の存在を確かなものにする大きな手段であるから。
この出会いが起きる遙か前に、今のこの時まで続いてきた物語がある。その間にあるいくつもの相関は、誰も知る者はなかった。その当人でさえも。
もし、知る者があるとすれば、それはおそらく人間ではないだろう。例えば、空にいて全てを見ることの出来るような存在……。
その物語は、遙か昔に始まり、続いてきた。
その中から更に多くの物語が生み出された。多くは悲しみの譚であったが、中にはそれを越えて幸せな結末を迎えたものもある。羽根たちがそんな幸せをたくさん受けられるようになれば、この物語自身も終焉を迎えるのかもしれない。
神奈にとって、柳也は大切な人であった。
人を好くということはこういう気持ちをいうのであろうか。
今までに、自分はこういう類の感情を抱いたことがなかった。そもそも、自分の周りにいる人間たちは、自分を何か別のものを見るような奇異の目で見ている。それが畏敬なのか排他なのかはよく分からなかったが、どちらにしても神奈にとっては同じものであった。
そんな中で出会い、これまで行動を共にしてきた随身の柳也。自分は、彼といると文字通り羽根を忘れることが出来た。そして、「柳也どのがいなくなったら自分も生きてはいけない」という感情の正体をやがて知ることとなる。
だが、それをはっきりと悟ったときは別れの時であった。すぐ前に母親との永久の別れを経験したことはつらかったが、それ以上につらい気持ちで柳也とも別れなくてはならなかった。
翼人としての自分が最後に出来ることは、翼人にしか出来ないことであった。
自分の力を以てすれば、柳也をこの危険から逃れさせ、生き延びさせることが出来る。
本当に羽根を忘れることが出来ればよかったのだが、そうはいかないようだった。ならば、自分を縛り続けてきたその羽根に、最後に役に立ってもらおうと神奈は考えた。
「これは夢であるな……」
神奈が言った。
これまでに起きたことは、あまりにも現実離れしていた。今まで、窮屈な社殿に閉じこめられていた神奈にとっては、考えもしなかったような出来事が起きた。いいことも悪いこともあったが、それらを全て夢と考えてしまっても不思議はないだけの現実の奔流が神奈を飲み込んでいた。
そして、それが最後を迎えようとしている。
「神奈?」
柳也が反応する。自分の覚悟が伝わってしまったのであろうか。そうだとすればそれだけ彼も自分を見ていてくれたということであるから嬉しくもある。
「決してここから動くでない」
「動くな、だと?」
神奈は、纏っている服を脱ぎ捨てた。その衣装が音もなく地面に落ち、不可思議な形を作り上げる。
自身に対する最後の手向けである。同時に、気持ちを伝える最後の機会でもある。
それを知ってか、柳也は何も言わずにそれを受け入れた。
体を向けたその先に柳也がいて、自分と彼の唇が重なった。
それが、神奈が柳也を感じた最後だった。
一度離したあと、迷いを振り払う力を求めるかのようにもう一度だけ重ねる。
傍らでじっと見ているだった裏葉に目を向ける。
(これでよかったのか?)
言葉のないその問いに、信頼し続けた女官は黙って頷いて答えを返した。
この人は、自分のしようとしていることを分かっている……。
柳也も多分知っているのだろう。そして、おそらくは同じことを考えているのだろう。
それならば、自分は先にそれを為さねばならない。自分は、柳也が生きていなければいられないのだから。
「余の最後の命である」
最初に柳也に会った時のことを思い出し、その頃の口調で告げる。
「末永く」
涙が出そうである。同時に、一度決めた言葉は自らその続きを紡ぎだしていく。
「幸せに」
幸せとは、何なのだろうか。自分は果たして幸せだったのか?
「暮らすのだぞ…」
柳也には生き続けて欲しい、自分はそれを空から見守るだけでもよい。
一瞬の間をおいた後、神奈の背にある羽根が、初めてその本来の役割を果たした。光と風に包まれるようにして、翼が広がった。
その風は次第に力を増し、すぐ近くにいる柳也と裏葉の目を閉ざさせることとなった。
二人を護るような風の壁は、だんだんとその半径を広げる。近づいていた襲撃者たちはその風に巻き込まれ、木の葉のように舞い上げられて、命を失っていく。
「神奈っ!」
目を閉じたままの柳也がそう叫んだ。
ようやく柳也が目を開くと、既に神奈の身は大地を離れていた。
神奈の眼下では、雑兵たちが秩序なく逃げまどっていた。人智を越えた力の発動に、人間たちは為す術がなかった。
微妙な高度を保ち、神奈が空を泳いでいく。その意図は明らかである。
柳也はそれに気づき、追おうとしたが、裏葉に腕を掴まれて止められる。
「お待ち下さい」
「何故だ、裏葉?」
「神奈さまの意図をお汲み下さい」
「だが、あいつは……」
裏葉にも分かっていた。だが、裏葉はあえて冷たくこう言い放った。
「柳也さまは神奈さまの随身です。その意向に逆らうのはいかがかと……」
「……」
「神奈さまは、心から願っておいでです。柳也さまに生きながらえてほしいと」
「だが、俺の役目は神奈を守ることだ。随身の役目とはそれではないのか?」
「では、もはや柳也さまは神奈さまの随身ではありませぬ。それは、柳也さまが一番ご存じのことかと」
柳也がその言葉に躊躇させられた隙に、神奈はその目的を達成させようとしていた。地に這いつくばり、何も出来ずにいた兵たちが混乱から立ちなおり、空の神奈に対抗できる唯一の手段で向かっていく。
彼らの絶叫は、恐怖をうち消して自らを鼓舞する手段だった。それを、柳也はどこか遠くの世界の出来事のように聞いていた。
「…今だ、射かけよ!」
「…おのれ妖物めっ」
雨が降るように、次々と矢が放たれる。その大部分は目的を達せずに虚しく再び地を触ったが、そうではないものも少なからずあった。神奈の羽根の一部が、その体を離れて宙を舞った。そして、空を飛ぶ神奈の体が数度、揺らいだ。
「神奈っ!」
柳也は状況を忘れて叫んでいた。
「もっと、高く飛べっ!俺はもう大丈夫だ」
それに応じるかのように神奈は昇り始めた。どこに行こうとしているのかは柳也にはもはやわからない。
兵士たちと行動を共にしている陰陽師たちの呪文の声が、恐ろしくはっきりと伝わってきた。
神奈は、願いを天に保つため、空に昇っていった。
そして光がはじけた。
柳也が再び目を開くと、そこには既に神奈の姿はなかった。
神奈は、失われてしまったのだ。
気付くと、日は移っていた。この出来事が全て幻と思われるような、抜けるような青空が広がり、人の営みを見守るかのように雲が流れていく。その動きは緩慢にして重厚。空はまさに人の手の届かない場所にあった。
だが、柳也の隣にいるのは裏葉のみであり、神奈がいないということが今の現実であった。
立ちつくしたままの柳也に裏葉が声を掛ける。
「神奈さまの最後の命を、ご承知ですね」
「ああ……」
冷酷なまでに空は青かった。
柳也に対する裏葉の気持ち、そしてこれまでに一度も女に向けたことのなかった刀の切っ先。
そんなものを経て、柳也は自分に最後に任じた業のためにこの場所に住み着いていた。
人里を離れたこの寺に住む知徳という法師のもとで、裏葉は裏葉なりの、柳也は柳也なりの形で、その残された思いに応えるべく、残された日々を過ごしていた。
翼人の伝承は、柳也の想像を超えるほどに規模の大きいものであった。そんな壮大な伝承を、神奈は一身に受けて生きていたのだろうか。
そんな少女と、時を同じく過ごし、更には気持ちを通じさせたということが、自分にとっては何だったのか、柳也にはよく分からなかった。
柳也が集め、編纂した翼人の物語。
人界での権力者たちの醜い争いが、翼人という存在そのものを抹消しようとしていることに、そして自身も無数の中の一つの命にすぎないものとして消えていくことに対しての精一杯の抵抗がこれであった。
やがて、裏葉はその素質を裏切らないだけの技術を会得する。
それは、目的を持って習得したものであるから、柳也が促すまでもなく裏葉はその力を行使した。
そこに見えたのは……。
憑依状態にある裏葉は、とても正視出来るものではなかった。神奈の持つ記憶と心の、ほんの一部分が転送されているだけでもこれほどの形相になるのであるから、本来のそれがどのようなものであるのかは、人の身では察する術すらないようであった。
柳也は、そんな裏葉の姿にあえて正対する。神奈の悲しみの記憶を、一片でも自分の身で引き受けられるのならば、それだけの意味はある。
岩壁に反響する、悲鳴にも似た声。果てしなく続くと思われたそれがようやく落ち着くと、裏葉の表情も普段のものに戻っていた。
そして、今度は恐ろしいまでの静寂がこの場所を支配する。
「……裏葉?」
閉じたままの瞼が微かに動くのを認めて、柳也がそっと声を掛けた。
「柳也さま……」
「神奈には、会えたのか?」
「はい……」
「神奈は……」
「神奈さまは今も悲しんでおられます」
「俺に、見せてはくれないか?」
「それは……、わたしには出来ません」
その答えの前にある一瞬の躊躇に真意を察した柳也は、あえてその言葉を否定する。
「裏葉、『出来ない』というのは、技術的な意味ではないはずだ。ならば、俺はその言葉は聞き入れない」
「……」
「俺は、神奈の随身として、知る必要もあると思う。そして随身として以上にも」
黙って目を閉じた裏葉であったが、柳也の沈黙にその意思を見て、静かに頷いた。
「心をお鎮めください。参ります」
柳也の知らない言葉を裏葉が紡ぎ始める。
抑揚のなかった言葉が、音楽的な調子を呈してきたとき、裏葉を介して柳也の精神の中に何かが流れ込むのを感じた。
その中には、神奈がいた。
空に浮かぶ神奈の姿は、青空を背景にしてただひたすらに孤独であった。
その目からは涙が流れ続けている。涙は頬を伝わって落ちていく。
その雫が、浮遊する神奈の遙か下で弾けて光となる。その後にどうなっているのかはもはや分からない。
場面が変わった。
鬱蒼とした森の中に、一人の男が倒れていた。背中には大きな刀傷があり、既に勢いのなくなった出血が早々と凝固しようとしている。
その体に縋る一人の少女。長い髪を振り乱して、衣服の汚れるのも構わず、その骸に覆い被さっている。
その背中では、明らかに危害を加えられたと見える、ところどころ欠落した白い翼が微動している。
「余の命に従えぬというのか?」
「起きよ……」
「なぜ動かぬ……」
「余は、生きろと言ったはずだ。命に従わぬことは許さぬ……ぞ」
「なぜ、余を残して……」
「余は……」
その骸に見覚えがあった。だが、自分がここにいる以上、それは現実とは違うものであるはずだ。何故に神奈の中にこれが記憶として存在するのかは柳也には分からなかったが、悲しみを否定するために柳也はその流れ込む精神に介入しようとした。
だが、それは見えない壁によって阻まれる。
「うっ…うあっ…あああっ…あっ…」
柳也の声が届かない代わりに、神奈の嗚咽が響いてくる。
……違う、俺は無事だ!
……俺はここで生きている!
……だから、泣くな!
その叫びも無力であった。
そんな柳也をあざ笑うように、目の前の映像が消え去り、再び空の中に戻る。神奈は、今度は声もなく涙を流し続けるだけだった。
今度は急速に現実が柳也の中に流れ込む。
それを感じていると、目の前にあるのは神奈の姿ではなく、裏葉のそれになっていた。呪文の詠唱で若干の疲労の色が見えていたが、その他はいつもの姿に戻っている。
「神奈は、これを見続けているのか?」
「はい」
「神奈の心にあるのは、これだけなのか?」
もし、神奈の中に悲しみ以外の別のものがあれば、それを感じることが出来たであろうと柳也は自負していた。それがなかったということは、本当に神奈は悲しみだけの中に独りで身を起き続けているに違いない。
柳也は、それを否定して欲しかったが、裏葉の口から出たのは、事実だけだった。
「神奈さまは、あのようにずっと泣き続けておられます」
「俺は、ここにこうして生きているのだぞ」
「それでも、神奈さまの中にある現実は先ほどの通りなのです」
「俺は、神奈を救うことは出来ないのか?」
「はい、あの時に神奈さまに向けられた呪いは、人ひとりの想いなどでうち砕くことの出来る程度のものではございません。それこそ、翼人を抹消しようとするものたちの怨念がかほどに強力な呪いとなって……」
「そういうことか」
市井の人であった柳也には、権力にも術法にも興味などなかったが、その意味するものは理解できた。だが、理解できたからといって納得出来るものではない。まして、守ろうとした大切な者が苦しみ続けている現実を見せられたとあっては。
「神奈の悲しみは、これだけではないのだろう?」
「はい。人の身では翼人の心に触れるのはここまでが限界です。これ以上は、術者の私や受け手の柳也様の精神に影響が残ります。いえ、触れた時点で既に影響はあるのですが、それだけの覚悟がおありでしたか」
柳也が頷く。
「翼人は、過去の全ての記憶を次の世代に引き継ぎます。そして、残念ながらその記憶は好ましいものばかりではございません」
「だが、神奈は既にもういないのだぞ」
「神奈さまは最後の翼人でした。ですが、神奈さまの記憶は、別の形で引き継がれていくはずです。呪いは消えていないのですから」
「……」
「翼人は、夢を継ぐものといわれています」
「夢とは、つまりは記憶のことか」
「左様でございます。神奈さまの母上は『この身は穢れている』とおっしゃいましたが、それはこれまでに受け続けてきた呪いを指しているのかもしれません。そして、それはあの時に神奈さまに受け継がれました」
「その上にあの呪いか」
「はい。神奈さまの呪いは、無数の転生という形で引き継がれていきます。だが、それは到底人の身で受け止められるものではございません」
「……」
「それに、神奈さまのお心が再び地上に現れるのは、少なくとも数百年の後かと……」
「ならば、俺には何も出来ないというのか」
「人は時の流れに対しては完全に無力です」
「……」
「ですが、一つだけ方法がございます」
「それは何だ?」
「人も、その意志を継ぐ存在をもうければよいのです」
「意志を継ぐ存在……」
一瞬、その意味が分かりかねた柳也であった。
「はい。物事を伝えることは他の手段でも叶いますが、意思を伝えるにはそれが唯一の方法かと思います」
「……」
「例えば、柳也さまが編纂なさっているこの書物。この中に翼人の伝承や様々な事象を籠めて、後世に伝えることは出来ますが、それはあくまでも過去の事実の記述に過ぎません」
「確かに、その通りだな。だが、人の出来ることはそこまでなのではないのか」
「いえ。ですから、意思を継がせればよいのです。人間は、その胤を残すことが出来ます。それは、自分の一部でもあるのですから……」
「そういう意味か。だが、俺は一人で子供を残すことが出来るような器用者ではないぞ。それに、すぐに死んでいく存在だ」
「わかっております。ですから、この裏葉が……」
沈黙する。神奈の呪いが柳也にも伝播してその体を蝕んでいるということははっきりと分かっていた。高野で受けた刀傷からその呪いが入り込んだのであろうか、何とも表現しがたい黒雲が体の中でとぐろを巻いているのが感じられる。それは、静かにかつ確実に柳也の体を衰弱させていった。
残りの時間がそれほど多くはないということを、柳也は、そしておそらくは裏葉も知っていた。だからこそ、柳也は翼人記の編纂を焦り、裏葉は危険を承知で神奈の姿を柳也に見せたのであろう。
「意味が分かっているのか?」
柳也が口にしたのはそんな言葉であった。それに対して、裏葉は静かに頷いたのみであった。
「わたくしも、神奈さまのお役に立てて嬉しいのです。それに、今までは申しませんでしたが、わたくしも柳也さまをお慕い申し上げておりました。わたくしならば、柳也さまのご意志を継がせるお手伝いが出来ると自負しております。ですから……」
「そうだな……」
柳也は裏葉の体をゆっくりと引き寄せた。この時の柳也が何を思っていたのか、そして裏葉がどのようにその精を受け入れたのか、それを知るのは本人以外にはなかった。
ただ、ここから、この物語が始まったといっても過言ではあるまい。
この時も、夏であった。
時は過ぎていった。
神奈に悲しみという形の呪いをもたらした権力者たちの姿は歴史から消え去り、また別の人間がその舞台に昇った。
盲目の法師の伝えて回った物語の中の一文は、そんな事実を端的に示していた。
この小さな国にも、その隣の国にも時間と歴史は刻まれていく。
その間、神奈は空にあり続け、その営みを見続けていた。
愛する人を失ったという悲しみを見続けながら、その白い翼を広げて何かを待ち続けている。
「神奈」という名前は既に失われてしまったのかもしれない。
時折、その翼からは悲しみを受け継いだ羽根が離れていく。
ゆったりと空中を泳ぎ、風に流されて、それはどこへ行くのかは分からない。
悲しみを内包したその羽根は、触れた者にもやはり悲しみをもたらす存在となった。
神奈は、その悲しみを共有してくれる存在を求めていたのであろうか。それとも、自分の悲しみに気付いて、救ってくれる存在を求めていたのであろうか。もしくは、自分と同じような境遇にある者を探し当て、代わりに救おうとしたのであろうか。
羽根は、いつか地上にたどり着き、何かを待った。
やがて、その羽根を見つけた人間がそれに触れる。その人間がある者を持っていたとき、羽根は閃光を発して消え去る。そして、その人間に何かしらの悲しみが降りかかる。
受けた身からすれば災いといえるのかもしれない。この時の流れの中で幾度も起きたその類の出来事は、やがて人によって語られる物語となった。それは、神奈が望んでいたことなのかは分からない。
翼人が、そして羽根が何を象徴するものであるのか……。
柳也の意思を継ぐ者は、確かに残された。
その誕生を待つかのように柳也はこの世を去っていった。
最後に、柳也が見たのは、神奈の姿だった。その神奈は空にあって、一瞬だけ微笑んだように見えた。
入れ替わりに、赤子が産声を上げた。
裏葉は、それを満足そうな顔で見つめていた。
再び神奈の供をすることになった柳也を悲しみを以て見送ることは出来なかったし、裏葉は裏葉なりの形で今も神奈の供をしているのであったから。
この子は成長し、やがて自らも後継を残した。
裏葉の血を受け継ぐ彼らは、時に不思議な能力を持って生まれた。少し先の未来を予見できたり、鋭敏な知覚を持っていたりと様々であった。その力は、彼らの人生において少なからず助けとなった。
こんな能力もあった。
手を触れずに物を動かすことの出来る力。これが何の役に立つのかは分からない。
その母親も同じ力を持っていた。この親子は知る由もなかったが、二代続いて同じ能力を授かることは極めて稀である。それに意味があるのかどうかは分からなかった。
羽根の生み出した悲しみ。
そして、不思議な力の生み出す何か。
それがその軌跡を重ね合わせることが時にはある。
これも、歴史の中の無数の物語の一つである。
何も特別なこともない。例えていうなら、母がいて子がいる、そしてそれを見守る父のいる、そんなありふれた家庭のような……。例えていうなら、ありふれた田舎の町で毎年執り行われる夏祭りのような……。
悲しみは、いつか必ず幸せへと変わるはずである。